第四章

人を殺してはならない/殺人者を推理してください


 遊戯室では泡路と末真がダーツに興じていた。声を掛けずにしばらく見ていたが、泡路はダーツを一投するたびにグラスの酒を傾けていた。泡路の顔は真っ赤で、自分の番のときも、末真の番のときも、呂律の回らない舌で一方的に筋の通らない話を続けていた。末真はそれをかなり適当な調子で聞いていた。普段の泡路なら激昂しそうな態度だったが、酔っぱらっている彼には末真の姿が見えないのだろう。
 泡路のダーツの腕が、私には良いのか悪いのか分からない。あれは的の中心に当てればいいという競技ではないと聞いたことがある。素人の私にはどちらが勝っているのか、そもそも二人は勝負をしているのかすら分からなかった。
 末真の方は、客人に請われて仕方なく参加しているのだろう。やる気のなさが彼の投擲の姿勢から滲み出ているのが私にも感じられた。これも給料のうちだ、とでも思っているのだろうか。それとも彼が忠誠を誓っているのは給料ではなく友音の方か。
 私は声を掛けなかったが、泡路の番になって所在なさげにしていた末真が、先に私の存在に気づいた。私を視界に収めた途端に口が開いて、しかしそのままの形でしばらく固まった。反射的に何か言おうとしたのを寸止めしたようだ。そして末真の口から反射的に出てくる言葉など、私には罵倒か皮肉しか心当たりがない。
「悪いけど、俺はもう行くぞ。そろそろ仕事に戻らないといけないんでね」
「ええー? そりゃないよ末真くん。人がせっかく楽しんでいるのに水を差さないでもらいたいねえ。友音さんだってそれを望んでおられるはずだ」
 途端に不満の声を上げる泡路。末真が小さな声で泡路を罵倒したが、泡路の耳には聞こえていないみたいだ。
「でもよ、泡路さん。別に俺が相手をしなくたって、ここに一人暇な人間が居るだろ? 作家だろうと何だろうと、仕事がなきゃただの穀潰しだ。少しくらいは俺たちみたいなのに貢献してもらいたいね」
 台詞の最後は明らかに私の方を向いていた。面倒くさくなった泡路が適当に頷くと、末真は私の方に下品な笑みを浴びせて、私が反論をする前に遊戯室を去っていった。
 末真に対する文句を言いかけた私は、酔っぱらった泡路に抱きつかれそうになって悲鳴を上げて飛び退いた。
「なんだい、そんな声を出して。俺は怖くないよ。痛いことは何もしないからさ。へっへっへ」
 脂ぎった顔を歪めて泡路は笑った。私は彼に冷たい視線を送ったが、実は動揺と動悸を隠すのに精一杯だった。
「……飲み過ぎですよ、泡路さん」
「飲むのが楽しいんだよ。ああ、末真くんといるのも楽しいな。あいつに抱きつくと独特の臭いがする。俺、臭いで人を嗅ぎ分けられるんだ」
 鼻を近づけて私を嗅ごうとする泡路から、私はさらに一歩離れた。
「ああ、先生も良い臭いがするね。ずっと抱きしめていたい臭いだ。末真くんほどじゃあないが」
「お断りします」
「そう無下に断わらないでくれよぉ。俺の臭い、嗅いでないだろ? 獣の臭いだよ」
 くんくん、と自分の腕を嗅ぐ振りをして、大笑いした。泡路の馬鹿笑いを見ていて、私は不快感と憎悪にじりじりと炙られていた。
 「失礼します」と控えめな低い男の声が聞こえた。宮島が料理の乗った台車を押して来た。
「おお、やっと来たか。餓死するかと思ったよ」
 泡路が嬉しそうな声を上げた。台車の上には宮島が作ったと思われる簡単な酒の肴と、日本酒の瓶が乗っていた。
 宮島は遊戯室の机に料理を並べると、再び台車を押して出て行った。泡路は待ちきれずに、宮島が運んでいる皿から箸も使わずに指で料理を摘んで食べていた。グラスに入っていた果実酒を飲み干すと、そこに日本酒をなみなみと注いで一口飲む。ほう、と溜息のような息を吐いて、酒を見て嬉しそうに笑った。
「どうだい、先生も。下戸じゃあなかったよな?」
「ええ、まあ……」
「ほら、一杯だけ」
 一杯だけで済むはずがないと、私は断り続けた。しかし酒臭い息を吐きかけられしつこく勧められると、終いには段々と面倒くさくなって、とうとう私も一杯もらうことになってしまった。
 予想通り一杯だけで終わるはずもなく、その後二杯三杯と立て続けに泡路に付き合わされた。泡路が唸るだけはある、上質の日本酒だった。辛口の酒と、宮島が持ってきたカラスミが非常によく合っていた。
 酒が私の食道をかっと熱くさせる。濃厚な泥酔の予感がした。
「あなたは、毎日毎日酒ばかり飲んでいるのですか?」
