第五章

すべては質量に保存される/犯人はこの中にいます


 屋敷に戻って、すぐに異変に気がついた。
 屋内に入ったというのに中は暗黒であった。むしろ外よりも暗い。霧の暗闇に慣れた私の目でさえも屋敷の中は明瞭ではなかった。果たしてそこに屋敷があるのか、床があるのか、私はすっかり自信を失って先に進めずにいたのである。
「先生」
 奥から声が聞こえて私は悲鳴を上げそうになった。近づいてくる足音を聞いて現実感を取り戻す。
「先生」
 もう一度私を呼ぶ声が聞こえる。泡路の声であることは分かっていたが、彼がどこにいるかは、大体の方向でしか把握できない。絨毯のない剥き出しの床であればもう少しはっきりとした足音が聞こえただろう。
「どうしたのですか? 照明は?」
「俺もそれを聞きたかったんだよ。中に入ったらこの様で、下手に歩けやしない。先生がドアを開けて入ってきたのが聞こえたから、こっちに歩いてきたんだよ」
「停電ですか?」
「そりゃまずい。修理なんて呼べねえぞ、こんな山奥……」
 泡路が困惑した様子が声からも伝わってきた。
 私は壁に手をついて、慎重に一歩ずつ前に出る。屋敷の間取りはうろ覚えだったが、いつまでもここにじっとしているのも気持ちが悪かった。もしかしたらこの暗闇の中で、花香や里理が動けずにいるかもしれない。こんなときこそ私のような人間がそばにいてあげるべきだと思った。
「先生、どちらへ?」
「とりあえず二階へ行きます。みなさんがいる場所へ」
「あまり動かない方が――」
 ドン、と何かがぶつかる音がして、ややあってから泡路のうめき声が聞こえた。私はそれに構わずに牛歩を進めた。
 目を潰されたみたいに暗い廊下である。目を開けているのも目を閉じているのも変わらない。しばらく瞬きするのを忘れて、目が乾き始めてからやっとそれに気づくような具合だった。どうせ同じだと、ずっと目を閉じていることにした。盲人は常日頃からこんな世界に生きているのだろうかと私は思った。
 暗闇の中をぐるぐると回っているうちに照明が戻った。廊下の中にパッと光が戻り、私はまぶしさに手をかざした。
 人の声がする方へ向かうと、そこはいつかの、地下室のある階段の前であった。
 階段の脇に配電盤があり、どうやらそれが停電の原因らしかった。
 その場にいたのは末真と多喜子、それに静川鏡一郎だった。末真の様子がおかしい。額に汗を浮かべて、多喜子に必死に事情を説明している様子だった。
「つまり、掃除をしていて、間違って配電盤に触れてしまったと?」
 長い長い言い訳を、多喜子は簡潔に要約した。末真はなおも自己弁護を続けようとしたが、実質的には多喜子の認識が真実であることを証明していた。
 なんだそんなことかと私は拍子抜けした。てっきり町からの送電線か何かが断線してしまったのかと思っていたのだ。下手をすれば暗闇の中で一晩過ごさなければならないかとも思っていたのだが、杞憂で済んだらしい。
 やや経ってから、私の後ろから泡路が、二階から友音と雛夜が下りてきた。さらに遅れて花香と里理が寄り添うように歩いて来る。
「何の騒ぎですの?」
 興奮気味の声で雛夜が訊ねると、ぶるぶると震えてうつむいている末真の代わりに多喜子が事務的に説明した。
「お母様、どうしますの?」
 と、雛夜は母の顔を伺った。
 友音は一見するといつもと同じ表情で末真に近づいて言った。
「……もう結構。下がりなさい」
「奥様! 申しわけございません!」
「末真、わたしはもう良いと言った。下がりなさい」
「アア……。奥様、俺は――」
 末真が頭を下げ、なおも粘ろうとするが、多喜子が彼の腕を掴むと強引にこの場から連れ出した。
「友音も千秀も雛夜も思織も来夢も里理も、みんなあなたが殺した」
 そんな声が聞こえて私はゾッとした。
 声は頭上から聞こえて、見上げると雛夜と花香と里理が末真のことを見ていた。その声は末真にも届いたようで、彼はびくりと震えると、その場に崩れ落ちそうになる。それを多喜子が無理やり引っ張っていった。
 泡路は私が困惑しているうちに、霧坂の三姉妹と友音はぞろぞろと引き上げていった。鏡一郎もやれやれと笑みを浮かべ、私に夜の挨拶を残してどこかへ行ってしまう。
「妙な調子ですね、先生」
 私の耳元でボソッとつぶやくと、禿げた頭をペシンと叩く。しかしどこか他人事であるような響きが混ざっていた。彼はすでに「諦めた人間」で、私の邪魔こそしないだろうが、決して協力者というわけではなかった。
 煌々と光が照らす屋敷の中で、私だけが何も知らずにいるようであった。


***

 自分の部屋に戻り、日記を書き終え、布団を被ってみたものの、私はずっと寝付けずにいた。
 寝台の上で何度も寝返りを打ち、とうとう寝るのを諦めて、電灯をつけて読みかけの本を広げる。さりとても本を読む気にもなれず、私は溜め息と共に本を荷物に仕舞うと、椅子に腰掛けてぼんやりと部屋の天井を眺めた。
