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7.answer

 三十代前半の、何故だか不真面目な印象を覚える男性だった。背の低さと童顔で、わたしは悪戯小僧のイメージが頭に浮かんだ。悪戯が好きな子供がそのまま大人になったみたいな。黒いジャケットを羽織り、薄い色をしたデニムのパンツを穿いている。
「千歳さん? まさか。これは一体、どういう事なんです?」
 突然の第三者の登場に唯一まっとうな反応を返したのがキョウさんだった。わたしとゆーせいさんは目の前の男性に見覚えがないが――なるほど、キョウさんがそう言うなら確かに彼が千歳うららなのだろう。
 去年自殺した管理人が、どうしてこんなところに。
「これはまあ、色々と事情がありまして。へへ。しかしそういう謎は全部この人が解決してくれるんじゃないかな」
 千歳さんが如月を手で示した。如月はやれやれと鬱陶しそうな表情を浮かべて、
「私は今回の事件とは関わりがないのですがね」
「まあ、そう言わずに。部屋の外でどうしようか迷っていた僕に助け船を出してくれたじゃないか。本当にもうね、入るタイミングが完全に分からなくて焦ったよ」
「ちょ、っと、待って、ください」
「混乱しているのかい? 別に迷うことではないと思うが。現に千歳がここにいるのだから解は明白だろう?」
 如月はわたしを愉快そうに見下した。わたしと、おそらくゆーせいさんも、完全に蚊帳の外に追いやられていて、何が起きたのかさっぱりついて行けなかった。突然梯子を外されたみたいに宙ぶらりんになってしまった。フミナさんは千歳さんに向けて友好的な笑みを浮かべていた。驚かないということは、きっと彼女もすべてを知っていたんだ。
「真理紗の推理は、概ねは矛盾のない推理だとは思うがね、まだ拾い切れていない情報がいくつかあるのさ。気づいていたかな」
「……それは?」
「友成が最初の晩に見た男の姿だよ。それがこの千歳うららなのさ」
 あっ、とゆーせいさんが声を漏らした。彼の記憶の中にある謎の人物と、目の前の千歳うららの姿が見事に重なったのだろう。
「ヒントはこの館中にちりばめられている。例えば遊戯室にあったウィスキー。ワインセラーにあったワイン。特にワインセラーは、一本数十万もするようなものがごろごろあっただろう? 二泊三日の小旅行に来た人間がそんなに大量のワインを持ってくるかい? 相当な重量があるし、割れないように運ぶのも大変だ。
 まだあるね。駐車場にあった車は真理紗の分も含めて三台。一台はもちろん真理紗の分、残りの二台はキョウと友成の車で、西弓東刀は友成が駅で拾ったらしい。だとしたらフミナは歪曲館までどうやって来たのかね? わたしだって、途中からは真理紗の車に乗せてもらったんだからね。ここまで材料を出せばいくら真理紗でも分かるだろう?」
「フミナさんは、ずっと歪曲館にいた?」
「というよりも、歪曲館に住んでいるという表現が正しいだろう。歪曲館は今の持ち主がレンタルに出して誰でも借りられる、という話だったが、そこにいるフミナこそがその持ち主、歪曲館のオーナーなのさ。それならばこの館が綺麗に掃除されていることも説明がつく。フミナのような几帳面で綺麗好きな女性がずっとこの館を保守していたからだよ」
「あら、ありがとうございます。如月さんにそう言っていただけて嬉しいわ」
 フミナさんが戯けて如月に一礼した。如月は愉快そうに笑顔でそれに応えた。何故だろう、如月の表情がさっきから突然豊かになった気がする。
 まるで、生きているみたいに。
「それに加えて、真理紗が二日目の夕方に見つけた、歪曲館の別館の話だ。いや、別館というのは真理紗の勝手な想像だね。私は、あちらこそが本館で、今私たちがいるこの歪曲館こそが別館なのではないかと思う。ここは来客者を泊めるための施設で、歪曲館の主は普段あちらの方で暮らしているのではないか、と思うのだが、いかがかな?」
「そうだよ。うーん、すごいなあ。推理小説に出てくる探偵みたい」
 千歳さんが呑気に感心した。如月が本職の探偵だということを知らないようだ。
「ちょっと待って……。その……その話と、千歳さんと、一体どういう繋がりがあるの? それに、千歳さんは自殺されたって聞いたんですけど」
「そうですね。あなた、本当に千歳うららさんなのですか? 双子とか……」
 疑惑の視線をキョウさんに向けられて、千歳さんは苦笑いを浮かべながらも、自分では弁解せずに如月の方を見た。ミステリーのお約束として、探偵がすべての謎を解決するように仕向けているのだ。
