第三章

謎は感情であり人間の主観である/叙述に嘘は含まれていません


 翌朝の目覚めは好調とは言い難いものであった。眠気はないのだが頭がぼんやりとしている。まるで靄がかかったみたいに思考を妨げる。目を覚ましてからしばらくじっとしていたが、それでも一向に頭が冴える気配がないので今日はこの体調で我慢することにした。
 見苦しくない程度に身だしなみを整える。私は部屋を出て食堂へ向かった。
 食堂には雛夜と入れ違いになった。すれ違うときに挨拶すると、彼女の方も軽く会釈を返した。すでに朝食を終えたのだろう。今日も自分の美をひけらかすような派手な衣装だった。
 霧坂屋敷の決め事として、夕食は一同が食堂に会さなければならないが、それ以外の食事に関しては自由な時間に注文することができる。食堂の中では花香と里理が食事をしているだけで、昨晩の光景と比べるとずいぶん寂しく感じられる。しかし花香と里理の座っているあたりに言いしれぬ華やかさを感じた。
「あの、ここ、よろしいですか?」
 二人に近づいたときはいささか緊張を覚えた。勇気を出して申し出ると、花香はうつむきながら、しかし小さく頷いて同席を許可してくれた。里理の方は私と花香のやりとりに全く関心を示さず、ひたすらパンを小さくちぎっては口に運んでいた。
 私が二人の隣の席に着くとすかさず宮島や貴穂が料理を運んできた。そのとき料理を載せた銀色の台車が目に着いたが、二人には何も言わなかった。
「ほ、本日の朝食は、南瓜のクリームスープと、ソーセージに、人参のソテー、と、これは、目玉焼きです。パンは、あの、自由に取ってください。あ、あの、飲み物は、オレンジジュースで、いいでしょうか」
 言葉をつっかえながら宮島が案内した。私は薦められるままオレンジジュースを頂いた。
 ナイフとフォークで食べる朝食は新鮮だった。これまで家で食べる朝食は大抵の場合もっと貧相で、米を炊いたものと漬け物、金に少し余裕があるときはそれに味噌汁が付く形だった。豪勢で味も悪くなかったが、こうも洋食ばかり続くとたまには米が恋しくなる。
「この家では、ずっと洋食なんですね」
 私は二人に話しかけたが、どちらからも反応はなかった。落胆して自分の食事に戻ろうとしたとき、花香の方が慌てて顔を上げた。どうやら自分が話しかけられているとは思わなかったらしい。里理の方は、たとえ自分が話しかけられていると知っていたところで無視していたかもしれない。
「そうですね。ずっと洋食です」
「しかしずっと洋食が続くとたまには和食が食べたくなりませんか?」
「そ、そうですね、すみませんでした、後で料理人に注意しておきます……」
 最後は消えそうな声だった。別に苦情を言ったつもりはないのだが。迂闊なことを言わなければよかったと激しく後悔する。
「その。実は私、花香さんの詩集を、読んだことがありまして」
「え? あ、あの、ありがとうございます」
 私が突然こんなことを告白したものだから、花香は戸惑った様子で慌てて頷いた。
「その、あの、いえ、私なんかがこんなことを言っても、何様のつもりと言うか、おこがましいのでしょうが、その」
 私は伝えたいことが多すぎてしどろもどろになっていた。
「す、素晴らしい詩集でした」
「はい」
「『愚か者の詩歌』が一番好きです」
「あの、わたし、それしか本を出してないので……すみません」
「いやあのそういう意味ではなくて、ええと、一番好きというのはこの世の中にあるすべての本の中で一番好きだということです」
「あ、いえ。そんな……恥ずかしいです」
 まるで女を口説く文学青年みたいな物言いになってしまい、花香は顔を真っ赤にしてますますうつむいた。これではまるでいじめているみたいではないか。花香の隣で里理が呆れたような視線を私たちに送っていた。
 それからしばらく、花香の詩集がいかに素晴らしいかについて私は熱く語った。半分自棄になっていたのである。花香は私が賛辞の言葉を贈る度に飽きもせずに顔を真っ赤にして頷いた。
