第一章

人間の苦悩の大半は言語ゲームである/手がかりはすべて公開されました


 集合住宅を追い出された。築二十年のおんぼろだったが、愛着を持っていただけに残念である。しかし家賃を払えないのだから出て行くほかは仕様がない。しかも家賃どころか、今日の夕飯にすら窮する有様である。
 ことの始まりは今年の七月の、最初の月曜日。私はいつものように原稿を持って、牛島ビルの二階にある日取出版編集部を訪れた。私の担当編集者に原稿を渡したとき、なぜかその場に編集長が同席していた。編集長は白髪の目立ち始めた骸骨のような男で、外見に似合わず陽気な話し方をする。編集長が私に何の用だろうかと、最初は嫌な予感がしたものの、彼は一向に雑談を辞める気配がないものだから油断してしまった。私は編集長が、いつも本題を後回しにする非常に回りくどい人間だということを忘れていた。
 ことのついでのような軽い口調で、私が小説を連載している雑誌、「怪談四季」の休刊を告げられた。ひいては、今連載している物語を、あと三回分の連載で畳んでくれ、とも。
 言いたいことが一気に喉元に殺到して、私は「はい」とも「いいえ」とも答えられなかった。代わりに呻くような感動詞が口から出た。編集長はそれを手前の都合の良いように解釈して、満足そうに頷くと私の肩を軽く叩いて席を立った。その場には、怒りと困惑と不安で胸を詰まらせた売れない小説家と、気まずそうに目をそらす若い編集者だけが残された。
 打ち合わせの結果、残りの三回分は私の好きなように書かせてもらえることになった。編集者が私を気の毒に思って融通してくれたのかもしれないが、意地悪な見方をすれば、休刊の決まった雑誌の物語などどうなろうと興味がないのだろう。
 そのときになって私は、編集部自体が非常に慌ただしく動いていることに初めて気づいたのである。後になって知ったことだが、そのとき日取出版編集部は次に刊行する女性向け週刊誌の準備に手一杯だったそうだ。もはや「怪談四季」のことなど単なるお荷物だったのだ。彼らの興味は次の雑誌に向けられていたのである。
 編集者との打ち合わせを終えて、自宅に戻り、それから私は三日間、部屋から一歩も出ることなく物語の構想を練っていた。せっかく自由をもらったのだ、編集部への当てつけにとんでもない駄作を書いてやろうかとも思ったのだが、小心者の私にそんなことをする勇気もなく、最終的には編集部が望むような、当たり障りのない、こぢんまりとした、毒にも薬にもならぬ原稿を書いてお茶を濁してしまった。まったく、我ながらいかにも小市民的である。
 しかし私の物語がどのような終着点を迎えようとも、私には金がなく、いつまでも私の物語の感傷に浸っている時間はない。急いで次の仕事を探さなければならなかった。しかし近頃の不況は出版界どころかこの国全体に一足早い冬の木枯らしを吹かせており、名前の売れていない私がそう簡単に次の仕事にありつけるはずもなかった。おまけに私はとある事情により普通の人が持っているようなしかるべき経験や知識も持ち合わせていない。ただ唯一、つまらない怪奇小説を書くことこそが、この社会で私が果たすことができる役割だったのである。

 そんなとき、あの手紙が届いた。

 錆の浮いた郵便受けから封筒を抜き出したとき、その上質な紙の手触りに驚いた。今時珍しく封蝋が施してある。私の部屋の小さなちゃぶ台にその封筒を置いた。私がじっと見つめても、赤い色の封蝋は勝手に溶け始めたりはしなかった。蝋に押された印は「霧」の字をもとにした洒落た意匠である。
 私は慎重に蝋を剥がし、中の手紙を取り出した。どろりとした甘ったるい香りが一瞬だけ私の鼻に滞留した。
 流れるような筆跡の手紙である。女性の字のようだと私は直感した。しかも、若い女性ではない。三枚の手紙を全体で眺めたあと、一枚目の一行目から、気合いを入れて読み始めた。
 内容は季節の挨拶に始まり、突然の手紙を詫びる下りが続き、三枚目に至り、作家としての私に興味があり、したがって私を雇いたい、という内容に終わっていた。もし興味があるなら、この住所に来たれ――というだけの文章が、回りくどいほど丁寧に引き延ばされている。
 差出人の名前は霧坂友音、となっていた。住所はS県三竹村。私は口の中で差出人の名前とその住所を三度口の中で繰り返した。まるで呪文を唱える呪い師のように。
 数日後、集合住宅を引き払った私は鞄一つに収まってしまった荷物を持って、S県へ向かう鈍行の中にいた。明け方に出発したというのに昼になってもまだ目的地は遠い。タタン……タタン……と、継ぎ目の音が座席に響いている。列車は、私以外には数名の老人たちを乗せるのみだった。
