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4.vanishing

 目を覚ましたとき、耳に入ったのは風の音だった。どこか遠くでごうごうと揺れている。木の枝が館を叩く音、空気が渦を巻いて流れる音……。
 台風が近づいているとフミナさんに言われたのを思い出して、わたしは体を起こした。
 床に目をやると、そこには如月の姿がない。昨晩執拗に同じベッドで寝ようとする如月を押し出して、無理やり床で寝かせたのである。如月に貸し与えた毛布が丁寧に折りたたまれて壁際に置いてあった。
 目覚ましのつもりで枕元に置いた携帯電話で時間を確認する。七時十八分。予定よりもずいぶん早い。自覚はなかったけど、慣れない場所で熟睡できなかったのかもしれない。
 それもそのはずだ。ベッドの上で仰向けになって部屋全体を見渡すと、この建物の異様さを改めて思い知らされる。壁も天井も傾いていて、まるで倒れてきそうな、今まさに倒れている最中であるかのような、不安をかき立てる部屋。
 わたしは頬を叩いて幻想を追い出した。朝食の時間は八時だと言われている。まだ少し早いけど、もう一度眠る気にはなれなかった。
 服を着替え、部屋に備え付いている鏡で自分の姿を確認する。とりあえずは問題ない。洗顔と歯磨きを済ませ、軽く化粧をして部屋を出た。
 階段を下りてダイニングホールへ行くと、湯飲みでお茶を飲んでいるキョウさんがいた。わたしの姿を見つけると片手を挙げて挨拶する。彼の顔にはかなり覇気がない。心なしかやつれているようにも見える。
「おはようございます」
「まるさんも飲みます? ほうじ茶は好きですか?」
「ええ、あの、いただきます」
 彼は厨房の方へ行って、湯飲みをもう一つ抱えて戻ってきた。キョウさんが急須でお茶を注ぐのを恐縮して受け取る。
「朝は強い方なんですか? 私は低血圧で、早めに起きないとなかなかエンジンが掛からないタイプでして」
「普通逆じゃないんですかね。朝が弱いなら遅く起きるんじゃないですか?」
「朝が弱くても会社は待ってくれませんからね。生活のサイクルを前倒しして、仕事が始まるまでにはちゃんと目を覚ませるように調節するんですよ」
 厨房の方からフミナさんが顔を出した。エプロンを付けている姿はなかなか様になっている。三十代だと聞いていたけれど、彼女はもう結婚しているのだろうか。
「もうみなさん起きていらっしゃるんですね。朝食、早めに作った方がいいでしょうか」
「私は急ぎませんよ。本音を言えば、もう少しぼんやりしていたいくらいですが」
「そういえば如月を見ませんでした? あいつ、わたしが起きたときにはもう――」
「如月さんならもうすでに朝食を終えてらっしゃいます」フミナさんが言った。「私が起きてここに来たときには、すでに自分で朝食を済ませられたようでした」
 あいつ、集団行動というものが全く分かっていない……。わたしは何だか申し訳なくなってきた。本来ならば如月のことなど他人でしかないのだが、ここにあいつを連れて来たということでなんとなく責任を感じる部分があった。
「気になさらないでください。あの方、生活のサイクルが普通の人とは違うみたいですね」
「あれ? ということは、如月嬢は自分で朝食を作ったということですか?」
「というよりも、食料庫にあった果物をお食べになっただけで、料理されたわけではないと思います」
「えっと、如月は今どこに?」
「はい。図書室に行かれたのをお見かけしましたが」
 あいつ、図書室に何の用だろう。あの図書室、古いとはいえ蔵書数はかなりのものだったから、単に時間を潰しに行ったのかもしれない。あの女に退屈という概念があればの話だけど。
「如月嬢はあまりこのイベントに熱心ではないようですね」
 再びフミナさんが厨房に引っ込んでから、キョウさんが何気ない調子で言った。厨房の奥から香ばしい匂いと油の跳ねる音が流れてきた。
「すみません。あの、本人が来たいと言い出したんですけど」
「いえ。本当なら小春坂さんが欠席されて、ゲーム自体ができなかったんですから。それだけでも十分ですよ」
 わたしはほどよい温度に冷めたお茶をゆっくりと飲み込んだ。慣れ親しんだお茶の味を舌の上で楽しむ。飲み込んだときの、体の中心から外側に熱が広がる感覚がたまらない。
 外は嵐だった。窓のガラスを風と雨がめちゃくちゃに叩いている。斜めに傾いた窓の表面を雨粒が流れていくつもの小さな川を作っていた。
