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6.pensee

 昨晩はしきりに話しかけてくるゆーせいさんを邪険に扱いながら、わたしは何とか眠りの淵に意識を落とすことに成功した。次に殺されるのは自分かもしれないという恐怖はゆーせいさんから睡魔を完全に奪ってしまったらしい。わたしが眠ることで部屋に沈黙が訪れるのをひどく嫌っているようだった。それに共感はするけれど、全身を杭で打ち付けられたような重度の疲労を抱えたわたしにとって睡眠を妨害するあらゆる行為は敵意の対象となるのである。
 そもそもわたしになんか話しかけずに如月の方へ会話を振ればいいのに。如月は睡眠欲というものを持っていないのかわたしの隣で静かに呼吸をしながらぼんやりと天井を見つめているだけだった。多分ゆーせいさんは如月のことを完全に信用できないのだろうけど、その点に関してはまったくもって同感だった。
 何か夢を見ていたような気がするけれど、睡眠と覚醒の間には確かに覚えていたはずの夢の内容が、目を覚ました今となってはどうしても思い出せない。そういうわけで、その瞬間のわたしの感覚ではゆっくりと、あとの記憶では唐突に夢から覚めて、わたしが最初に感じたのは暑苦しさだった。
 如月の顔が目の前にあった。死んだように眠っている。わたしの体を抱きしめて。
 彼女の呼吸する音が聞こえなくて、てっきり死んでしまったのかと本気で心配したわたしは一応首筋に触れて脈を確かめる。微弱ながら血流の振動が指に伝わって、如月の生命活動が停止していないことを伝えてくれた。
 これで安心して如月の腕を振りほどくことが出来る。少し強引に彼女の腕を払った。
 寝ぼけた頭で洗面台まで歩いて行くと、蛇口をひねってうがいと洗顔をした。こんな山奥だというのに水は通っている。電気も来ている。なのに唯一の電話がフミナさんに押さえられている。
 如月に起きる気配がないのを確認してからベッドの脇にそっと近づく。彼女が生きているのか再び不安になってもう一度首に指を当てて、その心許ない脈を確かめる。もしかしたらわたしが顔を洗っている間に死んでしまったかもしれない。
 如月の首筋は白く、冷たい。
 なんとなく出来心で彼女の頬に手を滑らせた。生きているはずなのに、肌ではなくて、ただのタンパク質の固まりを触っているという感慨しか湧いてこない。
 指で頬を撫でる。
 美しい顔。
 完全な人間。
 控えめな赤い色をした唇。如月がその気になれば、自分の唇をルージュよりも赤く染めることが出来るのではないか。そうするのが一番都合が良いからと、わざと薄い色に留めているような、手加減の跡。
 如月がわずかに動いて、わたしは慌てて手を引っ込めた。
 呼吸が荒くなる。顔が熱い。
 わたしは一体何をしていたんだ。
 ドキドキと緊張して、もう一度彼女に触れたくなった。抱きしめて、その唇をわたしのものにしたいという欲望が芽生えた。
「……馬鹿なことを」
 如月を起こすのは危険すぎる。
 わたしは諦めて、部屋を出ることにした。傾いたドアを開けて、傾いた廊下に出る。ドアを閉める際に振り返って、床で盛り上がっている毛布を見た。ゆーせいさんも起きる気配を見せない。
 そういえば、今朝はゆーせいさんの姿をちゃんと確認していない。一度そのことに気がつくと、そればかりが気になってしまい、このまま下に行くわけにはいかなかった。次に殺されるのは自分かもしれない、と言っていたのを思い出す。
 そろそろと近寄って、わたしは毛布をめくった。
 そこにあるはずのゆーせいさんの体がなかった。わたしの持ってきた荷造りの下手なトランクが、消えたゆーせいさんの体を誤魔化すように代わりに毛布を被っていたのだ。


 慌ててダイニングホールに行くと、そこには誰もいなかった。
 ゆーせいさんがいない。
 キョウさんとフミナさんもいない。
 消えた? 全員消えた?