 窓から見える景色は緑ばかりで、たまにトンネルに入ったときに真っ黒に変わるくらいだ。
 私は懐に仕舞っていた封筒を取り出した。差出人の名前を見て、呪い師のようにつぶやく。
 その名前と住所には心当たりがあった。S県の霧坂家と言えば一部では非常に有名で、特に私のような怪談に携わる者としては格好の種である。三竹村の山奥に洋館を建て、そこから一歩も出ることなく暮らしている謎の一族。戦前は華族として政界の一角を担い、戦時中は軍部を裏から操りアジアの戦局を欲しいままにし、戦後は占領軍と秘密裏の交渉を繰り返しこの国の行く末を決定づけたとも言われている。先々代の当主である霧坂武言が事業を畳んでからは表舞台からは姿を消し、霧の深い山奥の土地に建てた洋館で世俗からは断絶した生活を送っている。霧坂の人間は今でもこの国の政治中枢に絡んでいるという噂があるが、真相は定かではない。
 今はもうまるで歴史に忘れ去られたかのような霧坂家だが、先年、霧坂家の人間が霧の館を出て再び表舞台に登場した。
 それが霧坂花香だ。彼女は詩文家だった。当時十五歳だった彼女は、詩文の権威ある新人賞を史上もっとも若く授賞し、文学界へ鮮烈に登場した。彼女の詩集であり唯一の著書である「愚か者の詩歌」は私の愛読書である。
 霧坂花香は私がもっともひいきにしている作家だった。五年前、右も左も分からずに孤独や不安と戦っていたわたしを、彼女の詩集は優しく力づけてくれたのだ。彼女の登場が話題になったこともあり、普段は本など読まない者が当時はこぞって本屋に詩集を買いに行き、あちこちの喫茶店では似非評論家たちのにわか仕込みの詩文談義が繰り広げられていたものだ。自分こそは真に文学を理解する者だという自負のあった私は、流行に流されるだけの軟派な人々の行為に少なからず苛立った覚えがある。
 しかし世間にいるのは私のような友好的な読者ばかりではない。あの謎の多い霧坂家の娘ということで、当時は様々な取材や憶測の対象にされたものだ。それが原因だったのか、あるいは別の事情があったためか、霧坂花香は詩集を出版してから数年後、唐突に引退を宣言すると再び霧坂家の館に戻ってしまったのである。しばらくはそのことが世間の話題をさらったが、やがて人々は霧坂家のことなど忘れ、それに伴って詩文の流行は一瞬で熱が引いてしまったのである。
 霧坂家について分かっていることは少ない。現在の家長が霧坂千秀で、その妻が友音。夫妻には四人の娘がいて、一部では霧坂四姉妹と呼ぶ向きもある。霧坂花香は霧坂四姉妹の三女である。長女は雛夜、次女は思織、四女が里理で、みな絶世の美女だという噂だ。
 霧坂花香が詩文家としての絶頂期にいたころ、次女の思織が亡くなったという噂が流れた。なぜそんな噂が流れたのかは不明だが、当の霧坂花香はそれをきっぱりと否定した。ただし、思織が死んだという証拠も、逆に彼女が健在である証拠も存在せず、噂はますます週刊誌の読者たちを引きつけた。――ある雑誌など、霧坂思織は何者かに殺されたのだと書き立てた。家族に対するそうした詮索が、霧坂花香の引退を早めた要因の一つだったのかもしれないと、今になって私は思うのである。
 電車の窓からは山間部の集落が見え隠れしている。こんな山奥にも人々の暮らしがあるのだ。こんな山奥で暮らすのはさぞ愉快だろうと私は思った。生活のために稼がねばならないから都会に住んでいたが、金の心配さえなければ私は迷わず田舎を選んでいただろう。住めば都ともいうが、本当の都である東京の町に、私は未だに愛着というものを持てないでいた。あのおんぼろの集合住宅は私にとって心休まる場所であったが、こうして都会を追い出されてみると清々したという気持ちが少なからずあった。
 窓から視線を戻すと、同じ車両にいる他の乗客たちがみな私の方を見ていた。髭の生えた達磨みたいな爺に、今にも倒れそうな面長の老人、魚みたいな顔をした気の強そうな老婆に、くすんだ色の服を着た影のような老婦人。それぞれ別の事情を持った、お互いにまったくの他人のようだったが、彼らが私を見る視線は一様に冷ややかだった。
 私と目が合うと、彼らは一斉に私から目をそらし、窓の景色を見たり、あるいは車内の内側を穴でも開けるみたいに見つめ始めた。私は自分の足下に視線を落とした。目を離した途端、再び彼らの視線が私に集まるのを感じる。
 田舎者はこれだから困る。外から来た人間がそんなに珍しいのか。これから向かう先に薄ら寒いものを感じて、私は外套の襟を合わせた。
