第六章

もっとも単純な真実が採用される/犯人はあなたです


「くっくっく。危ないところだったね。もし私が手を伸ばさなければ崖の下に真っ逆さまだったよ。この高さだ、たとえ命が助かったところで体のすべてもあますところなく助かるとは思えないね。そうだな、打ち所が悪くて記憶喪失になったかもしれない。たまたま私が森の中を走り出して、この女性の腕を掴まなければ、一人の人間の人格が消え去るところだったのだよ。どうだ真理紗、私は偉いだろう」
「すげえドヤ顔」
「おっとそれは冷たいな。いつもならば私に対して冷たいだのドライだの、まるで冷房のような評価をするくせに、いざ人を助けた途端にこれだ。世界広しと言えど私ほどの博愛主義者はそうはいないよ。むしろ私は電化製品で言えばコーヒーメーカーさ。黒いけれど世界中で愛されている飲み物だよ。まあコーヒーメーカーを飲むんじゃなくて、飲むのはコーヒーだがね」
「うーん、何だろう……別にあんたを認めてないわけでも評価してないわけでもないんだけど……こう、何か悔しいんだよね」
「真理紗はひねくれ者だからね。私の思惑通りに動かされるのが嫌なのさ。しかし根は素直で寂しがり屋だ。いや、天の邪鬼なのは寂しがり屋の裏返しなんだよ。人と対立し注目を集めなければ不安で仕方がない。他人と衝突することで始めて自己と他者の境界を認識するのだ。他者がいなければ自己の境界は限りなく拡大し希釈し、消滅してしまう――そんな恐怖を本能的に抱いているのだろうね」
「いや、別にそんな深い理由じゃないと思う……あんた何かむかつくし」
「そんな馬鹿な」
「でも、この人誰だろう。こんな山奥にいるなんて」
「別に不思議ではないだろう? 不自然ではあるがね。うん? こんな自然の多い場所で不自然なんて、そんな愉快な話があるかね! くくくく。これは不自然というよりは否自然という方が近いだろうな。自然ではないのではなくて自然そのものを否定してしまいそうな予感だ」
「全然面白くないし。それに、こんなところにいるわたしたちの方が不自然だと思うけど」
「ふん。何事にも常に例外は存在するからな。不自然が存在することは自然なことだ」
「この人、大丈夫なのかな。さっきからずっと意識が戻らないけど……」
「崖から落ちたわけではないよ。可能性があるのは何かの持病だろうが、もしそうなら手の施しようがない。今から麓の病院に戻るには麓からここまで歩いてきたのと同じ時間がかかるしね」
「さっきは博愛主義とか言ってたくせに」
「おいおい! 私は博愛主義者ではあるけれど精神主義者ではないよ。現実をどれだけ願ったところで現実が変わることはない。人間が存在しなくても現実が存在するのと同様の理屈だね。もちろん強く願えば君にとっての現実は君にだけ違う顔を見せるかもしれない。それはそれで価値のある現実だ」
「結局、あんたはどう思ってるの?」
「さて、どうだろうね。ふん。私には現実をねじ曲げてまで見たい幻想も理想もないからね。だから私の精神と現実は常に同値だ」
「仙人みたいね」
「あいにくと仙人には会ったことがないので真理紗のイメージは共有できないが。しかし幻想を抱こうと現実を抱えようと世界の価値は変わらないよ。世界の価値は常にゼロだ。最初から世界に価値があるわけではない、それを見る人間が価値を持たせるだけだ。価値とは、人がそれを求める、欲望の量だ」
「願うだけで現実が良くなるなら、いくらでも願うんだけどね……」
「ああ、それはね、真理紗が自分の目で見た現実を自分の理想で塗り替えようとしても、やはり真理紗の中には冷静に現実を見ている真理紗がいるんだろうね。人間を、心と体の二つに分別する意見があるけど、あれは正解だけど不正確なんだよ。心の中には自分の意志ではどうにもならない領域があるのさ」
「無意識とか、性格みたいなもの?」
「これは自分の記憶や人格とは完全に切り離されている。もっとも、生物として考えればそれは合理的な機能なんだが。ライオンが、肉を食べる夢を見て、それで獲物を捕ることをやめてしまっては、ライオンという種は絶滅してしまう。いくら認識が肉を食べたところで、物理的に食物を摂取しなければ肉体は朽ちるからね。ところが人間は、ときには理性とか経験によって『どうにもならない部分』を押さえ込んでしまう。もちろん、大抵の場合は『どうにもならない部分』が勝つが。――夢を見ながら飢えて死ぬのは、人間だけなのだよ」
「人は夢を見て滅びる……ね」
「逆に言えば、夢を見ていても滅びずにいられるほど、我々は容易く生存しているということだ。現実を幻想で歪めてしまっても肉体を維持できるほどに豊かな社会になったのだ。……だから、認識によって世界が規定されるという、その発想自体が人間特有のものなのだよ。まあ、どうでもいい話だ。いい話だと思うけどね」
「自分で言うなよ」
「さて、そろそろ死人が目覚めるぞ」
 私は目を開けた――。


***

 女性が二人、私のそばに立っていた。
 私は地面に寝かされていた。意識は驚くほどすっきりとしていた。今まで見ていた悪夢の欠片さえ感じられない。
 立ち上がる私のことを、一方の女性が心配そうに見ていた。彼女は白い上着に地味な黒のズボンで、背中に紺色の小さなザックを背負っている。私よりもよっぽど入念に準備をして、ここまで登ってきたらしい。しかし登山者にしては入念に施されたファンデーションと香水、それに耳に光るイヤリングが女性的すぎる。今風の、都会で遊んでいそうな女学生に見える。
 残る一方の女性はさらに奇抜だった。白衣を着ている。医者か博士に見えるが、こんな場所でも衣装を変えないのは尋常ではない。開いた胸元からは桃色のタートルネックの薄いセーターが覗いていた。しかし彼女の見た目でもっとも奇抜だったのは――服装ではなく彼女自身だった。
 まるで生きていることが不思議に思えるほど――人間らしさ、を感じない女だった。顔も、体格も、指の先にいたるまで、すべてが人工的に演出され、統制されているような気がしてならないのだ。癖のない真っ黒な髪がその印象をさらに補強しているようだ。
 まるで人形のような表情で、私のことを硝子の眼球が射貫いていた。
「まさか記憶を失ったわけじゃないだろうね? お礼の言葉も忘れてしまったのかい?」
「……すみません。助けてくださって、ありがとうございます」
 慌てて礼を述べると、白衣の女は怒っているような、喜んでいるような、もしくは私をからかって嘲笑っているかのような、中途半端な形に表情を固めて、喉に引っかかる笑い声を上げた。厚化粧の女が肘で白衣の脇腹を小突いた。
「大丈夫ですか? あの、しばらく意識を失っていたので、心配したんですけど」
「ご心配をおかけしました。多分、色々と……何かの間違いだったんです。だから今は平気です」
「こんな山奥に……あの、何か事情があったんでしょうけど……」
「真理紗。この女性は自殺を図っていたわけではないよ」
 白衣の女が退屈そうにぶった切ると、真理紗と呼ばれた女の顔が凍り付いた。思わず私は吹き出してしまう。真理紗がむっとした表情をしたので慌てて恐縮した。
「すみません。いえ、自殺だなんて、自分で思ってもみなかったことなので……。そうですね、客観的に見れば、私は死に場所を求めてここまで来たんじゃないかと思いますよね」
「君を助けたときに、君は恨み言ひとつ言わずに私たちに対して礼を言ったからね。崖から落ちることは君にとっても不測の事態だったということだ」
「じゃあどうしてこんな所にいるんですか? あなたの格好は……ハイキングに来た、って感じでもなさそうですけど。どこから来たんですか?」
