第二章

空間と時間は交換可能である/アリバイは糸と針で証明されました


 部屋の寝台に寝転がりながら天井を眺めていた。
 白い壁紙の天井である。よく掃除されているようだが、さすがに古さは隠せない。霧坂屋敷が建てられてから随分と経っているから、壁の色がくすんだりしても仕方がない。
 とても静かだった。山の中だから隣近所はいないし、周りの部屋も無人のようだから、他人の生活音を気にする必要もない。ゆっくりと物思いに耽ることができた。
 頭を支配していたのは表で見た死体の光景だった。まるで自分がその場に立っているかのように思い出せる。死んだ人間を恐ろしいと思うのは何故だろう。死んだ人間は無害である。生きている人間の方がずっと恐ろしい。理性はそう結論づけているが、死体の光景が頭にちらつくたびに私は落ち着かない気分になった。
 人の死んだ姿を見たのはこれが初めてだった。怪奇小説を書く手前、人の死については幾度も考えたことがあったが、直接自分の目で見た死は格別の存在感があった。思った以上にあっけないなという思いと、理屈を超越した感慨とが理不尽にせめぎ合っていた。
 鞄の中には読みかけの小説があった。時間を持て余した私は、続きを読み始めるが、どうもそんな気分にはなれない。結局小説を放り出して、再び寝台の上でだらだらと考え事を続けるのである。
 死体の発見は衝撃的だったが、この館もずいぶん奇妙である。私は足の先にある窓を見た。暗幕が閉じていて、暗幕の下の端は窓の枠に釘で留められている。どうあっても窓を開けたくないらしい。そうまでして一体何を恐れているのだろうか。
 館の住人も謎が多い。霧坂友音が私を雇った真意も不明だし、雛夜の、思わせぶりな態度も気になる。
 そして何よりも不思議なのが、この館のことや、住人たちのことを考えると、妙に心が弾むというか、親しみを覚えるのである。死体を初めて見た衝撃で感覚がおかしくなっているのだろうか。以前少しだけ読みかじった心理学の教本を頭の中でひっくり返してみたが、詮ないことなので途中で切り上げた。
 こうしてぼんやりと時間を無為に過ごしている間も、妙にくつろいでいる自分を自覚して、そのたびに落ち着かない気分が唐突に励起される。それをずっと繰り返していた。
 突然扉を叩く音が響いて私は飛び上がった。知らない間に眠りこけていたらしい。慌てて起き上がり扉を開けると、泉貴穂が立っていた。
「どうしました?」
「あ、あの、お夕食の準備が整いました」
 おどおどした調子で報告する。私は「すぐに支度します」と答えてから一度扉を閉めた。しかし冷静に考えてみると別に支度することなど何もない。仕様がなかったので鏡を見ながら寝癖を整えたが、あまりに無意味だと思った。結局、一分も経たずに支度を終えて、私は部屋を出た。
 貴穂に案内されて食堂へ向かった。その道中、貴穂から、霧坂屋敷に逗留している間は自由な生活を送っていいが夕食だけは必ず顔を出すように、と釘を刺された。
「どうして?」
「いえ、わたしは……。奥様にそう言われただけなので」
「何か意味があるのかな」
 さあ、と貴穂は首をひねるばかりだった。
 食堂の机には二人の人物が座っていた。脂ぎった、毛の薄い中年男と、まるで女のような顔をした肌の白い青年である。中年男は舐めるような視線を貴穂に送り、次いでその後を歩いている私の方にも送ってきた。今にも舌なめずりをしそうな表情である。顔の大きさに不釣り合いな小さな丸眼鏡をかけていて、まるで達磨が笑っているように見える。一方青年は、年齢は二十そこそこといったところで、私に気づくと銀縁眼鏡の奥で目を細め、申し訳程度の愛想笑いを浮かべた。達磨とは対照的に、欲とか本能からは程遠い存在に感じる。むしろ底が見えない青年の方こそ油断ならないような気がした。
「あの、こちらは、霧坂家に滞在なさっている、実業家の……」
「ははははっ! 実業家は良かったな」
 貴穂の紹介を聞いて、中年実業家は大声を上げて笑った。
「まあ実業家と言えば聞こえは良いが、実際はただの金貸しでね。へへへっ。泡路影頼と言います。よろしく」
 泡路は椅子から立ち上がると私に手を差し出した。少し逡巡したが、私は彼の手を握った。脂ぎった、妙に湿っぽい手の平である。ねちっこく私の手を握ってから、名残惜しそうに開放した。私は薄ら寒くなって、なおもニタニタと下品な笑顔を浮かべる泡路を無視した。それが気に食わなかったのか、笑顔を引っ込めて途端に険しい顔つきになる。
「おい。人が名乗ったんだ、あんたも名乗ったらどうなんだ?」
「あの、私は――」
「もしかして、小説家の方、ですか?」
 青年が透き通る声で言った。顔だけではなく、声も、男のものには聞こえない。
「ええ、まあ」
「奥様からあなたの話を聞いたことがありますよ」
 彼の口から奥様という単語が飛び出ると、艶めかしい、妖しい想像をしてしまいそうになる。
「僕は静川鏡一郎といいます。花香さんと里理さんの家庭教師をしています」
「家庭教師……ですか。静川さんも、ここに泊まっているのですか?」
「静川さんだなんて、やめてください。鏡一郎とでも呼んでください。それに敬語も不要です」
「それじゃあ……鏡一郎くんと呼ばせてもらっていいかな?」
「うふふ」
 鏡一郎は色っぽく笑った。何を考えているのか分からない。さきほどまで私に対して不快感を露わにしていた泡路も、白けてしまったみたいに椅子に座り直した。
 私も食卓について待っていると、やがて霧坂家の姉妹たちが姿を見せ始めた。雛夜と里理の二人の顔は見たことがあったが、もう一人の女性に見覚えはなかった。食堂にいる私の姿を見つけて、彼女は不安そうに雛夜の腕を握った。
「恐がる必要はありませんわ。あの人はお母様が呼んだ小説家の先生で――何も分からずにのこのことやって来ただけですわ。でしょう?」
「ええ、まあ」
 身に覚えのない扱いに腹が立ったが、あまり無礼なことも言えず、仏頂面で曖昧に頷くしかなかった。
「そちらの方は?」
「わたくしの妹ですわ。霧坂花香ですの」
 雛夜が本人に代わって答えた。