「しかし花香さんは、どうして作家を辞めてしまったのですか? あんなに素晴らしい詩を書けるのに」
「父も病気がちですし、家の手伝いもしなければいけませんから……」
「手伝い?」
「ええ、まあ。今は勉強中ですけど」
「鏡一郎くんが家庭教師をしていると聞いたのですが、一体何を教えているのですか?」
「静川先生は色々と教えてくださいますよ。海外の大学で最先端の研究をしていらっしゃった方ですから。専門的なことも、そうでないことも。わたし、学校に通っていませんから」
「ということは……作家を辞めてからは、ずっと家に? 外に出たいとは思わないのですか?」
「わたし、別に外に出たいとは思いません。外にないものが、ここにはたくさんありますから」
「例えば?」
「ここには、家族がいます」
 即答した花香は別段幸福そうには見えなかった。家族がいるから、仕方がない――とでも言いたげな、何かを諦めた表情を一瞬だけ見せた。
「それに作家を辞めたからと言って、詩を書けなくなるわけではありませんから……。わたし、今でも詩は書いているんですよ?」
 慌てて取り繕ったが、一度感じた印象はそう簡単には拭い取れない。
「でもせっかく作った花香さんの詩が誰の目にも触れずに仕舞われるのはもったいない気もしますね」
「そんなことありません……。わたしなんかが書いたものを、別にみんなに見せなくても」
「花香さんは……その、自分の書いたものを誰かに見てもらいたいという欲求はないのですか?」
「自分の気持ちや感性を、誰かと共感したいという気持ちはあります。でも……わたし、ちょっとだけ作家をやってて、気づいたんですけど、それって無理なんです」
「無理、ですか?」
「はい。色んな人に誉めてもらったり、逆に、色んな人に貶されたりしましたけど。みんな誰も、わたしの気持ちなんて分かってくれなかったんです。あの詩はそんなつもりで書いたんじゃないのに。……ごめんなさい。先生に言うことじゃないんですけど」
 花香は申しわけなさそうにぼそりと私に言った。
「いえ、そんな、とんでもない。あの、私の方こそ、下手な読み方しかできなくて、すみません」
 それを聞いて私は急に恥ずかしくなる。ついさっき、私は花香の詩を絶賛していたのである。自分の解釈まで添えて。情けなさに自分を殺したくなった。今日ほど自分を殺したいと思ったときはない。いつも思っているが、今日の殺意は格別だった。
「それに、私のことを先生と呼ぶのはやめてください。私なんかよりも花香さんの方がずっと先生と呼ばれるに相応しい」
「わたしはもう作家じゃありませんし……。先生は現役なんですから、やっぱり先生ですよ。死んだ大作家よりも生きている小作家です。……あ、あの、別にわたしのことを大作家と言っているわけではなくて、あの……」
「ものの喩えですね」
 私は苦笑して答えたが、小作家であることはお互いに否定しなかった。大だろうが小だろうが、作家という分類に滑り込めただけで十分だ。実のところ、お前はすでに作家ではない、と言われても仕方がないような人間なのだ、私は。
「先生は昔の記憶がないんですよね?」
「……よくご存じで」
「貴穂さんから聞きました。昔の記憶がないって、どんな感じですか?」
「それ、昨日も聞かれましたよ。どんな感じと言われても、私にとっては記憶がない状態しか経験したことがありませんからね。もしかしたら記憶のある状態、記憶のない状態両方経験したことがあるのかもしれませんが、どちらにしろ現在記憶をなくしているので、両方思い出せない状態です」
「面白いですね。言葉遊びです」
「遊びの域を出ていないから、私は売れないのでしょうけどね」
 自分への皮肉を込めてつぶやくと、花香は手を口に当てて小さく笑った。笑う仕草ひとつ見ても可憐である。里理は退屈そうに欠伸をしていた。
「先生は、魂は肉体と精神、どちらに宿ると思いますか?」
「唐突な質問ですね」
「あ……すいません。あの、忘れてください」