「まあね。けど一人じゃないぜ。一人で飲んでも暗くなるだけだ。酒は人を楽しくもさせるし、悲しくもさせるんだ。……うん、昨日の午後なんかは、雛夜ちゃんと一緒に飲んだよ」
「雛夜さんと?」
 一体どんな手を使ったんですか? と反射的に質問しようとして、酔いのために言葉が出なかった。一拍遅れて、そんなことは言うべきではないと気がついた。
 泡路は頷き、酒を一口飲むとキャベツのごま塩和えをぽりぽりと食べた。つられて私も烏賊の刺身に手を出す。
「そうそう……何の話だったかな……ああそうだ、雛夜お嬢様ね。お昼に一緒だったときに、何とか口説き落としてここに連れてきたんだ。二人でずっとチェスをしていたよ」
「チェス?」
「雛夜お嬢様は俺の知的な部分を見てくらくら来てたぜ。ありゃあ、もう少し押し込めば簡単に股を開くんじゃねえか? ああいう箱入り娘は、開けるのは大変だが、一度ねじ込んじまえば後は言いなりだぜ」
「雛夜さんもお酒を?」
 下品な部分は無視して、疑問に思ったことを聞いた。泡路は豪快に笑う。
「あのお堅い箱入り娘が、昼間っから酒なんか飲むかよ。俺の酒にまで文句を言いやがる。おかげで昼からは舐めるほどしか飲んでねえ」
 その日の晩には浴びるほど飲んで、私に絡んできたわけだが。この男は酒がなければ半日も過ごせないのだろうか。
「ずっと一緒にいらっしゃたのですか?」
「そりゃ小便に行く時間くらいは離れてたよ。五時になって里理お嬢様がここに来たんだが、切りが良いからと言って雛夜お嬢様は自分の部屋に帰ったんだったな、確か。夕食の時間も近かったし、俺はそのまま直接食堂に行ったが」
 おそらくその前後に私は雛夜と里理に会ったのだろう。雛夜の機嫌が悪かったのは泡路の酒に付き合わされたせいだろうか。せめてもう少し心に余裕があれば、まだ友好的な接触ができたかもしれなかったのに。
「そのあと、食堂で私と初めて会ったんですよね」
「二人の愛の記憶だ」
 寝言にいちいち付き合っていられまい。私は泡路の言葉を無視する。
「本当は友音奥様と一緒にしたかったんだがね、後ろで多喜子から睨まれるわ、皮肉を言われるわで散々だった」
「雛夜さんだって皮肉は言うでしょう」
「友音奥様ほどじゃないさ。まだまだ若いからね。棘が足りないよ」
 私は泡路の言葉に呆れて言葉がなかった。あれで棘が足りないというのは、雛夜の問題ではなく、泡路の感受性の問題であろう。厚顔無恥な豚である。
「多喜子さんは友音さんといつも一緒にいますね」
「それがあの女の仕事なんだよ。霧の館の主人の護衛だ」
「主人は千秀さんでは?」
「表向きはな」
 どういう意味だろうと私は訝しんだ。
 しかし泡路はそれ以上の説明は控えて、酒をくいと飲み干すと含み笑いを漏らした。
 そして私の肩に腕を回す。振りほどこうとしたが、がっしりと掴まれてほどけない。泡路の頭が私の胸にしなだれた。ずいぶん薄くなった泡路の額は油でてかてかと気味悪く光っており、彼が私の方に顔を向けると酒の臭いに混じって汗の臭いがした。
 私は不快感から顔をそらす。
「どうだ、酒は美味いだろ? 痛快だろ? 大先生、飲んどるか?」
「私は罪悪感でいっぱいですよ。こんな、働くでもなく昼間から酒を……」
「仕方ねえだろうが!」
 耳元で大声を出されたので私は泡路を勢いよく突き飛ばした。彼は体の支えを失って絨毯の上に倒れる。そしてごろりと仰向けに転がって大笑いする。
 頭でも打ったのかと私は不安になったが、ひとしきり笑い終えたあと自分の足で立ち上がった。
「ほうら、周りを見てみろ。山と霧ばかりで楽しみなんかありゃしねえ。おまけに館は閉め切られて、その山と霧すら見えねえ始末だ。せいぜい楽しみと言えば、酒か、女か――」
 泡路はそこで言葉を止めて、私の体をなめるように見つめた。自分の酔いが徐々に引いていくのが分かった。
「霧はいつ晴れるのでしょうか。警察はいつ……」
 慌てて話題を変えると、泡路は首を掻いた。
「警察は来ないよ」
 と、つまらなそうに言った。
「は? 来ない、ってどういう意味です?」
「友音奥様は通報などしていないんじゃないか、とこの俺様は予想している」
「どうして? なぜ警察を呼ばないんです?」
「見られちゃまずいものがあるのさ」
 ふわぁあ、と大きな欠伸をした。
 象のような緩慢な動きに私は痺れを切らした。
 言葉の続きを待っていたが、欠伸が終わると目をこすりながら、ふらふらと遊戯室を出て行こうとした。
