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2.libretto

 昼食の時間になった。全員が座ってなお席が余るほどの大きなテーブルにフミナさんの作った料理が並べられている。作品と形容するのがぴったりの、きっとレストランで出されても違和感のない素晴らしいフルコースだった。
「本日は遠いところからわざわざありがとうございます。……それでは」
 乾杯、と声を上げてグラスを掲げ持つ。皆もそれに合わせて乾杯した。
 これがわたしたちのゲームの開始を示す。
「それにしてもこんな山奥にこんな館を建てるなんて、ずいぶんと酔狂な人間もいたもんだな」
 ワイングラスを片手にゆーせいさんが言った。ワイングラスの中はブドウジュースだ。
 わたしは口の中にある肉を急いで咀嚼しながら展開を見守る。
「私も実物は初めて見ますが、これほど奇妙な館は他に見たことがない。床の傾斜を中心部に向けることで、中央へ引きつける謎の力、さながらブラックホールのようなものを表現しているのでしょう」
 牛肉のソテーをナイフとフォークで解体しながらキョウさん。肉の食べ方ひとつ取っても彼の仕草は洗練されていた。ちょっと見惚れそうになるわたし。
「あんたのご託は結構だ。ふん、何がブラックホールだ。格好つけやがって」
「おっと、これは失礼。格好の良さは生まれつきなもので」
「気障な野郎だな。肉が不味くなる」
「二人ともあまり感情的にならないでください」
「これは失礼、お嬢さん。館が歪んでいるものですから、どうやら私の心も歪んでしまったらしい」
「歪んでいるのは顔も、だろ」
「わたしも何だか妙な気分です。落ち着かないというか……」
 わたしが答えたところで皆が一斉に沈黙した。隣で何食わぬ顔でパンを囓っている如月を、こっそりと肘で突いた。
「ん? 何だい?」
 誰も答えない。やがて理由に思い至ったのか、如月は水で食べ物を一気に流し込んでから咳払いをした。
「あー、あー。えーと、そうそう、私も廊下を歩いているときに思わず倒れそうになってしまいました。床が傾いているからですわ」
「ですわ、なんて書いてない」
 わたしは小声で如月にツッコミを入れたけれど彼女はどこ吹く風だ。
 如月のせいで停止していた場が再び動き始めた。
「地下にワインセラーもあるんです。後で開けましょうか」
 フミナさんが小声がちに、みんなをなだめるように話した。
 さて、このぎこちない空間は一体何なのだろうか、とわたしは少しだけ冷めた調子でダイニングホールの中を見回した。言わずもがな、今日はわざわざこのためにあの山道を必死に登って来たのである。これがオフ会のメインイベント、推理ゲームなのだ。
 参加者には事前に台本が配られる。台本には本日の昼食から夕方――死体が発見されるまでの参加者の行動と台詞が記されている。参加者は各自時計とにらめっこをしながらその記述の通りに行動する。そして死体が発見されてからは、一体誰が(誰の役が)犯人なのかを推理するという、推理ゲームにしてはかなり手の込んだ、あるいは手間のかかるイベントだった。
 ちなみに死体役はフミナさんで、台本の記述によると本日の夕方に図書館で発見される手はずになっていた。鉛の歯車では数ヶ月前から今回の脚本を書く人物を募集し、最終的に誰が書くことになったのかはゲームを公正に行うためにフミナさんだけが知っている。
 ゲームのルールは簡単だ。犯人役ではない参加者は犯人役が誰なのかを全員と話し合って推理し、三日目の昼に誰が犯人なのかを指摘できれば勝利。犯人役の参加者は誰にも指摘されなければ勝利。
 勝利者には主催者が用意した賞品が送られる。と言っても推理小説の詰め合わせとか、そういうコレクターアイテム的なものでしかなくて、まあ名誉だけが賞品と考えても間違いないだろう。
 各人に渡された台本にはその人の行動のみが記されているので、他の参加者がどのような行動をするのかは分からない。
 わたしの台本にはフミナさんを殺害するくだりがないので、必然的に犯人はわたし以外の誰かということになる。
 台本に書かれているのは今日の午後六時までの分だけで、それ以降台本はすべて回収され、明後日の昼までは自由に行動し推理をする時間となる。当然ながら犯人役の参加者は自分の行動について嘘の供述をするので、それをどうやって見つけるかが鍵となるだろう。