 霧坂花香は大学生くらいの年頃の、内気そうな少女であった。肩まで伸びた髪がわずかに波打っている。机についてからも神経質そうに両手の指を落ち着きなく絡ませている。花香は確かに美女であったが、両隣に座る雛夜や里理と比べると地味な印象をぬぐえない。花香自身が、自らを外に出さないよう、意識して慎ましくしているようにも感じる。
 あれが霧坂花香……。私がずっと憧れていた詩文家……。
 私が勇気を出して話しかけようとしたところで、霧坂友音が食堂にやって来た。後ろにはやはり鉄仮面のような泉多喜子の姿がある。
「お待たせいたしました。それでは、夕食を始めましょう」
「おやおや? 奥様、樫木さんがまだ来ていませんが?」
 泡路がいちいち大げさな口調で言った。
「あの、それに、お父様もまだ……」
 花香も恐る恐る付け加える。いつもこんな調子なのだろうか。
「お父様は体調がすぐれないので部屋にいます」
「お加減が優れないのですか?」
 里理が口を開いた。彼女の声を初めて聞いた気がする。掠れ気味の低い声だった。
「ええ、そうね……。しばらくは部屋から出られそうにないわ」
「あの、奥様?」
 無視された形の泡路がわざとらしく咳払いをした。友音はゆっくりと泡路の方に向き直る。
「樫木さまは亡くなりました」
 友音が樫木の死を告げると、一同に衝撃が走った。反応しなかったのは鏡一郎だけである。
「ええ? それはどういうことです?」
「まだ詳しいことは分かりませんし、わたしたちだけで軽々に判断するべきではありません」
「状況から考えると他殺の可能性がありますが、警察はいつ来るのですか?」
 私が質問すると、なぜか雛夜と花香、里理の表情が強張る。私が怪訝に思っていると、友音は涼しい顔で私の質問に答えた。
「警察は来ません」
「どういうことですか?」
「霧のために来ることができないのです。泉、霧はいつ晴れる?」
「予報では今日から二日間、濃霧が続くとのことです」
 深く一礼して多喜子が答えた。
「そういうわけで、今すぐ警察の捜査が始まるということはありません。仕方がありませんので、樫木様のご遺体はこちらで対応させていただきます」
「ははあ、その方がいいでしょうなあ。警察のやつらときたら、死んだ人のことなどただの証拠品としか思っていないやつらですから。その方が樫木さんも喜ぶでしょうなあ」
 泡路は友音におもねった。警察の到着前に勝手な判断で死体を処理することの是非を問う声はなかった。私は口を出しかけたが、泡路が不愉快そうにこちらを見たので慌てて言葉を引っ込めた。
 次に友音が私のことを全員に紹介した。すでに私のことを知らない人間はこの場にはいなかったが、私は一応椅子から立ち上がり形式だけの自己紹介をした。
 やがて給仕たちが、銀色の台車の上に人数分の料理を載せて運んできた。泉貴穂と末真、宮島の三人である。宮島は料理人が着るような白い服を着ていた。末真は食卓に私の姿を見つけると、忌々しそうに表情を歪ませた。私はそれを見ない振りをして、何食わぬ顔で座っている。
 夕食は洋風のものばかりだった。私の前にはパンの入った籠が置かれ、最初は南瓜のスープと生野菜の和え物が出された。
「樫木さんはどういう方だったのですか?」
 私は友音に質問したつもりだったのだが、答えたのは泡路だった。
「ああ、あれはな、俺が霧坂家に紹介してやった男なんだ。樫木葉蔵という。俺はずっと昔から霧坂さんとは仲良くさせてもらっていてな、あいつは俺に頼み込んで、ここに招待されたってわけだ。確か古美術の仲買人をやってるとか言ってたが。まあ俺も仕事上の付き合いしかしていないから、どういう人だったのか、詳しいことは分からんが。そういう得体の知れない人物を紹介するのはどうかと思ったが、向こうも熱心でね。大方良くない噂を聞きつけた下種な男だったんだろうよ」
 自慢と霧坂家への下心を綯い交ぜにした説明だった。相づちを打つ私に気分を良くしたのか、さらに樫木の悪口を言おうとしたが、雛夜に「食事時の話題ではありませんわね」と冷たく言われると途端にしおらしくなって話題を打ち切ってしまった。
 出された料理を食べ終えると、給仕の三人が皿を片付けて次の料理を運んでくる。泉多喜子はそれには加わらずにずっと友音の後ろに立っていた。食事をするわけでもなく準備に回るわけでもない。改めて考えると落ち着かない光景である。
「そういえば先生は小説家なんですよね。どんな小説を書いているんですか?」
 鏡一郎が皿の上の牛肉を器用に解体しながら質問した。私は口の中のパンを水で喉の奥に流してから答えた。
「今は怪奇小説を書いています。今年の夏まで怪談四季という雑誌に連載していました」
 私が怪談四季に書いた小説のタイトルとあらすじの簡単な説明をしたが、一同の顔ぶれを見ていると知っている人間はいなさそうだった。
「あの、怪談が専門なのですか?」
 小さな声で質問が上がった。花香である。自分の心拍数が上がるのを自覚しながらも、緊張していない自分を装って答える。
「今はそうですが、少し前は科学雑誌に寄稿させてもらっていた時期もありました。私自身は小説家のつもりですが、小説だけで食べていくのはなかなか難しくて……」
「科学雑誌というと、どんな内容を?」
「科学関係の随筆ですね。江戸時代の発明家が作った絡繰技術の話とか、大戦のときに軍が航空機の内燃機関を改造したときの逸話とか……。古い話ばかりですね。私自身は最近の技術についてはあまり詳しくないもので」
「怪談よりもそちらの方がずっと面白そうですわ。誰かの妄想よりもずっと」
 雛夜の刺のある発言に、私は無言を返しただけだった。


***

 食事の後、食堂から出て行く友音をこっそりと呼び止めた。
 話があると言うと、友音は私を書斎まで案内した。長椅子に座ると机を挟んで私の正面に友音が座った。すかさず多喜子が紅茶を運んでくる。
「それで、お話というのは?」
「あの、私の仕事について、もう少し細かい打ち合わせをしたいのですが」
「まあ、先生は仕事熱心でいらっしゃるのね。別に急ぎませんし、ごゆっくりなさればよろしいのに」
「そうはいきません。大して仕事もしていないのにこんな待遇を頂いたのでは、その、落ち着かないというか、変な気分になってしまいます」
「やはり先生は真正直な方ですね」