 錆付いた山の駅で電車を降り、そこから三竹村へはバスで向かう。幸運にも数分の待ち時間でバスが来た。時刻表を見ると次のバスは二時間後である。
 バスの中に乗り込むと、乗客はわたし一人だけだった。
「お客さん、どっから来たの?」
 運転手がルームミラー越しに私に話しかけた。日焼けで顔を真っ黒に染めたたくましい顔つきで、無邪気というよりはただの脳天気に見える。抑揚に強い訛りを感じたが、きっと本人は正確な標準語のつもりなのだろう。突然話しかけられたことに動揺を覚えながら「東京から」と答えた。
「ほう、東京からですか! もしかして、役者の方?」
「はい? いえ、違いますけど……」
「そうですか、それは失礼しました。あたしゃてっきり――。というのもですね、この辺りに旅役者が芝居をしに来るとか。お客さんも、時間があったら見に行ったらどうです?」
「そうですね。時間があれば」
「お仕事ですか?」
「ええ、まあ。……三竹村の霧坂というお屋敷に用があるのですが、ご存じですか?」
 私が霧坂の名前を出した途端、ルームミラーの中にある運転手の顔が曇った。愛想笑いを浮かべるが、肝心の私の質問には答えない。
 やがて私が諦めかけたとき、運転手が再び口を開いた。
「霧坂屋敷には、バス停を下りて、村の通りを山の方にずーっと歩いていけば着きますよ。でもあそこの山は霧がひどいから、行くんなら早めに行った方がいいね」
「霧が」
「おう。霧が、ね。今晩あたり出るんじゃないかね。いったん霧が出るともう駄目で、危なくて誰も山に入れないよ。東京の人はわかんねえかもしんねえけど、真っ白で何も見えねえんだから。無理に出歩くとあっという間に遭難だよ。今晩から……そうだねえ、三日くらいはずっと霧じゃないのかね。それにあの山、熊が出たこともあるしな」
 熊と聞いて、私の背筋に薄ら寒いものが走った。熊に襲われて全滅した大昔の集落の話を聞いたことがある。熊よけの鈴の代わりになるようなものは何かないかと考え始めたところ、運転手が続けて言った。
「でもま、熊なんて可愛いもんだね。あそこの人たちに比べたら……」
「それは、霧坂一族のことを言っているのですか?」
 運転手は黙った。
 山道の途中でバスが停まったが、乗り込んでくる人は皆無だった。バスはさらに山奥に進む。これ以上僻地に向かったところで果たして人は住んでいるのだろうかと、私はさすがに不安になった。霧に覆われた、獣の住まう山――まるで魔境である。
 やがて運転手は恐る恐るといった風に口を開く。
「俺はまあ、三竹村の人間じゃねえから、詳しいことは分からんですけど。お客さん、できれば行かない方がいいと思うな」
「なぜですか?」
「霧坂家ってのはんまり良い噂がないんですよ。山奥の屋敷に引きこもって下りてこない。地元の人間は霧坂屋敷なんて呼んでますがね。由緒ある華族の方々らしいですが、一体何を好き好んであんな霧の山に屋敷を建てたのか……。噂じゃあね、あの一族は、村人をさらって食べてしまうんだとか。怪しげな術を使って人を惑わすんだってね、みんな言ってますよ」
「まさか……」
「いえいえ、火のないところに煙は立たないって言うしね、案外夢物語ってわけじゃなさそうですよ。霧坂屋敷を調べていた村人が行方不明になったとか、ときどき外から何かを運んできたりとかね……。少なくとも、村の人は信じている。霧坂の人たちをみんな恐がってる。だからお客さん、どこに行くかって聞かれても答えない方がいいよ。止められるか、それとも――」
 運転手は運転中にもかかわらず私の方に振り向いた。
「あんたも仲間だと思われるよ?」


***

 バス停を下りてから、あの運転手の忠告通り私は村の誰とも話すことなく真っ直ぐに山の方へと向かった。胡散臭い話だとは思ったが、霧坂屋敷の恐怖の印象が私の心の中にこびりついて離れなかった。
 私は仕事柄あちこちの怪談を耳にしているが、人をさらう一族や、怪しげな術を使う者の噂話などありふれている。霧坂一族に対する噂もそういう類の、根も葉もない怪談のひとつに決まっている。そう結論づけておきながらも、なぜか私は、霧坂家に対する恐怖心を拭いきれないでいた。今こうして霧坂屋敷に向かっている最中も、山道を一歩進むごとに、何かに追い詰められていくように不安がうずいて仕方がない。
 三竹村は寂れた小さな村だった。みすぼらしい木造の家が並んでいて、見渡す限りの水田と畑と、その外側には森林しか見えない。途中何度も村人とすれ違ったが、山へ向かう私には誰も声をかけなかった。電車の中で見た人たちと同じように、冷ややかな視線を遠巻きに送るだけである。