 やれやれ、と如月は多少オーバーに肩をすくめてから、
「千歳うららは生きている。証拠はここにいる千歳うらら本人だね。ではなぜここにその千歳うららがいるのかというと、ずっと歪曲館の本館にいたからさ。私たちの目と鼻の先にね。と言ってもこの嵐の中じゃ、こちらに来るのも一苦労だったろうがね」
「いやもう、本当に。何度か崖から滑り落ちそうになったりして、大変な目に遭った」
「フミナは千歳の車に乗ってきたのだよ。もちろん、その車は今は本館の駐車場に駐めてあるだろうがね」
「何のために死んだ振りなんかしたんです?」
「そこが今回の事件の非常にくだらないポイントさ。ねえ真理紗、あの推理ゲームのことを覚えているかい? そうそう、西弓東刀が消えたせいでうやむやになってしまったがね。犯行――つまり図書館に入ってフミナを殺害できる時間帯は二時三十分から三時までの間だけだ。ここまではいいかい? それでキョウは、犯人が隠し通路を使って図書室へ出入りしたと考えたようだがそれは大間違いだ。キョウはまんまと千歳の罠にはまったのさ。
 最初の晩餐での会話を覚えているかい? 『私も実物は初めて見ますが、これほど奇妙な館は他に見たことがない』……これはキョウの台詞だ。つまり、実際はともかく、推理ゲームでキョウが演じる『キョウ』という名前のキャラクターは歪曲館に来るのは今回が初めてなのだよ。あ、いや、勘違いしないでくれたまえ、そういう設定のキャラクターだ、というだけの話だ。
 この推理ゲームはあくまで誰が殺したか、ではなくて、誰が演じている役が殺したか、を討論するのが肝なのさ。同様に各人の台詞を拾っていくと、『わたしも何だか妙な気分です。落ち着かないというか……』これは真理紗の台詞で、こんな台詞が出るということは初めて館に来たと考えてもいいだろう。『それにしてもこんな山奥にこんな館を建てるなんて、ずいぶんと酔狂な人間もいたもんだな』友成の台詞。かなり微妙だが、以前にも来たことがあるなら、今さらこんな話題は出さないだろう。『どうせ金持ちの酔狂だろ。まだ全部見たわけじゃないが、あちこちに悪趣味な絵や美術品が置いてあるし』これは西弓東刀。まだ全部見ていない、ということは今回が初訪問。『さっき見たら、入り口に甲冑が置いてありましたよ。私あんな甲冑初めて見ました』これは私――つまり小春坂の台詞。
 となると、隠し通路を使用できる容疑者は一人もいないということになる。歪曲館に来たのはこれが初めてなのだからここの仕掛けを知っているはずもない。もちろん会話の中で直接それが明示されていたわけではないがね、『隠し通路』というこの上ない話題が雑談を通して一切出てこなかったことから、この推論にはある程度の信頼を与えても良いだろう。このような理由により犯人はキョウしかいない――と考えてしまうとますます千歳の罠にはまることになる。だとしたらなぜキョウは全員にアリバイがあるタイミングを選んでフミナを殺したのか、が問題になる。まさか今日中に殺さなければならない、というわけでもあるまい。旅行は二泊三日の予定なのだから、真夜中にでもこっそり呼び出して殺せばいいのさ。だからキョウも犯人ではない」
「だったら、あのゲームには犯人なんかいない、ってことになるけど」
「それはない。何故ならあれは推理ゲームだからさ。だとしたら可能性はひとつしかないだろう」
「そうか、外部犯だ!」
 ゆーせいさんが突然叫んだ。キョウさんも、わたしも、頭の中で何かが突然ひとつに繋がるのが分かった。ここに来る前に聞いた推理ゲームの説明、その文句が頭の中に蘇る。関連された記憶が掘り出される。わたしは必死に、その中から伏線を拾い集めた。
「その通り。くくくっ、友成の知能は評価に値するよ。自殺、事故、複数犯の可能性は除外されているようだが、外部犯の可能性は否定されていなかっただろう? では犯人は誰なのか、ということだが、それこそがここにいる千歳うららなのさ。つまり千歳うららがフミナを殺した」
「はははっ、お恥ずかしい」
 千歳さんが恐縮した様子で小さく頭を下げた。如月に自分の企みを暴露されることで、彼はますます上機嫌になっていた。
「つまりだね、これは千歳うららの悪戯だったのだよ。一年もかけた、ね。計画の開始は一年前さ。自分が自殺した、とサイトで公表して、一年後の今日までじっと身を潜める。すべてはこのオフ会で犯人役になるためだよ。もちろん、死んでいたはずの千歳が生きていた、という驚きもセンセーショナルに演出したかったのだろう」
