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1.distortion

「乗せてもらえて助かったよ」
「いえ……。それより大丈夫ですか? 病院に行かれた方が」
「なに、あの程度の怪我なら問題ないよ。肋骨がニ、三本折れただけさ。これを使って女でも作ろうかね、くくくっ」
 何が可笑しいのか引っ掻くような笑い声を漏らした。彼女は助手席の肩に両足を乗せた横柄な態度で後部座席に座っている。わたしのスモールカーは後部座席が狭く、彼女の長身がうまく収まりきらないのだ。
 わたしが轢いた彼女は無事だった。彼女の自己申告通り、見たところ怪我一つない。
 驚愕するわたしに車に乗せてくれと頼んだ彼女。てっきり病院に連れて行くものだと思っていたら、わたしの目的地で降ろしてくれればいいらしい。
「あの、でも、わたしが行こうとしてるのは山奥の――」
「ふふ、そんなことは些末なことだよ。山の奥だろうが手前だろうが、この私には一切合財無関係だ。車に轢かれようと飛行機に衝突しようと、ね」
「本当にいいんですか?」
「推理してみよう。君は山道をたった一人で運転しているね。年齢は二十代前半。女性。ウェーブのかかったブラウンのショートはいかにも都会的だ。左耳にピアスもつけているしね。つまり君はこの辺りに住んでいる人間ではない。ということは、この辺りに知り合いがいるのか、それとも観光目的か、そのどちらかだ。
 普通の旅行者はこんなところには来ないだろうから、ここに来るとすればかなり旅慣れた、通の旅行者だ。それにしてはきみの格好は少しこの土地にそぐわない。黒いシューズはまだしもスカートとブラウスでは、ね。つまり君は観光者ではない。少なくとも自らこの土地を選んだわけではない。君の運転は危なっかしいな。初めて来たというのがすぐに分かる。つまり、君は誰かにどこかに招かれてこの道を走っている。同窓会かな?」
 わたしは途中から彼女の話を聞いていなかった。単純に運転に集中するためである。多少は晴れてきたからといってこの霧を甘く見ることはもうできない。また人を轢いて、後部座席にもうひとりお客を乗せるのはごめんだった。
「メルトダウン」
 脈絡無く女が言った。わたしは一瞬何のことか分からずに、曖昧に頷いてバックミラー越しに彼女の顔を見る。ニイと作り物みたいな得体の知れない笑みを浮べていた。
 彼女が何の説明も加えないので仕方なく尋ねる。本当なら無視を決め込んでもいいのだけれど、これ以上車内の雰囲気が悪くなるのは嫌だった。
「あの、メルトダウンがどうかしたんですか?」
「自己紹介だよ。東京で探偵事務所を開いている。一樹の蔭一河の流れも他生の縁、何かあれば格安で請け負ってあげるよ。ちなみに専門は殺人事件だ。知り合いが密室で殺されたりしたら是非頼ってくれたまえ」
 くくくっ、と口に手を当てて笑う声。彼女の表情からは本気で言っているのか冗談なのか判断できない。まるで皴のひとつにいたるまで計算されているかのような完璧な表情だった。
 というかメルトダウンって結局何なんだ。
「こちらは自己紹介を済ませたんだ。君も名乗るのが筋だよ」
「あれが自己紹介なんですか?」
「ちゃんと名乗ったじゃないか。メルトダウン如月きさらぎだよ」
 緩やかなカーブにもかかわらずハンドルを切り損ねるかと思った。メルトダウン、というのはどうやら名前らしい。
 本名なのか? それとも日本人ではない血が入っているのだろうか。彼女に限っては宇宙人の血が入っていると言われても納得できるかもしれない。
芝川しばかわ 真理紗まりさです。あの、大学生です」
「マリサ」
「はい」
「それはどんな漢字のマリサかね?」
「真実の真、理由の理、糸が少ない紗。真理紗」
「箒が似合う名前だね」
「は?」
「いや、いいさ。ただの独り言だよ」
 手をひらひらと振ってこの話題を追い払おうとした。如月は目を瞑って腕を組み、小さく鼻歌を歌いながら頭でリズムを取っていた。アップテンポにアレンジした調子っぱずれの「雨に唄えば」だった。