 わたしたちが少しでも沈黙すると途端に雨風がこの部屋の音を支配してしまう。ガタン、ガタン、風で窓が強く揺すられる度にわたしは少しだけ恐怖を感じた。
「嵐はかなり強くなってきましたね」
「ですね」
「この調子だと車を使っても下山するのは難しそうです」
「今日下山する予定があるんですか?」
「ありません。この館がクローズドサークルである、と言いたかっただけですよ」
 クローズドサークル。閉じた輪を意味する言葉。ミステリーにおいては、何らかの理由で外部との往来が絶たれた場所を示す。ミステリーのお約束としてそういう場所で頻繁に殺人事件が起きる。
 それがどうしたのか、と思ってキョウさんの顔をまじまじと見たけど、当人は気だるそうに机の上につっぷしていた。特に意味のない思いつきだったらしい。今朝嵐の音を聞いたときわたしも同じことを連想したけれど。
 特に目的もなく、如月がいるという図書室に向かう気にもなれず、わたしは朝食が出来上がるまでずっとお茶を飲みながら嵐の音を聞いていた。
 フミナさんが大きな黒いトレイの上に朝食を載せてやって来た。事前に予告していた通りの時間。午前八時を告げる時計の音が嵐の音に紛れてかすかに聞こえた。
「みなさん、まだぜんぜんそろっていませんね」
「昨日は何時まで起きてたんですか?」
 昨晩は風呂に入った後、みんなでミステリ談義をしたり、ひとりで館の中を歩き回って自分の推理を固めたりして、十一時くらいには耐えきれずにベッドに倒れてしまった。自覚はなかったけれど旅の疲れとやらがあったのかもしれない。普段なら深夜の一時くらいまでは平気で起きていられるから。
「ああ、私と西君とゆーせい氏で、深夜まで話をしてたな」
「推理合戦ですか?」
「そんなところです」
 キョウさんは曖昧な返事をした。何だろう。わたしが犯人である可能性を検討していたのだろうか。何となく嫌な感じがしたけれど、これもゲームの醍醐味だろう。わたしの方だってキョウさんが犯人の可能性を考えていたんだし。
「ゆーせい氏はかなり遅くまで飲んでいたんじゃないでしょうか」
「あの人、あれからまだ飲んでたんですか?」
「はい。さすがに私もお付き合い出来ませんでした。今朝の準備もありましたし……」
 フミナさんが少し申し訳なさそうに言った。
「なに、気に病むことはありませんよ。深夜になってからはほとんど自由行動でしたからね。ここなら時間を潰すものには事欠きませんし」
「ゆーせいさんを起こしてくるべきでしょうか。あの方の分もすでに出来上がっているのですけれど」
「西くんもまだですね」
「彼は朝食を食べない主義だそうですよ。朝食はいらないと、事前に伺っております」
「私たちで先に食べましょう。この調子ではいつ起きてくるかも分からないし、それに出来立ての食事を食べられないのは彼の自業自得というものです。それにしても、素晴らしい料理ですね。フミナさんは調理師か何かで?」
「いいえ、違います」
 フミナさんが微笑みながら言った。彼女の左手の薬指に指輪が輝いているのをわたしは見逃さなかった。
 朝食は和食だった。鮭を焼いたものをメインディッシュに、味噌汁、白米、茄子の漬け物、豆腐とオクラのサラダ。まるで旅館みたいなメニューだ。地味だけど食欲を誘う献立である。ゆーせいさんの朝食はラップをかけて厨房の奥に引っ込められた。
 このオフ会では台本で演じる場面と犯人を告発するルール以外は各人の自由行動が認められている。ミステリーツアーと言っても、その目的はみんなで遊んで仲良くなろう、という以上のものではない。どこまでも緩いルールなのである。
 昨日よりも少ない面子で食べる朝食は少し寂しかったけれど、一人暮らしをしているわたしには普段味わえない手の込んだ朝食はとても満足できるものだった。
 結局、ゆーせいさんが降りて来たのは十時になってからだった。
「あれ? 西くんと如月ちゃんは?」
 ダイニングに来て最初に言ったことがそれだった。ゆーせいさんは顔色が大分優れていない様子だった。昨日の酒がまだ残っているんだろう。
「如月嬢ならもう起床していますよ。西君の姿はまだ見ていませんが」
 コーヒーカップを持ちながらキョウさん。食後にフミナさんが出してくれたもので、大して違いの分からないわたしでも美味しいと感じるコーヒーだ。本当にこの人は何を作らせても上手い。