「そうだったんですか……。何というか、あれですね」
「馬鹿みたいだ」
 キョウさんが的確すぎる言葉で評してくれた。本当に、馬鹿みたいだ。たった一瞬の驚きのために一年も仕掛け続けるなんて。それはまさに、最後の驚きにすべてを賭けるミステリーの精神。
「それじゃあ西くんは? 彼もグル?」
「その前に真理紗が話してくれた推理に戻ろう。犯人が地下室に被害者を呼び出して殺害した、と真理紗は考えていたね。死体を運ぶのは大変だろうが複数犯ならば可能だろう、と。ところが実際はそう上手くはいかない。狭くて傾いて手摺りもない螺旋階段を、死体を担いで登るのはほとんど不可能と言ってもいい。それは犯人が二人でも同じだよ。二人の人間で死体を運ぶとしたら、頭の方と足の方をそれぞれ持って運ぶだろう? ところがあの螺旋階段では、直径が狭すぎて人間一人の長さを運べないのだ。では別の運び方を、となると、やはりバランスが悪すぎてとてもではないが安全には運べない。
 結局ね、あそこを犯行場所に選んだ、という時点で大きな間違いなのさ。本当に死体を消失させたいのならばもっと平坦な場所で殺すべきだ。ここまで導いてやればもう分かっただろう。ん、まだ分からない? つまりだね、犯人の意志であの場所が犯行現場に選ばれたわけではないのさ。もっと言葉を変換すれば、西弓東刀が地下室で血を流したのは、犯人の意図したことではない。――まだ分からないのかい? つまりだね、西弓東刀は階段を踏み外して転がり落ちたのさ。真理紗も転びそうになっただろう? あの階段は危険だと思うね。せめて手摺りを付ければまだ改善されるだろう。地下室の床にあった血痕はそのときに彼が流した血だ。相当強く頭を打ち付けたのだろうね。眼鏡のレンズがあそこまで粉々になるというのは相当なものだろう。ん? キョウはどうやら気づいたようだね。君が代わりに解説するかい? ああそう」
 キョウさんが苦笑いを浮かべて辞退した。当てが外れたのか、単にこれ以上の説明が面倒なのか、少し落胆した様子で如月は説明を再開する。
「では当日に何があったのか順を追って説明しよう。千歳の目的はミステリーツアーの犯人役としてセンセーショナルに登場することだった。ところが初日の夜に、西弓東刀が地下室で大怪我をしてしまう。地下室に入ったのは歪曲館の仕掛けを調べるためだ。推理ゲームのためにね。血は止まらないし、しかも負傷した場所が頭部だから、これは下手をすれば命に関わる。幸いにも嵐はまだ来ていなかったし本館の駐車場には車もある。
 というわけで、千歳は西弓東刀を車に乗せて、街の病院まで連れて行くことにした。西弓東刀は意識もちゃんとしていて自力で歩けたのだろうね。死体を担いであの螺旋階段を登るのは難しいが、本人が歩いてくれるなら話は別だ。もちろん西弓東刀は突然現れた千歳にずいぶん驚いただろうがね。
 しかしそこで問題になったのは、その事態をどうやって参加者に説明するべきか、ということだ。千歳がここにいることが知られてしまえばせっかく一年も前から打っていた布石が無駄になる。結論を言えば、千歳は西弓東刀をこっそりと病院に連れて行くことにしたのさ。私たちには伝えずに、ね。ただ病院で診察を受けるには保険証が必要だ。偶然にも、西弓東刀は心臓に慢性的な疾患を抱えていて、今回の旅行に万が一のために保険証を持ってきていたのだ。怪我をした彼のために千歳が部屋まで保険証の入った財布を取りに行ったのだよ。そのときの千歳を友成が目撃したのだ。
 ……西弓東刀の荷物を見たときに、彼の荷物に財布がなかったのに気がつかなかったかい? 歪曲館の中で財布を使う機会なんてないから、西弓東刀がいつも身につけているとは考えにくいし、かと言って財布そのものをここに持ってきていないとも考えられない。初日にフミナが『後で宿泊費を徴収する』と言っていたからね。その点にさえ気がつけば、では財布を持ち去った理由は何かと考えて、サイドボードの薬から保険証の存在に思い当たれば容易に辿り着けるだろう。推理ゲームというあからさまなヒントもあったことだしね」
 如月はどの段階ですべてを悟ったのだろうか。
 推理ゲームの出題が終わる前に、すでに事の真相に到達していたのだろうか。
 今になって思い返せば、彼女は実にいやらしい形で、わたしに少しずつヒントを与えていたのだ。このわたしが、あれだけのヒントで真相に到達できたとは思わない。如月ほどの人間がその程度の見誤りをするだろうか。もしかしたら、わたしにこの謎が解けないことも織り込み済みで。結末までを予見した上で、わたしにヒントを漏らしたのか。