「この近くに屋敷があるんです。今私はそこに泊めてもらっているのですが――」
「霧坂家、だろう?」
 白衣の女がずばりと指摘する。私はたじろぎながらも、彼女の言葉に頷いた。
「ええ、そうですけど。そういえばあなた方は、一体何者なのですか?」
「私の名前はメルトダウン如月という。友人に会いにここまで来たのさ。こっちの、真理紗は私の助手だ」
「メルトダウン……?」
 人間の名前らしからぬ名前だが。ペンネームか何かだろうか。
「霧坂屋敷に、あなたの友人がいらっしゃるのですか?」
「そうだよ。それにしても偶然は重なるね。まるで運命のように偶然は重なるものだ。とはいえ、運命は過去にのみ存在する概念だから、偶然が運命のように重なるのは必然なのだが。くっくくく。霧坂屋敷とやらに縁のある人間が、私たち以外に二人もいるなんてね」
「二人?」
「あ、わたしたちの他に、もう一人いるんです。ここに来る途中で会って――」
 言いかけた途中で誰かが森の奥から近づいてきた。真理紗が声をかけるとその人物は「おう」と力強い声で返事をした。しかしその声は紛れもなく女性の声である。
 穴の開いたジーンズを履き、上はジッパーで前を止めるタイプのシンプルなデザインの洋服だった。上側だけ縁のない眼鏡をかけ、肩に少しかかるジグザグに切られた髪は茶色に染められていた。
「お、目ぇ覚めたんだ。あんた運が良かったなー。ありゃ明らかに墜落コースだったぜ」
「はあ……」
「そんな風にぼんやりしてるから死にかけるんだぜ。あんたの格好、森の中を歩くにゃ適さない格好だよ。ちょっと銭湯に行ってくるかーみたいな感じだ。それともあたしが知らない間にこの辺りに銭湯でもできたのかい?」
 皮肉っぽく言ったかと思えば「まあ無事で良かったぜ」と嬉しそうに私の肩をバンバン叩いた。遠慮なく叩くものだから肩が少し痛んだ。彼女は力強く、豪快な性格だった。私の苦手とする人種である。気の強そうな目をしていた。
「そんで、あんた、こんなところに何しに来たんだ? 死に場所を探しに来たんならやめときな。ここで死んだらあたしらに迷惑だぜ、よそに行きな」
「この人は霧坂さんの屋敷に住んでるんですよ」
 真理紗が補足すると、女は大げさに驚いた。
「へえ、そりゃ予想外だったな。あたしゃてっきり三竹村から来た人かと思ってたよ。まああんたは見た目からしてちょっと訳ありそうっていうか意味ありげな感じだけどな。で、あんた何やってる人なんだ? 役者か?」
「いえ、私は――」
「文筆家、だろう?」
 如月が冷ややかに言う。私は背筋に寒気が走った。
「どうして、それを?」
「君の指にペンを持った痕があるのを見た。長時間ペンを持つ習慣をずっと続けていなければできない痕だ。それに服からはインクの匂いがする。ただし絵を描く人間ではないね。ペンの持ち方にかなり癖と偏りがあるようだから……」
「新聞記者かもしれねーぜ?」
「ふん。新聞記者ならインクでメモを取ったりしない。今時インクで何かを書くなんて、よっぽど古典的なスタイルか、もしくは形にこだわる人間だ。脚本家かね?」
「いえ、小説家です」
「そうですね。確かに。見た目からしてそれっぽいです」
 真理紗が私の格好を見てうんうんと頷く。
「そんなに私の格好は変ですか?」
「変って言うか……個性的ですよね」
「いやそれフォローになってねーし。そうだなー、まあかなりレトロな感じではあるな。うん」
 私の格好は浴衣に袴を合わせた、いわゆる書生のような格好であった。足は裸足で下駄を履いている。確かに私の格好は森を歩くのには相応しくないだろう。
「そうですか……。確かに、ここに来る途中のバスでも役者に間違われましたけど」
「似合っていないわけじゃねーんだけどな。でも女がその服着るのは、たとえレトロだとしてもやっぱり変な感じがするぜ。てっきり男役でもしてるんじゃないかと思ったわけだ」
「ふん。人の服に意味などないのだよ。君たちの着ているその服には一体どんな意味があるというんだい? 別に、女だからといって、こんな格好をしなければならない、というルールがあるわけでもない。人は人の見た目を記号化して、勝手に中身を決めつけるんだ。そうやって決めつける方が、いちいち中身を見なくて済むから、楽なんだろうね。だからたまに、ラベルと中身が一致しない人間がいると、何かの間違いだ、それは異常だと怒りだしたりする……まったく、考える能力のない身勝手な連中ときたら、いつもこうだ。自分たちの思い込んだ幻想が、現実よりも絶対だと思い込んでいるのさ」
「最初会ったときはさー、あたしこの人、医者か何かだと思ったんだけどな。でも冷静に考えたらこんな変な医者がいるわけねーんだよな」
 女が如月を指差して呆れた口調で言うと、真理紗はわずかに唇の端をきゅうっと上げた。私は女の言い方が面白くてつい笑い声を漏らしたのだが、真理紗は笑わなかった。確かに如月はマッドサイエンティストには見えるが医者には見えない。
「しかし何でまた、小説家がこんな辺鄙な場所に? 取材か? つっても取材するものなんて、霧くらいしかねーぜ」
「霧坂友音さんに招待されたのです」
「あん? 母さんに?」
「母さん?」
「そういやまだあんたの名前を――」
「ちょっと待ってください。あなたは、もしかして」
「あたしの名前は霧坂思織ってんだ。霧坂四姉妹の次女で、霧坂友音の娘だよ。で、あんたは一体誰何なんだ?」
 怪訝な表情で思織は私を睨んだ。


***

「おーい! 帰ったぞー!」
 屋敷の中に入るなり、思織が大きな声で言った。豪華で繊細な屋敷には似合わない、大雑把で大胆な帰宅の報である。
 広間でしばらく待っていると、すぐに友音と多喜子がやって来た。友音は階段の上から思織の姿を見つけると、一瞬だけ驚いたように表情を強張らせ、その後すぐにギロリと睨み付けてゆっくりと階段を下りてきた。
 やがて友音は思織の目の前に立つ。全身から激しい怒りを発散させている友音を目の前にして、思織は未だにへらへらとどこか浮ついた雰囲気で母との再会を無邪気に喜んでいるようである。ここ何日かの友音とはまるで違う、自分の感情を剥き出しにした態度に私は面喰らい、若干の恐怖すら覚えた。
「母さん、久しぶり。いやー、相変わらずすげえ山の中だな」
「こんにちは、如月様。それに芝川様。ようこそおいでくださいました。事前にご連絡くだされば、おもてなしの準備をしておりましたのに」
 友音が如月と真理紗に会釈した。真理紗はおどおどとした様子で、如月は軽く片手を上げてそれに応えた。
「歓迎は不要だよ。歓迎されるためにここに来たわけではないし」
「そうですか」
 友音はあっさりと会話を打ち切った。すぐに思織の方を向く。思織への怒りが強すぎて、如月への対応がおざなりになっているきらいもあった。
「どの面下げて戻ってきたのかしら? ここはもうあなたの家じゃないのよ」
「そう言うなよ。娘が帰省したんだぜ。歓迎の一言くらいくれたって良いじゃんか」
「戯けたことを抜かすな」
 強い語気で言ってから、友音は小さく深呼吸した。何かを飲み込む。次の瞬間には淑女に戻っている。
「育ててやった恩を忘れて出て行った裏切り者が――」
 ぞっとするほど他人行儀で、冷たい言葉だった。他人事でしかない私の方が、先に音を上げてしまいそうな空間である。
 しかしそれもわずかな時間のことだった。きっと、こんな重苦しい空気を一身に浴びている思織にとっては、永遠に近い長さの時間だっただろう。
「……今日は、泊まっていくんでしょ。多喜子、思織の部屋を開けなさい」
 多喜子は無表情で友音に一礼した。