 地図も案内もなく山道を黙々と歩き続けると、やがて徐々に道が細くなり、とうとう獣道ほどの大きさにすぼまってしまった。道を間違えたのだろうかと思ったが、村からはずっと一本道である、私がどんなに間抜けだとしても間違えようがないだろうと思い直した。
 一体あとどれくらい歩けばいいのか検討もつかない。道は左右だけではなく上下にも蛇行していた。そして気がつけばずっと上り坂が続いていた。これではまるで登山ではないか。登山靴を持ってくればよかったと冗談交じりに思った。下駄を履いている私には辛い道である。
 やがて坂を登り切ると、今度は鬱蒼とした広葉樹林に出た。道などとうの昔に見失っている。
 晩秋の森は熱病に罹ったように寒く、地面が蓄えた湿気混じりの空気が私の肺を満たした。歩くたびに下駄の歯が湿った地面に食い込んでいちいち足を取られる。そうやってもたついているうちにとうとう霧が出てきた。バスの運転手が熊と言っていたのを思い出して、私はますます焦って闇雲に歩き続けた。
 霧は煙幕のように私の視界を遮る。袴がしとしとと濡れるのが不快である。足を早めるあまり、目の前の木にぶつかりそうになった。これではまるで目隠しで森を歩いているようなものである。霧の中で見通せる距離と、手を伸ばして届く距離がほとんど変わらない。
 私はこの森の霧の深さに戦慄した。
 これでは霧坂屋敷どころではない。その前に森で遭難してしまう。
 がむしゃらに走りたくなるのを必死にこらえて、こんな時こそ落ち着かなければならないと自分に言い聞かせた。しかし落ち着いたところで、あの運転手の話を信じるならばあと三日は霧が続くということだから、結局のところ前に歩き続ける以外に方法はないのである。
 不安と後悔を押し殺すように私は前に進んだ。どれだけ歩いたのか見当もつかない。なにせ目の前は、どれだけ歩いたとしても真っ白などんちょうが降りたままである。張り合いのないこと甚だしい。まるでその場で足踏みをしているのと変わらないではないか。
 ――霧の隙間からぼんやりと見えていた太陽が陰り始めたとき、私の目の前に西洋の館が現れた。
 二階建ての石造りの館である。大きな庭と、それを囲うようにして鉄の柵が並んでいる。巨大な本館から少し離れたところに小さな小屋のようなものが独立して建っている。豪勢な西洋館だが、霧のせいで太陽の光が遮られ、なんとも陰鬱な雰囲気を漂わせている。よく見ると一階と二階に並んだ窓はすべてカーテンがかかっていてますます不気味に思えた。
 しかし私の視線は霧の館に吸い寄せられてピクリとも動かせなかった。
 じっと見ていると、私の視線で館に穴が開いて、そこから何かが溢れ出たみたいに、私の心に絡んできた。何かの感情が湧き上がる。これはなんだろう、と目を見開いたままで思った。何だか嫌な感じだ。しかしそれと同時に、妙な懐かしさも感じる。理由もなく、感情だけが湧き上がる。
 私は館に近づいた。鉄柵門は閉じていたが、考えなしに手で押すと、ギイと苦しそうな音を立てて開いた。蛾が光に誘われるように、私は無防備に館の敷地に入った。
 館の入り口に続く小道を歩く。途中、本館から離れた小屋が目についた。本館と比べるとずいぶん貧相だ。そう思いながら私は、特に理由があったわけではなかったが小屋の窓から中を覗いた。
 小屋の窓には鉄格子がかかっている。蔵のようなものなのだろうか。木の本棚に本がびっしりと詰まっている。掃除はされていないのか、窓から漏れる空気はかび臭い。鉄格子に手を掛け、背伸びをして、床の方を覗いた。薄暗い中を、目が慣れるまで辛抱強く見つめる。
 床に倒れていた人と目があった。
 しまった、見つかった――と、反射的にどきりとしたが、息を堪えてようく観察すると、それが死体であることに気がついた。
 背広姿の老人である。黒い口ひげを蓄え、肌は浅黒く、意地悪な知識人といった顔である。仰向けに倒れ、口を薄く開いて、何かを言いかけたような表情で固まっている。
 彼の胸は真っ赤に染まっていた。肌着から刃物の柄のようなものが突き出ている。刺されたのだろう。床に流れた血が埃と混ざり合っている。
 私は小屋の表に回った。そこに入り口があることをなぜ私が知っているのか、私自身にも分からなかった。
 小屋の正面には黒い木の扉があった。私は中に入ろうとしたが、扉には錆びた大きな南京錠がかかっている。扉を揺さぶるとわずかに隙間が空くが、扉自体は古くさい割にはずいぶん頑丈で、たとえその気になったとしても私一人では蹴破ることもできないだろう。さらにぐるりと小屋を一回りして、他に出入り口がないことを確認した。
