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5.outsider

 午後一時を回った。
 フミナさんの作った昼食は、実のところどんな料理が出たか覚えていない。ただ、あの場の重苦しい空気、一挙手一投足をも見逃さんとする疑いの目がわたしたちを互いにがんじがらめに縛っていたことだけは覚えている。
 わたしはため息をついて忌々しい嵐の様子を眺めた。雲は泥水のように真っ暗で、風に流されてすごい勢いで流れている。
 遊戯室にいるのはわたし一人だけ。目をつむると風や雨や窓の軋む音がより鮮明に聞こえた。ぼんやりと耳を傾けていると、それらのざわめきに規則性があるような気がしてくるから不思議だ。
 スカートのポケットから携帯電話を取り出す。この山奥では電話もインターネットも繋がらず、携帯電話は時間を調べるくらいにしか役に立たない。歪曲館で唯一の有線電話はフミナさんの管理下にあり、そして彼女はこの件で警察を呼ぶことに強く反対しているのだ。
 西くんは彼の意志によって失踪しただけ。
 もうしばらく様子を見よう、というのが一応のわたしたちの対応だった。
「ふふん。浮かない顔だねぇ」わたしがブルーな気持ちになったのを察して、やっぱり如月がからかいにやって来た。「真理紗の憂い顔も素敵だよ。笑顔の方がもっと素敵だけどね」
「わたしがあんたに笑顔なんて見せたかしら」
「いいや。だけど人間には想像力というものがあるのだよ。見なければ考えられない、というのは馬鹿の言うことさ」
 アハハ、と大声で笑う。
 遊戯室に響いて不気味だった。
「とはいえ、ずっと憂い顔ばかり見せられていてはすぐに飽きてしまう。いいとも、真理紗の安心のために少しだけサービスしてあげるよ。……想像してごらん、昨日の夜何があったのか。西なんとかくんの身に何があったのか」
「そんなこと言われても。……誰かが殺して、彼の死体を隠した?」
「想像と妄想は違うよ。このふたつは非常に似ているから、凡人はすぐに取り違える。想像と希望も似ているね。想像と絶望も、かなり近い。希望と絶望は全然違うがね」
「あんたと言葉遊びをする気はないわ」
「真理紗の想像には真理紗の絶望が多分に含まれている。絶望は心を慰めるにはちょうど良いかもしれないが、真実にたどり着くためには不要な物だ。そういう不純物があるから真理紗は何も見えないのさ」
「絶望――」
「人間の思考には二種類の方法があるのを知っているかい? 解を無数に作り出して、その中からもっとも最適な解を採用する方法と、地道に計算して解をひとつだけ作り出す方法だ。さきほどの真理紗の想像はどちらの思考法によるものか、わかるかい?」
 試されている、とわたしは感じる。如月に失望されたくなかった。可能な限り素早く質問に答える必要があった。
「……前者、です。歪曲館の状況を見て、わたしがいくつか考えた可能性の中で、一番それらしいものを選びました」
「そうだね。しかし真理紗が見たものは歪曲館の状況だけかな? 真理紗の想像の材料には、真理紗の思い込みや他人の意見もも含まれているのではないかな?」
「…………含まれて、いると、思います」
「そう緊張しなくてもいいさ。表情が固くなっているよ」
 如月はわたしに近づくと、両手でわたしの顔を挟んだ。真っ正面に如月の笑顔が見える。完璧な表情だった。
 人を安心させるために作られた顔。
 如月の指はわたしが思っていた以上に暖かい。
 いや、この体温は、わたしの体温?
 如月は手を放し、わたしの頭を解放する。わたしの心は水を打ったように静かだった。
「もっとリラックスしたまえよ。私は別に、真理紗の頭脳に惚れているわけではないんだからね。くくくくっ」
「そう、ね」
「多少背伸びをしたところで大した違いはないのさ。四センチメートルと四メートルの違いだよ」
「それ、全然違うと思うんだけど」
「比較対象の問題さ。私の物差しが五メートルなら、ふたつの違いは決定的だけどね」
「わたしが四センチなら、あんたは何メートルなの?」
「そうだね。四光年かな」
 別に冗談で言っているわけではないらしい。確かに如月は、それくらい強烈な自惚れを持っていたとしてもおかしくない。
「こんな笑い話を知っているかい? 夜中、ある男が庭に怪しい人影を見つけたので、泥棒だと思って弓を射たのさ。しかしよく見てみると、それは洗濯紐に吊した自分の法衣だったんだよ。すると男はひれ伏して神に礼を言ったんだ。『もしあの法衣の中にわしが入っていたらどうなっていたことか……。神よ、感謝します』ってね。くくくくっ!」
「…………それ、この事件に何か関係があるの?」
 意味が分からなくて、屈辱だとは思いつつも素直に質問することにする。
「おそらく無関係だろうね」あっさり言いやがった。「単に真理紗の気を紛らわすために言った冗談だから」
「如月はよく平気だね。わたしたちの中に人殺しがいるかも知れないってのに」
 わたしはため息を吐いた。如月のマイペースは今に始まったことではないけれど、ここまで徹底されていればさすがに可笑しくなってくる。愉快な気分にはなれないし、気が紛れるわけではなかったが。
「それは友人が人殺しかもしれないから? それとも自分が殺されるかもしれないから? だとしたら私に共感を期待するのは無理だろうね。彼らと会ってまだ一日しか経っていないし、真理紗ほど他人を信用もしていないからね。私はこの件とは完全に無関係なのさ」
 もっとも。如月にとって、自分の外で起きていることは等しく無関係なことなのかもしれないけれど。今回の事件に限らず。