 がたがたと足が震えた。わたしは一人っきり、この館に取り残されたのか。みんな消えてしまったのか。
「……如月」
 走り出した。部屋に残っているはずの如月。彼女まで消えてしまったら、もうわたしにはどうすることもできない。一人では戦えない。彼女の存在を強く祈りながら、階段を二段飛ばしで駆け上がった。
 勢いよくドアを開ける。わたしの部屋のベッドの上に、さきほどと全く同じ寝相で如月が眠っていた。
 わたしは安堵のあまり、ドアを開けたまま廊下に座り込んでしまった。
 気がついたら泣いていた。安心したのだ。わたし以外にもまだ人がいる。如月の目を覚まさないように嗚咽を堪えながら静かにベッドに近づく。
 如月は静かな寝息を立てて眠っていた。まだ消えていない。ちゃんと生きている。思わず笑みがこぼれて、ベッドのそばに置きっぱなしになっていた携帯電話に気がついた。そういえば目覚ましはまだ鳴っていない。今は何時だろうと、携帯電話を開いて、わたしは自分の愚かさに気がついて死にたくなった。
 午前五時四十分。
 まだ起きるには早い時刻。
 そりゃそうだ、キョウさんもフミナさんもダイニングホールにいないはずだ。なぜなら二人ともまだ自分の部屋で眠っているからだ。
 結局のところ、わたしは一人で騒いで一人で焦り、一人で安堵して一人で泣いていたことになる。なんという独り相撲だ。自分の馬鹿さ加減もここまで来ると天晴れだ。いつか自伝を書くときはこのエピソードは絶対に漏らさずに入れることにしよう。わたしがいかに間抜けな女であるかをみんなに知らしめる必要がある。
 ――ひとしきり自己嫌悪に浸って、わたしはさらに重大なことを見落としているのに気がついた。キョウさんとフミナさんがまだ起きていないとして、それじゃあ、ゆーせいさんはどこに行ったんだ?
 自分は今朝起きて、廊下に出たとき、鍵を開けたか?
 背筋にぞわりと寒気が走った。
 昨晩は確かに鍵を掛けた。それがわたしたちの生命線なのだから、記憶違いという可能性はない。その鍵が、今朝は開いていたのだ。
 それからのわたしは自分でも驚くほど冷静で的確だった。如月、フミナさん、キョウさんを大声で叩き起こし、まだ寝ぼけ眼の三人を玄関ホールまで強引に連れて行った。全員の頭を眠気から解放するために厨房でコーヒーを淹れるのも忘れない。
 三人に淹れたばかりのやたら黒いコーヒーを配りながら(インスタントコーヒーだったが眠気を覚ますためとはいえ少し入れすぎたかも)、昨晩ゆーせいさんがわたしの部屋に来たこと、今朝になって忽然と彼の姿が消えたことを順番に説明した。
「……すると」キョウさんは子供のように目をしばたたかせた。「こういうことですか? まるさんと如月さんの部屋から、ゆーせいさんも消失した」
「さっきからそう言ってるじゃないですか」
 そうか、と口の中で何度も繰り返しながらキョウさんはコーヒーを一口飲んだ。途端にしかめっ面になる。眠気を覚ますことだけに特化したわたしのコーヒーはどうやら口に合わなかったらしい。
「フミナさん。二人の人間が消えて、それでもまだ何も起きていないと言い張るつもりですか?」
「そうですね……」
 フミナさんはコーヒーの水面を見つめながら何かを考えているようだ。フミナさんは可愛らしいピンクのネグリジェを着ていた。叩き起こされたばかりでまだ頭が働いていないだろうに、決して不用意にわたしに同意するようなことはしない。そこに、フミナさんの狡猾さというか、抜け目のなさが表れているような気がした。
 隙のない瞳がゆらりとコーヒーの水面を滑る。やがてゆっくりと顔を上げて、
「それでは、まるさんはどうするのが最善だとお考えですか?」
「警察に通報するのが最良だと思います」
「その前に、歪曲館の周辺をもう一度確認するべきだと思います。どのみち、この嵐では通報したところですぐには来られませんわ」
 この期に及んでもまだフミナさんは通報に乗り気ではなかった。じっと彼女の瞳の奥を覗き込んだ。あるいはそこに、犯人が持っているはずの嘘や悪意を見つけようとしたのかもしれない。
 外はまだ嵐が吹き荒れているけれど、昨日と比べればかなり穏やかになりつつある。昨日のような目に遭うのはもう御免だったし、ここに持ってきた服は今着ているブラウスが最後だ。外を捜索するにしてもわたしは行きたくない、という旨を三人に伝えた。
 本当のことを言えば、館の外で誰かと二人きりになるのが嫌だったのだ。嵐の中、悲鳴も聞こえないような状況で、犯人かもしれない人間に背中を預けるのは不安だった。
「でしたら私が行きますよ。さすがに二度目はまるさんに気の毒ですし。フミナさん、お付き合い願えますか?」
「私も一緒に行くんですか?」
「ええ。私が外に出た途端、鍵を掛けて閉め出されては大変ですからね。念のため、です」
 キョウさんも容赦がなかった。フミナさんはそれでも柔らかい笑顔を浮かべて、冗談を聞いては静かに笑ういつもの彼女のスタイルを牢固に守っていた。