「箒を抜きにしても君の名前は愉快だね。真実と理由に、紗……。くくくっ、君のご両親はなかなかの詩人じゃないか」
「そうなんですか」
「紗というのはシルクのことさ。『しゃがかかったみたいな』という表現は知っているだろう? あの紗はシルクのことだ。君はそれを糸が少ない、などと表現したがね。くくくく! 真実と理由は紗がかかっているように見つけるのが大変難しい、と君のご両親はそういう意図を込めたのだろうね。それとも絹織物に包まれた真と理、かな。どちらにしろ言葉に対して非常に鋭敏であることに変わりはない。ご両親は何を?」
「……普通の両親ですよ」
「普通、ね。それは愉快だ。姉妹は?」
「一人っ子です」
「君は一人暮らしじゃないかね? 両親との仲はあまり良くはない。ただし実家は裕福で君はお金に関しては恵まれた幼少期を送っている。忙しくて構ってやれない罪滅ぼしかな。大学では知り合いが多く顔は広いが心を許せるような親友は少ない。色々な組織や団体に顔を出しているが決して深入りはしない」
 わたしの方ではなく、窓の外にある緑色の山を眺めながら言った。
 それっきり沈黙。わたしが何も返事をしないでいると、如月は身じろぎせずに外の景色をしばらく楽しんで、再び目を瞑って鼻歌を歌い始めた。
 太陽が高くなり霧はすっかり晴れてしまった。多少スピードを上げても問題は無かったけれど、如月の件もあったのでなるべく安全運転を心がける。
 大学の試験は先々週に終わり、今は夏休みである。大学三年生のわたしは秋からは就職活動を始めなければならないため、こうして遊んでいられるのも今のうちだろう。
 この旅行は今年の春から計画していたものだ。と言っても普通の旅行ではない。インターネットで知り合った顔も本名も知らない人たちと会う、いわゆるオフ会というやつである。その点に関しては如月の推理も的を射ていることになる。
 鉛の歯車、というのが、今回のオフ会の発端となったウェブサイトである。定連達は「なまはぐ」などという物騒な略称で呼ぶことが多い。鉛の歯車は現在の管理人フミナさんによる、推理小説の書評を公開しているサイトである。わたしはその「なまはぐ」のチャットの常連なのだ。
 これから会うことになるメンバーのことを考えると思わず頬が緩むのを止められない。フミナさんが神奈川に住む女性であるということだけは、この旅行の打ち合わせのメールで話を聞いているけれど、その他の面子に関しては性別も年齢も知らないのだ。もちろんインターネット上での文字のやりとりで嗜好や性格は分かっている。そこからどのような人物なのかを想像することにミステリー的な面白さを感じているのである。
 山の傾斜が緩くなったところで目的地を見つけた。おそらくあそこがわたしたちの泊まる山荘だろう。話によると近くに民家や別の建物はないらしいから、あれで間違いということは無いはずだ。
 まもなく駐車場を見つけてそこに入る。駐車場には十台くらいは停められそうなスペースがあり、そのうちニ台分が車で埋まっていた。あれがみんなの車だろうか。白いミニバンと真っ赤なスポーツカー。あれは誰の車だろう、とあてずっぽうの推理をしながらバックで車を駐車する。
「ん? 着いたのかい?」
 そういえば、いつの間にか如月の鼻歌が止まっていた。もしかして寝ていたのだろうか。
「到着ですよ」
「感謝するよ。帰りもよろしく頼むね」
「……は?」
「帰り、だよ。まさか真理紗はここに永住するわけじゃないだろう? あ、たった今真理紗、などと君のことを呼び捨てにしたが気を悪くしたかい? 嫌なら芝川君と呼び方を改めるが」
「え? え? え? あの、話が見えないんですが」
 いや、わたしの呼び方に関する抗議は後回しで。
「如月さん、何しにここまで来たんですか?」
「それはこちらの疑問だ。真理紗は一体何をするためにここに来たんだ? ああ、いや、説明する必要は無い。私にはすでに分かっているからね。では行こうか」
「どこへ?」
「あの山荘だ。今夜はあそこに泊まるのだろう? 車のトランクにスーツケースが入っていたからね」
「如月さんも来るんですか?」