 あらゆるものから乖離している、ということ。
 それは孤独だということだ。
「あんただって殺されるかもしれないよ。もしかしたら、わたしが犯人かも」
「はっ。そんなことを心配しているのかい? それを言うのなら誰しもが殺人犯である可能性を秘めている。限りなくゼロに近いがゼロではない。新聞を見たまえ、動機のない殺人なんて腐るほど起きているというのに」
 腕を大きく振って、教壇に立つ教師のように、わたしではなくて、彼女にしか見えない生徒に向けて講義をする。
「殺されないための秘訣を教えよう。無差別に三十人殺す通り魔がいる一方で、怨恨でひとり殺すのを失敗する復讐者がいる。その違いは何だと思う? それはね、被害者が警戒しているか否か、ということなんだよ。凡人は自分の知らない人間に対してはなぜか無警戒だ。自分が殺されるかもしれない、という想像が足りないのさ」
「警戒していてどうにかなるのかな」
「殺す方は人間で殺される方も人間だ。精神や体力によほどの差がない限りはいくらでも反撃出来るさ。それに、必死に抵抗する人間はひとり殺すだけでずいぶん骨が折れるものだ。あれは大変な作業だ」
 恐ろしいことをさらりと言いやがった。これは如月の冗談だと信じたい。真顔なのが気になったけど。
「まあ、そうは言っても君は安心できないだろうね。ヒントをあげよう。西なんとかの――」
「ちょっと待って。さっきから気になってるんだけど……あなた、もう事件の真相が分かってるの?」
「真理紗のスカートにはポケットがついているね」わたしの言葉を無視して如月が続ける。「その中には何が入っている?」
「携帯電話、だけ」
「そうだね。真理紗は自分のトランクがあるから、必要以上の荷物を身につけて出歩く必要がない」
「……何が言いたいの?」
「西なんとか君の荷物をもう一度思い出してごらん。君のトランクにあって、彼の旅行鞄に無いものは? くくくくっ!」
 ばいばい、と軽薄な態度で手を振ると、鼻歌を歌いながら如月は図書室の中に入って行った。
 わたしは彼女の言葉の意味をよく考える時間もなくて、ただビリヤード台のそばに呆然と立っているだけだった。


 なんとなく遊戯室の不安定な階段は避けて、わざわざホールの方からわたしの部屋に戻ろうとした。
 二階の廊下でキョウさんに捕まった。腕を掴まれて、図書館へ通じる隠し通路へ強引に連れ込まれる。
「……痛いです」
「これは失礼」
 いつもの通りの口調で、キョウさんはわたしの腕から手を放した。
「何なんですか、こんなところに連れ込んで――」
 彼の性格を考えれば、わたしが喜ぶような艶っぽい用件ではないだろうし。状況が状況だけに、誰かと二人きりになるのは少し不安だ。
 キョウさんはわたしの声色に警戒を感じ取ったのか、両手を小さく挙げて無害をアピールした。映画の中でしか観たことのないジェスチャーだ。
「違います。んふふ。あなたに秘密の話がありましてね。あまり人に聞かれたくない」
「事件のことですか?」
「察しが良い。フミナ嬢の許可は貰えませんでしたが、それならば我々だけでこっそりと館の外を調べに行こうじゃないかと。玄関を使わずに窓から」
「でも、この嵐ですよ。危なくないですか?」
「しかし西君の体を隠すとしたらもはや外しかあり得ませんよ。この館にそれほど隠し場所があるとも思えない。昨晩、嵐が来る前に館の外に持ち出したと考えるのが自然ではないでしょうか」
「何でわたしを誘うんですか? 行くならみんなも連れて行く方が」
「西君を殺害した人間は我々のうちの誰か、なんですよ。全員で行くのはリスクが高いし、できれば犯人には知られずに死体を見つけておきたいんですよ。隠蔽される前にね」
「だったら――」
「確かにそれなら私ひとりで調べれば済む話ですが」わたしの言葉を勝手に補完して、続ける。「万が一何か重大なものを見つけたとき、私一人の証言ではみんなに信用してもらえないかもしれない。犯人を捕まえるためには他の人たちの協力が必須です」
「……そうですね」
「協力していただけませんか?」
 キョウさんはわたしの肩を掴んで、顔を寄せて訊いた。心臓が一瞬跳ね上がって、平静を取り戻したのは、了解の意を受けてキョウさんが手を放した後だった。


 外に出る前に念のためフミナさんの様子を確認する。彼女はダイニングホールの椅子に座り、憂鬱な表情でコーヒーを飲んでいた。ぼんやりと、まるでそれが自分に課せられた義務であるかのように、何度もマグカップを傾ける。
 ダイニングホールには入らずに、音を立てないよう慎重にその場を離れた。
 廊下の向こうでキョウさんが手招きしている。
 男風呂だった。入ることに少しだけためらいを覚えたけど、この時間に入ったところでわたしが恥ずかしがらなければならないようないかなる理由もないと自分を説得して、キョウさんに言われるまま中に入る。
 狭くて小綺麗な脱衣所の奥、浴室へと通じるガラスの引き戸を開けると、遠くに聞こえていたびゅうびゅうという風の音が突然大きくなった。浴室の奥にある窓が開いていた。
「ここなら誰かに見咎められることもないでしょう。風呂を沸かす時間までに戻れば閉め出されることもないでしょうし」
 キョウさんはカッパを持ってきていた。ポリエチレンの分厚い袋の中に上下のカッパが一着、折りたたまれて納められている。キョウさんは脱衣所でいそいそとカッパを身につける。
「まるさんもカッパを持ってますか?」
「……普通は持ってこないでしょう」
「それもそうですね」聞く前から答えは分かっていたらしい。「でしたらこれを使ってください」