 一体私に関するどのような情報を持っていての「やはり」なのか、疑問に思わないでもなかったが。聞いたところでまたはぐらかされるに決まっている。まずは手応えがありそうなところから始めるべきだろう。
「先生には霧坂家の歴史を、ひと続きの物語としてまとめていただきたいのです。形式などは先生にお任せいたします。霧坂家のことなど何も知らない人間が、その物語を読むことで霧坂家の歴史について理解できるような、そういったものを書いていただきたいと思っています」
「霧坂家の歴史について書かれた資料があるという話でしたが、それはどこに?」
「先生が樫木さまの死体を見つけた、あの蔵の中に保管してあります」
 死体の光景が目の前に蘇った。死体はすでに処理されたという話だが、それでも、あまり気分の良いものではない。
「その、歴史書を書くに当たって、どの程度事実に忠実にあるべきでしょうか。というのも、私は小説家ですし、読んだ人間に理解しやすいようにまとめると、どうしてもその、省略したり、細部を想像で補ったりということが必要になって――」
「お任せいたしますわ。わたしたちは真実の下僕ではありません」
「素敵なことをおっしゃいますね」
「それに、真実などどうでもいいことなのです。過去に何があったのか、本当のところは誰にもわからないのです。ただ、我が家にそれらしきことが書かれた資料がある、というだけです。わたしたちはそれが真実であると信じていますが、それに根拠はありません。もしかしたら霧坂家の先祖の誰かが想像に任せてでっち上げた創作かもしれません。しかしわたしたちにそれを確認する手段はありません」
「私が書いた創作の歴史書が、後世の人間にとっての真実になるわけですね」
「歴史とはそういうものです。それに歴史だけではありません。わたしたちが正しいと思っていることの大半は、自分の見たものは正しく、大勢が見たものはより正しいという前提のもとで成り立っていることがほとんどです。その前提の根拠については誰も考えたりしません。ふふふ、遠くのものは見えるのに、自分の足元は見えない人ばかりなのです」
 皮肉や悲嘆、軽蔑の語感はなかった。ただ事実を指摘して、それを面白がっているように感じる。彼女は私が過去に会ったどんな人間よりも無邪気であった。悪意や無能に対する反応が非常に薄い。
「友音さんにとっての真実とは何ですか?」
「正しさ、という価値はあまり好きではありませんね。わたしのものさしは、わたしがそれを好ましいと思うか、疎ましいと思うか――それだけです」
「なるほど。単純明快ですね」
「先生は? どうしてわたしの招待を受けてくださったの?」
「お金のためです。あいにく、私は貧乏で……」
「まあ」
 私が苦笑して頭をかくと、友音は口元を手で隠して上品に笑った。
「先生は心の内をさらけ出さない方なのですね」
「会ってまだ一日と経っていません。それを期待するのは少し早すぎますよ」
「わたしは先生のことをずっと前から存じ上げておりました」
「それは、私の小説を、という意味ですか?」
「うふふ」
 友音は私の質問には答えずに、再び同じ仕草で笑った。同じ笑い方なのに、今度のは妙に意味深に感じる。
「わたしがこんなにサービスしているというのに、先生は案外厳しいお方なんですね」
「まさか、そんな……。私は、人を試したりするような人間じゃありませんよ」
「それで、他に聞きたいことは?」
「この屋敷のカーテンがいつも閉め切られているのは何故ですか?」
「室内の温度調節のためです。日光が入りますと、暑くなるでしょう?」
「だからといって、カーテンを閉めるのは……」
「おかしいですか? どうして? 日光を浴びたければ外に出ます。室内には照明があります。何も不便はありません」
「どうして私を選んだのですか?」
「その質問にはすでにお答えしたはずです」
「言い方を変えます。どうして私に親切にしてくれるのですか?」
「同じ意味ですわ」
「答えも同じですか?」
「ええ。……いずれ分かることです」
 友音が静かに答えた。たった数分の会話だったがひどく疲れてしまった。彼女の言葉への切り返しを必死に考えたせいで、頭が茹だったように霞んでいた。
「そういえば、先生には屋敷をまだご案内していませんでしたね。多喜子、貴穂を呼びなさい」
「かしこまりました、奥様」
 深く頭を下げて、多喜子が部屋を出た。しばらくして、彼女は自分の妹を連れて戻ってきた。
「あの、お呼びでしょうか、奥様」
「貴穂、先生に、屋敷を案内して差し上げて」
「はい。かしこまりました」
 嫌な顔ひとつせずに、貴穂は案内役を買って出た。
 泉貴穂に案内されて、屋敷の中を見て回る。大広間から始まり、図書室、浴室、遊戯室などがある。図書室の蔵書の多さにも驚かされたが、遊戯室にビリヤード台があったり壁にダーツの的が並んでいるのには感動した。考えてみれば、この屋敷は霧で閉じ込められることも珍しくないのだ。退屈を紛らわすものに関しては事欠かないということだろう。
「……実はわたし、先生の小説、読んだことがあるんです」
 遊戯室の感動に浸っているとき、貴穂が唐突に告白した。すっかり自分の世界に入っていた私は、何と答えるべきか迷い、肯定とも否定とも違う曖昧なうめき声のようなものを返してしまった。
「先生、狐憑きの小説、書いていらっしゃいましたよね? あの、最後に山の中で滝壺に落ちる話」
「ああ……。ええ、確かに。『大樹の根』ですね」
 私はうろたえながらも小説の題名を答えた。昔とある雑誌に連載していた長編だ。小説家としての私の仕事は、短編か、あるいは長編の連載途中で打ち切られる場合がほとんどである。『大樹の根』という題名の小説は、私が完結させた数少ない長編のひとつである。あの小説は怪奇小説というよりは怪談、それも人情話に近い筋書きだったと記憶している。
「とても面白かったです。毎月、先生の連載を読むのが楽しみでした」
「ありがとうございます。こういうの、新鮮ですね。あまりそう言ってもらえないので……」
「そうなんですか?」
 貴穂は意外そうだった。別に世辞を言っているわけでも、私に取り入ろうと思っているわけでもなさそうだ。誉められることに馴れていないから、たまにそういう目に遭うとつい疑り深くなってしまって困る。