「あっ。いえ、別に非難したわけではありません。唐突なのは大好きです。そうですね、魂ですか。そもそも魂が何なのか、によると思いますけど」
「先生の好きな方で、解釈してください」
「では、勝手に解釈して……自分が間違いなく自分であること、自我連続性とでも表現しましょう。それが魂の定義だとします。少なくとも肉体ではないでしょう。事故で腕を失くした鉱夫が、事故の前と後で別人であるというのはちょっと違和感がありますから」
 花香はこくりと頷いた。私のことを真剣に見つめている。まるで私が彼女の家庭教師になったみたいだが、筆力においても専門知識においても、彼女の方が私よりも何枚も上である。
 話の続きをしようとしたところで、貴穂が私と花香の前にある空の皿を下げた。その間の沈黙に、次に語るべきことを整理する。
「では自我の連続性は何によって保証されるかというと、それは精神です。記憶と言い換えてもいいでしょうか。昨日の自分を今日の自分が覚えていることによって、初めて自分は昨日の自分と同一であると確信することができるのです」
「もし記憶や感情に魂が宿るのなら、わたしが書いた詩にはわたしの魂が宿っているのかな」
「人が自分の心を共有しようとする原動力は、それが理由だと私は思います」
「それじゃあ、東京の印刷所はわたしを印刷しているんですね。そしてわたしはわたし自身を売って印税をもらっている」
 花香は小さな毒を見せて笑った。当たり前だ、ただの少女があんな詩を書けるはずがない。
「もし記憶に魂が宿るのなら、人と人との会話は、相手に自分の魂を乗り移らせる行為なんですか?」
「同時に、相手の人格の一部をこちらに引き受ける行為でもある」
 私は花香に答えた。
 花香は考える素振りをする。やがて花香の瞳は眼鏡のレンズ越しに私を捕まえ、彼女は鼻から小さく息を漏らした。
「色々と矛盾しているところもありますが、面白い意見だと思います。……あ。あの、別に、先生の意見が間違っているって言いたいんじゃなくて、あくまで個人的に、その、そう思っただけで」
 私は首を振って応えた。あの霧坂花香から「面白い」という言葉を引き出しただけで私は十分に幸福だった。できればこんな空論ではなくて、小説で引き出したかったが。それはあまりにも分不相応であった。
 食後の紅茶を飲んで、喉を潤わす。花香も同じように紅茶を口に含む。私は、未だにほとんど口を利いてくれない里理のことが気になった。
「里理さん、ずっと黙ってるけど、もしかして退屈していませんか?」
「いえ。里理はずっと無口ですけど、不機嫌というわけではありませんから」
 里理の代わりに花香が答えた。里理には最初から私の言葉に答える気がまるでないようだ。
「里理さんは、今は学生ですか?」
「一六ですが、学校には通っていません。わたしも学校には通っていませんでした。必要なことはすべて静川先生に教わっていますから」
「必要なこと?」
「ここで生きていくのと、世間で生きていくのとは、少し勝手が違いますから。学校は世間で生きるために通う場所です」
 どう勝手が違うのだろう、と私は疑問に思ったが、質問はしなかった。
「静川先生は去年まで海外の大学にいらっしゃったんですよ」
「ほう。それにしてはずいぶん若そうに見えましたが」
「飛び級で進学なさったそうですよ。何でも、あちらの学会ではちょっとした有名人だったらしいんです。大学ではパイソンを使った研究をなさっていたそうですね。それで、十年に一度の天才と評されていたとか。お母様がその評判を聞いて、ぜひわたしたちの家庭教師にしたいと、大学卒業が決まっていた静川先生を日本に呼び寄せたんです」
「優秀な人なんですね」
 月並みな感想だったが、あの得体の知れない男のことだ、その程度のことでは今さら驚かない。たとえ静川鏡一郎が吸血鬼だったところで私は驚かなかっただろう。ただの一般市民だと聞けば、少しは驚くかもしれないが。
 そのとき、廊下から騒がしい声が近づいてきた。
「これはこれはお嬢様方。ご機嫌麗しゅう。さあ使用人ども、さっさと朝食を持って来い!」