 キョウさんがわたしにもポリエチレンの分厚い袋を寄越した。中学時代、雨の中をカッパに自転車で通学した記憶が蘇った。
「どうして二着も持っているんですか?」
「予備ですよ」
 そんな答えでわたしが納得するとは思っていないだろうけど、それ以上の説明は省いて窓の方へ歩いて行った。
 慌ててカッパに着替えるが、スカートを穿いていたのでは下のカッパを着られないことに気がついた。下のカッパはズボンの形なので、これをスカートの上から穿くのは不可能だし、スカートの下に穿いたところで意味がない。少しの思案の後、潔く下のカッパはその場に残しておくことにした。
「その格好で大丈夫ですか?」
 下のカッパを穿いていないことだけではなく、わたしのスカートのことも言っているのだろう。だけど今さら着替えに戻るのはキョウさんに悪いし、そもそも今回の旅行では似たような服しか持ってきていない。まさかこんな大冒険が待っているとは思わなかったのだ。
 先にキョウさんが窓から外に出た。
 窓の先は楢が生い茂っている。風に吹かれて枝がばさばさと音を立てていた。
 キョウさんの手を借りて、窓のサッシを乗り越える。
 外に出ると、ぬかるんだ地面にわたしの靴がめり込んだ。土は水を含み泥のようになっている。
 足下に注意しながら建物沿いにそろそろと移動する。暴風がわたしのスカートをはためかせるので両手で必死に押さえた。ミニスカートよりはマシだとわたしは思う。スカートでなければさらに良かったんだけど。
 正面玄関に回る。表には軒があったけれど、雨は風に流されて真横から吹いているのだ。
「どこを探すんですか!」
 普通の声では届かない。耳の周りを風が通り抜けてうるさい。
「駐車場へ!」
 キョウさんも負けじとわたしの耳元で叫んだ。
 体ごと攫われそうになる暴風雨の中、歪曲館を離れ道を下って駐車場へ歩いてゆく。そんなに遠くにあるわけでもないというのに、今のわたしには果てしなく長い道のりに思えた。一歩足を勧めるだけで重労働だった。
 このまま風に任せて倒れてしまおうか、という馬鹿な想像をしてしまった。風に体を預けるのは気持ち良いだろうけど地面に倒れるのはきっと痛い。舞い上がるということは地面にぶつかるリスクを背負うことでもある。
 わたしは、舞い上がれる?
 自問する。目の前にはキョウさんの背中。だけど横から吹きすさぶ雨はわたしたちの目を、耳元でうなる風はわたしたちの耳をふさいで、わたしたちはこんなに近くにいるというのに孤独だった。
 わたしにとって孤独な時間とは考察の時間だった。
 だから、わたしが人と繋がろうとするのは、あれこれと考えることに嫌気がさしたからなのかもしれない。
 このオフ会で何かが変われると思っていた。
 いや、新たな人間関係を作る度に、大学で新しい友人ができる度に、わたしは何かが変わる予感を覚えていた。
 それでも何も変わらない。他人がどんな言葉でわたしに繋がっても、わたしの心には響かなかった。友人たちがどうしても無関係の他人に思えてならない。無意識に、わたしの価値観を根底から書き換えてくれるような存在を求めていたのだろうか。
 例えばわたしの世界が一変するような。
 駐車場の中に入って、駐車している三台の車を中までしっかりと確認する。もちろん、西くんの死体は車の中には無かった。あるいはありがちな推理小説のように、わたしたちの車のタイヤがパンクさせられているわけでもない。
「いざというときには私の車で逃げましょう」
「ええ? この嵐ですよ!」
「だから、いざというときですよ」
 大声で叫んでから笑った。笑い声までは風に消えて聞こえなかった。
「それじゃ、この辺りから探してみましょう。特に地面の色をよく観察して、何かを埋めた跡がないか、注意してください」
 無茶な注文を押しつけたキョウさんは、わたしの返事を待つことなく道路沿いに移動しながら地面の露出した山肌を見て回る。わたしもそれに倣って、キョウさんとは反対側の方を見ていくことにした。
 歩く度に靴がぐちゃぐちゃと嫌な感触を鳴らした。スカートは水を含んでわたしの足にべったりと張り付いている。上半身だけは雨から守られているけれど、そんなことは何の慰めにもならない。
 何かないかと見たところで、こんな視界の中で見つかるはずもない。わたしは半ば諦めておざなりに周囲を見ていた。
 二十分は経っただろうか。もしかしたら二分も経っていないのかもしれない。
「近くにはないようですね」
 キョウさんがやって来てわたしの耳元で話す。お返しとばかりにわたしもキョウさんの耳元で返答した。
「やっぱりまだ中にあるんじゃ……?」
 もちろん、主語は「西くんの死体」である。キョウさんはしばらく考える素振りをして、しかし顔中に雨がぶつかるのでわたしと同じように風下を向きながら、
「いえ、夜中に運んだとしたら遠くに捨てることも可能です。早めに西君を襲い、夜明け前までに埋めて戻ればいい」
「やっぱり歪曲館の中に犯人がいると?」
「そうだとして、犯人が何を目的としているかがいまいち不明瞭です。人間一人を消してしまったのですから遅かれ早かれ問題になります。そのときにどういうカバーストーリーを想定しているのか――」
 キョウさんの言葉が止まる。最初わたしは嵐の音で聞き逃したのだと思って、彼の口元に思いっきり耳を寄せた。しかしキョウさんの口はぽかんと開いたまま別の場所を見ていた。
 わたしが彼の名前を呼びかけると、我に返ってやっと返事をした。
「何か気づいたんですか?」
「西君が自ら隠れているという可能性は?」