「それにしても、一体どこで読んだんですか? この近くには本屋もなさそうですけど……」
「あ、わたし、ここで働くのは二ヶ月前からなんです。その前は普通の町に住んでました」
「普通の町か」
 その言い方が何だか面白かった。確かにここは普通の町ではない。
「わたし、学校を出てからしばらく内職をしたりして生活してたんですけど、親にいい加減結婚しろって言われて……。花嫁修業のひとつでもしなさいって、姉さんに無理やりわたしを押しつけたんです。それでわたし、ここで働くことになりました」
「いきなり使用人なんて、色々と大変でしょう」
「そうですね。最初は豪華な洋館に住めるって思ったんですけど、実際に住んでみると二週間もすれば馴れてしまいますしね……。奥様は優しいですけど、姉さんはいつも厳しいし」
「お姉さんとはあんまり仲が良くないのですか?」
「仲が悪いわけじゃないですけど、良くもないですね。姉さんのことはよく分かりません。自分の考えてることをあまり話さない人なので、何を考えてるんだか……」
 気がつくと、貴穂は使用人としての口調を大きく逸脱していた。使用人としては失格だったが、この屋敷に来て以来神経を張り詰める会話ばかりを繰り返していた私には、貴穂の気安さは一種の清涼剤のように感じた。
「でもそれを言ったら、先生だって大変なんじゃありませんか? 小説家って、どうやってなるんですか?」
「私がお世話になってる人が出版社の方と知り合いで、雑誌の仕事を斡旋してくれたのが最初ですね。記者見習いみたいなことを少しだけやってたのですが、雑誌の連載小説のコーナーを見ているうちに自分も書きたくなって、何度か短編を書いて編集長に見せていたらその雑誌に掲載してもらうことになりました」
「すごいですね。つまり、先生には才能があったということでしょう?」
「そんなことはないですよ。文章が書けるのは、本をたくさん読む必要があったからで、好きでそうなったわけではありませんし。それに才能というなら、今も鳴かず飛ばずなのは所詮その程度の才能だということでしょう」
「本を読む必要?」
「私、自分が誰なのか分からないのです」
 私は告白した。何かの比喩だと思ったのだろう、貴穂はそれほど衝撃を受けているようには見えなかった。
 私には五年前より昔の記憶がない。それ以前の私が、どこで生まれ、どのように育ったのか、私は何も知らないのである。私の記憶の連続性は、五年前、病院で目覚めた時点から始まっている。医者の話によると、私は列車の中で意識を失っているところを終点で車掌に発見され、病院に担ぎ込まれたらしい。全身に数カ所の打撲と、腕と頭部に骨折があった。列車には自力で乗り込んだらしいが、なぜそんな傷を負ったのか、どうして列車に乗り込んだのか、未だに分からないのである。
 身元不明の私は退院後、施設に預けられた。生年月日も不明な私は、十七、八歳だと見なされたのだ。知識も金も技術もない私がひとりだけでこの世界で生きていくことは不可能だっただろう。
「記憶がないって、どんな感じですか?」
「え?」
「先生が病院で目を覚ましたとき……最初に考えたことは、何ですか?」
「そんな劇的な瞬間でもありませんでしたよ。真っ先に考えたのは、喉が渇いたなあとか、頭が痛いなあとか、そういう即物的なことで。記憶がない異常性に気がついたのはしばらく経ってからでした。それまでは、自分に記憶がないことを不思議だとも思いませんでした」
「先生の性格は? 記憶を失くしたことは人格にも影響を与えるのでしょうか」
「厳密に言えばすべての記憶を失ったわけではありません。私は病院で目覚めた時点で言葉を理解していましたし、命の概念や、部屋の外と内を隔てているのが窓硝子であること、その向こうに見えるのが木であること空であること山であること、すべてを理解していました。しかし私自身にまつわることだけが思い出せないのです」
「すると、記憶を失った先生はもっとも純粋な形の先生ということですね」
「どういう意味ですか?」
「えっと、あの、例えば、女は結婚しなければ半人前だ、って、わたしの父がいつも言ってるんです。それってもとからそういう風に考えていたわけじゃなくて、例えば父が幼い頃にみんながそういう生き方をしていたとか、父が幼い頃に祖父や祖母からそう教えられたとか、そういう後天的なものが原因だと思うんです」
「つまり社会によって、価値観が書き換えられる」
「はい。ですから、記憶を失くした先生は、社会に毒されないもっとも純粋な人間なんじゃないかと思うんです」
「それはどうでしょうか……。純粋、って考え方が、私には納得できません。もとから持っていた性格と、後から付け足された性格に優劣があるわけじゃないでしょう。自分の人格に嘘も本当もありませんよ」
「そうですか……そういうものですか……」
 貴穂は頷いていたが、心の底から私の意見に納得したわけではなさそうだった。それでいい、と私は思った。私自身も、未だに私の意見で私を説得できていないのである。
 さらに貴穂は、洋館の二階を案内した。
 正面の広間にも階段があったが、建物の南にももう一つ階段がある。南階段から二階に上がる途中、階段脇にある扉に意識が止まった。
 霧坂屋敷の扉はみな木製の、茶色の扉ばかりだったが、その扉は金属製の黒い扉だった。まるで存在が目につかないよう配慮されているかのような設計だ。
「あの扉は物置か何かですか?」
「地下室だそうですが、何に使っているかまでは……。ただ、地下室には絶対に入らないように言いつけられています。あの扉には鍵が掛けられていますので、入りたくとも入れませんけどね。それから、配電盤にも、決して触らないように、と言われています。先生が触ることはないと思いますが、万が一にも、気をつけてください」
 黒い扉の上には配電盤があった。いちいち断わらずとも、客人が配電盤を触ることなどないだろう。妙な念押しだと私は首を捻った。私に釘を刺した貴穂自身も自信なさげで、あくまで自分は友音の伝言を伝えているに過ぎない、という無責任さが透けて見えていた。
