第七章

閉幕/真実の奴隷


 霧坂千秀は逮捕された。
 警察は霧坂友音から素早く事情を聞き取ると、山に埋めた樫木の死体と末真の死体を回収して余分な詮索や検証をすることもなく立ち去った。捜査と呼ぶにはあまりにも杜撰だったし、そもそも館にやって来た警察官はわずか五人だけだった。警察の誰かと霧坂友音との間ですでに話がまとまっており、あとはそれを執行するだけ、という状態だったのだろう。おかげで私たちが警察から余計な迷惑を被るということもなかった。霧坂友音の行動は市民の道徳からは大きく逸脱したものだったが、私とて国家権力や法に操を立てているほど初心でなければロマンチストでもない。
 しかし、霧坂千秀を見送る霧坂四姉妹の顔は忘れられそうにない。
 手錠をかけられてとぼとぼと館を去る父の背中を見つめていた、無表情な四人の目。彼女たちは父を哀れむでもなく、母を責めるでもなく、友音の理屈を当然のものとして、父の犠牲を無感動に受け止めていた。
 私と彼女たちの価値観には、数光年の隔たりがある。
 すべての記憶を取り戻した今でさえ、私はそう思ったのである。
 警察が去った後、奥様の部屋で二人きりで話した。
 やはり、霧坂家の歴史書を書くという話は私をここに呼び出すための口実だったようだ。彼女からは霧坂家への復帰を強く誘われたが、私は返事を保留して、承諾も辞退もしなかった。