「フミナさんも言ってましたけど、それ、だめですよ。だって隠れる理由がありませんから。冗談で隠れているとしたらやりすぎですよ。わたしたちがこんなに探しているのに――」
「彼は本気で隠れているのです」
 キョウさんの言葉がよく分からなくて、わたしは可愛く見えるように首を傾げた。もちろんこんな風の中でそんな微妙な仕草が伝わるとはこれっぽっちも信じていないけれど、万が一にもキョウさんがわたしのことを意識してくれるのではないかという儚い可能性に賭けたのだ。
 わたしが何も言わないので説明を続ける。
「つまり、彼は本気で隠れるだけの理由があるのです。隠れていては警察沙汰になる。それもやむを得ない、と考えてる。彼は真っ先に自分が隠れて、歪曲館の人たちを殺害しようと計画しているのです」
「まさか。誇大妄想ですよ!」
「しかし彼が本気で隠れているのならば落としどころはそこしかありませんよ。あるいは地下のワインセラーから高級ワインを何本かくすねますか? 歪曲館に金目のものと言えば酒くらいしかありませんからね」
「少なくとも犯罪が絡んでる、と考えてるんですね」
「まさか、隠れて私たちを心配させるためだけに警察沙汰にはしないでしょう。明日までに西君が見つからなければフミナ嬢も警察を呼ばざるを得なくなりますからね」
「……フミナさんと西くんが共犯という可能性は?」
「何ですって?」
 一際大きな風が吹いて、わたしは思わずアスファルトにしがみついた。嵐にも波があって、突然強く風が吹いたかと思うと途端に弱くなったりして、その乱雑さが余計に感覚を狂わせていた。
 キョウさんを見ると、深刻な顔でわたしを見ていた。
 いや、正確には、わたしの背後。
 突然嵐の音が静かになった気がした。
 わたしはゆっくりと振り返る。そこにはフミナさんが、カッパも傘も差さず、濡れるままの格好で立っていた。
 フミナさんの透き通った声が聞こえる。こんなに小さな声なのに、どうしてわたしに聞こえるのだろう。体全体が彼女の声に縛られた。
 寒気がするのはどうしてだろう。
 フミナさんを見ていて、嫌な汗が噴き出した。
「どうしてこんなところにいるのですか?」
 出来の悪い愛想笑いを浮かべながら、一歩わたしの方へ近づいた。
 突風が吹いた。わたしの体が風に流される。結果的に、嵐に背中を押される形で、わたしはその場を駆け出していた。
 フミナさんが後ろで何か言っているのが聞こえた。
 わたしは怖くて走り出した。
 何もかもが嫌だった。
 閉塞した場所。
 犯人捜し。
 殺人。
 死。
 あの館に巣くうすべてから逃げ出して、アパートに帰って、暖かいシャワーを浴びて、明日からまた大学のサークル友達と表層だけのくだらないおしゃべりを再開すればいい。
 わたしは走りながら嗚咽を漏らしていることに気がついた。風の轟音と雨の湿気が、わたしから涙の自覚を完全に奪っていた。感情が高ぶっていることを自覚して、初めて涙を流していることに気がつく。とても逆説的だと思った。
 坂道でバランスを崩して転んでしまう。そのまま道路脇の斜面を滑り落ちた。水分を含んだ土はわたしの体をなかなか止めてくれなかった。小さな谷の底でわたしの体がやっと止まる。見上げると、わたしが滑ったのはたかだか数メートル。晴れた日ならこんな斜面、五秒で上れるようなくだらない場所。
 谷底には流れ込んだ泥水がたまっていた。わたしの体が泥水に埋まっている。
 わたしは悔しくて涙を流す。
 子供みたいにわめいた。泥水はわたしが思っていた以上に生暖かくて、それが余計に不快だった。
 来た道を戻るのが嫌で、道路には上がらず反対側の斜面を両足で登っていく。
 ずるずると滑る。泣きながら山道を登った。泥だらけになって。少しずつ、ぐちゃぐちゃになりながら斜面を登り続ける。
「――――あ」
 登り切ったところで、向こうに建築物を発見した。
 茶色の近代的な屋根。磨りガラスの窓。ガスボンベ。駐車場。
 歪曲館ではない、別の建物――。
 立ち上がってよく見ようとしたところで、重心が変わって足下が一気に崩れた。土砂と一緒に小さな谷底へもう一度落ちる。
 派手な水音を立てて、わたしは頭から落ちた。まさか水中の中にいるとは思わないわたしはパニックを起こして何度も水を飲み込んだ。気管に痛みが走る。それがさらにわたしを混乱させる。
 ぐい、とわたしの腕を引っ張るものがあった。泥水の中から出されて激しく咳き込む。気持ちが悪い。鼻が痛い。喉が痛い。
 わたしを引き上げた人物は、両手をついて咳き込むわたしのことをそばで見下ろしていた。恐る恐る彼女の顔を見上げると、まるで天使のように微笑んで、わたしのことを見ていた。
 ぞくり、と寒気が走る。
 何を言われるのか、怖くて、わたしは反射的に身を強張らせた。
「フミナさん!」
 かなり後ろからキョウさんが走ってきた。フミナさんはそちらを一瞥して、もう一度わたしのことを見下ろすと、鈴のような透き通った声でわたしに言った。
「お夕食の時間ですよ」
 笑顔。笑顔。笑顔。
 にっこりと。わたしを安心させるために。
「あ、あの……っ。向こうに、ある、建物――」
「そんな建物はありません」
 笑顔のままで、フミナさんは即座にわたしの言葉を否定する。背中に氷を打ち込まれた感覚。寒気が止まらなくて、両腕で自分の体を抱えた。
「いいですね。まるさん、何か見ましたか? いいえ、あなたは何も見ていない。あなたは何も見つけられずに歪曲館に連れ戻された。良いですね?」
 わたしの耳元で何度も確認して、わたしがただ震えているだけなのに気がつくと、満足そうに頷いてわたしのそばから離れた。