「あのー、フミナちゃん、俺の朝飯ってまだ残ってますか?」
「ええ、ありますよ。今温めますから」
「ああ、そりゃありがたい」
「なめこ汁もあります」
「そいつは至れり尽くせりだ。なにせ二日酔いがひどくて」
 顔色は悪そうだったが調子の良さは相変わらずだった。
「そいで、朝食を食べ終えたきみたちは一体何をしていたんだい?」
「推理小説の歴史におけるトリックの位置づけについて話していました。いや、びっくりしました。特にフミナ嬢の、古典怪奇小説に対する造詣は素晴らしいです」
「難しそうだねえ」
「ゆーせいさんを待ってたんですよ。あと西くんもまだ降りてこないし」
「おお、そりゃ悪かった。うん、ごめん」
「しっかりしてくださいよ。最年長なんですから」
「いや、キョウさんにそう言われると、面目ない」
 絶対に反省しているわけはないのに、とりあえず頭は下げるゆーせいさんだった。
 電子レンジで温められた朝食を美味そうに食べる。わたしたちに遠慮しているのかかなりの早食いだ。ろくに咀嚼もせずにコーヒーで喉の奥に流し込む。
「ふーん、それにしても、西くんはまだ寝てるんだねえ。あの子、人にはしっかりしろと言う割には、いい加減なやつだったんだな」
「ゆーせいさんも人のことは言えないでしょう。少しアルコールを自制するべきだね」
「はっ。新聞社のエリート編集者には分からないだろうけどな、日本のサラリーマンには酒で忘れたいことがいっぱいあるんだよ」
「私は編集者ではなくて記者ですよ。そして記者だって会社人ですが」
 キョウさんが苦笑した。
「キョウさんってどういう記事を書いてるんですか?」
「んふふ、あんまりみなさんの興味をそそるようなものは書いていない、かなぁ。大抵は美味しいラーメン屋の話とか、流行の秋物ファッションとか、首つり屋敷の日本兵とか」
「めっちゃ面白そうじゃないですか」
「まっとうな記事じゃない、単なるゴシップですよ」
「幽霊、ですか? 詳しくお聞きしたいですね」
 フミナさんが目を輝かせて言った。鉛の歯車での彼女の書評を見ている限り、超常現象とか幽霊とか、いわゆるスーパーナチュラル系の話が好みのようだった。
「あまり期待されても大した話はできませんよ。飛騨の山奥に首つり屋敷と呼ばれる古い建物がありましてね。地元の名士が住む立派な屋敷だったそうです」
「おいおい、あんまり血生臭い話はやめてくれよ。俺は食事中なんですから」
「思いっきりグロい話をよろしくお願いします」
 ゆーせいさんが泣きそうな顔になった。フミナさんが笑いを堪えているのが分かる。
「戦時中は学童疎開で多くの子供がその地方にやって来たのですが、その首つり屋敷が子供たちの受け入れ先になったんです。それが――」
 ダイニングホールのドアが開いた。如月が分厚い本を両手いっぱいに抱えて入って来た。足で器用にドアを閉めると、わたしたちの方には見向きもせず、テーブルの上に本を置いて椅子に座る。
「あ……。如月、あんた朝から何してるのよ」
「読書だよ。これが本以外の何かに見えるのかい?」
「あの、読み終わったら元に戻しておいてくださいね」
 フミナさんが小さな声で注意する。如月はそれを軽く無視して、
「何か飲み物はあるかい? 埃っぽいところにいると喉が渇いてね」
「水道水でも飲めば?」
「ふふふ、今コーヒーを淹れますからね」
 柔らかく笑ってフミナさんが厨房に引っ込んだ。
「それにしても西くんはまだ起きてこないのか。あいつ、朝が弱かったんだなぁ」
「どうしましょうか。このまま寝かせてやってもいいとは思いますが……」
「起こしに行きましょうよ。せっかくみんなで泊まりに来たのに、生活がバラバラじゃ意味ないじゃないですか」
 提案したのはわたしだ。あの西くんの寝起きを襲うのは楽しそうだ。きっと烈火のごとく怒るだろうけど、怒りの矛先はゆーせいさんに向くだろうし。
「くくくっ。趣味が悪いね。人の弱いところを覗きに行くなんて、下賤のやることだよ」笑顔のままで如月。もしかしたら説教しているのかもしれない。「凡人には秘密や弱点があるものさ。それをうまく騙して隠して誤魔化して、少しずつ他人に近づいていくものなのだよ。それをすっとばして、いきなり他人の領域に踏み込むのはただの野次馬でしかない」
 如月にしてはまともなことを言うなあ、と驚きながらも反省したのだけれど、彼女は笑顔を一切崩すことなく、