「待ってください、どこに行くんですか?」
「今日はちょっと飲み過ぎた。俺はもう寝るから、後はよろしく」
 私の非難の声は彼に届かなかった。
 食べかけの料理が乗った小皿と、飲みかけの酒瓶が残された。
 そのまま残していくわけにもいかず、しばらく遊戯室に留まって酒と料理を片付けていたが、酔いが回った私は全てが億劫になって最後は後片付けもせずに自分の部屋に戻った。


***

 眠っていた。
 冷たい毛布の下で、私は眠っている。
 妙な疲労感があって、本を読んだり、日記を書いたりする気になれなかった。にもかかわらず、酒のせいか体が妙に火照っていて、安易に眠りの沼の底に落ちていくには私の精神は少し軽すぎた。
「先生は、自分が誰なのか、知りたいと思いますか?」
 気がつくとそこは食堂で、椅子に座った花香が私に質問していた。そのとき私は一体何と答えたのだったか。
 気にならない、と答えたのは本心だった。しかし私は、むしろ自分の正体を探ったところで何もないのではないか、という予感があった。私の正体を探ることが私に何かをもたらすとは思えないのである。
 私は花香に嘘をついた。作家になったのは、施設の先生に、君は作文が上手いから作家が向いているんじゃないか、と言われたからだ。そう言われて、私は自分が小説家になりたいのだと思い込んだ。その思いがあって、その思いを正当に見せるためのストーリーをでっち上げたのだ。怪談の作家になったのも、紹介してくれた編集者が怪談小説を探していたから、理由をでっち上げて怪談作家を目指すことにした。この館で私が殺人犯を捜しているのも、それが私の役割だと思ったからだ。
 私はいつも周りの求める役割を演じてきた。好きなものも、嫌いなものも、怖いものも、みんな周りが私に当てはめたものだ。
 本当の私など本当にいるのだろうか。
 私の正体は、私の記憶と同じで、がらんどうの暗黒なのではないか、という恐怖が常に私の中にあった。
 世間の人たちはいつも私に、自分自身を持つことを求める。それぞれがそれぞれの物語を持つことを求める。しかし、自分自身の物語を持っている人間が、果たしてどれくらいいるのだろうか。他人と同じ平凡な性質を持っていることが、無色であることが、それだけで罪だというのか。
 みんな嘘つきだ。自分を凄そうに、珍しそうに装飾しているだけだ。町を見れば外見だけが立派で中身が空っぽの埴輪みたいな人間ばかりが歩いている。
 それは私も例外ではない。ときどき、他人の望むままの自分であり続けることに疲れて、何もかもが嫌になる。終わりのない持久走を延々と続けているみたいだ。
 この息苦しさから私はいつになったら解放されるのだろう。
 私がこの事件を解決したら、次に私は一体何に装飾されるのだろう。


***

 自分の意識がはっきりと戻っていたことに突然気がついた。寝台から起き上がり、机の上に手を伸ばして懐中時計を取る。すでに夕方だった。時計を放り出してもう一度眠ろうとしたが、気怠さの割に眠気はもうなかった。
 仕方なしに私は起き上がり、顔でも洗おうとのそのそと部屋を出る。私は体調の悪さを自覚していた。
 廊下を小走りに進む貴穂と出くわした。彼女は私のことに気がついて顔を上げた。その顔が真っ青になっていたことに私は驚いた。
「どうしたのですか? 何があったのですか?」
「いえ、その」
 貴穂は口元に手を当てて、少し視線をさまよわせる。辛抱強く彼女の答えを待っていると、やがて弱々しい声で否定した。
「何でもありません……。もうすぐお夕食の時間です」
 私は「しかし」と言いかけたが、貴穂は素早く一礼すると「失礼します」も言わずに私から離れていった。
 一体どうしたというのだ。最初に彼女の顔を見たときは、また死体でも出たのだろうかと不安になったのだが。
 洗面所に寄り顔を洗ってから、私は食堂へ向かった。
 食堂に入った途端、全員の視線が私に集中した。すでに私以外の全員が揃っているようだ。そう思っていたのだが、よく考えてみると友音の夫である千秀の姿がないではないか。この館に来てから千秀とは一度も顔を合わせていない。
 椅子に座ると待っていたとばかりに宮島と末真が全員の前に皿を並べてゆく。配膳に末真が加わっているのが意外だったが、配膳が終わった後で貴穂が食堂に姿を見せ、その後厨房の奥から末真が嫌みったらしく説教をしている声が聞こえた。貴穂が仕事をさぼっていたせいで末真が駆り出されたようだ。あの男に自分の食事を触らせるのは正直ぞっとしない。末真の味方をするわけではないが、一体何をしていたんだと貴穂を責める気持ちが私にもあった。