 キョウさんが来た。わたしの無事と怪我の有無を確認して、わたしを歪曲館まで連れ帰る。
 その間、ずっと自分の体が死んだように冷たかったけれど、他人の体温を当てにする気にはなれなかった。


 わたしの人生は恥の歴史だった、と思う。
 小学生のわたしを振り返ると、あまりの幼稚さ、馬鹿馬鹿しさに顔が熱くなる。無邪気で善良なだけならば良かったのに、当時のわたしはそうした真っ直ぐな生き方を格好悪いと思っていて、馬鹿なオカルト趣味に走ったり見様見真似で悪者を気取ったりして数少ない友人たちの不興を買っていたような気がする。
 熱くなることを恐れだしたのはいつ頃からだろう。
 何かに一生懸命になるのが格好悪いと思った。斜に構えて皮肉を口にして、何でも適当にやっていなければ恥ずかしくて生きていけなかった、と思う。
 何かに全力を出して、それが間違っていたときが恐ろしくて、とてもじゃないけどそんなことは出来ない。例えば十年後、今のわたしを振り返ったときに、果たしてあの頃の自分は正しかったのだと胸を張れるのだろうか。
 何が正しくて何が間違っているのか。それも分からずに熱くなるのは、真っ暗な山道をアクセル全開で車を走らせるのと同じだ。目の前が崖かもしれない、という恐怖がいつもつきまとうのだ。そしてその恐怖を払いのけられるほど、わたしは自分の正しさに自信が持てない。
 最近の子供は冷めている、と大人たちが言っていた。
 それはそうだろう。子供は大人たちが失敗する姿を嫌というほど見せられて、大人から失敗が恥ずかしいと徹底的に教育されて、それでもなお失敗を恐れずに熱くなれると、本気で思っているのだろうか。
 わたしも今、少なくとも年齢だけは大人になっていて。
 やはり自分の正しさに自信が持てず、熱くなれずにいる。


 クリーム色の浴室。天井をぼんやりと見ながら浴槽に体を預けて、それでも心の中だけはひんやりと、低温を保っていた。だけど長い間湯船につかっているせいで、のぼせ気味で頭がずいぶんと鈍っている。その点だけでもありがたい、とぼんやり思った。
 もし思考が自由だったらわたしの精神は持たなかったかもしれない。今は時間が必要だった。体の傷と同じで、心も、時間さえかければ傷は風化してやがて穏やかになる。
 銭湯とは比べるまでもなく狭い。浴槽がひとつと、蛇口とシャワーの組が三つ並んでいるだけで、個人的な来客には十分に対応できる、というレベル。西洋風の装飾がされた館と大人数で入浴する銭湯の文化がミスマッチだったけれど、これはきっと設計者の趣味じゃないかとぼんやり考える。
 浴室にいれば歪曲館の歪みもほとんど気にならない。外で起きた人間消失も、今は何も気にならない。
 そう思っていた矢先、わたしを揶揄する声が浴室に反響した。
「それにしても随分と派手に暴れ回ったんだねぇ」
「……放っておいて」
 なげやりな返事を如月に返した。何となく如月の視線が嫌で、縮こまるようにして肩まで湯の中に入る。
 彼女は湯船に腰掛けて美しい四肢をわたしにさらけ出していた。女の裸をそう何人も見た経験はないし、見たいとも思わないけれど、如月のプロポーションは素晴らしく、今すぐにでもモデルに転職できそうだと思った。
「何だい、気を紛らわせてあげようと思ったのに」
「うるさい」
 拗ねたみたいな言い方になったのが、我ながら気に入らなかった。
 如月は鼻で笑って、それ以上の追求はせずに、湯の中で足をぶらぶらと動かした。
「ここがそんなに怖いのかい?」
「……なに、わたしに説教でもしてくれるの?」
 それなら、少し嬉しい。今は誰かに頼りたかった。誰かの言いなりになって、その通りに動けばそれなりに幸せになれるという――安心。
「別に責めてるわけじゃないさ。怖い、どうにかしなくては、と思うことは悪いことじゃない。自覚があるだけマシというものさ。恐怖という感情は必要だから人間に備わっているのだよ。本当に危険なものから自分を遠ざけるためにね」
「わたし……怖い。みんなが、怖い。誰かがわたしを殺しに来るんじゃないか、って」
「死ぬのが怖い?」
「分からない」正直に答えた。「殺されることが怖いのかもしれない。誰かが殺される、わたしが殺される――誰かが殺す」
「それは未来が消えるから?」
 みんなで仲良く推理ゲームに興じる未来が。
 人の死がどうしてこうも胸を打つのだろう。それはその人の未来が完全に閉ざされるからだ。もし生きていたら、いつかその人と仲良くなって、何か素敵な物語が始まるのかもしれない。だけど人の死は、そんな「あるかもしれない」未来、可能性を根こそぎ奪って零にしてしまうのだ。
 死は運命を閉ざしてしまうのだ。わたしは運命なんて信じていないけれど。
「恐怖はね、乗り越えるものなんだよ」
「なに?」
「怖いと思うことは悪くないけどね。怖い、というだけで終わってしまってはいけない。それを乗り越えなければならないのさ。真理紗もそこでただ震えているだけじゃあどうしようもないだろう?」
 如月の問いにわたしは沈黙をもって返した。
 お互いに何も言わない。ただでさえ湯に長く入りすぎたらしくて、わたしはほとんど頭が動かない状態になっている。如月はやはり鼻歌を歌って、浴室の中にはアップテンポにアレンジされた「雨に唄えば」が反響していた。
「如月……。西くんの死体を隠すなら、どこだと思う?」
「それは歪曲館の中で?」
「うん」
「死体を隠す上で問題となるのは二点。死体の大きさと腐敗。例えば成人男性一人分の大きさのものを隠すような場所となるとなかなか見つからない。第二に腐敗。死体は生ものだから、放っておくと強烈な匂いを発する」