「しかし西弓にしゆみの寝顔というのは面白そうだ。くくくっ。よろしい、わたしが許可しよう。存分に覗いてきたまえ」
「賛成するなら最初からそう言ってよ。あんな説教なんか……」
「あらかじめ道徳を提示しておくのさ。その方が背徳感を覚えて悪戯が楽しくなるらしい。私はいつでも君の味方だよ」
「それでは、行ってみますか。もっとも鍵が掛かっている可能性もありますけど、そのときは素直に彼を起こしましょう」
 相変わらず後片付けを一手に引き受けるフミナさんを残して、わたしたち四人は二階の西くんの部屋へと向かった。


 西くんの部屋のドアを、わたしたち四人が囲む。
 一番乗り気だったのはゆーせいさんだった。彼は最年長にして最年少の精神を持っているのだった。そして西くんはおそらく最年少にして精神年齢は最年長だろう。
 音を立てないようにゆっくりとノブをひねり、開いた隙間からするりと体を忍び込ませる。まるで空き巣みたいなやり口に、キョウさんとわたしは苦笑しながら普通にドアを開けて中に入る。
「なんだ、いないじゃん」
 ゆーせいさんが落胆の声を上げた。
 ベッドの上に西くんの姿がない。丸いテーブルの上にはレポート用紙と筆記用具、ベッドの脇には口を大きく開けたままのバッグ。バッグの中には西くんの着替えが覗いていた。
「そんな馬鹿な。それでは西くんはどこに行ったと?」
 そう言いながらキョウさんは部屋の中を物色する。物色するというよりは西くんを捜しているようだった。クローゼットの中やベッドの下まで確認する。もちろん、これだけ物の少ない部屋に、人間一人が隠れられる場所なんてそうそうあるわけがない。
「もう部屋を出たのかなぁ。それで隠れてる」
「何のために?」
「ほら、俺たちと一緒で、隠れて遊んでるとか」
「ゆーせいさんじゃないんですから」
「そもそも私たちがここに来たのだって、ただの思いつきですしね。探されているわけでもないのに隠れたりするような、そんな寂しい遊びはしないでしょう」
 キョウさんの言うことはもっともだった。もしわたしたちがここに来なければ、もしかしたら昼過ぎくらいまでは西くんがこの部屋にいないと気づかなかっただろう。
「おっかしいなぁ。どこ行ったんだろう」
「探してみますか……。ホールか、遊戯室のどちらかでしょう。早く見つけて推理を聞かせたい」
「ほう。キョウくん何か新しい推理でも?」
「まあ、はい。それなりに、ね」
 キョウさんは言葉を濁して答えた。
 それを聞いてわたしはどきりとした。昨晩は睡魔に負けてしまって、事件のことはろくに考えていない。これだけ考える時間があって自分は一体何をしていたんだと、少しだけ恥ずかしくなった。多少なりとも自分の頭脳に自信があったからなおさらだ。
「まあでも、どこかで油売ってるんだろうよ、どうせ。それとも一人で色々調べてるのか」
「それは興味深い。ぜひ私も同行したいですね」
 結局、わたしたちは一階に下りて西くんを捜すことに決まった。
 如月は西くんの部屋には立ち入らずに、廊下から腕を束ねてわたしたちのことを眺めていた。わたしたちが部屋を出て、一階へ向かう途中、最後尾を歩いていた如月に小声で話しかけた。
「ねえ如月、あなた今朝西くんを見た?」
「生憎と」
「見てない?」
「見てない」
 念押しするように訊いた。それでも少し嘘くさいと感じるわたし。
「でもあんた、何であんな早起きしたの?」
「私に生活リズム、などという概念はないからねえ。眠りたいときに寝て、食べたいときに食べるのさ」
「それ、動物と同じじゃん」
「人間は動物だよ」
 それきり如月は会話を打ち切った。
 談話室、ホール、図書室、と人が立ち寄りそうな場所を順番に探していく。
 念のためにトイレと浴室も調べた。
 とうとうわたしたちは西くんの姿を見つけることが出来なかった。


「これは少しまずい事態かもしれません。人間消失というやつかも」
 ホールに集まったわたしたちは、キョウさんを中心にそれぞれが好きな場所に座っていた。
 たった今連れてきたばかりのフミナさんにキョウさんが状況を説明する。言葉とは裏腹にまだまだ余裕がありそうだった。しかも、どこかこの状況を楽しんでいる節もある。ミステリマニアとしてのさがだろうか。
 一方で事態をもっとも深刻に考えているのがゆーせいさんだろう。わたしたちから一番離れた場所で神妙そうに視線を彷徨わせている。右手に持った煙草から白い煙が上がっていた。