 上機嫌に喚き散らしながら、泡路影頼は飛び降りるように椅子に座った。顔を見ると、頬がほんのりと赤い。言動から推測すると、どうやらこんな朝っぱらから飲んでいるらしい。昨晩あの男に絡まれたのを思い出して一気に嫌な気分になった。
 泡路の前に料理が並ぶより先に花香と里理が立ち上がった。私に一礼して食堂を出る。泡路の方には何も言わなかった。泡路は貴穂と宮島を大声で呼んでいた。まったく、下品な男だ。この館の上品さに相応しくはない、と私は嘆いた。災難が及ぶ前に、私はこっそりと食堂を抜け出した。もちろん泡路に挨拶はしなかった。


***

 自室に戻ってからしばらくは本を読んでいた。本を読んでいる限りは窓が暗幕で締め切られていることも気にならない。
 しかし寝転がって本を読んでいると妙な気分になってくる。果たして自分はこんなふうに遊んでいていいものだろうか。もちろん友音がそれでいいと言ったからこうしているのだが、しかし突然こんな美味しすぎる状況に放り込まれると妙な罪悪感というか危機意識みたいなものが芽生えてくるものである。
 落ち着かなくて私は本を閉じた。
 しかし私が落ち着かなかったところで突然仕事が貰えるわけでもない。それともあの男のように朝から酒でも飲んでいれば、見かねた友音が何か雑用でも押しつけてくるだろうか。
 何をしても良いと言われると逆に何もできなくなるようだ。散歩でもしようかと思い立ち部屋を出た。
 迷いながらも館の外に出る。扉を開けた途端、冷たい湿った空気が私の鼻をかすめた。
 深呼吸しながら館の庭を歩く。辺りは濃霧である。館から離れるとたちまち霧に溶けて壁が見えなくなった。この分では警察が来るのは当分先になりそうだ、と霧を吸い込みながら私は考えた。
 昨日のことを思い出して、好奇心から、私は先日の蔵を覗いてみることにした。視界が不自由な中で蔵まで辿り着くのは難儀だったが、いざ辿り着いたところで、蔵には南京錠がかかっていて中に入ることはできなかった。昨日と同じように窓から中を覗いてみても、どうやら死体はすでに片付けられてしまったらしい。床に死体はなく、死体のあった場所にはわずかに染みが見えた。友音は一体あんなものをどこに移したのだろうと不思議に思った。
 そのとき、霧の向こうから女の声が聞こえた。恐怖を感じてぴたりと体を強張らせる。しかしよく聞いてみれば、それは貴穂の声であった。だがどうも様子がおかしい。助けを求めるような、悲鳴混じりの声である。私は急き立てられるようにその声へ向かって歩いた。ちょうど館の方向である。どうも裏手から聞こえてくるようだ。
 館をぐるりと回って声のする方へ行き、とうとう目の前となったところで、声の主を目視することができた。無言のまま物音も立てずに近づいたため、相手の方も今まで気づかなかったようである。突然霧の中から現れた私を見て驚いていた。
 そこには貴穂と末真がいた。貴穂は竹箒を持っており掃除の途中であるのが分かる。一方の末真は掃除をするわけでもなく、貴穂の肩を手で掴んでいた。大方、貴穂が強く拒否できないのをいいことに強引に言い寄っていたのだろう、と私は踏んだ。
「あの、すみません」
 泣きそうな貴穂と凍り付いた末真に対して、私は場違いなほどのんびりとした声をかけた。
「蔵に入りたいのですが、鍵を開けてください」
 続けてそう言ったとき、貴穂が末真から逃げるようにしてその場を去った。彼女が私のそばを通り過ぎたときも、私はずっと末真から目を離さなかった。これ以上貴穂に何かをするようなら多少強引でもあの男を止めるつもりだった。
「お前、こんなところで何をしてんだ?」
 やっと金縛りから復帰した末真が訊ねたのは、そんなつまらない質問。私はなるべく末真の気に触るように肩をすくませた。
「私がどこかに行くのに、あんたの許可が必要なのか?」
「お前が人殺しだってのは分かってるんだぜ。勝手に出歩くんじゃねえ。出歩きたいならこの俺様の許可を取るんだな」
「その必要はない」
「ああ?」