「でしたら、私たちが外を探しに行って、キョウさん一人だけで戻ってきたときは――そのときは、キョウさんを捕まえてくださいな。犯人はキョウさんですわ」
「いやはや。信用がありませんな」
「それはお互い様でしょう?」
「だったらこうすればいいのさ。二人は常に行動を共にする。片方だけが戻ってきた場合は、どんな言い訳をしようとその人物を犯人と見なす。いいかい?」
 今まで黙っていた如月が強引に二人の応酬を取り押さえた。もしかしたらわたしに睡眠を邪魔されたことが不愉快だったのかもしれない。機嫌が良いのか悪いのか、高度にコントロールされた表情からはそう簡単には読み取れない。
 キョウさんとフミナさんは一度自室に戻り、三十分ほどで身支度をしてして戻ってきた。その間にわたしはテレビを点けて今日の天気を調べた。少なくとも午後には嵐は晴れるらしく、うまくいけば予定通りに家に帰れるだろう。嵐が上がり、わたしが殺されなければ、の話だ。
 二人はカッパを着ていた。フミナさんはちゃんとズボンを穿いていて、昨日のわたしみたいな間抜けな失敗はしていなかった。
「それでは、鍵を開けてください」
 キョウさんが言うと、フミナさんが両開きの巨大なドアに鍵を差し込む。鍵を開けたものの、風が正面から吹いているせいでなかなかドアを開けられなかった。
「どれくらいで引き上げるんですか?」
「何も見つからなかったとしても昼までには戻ります」
「あんまり無理はしないでくださいね。二人が遭難したら――」
「そのときは遠慮無く警察に通報してください」
 キョウさんがフミナさんへ視線を送りながら皮肉っぽく言う。
「まるさん。お願いがあるんですが」フミナさんは澄ました顔でキョウさんを無視する。「私、今日は朝ご飯を作れそうにないので、代わりに作っておいていただけませんか?」
「え? でもわたし、フミナさんみたいに美味しいご飯は……」
「トーストだけでも構いませんわ。あと、お風呂にお湯を張っておいて欲しいです。もしかしたら使うかもしれませんし」
「はい。分かりました。留守は任せてください」
 フミナさんが頷いた。キョウさんが一歩退いたところでわたしたちのやりとりを見ていた。
 危ういバランスの二人は、並んで嵐の中に飛び出す。わたしはその背中を見送りながら、これ以上雨が館の中に入らないようにドアを閉める。


 わたしが初めて鉛の歯車というサイトを見つけたときは、少なくとも今ほど規模の大きなサイトではなかった。オフ会なんてもっての他、千歳うららさんの書評と、それに関してコメントする数人の常連たちだけの小さなコミュニティだった。今回のような、洋館を貸し切ってのミステリーツアーなど想像も出来ない。わたしにとっても、よく見るお気に入りのウェブサイトのひとつ、という以上の特別なものではなかった。
 雑誌に紹介されたり、有名な推理小説家との独占インタビュー記事がサイトに載ったあたりから鉛の歯車の来訪者が徐々に増え始めた。西くんやキョウさんともその頃に知り合った。
 わたしと千歳さんの仲は特別良かった、というわけではない。どちらかというとキョウさんの方がずっと千歳さんと親しかったし、彼のことを尊敬していた。わたしにとっての鉛の歯車は「他のみんなと遊ぶための場」という以上の意味はなかったけれど、多くの人にとっては、千歳さんと話し、千歳さんの記事を読み、彼の考えを少しでも理解するための――あるいは彼のためのファンクラブのような意味があったのかもしれない。
 千歳さんはとにかく頭の良い人だった。彼の書く文章や、笑いのセンス、文学に関する造詣、チャットで時折交わされる議論でも彼の論理的な思考能力の優秀さが表れていた。
 それでいて人当たりは良かった。とにかくサービス精神が良いのだ。子供のような悪戯を平気でやってはわたしたちを楽しませてくれた。オフ会をやろう、という話が上がり、それならミステリーツアーにしようと提案したのも千歳さんだった。
 わたしが最初に鉛の歯車を訪れたときからフミナさんはすでに副管理人だった。元々はただの常連だったが、ウェブ関係の知識に疎い千歳さんにいくつかの技術的なアドバイスをし、住んでいる地域が偶然近いこともあって、何度か会ううちに意気投合し、副管理人ということで共同してサイトを運営することになったのだという。
 わたしが見ていた限りでは二人の分業はとてもうまくいっていた。企画や記事は千歳さんが書き、ウェブ関連の作業はすべてフミナさんが担当する。フミナさんは管理人というよりも、あくまで常連の延長だという印象がわたしたちの間では強かった。表に出るのはあくまで千歳さんで、フミナさんはあまり強く自分をアピールしたことがない。新参者には副管理人のシステム自体知らない人もいたくらいだ。
 千歳さんはあまり自分のことを話したがらない人だった。いや、インターネットという、不特定多数の人間と接する場で、その心がけは決して間違っているわけではないのだが。彼が画家だという話は自己申告でしかない。どのような絵を描くのか、どんな名前を使っているのか、千歳さんを最も信奉している(とわたしは思っている)キョウさんも知らないらしい。