「外に出た、とか?」
 わたしが言うと、キョウさんがすぐに反論する。
「それはないでしょう。鍵はフミナさんが管理していて、玄関のドアは内側からも鍵がなければ開かない。それにこの嵐ですし」
 窓の外を見た。館のすぐそばに植えられている木が、風にしなって窓ガラスをうるさく叩いている。降雨量もひどい。この様子だと、館を出て自力で下山するのは自殺行為だろう。
「隠れて私たちをからかって遊んでいる……という性格でもなさそうですし。これはもしかしたら何かの事故に巻き込まれたのかもしれません。それでどこかに閉じ込められた、と」
「それほど大げさに騒がなくても、すぐに戻ってくるのではありませんか?」
 フミナさんが発言した。無表情なので何を考えているのか分からない。本心からそう言っているようにも見えるし、不安を誤魔化すためにわざと楽観論に徹しているようにも見える。
「だとしたら西君は隠れて遊んでいる、ということになるので、館の中を探すのは決して無意味なことではありませんよ」
「そう、だよな。あくまで隠れるってんなら、俺たちで見つけてやればいいんだ。かくれんぼみたいにさ」
 ゆーせいさんが不自然なほど元気な声で言った。そしてろくに吸っていない煙草を灰皿に押しつける。
「さあ、そうと決まったらすぐに探そう! 俺は二階を探す。あそこは部屋がたくさんあるから、隠れる場所はいっぱいあるからな」
「私は遠慮しますわ。みなさん深刻に考えすぎですよ」
 冷めた言葉を吐き捨てて、フミナさんはホールから出て行こうとする。すかさずキョウさんが呼び止めた。
「ちなみに――鍵は、ちゃんとありましたか? 夜の間に持ち出されたとか、そういうことは?」
「……ありました」
 少しだけ間を開けて、フミナさんが答える。彼女はホールから出て行く。
 わたしは何となく気になって、玄関のドアに手を触れる。ひんやりと冷たいドアの向こう、微かに暴風の気配を感じた。そっと押してみるけれど、ドアはすぐに止まってびくともしない。やはり、鍵はかかっている。
「それじゃ、いくつかに分かれて探そう。俺は二階を探すけど、誰か一緒に来ないか?」
「だったら私も同行しよう」
 意外なことに、ゆーせいさんの声に応えたのは如月だった。
「それから念のために聞いておくけどね、みんなの部屋の中は調べないのかい?」
「え?」
「誰かの部屋に隠れている可能性もあるだろう? だからみんなの部屋の中も調べさせてもらっていいかい?」
「ええ、私はかまいませんよ。……フミナ嬢はどうか分からないので、そこは飛ばして調べてください」
「いいさ。黙って調べれば分かりっこない」
 めちゃくちゃなことを言う如月だった。他人の部屋を覗きたいがための立候補だったのだ。なんというか、もうそろそろあいつと一緒にいるのも限界だ。ため息が意図せずに口から漏れた。
 妙に賑やかなゆーせいさんと変にご機嫌な如月のコンビが、意味のない掛け合いをしながら階段を上って行った。
 如月のことは頭が痛いけれどキョウさんと二人きりなのは少し嬉しい。さて、とキョウさんはわたしと向き合って手を叩いた。
「では行きましょうか」
「あの、でも一階はさっき探しましたよね。他にどこを探すんですか?」
「まだ探していないところはありますし、調べなければならないこともあります。まずはワインセラーの中を探しましょう。隠し部屋はまだ見ていませんからね」
「隠れるとしたらあそこがおあつらえ向きですよね」
「いえ、隠れるにはまったく適さない場所だと思いますよ」
 意外な返事だった。キョウさんの方を向くと、彼はまっすぐにわたしのことを見ていた。彼の視線に射貫かれて、心臓が少しだけ早くなる。
「あそこは入り口の開閉が、外からでなければ出来ない構造になっているんです。だから誰かに閉じ込められない限り入り口が閉じていることはあり得ない」
「閉じ込める、って誰がですか? ええ!? わたしたちの誰かが閉じ込めたってことですか?」
「開閉装置の故障で入り口が閉じてしまうこともあるでしょう。その場合は事故ですが、そうなっていたときは私たちで救出するのは不可能です。我々の中に機械を修理できる人間はいませんからねえ。そういう意味では誰かに閉じ込められている方がマシです」
 話しながらわたしたちは厨房に向かう。厨房ではフミナさんが鍋を火に掛けていた。わたしたちを見て怪訝な表情を作る。