 だとしたら、なんという最悪だろう。
「電話がないということに気づけたのは大きかったのだがね、そこから先がまずかった。電話がないのはここが来客用の館だからさ。本館にはちゃんと電話がある。小春坂の欠席を受けたのは本館にいた千歳だよ。真理紗は、こんな山奥で電話が通じるなんて変だ、と言っていたけどね、今の日本に電話の引けない場所なんてないんだ。少なくとも電気が通っているのなら電話線は敷設できる。今の時代に陸の孤島なんてのはまずあり得ないのだよ。それこそ地震でも起きない限りね。その場合でも、ちゃんと市役所に住所を登録していれば数日と経たずにヘリの救助が来る」
「それじゃあ……事件なんて……最初からなかったんですね」
 わたしが言うと、千歳さんは申し訳なさそうに、
「うん、いやね、僕も変な心配をさせて悪かったと思っているんだけど。でもこの一年の苦労を思うと、どうしても本当のことを話せなかったんだ。チャットしたり記事を書いたり、そういう楽しみを一切絶って、じっと今日が来るのを待っていたんだ。それがあんな事故で台無しになってたまるか」
「お前なあ、ふざけるなよ!」
 ゆーせいさんが叫んで、千歳さんに殴りかかった。千歳さんは慌てて逃げるとフミナさんの背後に隠れて、怯えた様子でゆーせいさんを見た。悪戯が見つかって、父親から逃げる子供そのままの構図だ。
「ゆーせいさんのお気持ちも分かりますが、ここはひとつ、許してあげてください」
 フミナさんが穏やかな――相変わらず感情の起伏が少ない声で言う。ゆーせいさんはまだ怒りが収まらないらしく鼻息を荒くして千歳さんを睨み付けた。
「それにしてもフミナさんだってお人が悪い。まさかそんな悪事に荷担していたなんて、ね。人は見かけによらないということか」
「悪事だなんて、とんでもない」キョウさんの言葉にフミナさんが反論した。「それに、仕方ないじゃないですか。この人はこういう人なんですから。まだまだ子供なんです」
「むむむ……。文菜ふみなにそう言われちゃ敵わない」
「二人はいつ結婚したんだい?」
 唐突に如月が言うと、さすがの二人も驚いたようで、馬鹿みたいにぱくぱくと口を開けて如月の方を見る。
「どうして分かったんだ?」
「薬指の指輪」
 如月が短く答えた。千歳さんの左手の薬指に銀色のリングが光っている。フミナさんの左手の薬指にも、おそろいの指輪。
「いや、こいつは参った。うん、去年のオフ会が終わったあたりで結婚してね。今はここで二人で住んでる。一応本職は画家、ってことになってて、本館の方にあるアトリエで絵を描いてるよ。貸別荘はただの副収入」
「え。え? け、結婚したんですか?」
「したんですよ」戯けた調子で笑った。「式はまだだけどね。副管理人ってことで何度か会ってて、それがきっかけで、ね」
 千歳さんが目配せすると、フミナさんが「ええ」と笑顔で頷いた。満ち足りた、それでいて少しだけ恥じらいの浮かんだ笑顔だった。
「西くんは、大丈夫だったんですか?」
「何針か縫ったけど、大丈夫。今は病院で寝てるよ。ああ、彼は後で僕が駅まで届けるから大丈夫」
 昨日の夕方に見た歪曲館の別館――ではなくて、本館か。本館の駐車場には車が駐まっていなかった。そのときは多分、西くんを病院へ連れて行った後で、嵐が弱まるまで戻ってこられなかったんだろう。
 窓の外から空の様子を眺めると、真っ黒で分厚い雲は健在だったけど、風は幾分か収まって、雨も土砂降りから小降りに収束しつつあった。数時間前にわたしが見た空とは大違いだった。
「んふふ、それにしても、千歳さんはこの館を買い取ったのですよね。まさか相当名のある画家でいらっしゃるのでは?」
「いやあ、大したことはないよ。こんな辺鄙な場所だからねえ。しかもこんな欠陥住宅だし」傾いた壁をコンコンと叩いて笑った。「それに、歪曲館には個人的に興味があったんだよ。目を付けてた、というか」
「どうせくだらない理由だろ」
 ふて腐れているゆーせいさんの暗い声。腹を立てる領域を遥かに超えて、千歳さんに関する何かを諦めた、達観の成分が含まれているように思えた。正直に言えば、わたしにもその気持ちはある。
 何となく千歳さんと如月に共通部を見つけながら(二人とも常識を彼方に置き忘れた人間だ)、こんな人がまかり通る世の中で真面目に生きているわたしの方が場違いなのかもしれない、という妙な考えに毒されつつあった。