 ゆーせいさんと千歳さんは鉛の歯車のかなり初期の段階からの付き合いだ。当時はまだアクセス数も少ない小さなサイトだったので、同じく小さな感想サイトだったゆーせいさんとは気が合ったのだと思う。と言っても、それはあくまで共にサイトを持つ者同士という以上の意味はない。他の常連ほど千歳さんに心酔していたわけではなかったと思う。
 今回のツアーでの一番の新参者が西くんだ。彼が初めてチャットに書き込みをした日をわたしはよく覚えている。他人に壁を作らない、歯に衣を着せぬその言い方は、最初はとても無礼な人だと思ったけれど、それは単に言葉の使い方の問題で、西くんは他人に対して敬意を忘れたことはないし、度を過ぎた冗談を言うこともない。その辺りの線引きは抜群に上手かった。
 去年の秋だった。オフ会の成功がサイトで公開され、千歳さんが考えたミステリーツアーの台本をネタに、オフ会参加者以外の常連たちも大いに盛り上がっていたころだ。
 あの日のことは記憶に新しい。まだ一年しか経っていないのだから。
 いつものようにブラウザを立ち上げて、鉛の歯車へアクセスすると、サイトのトップには、千歳さんの自殺と、サイトの管理をフミナさんが引き継ぐことが書かれていた。
 最初は千歳さんの冗談だと思った。そんなセンセーショナルな出来事が、まさかわたしのよく知っている人間の身に起きるとは思わなかった。普段人殺しの小説をあんなに読んでいるくせして、いざ自分の身近に起きるとなかなか信じられないものだ。
 千歳さんは自室で首を吊っているところを家族に発見されたらしい。千歳さんと突然連絡が取れなくなり、フミナさんが実家に連絡を入れたところで彼の自殺が分かったのだという。多分フミナさんは家族から自殺の原因を聞いていると思うのだが、わたしたちには絶対に漏らさなかった。
 以降、彼女は千歳さんに関するあらゆる質問を遮断した。まるでそれがタブーであるかのように。その空気は他の常連たちにも感染した。半年も経たないうちに、千歳さんの名前を出す人間はいなくなった。
 千歳さんの死から、もうすぐ一年が経つ。


 キョウさんとフミナさんがゆーせいさんを探しに館の外へ出たのを確認してから、わたしは二階の西くんの部屋へ行くことにした。もう一度自分の目でこの館を調べて、何が起こっているかを確かめる必要があると思ったのだ。
「如月はどうするの?」
「私は真理紗の代わりに朝食を作ろう。思考の邪魔をしては悪いからね」
「……あんた、本当は何もかも分かってるんじゃないの?」
 頬の筋肉を動かして、曖昧な表情を作ってから、彼女はひとり厨房へ向かった。結局何も答えなかった。すべてを知っているかもしれない彼女は、一切関わらないことを選んだのだろう。
 まあいい。
 それならそれで好都合だ。
 西くんの部屋に入る。前に見たときと同じ。閉じたバッグがベッドの脇に置いてあった。わたしはバッグをベッドの上に置いて、ジッパーを開いた。中に入っているものを順番に取り出して確認する。
 着替え、タオル、洗面具、文庫本など、如月が報告した以上のものは見つからなかった。一応バッグのサイドにあるポケットも探ってみたけれど、ポケットティッシュとタオル生地のハンカチが見つかっただけだった。
 鞄の中には何もない。ではこの部屋自体はどうか。
 丸テーブルにあるレポート用紙の冊子を確認した。一番上の紙には推理ゲームでの各人の証言がまとめられていた。西くん以外の四人の名前と、それぞれがどの時間帯にどこにいたかが図で整理されて書かれている。まだ推理の途中だったらしく、アリバイを確認するだけに留めているようだ。それ以降の紙はすべて白紙だった。
 ベッドの下、屑籠の中も確認する。特に目に付くものはない。屑籠には丸まったティッシュが捨ててあるだけだ。
 クローゼットの中は空。そういえば、西くんは服を着替える前に消えたのだろうか。
 もう一度バッグの中を確認すると、下着はトランクスと半袖のインナーのシャツが二組。ジーンズとカーゴパンツ、フード付きのチェックシャツ、黒を基調としたニット。それらの服は使われた形跡がない。
 服は二セットあると考えて、二泊三日の予定ならば普通は替えの服を二着用意するから、西くんは着替えをする前に消えたということになる。寝間着がないのは下着だけで寝るとか、裸で寝るとかいった習慣なんだろう。どちらにしろ脱いだ服がこの部屋にないということは、就寝前に襲われた可能性が高い。
 ……いや、服を着てそのまま寝たという可能性もあるか。
 ゆーせいさんが夜中に、謎の男が西くんの部屋に入るところを見ている。あの証言をどこまで信用していいのか分からないけれど、だとしたら西くんはあのときに襲われたのか? いや、そうだとしたらワインセラーの血痕が説明できない。
 犯人はここに西くんを迎えに来て、一緒にワインセラーへ行ったあと、彼を殺害した?