 改めて窓から死体を覗き込む。死体が起き上がることを期待していたわけではなかったが、前に見たのと同じ状態で老人は同じ場所に倒れていた。
 妙な気分だ、私はなぜこんなに落ち着いているのだろう、と自問したのが拙かった。押さえられない恐怖が一気に吹き出して、今さらだったが、私はその場所に腰を抜かしてしまった。持っていた旅行鞄を放り投げてしまう。叫びたかったが声が出ない。気がつくと喉がからからだった。怯えながら、ではさっきまでの冷静な私は一体何だったのだ、と奇妙な気分を味わっていた。まるで私が二人いて、それがついさっき入れ替わったみたいに、感情がまったく統一性を失っている。
 私は尻を地面にこすりながらも小屋から離れようとして、背後から足音と声を聞いた。
「おい! お前、そこで何をしている!」
 振り返ると背の小さいのと大きいのが館から私の方に走ってきた。この館の使用人だろうか。ぼんやり見ていると、二人の男は腰を抜かしたままの私を取り囲んで見下ろした。
 作業着を着た小さい方の男が、弱者に対する優越感を剥き出しにして私を見下していた。番犬と表現するには少々下品すぎる。出っ歯のせいで悪知恵の働く鼠にしか見えない。一方、黒い生地の洋服を着た大きな方の男は、体格は立派だったが、表情はどこかぼんやりとしていて、何も考えていないように見える。まるで木偶の坊だ。
「お前は一体誰だ? ここで何をしている?」
「私は……」
 自分の身分を明かすのが先か、小屋の死体を知らせるのが先か、迷っていると、背の大きい方に先を越された。彼は私の視線を追って小屋の窓から中を覗き込み、しばらく経ってから無言のまま窓から離れた。巨漢はどもりながら鼠に報告する。
「す、末真(すえま)さん、な、中、殺されて」
「何だと?」
 末真と呼ばれた方は私からばっと離れると、小屋の中を覗き込んでうわっと声を上げた。すぐに振り返り私に詰め寄る。
「お、お前が殺したのか!」
「違う。私は……」
「宮島! そいつを押さえろ!」
 自分の身の潔癖を証明しようとしたところで、宮島と呼ばれた大男が私の首根っこを掴んで地面に押さえつけた。宮島は見た目通りのつわもので、私は必死に暴れたが、押さえられた体はびくりとも動かせなかった。
 喉を締め付けられて声も出ない。
 これはまずい、と思ったが、すでにどうしようもない。手首をねじ上げられ、強引に体を引き起こされたところで、凛とした女性の声が聞こえた。
「何事ですか!」
 その声を聞いて末真の背筋がピンと張り詰めた。まるで上官を前にした兵卒のようだ。当人に後ろめたいところがあるからなおさら気を張るのだろう。
 目だけを動かして館の方を見ると、洋装の女性がゆっくりとこちらに歩いてきた。近づいてくると、顔立ちがはっきりと見えてくる。私よりもずっと年上に見えたが、肉感的な体と切れ長の目、流れるような真っ黒な髪は、よく熟れた果実のように魅力的だ。全身から漂う気品がさらに彼女を引き立てている。
「あ、あの、奥様」
 奥様? すると、この女が霧坂友音か? 記憶ではもう五十歳に近いはずだが、一回りは若く見える。
 霧坂友音は私を一瞥すると、すぐに末真に視線を戻した。路傍の石を見るような態度である。
「そこの者は?」
「はい、庭で見るからに怪しい奴を見つけたので捕まえたのです。そしたら何と、小屋の中で樫木が殺されてたんです」
「樫木様が?」
「こいつがやったんです! そうに決まっています!」
「私は殺していない!」
 このまま濡れ衣を着せられたのではたまらないと、私は必死に訴えた。それが良かったのか、霧坂友音は再び興味を私の方に戻した。
「あなたは、どなたですか?」
「あなたに来るように言われたんですよ。作家として雇いたいと……。これ、これが手紙です」
 自由な方の手で着物の懐を探り、封筒と手紙を取り出した。
 霧坂友音は一目それを見ると、途端に厳しい表情を柔和で暖かな表情に切り替えた。
「そうですか、それではあなたが――。宮島! その方を放しなさい! その方はお客様ですよ!」
 友音が命じると宮島は私の腕と首を解放した。それでもなお、掴まれていた場所には指が食い込んだ痛みが残っていた。宮島は私から離れて申し訳なさそうにうつむいた。
 友音は手巾を取り出すと、私の服に付いた土や泥を払った。私はそれを慌てて遠慮する。ずいぶんと態度が変わるもので、親切にされるのが逆に気持ち悪かった。