「友音さんの許可はもらっている。私は滞在中、自由に過ごすことができるはずだ」
「けっ。せいぜい気をつけるんだな。あんたを殺してやりたいと思ってるのは俺だけじゃないんだぜ」
「どういう意味だ?」
「そのまんまの意味だ。あんた、自分が奥様やお嬢様に気に入られてるとでも思ってるんじゃないだろうな? まったくおめでたいぜ。馬鹿につける薬はないな。きひひひ」
「そんなことを話に来たんじゃない。鍵を渡してくれ」
 末真は渋い表情をしてから「ちょっと待ってろ」と言い残して勝手口から館の中に入った。小さく「人殺し」とつぶやいたのを私は聞き逃さなかった。


***

 蔵の前でしばらく待っていると、末真が鍵の束を持って来た。鍵は鉄の輪にいくつもぶら下がっていて、彼はその中からひとつを取り出すと蔵の錠前に突っ込んだ。
「こんなに鍵があって、よく分かるな」
「俺は間抜けじゃないからな」
 末真が鍵を捻ると大きな音を立てて錠前が開いた。錠前を蔵の扉から外すとつっけんどんに扉を開いた。
「鍵はいつもあんたが保管しているのか?」
「どうして俺があんたの質問に答えなきゃならん」
「私の言うことをなんでも聞くように、友音さんからあんたに命令していただいてもいいんだぞ」
「けっ……。自分では何の力もないくせに、友音奥様に気に入られたのをカサに着てやりたい放題だな。あんたら余所者はどいつも性根が腐ってやがる。あんたを見てると自分が聖人君子なんじゃねえかと思えてくるぜ。……なあ、お前に忠告しておいてやるよ。友音奥様をあまり侮らない方が良いぜ。今は気に入られているからいいが、少しでも奥様の機嫌を損ねたら、お前みたいな風来坊、消すのは簡単なんだぜ」
「つまらない脅し文句だな」
「さて、どうかな。奥様が村の連中から何と呼ばれているか知っているか? ――霧の魔女だよ」
「魔女?」
「どうしてこのあたりに霧が出るか、知ってるか? つい最近まで、この地方には霧なんて出たことがなかったのに」
「まさか……ただの迷信だ」
「さて、どうだろうな」ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた。「けど、奥様に霧を出す力があるのは、本当だぜ」
 下品な笑みを至近距離で私に浴びせて、末真は立ち去った。途中振り返って「終わったら鍵を掛けとけよ」と言い残す。私の質問には答えなかったが。まったく、ああも敵対心を剥き出しにされては、やりにくいことこの上ない。
 ともかく気を取り直して、私は蔵の検分を始めた。
 と言っても見るべきことなど何もない。床を丁寧に観察してみたが、埃と足跡だらけでどれが誰のものなのか分からない。死体を片付ける作業で踏み荒らされたのだろう。樫木が倒れていた場所の床の周辺だけが妙に綺麗になっていた。床の血は丁寧に拭われていたが、死体のあったところだけうっすらと跡が残っていた。
 頭の中で、犯人の行動を想像した。蔵の中に入る樫木葉蔵。犯人はこっそりとその後ろについてゆく。樫木は棚に並んだ古い資料の背表紙を眺めている。蔵には照明がない。太陽が霧で遮られているせいで、老人の目には堪えただろう。犯人は蔵の中に入る。木の床が軋んで、樫木がそれに気づく。犯人と樫木は言葉を交わす。にこやかに近づく犯人。背後に隠した右腕を樫木は警戒する。突然弾かれたように犯人が動く。腕を突き出す。樫木の胸に突き刺さる。樫木は背中から床に倒れた――。
 何かがおかしいことに私は気がついた。そもそも樫木はどうやって蔵の中に入ったのだろう。蔵には鍵がかかっていたはずだ。いやそもそも、樫木は蔵の中で殺されたのではないのだろうか。つまり蔵の外で殺されて、犯人が死体をここに運んできた。死体の出血はそれほどひどくなかったから、殺してすぐに運べば血の跡もそんなに目立たないだろう。
 その場合でも問題は残る。犯人はどうやって蔵の鍵を開けたのか……。
「単純に考えるのなら、鍵を持っている者が犯人だ」
 独白した。埃を吸い込んでしまい、小さく咳き込む。