 そういえば彼の荷物には時計がない。わたしと同じように携帯電話を時計の代わりに使っていたのだろうか。その携帯電話もこの部屋にはなかったけど。西くんのポケットに今も入っているのだろうか。
 サイドボードが目に入った。引き出しを開けると、中には白い紙の薬袋があった。表には「山本順平」という名前と薬の名前、用法が書かれていた。山本順平というのが西くんの本当の名前なのだろうか。しかしわたしの興味を引いたのはその薬の用法だった。
 心臓の薬だ。速効性硝酸薬。狭心症の発作の特効薬だ。
 西くんは心臓病だったのか。この事件に何か関わりがあるのか? 少し想像を巡らせてみたけれど、このピースは当てはまる場所が見つからない。初日の彼の様子を見てもそれほど体調が悪いわけではなさそうだったし、薬もほとんど使われた形跡がない。ということは最近はほとんど発作を起こしていないということだ。
 薬をサイドボードに戻して、もう一度部屋を見回した。
 まだ何か見落としがあるのか?
 如月が言っていた、足りないものがある、というのは?
 この事件の全体像が見えない、とわたしは思った。犯人が何を考えているのかが分からない。何を意図した結果がこの現状に繋がっているのか。
 最大の謎は、西くんとゆーせいさんの死体をどこに隠したか、ということだ。今はキョウさんとフミナさんがゆーせいさんを探しに行っているが、歪曲館の外で簡単に見つかるとはどうしても思えない。そんな単純な場所に隠したのでは意味がないからだ。二人が戻ってきて、ゆーせいさんの姿も見つからなかったとなると、フミナさんも警察を呼ばざるを得なくなるだろう。そうなれば今度は警察がやって来てこの辺一帯を徹底的に捜索するだろう。そうなれば生半可な場所では隠し通すことができない。
 死体さえ見つからなければ殺人事件は成立しない。犯人が完全犯罪を目論むとして、最も効果的な方法が死体の隠蔽だ。犯人はこの一点に自らの知恵のすべてを賭けたのだろうか。
 この館では二度、人間の消失が起きている。特に昨晩は、わたしも如月もゆーせいさんのすぐ隣で眠っていたのだ。あれだけ怯えていたゆーせいさんが、キョウさんとフミナさんのどちらかが犯人だとして、その呼び出しに応じて部屋を出るとは思えない。
 だとしたら犯人はわたしたちの部屋に侵入して、ゆーせいさんをさらったのか? いや、それこそ不可能だ。わたしは部屋に鍵を掛けていたし、ゆーせいさんが全くの無抵抗で暴れる音ひとつ立てなかったのは不可解だ。
 まるで恐ろしいものを見つけたときのよう。急に心細くなって、吐きそうなほどの恐怖がわけもなく鎌首をもたげた。
 犯人はどうやってゆーせいさんをさらったんだ?
 そんなこと、絶対に不可能だ。
「問題は二点……。わたしたちが起きないか、ということと、部屋の鍵」
 例えばドアの下から麻酔ガスのようなものを部屋に注入して、わたしたちが目を覚まさないようにしてから部屋に侵入、ゆーせいさんをさらって毛布とトランクでゆーせいさんのダミーを作る。それならばわたしたちの存在は気にせずに存分に犯行を行えるだろう。
 だとしても問題は部屋の鍵だ。あの鍵は中からでなければ解錠ができない。そもそもドアの外に鍵穴が存在しないし。ドアの下のわずかな隙間から鍵を開けられるか? いや、施錠するならともかく、鍵を開けるのは絶対に不可能だ。
 もう少し単純化して考えてみよう。
 部屋の中にいたのはわたしと如月とゆーせいさん。鍵は中からでなければ開けられないと仮定するならば、部屋の中にいた誰かが開けたとしか考えられない。
「ってなると、やっぱりゆーせいさんが自分から開けたとしか考えられないのよね……」
 わたしは頭を抱えてしまった。そもそも犯人の、殺人の動機が不明だ。このオフ会でお互いに面識があるのはフミナさんとキョウさんだけで、二人が殺されるのならまだしも、ネット上でもそれほど付き合いが長くない西くんが真っ先に消されたというのがどうも腑に落ちない。
 ああ、ちょっと待った。仮にゆーせいさんが自分からドアを開けたとしたら、その理由は何だろうか。ドアを開けても自分は消失しないという確信があったから? その根拠は何だろう。
 ――それは、ゆーせいさんも犯人の一味だからではないのか。共犯者をわたしたちの部屋の中へ招き入れるため。
 歪曲館の中で殺人を犯す上でのネックになるのが、各部屋についている鍵だ。これは内側にいる人間が鍵を閉めて寝ている限り、外部にいる犯人には中に入る手段が何もない。ゆーせいさんの目的とは、わたしたちの部屋の内側に入り、共犯者のために部屋の鍵を開けることだったのではないのか。
 ゆーせいさんは鍵を開けて、犯人を中に招き入れる。ところがそこで仲間割れが起きたのか、あるいは共犯者は最初からそのつもりだったのか、ゆーせいさんを殺害してしまう。