 霧坂屋敷の二階は来客用の小部屋になっていた。鏡一郎や泡路、使用人達が寝起きしているのもこの辺りだという。私が泊まっている一階の西側よりもずいぶんこじんまりとしている印象だった。仕事内容もそうだが私の待遇は破格のもののようだ。もはや家族と同格の待遇に近い。
 他人の親切に対して疑いを抱くのはあまり誉められた性分ではないだろうが、この場合は、気味が悪いを通り越して危険を感じるほどだ。
 その後、貴穂に私の部屋まで送ってもらい、その場で彼女とは別れた。


***

 浴室を借りて簡単に風呂を浴びてから、部屋に戻って服を着替えた。
 私は机に向かって今日の出来事を手帳にまとめていた。日記というよりは小説のようなものである。私はいつも、この手帳を肌身離さず持ち歩いていた。それに鉛筆と原稿用紙は大量に持ってきている。しばらく書くものには困らないだろう。無論困ったところで、友音に言えば山というほど用意してくれるに違いない。
 今日見た死体の記憶はすっかり色を失いつつあった。それを必死に掬い上げながら取り憑かれたように手帳に叩き付ける。細部の事実は失われ、私の恐怖だけが残り香であった。現実の残滓は幻想なのだ。私は幻想になど惑わされたくない。必死に鉛筆を走らせた。もはや私は文面など見ていなかった。目を瞑り、失われる事実の影を必死に追いかけていた。
 鉛筆を止める。書くべき事実を書き終えて、私は溜息を吐いて椅子の背に体を預けた。事実を並べてみて初めて気がつくこともあった。まず、自殺の可能性はない。自殺なら誰があの蔵の南京錠をかけたのか。そして、この館は今、濃霧で閉ざされている。つまり樫木葉蔵とやらを殺した人物はこの館の中にいるということだ。
 殺人犯がこの館にいる。私は部屋の戸締りを確認した。扉から目を離すのが怖かった。殺人犯がこの部屋に音もなく忍び込み、私の背中に刃物を突き立てるのを想像した。
 私には誰かに命を狙われるような心当たりはないが、心当たりの有無に関わらず人は誰かに殺されることがあるのだ。ちょうど雛夜が言っていたように、私の心当たりが、すなわち私を殺す動機の不在を証明するものではないのだ。
 不安なことが多すぎる。殺人事件のこともそうだが、たとえそれがなかったところで、霧坂家の人間には謎が多すぎる。最初にこの土地に抱いた、「魔境」という印象は決して間違っていなかったのだ。この地はまさに魔界である。であれば、霧坂家の一族はさしずめ魔界の住人か。
 いや、そう決めつけるのは少し早い。なにせその「魔界の住人」の中には私が憧れていた霧坂花香も含まれているのである。
 そういえば、せっかく憧れの霧坂花香がいるというのに、ここに来てからまだまともに口を利いていないではないか。殺人事件や、霧坂友音の不審な依頼など、他に考えるべきことが多すぎて、すっかり埋没していたのだ。
 それは不安からの逃避であった。もちろん私はそれを自覚していた。しかし自覚しつつもそれに逆らおうとはしなかった。私には安定が必要なのだ。霧坂花香という女神を欲しているのだ。たとえそれが魔界の住人であっても。幻想は時に現実を蝕むが、それが常に人の心に不幸をもたらすとは限らない。
 私は部屋を出た。懐中には鉛筆削りの刃物を忍ばせていた。力を入れたところで指の一つも切れないなまくらだったが、見た目はぴかぴか光って綺麗だし、実際に使わなければ立派な凶器に見えることだろう。
 しかし部屋を出てたところで、私は花香の部屋がどこにあるのかを知らないのだ。貴穂は使用人として日が浅いが、さすがに主の寝室の場所を教えるほどの粗忽者ではないだろう。
 考えた末、私は誰かが居そうな大広間に向かった。
 貴穂に一度案内されたきりだったから、大広間を見つけるのにずいぶん時間がかかってしまった。
 大広間には泡路影頼と霧坂雛夜がいた。長椅子に座って本を読んでいる雛夜の隣で、琥珀色の酒を飲みながら泡路が一方的に話しかけている。泡路は相当酔っているようで、真っ赤にした顔は達磨以外の何者でもない。泡路は雛夜に何度も甘い言葉を――自分の金と権力をひけらかす類の下品な口説き文句をささやきかけていたが、雛夜の方はまったく相手にしていないようだった。迷惑そうにも見えない。雛夜は気まぐれに相づちを打ちながら、基本的には本を読むことに集中していた。
「ねえ、いいでしょう。お嬢さん、俺、こう見えても昔は柔道やってたんだよ。腕っ節には自信があるんだ。げへへへ。いざってときには俺がお嬢さんを守りますよ。樫木を殺したやつが襲ってきても俺と一緒なら安心だ」
「それは頼もしいですわね」
「そうだ、これから一緒に飲み直しませんか? 学生時代、あちこちの秘境を探検したことがあるんですが、そのときの写真やら何やら、お見せしますよ。俺の部屋で」
「あら先生、いかがなさいましたの?」
 雛夜は突然本から顔を上げると私の方を向いて言った。泡路はたった今私の存在に気がついたようで、私を睨みつけると、良いところで邪魔をしやがって、とでも言いたげだった。本人は気づいていないだろうが、たとえ私が現れなかったところで、たとえ百年口説き続けたところで、雛夜を落とすことなど無理だろうと思われる。
 泡路が私に不快感をぶつけている間に、雛夜は静かに本を閉じ、スッと立ち上がると自然な足取りで大広間を出て行った。気がついた泡路が声を掛けようとしたが、雛夜の動作があまりにも自然で淀みがなかったために、私たちは時間と意識を盗まれてしまったみたいにその場に固まっていた。雛夜だけが停止した時間の中を動き回ることができるのだ。
「けっ……何なんだあの女は。お高くとまりやがって」
 泡路が小さく毒づくのを私は聞き逃さなかった。
「それで、先生、一体俺に何の用です?」
「い、いや、別に泡路さんに用は……」
「それじゃあ、あんたも酒を飲みに? 一緒に飲みたいっていうなら誰でも歓迎ですよ。それこそ、使用人だろうと死人だろうと、ね」
 意味深に言って、酒を一気に仰いだ。琥珀色の液体がするすると口に吸い込まれていった。飲み終えてから、酒臭い息を吐き出した。私は思わず顔を逸らす。
「先生は? ウイスキー? 日本酒? この屋敷には何でもあるよ。でもウォッカは無かったかな。スコッチが飲みたければ宮島にでも言ってくれ」