「本当に、申しわけございませんでした。使用人がご迷惑をおかけしました」
「いえ、それは。こういう事態ですし、仕方がありません」
「それでは、館の中にご案内します」
「あの」
 私を館に連れて行こうとした友音が足を止めた。それだけの所作でも上品さが表れるのである。
「いかがなさいました?」
「あの、小屋の中の……」
「ご心配には及びません。それはこちらで処分いたしますから、先生は何憂うことなく、おくつろぎくださればいいのです。あのようなつまらないものに先生が煩わされるようなことがあってはなりません」
「しかし、あれは」
「さあ、先生はこちらに」
 そう言って強引に押し切られてしまった。それについ見過ごしていたが、先生と呼ばれるのはなかなかこそばゆいものである。


***

 私は応接室に案内されて、そこで紅茶を出されたきりしばらく待たされた。
 霧坂屋敷の中はいつか雑誌で見た西洋の豪邸を連想させるものであった。応接室に通される途中、広間の古時計が午後四時半を指していたのが見えた。
 長椅子に座りながら応接室の中を見回すと、真っ白な壁に囲まれて、長机の中央には硝子の灰皿が置いてあり、窓の正面には暖炉らしきものとその上に鏡があった。窓は腰のあたりから天井まである大きなものだったがすべてカーテンが閉ざされている。よく見ると布の四辺が窓の枠に打ち付けられていた。そこまでして窓を開けられない理由があるのだろうか。何とも妙な塩梅である。
 部屋の間取りを覚えるのにも飽きたころ、やっと霧坂友音が姿を現した。
 その後ろに、影のように侍女が付き添っていた。私のことなど目もくれぬ。それどころかこの世のあらゆることに対して無関心であるかのようだ。まるで機械のような女である。歳は四十近いだろうか。友音と比べれば一枚落ちるのは仕方がないが、美女であることは間違いない。
「お待たせいたしました」
 友音が上品に膝を折る。背後に控えた侍女もそれに倣った。なぜか私の方こそ恐縮して、彼女ら以上に頭を下げる小市民ぶりを発揮してしまう。友音は私の正面の席に座った。背後の侍女はもちろん座らない。
「ようこそ我が霧坂家へいらっしゃいました。わたしたちは先生を歓迎いたします」
「あの、死体は……」
「適切に処分いたしました。そちらに関しては追ってご報告申し上げます。それで、先生をこちらに招待させていただいた理由についてですが」
 私としては自分の仕事のことなどよりも先にあの死体のことを解決して欲しかったのだが、霧坂友音は貴族らしい鷹揚さでその話題をすっかり放置してしまった。
「先生には、霧坂家の歴史を本にまとめて頂きたいのです」
「歴史……ですか?」
「ええ。我が霧坂家が長い歴史を持っていることはご存じですか?」
「あの、詳しくは知らないのですが。由緒のある家系であるということは、聞いたことがあります。……ということは、伝記のようなものを書いて欲しいということでしょうか」
「そのようなご理解で結構です。元々霧坂家の土地はここではなかったのですが、先々代の霧坂武言がこちらに屋敷を移したときに、霧坂家にまつわる資料も一緒に運んできたのです。その資料というのが膨大で、整理されておりませんので、先生には資料を参考にして、霧坂家がどのような歴史を歩んできたか、一本の筋道の通った物語としてまとめていただきたいのです」
「あの……どうして私なのでしょうか」
 私は核心に触れる質問をした。
 友音は質問にはすぐに答えず、微笑んで私を見た。その仕草がじれったくて、私は自分を落ち着かせるために神経の何割かを向けなければならなかった。
「まだ、思い出せませんか?」
「え……」
「しかしいずれ分かることです。それに先生は、わたしが期待する以上の仕事をなさる方だと確信しておりますわ」
 話題はそれで終いとばかりに、友音は私への報酬やこの館に滞在する間の事務的な話を始めた。かなり強引なはぐらかしだったが、雇われの身である私にはあまり強くとやかく言うこともできなかった。そもそも私自身はこの依頼を受けるとは一言も言っていないのだが、いつの間にか受けることが前提で話が進んでいるのだからかなわない。友音が私を見る目には、期待と、羨望と、信心が混ざっていて、私が断ることなど夢にも思っていない風だ。
 とはいえ、友音が提示した報酬や私の待遇などは、ここでなければもう二度とお目にかかれないような好待遇であるわけで、自分の経済状況を考えればこんなにうまい話を断る手はない。金で飼い慣らされる不快感はあったが、背に腹は代えられないし、そのようなくだらない意地はぐっと奥歯で噛み締めねばならぬ。