 我ながら悪くないアイデアだと思ったけれど、やっぱりこれはただの想像の域を超えない。単に「これならばあり得る」という可能性のひとつでしかなくて。これでは単に可能性で遊んでいるだけだ。
 決定打を得られないまま、わたしは西くんの部屋を出た。
 フミナさんたちが戻ってくるまでまだ時間がありそうだ。この機会に他の個室も見て回ろうか、と考える。それがモラルの欠如した行為であるとは自覚していたけれど、わたしの生命の危機と天秤にはかけられない。もしかしたら、わたしの寝ていたすぐそばで殺人が行われていたかもしれないのだ。
 西くんの部屋とゆーせいさんの部屋は廊下の端と端に位置している。その中間にフミナさんの部屋があり、廊下の曲がり角の先に、キョウさんとわたしの部屋。
 ゆーせいさんが見た正体不明の人物が、ちょうどドアを開けて西くんの部屋に入ろうとしたところなら、開いたドアがその人物の姿を遮る形になってしまう。
 ゆーせいさんの部屋と西くんの部屋の前を行ったり来たりしながらその話を検証してみる。位置的に、自分の部屋に戻るフミナさんの姿を見間違えたという可能性もあるが、体格のことにまで言及している彼がそこまで大きな見間違いをするとは思えない。ゆーせいさんが犯人ではないということが前提だけど、酔っていたという点を差し引いても、この話にはそれなりの信憑性があるように思える。
 ゆーせいさんの部屋の中に入る。予想に反して、部屋の中は片付いていた。
 いや、片付いているとかそういう話ではなくて、荷物がない。
「……どういうこと?」
 鞄もスーツケースもトランクケースも何もない。丸机の上には飲みかけのウィスキーボトルとグラスが放置されていたけれど、これはゆーせいさんの持ち込んだものではなくて遊戯室にあったのを勝手に持ってきたんだろう。
 部屋の中を五分ほど探し回ったけれど、ゆーせいさんの私物はクローゼットのハンガーにかけられていた青いボタンダウンシャツだけだ。
 ということは、彼は自分の意志で荷物をまとめて、姿を消したのか?
 わたしは部屋を出る。
 いくつかの可能性を検討しながら、今度はことさら慎重にフミナさんの部屋に入った。
 フミナさんの部屋には物が多かった。何故か熊のぬいぐるみがベッドの上に寝ていたし、分厚いハードカバーの本がしおりを挟んでテーブルの上に置いてある。ノートパソコンから電源ケーブルがコンセントに伸びていた。コンセントにはコンタクトレンズの煮沸器も刺さっている。
 なるべく不用意にものを動かさないようにして細部を観察する。さすがにスーツケースの中まで調べるのには抵抗があったけれど、ここまで来たなら同じだと、あまり散らかさないようにして簡単に中を検める。
 特に気になるものはない。旅行に持ってくる一般的な道具だけで、人殺しのナイフとか、指紋を残さないための手袋も発見できなかった。
 ――そこで、突然思い出した。
 改めて部屋の中を見回して、あることに気づいたわたしは背筋がざわざわと粟立ってきた。真実を見つけたときの、圧倒的な感情の波が、わたしの心から溢れていた。
 あるべきものが、ここにはない。
「いや……そんな……まさか……」わたしは部屋を出る。「でも、こんなに決定的なものが……」傾いた廊下につまずいて、向かい側の壁に激突する。「ということは……あの話と」鼻を打ち付けてわたしは尻餅をついた。「完全に矛盾する。それは」慌ててフミナさんの部屋のドアを閉めた。「如月が?」
 犯人の想定していたストーリー。殺人の機会。最初の晩。睡魔。小春坂。死体を始末するには。別館の存在。運ぶ。隠蔽。最終的には。完全なる消失。
 階下で音がした。ドアを強くノックする音と、キョウさんの叫ぶ声。
 わたしは慌てて立ち上がると、彼らを中に迎えるべく玄関へと向かった。


 全身ずぶ濡れになったゆーせいさんを、これまた全身ずぶ濡れになったキョウさんとフミナさんが両側から支えていた。……いや、拘束していた。ゆーせいさんは茶色のスーツケースを両手で抱えて持っている。
「あの」いや、とりあえず。「タオルを持ってきます」
「お願いします。――ほら、ゆーせいさんも、とりあえず落ち着きましょう」
「嫌だっ。お前ら、放せ! こんなところに戻るくらいなら遭難する方がマシだ!」
「そんなことを言っても、この状況での徒歩の下山は自殺行為ですよ。せめて嵐が過ぎるまで待ちましょうよ」
 ふらふらになっていてもまだ諦めずに外に出ようとするゆーせいさん。それをキョウさんが必死に押さえていた。フミナさんは二人のやりとりをどこか冷めた目で見ていて、一人でカッパを脱ぐと、わたしから受け取ったタオルで髪の水分を落としていた。
 ゆーせいさんとキョウさんの話から推測するに、どうやらゆーせいさんは一人で下山しようと自分の荷物を持って今朝早くに館を出て行ったらしい。ところが車はタイヤを土砂に取られて動かせなくなり、そこから車を降りて徒歩で下山しようとしたところで、二人に見つかって連れ戻された。