 念のため蔵の壁や床や天井に視線を走らせてみたが、抜け穴らしきものは見つからなかった。
 さらにもう一つ気になるのは、凶器に使われた刃物だ。一体どこで刃物を手に入れたのだろうか。霧坂屋敷ならば刃物くらいいくらでもあるだろうが、その入手経路が犯人を特定する決め手にはならないだろうか。
 私は途方に暮れた。何気なく棚に収められた冊子のひとつを手にとって、それが霧坂家の古い記録であることに気がついた。黄色くなった紙の上に豆粒のような文字が印刷されている。
 別の何冊かも手に取ってみる。かなり古いものらしく、中には手書きのものや、毛筆で書かれたものも含まれていた。ぼろぼろの冊子は丁寧に扱わなければすぐに崩れてしまいそうだ。取り扱いに注意を払わなければならぬ。
 私は資料を眺めながら、これから執筆することになる霧坂家の伝記の構想を練っていた。しかしそうしている最中も、頭の一部分では常に殺人事件の解を探していた。
 棚の中で目立っていた大きな一冊を取り出すと、中には写真が並んでいた。写真に刻まれた日付を見ると、ここ数十年ほどで撮られたものをまとめた写真帳であるらしい。
 館の大広間で撮ったと思われる、一際大きな写真があった。日付は十年前になっている。幼い頃の霧坂四姉妹と、今と変わらないように見える霧坂友音と、その隣には口ひげを蓄えた私の知らない男性が立っていた。立ち位置と年齢から推測するとこれが霧坂千秀だろう。
 霧坂雛夜と霧坂花香の間に座っているのは、次女の霧坂思織だろう。この後、霧坂花香が詩文家として文壇に登場し、その裏で、霧坂思織が行方不明になった。霧坂友音の言い分を信じるなら、そういう筋書きであるはずだ。
 霧坂思織の顔を私は初めて見たが、他の姉妹たちと同様に、このころからすでに美人に分類される整った顔立ちである。もし霧坂思織が今も生きているなら、きっと雛夜に劣らない美女に成長していることだろう。写真の中の幼い思織は、健康そうな日に焼けた肌を覗かせていて、豪華な洋装を今にでも脱ぎ始めてしまいそうな奔放さを感じた。
 霧坂思織が殺されたという話は果たして根も葉もない単なる噂なのだろうか。もしそれが本当なら、彼女は一体誰に、どうして殺されたのだろう。行方不明だと静川は言っていたが、それは本当なのだろうか。
 私は静かすぎる霧の森に、昨晩聞いた地下室のうめき声を聞いた気がした。多喜子が押していた台車は一体何を運んでいたのだろうか。地下室に閉じ込められた思織に、夜な夜な多喜子が食事を運んでいるのだろうか。
 地下室に幽閉された、骸骨のように痩せ細った思織の体躯を想像して、私はおぞましさを感じる。
 そのとき扉が開いた。私は驚きのあまり手にしていた写真帳を床に落とした。心臓が一気に跳ね上がる。扉の向こうから覗かせた顔が霧坂花香のものであるのを確認して、私はほっと胸をなで下ろした。
 花香の格好は、飾りの付いた白の洋服に、ズボンを革帯で腰に留めている。少し寒いのか、肩から茶色のストールを掛けていた。
「あ、あの、すみません……お邪魔でしたか?」
「いえ、とんでもない。突然だったもので、驚いただけです」
 ゆっくりと発音しなければ声が震えてしまいそうだった。恐怖と驚愕の余韻を誤魔化しながら、拾い上げた写真帳の埃を払い、元の場所に戻す。
「あの、先生はここで何を?」
「いえ、友音さんから頼まれていた仕事の、まあ下調べのようなことをしたいと思いまして」
 殺人事件のことには触れなかった。
 私は懐から懐中時計を出して時刻を確認した。もうすぐ昼食の時間である。ずいぶんと長い時間、私は蔵にこもっていたらしい。
「花香さんは、お昼はもう召し上がりましたか?」
「いえ、まだ……」
「でしたら、ご一緒しませんか? これから一緒に、食堂へ」
 花香は小さく頷いた。
 私は花香と一緒に蔵から出ると、南京錠を扉に掛けた。弦の部分を鍵の本体に押し込むのだが、鍵自体が年代物であるせいで、思い切り力を入れなければびくともしなかった。やがて、ガチリと大きな音を響かせて、南京錠が閉じる。