***

 慌ただしく昼食を食べ終えてから、私は空洞のまま図書室のソファに腰を沈めていた。記憶を取り戻してからの出来事はまるで夢の世界のように、ふわふわとしていて現実感がなかった。記憶はすべて手元にあるのだが、それをどのように取り扱うべきなのか、私は未だに判断できずにいるのだ。
 昼食の雰囲気は、あまり印象に残っていない。千秀が逮捕されたことで食卓にはどこか白けた雰囲気があった気がするが、逆に、霧坂思織と如月探偵が喋りまくっていたような気もする。私はぼんやりと、目の前に配膳された食べ物をひたすら口の中に運んでいた。そういえば、昼食の配膳には泉貴穂も加わっていた。興味がなかったので聞かなかったが、彼女はこの館に残る方を選んだのだろう。泡路が今後どうするのかも気になったが、謎の解明の放棄を私に宣言した以上、私の口から真相を語ることはできなかったし、そんなことをされても彼だって困るだろう。
 では、私は?
 私はどこに行くべきなのか?
 思考は何も進まない。堂々巡りどころかその場に留まっているだけである。
「師匠」
 と、私の背後から声がかかった。振り向くまでもなく、そこにいるのが誰なのか分かった。私のことを師匠と呼ぶ人間はただ一人だけである。
「こんにちは。里理ちゃん」
 私が振り向くと、里理は微笑んで私の隣に座った。
 私がこの館に初めて来たとき、霧坂思織は勘当されてすでに館にはいなかった。また霧坂来夢は、私がここで働くのと入れ違いに上京して文学の道に進んだ。というよりも、思織や来夢の代わりとして私が呼ばれたのである。
 勘当された思織と、帰ってきた来夢。二人の違いは、代わりを見つける前に出ていったか、後に出て行ったか。たったそれだけのことだった。
 また、当時の里理は麓の村の中学校を出たばかりで、今よりもずっと他人に対して無防備だった。霧の館に閉じ込められて、娯楽など何も知らなかった里理に、流行りのアイドルグループのことやインターネットのことを教えたのが私だった。実のところ私はアイドルオタクだったのである。もっとも、里理がこのような形でアイドルを愛でるようになるとは予想外だったわけだが……。
「師匠は、ここを出て行くのですか?」
「さて。どうしたものだろうね」
「師匠が苦しむところを、もう見たくありません」
「ありがとう。君がいたから、私は自由になれた」
 昔、私がそうしたように、里理の頭を撫でると、彼女はくすぐったそうに声を漏らした。
 当時、ただ言われるがままに働き、苦しみから耐えるだけがすべてだった私に、里理は逃げることを教えてくれた。里理という他人がいたからこそ、苦しみから逃れようと森に駆け出した無謀な「私」が生まれたのである。――私は、そう解釈している。今の里理を作ったのが私であるのと同じように、今の私を作ったのは、間違いなく里理なのである。
 最初は、天ヶ崎美咲という名前を持っていた。
 師匠。
 先生。
 霧坂思織。
 来根美代子。
 他人は私に、いつも何かの役割を求めている。
 私はそれに応えることでしか生きていくことができない。
 自分の意志はどこにある? ときどき疑問に思う。答えはいつも決まっている。私という存在は、他人の光を反射するだけの、水面のような、実体のない、ただの幻なのだと。
 それでいい。
 人の意志など、最初から存在しなかった。人は自動的に生きている。それを、運命とか、自由意志とか、適当に理由をつけて。
「記憶を失くした師匠、すごく面白かったです」
「そうかな」
「はい。花香お姉ちゃんにデレデレしたりしてっ!」
 ぐりっ、と足を思いっきり踏まれた。痛い。
「デレデレなんかしてないよ」
「証拠VTRの用意もちゃんとありますよ」
「嘘だよね……?」
「冗談です」
 実際のところ、記憶を取り戻した今も、詩文家霧坂花香に対する憧憬は微塵たりとも揺らいではいなかった。仮にこの館を去るのならその前にサインのひとつでも貰っておきたいところだが、中途半端にお互いのことを知っているだけにそういうのは恥ずかしくて頼みにくい。
「花香お姉ちゃんも師匠に忘れられて寂しがってましたよ」
「それ、本当?」
「はい。花香お姉ちゃんは雛夜お姉ちゃんと違って嘘が上手いですから。でもわたしはちゃーんと見抜きましたよ」
「今度あの人の嘘を見抜くコツを教えてよ」
「んー、別にいいですけど。でも師匠、東京に帰るんだったら、教えてもあんまり意味ないんじゃないですか?」
「まだどうするか決めてない」
「ずるずるとここに居座りそうな気がします」
「またプログラマーになるかな」
「そしたらまたわたしが師匠をそそのかしてあげますよ」
「それは心強い」
「……師匠」
 里理が、真剣な目で私を見上げる。
 私の腕を掴む小さな手に力がこもる。
「今度は、一人で行かないでください。……わたしも連れて行ってください」
「――君が私にそれを望むのなら」
 私はそれに応えることでしか生きていくことができない。
 私は他人の奴隷。
 里理は満足げに微笑む。
「でもどうやって食べていきましょうか。師匠の小説ぜんぜん面白くないですからねー」
「さて……。あの如月とかいう探偵に頼んで、探偵事務所で雇って貰うのはどうだろう。名探偵、来根美代子の事件簿。その経験を元に推理小説を書くのもアリかもしれない」
「それは無理だろうね」
 図書室に誰かの声が響く。
 慌ててそちらを向くと、如月文子が本を片手に立っていた。
「如月さん? どうして?」
「くっくっく。別に大したことじゃないよ。ほら、さっきここで本を借りたんだがね、適当に借りたものだから、間違えてフランス語の本を借りてしまったのさ。私はフランス語が読めないからね」
「そうじゃなくて……私が探偵になるのが無理だと」
「ああ。……別に大した話でもない。気にしないでくれたまえ」
 如月は呑気なことを言って、本棚に並んだ背表紙を眺めながら、返却する本の元の位置を探している。
 私がさらに問い詰めようとしたのを里理が悪戯っぽい表情で止めた。
「どうして? 師匠なら、如月さんほどじゃないけど頭も回るし」
「しかしだね、今回のような簡単な事件を解けずに、しかもあんな簡単なイカサマに騙されてしまうようでは、探偵になろうと上京しても金を騙し取られるのが関の山じゃないかね」
「インチキ? 何のことですか?」
「つまり、霧坂千秀は樫木葉蔵を殺していない。もちろん末真武尾も自殺ではない」