「くそっ。何が遭難だ。人殺しがいる館にいる方がよっぽど危険じゃないか」
 ゆーせいさんはまだ納得できない様子だったが、今度こそ体力の限界なのか、玄関の前にへたり込んでそれ以上外に出ようとはしなくなった。
 如月がやって来た。
「ふん。元気そうで何よりだ。朝食を作ったから食べるが良い。もっとも、友成は風呂に入るのが先なようだがね」
 ゆーせいさんの全身を見て如月がそう評した。気力を失ったゆーせいさんは大人しくその言葉に従って、スーツケースごと風呂へ向かおうとする。。
「あの、みなさん」移動を始めたみんなへ呼びかける。「食事が終わったら……お話があります。大切なお話です」
 如月が、静かに唇を歪ませて笑った。


 風呂上がりのゆーせいさんが、どこか呆けた様子で遊戯室に戻ってきた。遊戯室にはすでに、遅すぎた朝食を食べ終わったわたしたちが各々時間を潰しながら待っていた。沈黙を嫌って、テレビの音量を必要以上に大きくして垂れ流す。
 誰も何も言わなかった。ゆーせいさんは考えることを放棄して、状況に身を任せることを選んだようだ。キョウさんは柔らかな表情を維持してはいるが、依然鋭い眼光を皆に浴びせ続けている。フミナさんは達観した様子で、飽きたと言わんばかりに冷めた表情をしていた。
 そして如月は――。
「くくくっ。それで、話というのは何だい? そろそろ正午――推理ゲームの答え合わせの時間だから、できればそれまでに終わらせていただきたいね」
「推理ゲーム」
「そうだよ。誰がフミナを殺したのか、ね。くっくっく」
 フミナさんの表情が少しだけ嫌悪を示した。如月の直接的すぎる言い方が気に障ったのか、あるいはこんなときに呑気に推理ゲームの話題を出したのが悪かったのか。
「できればその前に、ちょっとだけみなさんに確認したいことがあるんです」
「確認、ですか?」
「はい。その、みなさんのお話を聞いて、わたしひとりでは解決できない問題に当たってしまったんで」
「それは興味深い」キョウさんはおもむろに棚からトランプを取り出すと、手の中で弄び始めた。特に意図があっての行動ではなく、手持ち無沙汰なだけだろう。「ぜひ聞かせてください。何か新しい発見ですか?」
「も、あります。実はさっき、みなさんが外へ出て行かれたときに部屋を見せていただいたのですが――」
「勝手なことを!」フミナさんが叫んだ。「あ、あなた、勝手に人の、へ、部屋を」
「すみません。いけないことだとは分かっていたのですが」
「それは、いけないことだと分かっていれば、何をしても許されるというわけではありません」
 すぐに理性で怒りを抑え込み、フミナさんは腕を組んで再び黙った。それ以上の追求がないというよりも、血迷ったことを言わないように無理やり口を閉ざしただけのようだ。
 フミナさんの体勢が整うまでわたしは待った。本当ならここから畳みかけるべきだったのだろうけれど、そうせずとも勝てる自信があった。それは理論でねじ伏せることのできない決定的なモノ、真実をこちらが握っているという確信があったからだ。
「それで、私の部屋に何かありましたか? 死体が壁に埋められていた、とか?」
「残念ですが有罪を立証できそうな物はありませんでした」
「何が残念なんですか?」
「いえ、言葉の綾です」攻撃的な追求だ。「確かにフミナさんの部屋には何もありませんでした。血の付いた凶器も、西くんの死体も。ですが代わりに、本来あるはずの物がなかった」
「もったいぶらないで言ってくれ!」
 すかさずゆーせいさんの怒声が飛んだ。わたしは肩をすくめて、迂遠な話し方を詫びたあと、
「つまりですね、フミナさんの部屋には電話がなかったんです」
「電話?」
「はい。たしかフミナさん、自分の部屋には有線電話があるって言ってましたよね? でもフミナさんの部屋には電話なんてなかったんです。じゃあ電話はどこにあるのか、と考えると、わたしたちが見られない場所なんてそれぞれの部屋の中くらいしかありませんから、フミナさんの部屋に電話がなかったとすると、歪曲館そのものに電話がないと考えるのが自然なんじゃないでしょうか。他に電話があるのを見たという方がいたら教えてください。
 そもそもですね、こんな山奥に電話線が通じてるってのもちょっと不自然な話なんですよ。それ以上に不自然なのは、フミナさんが絶対に警察を呼ぼうとしなかったこと。これは呼びたくなかったんじゃなくて、呼べなかっただけなんです。電話自体が存在しないからですね。どうしてそんな嘘を?」
「……みなさんを不安にさせないために、です。人が消えて、警察が呼べないとなったら、パニックになるでしょう?」
「それじゃあ、歪曲館に電話がないことをお認めになるんですね?」