 どれほどそうしていたかは分からないが、部屋の扉を小さく叩く音が聞こえて私は現実に引き戻された。もしや幻聴かと思い、耳を澄まして扉を凝視していると、再び二度、三度と小さく叩く音が響いた。
「どなたですか?」
 返事をし、扉を見つめながら、私の手は刃物を探していた。時計を見るまでもなく、今は真夜中である。こんな時間に人の部屋を訪れるなど尋常な事態ではない。
 もう一度誰何すると、板一枚挟んだ向こうからくぐもった声が聞こえた。
「泉貴穂です。先生……」
「どうしたのです?」
「先生、助けてください、わたし、先生……」
 貴穂が廊下から涙声で話した。
 私はなおも警戒しつつ、扉を開けて彼女を部屋の中に招き入れた。首を出して廊下を確認したが、彼女以外の人間はいなかった。
 貴穂に椅子を勧め、私は寝台に腰掛ける。彼女は何かに怯えるように小さく座ると、うつむいたまま膝の上で指を弄んでいた。
「一体何があったのですか?」
 私は貴穂が口を開くのを辛抱強く待った。貴穂の視線が床の絨毯と私を往復するのを見た。
「あの……わたし……」
 やっと口を開いて、それだけ言って、うっと泣き伏せてしまった。私は慌てて貴穂に近寄ると、しゃくり上げる貴穂の背中をゆっくりと撫でた。
「一体どうして泣いているのですか?」
「わたし……怖いんです」
「怖い?」
「もうわたし、耐えられない! もう嫌、もう嫌だ、こんなところ……帰りたい……もう嫌だよぉ……」
 貴穂は私の服を掴み、抱きついて泣き続ける。私の胸の中で、貴穂の息遣いが熱を持っていた。彼女が泣き止むのを待つために、私は再び自分の中の忍耐力を動員しなければならなかった。
「先生はこの屋敷、変だと思いませんか? どうしていつも真っ暗なのか。そもそもどうしてこんな山の中に住んでいるのか。この家の人が麓の村で何て呼ばれているか知っていますか? わたしこの間、買い物に行ったときに、聞いてしまったんです」
「たしかに私も不思議には思っています。しかし、噂というのは尾ひれのつくものです。貴穂さんは私よりもずっと霧坂家の人たちと一緒にいるのですから、あの人たちが魔女や妖怪でないことはご存じでしょう?」
「はい、そう思っていたこともありました。姉さんや奥様と通じ合えたと、この屋敷がわたしの家だと、感じたこともありました。けどそんなわけなかった。そんなのは、あり得ないんです。わたしたちが見てきたのはこの家の人たちのほんの一部だけで、本性は――」
 貴穂は首を振った。悪い記憶を振り払おうとしているのか、言葉に詰まった自分をもどかしく感じているのか、それは分からない。
「わたし、聞いてしまったんです。奥様と、姉さんが話しているのを――旦那様が死んでいるってことを」
「ちょっと待ってください。旦那様というのは霧坂千秀のことですか?」
 貴穂は首肯する。私がこの屋敷に来てから、これまで千秀は一度も姿を現していないのだ。
「それだけじゃないんです。千秀は三日前に死んだきりよって、奥様が姉さんに言ったんです。だけど明日にでも復活するって。今は付きっきりで見るしかないって――」
「それ、いつの話ですか?」
「今日の午後に、奥様と姉さんが部屋で話しているのが聞こえたんです。それを聞いたらどうしようもなく怖くなって、今日はずっと泣きそうになってたんです」
 臆病ですよね、と自虐的に言う貴穂は、とても危うい存在に見える。
「いったい奥様は何をしようとしているんですか? 死んだ旦那様を生き返らせるって――それじゃあまるで魔女じゃないですか! こんな山奥で、あの人たちは一体何をしているんですか」
「落ち着いてください! 本当に友音さんがそう言っていたんですか? 聞き間違いじゃないですよね?」
「わたしはちゃんと聞いたんです! 嘘なんて言ってません。信じてください!」
「分かりました。信じましょう」
 素早く断言した私の言葉は驚くほどに無責任で軽薄だった。
 しかしながら私は貴穂の言葉をすべて疑っていたわけではなかった。私が思い出していたのは、地下室のあのうめき声である。
「それに奥様は、霧で警察が来られないって言ってましたけど、そもそも通報なんかしていないんです。樫木さんの死体を見つけたときに、わたしが警察に電話しようとしたら、奥様がすごい目で睨んで止めるんです。それから、あなたも死体を埋めるのを手伝いなさいって。わたしが勝手に埋めていいんですかって聞いたら、奥様は何も言わずに行ってしまったんです。わたし怖くて、結局一度も死体に触りませんでした」
「でも、その後で友音さんが警察に連絡したかもしれないじゃないですか」