 友音が背を向けるとき、娘には見えない角度で彼女が苦笑をしたのを私は見た。仕方ないわね、と言って駄目な娘を受け入れるときの、優しさと甘やかしの混ざった、あの表情……。
 友音が早足で中に戻るのを見てから、思織は深い溜め息を吐いた。
「いやあ、まいったぜ。怒られちまったな」
 そしてさっきまでの底抜けの脳天気さを取り戻した。
 それからしばらく、私たちは大広間で待たされた。思織は久しぶりに見る実家の内装を見て「相変わらずだな」という感想を漏らした。
「まあ、花香のアレがあるから、こうなるのは仕方がないんだが」
「そもそも思織さんは今まで一体どこに行っていたのですか? いえ、それ以前に、あなたは行方不明だったはずです」
「行方不明は行方不明だな。色々あちこち渡り歩いてたし。それから、どこに行ってたか、って話だけど――」
 そこまで言いかけたとき、雛夜、花香、里理の三人が大広間に駆け込んできた。思織が帰っていたことを、多喜子あたりから聞かされたのだろう。
「お姉ちゃん!」
 と甲高い声が響く。一体誰の声だろうと思ったのだが、私たち以外に誰もいない。思織の胸に里理が飛び込むのを見て、私はやっと、あれが里理の声だったことに気がついた。
「お姉ちゃんお姉ちゃん!」
「おー、さとりん。久しぶりだなあ。そして相変わらずの甘えん坊だ」
 よしよし、と思織が里理の頭を撫でると、里理は嬉しそうに破顔する。
「お帰りなさい!」
「おう。元気にしてたか?」
「あなたも相変わらず元気そうだわね。……うっとおしいくらいに」
 雛夜が澄ました顔で言った。
「まあな。姉ちゃんは? 静川にはもう告ったのか?」
「だ、黙りなさい! な、な、な、何と破廉恥な」
「冗談だっつの。そんなマジに取られるとあたしもどうしていいのかわかんねーぞ」
 嘆かわしい、嘆かわしいとつぶやいて、雛夜は真っ赤になった自分の顔を手で扇いでいた。
「お姉さん、お帰りなさい」
「おう。花香はどうだ? 詩は書いてるか?」
「うん。でも、最近は勉強が忙しいから、あまり」
「花香は相変わらず良い子だな。あたしなんか、ついさっきまた母さんに怒られてきたところだ」
「お母さん、口ではああ言ってるけど、お姉さんが帰ってきたのを喜んでると思うな。お姉さんの部屋だって、多喜子さんにちゃんと掃除させてるし」
「ああ……うん。まあ、それは何となく前から分かってた」
 思織は照れくさそうにはにかむ。
「ところで、そちらの方々は?」
 花香が若干怯えた表情で如月と真理紗を手で示す。そういえば、さきほどから雛夜を盾にするような位置に立っている。
「ああ、こいつらは、ここに来る途中で会ったんだよ。そういえば、あんたらここに用があるって――」
「わざわざこんな場所まで呼んでおいて、さっきからまったく視界に入っていないのは、一体どういうことだろうね。これではへそを曲げて帰りたくなってしまうよ。霧坂里理くん」
 思織の疑問を遮って、如月は里理に向けて言った。
 里理は思織を抱きしめていた腕を放すと、目をぱちくりと何度か瞬きして、あ、と小さく声を漏らした。
「如月さん……」
「ふふふ。君に頼まれたものはちゃんと持ってきたよ。私は世界一の博愛主義者なのでね。約束は守るのさ。なあ真理紗」
「あなたが霧坂里理さん? はじめまして。芝川真理紗です。えと、里理さんは、如月の友達……なんだよね?」
「そう」
 真理紗がそう訪ねると、里理は無表情ではあったものの、無邪気な素直さでこくりと首肯した。
「マジで? え、何で? どうして? あの、すぐに辞めた方が」
「真理紗は失敬だな。別に、私に友人の一人や二人、五人や六人いたところでおかしくはないだろう」
「え? 六人もいるの?」
「いない」
「嘘かよ!」
「ふん。では逆に問うがね、友人の定義とは一体何だ? 私は私と他人の関係を、どのように解釈してもらってもどのように名付けてもらっても一向に構わないし、口を出すつもりはないよ。仮に里理が、私と里理との関係について、友情以外の名前をつけていたとしても、私から里理への態度が変わるわけではない。そうだろう?」
 如月がなめらかに舌を動かしながら問うと、里理はこくこくと何度か頷いた。ちゃんと最後まで話を聞いていたとは思えない。それが彼女なりの如月への接し方なのだと思った。
「ほら、真理紗。私の荷物を寄越してくれ」
 如月は真理紗のザックを受け取ると、床に置いて中を開いた。中からビニール袋に包まれた何かを取り出す。ビニールは黄色で中が見えないようになっている。ノートほどの大きさで、厚みは辞書くらいはあるだろうか。
「ほら。今年の新刊だ」
「ちゃんと買えた?」
「『天神堂』と『magi*Lan』のは売り切れてしまったよ。まああそこは人気だから、通販で買ってくれたまえ。それから『ミルクじゃ〜なる』は新刊を落としたらしい」
「それは知ってる」
「それからこれは、頼まれた分ではないのだが、いくつかきみの好みに合いそうなものがあったので買ってきたよ。ナマモノでトシ×ユウがいくつかと、『明日剣』本でゴーダ総受けがひとつ」
「グッジョブ」
 里理は無表情のまま親指を立てた。
「お金は後で渡す」
「それには及ばない。君の新刊だが、預かってた五十部は全部売れたよ。その売り上げの分があるからね。残りも一緒にこの中に入っている」
「全部あげるって言ったのに」
「金に興味がないのさ。ところで、そろそろ私以外の売り子を見つけた方がいいのではないかね? 私のことを作者だと勘違いしている人が何人もいたよ」
「別にいい」
「それもそうだな。他人が何を考えようと興味はない」
 里理は如月からビニール袋を受け取ると、大切そうに胸に抱える。
「なんか、詳しい話を聞きたいような、聞きたくないような……」
 真理紗は複雑な表情でぼやいた。
 それから少し遅れて、再び友音がやって来た。里理は友音を見つけると、ビニール袋を隠すようにしてから、こっそりと広間を出て行った。


***

 少し遅れて泡路と鏡一郎も合流した。二人は予期せぬ客人に驚いた様子だった。特に泡路は、死んだと噂されていた思織の凱旋に言葉を失っているようだった。一時は私のことを、記憶を失った霧坂思織だと勘繰っていたわけでもあるし。
 思織たちは談話室に移りしばらく談笑していたが、客間の準備を終えた宮島が来て、三人を各々の部屋へ案内した。私は談話室を出て行く彼女たちを見送って、それからもしばらく泡路と友音と三人で他愛ない雑談を続けていた。
 昼が近くなり、泡路のおべっかにさすがの友音も眉をひそめ始めたころ、私は二人に断って自分の部屋に戻った。
 自室に近づくと、廊下に貴穂の笑い声が漏れていた。それを聞いて私は少し嫌な予感がした。貴穂は私の部屋に一人でいるはずなのだ。
 ノックもせずに中に入る。
 如月が、ベッドに腰掛け、足を組んだ横柄な態度で「やあ」と挨拶をした。
「あ、先生。この人は――」
「如月さんですよね。知っています」
 私は不機嫌さを隠さずに冷たく答える。如月は「くっくっく」と引き攣るような不快な笑い声を上げて、老人のような不気味な仕草で顎の下に拳を当てた。人形のような美貌との不一致が妙に滑稽である。
 その如月が反対の手に持っているものを見て、私は頭にカッと血が昇った。すぐに駆け寄ると、如月が持っていた手帳を奪い取る。
「人の手帳を勝手に見ないでください」
「ちゃんと許可はもらったよ」
「一体誰から?」
「あの、わたしが……」
「貴穂さんが? 一体どんな権限で」
「す、すみません。あの、如月さんが、わたしたちの力になってくれるって言うから、それならこの屋敷のことを話した方がいいと思って」