 さて、ではなぜそんなイベントに部外者である如月が参加しているのかというと、それは参加者の一人、『小春坂』さんが欠席するという知らせ来たからである。ゲームの関係上、役者は五人分そろっていなければならない。というわけで、仕事も役目もないくせに態度はでかい如月にお鉢が回ってきたのである。
 わたしがぼんやりと食事をしている間にもどんどん会話が続いていた。当分わたしの台詞がないのを良いことに参加者の様子を観察する。
 キョウさんとフミナさんは前回も参加しているだけに落ち着いた様子だった。もちろん演劇の専門家ではないのでずいぶんと下手な芝居だけど。
 ゆーせいさんは勝手が分からないようで明らかに挙動不審、台詞が回ってくるたびに動揺しているのが分かる。それに比べれば西さんはまだまだ余裕はあったけれど、だんだんと馬鹿らしくなってきたのか徐々に演技が投げやりになってきた。
 初参加でしかも初めて台本を読んだばかりの如月はふてぶてしいくらいにどっしりと構えていた。いや、こんな推理ゲームのことなどどうでもいいと考えているのかもしれない。会話に耳を傾けることもしないでサラダとパンをおいしそうに口に運んでいる。
「それにしてよくこんな場所に建てられましたよね。ずいぶんお金がかかっているんじゃないでしょうか」
「お、俺も不思議に思っていたんだ。こんな山奥に建っているのにずいぶんと豪華じゃないか。お客が来るとも思えないのに」
 わたしの台詞に続けて、ゆーせいさんが詰まりかけながらも最後まで言い終える。
「はん、どうせ金持ちの酔狂だろ。まだ全部見たわけじゃないが、あちこちに悪趣味な絵や美術品が置いてあるし」
 おお、西さんの熱演だ。
 この場が沈黙に包まれる前に、隣に座っている如月の脇腹を突いた。やはり自分の台詞の番であることに気づいていないみたい。
「さっき見たら、入り口に甲冑が置いてありましたわ。私あんな甲冑初めて見ましたわ。……くくくっ、そう睨まないでくれよ」
 如月が小さな声で謝罪した。別に他人の演技をどうこう言えた義理はないけれど、それにしてもあからさまにふざけていたのでは場の空気が白けてしまう。
 如月は悪びれた様子もなくニヤニヤと薄ら笑いを浮かべてグラスを傾けた。喋っていないときの如月は、個人の好みに依る部分を差し引いても美女の部類に入る。
 しばらく談笑(と言っても台本に書かれた筋書きの通りだけど)してから昼食はお開きになった。
 台本によれば、わたしは午後二時半に如月(台本の上では小春坂)が訪ねてくるまで一人で自室に引きこもっていることになっている。
 隣の遊戯室にはゆーせいさんとキョウさんと如月、そしてあと数時間の命となったフミナさんがカードで遊んでいた。
「しばらくの別れだ」演技から離れて如月が囁いた。「くくくっ。私が行くのを楽しみに待っていてくれ」
 それに返事を返すことなく、意識して如月のことを無視して別れた。
 部屋に帰る途中は西さんと一緒だった。えーと、台詞は何だったかな。
「あー、すまん。俺の台詞だったっけ」
「いや、わたしですよ」
 素に戻って謝る西さんに、わたしは思わず吹き出してしまった。
「西くんはどうやって歪曲館まで来たの?」
「バイクで。……本当はゆーせいのバンに駅前で拾ってもらった」
「そうなんだ。わたしは車で来たけど、途中何度も山道から落ちそうで大変だったわ。……これは本当ですけど」
 西くんは笑った。二人だけなんだし多少のおふざけは許されてもいいだろう。
 台本には台詞がきっちり決まっている部分もあれば、大まかな時間と場所だけを指定してアドリブで時間を潰さなければならない場所もある。
 記憶している限り、わたしの台詞の部分はこれですべて終わったので、もう台詞を思い出しながらぎこちない偽物の談笑をする必要もなくなった。
「いやー、俺、こういうの初めてだけど、やっぱなんか変な感じだなぁ。つーか面倒くさい」
「それは言わないお約束です」
「あー、まるさんも台本みたいにタメ口で話せばいいのに。そっちの方が自然っしょ」
「……そうかな」
「ん。同世代に敬語を使われると泣きそうになる」
「その感覚はわたしには分からないけど」
 わたしの部屋の前で西くんと別れた。彼の部屋は廊下のさらに奥にある。傾いた廊下にずらりと並んだドア。まるで沈没しかけの豪華客船だとわたしは思った。