「来るというか、真理紗と一緒に泊まらせてもらうさ」
 ここまで頭を高速回転させた経験は一度もない。ちょっと待て、可能性はいくらかあるけれど……。
「もしかして、如月さんも鉛の歯車の――」
「歯車? 鉛なんかで歯車を作ったら無意味に重量が増えてしまうよ。誤解しているみたいだけどね、私の本来の目的地がここだったとか、実は真理紗と待ち合わせをしている人物が私だったとか、そういうドラマチックな展開じゃないよ、これは。単に真理紗の行く先が面白そうだから着いてきただけさ。くくくっ!」
 一瞬この女も鉛の歯車の常連の誰かで、今回のオフ会の参加者なのかと思ったら、本当に単なる部外者らしい。しかもかなり厄介な種類の人間。
 如月は車から降りると勝手にトランクを開けてスーツケースを引っ張り出した。荷造りの下手なわたしはたった二泊の予定だというのにトランクは荷物でいっぱいだった。如月はその細腕で軽々とトランクを持ち上げる。未だに運転席にいるわたしに、指で窓をノックして出てくるように催促した。
 わたしは猛烈に後悔しながら車のエンジンを切った。あの山道、ゆっくり走って事故を避けるか、さもなければもっとスピードを出してあの女を一撃で葬り去るべきだった。中途半端な速度が仇になった、とわたしは思った。
「それにしてもオフ会とは愉快な試みだね。ずいぶんと楽しみにしていたみたいじゃないか。ふふふ。インターネットでのやりとりなら心を曝け出せるのかな?」
 駐車場から山荘へ向かうほんの数分の間も如月の洗礼を浴びるはめになった。わたしに問い掛けるときの彼女はずいぶんと楽しそうな表情だ。だけどその表情からはどうしても作り物のような印象を感じずにはいられない。どんな表情を作ればどんな感情を表すのか、マニュアルを見ながら実行しているかのような薄っぺらさを感じるのである。まあ単に如月のことがムカついてそう思えるだけかもしれないけど。
 そういえばわたしは今日のイベントがオフ会だとは一言も言っていないのだけど、如月はどうしてそれが分かったのだろう。と疑問に思ってはみたもののそれをこいつに聞くのは癪に障る。わたしは自分で考えてみることにした。
 自分の言動を振り返る。「もしかして如月さんも鉛の歯車の――」ああ、ここか決定打か。
 メルトダウン如月の視点から考えてみよう。如月があの山荘に泊まると言い出したことで、わたしは如月が「鉛の歯車」なる存在の何かであると誤解した。
 ここでポイントになるのは、山荘に泊まることがすなわち「鉛の歯車」の関係者であることを示す、ということ。つまりわたしは「鉛の歯車」の関係者の顔を知らない。顔を知らない関係者と言えば、仕事での書類上の付き合いとか、遠縁の親戚とか、謎の秘密結社とか。
 だけどわたしは旅行をしに来ている。如月はさっきそう推理した。一緒に旅行して泊まるような仲となると、残された可能性はプライベートの、遊びに関わるような人間関係だけであって、それがつまりインターネットで知り合った人とのオフ会である。
 ……という流れだろうか。うーん、まだ何か足りない気がする。
 それにしても恐ろしいのは、わたしがあの決定的な文句を言った途端、瞬時にこれだけの推理をしてしまう点である。演算速度に関しては如月には敵いそうもない。
「真理紗、化粧をしているね。化粧は防衛心理の表れだよ。顔を塗り固めて本当の心が見えないようにしているんだ」
「化粧をしていない社会人なんていないと思いますけど」
「だから現代人は他人との交流が下手なのさ。自分をさらけ出さないのに他人の中心には触れたいと思っている。そりゃ、自分の心をさらけ出すのは大きなリスクだけどさ。それをやらずに他人と触れ合ったとしても、それは本当の交流じゃない」
「こんな山奥でわたしに説教ですか?」
「まさか。説教というのは人の話を聞く気のある人にするものだよ」
 一瞬間が空いてから、如月はくくくっと声を出して笑う。子供が無理に悪い笑い方を真似しているみたいな妙な可愛さがあって、なぜかそのことがわたしをさらに不愉快にするのだった。