「画家の胡蝶こちょう成秀なりひでという人は知ってる? 僕の尊敬する画家の一人なんだけどね、その人は建築が趣味というか、山奥に変な別荘とかアトリエをいくつも持ってたんだよ。その孫に当たる人が――胡蝶晴成はるなりって名前なんだけど、この人も画家で、尊敬する偉大な祖父の真似をしようと、かなり無理をして建てたのがこの歪曲館なんだ。まあ当の胡蝶晴成は絵が売れなくて遺産も使い果たして、この屋敷を売り払って画家は廃業したらしいけどね」
「すごい偶然ですね。胡蝶晴成は今、うちの出版社でイラストレーターをしてますよ。部署が違うので滅多に会いませんけど」
「へええ。なんかすごい偶然だなあ。運命みたいだ。ううん、にしてもやっぱりまだ絵を描いていたのか。やっぱり描くことからは逃げられなかったんだな」
「キョウさん、胡蝶晴成さんはどのような方なのですか? この人からいろいろ説明はされたのですけれど、どうもイメージがつかめなくて」
「かなり大雑把な人ですよ。イラストもゴテゴテにデフォルメされたもので。今の若い世代の人にはなかなか受けているみたいです」
「一度会ってみたいなあ。お祖父さんの話をいろいろ聞いてみたい」
 千歳さんがしみじみと言った。棺桶から蘇ったばかりのくせに、もうみんなと馴染み始めている。共犯者のフミナさんと、元から千歳さんに心酔していたキョウさんを別にしても、あれだけ怒り心頭だったゆーせいさんまでもが、とりあえずは怒りを棚上げ保留して、みんなの話に加わり大いに盛り上がっていた。
 何を隠そう、このわたしも、いつのまにかその雰囲気に飲まれて、それまでの張り詰めた神経を失い始めていた。ほっとした、という表現が、この場合はしっくりくるだろう。
「がっかりしたんじゃないかね。こんな結末、真理紗にとっては不本意だろう」
 自分の役目は終わったとばかりに、如月はみんなのくだらない――少なくとも彼女にとっては低俗な話題には加わらず、唇をゆがめて挑発的な微笑を作っていた。
 如月はわたしの心も完全に見透かしているようだ。だからわたしは否定しなかった。
「でも、憎めない人だね。腹は立つけど」
「……真理紗にはそう見えるか」
 如月のつぶやきがみんなの笑い声にかき消された。


 ベッドの上でもう一度、体重を掛けてトランクを強引に閉じようとした。トランクからは強引に詰め込んだ服がはみ出していて、それに気を取られて少しでも力を緩めるとたちまちトランクの口が離れてしまう。ここに来たときには荷物は全部トランクの中に入れて持ってきたんだから、納められないということはないはずだ。物理的に考えて。
「私が代わろう」
 如月はわたしを押し退けると、トランクの中身をすべてベッドの上にぶちまけたあと、今度はパズルのように隙間なく正確にトランクの中に入れ直した。ものの五分もしないうちにすべての荷物が綺麗に収まってしまった。口を閉めると、わたしが荷造りしたときとは大違いで、トランクの中には若干の余裕すら生まれていた。
「すごい。どうやったの?」
「簡単な算数のパズルだよ。箱の中をピースで隙間なく埋めるにはどうしたら良いか、というね。ちなみにこのトランクの場合、中に詰めることだけを考えるなら解答は144通りある。もちろん、物体の伸び縮みを無視して単純化した場合の解だが。布をすべて真空パックし体積を減らせば組み合わせの数はもっと増えるだろう」
「ふうん。如月、暗算が得意なんだね」
「計算したわけではない。あらかじめ答えを知っていたのだ」
「はいはい」
 椅子に戻ると、如月は足をテーブルの上に乗せて読書の続きを悠々と再開した。ここにいる間、彼女の行動には一切のブレがない。何事にも関わりのない彼女。他人の損得や利害からは遠い位置にいる彼女。聞こえてくるのは、原曲を台無しにするアレンジが加えられたいつもの鼻歌だ。
「もうすぐ出発よ」
「まだ八分十三秒あるだろう。8の13乗が何か分かるかい?」
「……えーと」
「答えられるまで私の邪魔をしないでくれたまえ」
 本の中に目を落としたまま、わたしにむかってひらひらと手を振った。ちょっとだけ頭に来たけれど、如月相手に怒りを発散させることが不毛な行為だと十分に予想が付いたので、わたしは諦めて部屋の外に出た。
 傾いた床、傾いた壁。廊下の奥をじっと見ると、なんだかわたし自身がねじれているみたいに錯覚してふらふらする。この不思議な感覚を味わうのもこれが最後か、と思うと何となく感慨深いものがある。