 わたしは自分の部屋のドアを開けながら西くんの背中を見送った。
 時刻は午後一時である。如月たちはうまくやっているだろうか。


 台本ではわたしはこれから一時間半、ずっと自分の部屋で過ごすことになっているけれど、さて、一体何をしろというのだろう。
 わたしはベッドに横になって体を伸ばす。仰向けに寝ると、白い天井が目の前にあった。歪曲館のどの部屋も落ち着かないくらい高い天井だったけれど、一時間も過ごせばそれに慣れてしまったみたい。今はこの部屋がずいぶんと狭く感じる。
 ふかふかのベッドだ。意識して体を深く沈めると、かすかに人工的な洗剤の香りがした。埃っぽさは微塵もない。普段は誰も利用しない館なのに、どうしてこんなに細やかに手入れがされているのだろう。もしかしてフミナさんがすべての布団を洗濯して回ったのだろうか。
 静かだった。
 かすかに聞こえる空調の音。機械による周期的な雑音。ここは何かの大きな怪物の体内で、わたしはその生き物の呼吸音を聞いている。何かに囚われているということは、不自由だけど、それ故に安心する。
 わたしの思考が徐々に鈍ってゆく。わたしの意識がゆっくりと減速するのを心地よく自覚していた。まるで飛行機が着陸するみたいに。重力に逆らえず、陸に。
 そう、このベッド。
 部屋にひとつしかないけれど、今夜は、如月と一緒に眠ることになるのだろうか……。
 ここでわたしの意識が途切れる。不連続なわたしになった。
 次に思考を再開したとき、わたしの肌を言いようのない危機感と不快感、違和感が撫でていた。
 それが何であるかを確認するよりも先にわたしはベッドから飛び起きた。そして振り返りながら後退する。
「何だい、つれないな。ちょっとした冗談だよ。そう危機感を抱かないでくれ」
 掛け布団が盛り上がり、中から出てきたのは如月だった。わたしはすぐにベッド脇の携帯を手に取り、時刻を確認する。午後二時三十分だった。
「あんた、一体何を……」
「ノックをしても応答がなかったからね、勝手に入っただけさ。すると真理紗が布団で眠っているじゃないか。風邪を引いては大事だと考えて布団を掛けてやったのだ。ついでに真理紗の寝顔と体温をちょうだいしようと隣に潜り込んだのだよ」
「気持ち悪いことをしないでください」
「おや、他人の隣で眠るのは我慢ならない性質なのかね? 人の熱がそんなに怖い?」
 わたしを馬鹿にするように問いかけて、すべてを分かっているくせに声を押し殺して笑う。なんて嫌な女だ。体を解剖されているみたいな気分にさせられる。
 わたしはテーブルに投げ出したままの台本を拾い上げた。確認する。やはりわたしの記憶違いではなく、今日はこれから死体発見までずっと如月と行動を共にしなければならない。最悪だ。
「くくくっ、やっと二人きりになれたね。私は嬉しいよ」
「そんなにわたしが好きなわけ?」
「ああ。真理紗は虐めがいがあるから。それにしてもすごいイベントだねえ。参加者も、だけど」
「まあね。推理ゲームにしちゃ本格的ね」
「そうじゃない。よくもまあこんな馬鹿らしいイベントを、あんな真面目な顔でやっていられるな、と。くくくくっ、私はてっきり何かジョークかと思ったのだがね。幸せなことだ」
 如月がにやにやと嫌らしい笑みを浮かべながら言った。わたしは頭にかあっと血が上るのを感じた。如月のことをあれだけ嫌っていたわたしが、いざ如月に馬鹿にされると、まるで親に見捨てられたみたいな、そんな嫌な気分になってしまう。
 何とか弁解して如月に馬鹿だと思われたくない心と、如月に馬鹿にされたことへの腹立ち、如月ごときの価値に心を乱される自分を情けないと思う心とがせめぎ合って、結局わたしは黙って如月の話を聞くだけの人形になってしまうのである。
「まるでままごとのようじゃないか。別にままごとを否定するつもりはないがね。この大層な屋敷とあの立派な食事に釣り合うイベントとは到底思えない。これだけ本物をそろえておいて、肝心の中身があれでは、ねえ。随分と幼稚じゃないか」
「それをわたしじゃなくて、みんなの前で言えばいいじゃない」
 吐き捨ててからわたしは後悔した。如月なら本当にやりかねないからである。
 しかし如月は作り物のように整った顔をふるふると横に振って、
「いやあ、せっかく楽しんでいるのに水を差すのも大人気ない。ままごとを見守る保護者の心境だよ。たとえ料理が泥の団子だとしても、それを子供に指摘するような親はいないのさ」