 配膳がなされる間、友音から千秀の体調不良と夕食の欠席が報告された。一同の顔を伺ったが、大げさに心配そうな表情を作っているのは泡路だけで、花香も雛夜も、私が意外に思うほど平然と千秀の病状を聞いていた。
 夕食は牛肉の入ったスープに鮭のムニエルだった。
 和やかに食事が進む間、私は黙って食事を咀嚼することに心血を注いでいた。会話から外れてしばらく黙っていた鏡一郎が、私の方をじっと見ていた。
「先生、顔色が優れないようですが……」
「あら、言われてみれば確かに。どうなさったんですか?」
 鏡一郎の指摘を聞いて、友音も私の顔を見ていた。私は何でもありませんと答えて、居心地の悪さを隠すためにグラスの水を飲んだ。ちらりと泡路の方を盗み見ると、夕食に参加している面々の中でただ一人、自分の前に葡萄酒の入ったグラスを置いていた。飽きもせずに葡萄酒を飲み、雛夜の方に熱っぽい視線を送っている。
「馴れない水を飲んでお腹を壊したのではありませんの?」
 雛夜は泡路に気づいていないのか、いつもの澄ました顔でそっけなく言った。皮肉のような口調であったが、鏡一郎は相変わらず笑みを浮かべてなるほどと頷く。
「なるほど。その可能性は十分にありますね。僕も渡米したときは、水を飲んで腹を下したことがありました」
 雛夜のことだからまた皮肉の一つでも返すのかと思ったのだが、意外なことに鏡一郎に対しては小さく頷き返すだけであった。
「そういえば鏡一郎くんは留学していたんだよね。どうして留学しようと思ったんだい?」
 私はこれ以上彼らの注目を集めるのが嫌で、少し強引に話題を変える。
「高校時代に向こうの大学から招待されたのです。母が死んで、父が仕事で家を空けることが多くなって、思い切って海外に出てみようと決めました」
「素晴らしい! 俺も若い頃は世界に野望を抱いていたもんだ」
「それで、実際に海の外に行って、どうだったんですか?」
 泡路のことをまったく気にすることなく花香が小さな声で質問した。そこまで露骨に無視するとさすがに私も肝が冷える。
「世界中の人が集まっていたので、色々な価値観に出会えたのは良かったですね。それから世界の最先端の研究に携われたのも、僕にとっては幸運でした。向こうの大学は日本よりもずっと研究が盛んでしたよ」
「ちょっと待ってくれ。大学の方から招待されたのか?」
「はい」
「どうして?」
「さあ。招待したのは僕ではありません」
「静川さんは八歳のときに微分積分を完璧に理解していたらしいですわ。アメリカに発つ前、日本では神童と呼ばれて話題になったこともありましてよ?」
「そうなんですか。初めて知りました」
 記憶を失っているから、とは言わなかった。雛夜はさらに得意げな顔で続ける。
「大学時代は電磁波の研究をなさっていて、有名な海外の学会から論文賞をいただいたほどですわ」
「正確には電波工学ですね。それに、論文賞は僕だけの功績ではありません。共同研究者が優秀だったのです」
「それでも、静川さんの功績は大きかったのではありませんこと?」
「賞をもらうことが研究の目的ではありません」
「謙遜なさるなんて、静川さんは人格者ですのね」
 なぜか得意げな表情で雛夜は続ける。
「それに静川さんは勉強だけではなくて、流行にも詳しいんですの」
「父が芸能関係の仕事をしていたものですから、その繋がりで、僕の耳にも世間の流行の話が聞こえてくるというだけです」
「でも静川先生は歌や服にとっても詳しいですよね。あと、今都会で何が流行ってるとか」
「花香さんだって流行作家だったじゃありませんか。流行を追いかける僕よりも流行そのものであるあなたの方がずっと価値がありますよ」
「いえ、そんな……。わたしはただ、流されていただけですから」
 花香が謙遜する横で、雛夜は忌々しそうな視線を花香に送る。
 そういえば、と鏡一郎は私の方を手で示した。
「先生は東京からいらっしゃったんですよね。それに作家ですから、世情のことも良く伝え聞くのではありませんか?」
「ね、ねえ静川さん。今都会ではどんな歌手が流行っているのかしら? わたくし、知りたいですわ」