 一階へ下りると、ホールでは荷物をまとめたゆーせいさんがフミナさんに別れの挨拶をしているところだった。階段を下りてきたわたしに気づいて会釈する。
「もう出るんですか?」
「そろそろ出発しないと深夜になるからねえ。明日からはもう仕事だから、あんまりのんびりしていられないんだよ」
「あの、この度は本当に失礼しました。千歳には私からもきつく言っておきますから……」
「ほんとにもうね、勘弁して欲しいよ」言葉ではそう言いつつも、フミナさんに頭を下げられてなんとなく居心地が悪そうなゆーせいさん。「……それにしても、なんだかすっかり奥さんだねえ。ちくしょう、うらやましいなぁ」
 気を使ったのか、茶化すようにゆーせいさんが言った。あまり変化は見られないが、フミナさんの頬がわずかに赤くなり、恥じらうように少しだけ視線を落としたのが分かった。乙女全開な仕草に少しだけどきりとしてしまう。
「それじゃ、お世話になりました。まるさんも、ね。たまにはうちのサイトにも来てよ。もしかしたらオフ会やるかもしれないし」
「ええ。そのときは、ぜひ」
 それじゃ、と片手を上げて、とっても軽い別れの挨拶を交わしたあと、ゆーせいさんは歪曲館から出て行った。さっきまでの嵐が嘘のような強烈な日差しが、地面のぬかるみを蒸発させてじめじめとした空気を吐きだしていた。
「そういえば、千歳さんはどこにいるんですか?」
「あの人はキョウさんの部屋でずっと話し込んでいますわ。本当に困った人です」
 本当に困っているようには到底見えなかった。そのときはそうですねと曖昧に同意したけれど、何となくこれはただの惚気だったのではないかと後になって思い返した。
「まるさんは、学生さんでしたよね。夏休みはいつまでですか?」
「十月まではずっと休みですよ。だけど、そろそろ就職活動とかもやらないと」
「大変な時期ですね」
 それからしばらくは、人生の先輩としてフミナさんから様々な忠告をいただいた。フミナさんは有名国立大学を卒業した後、都内では有名な金融会社に就職したらしい。
「面接のコツは、罪悪感を持たないことです。面接とは学生の性格を評価する試験ではなくて、いかに奇麗事と理想を並べられるか、を競う試験です。嘘を吐いている、と罪悪感を覚えてしまうと苦しいですわ」
「フミナさんて今も会社で働いているんですか?」
「いいえ、何年か前に辞めて、今はずっと歪曲館の管理人をやっています」
 そのとき、二階からキョウさんが下りてきた。彼も荷物を持っていて――しかしその荷物の量は驚くほど少なかった。旅慣れている証拠だろう。
「まるさん、いつごろ出発しますか?」
「あ……すみません。すぐに準備してきます」
「いや、急がなくても結構。そういえばゆーせい氏には会いましたか? もう帰られるそうで」
「ちゃんと会いましたよ」
「そうですか。たまには俺のサイトにも来てくれと、彼が言っていましたよ」
「それも聞きました」
 わたしが笑うと、キョウさんも紳士的な笑みを浮かべた。その笑顔を見られたことはとても嬉しいけれど、果たしてこれが最後になるのかと思うと――何となく、胸が苦しくなった。
 逃げるように部屋に戻ると、わたしがいつ来るのかをあらかじめ予知していたみたいに、部屋の前にはわたしの荷物を持って準備万端の如月がいた。何も言わなくても如月はわたしの荷物を運ぶ役割を請け負った。わたしへの気遣いかと一瞬疑ったけれど、あのトランクを運ぶくらいの仕事は、如月にとって確認を取るまでもないような些末な労働なのだろう。華奢で繊細な雰囲気に反して、彼女は平均以上の体力を持っているようだ。
 一階に下りると今度は千歳さんもそこに加わっていた。
「では、そろそろ帰ります」
「はい。道がぬかるんでいますから、気をつけてくださいね」
「西くんのことはちょっと残念だったけどね」千歳さんが付け加える。「まあ、驚いてもらって何より。一年間我慢した甲斐があった」
「もうやらないでくださいよ」
「分かってるって。さすがにね、ゆーせいさんにあれだけ言われれば僕だって懲りるよ。あと、探偵さんも」
「私は何もしていないさ」
「とんでもない。見事な推理でした。こんな人が現実に存在しているなんて思わなかった」
「本当にそうですよ……。うらやましい」
 キョウさんがそう漏らした。実はわたしたちの中で誰よりも推理小説の探偵役に憧れていたのかもしれない。千歳さんはどちらかと言うと犯人役だろうけれど。
「そうだ、お金まだ払ってませんでした」
「それは結構ですわ。そもそもここは私たちの家ですからね」