「何が親よ。あんた、何様のつもり?」
「別に否定しているつもりはない。真理紗は真理紗の価値においてもっとも重要だと思うことを成せばいいのさ。残念ながら私は君たちほど無邪気にはなれそうもないがね。うふふふ、見下されるのがそんなに不安かい?」
 ふざけるな、とわたしは心の中で毒づいた。語彙の少ないわたしにはそれくらいしか思いつかない。言い合いで如月の嫌らしさに勝てるはずはないのだ。
 気がつけば、さっきまでわたしの思考をベールのように覆っていた眠気がいつの間にか吹き飛んでいた。
「水を差さないってんなら、わたしのことも放っておいて欲しいんだけど」
 かろうじてそう言い返すのが限界だった。
「真理紗だってあの連中にはうんざりしていただろう? あの食事中、会話を何一つ聞いていなかったじゃないか」
「それはあたなも、でしょ?」
「なんならあの場での会話をここですべて読み上げてあげようかい? もっとも、会話を覚えていない真理紗には確認のしようがないだろうけどね」
 気障ったらしく如月が言う。本当に覚えている可能性は高そうだ。そして同じくらいの確率で、ただのハッタリだという可能性も。如月はその天才性の割に、自分の能力をやたらと演出したがる性質があるみたいだ。わたしは彼女の、車内での得意げな顔を思い出していた。
「それよりもあんた、どうしてあんな山道を歩いていたの?」
 そこから連想して、ずいぶん長い間棚上げされていた質問を思い出したのだ。
「そんなことを訊いてどうするつもりだい?」
「だって、気になるし」
「私があそこを歩いていたのはね、私が殺した男の死体を埋めていたからさ」
「真面目に答えてよ」
「私が殺人者ではないと、どうして信じられるんだい?」
 如月は水揚げされた鯖のようにベッドに寝そべると、わたしの方を見もせずに答える。淡い花柄のベッドいっぱいに細い腕と足を伸ばして、如月がまるで蜘蛛のように見えた。
「だって、あなたが人を殺すはずはない」
「ほう、それはまた、私は信用されているんだね」
「本当に殺しているんなら、こんなところで自白なんかはしないはずだから」
「真理紗はまだ私という人間が理解できないらしい。このメルトダウン如月にとって他人なんてのは湖に浮いている木の葉のようなものさ。わらわらと群がって大きく見えるけれど、実際は波に合わせて上下しているだけの非力な存在だ」
「でも、わたしのことは、そう思っていないでしょう?」
 我ながら自意識過剰というか、普段のわたしからは想像も出来ないような大それたことを言っていた。何か言い返さなければ、と焦りすぎたのかもしれない。わたしは慎重さを欠いていた。
 だけど如月は引きつったような笑い声を立てて、起き上がるとわたしのすぐそばまで歩いてきた。狭い部屋だから、わたしに近づくのは一瞬だ。
 そして何の前触れもなくわたしを抱きしめた。
 如月の甘い香りが、わたしの脳をくらくらと揺らした。何の香りだろう。人工的に作られた、自然の香り……。
「話の続きは遊戯室で。台本によれば、真理紗と六時まで遊ぶことになっている」


 位相幾何学的に考えれば歪曲館はドーナツと同じ形をしていると言える。一階、正方形の角の部分にエントランスホールがあり、そこから時計回りにダイニングホールと厨房、浴場、遊戯室、図書室となっている。
 二階へのアクセスはホールの階段を使うか、図書室の中にある階段か、遊戯室の脇にあるとても小さくて粗末な階段の三種類。三階はない。
 この階段、ただでさえ傾斜がきつい上にここは歪曲館、横に傾いているために非常に怖い。後ろから如月にせっつかれてなんとか一階の遊戯室に降り立った。
 窓から久しぶりに見る外の景色があって、来たときと同じ山ばかりの退屈な景色でも、なぜかほっとしているわたしがいた。
 遊戯室には豪華なシャンデリア、エアコンが完備されている以上何の機能も果たしていない暖炉、そしてビリヤード台が目を引く。如月がそちらに歩いて行き、無造作にキューを取って調整し始めた。
「そういえばさっき、ここで遊んでいるとフミナが来たよ。台本に書いてあるから伝えるがね」
 ああそう、ご丁寧なことで。
「キョウさんとゆーせいさんと、ずっと遊んでたの?」
「いや、友成ともなりはすぐに部屋に帰って行ったよ。十五分もせずに」