 私が歴史書を執筆している間は、どうやらこの館に寝泊まりすることになるらしい。まさか住み込みの仕事だとは思っていなかったが、この館は霧のせいでしょっちゅう閉ざされるために、通いで働くということもできないらしい。実際、館の使用人は例外なく住み込みで働いているのだという。
 気になるのは仕事の締め切りである。友音は、完成はいつでもいいですよと言ってくれた。今まで仕事といえば締め切りがあるのが当たり前であったから、この条件は都合が良すぎて気持ちが悪いくらいだった。ついその裏に何か別の思惑があるのではないかと勘繰ってしまう。しかも、歴史書が完成するまでの間、私の面倒はすべて霧坂家が無料で見てくれるのだという。それでは、私がいつまでも完成を渋っていれば、永遠にここで養って貰える、ということになるのではないか。そう思ったが、私のことを一片も疑う素振りを見せない友音に言うことははばかられた。そこまで心配する義理はないし、それが私にとって得なことならばあえて指摘して馬鹿を見ることもないだろう。
「今日は長旅でお疲れでしょう。仕事のことは忘れて、しばらくごゆっくりお休みください」
「ありがとうございます」
「まず先生のお部屋をご案内します。……多喜子。貴穂を呼びなさい」
「かしこまりました」
 一礼すると、侍女は「失礼します」と言って部屋を出た。
「あれは泉多喜子と言って、わたしの使用人です。わたしの仕事の手伝いもしていますから、いつもわたしにつきっきりで、先生のお役には立てないことも多いと思います」
「はあ」
 私は気のない返事を返してしまったが、友音はまったく気にしていない様子だった。
 あまり経たずに、多喜子がもう一人の侍女を連れて戻ってきた。私のことを見つけると慌てて膝を折る。
 顔を上げた彼女と、隣に並んだ泉多喜子の顔はとてもよく似ていた。しかし似ているのは顔立ちだけで、彼女の方が一回り若く見えるし、表情もずっと柔らかく思えたが、印象は多喜子よりも薄かった。
「貴穂、先生に自己紹介しなさい」
「は、はいっ。泉貴穂です。えと、ご用の際は何なりとお申し付けください」
「泉? ご姉妹ですか?」
「はい。ご姉妹です」
 貴穂は微笑みながら答えた。多喜子がじろりと睨んで貴穂の表情は強張った。貴穂は姉ほど人間離れした侍女ではないようだ。
「この屋敷には他に二人の使用人がおります。末真武尾と宮島告です。先ほど先生にご無礼を働いた、あの二人です。あれも、先生の好きなように使ってくださって結構です。――貴穂、先生を部屋までご案内して」
「かしこまりました。お鞄をお持ちいたします」
「いえ、お構いなく」
 貴穂に案内されて、私は応接室を出た。


***

 館は広かった。学校の校舎ほどもありそうだ。こんなに広い館なのに、さっきから人とすれ違ったり、誰かの声が聞こえるということがまったくない。それに相変わらず窓はすべて塞がれていて、ますます怪しい雰囲気が漂っている。
「先生は小説家の先生でいらっしゃるんですよね?」
「私のことを何か聞いていますか?」
「いいえ。あまり詳しくは……」
 泉貴穂と交わした会話はそれだけである。私の切り返し方がまずかったらしい。館の雰囲気と怪しげな仕事に気圧されて妙な警戒心を抱いてしまったのだ。貴穂の方も、私のことを気づかうというよりは、遠慮して恐れている雰囲気である。
 廊下には絨毯が敷かれていて、私たちの足音を完全に殺している。天井に並んだ電球のおかげで暗くはなかったが、廊下を歩いていると左右の壁が迫って来るような、妙な閉塞感を感じてしまう。
 しかし洋館は、私が想像していたほどごてごてしい装飾はなく、全体的に簡素であった。もちろん飾り気がないという意味ではなく、入り口のホールにはチーク材を使った大階段と大理石の床があり、その天井には燭台を模した電灯のシャンデリア、壁には異国の風景を描いた石版画が飾られていた。しかし装飾と言えばその程度で、やたらと難解な油絵が壁一面に並んでいたりとか、石膏の彫刻が群れをなしているとか、壁にぴかぴかの西洋刀が飾られている、ということもなかった。
 廊下の向こうから美しい女性と、可愛らしい少女が歩いてきた。女性の方は白いふっくらとした洋装を身につけた、流れるような黒髪を持っていた。一方の少女は、小柄で色白で、髪は眉の上で正確に切り揃えられている。飾り気のない眼鏡の奥で、つぶらな瞳が真っ直ぐに私を見ていた。女性の華やかさが真珠なら、少女の可憐さは紫水晶のようである。