「だからって、どうして私の手帳を」
「そう目くじらを立てるな。むしろきみは誇って良い。このメルトダウン如月が力を貸すなどと、そうあることではないよ。きみの手にした栄光の価値を学びたまえ」
「そうですよ、先生。如月さんがそう言ってくださってるんだから……」
「手帳のこともそうですが、まず勝手に人の部屋に入らないでください」
「この建物の権利は霧坂千秀のものだよ」
 張り倒したくなる衝動を堪えた。我ながら我慢強い女だ。
「あの無口な使用人に案内してもらったんだが、一度自分の部屋を出ると今どこにいるのか分からなくてね、適当に廊下のドアを開けていたらここに来たというわけだ」
「突然部屋に入ってきたから、わたしすごくびっくりしたんです。でも、お話ししていると、如月さんはすごい人で――」
 恋する少女のように如月を褒めそやす貴穂を片手で制した。そもそも如月の、迷子になってこの部屋に来たという話が嘘くさい。友音にあてがわれた部屋は、普通の客間が並んでいる場所とは離れたところにあるのだ。ただ迷って廊下を手当たり次第に調べていただけでは絶対にこちら側までは来ないはずだ。
「そもそもあんた、一体何なんですか……。何を研究している人なんですか?」
「謎全般が私の専門だ。というと不正確で、専門と言うよりも、謎の天敵が、この私という存在なのだ。さて、あえて正確さを犠牲にしてきみの質問に答えるのならば、私は殺人事件を研究している人間ということになるのかもしれないな」
「犯罪心理学とかですか?」
「いや。探偵だよ、私は」
 それからなし崩し的に、私は如月に対して、この館に来てから体験した不思議な出来事を洗いざらい話すことになってしまった。如月は私の手帳と貴穂の話から大体の事情を掴んでいたようだが、手帳には書いていない、感じたことや、考えたことについて多くの質問を受けた。如月は探偵だと名乗っていたが、こんなやり方は犯罪心理学者そのものであった。
 私が一通り話を終えると、如月は「愉快だ」と短く感想を述べて組んでいた足を解いた。
「それで。名探偵さんは、何か分かりましたか?」
 皮肉を込めて訪ねると、如月は答えずにあの不愉快な笑い声を上げる。
「私は名探偵ではないよ。普段は名探偵だがね。今はただの……そうだな、ただの解説役だと思ってもらっていい」
「解説?」
「アンフェアだと言っているのさ。密室で他殺死体が見つかる。犯人も密室の方法も分からない。しかし探偵はずばり真実を指摘した。なぜなら探偵は犯人が殺人を犯した瞬間を見ていたから。もちろん刑法上はそれで十分だろう。現行犯ではないから、逮捕権はないがね」
 如月は皮肉っぽく唇の端を歪める。
 私は彼女が何を言いたいのか分からなくなってきた。
「つまり……あなたは推理によって答えを導き出したのではなくて、知識によって答えに辿り着いた、ということですか?」
「そう。だから、私が真相に至ったことと、君が未だに真相に辿り着けずにいることをもってして、君の知能や洞察力が私に劣るのではないかと考えるのは誤りだ」
「そんなことは考えませんが……。そもそも、あなたの辿り着いたものが、本当に真相なのかどうかは分からないのではありませんか?」
「それはない。私は常に真実に到達する」
 妙な自信だ。自信過剰は胡散臭さを演出する。
「そもそもどうしてあなたがそんなことを知っているんですか?」
「私はこれでも、里理や友音とは長い付き合いでね。友音には厳重に口止めされているから、助手の真理紗にも話していない。まあ友音との約束なんて破ってしまっても良かったんだが、里理の風当たりが強くなるからね。私にしては珍しく我慢を強いられているところさ。まったく、人間関係など無闇に作るものではないね。世の中の人たちはよくもまあ、ああも無節操に人と関われるものだと思うよ」
「だとしたら、それを私に話してしまってもいいのですか?」
「別に良いだろう。場合によっては、君だって無関係というわけではないのだから」
「私が――?」
「だって先生は、ついこの間初めてここに来たんですよ?」
 貴穂が尋ねると、如月は鼻で笑ってそれを否定する。
「さて……場所を変えよう。少し準備をしたいから、君たちは遊戯室で待っているがいい。――それでは、解決編の始まりだ。真理紗が私を捜しているだろうから、気をつけて移動したまえよ」
 如月は尊大な態度で言い残すと、ドアも閉めずに部屋を出て行った。


***

 遊戯室で貴穂と如月を待っていた。幸いにも私たちが来るまで遊戯室は無人であった。
 貴穂は盲目的に如月のことを信頼している様子だったが、私は未だにあの女から誠実さや善良さを感じ取ることができないでいる。
 私たちはずいぶんと待たされたが、やがて如月が一人でぶらぶらとやって来た。手には何も持たず、上には白衣を着て、歩くたびに長い黒髪の毛先が左右に揺れていた。
「くっくっく。さて始めようか」
「どこに行っていたんですか?」
「色々と準備をね。きみに話す許可ももらった」
 許可――? と、私は首を傾げたが、如月はそれ以上の説明を省いた。
「こんな笑い話を知っているかい? 江戸時代、とある浪人が、父が昔仕えていた数右衛門という浪士に金百両を納めるため、源五兵衛という男を騙して百両を巻き上げた。ところが実は、その源五兵衛という男こそが数右衛門で、源五兵衛というのは世を忍ぶための仮の名だったのさ。つまりだね、名前と実体というのは常に一対一で結びついているというわけではない。一つの実体が複数の名前を持つことは当たり前にある。君だって、君という実体を呼び表わすときに、常に『来根美代子』と呼ばれているわけではないだろう? この館の多くの人間は君のことを『先生』と呼んでいるみたいだしね。しかしそうなると気になることがある。静川鏡一郎は花香や里理にとっては間違いなく『先生』であるわけだが、彼女たちが『先生』と呼ぶ場合、それは美代子と鏡一郎、一体どちらを指すのだろうね」
 表面上は疑問系であったが、如月が私たちに答えを求めているわけではないのは明白であった。貴穂の方を見ると、如月の意図はさっぱり理解できていないふうであったが、しきりに頷いて、尊敬の眼差しを送っていた。
「しかしこの、名前と実体の齟齬というのは普段あまり意識しない現象でね。人は言語が情報伝達の手段であるということをしばしば忘れてしまう、時に人は言語そのもので――」
 そのとき、如月の胸元から軽快な音楽が流れた。
 彼女は高説を中断して、白衣の懐から携帯電話を取り出した。ディスプレイの上を指で触り、着信音を止める。
「失礼。どうやら真理紗が私を捜しているらしい。くわばらくわばら」
「出なくてもいいんですか?」
「さっきも言った通り、これは真理紗には話せないことなのでね」
 如月は貴穂に答えて、再び携帯電話をポケットに仕舞った。
「あれ? ここってケータイ通じるんですか? わたしのはアンテナ一本も立たないんですけど」
「通信会社によるな。私の契約している会社は、完全に良好とは言わないが、少なくとも繋がらないということはない」
「うらやましいです。わたし、電話するときはいつも固定電話からかけてるんですよ。ケータイのアドレス帳で電話番号探しながら……。ただの電話帳になってるんですよね」
「電話が不便ならSkypeを使うという手もあるよ。ここはインターネットが通っているから、パソコンが使えるならそちらの方が便利だろう。それにスマートフォンならwi-fiで接続すれば、ただの電話帳にはならない。無線ルーターが必要になるがね」
「わたし、機械にはあまり詳しくなくて……。わたしのケータイ、スマートフォンじゃなくて、ガラケーなので」