 鏡一郎への質問に答えようとした私を遮って、雛夜は早口にまくし立てた。鏡一郎は雛夜のことを一瞬だけ冷たい目で見てから、いつもの柔和な表情を作って、質問者とは対照的なゆっくりとした口調で返事をする。
「そうですねえ……。今年の春から『エコーズ』という人たちの歌が売れていますね。男性三人組のバンドなんですが、若い学生の間で流行しているそうです。来年からは大がかりな演奏会を開くそうですよ。それから今はまだ有名ではありませんが、篠坂緋色という歌手が、関西の方で注目を集めています」
「それから、トシトシ」
 里理が突然口を利いた。あまりにも珍しかったので食事の手を止めて里理の話に耳を傾ける。
「富樫敏也ですか。確かに人気ですね。最近は落ち目だと言われていますがまだまだ人気は続くでしょう」
「『エコーズ』が解散するって本当……?」
「そういう噂が流れてますね。しかしあれはただの噂ですよ。ここだけの話、今年の冬に新しいメンバーが加わるという話があるので、それが歪められて伝わったのでしょう」
「それって、昔『ドールズ』でベースをやっていた人?」
「リエット・コバですね。いえ、彼は音楽を辞めて、今は完全に裏方に回っていますよ。新メンバーに関しては色々な憶測が流れていますが、どれもいい加減な、根拠のない説です」
「噂といえば、『雛菊』の天治勝と作詞家の城内次郎」
「同性愛疑惑ですか……。正直言って、ただのファンの妄想だと思いますが」
「絶対に出来てる」
 フンス、と鼻息荒く里理が断言した。
 鏡一郎は苦笑している。私は呆然としている。他の面々の表情も、似たようなものであった。
「里理ちゃんは、歌に詳しいんだね」
「それほどでも」
 私の発言に里理はそっけなく答える。里理と初めてまともに会話が成立した、記念すべき瞬間である。
「ファンなんだね」
「『月刊歌謡』は毎週読んでる」
 聞いたことのない雑誌だ。
 私たちの会話を聞いて、さきほどから黙っていた泡路ががははははと大きな笑い声を上げた。
「我々には最近の歌はさっぱりですな!」
 そう言って私の方を見る。仲間だと思われているのが不愉快だったが、私が流行歌に疎いのは事実である。花香が不思議そうに首を傾げた。
「先生は音楽はあまり聞かないんですか?」
「ええ、そうですね……。最近のものはさっぱりです。懐古主義ではないのですが……。機械も、新しいものはさっぱりです。我ながら化石のような人間ですね」
「たしかに。先生はかなり古めかしい格好をしていますし。古き良き小説家、という風情ですね」
 友音が感心した風に言ったが、皮肉ではないのかと勘繰りたくもなる。
 食卓の面々が主菜を片付けたところで、宮島と貴穂が空いた皿を下げに来た。貴穂が私の皿を運ぼうとしたときその顔を間近で見たが、彼女の顔は洗面所の鏡で見た私の顔よりもずっと青ざめていた。
「あの――」
 小声で貴穂を呼び止めたとき、彼女の指から皿がするりとこぼれ落ちた。一瞬の耳障りな音を立て、私の足下で皿が砕け散る。
「貴穂。何をやっているの」
「す、すみません」
 貴穂は友音に深く頭を下げる。その頭が上がりきらないうちに友音が言った。
「わたしにではなく先生に謝りなさい。あなたは自分の不始末が誰に迷惑をかけているかも分からないの?」
「……申しわけ、ございません」
 消え入りそうな声で私に言った。
 私は「大丈夫です」と答えて、なおも謝り続けようとする貴穂を、宮島に言って強引に奥に連れて行かせた。
「先生、本当にごめんなさいね。わたしの使用人が無礼を働きました。お詫びいたしますわ」
「いえ。友音さん、私は気にしませんから」
 私が慌てて言うと、下げかけた頭を友音はぎりぎりのところで止めた。
 そのとき厨房の奥で鍋か何かをひっくり返す騒々しい音が聞こえた。デザートのメロンが乗った皿を運んでいた宮島が慌てて厨房に引き返すと、貴穂の謝る声がこちらにも聞こえてきた。
 貴穂の『不始末』はこれだけに留まらなかった。泡路のグラスに葡萄酒を注ぐときも心ここにあらずといった風で、グラスから葡萄酒が溢れて机を赤に染めているのにもしばらく気がつかなかった。その葡萄酒を拭こうとして隣に座る雛夜のグラスを落として割ってしまい、さらに空いたデザートの皿を回収するときにも一枚割ってしまった。
 さすがにここまで『不始末』が続くと私も「気にしません」とは言えなかった。グラスを割られて服に水を掛けられた雛夜がずっと貴穂をなじっていたが、この場合は明らかに貴穂に落ち度があるために弁護のしようがない。