「調理中失礼。ワインセラーを見せていただきます」
 フミナさんの返事を待たず、キョウさんは素早く屈んでさっさと地下室への入り口を開いた。
 バタン、と食料庫の方で音。
 開閉装置は生きている。ということは、少なくとも開閉装置の故障で閉じ込められたわけではない。
 キョウさんはわたしを置いて先に食料庫の中に入ってしまった。フミナさんに一礼して慌てて後に続く。
 地下室を覗き込むと、あの螺旋階段がきしきしと揺れて、あのときの恐怖をわたしに思い出させる。ぽっかりと開いた黒い穴。鳥肌が立って腰が砕けそうになる。
「どうしたんですか? 降りてきてくださいよ」
 中からキョウさんの声。彼に無様な姿を見せられるか、とわたしは勇気を奮い立たせて恐怖の螺旋階段を降りた。
 たぶん三分も経っていなかっただろう。いや、それくらいの時間で降りられたはずだ。地底の地面に足を下ろしたとき、強張っていたわたしの全身が弛緩して、安堵の汗が噴き出した。
 キョウさんは恐がりなわたしのことなんか目もくれずに、地下室の中を舐めるように見回していた。
「あの、西くん、いませんねえ」
 確認するまでもない。この狭い部屋に隠れられる場所があるはずがない。
 しかしキョウさんはわたしの言葉を無視したか、それとも独り言だとでも思ったのか、返事をせずに床に敷かれた砂利を丁寧に観察し始めた。ものすごく不満だったけど、面倒な女だと思われるのは嫌なので大人しく黙っていることにした。
「まるさん、これ」
 キョウさんが立ち上がって、砂利の一つをわたしに見せた。この部屋の心許ない照明では観察するには不十分だったけれど、石を近づけて注意深く観察する。
 黒い石の片面だけが微妙に色が違う。何かが付着しているのだ。黒よりも少し明るい色。すぐにそれが血の色であることを思い出した。
「これ、血ですか?」
「おそらくそうでしょう。よく見てください、まだ血の付いている砂利が」
 そう言われてわたしも一緒に屈んで砂利を探し始める。確かに、べったりと血のついているものは少ないけれど、飛び散った血の飛沫と思われるものをいくつか発見した。
 キョウさんが両手で砂利をごっそり脇へ除けると、その下に隠れていたコンクリートの床がむき出しになる。コンクリートの上には小さな血の円が残されていた。
「こ、こんな跡、前からありましたっけ」
 キョウさんは黙ったまま指で血の跡を撫でていた。血は完全に乾いていて、何度も擦っているのに指は綺麗なままだ。
 わたしは昨日の夕方見たフミナさんの死体を思い出した。彼女が体に付けていた血糊から連想したのだ。
 この血の跡も、誰かが刺されたときに流れたものなのだろうか。
 誰か?
 それはもちろん、西くん以外にはいないだろう。
「刺されたにしては出血が少ないですね。頭を掴んで……こう……」キョウさんがジェスチャーを交えて説明する。「床に思いっきり打ち付けたような――」
 キョウさんの言葉が止まった。棚の陰に指を伸ばす。
 そこにあったのはプラスチックの破片だった。無色透明で、大きさは親指の先くらい。黒い砂利の上で、しかもこれだけ薄暗いと見つけるのは至難の業だろう。
「何ですか、それ」
「何でしょう。とても軽い素材で――固い。それに透明度が高くて……これは……眼鏡のレンズでしょうか」
「西くんの眼鏡ですか?」
「誰かに頭を床に打ち付けられて、眼鏡が壊れた。しかし破片が思ったよりも遠くに飛んだので、壊れた眼鏡を片付ける際にこの破片には気がつかなかった」
「誰が、片付けたんですか」
 わたしの声は震えていたかもしれない。一刻も早くこの地下室から出たかった。この館の中に殺人者がいて、今にもわたしの背後から襲ってくるかもしれないという、想像が、わたしを、ぶるぶると、ふるわせる。
「とにかく、全員に報告しないと」破片をハンカチで丁寧に包んでポケットに入れる。「これは、どうも尋常ではない」


 全員をホールに呼び出した。二階に行ったゆーせいさんと如月は大した成果を上げられずに戻ってきた。昼食の準備をしていたフミナさんも強引に招集する。
 キョウさんが地下室で見つけたものや、そこから導き出される推理を簡単に説明した。
「とにかく、西君の身に何かがあったのは確かです」
「そうですか? 私にはとても納得できませんけれど」
 フミナさんはあくまで懐疑的だった。腕を組んで、疑わしげな目をキョウさんに向けている。