「友成?」
 聞き慣れない名前に眉をひそめると、如月は「真理紗が言うところのゆーせいのことだよ」と教えてくれた。その十五分の間にゆーせいさんの本名を聞き出すことに成功したらしい。何という女だ。
「安心したまえ。真理紗の名前は出していないからな」
 如月は堂々と付け加えたが、別にそんなことを心配しているわけではなかった。それにあれだけ真理紗真理紗と連呼していれば、すでに知られている可能性もあるわけだけど。
 如月は棚から球と木の枠を取り出して、ビリヤード台の上に並べ始めた。
「それにしても『友成』だからゆーせいとは愉快な名付け方だ。真理紗で『MaL』と同じくらいには愉快な名付け方だ。もし私ならどんなハンドルネームになるのだろうね」
「あんたなら本名で十分通用するわよ。誰も本名だなんて思わないから」
「しかしインターネットの上では真の名前など何の役にも立たないさ。真理紗、本名と偽名の違いは何だと思うね?」
「本名なら図書館の貸し出しカードを作れるけど、偽名だとポイントカードくらいしか」
「くくく。面白い回答だが真実ではないね。もう少し抽象的に考えたまえ。あるいは詩的に」
「信用の違い、かな」
「ふん。大体そんなところだろう。名前なんてのは個体識別の記号でしかないのに、どうして人はそれにこだわるのだ? それは名前には信用があるからだ。信用は価値を扱う資格となり、資格は行動の自由を保障する。例えば本名を使えば図書館の貸し出しカードを作れるが、それは我が国が戸籍によって個人の身分をしっかりと保証してるからさ。本を持ち逃げされては困るからね」
 真理紗の分だ、と意味不明なことを言って、如月は別のキューをわたしのところへ寄越した。道具の概念を知らない猿のように、わたしは取り回しの悪い木の棒を抱えたまま困惑していた。
「ビリヤードだよ。もしかして未経験なのかい?」
「あいにくと、そんなハイソな趣は持っていないので」
「ビリヤードがハイソサエティな趣味かどうかは意見の分かれるところだがね。なに、簡単だよ。要は球を突けばいいのだ。撞球だよ」
「その説明だけでビリヤードが遊べるなら世話はないんですけどね……」
 ぼやきに思わず敬語が出てしまった。やはりわたしは他人と会話するときは敬語が基本のようだ。どうも落ち着かない。
 如月はわたしのことを完全に無視して勝手にビリヤードを始めていた。正三角形に並べられた九つの球に白い球をぶつける。気持ちの良い音を立ててテーブルの中を右往左往する。いくつかの球がポケットに落ちて、場に残ったのは手球を含めて六つだけだった。
 続けて再び如月が突く。ストレートでポケットに落ちる。さらに突く。今度は他の球を経由して落ちる。さらに突く――を繰り返して、とうとうわたしの出番が来る前にすべての球がポケットに落ちてしまった。
「私の勝ちだ」
「……あの、わたしの番は?」
 こうしてわたしのビリヤード初体験は、一度も球を突くことなく終わってしまった。なんという理不尽。
「勝負に勝つための秘訣は相手に決して行動をさせない、ということだ。言い換えれば、勝負を始めるときに、すでに勝負に勝つための算段を済ませていなければならない」
「そんな勝負おもしろいの?」
「敗北して死ぬよりは愉快さ。真理紗は命をかけた勝負をしたことがあるかい?」
「あいにくとそんな不幸には見舞われなかったけど」
 如月は高級そうな木の棚を開けると、グラスを二つ、右手だけで器用に持ちながら左手にはウィスキーのボトルを持っていた。そのまま遊戯室の隅にある丸机まで移動してわたしを手招きする。
「お酒はけっこうです」
「へえ。もしかして真理紗はモルモン教徒なのかい?」
「今のところ無神論者ですけど……」
「だったら構わないだろう。何に義理立てしているのか知らないが」
 わたしがお酒に弱くて、少しでも飲んでしまうとまともに思考が出来なくなって、それだと夕食からの推理合戦に参加できなくなるなー、なんて言い訳を如月がまともに聞いてくれるはずはなかった。如月はあらゆる言い分を認めないだろう。自分以外のは。
 ボトルから琥珀色の液体をグラスに注ぐ。もちろんストレート。本格的に飲むつもりはないらしく、グラスの半分も満たさなかった。
「本当ならチェイサーも用意したかったのだがね」
「チェイサー?」