 そのうち末真が来て貴穂のことを大声で罵り始めた。
 しかし罵り方に品がなかったせいで友音に窘められてしまい、末真はすごすごと尻尾を巻いて退散してしまった。
 私は何度か泉多喜子の表情を伺っていたのだが、妹の失敗を何度目の当たりにしても、末真に罵られているときも、必死に頭を下げて謝っているときも、彼女の表情はほとんど変わらなかった。
 デザートも平らげ、そろそろ解散という流れである。思い出した話題を口にした。
「そういえば、次女の霧坂思織さんは――」
 そこまで言いかけたところで、私は次の言葉を飲み込んだ。
 霧坂友音。霧坂雛夜。霧坂花香。霧坂里理。四人の視線が同時に私に向いた。泉多喜子も、静川鏡一郎も、泡路影頼も――みんな、私を見ている。心臓を鷲掴みにされたみたいで、呼吸が荒くなった。汗が噴き出して、正面を見ていられなくなる。この場にいる全員が、人間ではない、何か別の化け物になってしまったみたいで、私はこの場にいるのが突然恐ろしくなった。
「あの、思織さんは、一体どうなされたのですか? 巷では色々な噂が流れていますが――」
「申しわけございません。先生、このような席でそのような話題はご遠慮ください」
 強引に続けようとした私を多喜子がぴしゃりと遮った。友音の方を見たが、今度は私を助けてはくれなかった。
「ごちそうさま」
 沈黙を破ったのは里理だった。素っ気なくつぶやいて、椅子を引いて立ち上がった。それに続くように雛夜も立ち上がる。友音と多喜子も食堂を出て行く。にこにこと笑いながら鏡一郎が。泡路はいつもの陽気な調子を装って。最後に花香が、私に何か言いかけたような気がしたが、結局何も言わずに出て行った。
 全員の姿が消えて、私はやっと胸を撫で下ろした。


***

 部屋に戻ってからも、私はあの場での彼女たちの反応が気になっていた。
 霧坂思織の名前は禁句らしい。
 霧坂家の人々は一体何を忌避しているのだろうか。
 そんなことを考えながら今日の分の日記を書いていると、誰かの気配がして私は筆を止めた。耳を澄ますと、扉の向こうで足音が聞こえる。絨毯に音を殺されて、どんな人物の足音なのかは分からない。
 扉の下に紙が差し込まれているのに気がついた。
 原稿用紙を半分に切ったような大きさの白い紙である。紙自体は特に高級というわけではなさそうで、友音からもらった手紙と比べればその点ではずいぶんとそっけなくて事務的だ。文面はさらに事務的である。

 蔵で待つ

 紙の中央に、縦書きでただそれだけが書かれていた。万年筆で書かれた文字である。私は友音からもらった招待状を取り出して文字を比べてみたが、この謎の手紙は友音の文字よりもずっと力強い。止め、跳ね、払いがしっかりと書かれていて、読み取ることにもっとも特化させた実用的な価値観を見てとれる。
 文字を見た限りは明朗で、近代的な人格が想像できた。必然的に夕食の席での貴穂の狼藉を思い出して、手紙の主が彼女ではないかと私は推測した。
 扉を開けて廊下を覗いてみるが、当然ながら手紙の主はすでに立ち去った後である。
 彼女は今、蔵に向かっているのだろうか。
 しかしなぜ私を蔵に呼び出す必要があるのだろうか。話があるのならここに来ればいいのに。現に、彼女は手紙を渡すために、部屋のすぐ前まで来たではないか。
 私は手紙の主の真意を測れずに、しばらく手紙を手にしたまま、部屋の中を無意味に行ったり来たりしていた。
 念のため、例の鉛筆を削る刃物を懐に忍ばせてから、私は部屋を出た。


***

 裏口から外に出る。館の外が真っ暗であったことに違和感を覚えた。いや、夜であれば、外が暗いことに間違いはない。
 館の中は朝から晩までずっと照明が点いていて、時間の変化を全く感じさせないのだ。前に外に出たのは昼で、そのときはぼんやりと太陽が見えていた。夜になると、館の明かりは外に漏れないし、霧で空も覆われているので、都会の夜空よりもずっと暗いのだ。
 外の空気は相変わらず冷たく、湿っている。深呼吸すると、肺に土の香りが広がった。
 建物から離れて蔵の方に歩いてゆく。明かりがないので、目が慣れるまでしばらく時間が必要である。
 蔵のそばに立って館の方を振り返ると、ほんのわずかであるが、窓からうっすらと光が漏れているのが見えた。暗幕で塞いでも生活の光を完全に遮ることはできないのだ。しかし霧の具合が変わればたちまち見えなくなってしまうか弱い光量だ。