 如月の講義が途切れた。
 しばらく待ったけれど、続きがなかなか始まらない。
「どうしたの? 続きは?」
「終わったよ」
「はい?」
「死体を隠すならどこかと聞かれたから答えたまでさ。二点の問題をクリアするような方法で隠すんじゃないかと、そういうことさ」
「具体的な方法は?」
「そんなこと知るかい」
 なんだ、とわたしは脱力した。名探偵としてはずいぶんと投げやりだ。冷静に考えれば部外者でしかも一介の探偵である如月が事件を解決しなければならない謂われはないはずなのだけど。でも、ミステリーじゃあどう考えても如月が名探偵のポジションだよねえ。
「凍らせて冷凍庫の中、とかは?」
「悪くないが、あの冷蔵庫に成人男性一人を入れられるかね」
「凍らせて粉々に砕いて、周りの山に撒く」
「粉々に砕くのは難しい。手作業では不可能だし、専用の機械がなければねえ」
「乾燥させてミイラにする」
「乾燥させるのに適しているのは食料庫くらいしかないね。そして食料庫は真理紗が何度も足を運んでいるだろう?」
「もしかしたら、見落としたのかも」
「都合の良い眼をしているんだね」
 如月が湯船の中で立ち上がって、タオルで隠すようなこともせずに堂々と出て行く。
「そろそろ上がろう。これ以上入っていると、さすがの真理紗ものぼせるんじゃないのかい?」
「そうね」
 本当はとっくにのぼせていたんだけど。そうじゃなきゃあんな馬鹿な会話をするもんか。


 風呂から上がってダイニングホールへ向かう。着替えの服は如月に頼んで部屋から持ってきてもらっていた。あいつに下着を運ばせるのは何となく嫌だったけど、そんなことを言っている場合じゃなかったし。
 念のために厨房に寄って、食料庫の中に死体がないかを確認したけど、死体どころか満足な食べ物もなかった。保存食と乾いた野菜ばかりだ。
 テーブルの上にはパン、肉団子のスープ、サラダが置いてある。フミナさんが作ったわたしの夕食だった。キョウさんとゆーせいさんは食べずに部屋に戻ってしまったらしい。
「くくくっ。どうせだからこれも開けよう」
 如月がワインのボトルを手にやって来た。コルクを抜くと、わたしの分のグラスに勝手に注ぐ。赤と黒が混ざったような濃い色のワインだ。グラスの中から芳醇な香りが舞い上がる。
 自分のグラスにも注ぐと、乾杯もせずにぐいと飲んだ。特に満足した様子もなく、いつもの顔で頷く。
「良いね。最高だ」
「このワインも高いの?」
「値段の割には美味いんじゃないかね。ワインセラーにあったが、どうだろう、今なら十万ばかしはするだろう」
「勝手に開けていいの?」
「構わないさ。一番高いやつには手を出していないから」
 いけしゃあしゃあと言って、さっそく一杯目のグラスを空にする。アルコールを摂取しても顔色一つ変わらない。わたしなんかとは大違いだ。一口飲んだだけで体の奥がかーっと熱くなるのが分かった。
「わたし、何が何だか分からなくなってます……」
「弱気だね」
「今まで強気だったときなんて、ないですよ」
「悪いが、私に頼ろうとしてもそれはお門違いだよ。そこまでしてやるほど他人に興味はないからね。友人としてアドバイスくらいはしてやるが」
「フミナさんが何を考えてるのか分からない。何を隠しているのか……」
 歪曲館の近くにあったあの建物は一体何なのだろうか。ここに来る途中、あんな建物を見た記憶はない。隠れるように作られた人が住むための場所。
 キョウさんが言っていた、西くんが自ら隠れている可能性をもう一度考えてみた。フミナさんがいくら否定したところで、この近くに歪曲館以外のもうひとつの建物があったのは事実だ。西くんは歪曲館を出て今はあの建物で過ごしているのでは?
 ……いや、そうじゃない。西くんが自発的に消えたという可能性の根拠は、西くんが誰かに殺されたとして、その死体の隠蔽の困難さに依るものだったはず。近くに建物(死体の絶好の隠し場所)があるのなら、あるいは西くんを殺した犯人が死体をあの建物へ運んだと考える方がスマートだろう。そもそも西くんは初めてこの歪曲館に来たのだから。
 建物に死体を運び込んだ犯人は、そこで西くんの死体を冷凍したり、あるいは乾燥させて粉々に砕くことだって可能だろう。そういう設備をあらかじめ用意しておけばいい。後は山のどこかに死体をばら撒けば対警察用の警戒も完璧だ。
 殺されて、処理されて、棄てられる。
 ――ひとりずつ。
 わたしは身震いした。思わず部屋の入り口を目で確認した。今にもそこにフミナさんが立っていて、わたしを殺してあの建物に連れて行くんじゃないかという気がした。
 死体を処理するための建物。人を消すための建物。死体処理場――。
 もしそうならば犯人はフミナさん以外にはありえない。
 ……本当に?
 確かにこの旅行の計画者で、歪曲館をレンタルした責任者で、去年も来たことのある人だけど。
 いや! 去年もこの建物に来ているのはフミナさんだけじゃない。
 わたしはキョウさんの顔を思い浮かべて頭を振った。その疑惑を追い出そうとしたけれど、うまく行かなかった。どうしてわたしたちが外に出たことをフミナさんが知っていた? どうして内部犯説を唱えているくせに警察に連絡することを強固に主張しない?
 一見すると意見が正反対のフミナさんとキョウさん。じゃあ現実はどうなの? キョウさんは色々考えて、調べているけど、実際に警察を呼ぶようなことはなぜかしない。いざとなったら車で逃げる? 今がいざというときではないのか?