「それは絶対にありません。だって、奥様はわたしを睨み付けたんですよ? もしわたしが無理にでも警察に電話していたら、わたしも殺されていたかもしれません。ああ、そうです。多分、樫木さんを殺したのはこの家の人間なんです。だから警察を呼ぶわけにはいかなくて、こっそり死体を埋めて、みんな隠してしまおうと考えているんです」
「樫木さんが殺される理由に心当たりがあるのですか?」
「いえ、それは、分からないですけど……」
 貴穂は力なく言葉を濁す。
 泡路は樫木が警察の人間ではないかと疑っていた。樫木は何かの目的で霧坂家を調べていた。それを快く思わない霧坂家の誰かが彼を殺した。では霧坂家の人たちは、警察から何を隠そうとしているのか。塞がれた窓。山奥の屋敷。霧の魔女。地下室。うめき声。死んだ当主。消えた思織。生き返りの儀式。噂、噂、噂――。
 ぞわり、と背筋に寒気が広がった。貴穂の恐怖が私にも伝染したのだろうか。いや、この感情は、私がずっと前から抱えていたものだ。今までそれから目を逸らしてきたにすぎない。
 恐怖も、闇も、いつも目の前にあったのだ。
「先生」
 貴穂が涙を浮かべて私を見上げる。心臓が締め付けられるような不安を、私は表に出さないように努めた。貴穂が求める「頼りがいのある来根美代子」の役を必死に演じ続ける。
「助けてください。わたし、怖いんです。あの、今晩ここにいてもいいですか? わたし、床で寝ますから」
「それは構いませんが……。床は私が使いますから、貴穂さんが寝台を使ってください」
 しかし貴穂は使用人である自分が床で寝ると譲らなかった。きりがないので私が寝台を使うことにした。こんなくだらないことで問答している場合ではない。その代わり、枕と毛布は彼女に譲ることにした。
「貴穂さんは霧坂思織さんが今どうしているか知っていますか?」
「いえ。ここで働き始めたときに、姉さんから『決して詮索しないこと』と念を押されていたんです。だからわたし、この家の人たちがどんなに怪しくても、口を閉じてずっと言いなりに働いてきたんです。でもまさか、人が死ぬなんて……」
「友音さんは、千秀さんが死んでいると言っていた。しかし同時に、生き返らせるとも言っていた……」
「やっぱり霧の魔女だわ。この家の人たちは人間じゃないんですよ!」
「魔女――」
 まさかそんな。魔女なんて迷信ですよ。
 そんな一般論は恐怖を振り払うのに何の力も持たない。
「お姉さんから、霧坂家について何か聞かされたりしなかったんですか?」
「……わたし、姉さんとは全然仲良くないんです。姉さんは高校を卒業してからすぐに家を出て行って、ほとんど帰ってこなかったですし。ここで働くようになってからも、姉さんはほとんど話しかけてくれないんです。わたし、奥様と話す時間の方がずっと多いと思います」
「じゃあ貴穂さんは、ここで働いていると言っても、ずっと炊事洗濯とか、そういうことしかしていなかったのですね」
「はい……。姉さんや末真さんは、霧坂家の秘密を知っているようでしたけど。宮島さんは、多分知らないと思います。あの人は正体が分からない人間にも平気で忠誠を誓える人なんです」
「ところで、今夜はここに泊まるとして、明日はどうなさるつもりですか?」
「さあ……わたし、先のことなんか何も考えずに、とにかく怖くて先生のところまで来たんです。最初は先生も、霧坂に関係のある人じゃないかと疑っていたんですが……相談して良かったです」
 すっかり安心した顔で貴穂は言う。もし本当に霧坂友音が魔女であり、私たちの身に危機が訪れようとしているのなら、最善の方法は屋敷を出て山を下ることである。しかしながら山には霧が出ており、この天候で外を出歩くのは友音が魔女であるか否かにかかわらず自殺行為である。
「先生は、わたしを助けてくれますよね?」
 約束はできなかった。私自身、この家について何も知らないのだ。守れもしない約束など軽々にできるはずがない。しかしそのときの私は、ただこの場の空気に合わせて、自分の意志など持たぬ自動人形のように、彼女を見つめてゆっくりと頷いたのである。
「貴穂さんに、いくつかお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか。その、つまり、これから私たちがどうするべきか、霧坂一族が何を隠しているのか、それを推理するために必要なことなので」
 私が遠慮がちに尋ねると、貴穂は私に熱いまなざしを向けながら頷いた。
「まず……樫木さんの遺体はどのようになさったのですか?」
「すみません。分かりません。多分、どこかに埋めたんだと思いますけど……」
「どうして?」
「あ、すみません。勝手な想像です。でも、あれから奥様は樫木さんのことについて何も言わないので、恐らくもう……」
 少なくとも使用人にあれこれ指図するような段階はすでに過ぎ去っている、ということだろうと私は判断した。土に埋められ、あとは朽ちるのを待つだけか。隣近所の目があるわけでもない、ここならば何人分の死体だって隠せるだろう。