「ああ。氷水だよ。もちろん上等のものでなければ、ね。用意してもいいのだけど、フミナに黙って厨房に入るのは感心しないからね」
「氷水で、割るの?」
「ストレートで飲む場合は氷水と酒を交互に飲むんだよ。酒を味わうたびに氷水で口の中を元の状態に戻すのさ。そうすれば酒の味を本当に楽しめる」
 如月がグラスを持ち上げて軽く口に含む。少しだけ舐めるようにして堪能した後、首を傾げてボトルを見た。
「ん……」
「不満そうね」
「この酒はフミナが持って来たものなのだろうか」
「さあ。最初からここにあったんじゃない?」
「ふむ。そうか……」しばらく視線を手元のグラスとボトルの間で交互にやりとりしながら納得したように頷く。「なるほど、読めたぞ。そういうカラクリか」
「何に納得してるの?」
「真理紗も飲んでごらんよ。上等の酒だ。ん、素晴らしいな。ちゃんとした飲み方ではないのが不運だ」
 わたしも如月に勧められて、もしくは騙されるようにして、強烈な匂いを放つその液体を少しだけ口に含む。途端に舌が熱くなる。わたしは慌てて飲み込んだ。喉と食道を順番に通っているのが熱によって分かる。
「どうだい?」
「これ、おいしいの?」
「ふむ。私はそれほど酒に詳しいわけではないが、これが素晴らしい緑酒であることくらいは飲めば分かる」
 そういうものか、とわたしは思った。元からアルコールにそれほど強い好奇心を持っているわけじゃない。わたしにとってはこのウィスキーの色も「オイルみたいな色」でしかない。
「そういえばこんな笑い話を知っているかい?」
 唐突に如月が切り出した。
「干ばつがずっと続いていた村がある。雨が降るようにと村人たちは教会に集まって祈りを捧げる。ところが牧師は言った。『みなさんは神の力を信じていない。だって、誰も傘を持ってきていないじゃないか』――ってね。くくくくっ!」
 笑いどころが分からなかったわたしは曖昧に微笑むだけだった。曖昧に微笑むのは最強の武器である。あらゆる不条理に対抗する力を秘めているのだ。
 こいつ、酔ってるのか……?
 何となく嫌な予感がして如月の顔をまじまじと観察した。作り物のような計算され尽くした表情には何ら変化はない。グラスの残りを一気に飲み干し、わたしの目の前で足を組むと口笛を吹き始めた。
 わたしはさっさと手の中の酒を片付けたくて、如月のように威勢良く飲み下した。胸が締め付けられるような感覚。思わずその場所に手をやる。
 グラスをテーブルの上に置くと、食道からじわりと熱が体中に伝播してゆくのが何となく分かった。


 それから午後六時まで、わたしたちはくだらない世間話に花を咲かせた。咲いた花はきっと雑草だ、とわたしはぼんやりと思った。頭にくさびを打ち込まれたみたいだった。
 つまり情けないことに、わたしは最初の一杯だけで酔っぱらってしまったのだ。
 如月には何の変化もない。酒の善し悪しが分かるということはそれだけ飲み慣れているということだ。この程度の推測をするのにたっぷりと時間をかけて、何とか酔っていない振りを続けていたのだ。
 途中、何度か遠くで柱時計の間抜けな音を聞いた。そういえばここの玄関に大きな時計があった気がする。いや、あれは昼食の時に見たんだっけ? どこかにあるはずの時計なのに、わたしはどうしてもその場所が思い出せない。
 遠くから話し声がして、ダイニングホールの側からキョウさんが来た。続いてゆーせいさんと、西くん。今日の昼からわたしは如月としか会っていないというのに、ずいぶんと仲が良くなっているみたいだった。不公平だよ、もう。
「おや、台本によるとこんな予定は組み込まれていないはずなのだがね。諸君らはどうしてここにいるのかな?」
 台本という言葉をやたらと強調する如月。その真意を知っているわたしだけが過剰に緊張していた。きっとこいつはそれが目当てなのだ。ピンポイントにわたしだけを狙い、ゆさぶりを掛ける。湖面に浮かぶ枯れ葉のようにゆらゆらと動かされるわたしの感情。
「いや、せっかくだからお二人もご一緒にどうか、と思いましてね。男三人だけでは華に欠ける」
「何をですか?」
「これから私たちは死体を発見するために図書室へ行くのですが、ご一緒にいかがですか?」
 上品な声でキョウさんがわたしたちを誘う。アルコールの力も手伝ってかわたしはこんなにも簡単にドキドキした。
「お、この酒は」