「そのワインセラーの血の跡、本当に西さんの血なんですか? 前から付いていた可能性は? 西さんがふざけて血の跡を付けて、私たちをからかっているのではありませんか? キョウさんは、これらの可能性を否定する根拠をお持ちなのですか?」
「フミナさんこそ、西君の身の安全を確認できない以上、極端な楽観主義は危険だと思うのですが」
「楽観主義ですか? 私とキョウさんの考え方、どちらが現実的だと思いますか? 馬鹿げていますわ。それとも誰かがこの館に忍び込んで、西さんを地下室からさらっていったとおっしゃるのですか?」
「どうして部外者の可能性を真っ先に考えるんです? あなた、昨日からずっと館に鍵を掛けていたはず。それとも誰かを館の中に入れた覚えがあるんですか?」
「まさか。私たち以外の人間がここにいるはずがありませんわ」
 早口で言って、フミナさんは髪をかき上げた。キョウさんに半身を向けて居心地が悪そうに立っている。
「くくくっ。面白くなってきたね」呑気に如月が笑う。「さて西弓東刀にしゆみひがしかたながピンチだとしよう。そうだとして一体どうするのが正解なのかね?」
「まだ分からないことが多すぎます。とりあえずみなさんにお聞きしたいのは、昨晩、西君を最後に見たのはどなたですか?」
「あの、俺は、夜中まで西くんと一緒にいたけど……。一時ちょっと過ぎくらいに眠くなったんで俺は部屋に戻ったんだ。あいつはまだ元気で、館をもうちょっと探検してみる、って言ってたんだけど……」
 ゆーせいさんが自信のない小さな声で言った。落ち着かない様子で指を弄んでいる。
「となると、西君が消えたのはそれ以降の――」
「あの! みんな、本当に西くんを見てない? その、俺が部屋に帰ってから……」
「えーと、そもそもどういう状況だったんです? わたし、十二時前に寝ちゃったんでよく知らないんですけど」
「私も聞きたいな。友人に付き合わされて夜の社交を楽しめなかったものでね。くくくくくっ」
「深夜の零時前後までは私もいましたが、そのときはフミナさんとゆーせいさん、西君の三人で遊戯室で適当に遊んでいました」
「零時にキョウさんが部屋に戻って、一時になる前に私も部屋に戻りました」
 と、フミナさんが補足する。
「その後は……すまん、実は酔っててあんまり正確じゃないんだが、えーと、確か一時か二時、くらいの時間に部屋に戻ったはずなんだ」
 ゆーせいさんは額に手を当てて、昨晩のことを必死に思い出しながら答えているようだ。他の三人の話も、時間に関することは不正確で、大きな幅を考えておくべきだろう。
「……本当に、それ以降西くんを見た人はいないんだね?」
 再度確認して、ゆーせいさんは額に浮かんだ汗をぬぐって押し黙ってしまった。重い空気が流れる。
「如月さん。今朝一番早く起きたのはあなたですが、そのとき何か異常は?」
「異常の定義にもよるけれどね、特に私の興味を引くようなものは図書室以外になかったよ」
「ちなみに何時に起きたんですか?」
「五時二十一分」
 如月は正確に答えた。
 つまり西くんは最大でも深夜の一時から今朝の五時二十一分の間に姿を消したことになる。いや、こんな推定は範囲が広すぎて何の根拠にもならない。そんな時間はみんな眠っていただろうし、アリバイなんて成立するはずもない。
「そういえば如月、西くんの部屋の中は調べたの?」
「ああ、もちろん」
「西くんの荷物はちゃんとあったよね。その、何かがなくなってたりとか……」
「西弓東刀が自発的に失踪した場合には何か荷物を持っていくと考えたんだね。くくくっ、着眼点としては悪くないよ」
「んなことはどうでもいいから質問に答えろ」
「部屋の中にあったものを羅列すると、雑誌、本、洗面用具、着替え一式、ビニール袋、眼鏡ケース、携帯電話の充電器、ポケットティッシュ、レポート用紙、筆記用具、電気カミソリ」
「眼鏡ケースの中は空でしたか?」
 キョウさんの質問。
「もちろん中も調べたよ。中は空だった」
 キョウさんの質問の何が面白かったのか、如月は喉を震わせて押し殺したような笑い声を上げた。
「とにかく、皆さん無闇に騒ぎを大きくしないでください。死体が見つかったわけじゃあるまいし」
「念のため、警察に通報した方がいいと思いますが」
「電話が通じるんですか?」
「私の部屋に固定電話があります。もっとも、犯罪が行われたという確かな証拠がない限り、そんなことはできませんけれど。それでは、昼食の準備をしなければならないので私は失礼します」