「樫木さんが殺されたのは当日の正午から午後四時の間だと考えられます。貴穂さんはその時間に何をしていましたか?」
「仕事をしていました。宮島さんや末真さんと一緒に」
「樫木さんとは一度も会わなかったのですね?」
「はい。昼食のときにお見かけしたのが最後です」
「では別の質問をします。この屋敷には地下室がありますね?」
「は、はい……でもわたし、地下室には絶対に近づかないようにと言われているんです。わたしだけではなくて、末真さんや宮島さんも、あそこには入れないんです」
「入れるのは霧坂家の人間だけ、ですか」
「末真さんは地下室に何があるのか知っているようでしたけど……。それから静川先生も。地下室から出てくるところを何度か見ているんです」
「それは勝手に中に入った、ということではなくて?」
「わたし、そのとき姉さんに報告したんです。そしたら『静川先生のことは放っておきなさい』って言われました。……あの、地下室に何かあるんですか?」
「いえ、少し気になったことがありましてね。貴穂さんは、誰かが地下室に何かを運んでいるところを見たとか、何か音が聞こえるとか、そういうことはありましたか?」
「いえ、あちら側の掃除は末真さんがやる決まりになっているので、わたしはあまり近寄らないんです」
「あの地下室のそばに配電盤がありましたよね? あれも末真さんの管轄ですか?」
「そうです。……ここのお屋敷は窓を塞いでいますから、もし間違えて電気を落としてしまったら、今晩みたいな大騒ぎになるんです。洗濯をしていたら部屋が突然真っ暗になって驚きましたよ」
「前にもこんなことがあったんですか?」
「いえ、わたしが知る限り今日が初めてです。それに、配電盤には絶対に触るなって旦那様や姉さんから何度も何度も言われていましたから」
「明かりが戻ったとき、末真さんに妙なことを言った人がいたんです。『友音も千秀も雛夜も思織も来夢も里理も、みんなあなたが殺した』」
「誰がそんなことを……?」
「分かりません。霧坂家の女性の誰かだと思いますが……絞り出すみたいな小さな声だったので。もしかしたら細部に聞き違いがあるかもしれません。しかしこれは確実に言えるのですが、その人物は来夢という名前を口にしました。霧坂家の人間をすべて殺したという意味で口走ったのなら、その中に含まれるべき花香の名前がなく、代わりに来夢という謎の人物が含まれている……。来夢という名前に心当たりはありますか?」
 貴穂は首を振る。自分が何も知らないことを主張して、自らの潔白を必死に訴えているかのようだった。
 それから私たちは明け方近くまでずっと話をして過ごした。というよりも貴穂の方がやたらと私に話しかけてくるのだ。話題は明らかに霧坂家の話を避けている。暗闇が怖いからと、電灯を消すことすら許してくれなかった。
 話し疲れた貴穂が寝息を立て始めたのを確認してから、部屋の照明を落とし、やっと眠りにつくことができた。


***

 誰かの声と、どたどたと駆け回る足音が遠くで聞こえた気がした。暗闇の中で目を開けて、体を起こし、部屋の中央に立った。それにもかかわらず、今私が起きているということがどうしても実感できない。まるで映画を見せられているかのようだ。昨日のことが現実だったのか、今日のことが夢なのか、私には判断がつかない。部屋の照明をつけてから、やっと頭に血が巡ってきた気がした。絨毯の上には毛布を被って丸まっている貴穂の姿が見える。
「少なくとも霧の魔女は一晩の猶予を私たちに与えてくれたということだ」
 などという実体のない言葉が口をついて出た。しんと静まりかえった部屋をひっくり返すくらいに私のひとりごとは大きく聞こえてしまった。私は机の上に置いていた懐中時計を見て、今が午前七時であることを知った。
 もう一度、遠くで誰かの声が聞こえた。そのときになって私はやっと普段の判断力を回復したのである。
 何かの騒ぎが起きたのか、今すぐ駆けつけるべきかと逡巡して、まだ寝息を立てている貴穂のことが気にかかった。
「貴穂さん。貴穂さん」
 体を揺らすと色っぽい声を鼻から漏らして貴穂はわずかに目を開けた。
「何かあったみたいなので、見てきます。貴穂さんはここにいてください」
 こちらのことをちゃんと分かっているのか知らないが、とりあえずの義理として断わっておいた。私が言い終わると貴穂は一瞬で目を醒まし、不安そうな顔を向けて小さく頷いた。
 廊下に出てから、とりあえず私は大広間を目指して歩いた。
 その途中で鏡一郎とすれ違った。
「おはようございます」
 紳士的な笑顔を浮かべて挨拶をされたが、その表情とは裏腹に彼の足は妙に急いでいた。
「何かあったのですか?」