「ちょっと待ってください。ワイファイ? スカイプ?」
 私は聞き慣れない単語を聞いてにわかに混乱した。貴穂は機械にはあまり詳しくないと言っているが、ワイファイだのスカイプだのの言葉が機械に関するものであると知っている時点で、私よりもずっと詳しいように思える。私は二人を、まるで異星人を見るような心境で眺めた。
「先生って、機械、苦手なんですね」
「はい……お恥ずかしい限りです」
「パソコンとかに触ったこともないんですか?」
「コンピュータがとにかく苦手なんです。パソコンに触りたくないので、原稿はすべて手書きです」
 今時手書きで原稿を書いている小説家なんて、ほとんどいないだろう。出版社の側からしても、電子データで納めてもらった方がずっと楽なはずだ。私の連載が打ち切られてしまったのも、私のこのどうしようもない性分が関係しているのは否めない。
「技術の進化は早い。どんなに目をそむけても、いずれ妥協して、技術に迎合しなければならなくなるのさ……。この館にしろ、地上デジタル放送用のアンテナはあるし、各部屋にはLANのジャックがついている」
「ラン?」
「ローカル・エリア・ネットワークの……まあ、そういう規格のケーブルがあるのさ。パソコンをネットワークに接続するときに使う。ほら、美代子の部屋にもあっただろう?」
「ああ、あれですか。電話線だと思ってました」
「形は似ているが少し違うね。当然だが、霧坂家の娘達も、当たり前のようにインターネットを利用しているよ。というか、こんな山奥では、それくらいしか娯楽がないというところだな。しかしインターネットで電子書籍をダウンロードすれば、周りに本屋がなくても最新の本が買えるし、『月刊歌謡』を毎週読むことができる」
 それは、里理が毎週読んでいると言っていた雑誌だ。なるほど、こんな山奥にいてどうして流行の歌手に詳しかったのかと疑問だったのだが、情報は常に最新のものに触れていたということか。
「さて……それでは本題に入ろう。しかし説明するよりも実物を見せた方が早いだろう。さあ、ついてきたまえ」
「どこに行くんです?」
「地下室だよ」
 如月は悪戯っぽい表情で笑った。まるで私にわざとそういう印象を与えているみたいな、作為的な雰囲気がした。


***

 私と貴穂は、如月に連れられて、南階段横の地下室の前までやって来た。私や貴穂を差し置いて、まるで勝手知ったる我が家のように闊歩する。
 扉の前に友音が立っていた。その背後には影のように付き添う泉多喜子。私は思わず身構えたが、如月は無邪気に手を挙げて二人に声をかけた。貴穂は何か言いたげな顔をしているが、多喜子の無表情を見て、姉のことを無視することに決めたようだ。
「さあ、解決編の始まりだ」
「残念ですわ……。如月文子さんの名推理を聞くせっかくの機会ですのに、これではただの答え合わせですね」
「まあ仕方がないさ。楽しいのは騙される方であって、種を仕掛ける側には、何の不思議もない。辿り着くことに楽しさがあるのであって、辿り着いた事実には、もはや何の意味もないのさ」
 やれやれ、と肩をすくめる。
 私が何も口を挟めずにいると、あらかじめ決められていたかのように友音は如月に鍵の束を手渡した。友音は私に視線を移してゆっくりと微笑む。
「本当は……もっと、時間をかけて説明したかったのですが。わたしが協力しなければ、如月さんの口からすべてを説明されると言われてしまいましたの。それならばいっそ、中途半端な形ではなく、わたし自身が立ち会ってちゃんと先生に説明したいと思ったのです」
「一体何を」
「先生に――それから貴穂に、これから地下室の中をお見せいたします」
「わたしも……いいんですか?」
 貴穂がためらいがちに尋ねると友音は頷いた。
「すべてを知ってから、それでもここに居続けるか、それとも出て行くか、あなたが選びなさい」
「……はい、奥様」
「話はついたかな? いっそ私からではなく友音から説明してもらった方が分かりやすいと思うのだがね」
「まさか。どうして私がそのようなことを?」
「やれやれ。それじゃあ、中に入るよ」
 如月が無造作に扉に近づいた。
 ――何かを思い出す。
 立ちくらみがした。あのときと同じ。
 ――薄暗い部屋。冷たい風。
 鍵穴に差し込む。カチャリ、と音を立てる。
 ――空気が渦を巻く。
 如月の背中越しに、下へ伸びる階段を見た。
 ――鼓動が早くなる。汗が噴き出る。
「さあ、中に入ろう。うん? どうかしたのかい? 顔色が良くないが」
 ――うなり声。
「先生? さあ、中に参りましょう」
 ――うなり声。
「あの、大丈夫ですか?」
 ――うなり声。
「ああ――獣の声が――」
「獣? ええと、何のことですか?」

 ――ゥゥゥゥウウウウウウンンンン……

 如月に肩を叩かれる。その瞬間、私の頭に取り憑いていたうなり声が鳴りを潜めた。
 彼女は私の正面に立っている。以前もここに来て、肩を叩かれた。あのときは多喜子だったはずだ。
「君は現実にいる」
 如月が耳元で囁く。小さな声だったのに、妙にはっきりと聞き取れる声だ。私が頷いたのを確認して如月は手を離した。
 友音を先頭に私たちは階段を下る。多喜子は一人で入り口に残った。階段は意外に幅が狭く、大人二人がようやくすれ違うことができる程度の広さだった。床は木製で、近くで見ると妙に安っぽい。友音が壁のスイッチを入れると、電球が離れた間隔でパチパチと点灯した。
 階段を下りきった先に廊下の曲がり角があった。進むたびに低い何かの音が近づいてくる。はっきりと聞こえるようになって、それは機械か何かが動いている音だと私は気づいた。
 通路を折れて先に進むと白いドアが突き当たりに見える。
 如月が鍵束から一本選び、ドアを開けた。
 中に入る。
 恐ろしいほどに私は冷静であった。
 中にはひんやりと冷たい乾いた空気が満ちていた。ブーン、と低いうなり声の大合唱が耳にうるさい。
 部屋の中には黒く四角い箱が、銀色のスチールの網棚に載せられて、何列にもなって並んでいた。棚には床から天井付近までいくつも箱が載せられて、棚と棚の間にはほぼ肩幅ほどの隙間しかない。いくつかの箱の前には平べったいテレビの画面が立っていた。
 部屋の奥で、誰かが動く音が聞こえた。
 私は身構える。
 友音がこちらを向いて、手で落ち着くように伝えた。
「あなた」
 友音が声をかけると、物音が止まった。
 そろそろりと、棚の影から男が姿を見せる。小太りの男で、短い無精髭が口の周りを覆っている。髪はぼさぼさであり、服装にもまったく神経を使っている様子がない。部屋の薄暗さを差し引いたとしても、男の顔色は優れなかった。若いようには見えない。友音よりも一回りは年上だろう。
「……天ヶ崎」
 男が声を漏らした。
 男が見てるのは私である。
 アマガサキ……と、私は言葉を繰り返した。
「あなた。こちらは、来根美代子さんです」
「クルネ……?」
「ええ」
「ということは、まだ?」
「はい」
「じゃあどうしてここに連れて来た!」
 男が突然怒鳴ると、一番後ろにいた貴穂が「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。
「あなた、落ち着いてください。今から説明するのよ」
「じゃあ説明してから連れて来い!」
「くくくくっ。怒鳴ったところで君の言葉じゃ心には響かないよ」
「……如月か」
 男は如月を見ると表情を強張らせ、途端に口を塞いで慎重な素振りを見せた。ただのこけおどしが通じるような相手ではないと知っているのだ。どれだけ怒鳴ったところで、人形は決して踊らない。人形を踊らせるには音楽が必要だ。