 冷たい金属の感触が、しばらく私の手に残っていた。


***

 食堂で、私は花香と向かい合った席で少し早めの昼食を頂いた。昼食は漆塗りの四角い盆に載せて運ばれてきた。白米に焼き魚、味噌汁に漬け物、天ぷら――和食である。思わず私が花香の顔を見ると、恐る恐るといった感じで彼女の方も私の表情を伺っていた。
 食堂には私たち以外に食事をしている人はいなかった。食堂は朝よりもがらんどうとした印象だったが、花香とじっくり話をするにはこちらの方が都合が良い。
 食事の方も、相変わらずの美味であった。あの宮島という男、洋食だけではなくて和食も作れるらしい。どこかの料理屋で働いていたのを、友音あたりが引き抜いてきたのだろうか、と私は思った。大学を卒業した直後に雇われたという静川の話を思い出す。
「あの……先生は、どうして、怪談に興味を持ったんですか?」
 食後に紅茶を飲みながら花香が私に質問する。食事の方は和食なのに、食後に出されたのは紅茶だった。この不一致は一体何だろう。無論、紅茶が嫌いというわけでもなかったが、和食の方が満足できる味だったばかりに画竜点睛を欠くもてなしであった。
「恐怖は、人の中でもかなり原始的な情動のひとつです。恐怖を題材にした物語には、人間の本質的なものが含まれると、私は思います」
「それが怪談に興味を持った理由なんですか?」
「恐怖は原始的な情動ですから、ある人の恐怖にはその人の本質が現れます。私は自分の恐怖を知りたかったのかもしれません」
「心理学を修めればよかったのに」
「かもしれません。私が書いているのは、作り物の恐怖ですから」
「先生は、自分が誰なのか、知りたいと思いますか?」
「実はあまり気にしていないのです。記憶を失うというのは、そういうことなんだと思います。何かを失ってそれが気になるというのは、つまり失ったものの大きさを実感できるからでしょう。私の場合、一体どんな記憶だったのか、まったく覚えていないわけですから」
 私が戯けて言うと、花香は社交辞令程度に微笑んだ。
「先生は何かを失ったことがありますか?」
「えらく抽象的な質問ですね」
「す……すみません。調子に乗ってました」
「いえ、別にたしなめたわけではありません」
 やりにくい、と思いながら、私は考える振りをした。
「そうですね……まあ、そもそも私がここに来たのは職を失ったせいなのですが。小説家という仕事にしたって天から降ってきたようなものですから。失ったというよりは、たまたま手に入れたものを手放した、という感覚です。そもそも私はものをあまり所有していないのです。実家も家財もありませんし、親しく付き合っている友人もいません」
「わたしは……失ったことが、あります」
 感情を押し殺して、微笑さえ浮かべて花香は答えた。
「大切な友人を失いました。……友人だけじゃなくて、生きているということは、いろんなものを失っていくことだと思います」
「それはずいぶん悲観的な人生観ですね」
「すみません。わたし……人生をあまり楽しんでいないもので」
 言い訳するみたいに答えて、花香はもう一度謝った。
 それから私は話題を変え、最近の文学や、私が取材をした地方の怪談について話した。短期間とはいえ文壇の第一線で活躍した花香は、最新の文学事情にも詳しく、また私の話の随所に鋭い考察を加えてくれた。私がそれに応えると、花香は薄く笑って私の意見に控え目に頷いた。
 目的もなく、意味もなく、私たちは紅茶を飲みながら非生産的な会話を続ける。
「霧はいつ晴れるのでしょうか」
 会話が途切れたとき、私は何の気なしに、閉ざされた食堂の窓を見ながらつぶやいた。
「警察はいつ来るのでしょうか」
 もう一度つぶやくと、花香は「さあ」と素っ気ない返事を返した。
「もうしばらくは気温が下がり続けるという話ですから……しばらくは無理だと思います」
「花香さんは不安じゃありませんか? あんな事件があったばかりですし」
「何が不安なんですか?」