 挨拶の後、鏡一郎が立ち止まることなく歩き続けたので、私も来た道を引き返して鏡一郎の後に従った。
 鏡一郎は一瞬笑顔を引っ込めて、私の目をじっと見て小さく答える。
「末真さんが殺されました」


***

 鏡一郎の後ろについて末真の部屋の前まで来ると、木製の扉が粉々に吹っ飛んでいるのが目についた。部屋の中を見ながら宮島は狼狽して廊下に突っ立っている。
「宮島さん」
 声をかけると宮島はうつろな目を私に向けて、しかし何も答えずに再び視線を部屋の中に戻した。
 私たちも部屋の中を覗き込む。霧坂雛夜が絨毯の上に倒れた末真の横に膝をついていた。雛夜は私に気づいてこちらを向くと、驚いたように目を見開いて、苦悩に歪んでいた顔の筋肉をキュッと引き締めた。
「先生」
 雛夜がそう呼んだので思わず返事をしそうになったが、それより早く鏡一郎が「奥様には伝えて参りました」と答えた。雛夜にとって先生と呼ぶに値する人間はこの屋敷には一人しかいなかったのだ。
 末真は体をくの字に折り曲げて倒れていた。彼の腹部には刃物の柄が見えていて、そこからこぼれた大量の血液が服と絨毯を染めていた。腹部を何度も刺したようで、流血は樫木の死体の比ではない。視線をさらに手前に移すと、破壊された扉の破片と大きな斧が廊下の壁に立てかけてある。末真の部屋の入り口には寝台が進路を塞ぐように置いてあり、掛け布団の上に木片が飛び散っていた。
「お嬢様、すぐに部屋からお出になってください」
 背後からそんな声が聞こえて、振り向くといつの間にか泉多喜子の姿があった。私の横を通り抜けて、スカートの下から覗く足を大きく伸ばし、皮の長靴のまま寝台を踏みつけて部屋の中に入る。
 泉多喜子はそのまま死体と部屋の検分を始めてしまった。死体の様子から、部屋の衣装棚の中、寝台の下まで探す。雛夜は多喜子に場所を譲り、部屋の外に出るでもなく所在なく多喜子の様子を見ていた。
「何があったんです?」
 私は鏡一郎に尋ねる。鏡一郎は人を馬鹿にしたようないつもの微笑みを浮かべて説明した。
 異常に最初に気づいたのは宮島だったという。霧坂屋敷では、料理人である宮島と、末真と貴穂の二人は交代で、早朝から配膳や掃除などの仕事を受け持つことになっていた。今朝は末真の当番だった。宮島は厨房で朝食の仕込みをしていたが、いつまで待っても末真が出てくる様子がない。貴穂は遅番だからまだ来ない。仕方がないので宮島自ら末真の部屋に呼びに行くことにした。
「そうしたら、部屋からは末真さんの返事がなかった、ということですか?」
「う……あ……はい……」
 未だに放心状態の宮島はたっぷりと時間をかけて頷く。やがて何かに気づいて声を上げた。
「あ、ああ! 貴穂……貴穂さんが……」
 そのままどこかに走り出そうとした宮島の腕を私は咄嗟に掴んだ。しかし彼我の体格差から、私はそのまま引きずられて転びそうになる。
「待ってください! 突然どうしたんですか!」
「た、貴穂さん、まだ来てない、もう、来るころなのに……貴穂さんも、もしかしたら……」
「それなら心配ありません。貴穂さんなら私の部屋にいます。少し体調が優れないようでしたので、今日は出勤しませんよ」
「ほ、本当に……?」
 私は「安心してください」と胸を張った。しかしそれを聞きつけた泉多喜子が部屋の中から私を鋭く睨み付ける。
「貴穂がお部屋に? 仕事を放り出して、あまつさえお客様のお部屋にお邪魔するなど……申しわけございません。後であれにきつく言っておきますゆえ、どうかお許しください」
「いえいえ! 私は迷惑を被ったわけではありませんし。それに、貴穂さんを引き止めたのは私なんです」
 多喜子がいきなり頭を下げるので思わず嘘を吐いてしまったが、明らかに辻褄が合っていないのは目も当てられない。私は多喜子の相手をするのをやめて宮島に向き直る。
「それで、末真さんの返事がなかったあと、宮島さんはどうなさいました?」
「う、あの……部屋が開かなくて」
 宮島告は喋るのがのろい。先を急かしたくなるのを堪えて、辛抱強く彼の話を聞き続けた。末真の部屋が開かなかったことで宮島は異変を強く感じ取ったらしい。というのも、基本的にこの屋敷の居室には鍵がないのだ。つまり、部屋の戸が開かない、という現象は日常の中ではほとんど起こり得ない。
 実際のところ、戸が開かないように内側から寝台でつっかえがしてあったのだ。寝台は私の部屋にあるものに比べて少し簡素な感じがしたが、大きさや重さはほとんど変わらないように見える。
 とにかく宮島は末真の部屋の異常を感じ、誰かを呼んでこようと部屋の前を離れたときに、途中で雛夜と鏡一郎を見つけたのだった。