「それはまるさんがさっき言っていたことでしょう」
「いや、フミナさんの口から聞きたかったんです。……じゃあ歪曲館に電話が引かれていなかったとしましょう。みんながパニックになるのを避けるためにそれを言わなかった。警察を呼ぶのを拒否したのも同じ、電話がないことが知られてしまうから。――それでは、小春坂さんが欠席するという知らせを、どうやって知ったんですか?」
 あ、とキョウさんが声を上げた。ゆーせいさんはぽかんと口を開けたまま、まだ話を理解できていないようだった。
「まさか最初から知っていた、なんて言いませんよね? 偶然やって来た如月を小春坂さんの役で採用するくらいですから。……ですけど、仮に小春坂さんの欠席が織り込み済みだったと考えると、如月が偶然歪曲館に来たというのも怪しい話で、そこに作為を感じずにはいられません」
「だったら本物の小春坂嬢はどうなったと言うんです?」
「小春坂さんが偶然欠席して、それをフミナさんと如月が利用した――と考えるのも可能ですが、それよりも、如月の正体が実は小春坂さんだった、と考える方がスマートではないでしょうか」
 如月は両手を左右に広げた。やれやれ、と頭を左右に振った。にやにやと笑いながら、わたしの話を楽しそうに聞いている。
「この事件の最大のポイントは、犯人はどうやって自分の安全を確保するつもりなのか、ということです。仮にわたしたちが犯人を見つけられなくても、やがて警察がこの館に到着してしまえば、よっぽどの隠し場所でない限り、西くんの死体は発見されてしまいます。現代の科学捜査から逃れるのは簡単な事じゃないですよ。それこそ焼いて粉々に砕いたりしないと。
 ……ですけど、わざわざそんなことをする必要はないんです。つまり通報する人間がいなければ、捜査も何も、そもそも警察が捜していないんですから見つかりっこないんです。フミナさんと如月は、共犯で、ここにいる全員を殺すつもりだった。全滅して警察に通報する人間がいなくなれば、死体は山に適当に埋めるだけで良い。しかもこれはオフ会です。わたしたちが消えて、家族か誰かが捜索願を出したところで、警察がわたしたちの繋がりに気づく可能性は非常に低いでしょう」
「なるほど。愉快な推理ですわ」
 フミナさんが笑みを浮かべた。なんとなくその笑みに嫌な予感を覚える。
「まずは最初の夜。如月はわたしに睡眠薬を盛って眠らせます。いや、もしかしたらフミナさんの仕業かもしれませんけど。とにかくわたしの飲み物に何かを入れる機会はいくらでもあった。そうして如月は自分の自由を確保し、真夜中、西くんを呼び出して地下のワインセラーで殺害します。その後、二人で死体を歪曲館の別館に運びました」
「別館? 歪曲館に別館があるのですか? それは初耳ですね」
「昨日の夕方、キョウさんと外に出たときにわたしが見つけました。ここから、山をひとつ挟んだ反対側にある小さな建物です。人ひとりの重さを運ぶのは骨が折れるでしょうけど、女性でも二人いればやってやれないことはないでしょう。
 今朝のゆーせいさんの件は二人にとっても予想外の出来事だったはず。しかしこれはチャンスでした。ゆーせいさんを殺害する……消失させる、ね。ところがフミナさんのそばにはキョウさんがついているし、如月もわたしと一緒に留守番をすることになって自由に動けない。というわけで、これだけの騒ぎがあったにも関わらず、二人はゆーせいさんを見逃さざるを得なかったのです」
「それじゃ俺は、下手したらこいつらに殺されてたのか」
「その可能性は高いと思いますよ」
「なんてこった」ゆーせいさんはつぶやいて頭を抱えた。「なんてことだ……」
「問題は動機です。なぜこんな大量殺戮を考えたのか――」
「少し待ちたまえ」笑いを漏らしながらも、今まで口を挟まなかった如月が、突然わたしに掌を向けた。「まだ正午じゃないよ」
「だから、何なの?」
「午後十二時は謎が解かれる時刻だ。今はまだ、解決には早すぎる」
「何を言ってるの? 今さらそういう――」
「ほら、耳を澄ますがいい。真実の足音がすぐそこまで来ているよ」
「如月!」
 あいつの戯言を止めようとしてわたしは叫んだ。聞きたくない。少し黙れ。そんな誤魔化しがいつまで通用すると思っている。馬鹿にされているようで嫌だった。はぐらかされているようで嫌だった。自分がちっぽけな存在に思えて嫌だった。
 大きな音が聞こえた。どこか遠くで柱時計が鳴っている。
 何度も何度も音を鳴らす。
 風が激しく窓を鳴らした。その音に紛れてしまって、わたしにはその足音が聞こえなかった。
 遊戯室のドアは前触れもなく開いた。
 中に入ってきた人物が、わたしたちに向けて足を進める。
「どうもお騒がせしました。――僕が、千歳うららです」
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