「ふむ……説明するも何も今さら言葉など重ねたところでこの光景を見ればまったく虚しいことこの上ないわけなのだが、さて、美代子くん、何か疑問はあるかい?」
「疑問も何も……ここに並んでるのは一体何です?」
「きみはクラウドコンピューティングという言葉を知っているかい?」
 如月が唐突にそんなことを言った。私は面食らって、というかそんな言葉を聞いたのは初めてだったので、何も言えずに静かにかぶりを振った。
 如月は表情を歪めて私に答える。
「今は昔……2010年くらいに情報業界で大流行した言葉だよ。とはいえ、概念自体はそれよりも前からあったし、集中型のネットワークのアイデアなら80年代からすでに存在していたんだよ。まあ当時はクラウドコンピューティングとは言わずにシンクライアントなどと言われていたが」
「すみません。話が見えないのですが」
「クラウドコンピューティングというのは、ネットワークとかサーバーとかアプリケーションのような、いわゆる『ネットワークの資源』に簡単に接続して、素早く資源を利用できるようなモデル……まあ、設計思想のことだな。たとえば普通、誰かがパソコンを使って色んなソフトを動かしたりとか、データベースを作ったりとか、色んなことを少しずつやろうとすると、そういうアプリケーションとかストレージとか、とにかく色んな種類のものを購入したり整備したりしなきゃいけないだろう? で、これはすごいお金がかかるし手間もかかる。だから、そういう計算とか処理を全部引き受けてくれるような会社とかサービスを作って、あとはみんながそこに接続して、みんなのパソコンには計算した結果だけ送ってくれればいい――というのが集中型ネットワークの基本的な考え方だ。……どうも、私の話は美代子には伝わっていないようだね」
 私の間抜け面を見て如月が苦笑した。その表情はどきりとするほど人間臭い。それほどまでに私の顔からは知性が失われていたのであろう。
「例えば写真屋だ。おっと、Photoshopのことじゃないよ。カメラのフィルムを現像してくれるサービスのことだ。たとえば君がフィルムを現像して写真にしようと考えても、自分で暗室やら現像液やらを揃えて現像するのはとても手間がかかるし、よほど写真好きでないと普通の人間にそんな知識はない。大抵は、暗室や現像の技術を持っている専門家にフィルムとお金を渡して現像してもらう。で、君は仕上がりの写真を受け取るだけだ。写真屋がそれをどういう手順で現像したとか、現像液の在庫がどれだけあるとか、どういう会社と提携して備品を仕入れているのかとか、そういうのは一切気にしなくてもいい。クラウドコンピューティングとはまさにこれと同じことなんだよ。きみはパソコンのソフトを自分のパソコンに入れる必要はなくて、ソフトの入っているどこかのコンピューターに接続して、あとは全部そのコンピューターにやってもらえばいい。もちろんお金はかかるが、自分で全部揃えるよりはずっと安いし、管理も楽なんだよ」
「なるほど。言いたいことは分かりましたが……それとこの部屋が、一体どう関係しているんですか?」
「クラウドコンピューティングの特徴は、『ネットワークの資源』がどこに存在しているのか、利用者はまったく意識することがない、という点なんだね。そういう意味では集中型と分散型の合の子みたいな考え方だ。しかし利用者はそれでもいいだろうが、実際にはどこかにコンピューターが存在しているはずなんだ。当たり前の話だがね。で、このコンピューターというのは非常に重要な存在なんだよ。何せ、ネットワークを利用している何千万人、何億人のサービスを担っているんだ。万が一にも事故が起きて停止してはならないし、それ以外にもテロの対象となることも覚悟しなければならない。だからアメリカのクラウドコンピューティングの設備――いわゆるデータセンターなどの場所は一般には伏せられているし、大抵は厳重な警備がなされている」
 如月は黒い箱の側面を手で叩いた。無精髭の男が如月を睨み付けると、如月は悪びれた様子もなく「失礼」と謝った。半笑いであったが。
「さて、アメリカから遅れること数年、我が国でもクラウドコンピューティングの推進事業ともいうべきものが持ち上がった。アメリカに情報事業のほとんどを握られるのは国家保安上とても危険な状況だったからね。第二次大戦で石油の輸入をアメリカに押さえられていたのと似たような状況だ。これは日本の政府が内密に進めた極秘計画だった。データセンターの場所や仕様、管理方法などは国家戦略上重要な機密事項にあたるし、おまけに日本ではまっとうな方法でデータセンターを作ることができないのだ。というのもね、日本では法律的な制約が多すぎて、たとえば建築法や消防法に定められた基準を満たしていては、データセンターの建設に莫大な費用がかかるのだよ。まったく馬鹿らしい、非効率な話なのだがね。結局のところ、人間の発展を妨げるのは科学技術ではなくて、人間自らが作った規制とか法律だということだ」
 さて、と如月は教師のように指を立てた。
「それはさておき。政府が内密に進めた極秘計画だったが、問題は、誰がデータセンターの管理を行うのかということだった。そこで白羽の矢が立ったのが霧坂一族だよ。名誉と歴史を重んじる彼らならば裏切ることもないと考えたのだろう。政府は霧坂の名義でこの山の土地を買い上げ、極秘裏に山奥にデータセンターを建設した。もちろん、この土地にそんなものが存在するということは麓の村の住人たちでさえ知らされていない。工事は無事に終了し、霧坂一族はデータセンターの管理人となった。極秘の任務だから、その引き替えに、霧坂一族を養うだけの金と、秘密を守るための権力を手に入れた」
 つまり、この部屋はサーバールームだったのだ。黒い箱は一台一台がコンピューターで、私たちがこうして話している間にもめまぐるしく通信と計算を繰り返している。地下室が立ち入り禁止だったのは国家機密に近寄らせないためである。地下室から聞こえた音は、コンピューターを冷却する冷房やファンの駆動音が通路の中を反響したものだったのだろう。
 また、村に向かうバスで運転手が言っていた、屋敷に何かを運んでいるという話は、サーバーや電気設備の工事のためだろう。これは泡路の言っていた「貢ぎ物」とも関係があるように思う。泡路は実業家らしいが、ひょっとするとコンピュータ関係の事業に携わっているのではないだろうか。
「……ところが、この計画に気づいた人間が現れたのさ。それが樫木葉蔵だった。表向きは古物商を名乗っていたが、その実体は警察官だった。彼が探っていたのは『建築基準法の違反』だ。正義感の強い人だったんだろうね。普通はこんな山奥にまで来たりしないよ。ましてや、政府筋から警察に圧力がかかっていただろうしね。捕まえたとしても立件は無理だったろう……まあ、本人もそれを承知で探っていたのかもしれないが」
「いいや、奴は正義感で動くような、易しい人間じゃなかった」
 無精髭の男が口を挟んだ。
「奴はな、税金がこういう建物に、無断で使われていたのが許せなかったんだとよ。市民の血税を市民に公開できないことに使うのが許せなかったんだと。つまりやつは頭のおめでたい市民活動家みたいなものだったんだ。馬鹿な考えだ。市民に政治などやらせては三日で国が滅ぶ。しかるべき誇りと能力のある一部の人間が正しく国を動かすべきなのだ」
「ちょっと待ってください。……ということは」
 私は無精髭の男の言い方に引っかかるものがあった。なぜ男は樫木葉蔵の細かな事情を知っているのだ?