「その後は、僕がドアを破ることを提案して、雛夜お嬢様もその許可をくださいました。宮島さんが裏の物置から斧を持ってきて、この通り、破壊したということです。中には末真さんがあのように血を流して倒れていました。だから僕は、ここを宮島さんと雛夜お嬢様に任せて、奥様にご報告に伺ったのです。とりあえず末真さんが亡くなったことだけを伝えると、詳しい事情はお尋ねにならずに、後でこちらに向かうとだけおっしゃいました」
 宮島に代わって鏡一郎が答えた。
「鏡一郎くんは部屋に入ったんだね?」
「はい。雛夜お嬢様と一緒に」
「そのとき何か変わったことは?」
「そうですね。末真さんが死んでいたことと、ベッドが移動されていたのを除けば、特にはありません」
「誰かが部屋に潜んでいたということは?」
「ここにはずっと宮島さんがいたのですから、それは考えにくいでしょう」
「しかし宮島さんは、ここで末真さんの部屋が閉まっていたことを確認してから、お二人と会うまで、部屋の前を離れているはず」
「その間に犯人が脱出した? それは不可能ですね。ドアを破壊するときに開かないのをちゃんと確認しましたし、そもそも、ベッドがあの位置にあっては部屋から脱出することができず、また逆に、部屋を脱出した後でベッドをあの位置に移動することは不可能です」
 部屋の入り口を手前に見たとき、寝台は元々右の壁にぴたりとくっつくように置かれていた。それを動かすのはそう簡単な作業ではないだろうが、時間をかければ一人でも十分に動かせそうだ。
「部屋の窓はどうだった?」
「内側から鍵が掛かっていましたわ」
 質問に答えたのは雛夜だった。寝台を踏みつけて、部屋の外に出てくる。出がけに部屋の照明を落とした。たちまち惨劇の光景が暗闇に隠される。
 ただの文筆家である私が探偵の真似事をしている滑稽な様について、また何かしら皮肉めいたことを言われるのだろうと覚悟していたら、雛夜は溜め息混じりに「部屋に戻りますわ」と鏡一郎に告げて戻っていった。その背中が妙に小さく、か細く見える。
「雛夜さんはどうしたんだろう」
「末真さんの死体を見つけてからずっとあの調子です。普段は気丈に見えたとしても、雛夜さんはか弱い女性なんですよ」
 お嬢様、とは呼ばずに、雛夜さん、と呼んだ。鏡一郎の口ぶりは、生徒を心配する教師のそれに似ている気がした。もちろん私は、学校に通った記憶も、教師に心配された記憶もないのだが、私の中には典型的な教師像が形成されていた。
「失礼します」
 多喜子が部屋から出た。私たちの前を通り過ぎようとしたのを呼び止める。
「何か分かりましたか?」
「末真を絶命させた刃物はこの屋敷のものです。部屋は内側からベッドで押さえられていますし、死体の周囲に争った形跡はありませんでした。以上のことから、これは自殺であると推測されます」
「自殺? そんな馬鹿な」
「馬鹿ではありません。むしろ、それ以外の可能性こそ『馬鹿な可能性』です」
 そのとき、多喜子の肩越しに友音が歩いてきたのが見えた。
「多喜子、何をしているの?」
「報告が遅れて申しわけございません。死体の検分をしておりました」
「それで、どうなの?」
「自殺です」
「そう」
 友音はゆっくりと、おっとりと頷いた。
「では皆様、このような不潔な場所にいつまでもいらっしゃらないで、談話室に移りましょう。宮島、いつまでそこにいるの? 早く朝食の準備をしなさい」
 友音に叱咤され宮島はバネのように立ち上がると何度も何度も頷いた。友音から逃げるように早足で行ってしまう。
「ちょっと待ってください。まだ自殺と決まったわけでは――」
「さあさあ先生も。使用人がひとり自殺した程度のことです。先生のお気を煩わせるようなことではありませんわ。さあ、静川先生も、ご一緒に――多喜子、部屋を片付けておきなさい。ベッドも元通りに。こんなときに貴穂はどこに行ったの?」
「来根様のお部屋にいらっしゃるそうです」
「あら先生、そうでしたの。言ってくださればあんなの、いくらでも貸しましたのに」
 友音は親しげな笑みを浮かべて――私は彼女の纏う空気が、そのときばかりはたまらなく恐ろしかった。


***

 しばらく待たされたが、昨日よりも一時間ほどの遅れで朝食が始まった。いつもよりもほんの少しだけ手を抜いた朝食を前に、その場にいた霧坂屋敷の住人たちに向けて友音が事件の概要を説明した。いつものことだが、やはり千秀の姿はなかった。貴穂の言葉が事実であるなら、霧坂家当主はまだ死んだままだということになるが。
 その貴穂の姿は食堂にはなかった。末真の部屋に行く前に声をかけてきたとはいえ、私の部屋に一人で残してきたのは不安だった。ましてや末真が死んだとあってはなおさらだ。雛夜の姿もない。あれからすぐに自分の部屋に戻ったのだろうか。
 とにかく霧坂友音は、末真の死が自殺であることを断言した。
 その発表に異議を申し立てる者はいなかった。私も含めて、である。泡路はいつもの大げさな反応で道化を演じていたが、決して友音の意見に逆らうことはなかったし、あくまでも従順に末真の死を悼むだけであった。