 わたしたちはしばらく会話することなく道を上る。沈黙が続くと如月は相変わらず鼻歌を歌い始めた。
 山だというので少しは期待していたけど、やはり暑い。エアコンの効いた車を降りてからほんの一、二分だというのにほんのりと汗をかき始めていた。後で化粧を直すのが面倒なのでなるべくなら汗をかきたくはなかったんだけど。
 建物に近づくと如月が感嘆の声を漏らした。建物に関する情報は前もってフミナさんからメールで教えてもらっていた。だけど実物を自分の目で見ると、からくりを知っているにも関わらず少し感動しているわたしがいた。
 上空から見ればおそらく正方形の屋根が見えるだろう。ただし、斜めから見たときにその特異な形状がはっきりとわかる。
 館の壁が中央に向かって傾いているのである。
 屋根は外側の縁が一番高く、中央部分がへこんでもっとも低い、すり鉢状になっていたはずだ。当然雨が降ったとき屋根には雨水がたまるのだが、それを排出するための構造もちゃんと備えている。
 だけど本当にすごいのは建物の中なのだ、ということは如月には言わないでおいた。ネタバレ厳禁。
 大きな木製のドアにはライオンの頭を模したノッカー。どうやって使えばいいのか分からなかったけど、先を歩いていた如月がノッカーを使って大きな音を立てた。
 数秒ほど待たされて、ドアが開いて中から女性が出てきた。黒いニットに亜麻色のベストを羽織り、眼鏡をかけている。黒い髪が頭の上で団子のようにまとめられていた。
「あ、こんにちは。えーと、フミナさんですよね?」
 前に立っていた如月を押しのけてわたしが言った。その人がフミナさんであるという確信はなく、ほとんど勘で確認した。どうやら正解みたいで、フミナさんはうなずいてわたしたちを中に通した。
「あ、えーとわたしは――」
「まるさんですか?」
 フミナさんが静かな声で言って微笑んだ。如月が小声で「まる?」とわたしに問いかけた。わたしのハンドルネームが「MaL」だからまるさんと呼ばれているのだ、とは面倒なので説明しなかった。
「そちらは小春坂さん?」
 如月の方を手で示して言った。
「いえ、この人は――」
「残念ながら私は小春坂という者じゃないよ。名前は如月。職業は探偵」
「まあ。探偵さんですか」フミナさんの声がわずかに歓喜の色を含んだ。「それで、どうして探偵さんがこちらに?」
「それが……」
「実はここで面白いイベントがあると聞いてね。部外者ながら彼女に無理を言って連れてきてもらったのさ」
「それでは、まるさんのご友人なんですか?」
「十年来のつきあいだよ」
「まあ。探偵のお友達がいらっしゃるなんて、どうして教えてくれなかったんですか?」
 わたしが何と説明したものかと言葉を濁していると、如月が勝手に嘘八百を並べ始めた。少し嫌な感じがしたけれど、かと言って本当のことを言うのもそれはそれで問題があるような気がしたので黙っていた。まさかこいつを車でひきました、とは言えない。
「それで今夜はぜひここに泊めてもらいたいと思っているんだが、どうだろう」
「ええ、いいですよ。部屋はたくさん空いてますし、本職の探偵さんのお話を伺いたいですし」
「どうもありがとう。それにしてもすごい建物だねえ、これ。傾いているのかな。うん、面白い。趣味がいいねえ」
「私たちはここを歪曲館と呼んでいます」
「歪曲か! 歪んで曲がる、ね。くくくっ」
 この建物は外見が独特だが内装はさらに特徴的だ。傾いているのは建物の外側だけではなく、内部も中央に向かって傾いているのだ。しかも建物の中心に近づくほど傾斜が急になっているので、建物の中を歩いているとあたかも中央に吸い寄せられるような感覚に陥る、という。
 もちろん実際に人間が利用する関係上、傾いているのは廊下などの通路だけで、例えば今わたしたちがいる玄関ホールの床は水平を保っている。しかし床は水平でも壁はしっかりと傾いているので、部屋の中を見回していると妙な錯覚を起こして体が倒れそうになってしまう。
 もちろんこの建物はフミナさんの所有物というわけではない。何年か前にとある有名な資産家が道楽で作ったものが、彼の破産と同時に売りに出され、今ではわたしたちのような物好きがたまにレンタルして使う程度である。