 一礼して厨房へ向かうフミナさんを、慌ててキョウさんが呼び止めた。
「館の外に出たいのですが、玄関の鍵を貸していただけませんか?」
「それはできません」
 フミナさんがぴしゃりと拒絶した。普段の彼女からは想像できないような強い態度だ。
 なぜだろうか。わたしは自分の脈拍が早くなるのを感じていた。
「……それは、なぜでしょうか」
 キョウさんが一語一語を、意識してゆっくりと発音しているみたいに、質問する。
「外は嵐です。館から出るのは危険ですわ。ではこれで失礼いたします」
 取って付けたような理由を答えて、今度こそフミナさんは出て行った。
 やれやれ、とキョウさんは肩をすくめる。参りました、と言葉で言うくらいには、大して動揺しているようにも見えない。
 フミナさんの態度がなぜああも頑ななのかが理解できなかった。どうしてそこまで西くんの失踪を否定したがるのか。どうしてわたしたちを館の外に出すのを拒むのか。
 汗をかいているのはなぜだろう。
 これは恐怖によるものなのか。不安によるものなのか。
「……なあ、みんな」
 ゆーせいさんがかすれた声で言った。
「ほ、本当に部外者は、この館に入って来れないのか? その、どこかの窓から――」
「それはありませんよ。一階のすべての窓に鍵が掛かっているのは私が先ほど確認しました」
 わたしは驚いてキョウさんの横顔を見た。
 先ほど、というのはわたしと一緒に地下室へ行ったときだろう。わざわざ行きと帰りの道を変えていたのは館の戸締まりを確認するためだったのか。
「ちなみに二階の窓もすべて閉まっていたよ。内側から、クレセント錠でね」
 如月がそう答えたのにはゆーせいさんも驚いているようだった。二人で二階を探していたとき、如月は何も言わずにやるべきことをやっていたのだ。
「犯人は外部の人間ではなく、この館の人間である可能性が高いと思います。問題は西くんをどこに隠したかということですが、館の中にないとすれば館の外、それもかなり近くに隠されていると考えたのですが……断られちゃったからねえ」
 戯けるように言ったけれど、その言葉の意味するところは重い。
 犯人は、この中にいる――。
 探偵小説ではしょっちゅう目にするチープでありがちな状況だったけれど、それがいざ自分の身に降りかかると――恐怖と、自分の友人たちの誰かが人殺しであるという不条理に、わたしの胸は張り裂けそうになるのだ。
 ゆーせいさんはうつむいて力なく椅子に腰掛けたまま、ポケットから煙草を取り出してライターを点ける。何度かフリントを回して火が出ないと、すぐに諦めて煙草ごとテーブルの上に投げ出した。
「ゆーせいさん、あの――」
「……本当に外の人間は入れないのか? この館に知らない人間が紛れ込んでいて、俺たちをひとりひとり殺していくつもりなんじゃないのか!?」
 普段の彼からは考えられない剣幕に、わたしは思わず身をすくませた。
 何かに怒っているのではなくて――これは、焦って、必死に、何かをしようとしている――。
「歪曲館には隠し通路や隠し部屋があるだろう。俺たちの知らない部屋があって、そこに誰かが潜んで、俺たちのことを狙ってるんじゃないのか!?」
「誰かって、誰です。そんな人間、一体」
「知るかよ。俺が知るか! わ、分からないけど、俺たちを恨んでるんだよ。ひとりひとり順番に消していくんだ。歪曲館のことに詳しい――そ、そうだよ! 千歳うららだ! あいつは実は生きていて、こ、この館に隠れて、俺たちを殺して楽しんでるんだよ! あ、あいつは――」
「ゆーせいさん!」
 千歳さんの名前を出したゆーせいさんを、キョウさんが一喝した。ゆーせいさんは引きつった声を上げると、今度は取り憑かれたように大声で笑い始めた。
 やがて落ち着くと、
「す、すまん……。少し落ち着くことにする。その……もうしばらく一人で考えさせてくれ……色々……」
 テーブルに煙草とライターを置いたまま、ゆーせいさんは出て行った。
「くっくっくっ。友成はどうしたんだろうねえ。幽霊でも見たのかな? アハハハ――」
 気違い染みた如月の笑い声だけが、いつまでもわたしの耳に響いていた。
 嵐はまだ止みそうにない。当分は館から出られそうになかった。
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