 私は朝食を早々に切り上げて、友音が食事を終えるのを待っていた。しかし彼女は多喜子の入れた紅茶を飲みながら優雅な時間を過ごしていた。席を立つ様子はない。そうこうしているうちに食堂には私と友音と多喜子の三人だけになった。
 私が席を立ち友音に近づくと、彼女は多喜子に目配せをした。多喜子が友音の隣の椅子のを静かに引いた。
「あの」
「どうぞおかけになって」
 私は椅子に座った。用件を切り出す前から、私が何を聞こうとしているのか分かっているような態度である。
 多喜子は一旦席を離れたが、台車に紅茶を乗せて戻ってきた。私の目の前にティーカップを置き、真っ白なポットから紅茶を注ぐ。湯気と熱気が立ち上り、深い黄金色がカップの中でうねる音と共に、私の体感を心地よい世界へと誘う。
 しかし銀色の台車を見て、私はあの不気味な地下室のことを思い出した。光景を振り払い、私は思いきって紅茶を一口飲んだ。普段紅茶など飲まない私には茶葉の善し悪しも分からない。
「それで、先生はわたしにどんなお話を聞かせてくれるのですか?」
「聞くのは私の方ですよ」
「まあ」
 友音は嬉しそうに――楽しそうに目を剥いた。
「まだ警察も呼んでいないのに、どうして自殺だと断定なさったのですか?」
「それ以外の可能性がありえないからですわ。末真の部屋は内側から閉ざされていたのですよ。すなわち犯人は部屋の中にいたのです。部屋の中にいたのは末真だけです。まさか――あの部屋に抜け穴があった、などとおっしゃるんじゃありませんよね?」
「可能性は否定できません」
「否定できない可能性のすべてが現実ではありませんわ」
「遺書は見つかったのですか?」
「遺書があることは自殺の根拠になりますが、遺書がないことが自殺の可能性を否定するわけではありません」
「末真さんを最後に見たのは誰なんでしょう?」
「さあ。少なくともわたしではありません。きっと宮島か貴穂でしょう。しかしそれにしても、夜中になれば多喜子以外の使用人は部屋に下がりますから、末真の死んだ時間を割り出す助けにはならないと思います」
「多喜子さんは、ずっと友音さんと?」
「ええ」
「樫木さんが殺された日の午後も?」
「もちろん。多喜子はわたしの盾ですから」
 護衛という意味ならば、ずいぶんと詩的な表現である。
「貴穂さんといえば、彼女は昨晩私の部屋に泊まったのですが」
「貴穂に関してはすべて先生の望むままになさって結構ですわ。お好きなように」
「貴穂さんが、友音さんが妙なことを口にした、と言うのです。――何でも、友音さんは警察を呼んでいないと」
 千秀の死に関しては伏せたままで、とりあえず様子見のつもりの質問をする。
「はい」
 友音があまりにもあっさりと肯定するので、私は拍子抜けして言葉を失った。友音は逆に私に問い返す。
「警察をお望みですか?」
「当たり前じゃないですか」
「しかし警察を呼んで一体何になると言うのです? 警察が死んだ人間を蘇らせる機関であるならともかく、大抵の場合は無用な捜査でみなさまの事情を散らかすだけの騒がしい連中です。お客様方を不愉快にさせるだけだと思いますわ」
「しかし犯人を見つけなければ」
「見つけなければどうなるとおっしゃるのです?」
「また誰かが殺されるかも」
「殺されるのが嫌ならば館から出ればよろしい。貴穂も、わたしが警察を呼ばないのが不審なら、この館から出て行けばいい。先生は、どうなさいますか?」
「私は――」
 霧の館を出たところで、私に行く当てなどない。おまけに霧が晴れるまでは出ることすらかなわないのだ。
「先生は、死ぬのがお嫌いですか?」
「分かりません。死んだことがないので。でも死ぬのが怖いとは思っています」
「先生は、どうしてわたしの誘いを受けてくださったのですか? 突然手紙をもらって、何かいかがわしいのではないかと疑わなかったのですか? 霧坂家がこんな山奥の不便な場所にあると知っても、なお先生はこの館にいてくださる……。それはなぜですか?」
「あなたが私を呼んだからですよ」
「まるで……まるで……。そうね、適切な喩えが思い浮かばないけれど、先生のそういうところは、格好良いと思いますわ」
 主体性がないだけだ。自分がないだけだ。
 周りの思いに応えるだけの私には、一体何の希望があるというのか。
 私は心の中で嘆いた。
「最後にもう一つ伺ってもよろしいですか?」
「まあ、最後のひとつだなんて、遠慮なさらないでください。先生に求められたらわたし、何でも応えてしまいますわ」
「貴穂さんは、千秀さんが死んだと、あなたが口にしていたのを聞いています」
「何かの聞き間違いでしょう」
「ではご主人に会えますか?」
「それはできません」
「なぜ?」
「会う理由がないからです」
 嘘つきめ、と心の中で毒づいた。