「私は、酒はあまり……」
「おい、飲めないって言うんじゃねえだろうな。人の恋路を邪魔してそのまま立ち去ろうなんて、そんなのは通らねえんだよ」
 恋路というには、少し邪過ぎるのではないか、と思ったが。そのまま押し切られる形で、私は泡路からウイスキーの入ったグラスを受け取った。仕方なく舐めるように飲み始める。一口舐めただけで、私のような貧乏作家ではとても手が出せない高級酒であることが分かった。
 私が酒宴に参加したことで泡路は機嫌を直したらしい。酔っぱらいらしい支離滅裂な話をしばらく一方的に続けた後、困惑する私を見て豪快に一笑いしてから、改めて問うた。
「それで。大先生は一体何を探してこんなところに来たんです?」
「大先生はよしてください」
「謙遜する? 今時珍しい謙虚な若者だ。しかし謙虚な若者は大成せんぞ。俺の若いときなど、もっとこう――」
 腕を広げながらそう言ったところで、酒がこぼれたために言葉が途切れた。指に垂れたウイスキーの雫を私の目をはばかることなく舐め取った。その姿が下品で見るに堪えぬ。
「まあとにかく、若いうちは、もっと自分を売り込まなきゃあな。俺の若いときなど、もっと自信過剰で、誇大妄想で、熱かったもんだ。そうしているうちに、そういう自信がいつか本物になるものなんだよ。今の若い奴らはまるで駄目だ。うちの会社でも、今年入った若い社員なんか――」
 泡路の話がそこまで展開したところで、聞くのをやめてグラスを傾けた。泡路ほどではないが私も酔い始めている。この調子では今夜はもう霧坂花香とは会わない方がいいだろう。もし会ったらどんな失態を見せるか分かったものではない。
「それで。大先生は、一体何を探してこんなところに来たんです?」
 もう一度同じ場所に戻ってきた。
「霧坂花香さんを探していたんですよ」
 どうせ酔っているんだ、何を言ってもどうせ覚えていまい、と高をくくって、私は彼に本当のことを漏らした。
 ほう、花香お嬢さまとねえ、と泡路は大げさに頷いて、好色そうな笑みを浮かべた。
「確かに、霧坂家の女性は美人揃いで。花香お嬢様のあの大人しいところなんか、ぐっとそそるものがあるからなあ」
「そういう感情ではありません」
「なるほどなるほど、いえいえ、先生もどうして、なるほどねえ、へっへっへ。……そう怖い顔をしなさんな、俺はね、人の趣味に口出すような面倒な男じゃねえんだから」
「違いますよ。別に、花香さんにそういう……色欲を持ったりは、していません。単に私は、詩文家としての花香さんを尊敬しているというだけです。やましい気持ちはありません」
「ああ、なるほど。お堅い小説家の先生らしいや」
 泡路は意外にもすんなりと私の話を聞いて、つまらなさそうに吐き捨てた。
「泡路さんは、花香さんがどこにいるかご存じですか?」
「知らんね。知っていたら放っておくものか。先生より先に俺が夜這いをかけている。この館の壁は分厚いし、ちょっとやそっとの物音じゃ聞こえないからな」
 まったく、恥知らずな男だ。
 しかし泡路は笑いながら話を続ける。
「まあ、知らない以上はどうしようもない。知ろうとすることもできないからな。あまり詮索するとこちらの身が危ない」
「どういう意味です?」
「他にどういう意味があると思うんだ? おい、小説家なんだろう? 俺の考えていることを当ててみろよ」
「人の心は読めません」
「そうだろう、そうだろう。俺の心は読めないからな。昔からポーカーフェイスで通ってるんだ。……そうそう、霧坂の話だったか」
「泡路さんは、霧坂家のことをあまりご存じないのですか?」
「そりゃ、人並には知っているがね。それ以上深入りはしないようにしている。それが大人の節度というやつだ。あんたも、あんまり嗅ぎ回ってると、樫木みたいな目に遭うぞ」
「樫木さんが殺されたことを言っているんですか?」
「おい、あんた! 滅多なことを言うな!」
 泡路ではない別の人間に突然怒鳴られて、私は持っていたグラスを取り落としてしまった。幸いにも中身はずいぶん前から空だったために、高級そうな赤色の絨毯を汚すことはなかった。
 彼は興奮した様子で泡路に詰め寄る。
「あんまり妙なことを言い触らすと、たとえ客人だろうと奥様が許さねえぜ」
「そう怒らんでくれ。ただの酔っぱらいの冗談じゃないか」
「あんたが酔っぱらっていようと素面だろうと、そんなことは知ったこっちゃねえ。あんたもあの男みたいになりたいか? あ?」
「分かったよ……」
 妙にしおらしく言うと、泡路は大きなあくびをひとつして、ウイスキーが半分くらい入った瓶を持ってふらふらと大広間を出て行った。あれは末真に言われたから大人しくなったのではなくて、単に酔っぱらって眠くなっただけだろう。
 千鳥足の泡路の背中を見届けていると、末真の矛先がこちらに向いた。逃げだそうとしたが遅かった。雛夜のようにはいかないものだ。
「おい……あんた、こんなところで何やってるんだ?」
「何って……単に、泡路さんと酒を飲んでいただけだよ」
「嘘をつけ。俺は知ってるんだぞ。あんたが樫木を殺したんだ」
「まさか。私はあの男と一言も口を聞いたことがないんだぞ」
「そんなことは聞いてねえ。俺がそうだと直感したんだ。あんたが人殺しだってな」
「そんな……無茶苦茶だ」
「けけけけっ。たとえ無茶苦茶だろうと、俺がその気になりゃあんたを下手人としてとっ捕まえることもできるんだぜ」
「友音さんがそんなことを許すはずがない」
 友音の名前を出すと、末真はいっそう激しく私を睨んだ。なるほど、この鼠は主人には決して逆らえないらしい。そしておそらく、もし友音が私に気をかけていなければ、この男は間違いなく宣言通り私を犯人に仕立て上げただろう。
「……今は奥様もお前をお気に召しているようだが、どうせすぐに飽きる。そうなればお前は終わりだ。せいぜいそうならないように、奥様にしっぽを振っているんだな。この、薄汚い犬め」
「だったらあんたは鼠だな」
 私も彼に倣って無礼な言葉を浴びせたが、末真はまったく気に留めていない様子で、今度は私の体を下から上へ舐めるように見た。