 グラス半分ほど残ったワインを一気に飲み込んだ。水分が欲しかったのと、少しでも酔うことで自分の猜疑心を消し去りたかった。思考を鈍らせ、ものを考えない人形になってさえしまえば。後は耐えるまでもなく明日がやってくる。
「ねえ、如月。もしわたしがこの事件を解決してくれって依頼したら――」
「それは出来ない」
「出来ない? あんたにも出来ないことがあるの?」
「したくない」
 ぶっきらぼうに答えて、それ以上の説明を加えようとしなかった。わたしは焦れったくて、如月を今すぐぶん殴ってでも事件の真相を吐かせようかと思った。だけど冷静に考えれば如月が事件の真相を知っているとは限らない。こいつ、口は達者なくせに具体的なことは何もしていないのだ。ただの虚言癖と誇大妄想なんじゃないのか、なんて。そもそもどうして探偵があんな山道を歩いていたんだ。
 わたしは食べ終わった食器を厨房に運んでシンクの中に重ねて放置する。なんとなく、自分の命の危機という初めての事態を迎えて、皿洗いのような雑多なことをする気分にならなかったのだ。


 口笛を吹きながら死神のようについてくる如月を従えて、わたしたちは自分の部屋に戻る。風呂場に寄って置きっぱなしにした服を回収するのも忘れない。特にスカートが大変なことになっていた。厨房の裏に洗濯機と乾燥機があるのは知っていたけれど、着替えは三着持ってきているし、スカート一枚で騒ぎ立てるほどの精神的な余裕がわたしにはなかった。
 キョウさんもフミナさんもゆーせいさんも自分の部屋に戻っているみたいで、歪曲館の中には一切の生活音がなかった。外で吹き荒れる暴風の声が聞こえるだけだ。
「こんな事態なんだから、みんなでひとかたまりになってた方がいいんじゃないのかな」
「そもそもフミナは『こんな事態』を認めていないし、全員集まったところで本気で殺意を持っている人間を止めることは出来ないさ。例えば私なら毒ガスを使うだろうね」
「毒ガスねえ……」
 いささか現実離れしたその凶器の名を復唱した。現実離れ、という尺度でものを言うのならこの館こそもっとも現実離れした存在だろう。そんな存在に身を寄せて嵐をしのいでいるわたしたちのなんて不安定なことか。
 まだ乾く気配のない服を適当に投げ出して、ベッドの上に倒れると、いろんなことが頭を駆け巡ってもう何もしたくなくなった。歯を磨いて寝間着に着替える作業にどうしても踏み出せない。まぶたを開けて首をそちらに向けるのが億劫だったけれど、音だけで、如月が椅子に座って図書室から持ってきた本を開いているのを想像した。
 死人のように疲れていたわたしだったから、部屋がノックされたときも、返事をすることもベッドから立ち上がってドアを開けることも出来ずにいた。
 わたしも如月もノックを無視した形になったけれど、ドアの向こうの客人は諦めずに何度もノックした。
「おい、俺だ。ゆーせいだ。頼む、開けてくれ」
 かなり切羽詰まった声だ。わたしは起き上がるのが面倒で「如月」と名前を呼んだ。それだけで彼女は心得て、無精なわたしの代わりにドアの鍵を開けてゆーせいさんを中に招き入れた。
 ゆーせいさんがわたしたちを殺しに来た可能性が頭をよぎり少しだけ緊張する。その場合一番危険なのはドアを開ける如月だ。悪いけどあんたにはわたしの防壁になってもらうからね、と悪辣なことを考えて。
「どうしたんだ? まるさん?」
 ゆーせいさんの不安そうな声。ゆーせいさん自身もあまり大丈夫そうではないみたいだけど、今のわたしはそんな彼にも心配されるような状態らしい。大丈夫、と返事をするのが億劫で、口を開く代わりに片手を上げて健在をアピールした。
「それで、一体何の用だい? まさか夜這いをかけに来たんじゃあるまいね。残念だけど彼女は売約済みだよ」
「まさか。こんなときに、そんな気分は起きないよ」
「くっくっく。冗談だよ。友成は少しリラックスしたまえ。顔が強張っているよ。警戒しているのか。それで、御用向きは? まさか雑談をしに来たわけではあるまい。『こんなときに』ね」
「その……こんなことを頼むのは、自分でもどうかと思うんだが」
「導入部は不要だよ。本題に入りたまえ」
「今日、俺をここに泊めてくれ」
「はあ?」素っ頓狂な声を上げたのはもちろん如月ではない。「わたしと一緒に寝たい? 冗談でしょう?」
「頼むよ……。こんな状況で一人で寝たら殺されるかもしれない……」
「わたしに殺されるかも、とは考えないんですか?」
「フミナやキョウのところで寝るよりはマシだよ」
「フミナさんのところで寝るなんで問題外ですよ。キョウさんのところに行ってください。男女は七歳になったら――」
「男女七歳にして席を同じゅうせず」
 如月が言葉を継いだ。
 大体どうしてわたしのところに来るのだろう。フミナさんの部屋に行かないのはまだ理解できる。この状況では犯人の最有力候補者だし。だったらキョウさんのところに行くのが自然じゃないのか。男女が同じ部屋で眠るなんて、こんな状況だとしてもあんまり進んでやりたくないなあ。間違いなんて絶対に起きないという自信があったとしても。
「単に私たちが二人でいるから選んだだけだろう? フミナやキョウと一緒に寝るってことは、どちらかが犯人かもしれないというリスクを背負うことになる。ところが私たちの部屋ならば、私と私の親友どちらかが犯人でも二人きりという状況にはならず、殺される心配はない、と」
「……まあ、そんなところだ」