 如月の顔を見ると、やれやれと大げさな態度で呆れた表情を作った。
「その通りだよ。樫木葉蔵を殺したのはこの人――霧坂千秀だよ」
「霧坂千秀!」
 私は思わず声を上げた。名前を呼ばれた千秀はムッとして私を睨み付ける。敬称をつけられなかったのが不愉快だったのか、あるいは私のような小娘に呼ばれる筋合いなどないと思っているのか。
「驚くことはないさ。だって、関係者には全員にアリバイが成立しているのだからね。樫木葉蔵が殺されたのは美代子が屋敷に来た日の正午から発見された午後四時半の間だ。美代子がその時間のアリバイを館の皆に尋ねて回っていたわけだが、証言を信じれば彼女たち全員のアリバイが成立する。ただひとり、霧坂千秀を除けばね。いや、そもそも大前提として、蔵の鍵を持たない人間にあの殺人は不可能だ。普段からあの蔵は鍵が掛かっているらしいから、犯人はすなわち鍵の管理者である末真武尾か、マスターキーの場所を知っている霧坂友音、霧坂千秀の三人に絞られる。凶器に使われたのは厨房のナイフで、これは誰も持ち出せる物だ」
「でも、千秀さんは死んだはずでは……」
「死んだ?」
「俺が?」
 驚きの声を上げたのは友音と、千秀本人だった。私はますます混乱する。何故なら、千秀が死んだことを口にしたのは他ならぬ友音自身だったのではなかったか。
 私を見て如月が声を上げて笑う。
「くっくっくっく。つまりだね、名前と実体というのは常に一対一で結びついているというわけではないのさ。――と、これを言うのは二度目だがね。貴穂が盗み聞きした『千秀』という言葉とここにいる霧坂千秀は結びつかないのだよ。それを、部外者の君たちが勝手に結びつけたからややこしいことになる。友音が言ったのは正確には『千秀』ではなく、おそらくアルファベット表記の『Sensyu』だろう」
「アルファベット?」
「Sensyuというのはね、多分、サーバーにつけた名前なんだよ」
「コンピューターに名前をつけるんですか?」
「サーバーに名前をつけるのはすごく一般的なことだよ。霧坂データセンターでは霧坂一族の名前をつけてるんじゃないかな? ――ああ、やっぱりそうなんだね。まあ合理性だけを考えるならサーバーに名前などつけずとも、たとえば『machine02』とか無機質な呼び名をつけてもいいと思うのだが、人間は機械に愛着を持つ生き物だからね」
「でも、死んだとか、復活するとか……」
 貴穂が小さな声で言うと、如月は頷いて答える。
「情報技術者の言う『死んだ』は機械が調子を悪くして正常な動作をしなくなったことを指す場合があるのさ。復活は文字通り、再び動き始めたということだ。だから、貴穂が聞いた『千秀は三日前に死んだきり。だけど明日にでも復活する。今は付きっきりで見るしかない』というのは、きみたちにも分かるように言い換えると、『サーバーは三日前から停止している。だけど明日にはまた動くようになる。今は付きっきりで復旧するしかない』という意味だったのだよ。実際、千秀はここ何日もずっとサーバールームにこもって復旧作業をしていた。一度も君たちの前に顔を出すこともなく、ね」
「最初の夜に、多喜子さんがここに来ていたのは?」
「君の推理通り、あれは食べ物を運んできたんだよ。真夜中まで仕事をしている千秀のためにね」
 なるほど。ただの夜食だったのか。
 そういえば私は、あの夜私が厨房を出てから地下室の前に行くまでの五分か十分の間に多喜子がどうやって料理を用意したのかと不思議に思っていたのだが、今冷静になって考えると、単に電子レンジで冷凍食品を解凍しただけのことだった。どうやら私は、自分が思っている以上に正常な認識ができていなかったらしい。
「……そうそう、こんな笑い話があってね。昔、科学技術庁のサーバのホスト名は『makiko』という名前だったんだよ。当時の科学技術庁長官が田中真紀子だったから、そこから名前を取ったんだね。だから科学技術庁のサーバーが落ちるとみんな『makikoが死んだ』と言って大騒ぎだったという」
 そう言ってから、如月は硝子をこすりつけるような笑い声を上げた。確かに愉快な話だったが、あっけに取られて一緒に笑うことはできなかった。
「さて、ここがデータセンターであることが分かれば、後の謎はもうおまけみたいなものだね。何から説明しようかな……。まず、今の霧坂家でサーバー技術者として戦力になっているのは霧坂千秀と霧坂友音、それから静川鏡一郎の三人だ。霧坂花香と霧坂里理も将来は戦力として数えられるようになるだろうが、いかんせん今は勉強中だ。うん、静川鏡一郎が教えているのは情報技術なのだね」
「確か、アメリカの大学でパイソンを使った研究をしていたとか……」
 か細い記憶の糸をたぐり寄せて訊ねた。
「パイソンというのはプログラミング言語のことなんだよ。綴りは『Python』という。専門は電磁波のシミュレーションだったかな」
「雛夜さんと思織さんは?」
「雛夜には才能がなかった。あれは、理屈でものを考えるということができん女だ」
「……思織さんは、自分の生き方を縛られるのが嫌だと言って、家を出て行ってしまいましたの。霧坂の名前のために生きるのは嫌だと言って。あの子は雛夜さんとは別の意味で、この仕事には向いていないのね」
 私の質問に千秀と友音がそれぞれ答えた。千秀は馬鹿にし吐き捨てるように、友音は柔らかく包み込むように、それぞれ娘のことを評した。
「そうそう、雛夜は美代子と同じで、コンピューターのことがまったく分からない人間だった。だからあの停電の夜、末真武尾に『友音も千秀も雛夜も思織も来夢も里理も、みんなあなたが殺した』などと囁いたのだろう。みんなというのはもちろん、霧坂家の人々そのものではなくて、霧坂家の人々の名前をつけたサーバーのことだ。だから雛夜が言っているのは、お前が家のブレーカーを落としたせいで、せっかく千秀が徹夜で復旧作業していたのが全部水の泡になってしまった、ということなんだね」
「来夢というのは誰なんです?」
「霧坂花香はペンネームなのさ。どういうわけか家でも花香を名乗っているがね」
 私は花香の、おどおどとした態度を思い出した。自分の名前が嫌いなのだろうか。それは、対人恐怖症的な性質を持つ自分に対する嫌悪の証であるような気もする。穿った見方であるが……。
「でも、よく分からないのですが……雛夜さんがコンピュータに疎いのと、末真さんにあんなことを言ったのと、一体どういう関係があるのですか? それに、千秀さんはどうやって末真さんを殺したんですか?」
「どうして俺が末真を殺さなきゃいけないんだ!」
 千秀はいきり立った。それを友音がぴしゃりとなだめる。
 如月は動じることなく続けた。
「末真武尾は自殺したのさ。部屋が密室だったのはきみも確認しただろう? 凶器も密室の中にあった。動機は、屋敷の電源を落としてしまったことによる自責の念。武尾も、ただの使用人だから、コンピュータの知識はなかったのだろうね。UPSのことを知らなかった」
「UPS?」
「無停電電源装置。Uninterruptible Power Supplyのことを言う。停電になってもコンピューターを動かすための装置だ。これがあれば短時間の停電であればシステムはダウンすることなく稼働し続ける」
「如月さんのおっしゃる通り。ここのサーバはすべてUPSが噛ませてありますので、三十分程度の停電でしたら問題なく動作し続けるようになっていますわ。実際、あの晩にブレーカーが落ちたときも、復旧作業にはほとんど影響がありませんでした」
「突然真っ暗になったときは焦ったが」
 千秀はぼそりと言う。コンピューターは停電でも動作するが、建物の照明はその限りではないのだろう。
「サーバールームのことや、サーバーの名前を知っていて、それにもかかわらずUPSのことを知らない人間は雛夜だけだ。末真武尾の部屋を真っ先に検分したのは雛夜だったんだろう? 彼女の性格を考えると少し妙だと思わないかい? 使用人の死のことなど気にしないタイプだろう、彼女は。恐らくだが、自分の言葉が引き金になって末真武尾が自殺したのではないか、という負い目が雛夜にはあったのだろうね」
「あの子は根はすごく小心者なんです」
 友音はそう補足した。
「そうそう、もう一つ教えておこう。霧坂家にまつわる伝説で、ここに屋敷が建ってから霧が出るようになった――という話があっただろう? ここの霧はね、サーバールームの冷却システムが原因で発生しているんだよ。そもそも霧は、水蒸気を含んだ大気の温度が下がることで発生する。霧の発生には水蒸気が必要だ。そして大気が含むことができる水蒸気の量は気温が高くなるほど多くなる。サーバールームの冷房から排出された暖かい空気は、外の空気と混ざって、たくさんの水蒸気を含んだ湿った空気になる。これが、この地方独特の気温の急激な変化に晒されて、一瞬で冷まされると、空気が含んでいた水蒸気が霧になってこのあたりの山を覆う、ということだ。もちろん霧の発生には気象条件が欠かせないから、常に霧が出るというわけではないけれどね」