 それにしても、どうしてあんな風に光を隠そうとするのだろうか。人が住んでいることを隠しているかのようだ。山の怪物を光で引き寄せないように、じっと息を殺して生きているみたいな……。
 蔵には鍵が掛かっている。窓から中を覗き込んだが無人である。手紙の主はまだ来ていないようだ。
 そのとき、背後から誰かの手が私の肩を叩いた。
「ひっ」
 喉の奥で息が漏れるような悲鳴がこぼれた。
 力強く私の肩を掴んだ手が、有無を言わさずに私の体をその場に固定していた。私はゆっくりと振り向いた。
「やあこんばんは。待ちくたびれたよ」
「……どうしてあなたがここに」
 私は掠れた声で泡路に言った。
 泡路は闇の中で下品な笑い声を小さく上げる。闇の中で浮かび上がる達磨の笑顔は恐怖という他ない。私は後じさろうとしたが泡路の手は未だに私の肩をがっちりと掴んでいた。懐に忍ばせた刃物の存在を意識する。
「そう警戒なさんな。手紙の呼び出しに応じたということは、先生だって興味があるんだろう?」
「何の話ですか」
「あんた、霧坂家のことを嗅ぎ回ってるみたいじゃないか。さっきの夕食のあれは一体何だ。あれじゃ、あんた殺されたって文句言えないよ」
「殺されるだなんて。私はただ、霧坂思織さんのことを訊いただけですよ」
「へへへ。あんたは初心な人だ。そういう安っぽい正義は俺も嫌いじゃないよ。でもそういう奴はね、早死にするもんだぜ。樫木の爺さんみたいにな」
「樫木さんが殺された理由を知っているのですか?」
 私が泡路に詰め寄ると、彼は片手を挙げて話を遮った。
 泡路はポケットから紙巻き煙草を取り出し、口にくわえる。マッチの箱から一本取り出すと、私の目の前で煙草に火をつけた。暗黒の世界に橙の光が広がった。あまりにも眩しくて、私は視線を逸らした。
 泡路はマッチの燃えかすを地面に落として足で踏みつぶす。煙草の先がじりじりと微かな音を立てて赤く燃える。横を向いて煙を吐き出す。泡路の息遣いと煙の臭いが近い。せっかく暗闇に慣れた目が、少しの時間光に対して鈍感になってしまう。
 泡路の煙草を吸う動作が私にはひどく焦れったく思えた。怒鳴って話の続きを急かしたくなるのをぐっと堪える。
 しかし当人は、ぼんやりと屋敷の方を眺めて、嘆くようにつぶやいた。
「すっかり真っ暗じゃねえか。昔はこうでもなかったんだが……」
「というと?」
「あんなふうに窓を塞いじまったのはここ何年かの話だってことだよ。そう……三年ほど前かな。花香お嬢様がまだ東京にいた頃だ。突然千秀さんが、窓を塞ぐように使用人に命じたんだ。……いつもは冷静で筋道を通す人なんだが、ときどきわけの分からないことをやる。まあ、俺は霧坂家の人間が普段何をしているかも知らされていないんだがな……しょせん客人というわけだ。けど先生は違う」
 煙草の橙の光がスッと動き、私を指した。
「あの男は古物商と名乗っていたが、俺は警察じゃないかと睨んでる」
「樫木さんが、ですか?」
「証拠があるわけじゃねえ。半分は勘だ。おっと、俺の勘を甘く見て欲しくないね。これでも色々と……警察に嗅ぎ回されるような立場だからな。そういうのには鼻が利くんだ」
「もう半分は?」
「霧坂家のことをこそこそ嗅ぎ回ってたんだ。警察じゃなきゃスパイか、探偵か……」
「一体どうして警察が?」
「そりゃ、あれだ。霧坂家にだって探られちゃ困るどす黒い腹があるってことだ。戦前からこの国の中枢に食い込んでいた霧坂一族が、まさか清廉潔白な殉教者だったとはいくら世間知らずな先生でも思ってないだろう?」
「しかし……」
 今の霧坂家にそんな力があるとは思えない。霧坂家の全盛期はすでに過ぎ去っていて、今は古い洋館で慎ましく暮らすだけの、言葉は悪いが『終わった一族』であるはずだ。
「そもそも俺がどうしてここに招かれたか知っているか? 俺の商売がどうして成功したと思ってる? 俺の会社はな、警察や行政の規制を、全部素通りできるんだ。入札も税金も、全部下駄を履かせてもらってる。そりゃあ俺が勝つはずだな。同業者はみんな重りを背負って走ってるようなもんだ。それも全部、霧坂家に貢ぎ物をしたおかげだ」
「貢ぎ物?」
「おっと、詳しくは話せないね。そういう取り決めだ……。それに大事なのは俺が霧坂家に売った商品のことじゃない。霧坂家が、見返りに警察や行政に手を突っ込んでいるってことだよ。つまり、霧坂家の影響力はこの国の中枢、政治、警察の奥深くにまで食い込んでいるってことだ。昨日ここで殺人事件が起きたが、霧坂がその気になれば、事件なんかいくらでももみ消せる」