「あんたよく見たら、なかなか可愛い顔をしているじゃないか。体も華奢で俺好みだ。けっけっけ。こりゃあ楽しみだな。もし奥様に捨てられたら俺が可愛がってやるぜ」
 末真に対する意地よりも、生理的な不快感が勝った。私の反応を見て末真は嬉しそうに笑う。下品に笑う。
「なああんた、花香お嬢様が好きなんだろう? けけけ、隠さなくてもいいぜ、俺は耳が良いんだからな。もし花香お嬢様に夜這いをかけるんなら俺も混ぜてくれよ。きっと病みつきになるぜ、へっへっへ」
「――お前はさっき、泡路さんに『あの男みたいになりたいか?』と言ったな。もしお前が私を疑っているなら、どうしてそんな言葉が出る? お前の決めつけを抜きにしても、客観的に考えて今もっとも怪しいのは私のはずだ。もしかしてお前は、犯人に心当たりがあるんじゃないか?」
 末真の表情が固まった。無理やり笑顔を維持しようとして、唇の端が引き攣っているのが分かった。とはいえ私の方も決して十全ではない。今にも爆発しそうなくらい、この男に腹を立てていた。
「な、何を言っている。馬鹿なことを――」
「どうした? 私が犯人だと、お前は確信しているんだろう? だったら私を下手人として捕まえることの、一体どこが『馬鹿なこと』なんだ? 私が犯人だと確信しているなら、その証拠を探して、完膚無きまでに、正当な手順で私を捕まえればいい。その発想が出てこないのは、そんな証拠など存在しないと、最初から分かっているんじゃないのか? つまり、お前は犯人が誰なのか――」
「黙れ! それ以上言うと今すぐこの場で手前を――」
 末真が私に詰め寄ろうとして、私は両手を前に上げて身構えた。頭が興奮していて、今すぐにでも取っ組み合いの乱闘になりそうだった。そんなとき、大広間に無口な巨人、宮島告がやって来て、私たちの雰囲気におどおどしつつも末真を呼び止めた。
「あの、末真さん。泉さんが、呼んでます。だから、その」
 宮島がそう言ってからも、末真はしばらく動こうとしなかった。やがて舌打ちすると、踵を返して私の前から離れた。
 末真が消え、宮島が会釈して消えたのを確認して、私は砕けてしまったみたいにその場にへたり込んだ。どっと汗が吹き出す。しばらくは何も考えたくない。
 私は空のグラスを机の上に放り捨てて、すっかり酔いが醒めた状態で部屋に戻った。


***

 その晩はなかなか寝付けなかった。寝床が変わると眠れなくなるような、そんな上等な神経の持ち主ではないから、恐らく今日の出来事で神経が高ぶっているのが原因だろう。いつも私が寝ていた布団とは違う、ふかふかで暖かい羽毛の感触が台無しだった。私にはこの寝床は暖かすぎる。
 私は起き上がり、しばらく寝台の周りを無意味に歩き回ってから、とうとう我慢できずに部屋を出た。
 妙に喉が渇いた。酒を飲んだのが悪かったのかもしれない。何か飲むものはないかと、厨房を探して屋敷の中を歩いた。
 窓が締め切られているので昼間と変わらない光景だ。夜中なのに廊下はずっと照明が点いている。ここでは朝を迎えても、時計がなければ気付けない。
 正面階段の前を通りかかったところで、階段の上から静川鏡一郎が下りてくるのが見えた。真夜中に出くわすとまるで幽霊のように見える。眼鏡の奥の細い目をさらに細めて私に会釈した。
「こんばんは、先生」
「どうも」
「こんな夜中にどうしましたか?」
「いえ、ちょっと。寝付けなかったもので」
「あんなことがあったのです。無理もありません」
「そうだね……。こんなことはあまり言いたくないんだけど、殺人事件が起きた割には、みんな、その、あまり」
「気にしていないように見える、と?」
「ええ。単に、肝が据わっているだけかもしれないけど。私には、みんなが事件について何か知っているのではないか、と思えてならないんだよ」
「それは誤解ですよ。こう見えて僕だって驚いているのです」
 鏡一郎はのんびりとした口調で答えたが、その言葉にはまったく真実味がない。
 彼は続けて言った。
「先生は殺人事件だと言いましたが、まだそうと決まったわけではありません」
「でも、あの状況は」
「僕は樫木さんが亡くなっているところを直接見たわけではないので、何も推理できませんが。警察が来るまでは、何も断定しない方が賢明でしょう」
「またそれか……。詮索するなって、末真さんにも言われたよ」
「彼はプライドの高い男ですから。余所者が屋敷の中を嗅ぎ回っているのが我慢ならないのでしょう」
「そうは言っても、もしかしたら殺人犯はこの屋敷の中にいるのかもしれないのだし。まるっきり他人事ってわけにはいかないな。私から見れば、どうして鏡一郎くんがそんなに落ち着いていられるのか不思議で仕方がない」
「他人事ですよ。しょせん僕にとっては、対岸の火事です」
 鏡一郎は、同じ意味の違う言葉を繰り返す。
「他人のことはすべて他人事です。人は心を共有することはできないのですから、他人の悲劇なんてすべて他人事です」
「……雛夜さんも同じことを言っていたよ。人の気持ちなんか分からない、と」
 私がそう言うと、鏡一郎は作り置きの独創性のない微笑みを浮かべた。
 人の死を、他人事だと言い切った鏡一郎の言葉は、確かに正しい。私は死んだ人間の無念を盾にするような輩が嫌いだった。死んだ人間は何も思わない。私たちはあくまで生きている人間の理論で生きるべきだ。いや、他人の心など分からないのだから、それすらも欺瞞なのだ。他人の心を勝手に代弁し、自分を正義に仕立て上げる輩と、死者を蘇らせて正義とする輩の、一体何が違うのだ。
「多分、きみたちの言っていることは正しい。でも、他人事だからと言って、それを無視してしまうのはとても危険なことだ」
「危険? それは面白い発想ですね。先生は死が怖いのですか?」
「誰だって死は嫌なものだ」
「生と死は表裏一体のものですよ。死を嫌悪することは生を嫌悪することと同じです。終わりのない命など存在しないのですから、生命というものには、僕たちが望むと望まざるとにかかわらず、必ず死が内包されているのです」
「死んだことのある人間はいないからね。不安になって当然だろう」
 私の捨て鉢な返答が面白かったのか、鏡一郎は口に手を当ててくすくすと笑い始めた。華奢な体が笑い声に合わせて小刻みに震える。まじまじと見つめると、改めて女みたいな男だ。