「あら。あなた――」
 女性の方が私を見て目を見開いた。私に何か不作法があったのかと、思わず立ち止まる。まったく小市民的である。何も恥じることはないのだから堂々としていればいいのだが、その女性の立ち振る舞いというか、いわゆる雰囲気のようなものが、私を小心者に変えてしまうのである。
「あ、あの。こちらは、奥様がご招待された小説家の先生で――」
「知っていますわ」
 女性が高飛車に答える。少女の方は私のことなど興味はなさそうだったが、女性の方が私と話し終わるのを待っているようだ。
「あなた、わたくしが誰か知っていて?」
「い、いえ……存じませんが」
 一体どこの有名人だろうと気圧されながら答える。
 女性は気分を害したみたいに鼻を鳴らした。
「わたくしは霧坂雛夜。霧坂姉妹の長女ですの」
「そうですか、わたしは――」
「不要ですわ。あなたと違って、わたくしはあなたの名前を知っていますから」
 そこでなぜか睨まれる。身に覚えのない恨みほど扱いのむつかしいものはないだろう。私は雛夜の機嫌の悪さを持て余して、あらゆる罵詈雑言と恨みをただひたすらうつむいて耐えるしかなかったのである。そして私を案内していた貴穂は私以上に恐縮して、その場に縮こまっていた。
「あなた、どんな小説を書いているの?」
 名前は知っているくせに、小説のことは知らないらしい。
「その、怪奇小説を」
「怪奇? 例えばどのような?」
「そうですね。例えば、自動で髪が伸びる日本人形の話とか。これは実話をもとにした話なのですが――」
「髪が伸びる、のですか?」
 雛夜がわずかに興味を示したので、私は調子に乗って語り出した。
「ええ。お寺に預けられた日本人形の髪の毛が、日に日に伸びていくという話が日本のあちこちに伝わっていて」
「髪が伸びて、それから?」
「え……と、伸びて、その、原因が分からないのです。不思議でしょう?」
「しかし現実に伸びたのですから何か原因があるのではありませんの?」
「その人形の前の持ち主だった少女が事故で死んでいるのです」
「人はいつか死ぬのですから、長くこの世に残っている道具の大半は持ち主が死んでいるのではなくて?」
 やりにくい女だ。私は語るのをやめた。
 私が語るのをやめるや否や、雛夜は意地の悪い微笑をこぼした。
「あら失礼。少し意地悪が過ぎましたわね。ですけど、あなたほどではなくてよ?」
「私がいつ、何を、あなたにしたというのですか……」
「あなたは人の心が読めますの?」
「読めません」
「それなのに、どうして自分は、誰も傷つけていないと確信できるのですか? その確信こそ、わたくしに言わせれば怪奇ですわ。なにしろ、原因が分からないのですから」
 嗜虐的な表情を覗かせて雛夜は言う。会話を初めてまだ一刻と経っていないのに、すでに私の全身を疲労感が包んでいた。
 雛夜はしばらく私のことをじろりと観察してから、一変して柔和な笑顔を作った。
「先生、これからよろしくお願いいたしますわ。この館は人間のために造られたものではありませんから、色々と不都合があると思いますが、どうかご容赦ください」
「それはどういう意味ですか?」
「いずれ分かることですわ」
 失礼、と言い残して、雛夜は私の前から去った。紫水晶の少女はすれ違うときにちらりと私を見たが何も言わなかった。
「……あの、すみません。雛夜お嬢様、気難しいところがありまして」
「いえ。大丈夫ですよ」
 主人の非礼を詫びる貴穂に、大丈夫と答えるのも億劫だった。
「あの、雛夜さんと一緒にいた女の子は?」
「里理お嬢様です。霧坂家の四女に当たります」
「無口な子でしたね」
「そうですね。わたしにもあまり話してくださいませんし……。よろしいでしょうか。それではお部屋へ」
「あ、はい」
 予想外の立ち話があったが、それから貴穂に案内され、私が泊まる部屋に着いた。
 貴穂が部屋の鍵を開けて、扉を開ける。私は室内に入り、鞄を寝台の上に置いた。部屋は思っていたよりも広かった。私の住んでいたおんぼろ住宅と比べれば天と地ほどの差があるだろう。部屋には鏡と洋服箪笥、小さな机と椅子が置かれていた。机の正面の壁には電話線の差し込み口のようなものがあったが、電話機は置かれていなかった。
「それでは、夕食のときにはお呼びしますから、それまでおくつろぎください。あと、その、何か用があれば、遠慮なく呼んでください」
 一礼してから、貴穂は部屋を出て行った。
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