 ゆーせいさんはテーブルに出しっぱなしのウィスキーにさっそく注目した。心なしか顔が赤い。別の場所で飲んでいたのだろうか。西くんは酒瓶を物欲しそうに持ち上げるゆーせいさんをうんざりした様子で見ていた。
「そうか、ここにあったのか。ホールにはアルコールがなくってねえ。わざわざ厨房から持ってきたんだよ。酒を飲むんなら俺も呼んでくれれば良かったのに」
「このイベントを根底から覆すようなことを言うなよ」
「俺はミステリーよりもアルコール派なんだって」
「俗物なだけだろ」
 西くんの言葉は辛辣だった。遠慮が全くない。
「ふふふ。まあこんな愉快な仲間がそろっていますからね。どうせならさらに愉快に、そして華やかに、と思いまして」
「華やか、ですか」
「本当ならフミナさんもお呼びしたいくらいですが、さすがにそれはマズい」
「そういや去年もやったんだよな、こういうオフ会」
 西くんが言うとキョウさんが大仰に頷いた。
「そうですね。共通するメンバーは私とフミナ嬢だけですが。去年のオフ会のレポートはお読みになりましたか?」
「キョウさんのブログのやつですか? 読みましたよー。館の説明ばっかりでした」
「ふっふっふ。まさか参加者の顔写真を公開するわけにはいきませんからね。あれが限界」
「去年も全く同じ形式だったの?」
 ゆーせいさんが質問する。彼は几帳面な性格らしく、如月とわたしが置きっぱなしにしていた酒瓶を棚に戻していた。左手の薬指に銀色の指輪が光る。
「ええ。優勝者は前回参加者の『つの森』さんでした。今回彼は学業が忙しくて参加できませんでしたけれど」
「そういやあの人最近全然見ねーな」
「いや、うちのサイトにはちょくちょくコメ残してるけど。単に本を読む時間がないから話題がないんじゃないかな」
「彼は今年研究室に配属されたのでしたね」
「そうだよ。卒論が全然手つかずだって絶望してた」
「わたしも来年はつの森さんみたくなりそうですけどね……」
「へえ、まるさんも大学生だったんだ」ゆーせいさんが驚いた様子で言う。「俺はてっきりもう働いているのかと」
「ふふふ。まるさん、しっかりした方ですからね」
「どっかの酔っぱらいとは大違いだな」
「えー? そうですか? そんなことないですよ」
 お世辞とは分かっていても褒められると頬が緩むのを止められなくなる。如月に見られているような気がして必死に自制したけれど。
「でもさっきの酒はすごいなあ。後で飲ませてもらおう」ゆーせいさんは如月と同じことを言う。「ここにはいつもあんな酒が置いてあるの? いっそここに住みたいくらいだ」
「こんなところに住めるかよ」
「いえ、私の記憶ではこんなに豪華ではありませんでした。おそらくフミナ嬢がいろいろとがんばったのでしょう。よく掃除もされていますからね。去年なんか、埃っぽくて大変でしたよ。まずここに来て最初にやったことが掃除、でしたからね。まああれはあれで楽しかったですが」
「去年は千歳さん、でしたからね」
 わたしが何気なく言うと、突然他の三人は黙った。
 スピーカーのケーブルが引っこ抜けたみたいな、突然の音の消失。
 わたしはうろたえて、この場をどう繕えばいいのかを必死に考えた。千歳さんのことは未だにタブーになっていたのだ。
「あの、すみません、無神経でした」
「いや……。その話題はもうやめよう。過去の話だからね」
 ゆーせいさんの優しい口調。さっきまで和気藹々と話していた三人の心が一斉に離ればなれになるのを肌で感じていた。
「その、チトセ、というのは誰だい?」
 こんなとき、メルトダウン如月は他人の心になど一切興味がない様子で、ただ疑問を満たすためだけに言葉のメスを突き立てるのである。
 西くんはわたしたちに背中を向けて、その表情は分からない。キョウさんはまだ顔に微笑を残しているけれど、口を堅く閉ざしてこの話題のうちは絶対にしゃべるまいとしているようで。ゆーせいさんですら、如月の直接的な質問に表情を硬くしていた。
「……去年まで、鉛の歯車の管理人をしていた人です」
 仕方がないのでわたしが答えた。頭の中に懐かしい彼のイメージが再生される。もちろん、直接会ったことはないので、それは映像や音声ではなく、他人に伝えることの出来ないとても抽象的なイメージなのだけれど。  千歳うらら。ファンシーな名前だけど、四十代の男性。ミステリーを読むだけではなく書くのも趣味だった。職業は油絵を専門にしている画家らしいが。