「そんな……馬鹿な」
「もちろん検証をしたわけではないから、この推測は的外れである可能性がある。しかし、霧坂家にまつわる噂について合理的な説明を加えようとすると、こういう答えが導き出される。さらに付け加えると、屋敷中の窓を塞いだのは、花香を日光に晒したくないからだ」
「花香さんを?」
「すごいですね如月さん。そこまではあなたにも話していないのに……。花香は、日光過敏症なのです。太陽の光に当たると発疹が出るのです。作家を諦めて、霧坂の家に戻ることを決めたのも、それが理由の一つなのです」
「でもそれなら言ってくださればよかったのに。どうして窓を塞いだ理由を隠したのですか?」
 貴穂の質問はもっともである。しかし友音は即答せず、言い淀んでいるのか、答える気がないのか、しばらくの間沈黙を続ける。
 代わりに答えたのは如月である。
「花香の日光過敏症はね、抗精神病薬の投薬による副作用なんだよ。一部の抗精神病薬にはそういった副作用の出るものがある。たとえばクロルプロマジンというフェノチアジン系の抗精神病薬にはそういう副作用が出る場合がある。他の副作用としてはパーキンソン症候群があって、こちらが強烈なのであまり注目はされていないようだがね。花香は自分が精神疾患にかかっていることを隠したかったのだろう。日光過敏症が理由の一つだと友音は言ったが、二つ目の理由は、東京で花香が煩った精神の病なのではないかね?」
「……妄想に、幻覚。都会は、あの子にはやかましすぎたのです。新作へのプレッシャーも相当なものだったと聞きます。それに、マスコミは花香の私生活を徹底的に暴きました」
「花香さんはそれで、ノイローゼになってしまったのですね」
 私の言葉に友音は溜め息混じりに頷いた。
 如月は「ふん」と鼻で相づちを打った。
「別にノイローゼを隠す必要はないと思うのだがね……まあ何を恥と思い、何を誇りに思うかは、それこそ人の数だけものさしがあっていいだろうし、その点についてとやかく助言しようとは思わないが。しかし君たちは他人の視線というものを気にしすぎだ。他人に規定された自分などそんなに楽しいものかね」
 如月は冗談で言っているのではなくて、本当にそのことについて疑問を持っているようである。如月の言葉から漏れた毒は、他ならぬ私に向かっているように感じられる。
「さて美代子。他に質問は?」
「最初の殺人で、蔵を密室にした理由は?」
「何だそんなことか。考えれば分かるだろうが、あれは単に死体を隠すための行動だ。そもそもあの死体は人に発見されることを想定していないのだよ。君が蔵の中を覗くなんて、想定外のことをしなければ、死体の発見はずっと遅れていただろう。千秀としてはすぐに死体をどこか安全な場所に隠すか埋めるかしたかっただろうが、何せ外は濃霧で出歩くのは危険だし、自分はサーバーの復旧という仕事があるからね。とりあえず死体は人目につかないところに置いて、自分は仕事に戻ったというわけだ」
 私は千秀の顔を見た。自分の犯罪が暴かれるというのは一体どんな心境だろうか。千秀は如月と友音を交互に見て、しかし自分からは何も答えずに部屋に並んだサーバーに視線を移していた。
「他に質問は?」
「そうですね……突然こんなことを聞かされて、正直戸惑っています。でも今のところ、私の疑問はすべて解決しました」
「おいおい! そうじゃないだろう!」
 如月が声を上げた。
「肝心な謎を見落としているぞ。ああそれとも、わざと目を逸らしているのかな? 今までの説明なんて、この謎のためのお膳立て、ただの基礎工事に過ぎないのに。メインディッシュをそんな風にぞんざいに扱っていいものかね。そもそも君は、どうしてここに来たんだ?」
「それは……如月さんが、ここを見せたいから、って――」
「違う。そんなことを言っているんじゃない。君はどうしてここまで来た? 君はどんな仕事を依頼された? 君はどうして機械が嫌いなんだ? ――君は一体、何者なんだ?」
 背筋が凍るように寒かった。
 如月の言葉はことごとく私の急所をえぐっていた。
 機械の音。
 サーバールーム。
 最初の記憶。
 何かからの逃避。
 ……皆が、私のことを見ている。
 体の表面を何かが這っている。私の外側を力任せに剥がしてしまう。その先には取り返しのつかない事態が待っている。私はそれを確信していた。
「そこから先はわたしが説明します。先生は――」
「待ちたまえ。見るがいい、どうやら自力で蘇りそうだよ」
 私の名前――真っ先にそれを思い出した。
 私はこの部屋を見たことがある。
 サーバーのことを知っている。
 キーボードの配置を、頭ではなく指が覚えていた。
「私……は……ここで……」
 そう――私は記憶を失う前、この館にいたのだ。
 泡路の推理を思い出す。しかし私は霧坂思織ではない。しかし私はこの館に見覚えがある。霧坂友音は私のことを知っている。霧坂雛夜も。霧坂花香は? 当時彼女はこの館にはいなかった。
 私が昔のことを思い出そうとすると、いとも簡単に過去の記憶を参照することができた。劇的な瞬間ではなかった。気がつけば記憶は当たり前のようにそこに存在していたのである。
 当時の私は霧坂友音、霧坂千秀に並ぶ、三人目のエンジニアとしてここで働いていた。しかし労働環境は非常に過酷で、休日もなく毎日サーバーの復旧と拡張をやらされていた。徹夜した回数など数え切れない。プライベートなど、仕事の合間の睡眠時間くらいしかない。何度も辞めたいと申し出たが、ここは霧の館。通常の法律など及ばない魔境の地である。
 だから私は逃げ出した。
 霧の中を、ただがむしゃらに走った。
 そして私はあの崖から落ちた。それでも私は山を下り、町外れの駅に辿り着き、とにかく遠くに逃げるために電車に飛び乗った。しかし崖から落ちた衝撃は私の脳を損傷し、私は一時昏睡状態に陥った。病院で目覚めた私は記憶を失い、施設に預けられ、そこで来根美代子という名前をもらったのだ。
「あなたの本当の名前は天ヶ崎美咲というのよ。あなたは霧坂の遠い親戚にあたる子で……ご両親が亡くなられた後に、ここに引き取られてきたの」
「ええ……覚えていますよ、奥様」
 私は静かな声で答える。
 精神はすでに平静を取り戻していた。
 ああ、まさにその通りだ。霧坂の連中は行き場のなかった私を囲って働かせた。まるで奴隷のように……。
 そのとき、足音が地下室に響いた。ドアを開けて多喜子が顔を覗かせる。
「奥様」
「どうしたの?」
 多喜子ほどの女中が、取り込み中の主人を意味もなく邪魔するはずがない。逆に言えばそれだけ緊急の事態が起きたということだ。
「警察が来ました」
 私と貴穂と千秀に動揺が走る。しかし友音は多喜子の報告を平然と受け止めて、「分かったわ。下がって」と短く答えた。如月は無反応である。たとえ世界が滅んでも無反応だろう。
「おい、友音……どういうことだ。どうして警察に嗅ぎつけられた? はやく追い払え」
 横柄な言い方で千秀は言った。しかし友音は、ゆるゆると首を振る。優雅に、間違いを正すかのように否定する。
「警察を呼んだのは、わたしです。追い払う必要はありませんわ」
「どういうことだ! お前、この仕事を何だと思っている! これは、国の趨勢を定める重要な――」
「ええ、存じ上げておりますわ。警察が逮捕するのは、殺人犯。わたしたちの『公務』には一切手をつけないと、向こうの署長にはすでに話を通してあります」
「奥様……警察に報せてたんですか?」
 貴穂が場違いなほどにゆっくりとした理解で、今さらの質問をした。友音はそれにも優しく頷いた。廊下から顔を覗かせている多喜子が話の流れを妨げた妹を睨み付ける。
 千秀は、徹夜明けのやつれた顔を片手で押さえた。
「おい……お前……まさか、俺を売る気か?」
「仕方がありませんわ。ただの人殺しならまだ穏便に済ませられましたが、警察官を殺してしまったのであれば、これはもう、誰かが咎を背負って牢に入るしかありません」
「ば、馬鹿な……この事業をここまで大きくしたのは、だ、誰のおかげだと思っている……俺がいなかったらこの計画は……その俺がなぜ生け贄にされねばならん!」
「ええ、あなたは霧坂家に多大な貢献をしてくださいましたわ。あなたは我が一族の誇りです。だからあなた、もう一度、我が一族のために献身してください。簡単なことでしょう?」
「そんな……裏切りだ……これは……俺は……ちゃんと……」
「ありがとう、霧坂千秀。あなたの犠牲を、わたしたちは未来永劫忘れません」
 霧坂友音は天使のように微笑む。
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