「泊まりたいときはいつでもどうぞ。歓迎するよ。もちろんそのときはお代をいただくけどね」
「それでは……」
 わたしとキョウさんは片手を挙げて、如月は涼しげな視線を送り、歪曲館を出た。
 外は、うだるような暑さと耳にうるさい蝉の鳴き声。今まであの蝉たちはどこに消えていたのだろう、と思った。嵐が消えて、ここぞとばかりに現れて騒ぎ出したのだろうか。数歩道を進んだだけで、湿気がわたしに絡みつき、不快な汗が吹き出した。
 もはや二台分のスペースしか使われていない駐車場まで歩いて行くと、それぞれの車に乗り込んだ。如月は惜しむものなど何もないようで、キョウさんに淡泊な挨拶を述べるとトランクを車に詰め込んでさっさと後部座席に乗り込んでしまった。
「すごいご友人ですね。本当に」
 皮肉で言っているのではなくて、キョウさんは本心からそう思っているようだった。感心した視線を如月に送り続けているのがわたしは少し気に入らなかった。
「キョウさん、明日からすぐに仕事ですか?」
「もう二、三日は久しぶりの休みを堪能しようかと思っていますよ」
「へえ……。誰かと遊びに行ったりとか」
「同僚はみんな仕事してますからね。一人で本でも読んで過ごしますよ。ここのところ忙しかったんでね」
 二人の会話が途切れた。それじゃ、と別れを告げられるのが怖かった。何とかして場を繋ぎたい――だけどそれだけでは、ただのその場凌ぎでしかない。
「あの、わたし、芝川真理紗って言います」
 結局出た言葉がこれだった。わたしの本当の名前を彼に知ってもらいたかったのだ。鼓動が早まり体温が上昇した。神経は張り詰め心が高揚する。
 彼が返事をするまでの数秒がたまらなく長く感じた。彼は喜びを顔に出したり、あるいはわたしのはしたなさを嘲笑することもしなかった。これまでと同じ、女性に対するときの微笑みを機械的に浮かべて、
「私は伊達だて恭一郎きょういちろうといいます。これを、どうぞ」
 彼がポケットから財布を取り出して、わたしに名刺を渡すのを、なぜかどこか遠い世界の光景のように見ていた。
 キョウさんが自分の車に乗ってエンジンを回したので、わたしも自分の車に乗り込んだ。
 後部座席にいる如月はぼんやりと窓の外を見ていた。わたしに気を使って何も見ないようにしたのか。いやそんなわけがない。単にわたしの色恋沙汰に興味がなかっただけだろう。
 キョウさんが先に駐車場を出発した。運転席にいる彼と目が合うと、小さく会釈してわたしに最後の挨拶を飛ばしてくれた。それぐらいしてから、やっと落ち着きを取り戻して、自分がまだエンジンすら掛けていないことを思い出した。
 駐車場を出て山道を走る。車内は暑かったが、エアコンが効いているおかげで段々と落ち着ける温度になってきた。
「そういえば、あんたをどこまで乗せていけばいいの?」
「どこでもいいがね。駅で降ろしてもらえるとありがたい」
「……結局あんたがここで何をしていたのか、教えてもらってないんだけど」
「別に隠すようなことではないよ」隠していたくせに。「仕事でこの先にある集落へ行っていただけさ。真理紗と会ったのはただの偶然だ」
「こんな山奥に?」
「守秘義務があるから詳細は話せない。私の事務所で働くのなら、教えてやってもいいよ。くくくくっ」
「遠慮しておく」
 ハンドルを切りながら答えた。
 何が楽しいのか相変わらず窓の外を眺めている。鼻歌はいつものあの曲で、投げ出した足を前の座席の肩に乗せていた。
「如月はさ、いつ真相に気づいたの?」
「最初から」
「嘘吐け」
「私は真実しか話さない」
「ええそうですか。どうせわたしは間違ったことしか言いませんよ」
「ふふん」
 鼻で笑いやがった。
「だいたいあんた……何となく信用できないのよね。何て言うか、デタラメ言ってもそのまま通用しそうで、さ。如月は多分わたしが今まで会った人の中で一番頭の良い人だと思うけど――。だから逆に、もし嘘を言われてても、そのまま騙されてしまいそうで、なんとなく怖い」
「酷い言われようだね。くくくっ」
「案外、証拠もないくせに適当なことばかり言ってるんじゃないの?」
「……それがね」冗談のつもりで言ったのに。如月は偽物の笑顔を引っ込めた。「実はその通りなんだよ」
 わたしは言葉の続きを待った。またわたしをからかって、今度こそ適当なことを言っているんだと思ったからだ。どんなデタラメを言ってもわたしに信じさせることができるのに、それをしないのが如月なのだ。
 人を騙すことに価値はない。自分以外の存在に価値はない。