「画家なのか。ふん、もしかしたら私が知っている人かもしれないね。それで、千歳がどうかしたのかい?」
「その、亡くなったんです。自殺して」
 わたしがそう言っても、如月は「そうかい」とだけ答えてそれ以上の興味を示さなかった。如月らしい無責任さだと思った。
 わたしたちは重い空気から逃げるようにして遊戯室を出る。図書室は入り口のホールと遊戯室の間に位置し、目と鼻の先だった。
 さびた音を立てて、キョウさんが図書室の扉を開ける。すかさず如月が、自動的に閉じようとする扉の下に木のストッパーを噛ませた。中から本の匂いが流れて来た。
 ホールの照明は落ちていた。腕時計を確認すると午後六時まであと少し。一階に窓はなく、上の通路にずらりと並んだ大きな窓から西日が差し込んでいた。
 一見したところでフミナさんの姿は見えない。わたしたちは書架の合間を縫うように歩いて彼女の姿を探す。
「そこだよ」
 最初に見つけたのは如月だった。もしかしたら、彼女はもうずっと前からフミナさんがどこにいるのか知っていたのかもしれない。
 フミナさんは床の上に仰向けで倒れていた。
 胸にはナイフが刺さっている。周辺のタイルカーペットの上には真っ赤な液体が広がっていた。
「フミナ、さん?」
 これはまやかしであると分かっていても、その光景には本能的に危機感を抱かざるを得ない。かすかな恐怖がわたしの足下から頭のてっぺんを目指して、じわりじわりと上っていく。わたしという存在に不安のモザイクがかかった。
「いやいや、さすがに血糊はやりすぎでしょう。これは後片付けが大変そうだ」
 明るい声でキョウさんが言った。倒れているフミナさんを起こそうとして彼女の元へ近寄る。
 どこか遠くで柱時計の鳴く音が聞こえた。
 不気味な化け物の鳴き声みたいな、低くて重い音。一定周期で、繰り返す。午後六時を知らせるための声。
「ちょっと、管理人さん?」
 西くんが焦った声を掛ける。反応はない。
 午後六時を過ぎ、演技のための時間は過ぎたというのに彼女の返事はない。
 死者の演技を続ける。
 生き返らない。
「ちょっとみなさん、来るのが少し早いですよ」
 ……可愛い非難の声を上げて、死体は唐突に生き返る。キョウさんの手を借りてフミナさんが立ち上がった。
 わたしの中でもやもやと渦巻いていた不安が一瞬で吹き飛んだ。
 ちょっと拍子抜け。
「にしてもすごいねえ、これ。ナイフ? いや、怖い怖い」
 わたしの後ろにいる如月よりもさらに後ろ、本棚の陰に隠れて様子をうかがっていたゆーせいさんは、フミナさんが復活したのを見ておっかなびっくり近づいてきた。どうやら本当にホラーは苦手らしい。
「うふふ、すごいでしょう。わざわざこの日のための特注なんですよ」
「へえ、これって血糊?」
「はい。お友達に頼んで譲ってもらったんです」
「すげえ友達だなおい……」
 西くんは床の血に触れてしきりに感心しているようだった。まあ、タイルカーペットだから、血の染み込んだところだけ切り取って捨てればいいのだろう。
「今年は本格派ですね。去年なんて、千歳氏が床に倒れているだけで随分と拍子抜けしたのですが……っと、失礼、私としたことが」
 キョウさんが千歳さんの名前を口に出したことを詫びる。フミナさんは表情を変えないまま、キョウさんが掴んでいた手をふりほどいて歩き出した。
「とりあえず夕食にしましょう。推理合戦はその後でいかがですか? あ、夕食は鍋でいいですわね。今日は準備する時間がなかったので、それで勘弁してくださいね」
 表面上は楽しそうな声で言って彼女は遊戯室側の出口に向かった。玩具のナイフを胸に突き立て、血で真っ赤になった姿はなかなかシュールだった。
 他のみんなもフミナさんの提案通りに図書室を出て行く。最後までこの場に残っていたのは如月とわたしだけだった。
「どうしたの? 何か――」
 如月はぼんやりと、ついさっきまでフミナさんが倒れていた辺りを見つめている。血糊が床に大きな花びらのような模様を作っていた。
「いや、なに」まるで憑き物が落ちたみたいな声だった。「ここにみんなが来るまで、胸にナイフを刺して、一人でここに倒れているのは、一体どんな気分だったのだろう、と思ってね。さぞや心地よかったに違いない」
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