 ――今度こそ、私は頭が真っ白になった。
 如月は本を本棚に戻すと、呑気な調子で「あ、これは面白そうだ」などとつぶやいている。
「だったら……犯人は……」
「だから、それが分からないようでは推理小説の名探偵など夢のまた夢だと言っているのだ。ちなみに君は事件の真相に達する手がかりをすでに得ているはずだ」
「……いや、不可能だ。だって、末真さんの事件は部屋が完全に密室だったはずです」
「完全に密室?」
「ドアはベッドで塞がれて」
「窓は?」
「それも雛夜さんが調べていますよ。内側から鍵が――」
 あっ、と私は声を漏らした。
 そうだ。窓には暗幕が打ち付けられていた。多喜子が電気を消したとき、部屋は真っ暗になったのだから、部屋を検分したときも暗幕は外されていなかった。それに暗幕を外すには釘を抜くための道具が必要だ。あのとき雛夜も多喜子もそんなものは持っていなかった。
 それなのに、どうして鍵が掛かっていると断言できる……?
「簡単なトリックだよ。まず、暗幕の下の端が釘で止められている状態で、暗幕の上側をカーテンレールから外す。次に窓を開けて犯人は外に出る。暗幕の上側をまたカーテンレールにかけ直す。あとは鍵を掛けずに窓を閉めればいい。……まったく、これもフランス語じゃないか。ドイツ語? イタリア語? どちらにしろ私には読めないな」
「じゃあ、雛夜お姉ちゃんが犯人なの?」
 里理が不安そうな声で訊ねると、如月はやんわりと否定する。
「雛夜は命じられてそう証言しただけだ。末真が部屋から出てこないと聞いて、いきなりドアをぶち破ることを許可したのは、末真に暴言を吐いてしまった負い目があったからだとも解釈できるが、それよりも、最初からそういう筋書きで動いていたと考える方が自然だ。だって、たとえ暴言を吐いたとしても、まさかその相手がいきなり自殺するなんて考えないだろう? だからあのとき、雛夜の言動にいつもと違うところがあったとしたら、それは末真に暴言を吐いたことではなくて、末真殺しの隠蔽に荷担していることが理由だったのだ。それに考えてもみたまえ」
 如月は私の腹を指差した。
 何だか嫌な感じがして私は身をよじる。
「末真は腹を刺して死んだ。自殺するとして普通そんな方法を選ぶかね? 首を吊るとか、毒を飲むとか、もっと穏便な方法があるんじゃないのかい? それにね、普通自分の腹を何度も刺そうとしたら、死ぬ前に痛みで意識を失うよ。君、小説書いてるのにそんなことも知らなかったのかい?」
 如月に揶揄されても私は何も言い返せない。
 里理が、ソファから身を乗り出して、言いにくそうに訊ねる。
「あの……如月さん。雛夜お姉ちゃんに命令したのって……やっぱり……」
「無論、霧坂友音をおいて他にはいまい。雛夜は元々、霧坂家の『事業』に協力できないことから肩身の狭さを感じていたんだ。霧坂家のためになると言われればいくらだって協力しただろう。美代子、末真の死体が見つかった日、友音が多喜子から末真が自殺したという報告を聞いたくだりを思い出したまえ。友音は多喜子に『ベッドを元に戻す』ように指示したんだろう? なぜベッドが動かされていたことを知っていたんだい? 静川鏡一郎は末真が死んだことしか伝えていないはずだし、友音は現場を一度も見ていなかったのに」
「でも、友音さんがどうして」
「末真が樫木殺しの罪の重さに耐えかねていたから、その口封じに殺したのさ」
 ぐわん、と頭が強く揺さぶられる。
 如月が唇の端を歪めてニヤリと笑う。嘆いているのか、嘲っているのか、私には彼女の内面の手がかりすらつかめない。
「君が樫木の死体を発見したときのことを思い出してみたまえ。暗かったせいで、君は蔵の中を覗き込んでもすぐに死体を見つけられなかった。覗き込んで、目が慣れて、初めて死体を発見したわけだね。宮島も同様で、蔵の窓から覗き込んで、しばらくして中が見えてから、末真に死体があると報告した。一方末真は、蔵の窓から中を見た途端に、死体があることだけでなく、それが樫木であることもぴたりと言い当てた。それは何故だろうね?」
「けど、末真さんには……」
 アリバイがあると言いかけて辞めた。
 樫木殺しの日の午後、貴穂はずっと末真や宮島と一緒に働いていたと言っていたが、四六時中一緒にいたというわけではないだろう。そもそも三人にアリバイは成立していなかったのだ。
「でも如月さん、それが分かっているなら、なんでさっきは本当のことを話さなかったの?」
 里理の疑問は当然である。
 それに対して如月は、悪びれることもなく答えた。
「霧坂千秀をこの屋敷から追い出すためだよ。以前から霧坂千秀は独断の行動が過ぎて、友音の制御が利かなくなっていたらしい。あの魔女はそれが気に食わなかったのだろうね」
「それじゃ……千秀さんは無実の罪で」
「そういうことになる」
「そんなこと、許されるんですか?」
「それが依頼人である霧坂友音の望みだからね。私は死ぬ人間も自由を奪われる人間もなるべく少ない方が良いと思っている。あいにくと殺された人間は蘇生できないし、霧坂千秀が逮捕されようと、霧坂友音が逮捕されようと、奪われる自由の量に変わりはないからね。それならば友人である霧坂友音の肩を持つ」
「お父さんは……無実……」
「その代わり、君のお母さんは罪人だ」
 呆然とする里理に、如月は残酷に告げた。
 私たちと話しながら、如月は次に読む本を見繕っている。埃を被った古い本を抱えて図書室を出ようとする。
「ちょっと待って」
 里理の強い声が如月の足を引き止める。
「どうしてわたしに教えてくれたの?」
「友音よりも里理との付き合いの方が長いからね。友情の証に真実を告げたまでだよ。この真実をどう利用するかは君が考えなさい。つらい選択だけどね。雇われた私は他人の奴隷も同じだ。私にできることはここまでさ。それに、選べる者は幸福だと思うから……。美代子」
 如月に名前を呼ばれてどきりとする。というか、如月はいつまでその名前で私を呼ぶのだろう。私の本当の名前は……。
「私の友人を頼む」
 ぼそりと、さりげない風を装って、そんな言葉を残して、お節介な名探偵は立ち去った。


《 霧の館の凱旋 / Shoddy Parade 》

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