「そうそう、先生はさきほど、詮索するなと末真さんに『も』言われた、と言いましたが、それは誤解です。僕は別に、詮索するなと言ったつもりはないのです。単に、詮索するのが無意味だと言いたかっただけなのです」
「同じ意味だろう」
「いいえ、無意味です」
 段々と、一体何を話しているのか分からなくなってきた。
「……鏡一郎くんは、ここに来て長いの?」
「ええ。もう二年になります。最初は色々と戸惑うこともありましたが、今はすっかりこの屋敷の住人です」
「霧坂家というのは、謎の多い一家だね。実は昔、霧坂花香の詩に魅了されていてね。天才女流作家の正体を探ろうと色々調べてみたんだが、さっぱりだ」
「ということは今回のお仕事は渡りに船ですね」
「そういえば鏡一郎くんは、霧坂思織について何か知らないかい?」
「霧坂家の歴史をまとめるという大義名分があるのですから、奥様に直接尋ねればいいのではありませんか?」
 逆に質問を返されてしまった。鏡一郎の主張はもっともだったので、私はそれ以上の追求を諦めた。しかし鏡一郎は続けて答える。
「僕も詳しくは知らないのですが、友音奥様は行方不明だと仰っていました」
「行方不明? 巷では殺されたという噂が流れているけど」
「さて、どうでしょうか。しょせん僕もただの家庭教師ですから」
 自虐しているのではなく、はぐらかしたのだと私は悟った。
 鏡一郎はうっすらと笑みを浮かべて私の方を手で示す。
「謎といえば、先生の方こそ謎だらけではありませんか?」
 私は表情を変えないように努めた。私の記憶のことを指して言っているのならこんなに居心地の悪いことはない。
「先生がいらっしゃる前から、先生のことは友音奥様から伺っていますよ」
「前、から? 私のことを?」
「ええ」
「一体どんなことを?」
「他愛のないことです」
「それを判断するのは私だ」
「あなたは僕たちの良き仲間になれると思いますよ」
 突然妙なことを言って、そのまま私のそばを通り抜けようとした。私は鏡一郎の肩を掴もうと手を伸ばしたが、まるで幽霊のような身のこなしでさらりと私の手を躱した。ゆっくりと廊下の向こうに消えてゆく。


***

 厨房に勝手に入り水を飲む。冷たい水を勢いよく飲み込んでいると、次から次に水が欲しくなる。いい加減きりがなくなって、溺死する前に水を飲むのをやめた。
 喉の渇きは潤したが眠気は一向に訪れそうにない。泡路と酒を飲んでいたときはすぐにでも眠れそうな気がしていたのだが、酔いは完全に醒めていた。
 わざと遠回りをして、屋敷の中をぐるりと一周する形で自分の部屋に戻ろうとした。
 途中、南階段の前を通ったとき、立ち入りを禁止された地下室の扉が開いているのを見つけた。
 私は不審に思って足を止めた。今は真夜中である。誰かが中にいるのだろうか。
 見つからないように、そっと扉に近づいた。

 ――何かを思い出す。

 立ちくらみがした。
 ――薄暗い部屋。冷たい風。
 私は壁に手を突いて体を支える。うめき声が出る。
 ――空気が渦を巻く。
 開いた扉の奥には下へ伸びる階段がある。
 ――乾燥で喉に舌が張り付くよう。
 階段の先は、薄暗くてよく見えない。なのに私は、その先に何があるのかを知っていた。
 ――うなり声。
 思い出せない。しかし私は、すでにそれを見たことがある。
 ――うなり声。
 強烈な既視感に襲われていた。そうしているうちに、記憶の一部が蘇った。
 ――うなり声。
 感情だけが先走る。理性は戸惑ったように不合理な現象を押さえ込もうとした。
 しかし私の現実では、記憶と同じ音が今も響いている。

 ――ゥゥゥゥウウウウウウンンンン……

 肩を叩かれた。
 私は小さく叫び声を上げた。大きな声を出さなかったのは深夜ゆえの配慮ではなく、咄嗟のことに声の出し方すら忘れてしまったからに他ならない。
 振り返ると泉多喜子が私の肩に手を置いていた。彼女の背後に銀色の台車があった。
「どうなさいました?」
 冷静な声で私に質問しながら、さりげなく私と地下室の間に入ると後ろ手に扉を閉めた。
「……その部屋には一体何があるのですか?」
「ただの物置です。中は片付いていないので、入らないでください。それで、こんな夜中にここで何をなさっていらっしゃるのですか?」
「その、喉が渇いたので、水を飲みに。途中ここを通ったら、扉が開いているのが見えたもので」
「そうですか。きっと誰かが鍵を閉め忘れたのですね」
「鍵を持っているのは誰ですか?」
「もう遅いですし、早めにお部屋にお戻りください。お部屋の場所は分かりますか?」
「ええ、まあ」
「それでは、お休みなさいませ」
 多喜子は深く頭を下げた。戸惑って私がその場でおろおろしている間も多喜子はずっと頭を下げたままだ。私が大人しく退散するまでずっとそうしているつもりなのだろう。頭を下げている彼女が、まるで禁じられた部屋を守る番人のように感じられる。
 私は大人しく部屋に戻ることにした。多喜子に挨拶を返して、階段から離れた。
 途中、多喜子が持ってきた台車が目についた。台車の上は銀色の丸い蓋が被せてある。
 多喜子と別れて部屋に戻るとき、その異常さに気がついた。
 あの台車は夕食の時に見たものだ。使用人たちが机に料理を運ぶときに使っていたものだ。あの銀色の蓋は料理が冷めないように被せるものだ。
 あれは食べ物なのだろうか。しかし私が厨房で水を飲んでいたときには誰もいなかったはずだ。私が厨房を出てからどれくらいの時間が経った? 五分か、十分か。その間に料理を作れるものなのか。だとしたらあれは料理などという上等なものではなく――ただ飢えを満たすための、餌でしかないのか。
 だとしても、地下室に食べ物を運んで一体どうするつもりなのか。
 あの地下室に誰かがいるのだろうか。
 部屋に戻って目を瞑ると、疲れが溜まったせいかあっさりと眠りに落ちることができた。
 真夜中、廊下で足音が聞こえたが、あれは夢なのか、現なのか――。
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