「何って……もしかしたら、殺人犯がこの館に潜んでいるかもしれないじゃないですか」
 私は言葉を慎重に選んだ。外部犯の可能性は低かったが、こういう言い方をする他はない。
「もしかしたら、襲われるかも」
「そうですね……もしそうなったら大変です」
 と、呑気な調子で花香は答えた。殺人犯の危険性について、過小に見積もっているわけではなさそうだったが。それとも、自分は絶対に殺されないだろうという確信でもあるのだろうか。
 私の疑問を察したのか、花香は取り繕うように続ける。
「でも、いざとなったら多喜子さんが守ってくれますわ」
「あの人が?」
「ええ……。あの人は霧坂一族の安全を守るのが仕事ですから」
「いざとなったら私が花香さんをお守りしましょう」
「そんな。からかわないでください」
 小さく笑って、赤くなって顔を伏せた。
 私は愉快な気持ちになって、ぬるくなり始めた紅茶を最後まで飲み干した。
「そういえば樫木さんを最初に見つけたのは先生でしたね」
「ええ。あのときは本当に驚きましたよ。死体を見たのは初めてですからね。霧の中をさまよい歩き、やっと辿り着いたと思ったらあんなものを見つけてしまって。それこそ死ぬほど驚きました」
「まるで怪談みたいですね」
「ええ。お恥ずかしいことに、物語としての怪談には詳しいのですが、実体験としてはまるで素人なのです」
「わたしも……母から聞いて、驚きました。いつものように静川先生の授業が終わって、夕食の時間にここに来たら、いきなり知らされて。お昼は一緒に昼食を食べたのに」
「昨日、お昼に樫木さんと会った後、午後はずっと授業を受けていたのですか?」
「ええ……平日はいつもそうです。朝から、お昼休みを挟んで、夕方まで。里理ちゃんと一緒に……」
 花香は神妙な表情で答えた後、何かに気づいてはっと顔を上げた。
「もしかしてこれ、アリバイを調べているんですか?」
「探偵小説ではありがちですね。しかしアリバイを調べるのなら死亡推定時刻を計算しないと意味がないですよ」
 私は冗談半分に答えた。花香もふざけた調子で「まあ」と大げさに驚いた振りをする。
「樫木さん、少なくともお昼までは生きていらっしゃいました。わたしと里理が見ています。……ということは、昼から夕食までの間、ずっと一緒にいたわたしと里理は犯人ではありませんね。もちろん、静川先生も」
「夕方と言いましたけど、具体的には?」
「ええと、五時くらいでしょうか。授業が終わって、しばらく経ってからここに来たときに六時だったので、多分五時だと思います」
「そういえば、あの蔵には大きな南京錠がかかっていますね。あの鍵はいつも誰が管理しているのですか?」
「末真が管理していますが、マスターキーがあります。父か、母なら場所を知っていると思いますが――」
 花香は言いかけて言葉を止めた。彼女の視線の先を追うと、雛夜と里理が仲良く並んでやってきたのが見えた。雛夜は食堂に入ると「盛り上がっていますわね」と私たちに向けて感想を述べた。
「どうも。実は、事件のことを話していたのです。雛夜さんもいかがですか?」
「結構です。食事中の話題ではありませんね」
 とりつく島もなかった。
 雛夜と里理が私たちから少し離れた席に座ると、宮島が慌てて二人の前に食器を並べた。雛夜は私たちのことをあえて無視している雰囲気であったが、里理の方はそもそも私たちの存在に気づいていないかのようである。二人の態度は似て非なるものであったが、あまり歓迎されていないのは確かである。
 姉にたしなめられて、花香はすっかり萎縮してしまったようだ。黙るどころか私の方を向いてすらくれなくなった。
 どうやらここまでのようだ。私は三人に一言断ってから席を立つ。
 昼食を運んでいた貴穂をつかまえて泡路の居場所を聞くと、遊戯室にいるという答えが返ってきた。私は貴穂に礼を言って、食堂を離れて遊戯室へ向かった。
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