 全部、わたしの想像だけど。
「確かに歪曲館の本館には千歳うららという第三者がいた。フミナと千歳はグルで、参加者を驚かせようとしていた……と、これは事実だろう。証拠もあるからね。西弓東刀が地下で怪我をした、そして千歳の手を借りて地上に上がった――証明されたのはここまでだ。その後に千歳が西弓東刀を無事に病院に送り届けた証拠はどこにもない」
「ええっ? でもそれじゃ、千歳さんたちが西くんを殺したって言いたいの?」
「違うよ。これは立証の問題だ。私にはすべてが見えているから、西弓東刀が生きていることももちろん知っている。ただしそれを真理紗に証明する手段がないと言っているのさ。もっとも、証明するまでもなく何故か真理紗は信じてしまったがね。もう少し人を疑うことを覚えたまえ」
「だってあり得ないよ。どういう理由があって西くんを――」
「前にも言ったがね。人が人を殺すのに理由は必要ない。機会と凶器さえあれば誰にだって人が殺せる。それに真理紗は千歳うららの正体も西弓東刀の本名も知らないのだろう? 二人の間に何の関係もないとどうして言い切れる。現にフミナと千歳の間には友人を超えた関係があったのだからね」
「財布は? 西くんを殺したのなら保険証なんていらないはず」
「西弓東刀と千歳たちの間に関係があったのなら、最初から持ってきていなかったと考えることもできる。つまり、歪曲館が千歳たちの持ち物で、宿泊代の徴収が行われないと事前に知っていたのだ。もし千歳が殺人を犯したのだとしたらそれは衝動的なものだろう。地下室から西弓東刀を支えて、地上に戻ったときだ。彼の些細な悪態をきっかけに二人の間で口論が起きた。さしずめ、あんなくだらない悪戯のために一年も身を潜めていた千歳をあざ笑ったのだろう。千歳は衝動的に西弓東刀を殺してしまった」
「それこそ全部想像じゃない」
「その通り。すべては起こり得なかった話さ」如月はあっさりとわたしの指摘を認めてしまった。「ただし、起こらなかったという証拠はない」
 起こり得なかった話、と自信を持って言っている割には、如月は妙にこの話にこだわっていた。バックミラーを見ると、特におもしろがっている風でもなく、わたしをからかっている素振りも見せずに、腕を組みながらぼんやりと山の輪郭を見つめている。
「歪曲館の図書室に推理小説があってね。この三日間で何冊か読ませてもらったよ。君たちには読書などくだらない、と言ったが、案外面白いものだった。他人の意見が正しかった経験は久しぶりだったよ。ところでミステリーの探偵役は事件を推理するがね、たとえそれがただの想像でも――証拠なんてなくても、他の登場人物たちは疑うことなく受け入れてしまうんだね。純粋無垢というよりも、これはそういうルールが働いていると考えるべきだろう。すなわち、探偵は真実を推理するのではなく、探偵の推理こそが真実なのだ」
 窓を見ていた顔をこちらに向けた。底の見えない双眸が、鏡に反射してわたしの心臓を鷲掴みにした。
「この話に証拠はない。今のところはね。仮に千歳が西弓東刀を殺害していたとしたら、今後西弓東刀の姿を見ることはないだろう。もちろんそれではオフ会で何かあったのかと誰かが疑いを抱く可能性がある。それを避けるために、千歳が西弓東刀のふりをしてサイトに現れるという可能性もあるが、そんなことをせずとも簡単な方法がある。つまりサイトそのものを閉鎖してしまえばいいのだ。コミュニティそのものが消えてしまえば、メンバーの異変など絶対に発覚しないだろうからね」
 答えは、すぐに出る。鉛の歯車が閉鎖するのが先か、先に西くんが現れるのが先か。仮に現れたとして、それは本物の彼なのだろうか。
 わたしは千歳さんとフミナさんのことを何一つ知らないのだ。わたしと二人との繋がりは歪曲館だけで、もし二人があの館を手放してしまえば、彼らとの関係は完全に消失してしまう。そうなれば追跡不可能、二人を殺人の罪で告発しようにもすでに手遅れなのだ。
 バックミラーには如月の顔が正面から写っている。サイドミラーには窓越しに横顔が。そのすべての表情において、彼女は意地悪な目で、わたしのことをじっと見つめていた。
「なあ、賭けをしないかい?」如月は、わたしに言った。「君の友人は、人を救ったのか、人を殺したのか。――どちらだと思う?」


《 歪曲館の消失 / Nobody trusts the honest goddess 》

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