「つまり、別にMaLだから信頼しているとか私が探偵だから安心しているとか、そういう理由ではないわけだ。単に二人部屋だから安全だろう、ってね。くくくっ。友成がない知恵を振り絞って考えたんだろうが、じゃあ私と彼女が共犯だったらどうするつもりだい?」
 そう言って、ゆーせいさんの青いシャツの襟を掴んでぐいと顔を寄せる。平気で人を殺しそうな、あるいはモラルを持っているとはとうてい思えない女にそんなことをされて、ゆーせいさんは気の毒なほどに怯えて取り乱した。
 「冗談だよ」と腰を抜かしたゆーせいさんを放っておいたまま、如月は椅子に戻って中断された読書の続きを始めやがった。どうやらゆーせいさんへの興味をなくしたらしい。仕方がないのでわたしが客人の相手を務めなければならない。
「帰ってくださいよ。だいたい、ゆーせいさんが犯人かもしれないじゃないですか」
「お、俺は犯人じゃないよ! 大体西くんと会ったのだって昨日が初めてだし――」
「他の二人だってそうでしょうに。……犯人うんぬんを抜きにしても、やっぱり男の人と一緒に寝るのはちょっと」
「俺は何もしない! ただ安全な寝床が欲しいだけなんだ……。もちろんベッドはいらないし、部屋の隅でじっとしてるからさ……頼むよ……」
 大の男が泣きそうな表情で懇願してくるのだ。少しだけサディスティックな愉悦を覚えて、どうしようかとあからさまに迷った振りをしてゆーせいさんをじらした。
「そ、それに、もしかしたら次に消えるのは俺かもしれないんだ……」
 聞き捨てならないことを耳にして、今度は別の種類の感情がむくむくと起き上がってきた。それはすなわち好奇心、あるいは探求心であり、この状況を乗り切れる可能性を秘めたおよそ唯一の情動だった。
「どういう意味です? 狙われる心当たりが?」
「ある」
「でも、みんなとオフで会うのはこれが初めてなんですよね?」
「そんなの関係ない。俺は……犯人の姿を見たかもしれないんだ」
 その場に腰を下ろして、うなだれたままゆーせいさんはそう言った。彼のゆっくりとしたしゃべりに焦れてわたしは急かすように質問する。
「見た? 本当に? 犯人は誰なんです?」
「そ、それが、分からないんだよ。あ、あのときは、その、大分酒が入ってたし、夜中に寝起きだったから、その、最初は西くんだと思ってたんだけど、い、今にして思うと、あれが犯人だったかもしれない……」
「いつの話です」
「昨日の夜。夜中に目が覚めて、トイレに行った帰りに。多分三時か四時か、詳しい時間は覚えてないんだが……。西くんの部屋に入る男の姿を見たんだ。さ、最初は、ああ西くんもトイレに行ったのかな、くらいに思ってたんだけど、今日になって冷静に考えてみると、あ、あの姿は西くんじゃない――もっとがっしりしてたから、その、もしかしたら知らない人が歪曲館に忍び込んで、西くんを殺したんじゃないかと思ったんだけど」
「だから今日、やたらと外部犯にこだわってたんですね」
「ああ……。だって、外部犯の可能性がないと、後は男はキョウくんしかいないから。仲間を疑いたくなかったし」
「――ということは」
「ああ。キョウが犯人だよ。あいつが西くんを殺したんだ」
 そんな馬鹿な、と声に出しそうになって、その説を否定するための根拠を何一つ持っていないことに愕然とした。エアコンが効きすぎているのか、それとも別の理由か、肌寒くなったわたしはベッドの上で布団にしがみついている。
「でも……なんで」
「知らない。多分あいつら、推理小説を読むだけじゃ満足できなくなって、自分で人を殺してみたくなったんだ。この奇妙な館に嵐、おあつらえ向きじゃないか」
「あいつら?」
「ああ。フミナも共犯だよ。西くんの死体は館の中に隠したんだ。多分あいつらしか知らない隠し部屋か何かがあるんだ。だってそうだろう? あいつら二人だけが去年もここに来てオフ会に参加してるんだ。そのときに共犯関係が成立してもおかしくないだろう。そう考えると、去年自殺した千歳さんも、もしかしたら自殺じゃなくて、あ、あいつらに殺されたのかも……」
「ミステリーが好きだからって、まさか人を殺すわけ、ないじゃないですか。そんな、非現実的な。馬鹿な」
「じゃあどういう理由なら満足なんだ? どんな理由なら納得できる? 人を殺す理由なんて納得できるかよ。金のために殺すのなら納得できるか? だったらお前も金のために殺すのか?」
「友成、落ち着きたまえ。私の親友は君の敵ではないよ」
 如月が本を読みながら落ち着いた声でなだめた。ごめん、と素直に謝って、ゆーせいさんはもう一度改めてこの部屋に泊めてくれるように頼んだ。
 わたしは如月の方を向いた。わたしはベッドの上で寝るとして、如月とゆーせいさんはどこで寝るのだろう。まさか床に並んで一緒に寝るというのも、ちょっと問題があるような気がするし。
「なあに、心配無用だ。私と真理紗が一緒に寝ればいいのさ」
「やっぱりそうなるか……」
「マリサ?」
 ゆーせいさんの疑問符を無視して、わたしは彼を一度部屋の外に追い出した。とりあえず寝間着に着替える必要があったし、ただの友人だとしても部屋に散らかした服を見せたくないという羞恥心くらいはちゃんと機能していたからだ。
 洗面台で鏡に向かって歯を磨きながら、ぼんやりと外を吹き荒れる嵐の音を聞いていた。
 わたしは無事に明日を迎えられるだろうか。
 そして明日の朝は一体誰が消えるのだろうか。
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