 私も友音に倣い、嘘の笑顔を取り繕いながら多喜子の紅茶を楽しんで友音と別れた。
 部屋に戻ろうとして、気が変わって食堂に引き返した。厨房で片付けをしていた宮島に頼み、パンと果物、それに牛乳を分けてもらった。貴穂はずっと私の部屋に一人で待っているのだ。お腹を空かしているだろうと考えたのである。


***

 部屋にいる貴穂に朝食を届けてから、私は蔵にやって来た。
 色々とあったせいで鍵を末真に返すのをすっかり忘れていた。しかしそのおかげで今は自由に蔵に出入りすることができる。今朝友音と話したときに鍵を返却するのが道理だったが、その前に私はもう一度この蔵の中に入っておきたかったのだ。
 蔵の隅に屈み込んで、入り口をじっと見つめた。格子窓を見上げると、布を広げたみたいな白い霧の海が空に浮いている。人間の声は聞こえない。霧の奥から、あるいは土の中から、虫と鳥の声が響いていた。
 貴穂に朝食を届けた際に、今後どうするのか質問したのだが、曖昧な答えが返ってくるばかりだ。とりあえず霧が晴れるまではずっと私の部屋に隠れているつもりらしい。一刻も早く霧坂家から離れたいと言っていたが、濃霧の中を歩いて下山するほど混乱しているわけではないらしい。
 貴穂はすっかり私に頼っている様子である。自分で何かを決めるということを完全に放棄している。あるいはそれこそが彼女の本質なのだろうか。たとえ姉の紹介とはいえ、こんな山奥の、怪しげな屋敷で住み込みで働こうとするだろうか。しかしそんなことは私自身にも言えたことである。ましてや私は、この霧坂一族に何の縁もないのである。
 似たもの同士、という言葉が浮かんですぐに消した。
 だとしたら私たちはずっとお互いを縛り合って、この屋敷から動けずに朽ちていくのだろうか。
 それにしても、そのときは気がつかなかったが、友音はこの屋敷のことを「こんな山奥の不便な場所」と表現していた。だったらなぜこんな場所に住み続けているのだろう。旧家の霧坂一族には、没落したとはいえ他の土地に移り住むという選択肢もあったはずである。いや、むしろこんな辺鄙な場所に洋館を建てて、そちらの方が高くつきそうである。何か、この土地でなければならない理由でもあるのだろうか。
 屈み込んでいたのが、いつのまにか尻をついて座り込んでいた。気がつけば、私は膝を両手で抱えて、うつらうつらと船を漕いでいた。
 考えがまとまらず、眠気がぐるぐると私の頭の中で概念をかき混ぜていた。
 思考が繰り返される……袋小路に陥った。夢を見ているような、現実を見ているような、不思議な光景が脳裏に浮かび上がっていた。
 ――暑さで目が覚めて、自分がすっかり眠っていたことに気がついた。
 強張っていた肩と足を伸ばして目をこする。窓から斜めに差し込む日差しが蔵の板張りの床に伸びて、それが私の肌をじりじりと焼いていたのだ。
「光が……」
 事の異常さに気づくと私は立ち上がって窓にかじりついた。屋敷に来てから、こうもはっきりと太陽の光を見ることなどなかったのだ。
 案の定、窓の外には霧一つない真っ青な空が広がっていた!
 私は衝動的に飛び出した。
 まぶしさに目を細める。両手を伸ばして太陽に向いた。
 開放感に酔いしれる。
 霧坂屋敷の屋根に太陽の光がきらきらと反射していた。敷地の周囲を深い森が囲んでいるのが見える。絶壁のように、緑の端が綺麗に円を描いていた。ここに二晩も泊まっておきながら、この屋敷の周りがどうなっているのか、今まで何も知らずにいたのだ。
 霧が晴れて、こんなにも綺麗な空なのに、屋敷からは誰も出てこない。きっと窓を塞いでいるから、霧が晴れたことに気がつかないのだろう。
 森を眺めて……そこは私が麓の村からここまで来たのとは違う方向だった……私はありもしない光景を見た。それは、私自身が森の奥に走っている姿である。アア……あれは逃げているのだな……と、私は理解していたのだ。
 何から逃げている?
 朽ちる。果てる。破滅。ゆっくりと蝕む病魔。
 私はそれから――逃げ出した。
 息が荒い。
 逃げているのは私が見ている私の幻?
 それとも私自身?
 これはどちらだろう。
 足を取られて転んだ。頭を木に打ち付けて、頭が一瞬だけ空白に戻った。
 ただの惰性で起き上がると、再び走り出した。
 息が上がる。
 足がちぎれそう。
 体が重い。どうしてもっと早く走れないのか。
 そもそも何から逃げているのか。どうして逃げているのか。ただ感覚だけが、結論だけが私の手元にあった。
 森が開ける。空が見えた。
 ふわりと浮き上がる。
 浮遊。
 足下。
 崖。
 落下――。
 そのとき、私が正気に戻ると同時に、誰かが私の腕を掴んだ。
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