 泡路は蔵の壁を手で突いた。指に挟んだ煙草の火が橙色の線を描いた。
「どうして私にそんな話を?」
「先生が知りたいだろうと思ってね」
 煙草を吸うと、燃焼の音が聞こえた。この山は夜だというのにずいぶんと静かだ。微かに虫の鳴く声が聞こえるばかりである。
「先生は事件のことを調べている」
「そうです」
「それは何故だ?」
「何故、って……」
 私は考えを巡らせた。本心を答える気などなかった。
「小説家としての性かもしれません。謎があると、真実を探ってみたくなるのです」
「ついでに霧坂家の真実も調べてるのか? 霧坂思織がこの事件に関係しているのか?」
「そういうわけではありませんが」
「先生はどうして霧坂思織にこだわるんだ?」
「いえ、別にこだわっているわけではありません。ただ何となく、気になっただけで」
 こちらは本心だった。確かに霧坂家の次女が消えた真相については気になるが、今回の事件と関係があるとは思えなかった。
 いや、無意識のうちに、私は関係があると考えていたのだろうか。そもそも何が関係していて何が無関係なのかまるで手探りではないか。私の周囲を覆っている霧のように、どこまでが此岸でどこまでが湖岸なのか、何も見えていないのだ。
 泡路の嫌らしい笑みが暗闇に浮かんでいた。私は腹が立って、表情を殺して泡路を睨んだ。彼に私のことが見えているかは分からない。
「俺はこれ以上、霧坂のことを探ったりはせん。命が惜しいからな。だからもし先生が霧坂家のことを調べたいのなら、俺のいないところでこっそりと調べてくれ。その代わり俺は、知っていることを全部先生に話したんだ」
「何故?」
「俺も知りたいからだよ。この歳になっても、好奇心ってやつはどうにもならん」
 わずかに苦笑してみせた。
「それに、先生に聞きたいことがある」
「何です?」
「末真から聞いたが……先生は昔の記憶がないらしいな。その記憶は、見つかりそうか?」
「もったいぶらないでください。何を言いたいのですか?」
「俺は、先生は霧坂思織に思い入れがあるんじゃないかと思っている。つまり、霧坂思織の失踪には先生の失われた記憶が絡んでいるのではないかと。霧坂思織が生きているにしろ、死んでいるにしろ」
「私が思織さんと、面識があったと?」
「でなきゃ、あなた自身が、霧坂思織だという可能性だな」
 ――空白。
 心臓が激しく鼓動した。
 何も考えられなかった。抜け殻のように、泡路の言葉に耳を傾けることしかできなかった。息が詰まりそうなほどに苦しい。
 泡路は冗談でそんなことを言ったわけではなさそうだった。達磨の細い眼は、暗闇の中ではとても恐ろしく見える。

「ねえ……来根美代子さん」

「はい」
 泡路は私のことを名前で呼んだ。もちろんこれは本名ではない。記憶を失った私が、施設で授かった名前だ。未だに呼ばれると、返事が遅れそうになる。違和感が常につきまとっていた。
「思織お嬢様がまだ生きてたら、ちょうどあんたくらいの歳の美女になってるはずだ」
「私なんて、友音さんに比べたら」
「それは冗談か? 霧坂の三姉妹と良い勝負だぜ、あんた……」
 一瞬泡路の瞳が怪しく光ったが、そんなものに構っている余裕などなかった。
「先生はここを見て何か思わなかったのか? 妙に懐かしかったり、見たことのない風景が浮かんだり」
 ――地下室のうなり声。
 既視感。どこかで私は、それを見ていた。見たのだ。聞いていたのだ。その部屋を、私は知っている……。
「まったく。この湿気はどうにかならんかな」
 泡路の独り言を聞いて私は我に返った。彼は足下に煙草を落とすと爪先で踏みつぶした。
「私は――」
「いや結構。俺自身も、馬鹿らしい話だとは思っているんだ」
 私が何か言おうとするのを泡路は片手を挙げて制した。
「とにかく、そういうことだ。宝探しなら俺を巻き込むな。先生の無事を祈ってるよ。お休み」
 一方的に話を切り上げて、泡路は私に背を向けて去っていった。すぐにその後ろ姿が霧に消える。その瞬間に私は孤独になった。ここから少し離れれば、霧がたちまち私の視界から蔵を隠してしまうだろう。そうすれば、きっと私はさらに孤独になれると思った。
 泡路の吐き出した煙草の残り香だけが残っていた。
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