 もうちょっと交通の便が良ければまだ観光地になれたものを、車で山道を何時間もかけて通わなければならないのはさすが骨が折れる。しかもこのあたりは霧が発生しやすく、それが原因の事故が何件も起きているらしい。
 そういう事情があって、こんなに珍しく、しかも豪勢な建物をオフ会のためだけに借りるという贅沢が可能になったのだ。こんな調子でレンタルさせていたのでは元金を回収するまで何年かかるのやら。
 ホールには低いテーブルにソファ、二階への階段がある。階段の壁には豪華な額縁の絵が何枚か掛けられている。一階の壁際に展示されている西洋の甲冑が不気味だった。
 館の内側は茶色と白のまるで蝶のような不気味な壁紙で統一されていて、床は赤いカーペットが敷き詰められている。決してセンスが悪いわけじゃなかったけれど、見る者を不安にさせる配色だった。
「他の人たちはもう来てるんですか?」
「ええ。キョウさんも西さんもゆーせいさんも。来ていないのは小春坂さんだけですね」
 すべて鉛の歯車の常連であり、ネット上でのわたしの知り合いである。
「台本は覚えましたか?」
「えーと、大体は。頭に叩き込んであります」
「無理に全部覚える必要はないんですよ。ゆーせいさんなんか、まだ前半部分にしか目を通していない、とか」
「あの人は元々こういうのに興味がある人じゃないですからね。単に祭り好きなだけで」
「フミナ、台本というのは何のことだい?」
 甲冑の方をもの珍しそうに眺めながら如月が質問する。わたしにではなくフミナさんに質問する辺りが、なんというか意地が悪い。
「探偵さんは、まるさんからは何も聞いていないのですか?」
「えーと、あの……」
「ふふふ。事前にすべてが分かっていたのでは興醒めだからね。百聞は一見に如かずと言うけれど、これは見る前に話を聞いていない場合に限るのさ。事前に話を聞いていると、何を目にしたところでその話の下で物事を判断してしまう。凡人は最初に得た情報に支配されてしまうからさ」
「先入観ですわね」
「その通り」
「探偵さんは普段からそういったことに気をつけていらっしゃるんですね」
「いいや? 私には百聞も一見も必要ないのだよ」
「どうしてです?」
「なぜなら私はすでに真相を知っているからさ。くくくっ」
 まっとうな説明を放棄して自分の世界で笑い声を上げる如月と、「まあ」と驚いた顔を見せて口元を手で押さえて笑うフミナさん。もしかしてこの二人は案外話が合うのかもしれない。にわかには信じがたい話だけれど。いや、如月と話の通じる人がいた、という点において。
 二階の方から声がした。そちらを見ると、マスクをかぶりデジカメを抱えた人物がシャッターをやかましく鳴らしながら降りてきた。樹皮で作られた白いマスクはぺったりと張り付ついていて頭の形を浮き上がらせている。
 そのマスクを見てわたしはすぐにあの映画を連想した。横溝正史の名作、犬神家の一族の映画版だ。犬神家の一族とは、信州の大財閥の当主、犬神佐兵衛の遺産を巡って争う犬神家の一族の確執と、次々と殺されていく遺産相続人の謎を探偵の金田一耕助が追うという話だ。
 佐清はその遺産相続人のひとりで、戦地での爆撃で負った顔のやけどを隠すために不気味な白いマスクを被っている。ストーリーの中ではその佐清が本当に佐清なのか、遺産を手に入れるために別人がなりすましているのではないか、などの謎もあるのだけど、まあ今はそんなことは関係ない。
 何かというと、今二階から降りてきたその人物のマスクが、映画に出ていた佐清の役者が被っていたあのマスクそっくりなのだ。
「おや、女性がお二人。えーと、待て待て。あと来てないのはまるさんと小春坂ちゃんだけだから、そちらが小春坂ちゃんで、あなたがまるさん?」
 わたしと如月を交互に示して言った。ささやくようなしゃべり方だ。ボリュームは小さいのによく聞こえる声だった。
 フミナさんはその人物の勘違いをやんわりと否定した。
「こちらがまるさん。で、こちらは小春坂さんではなくて、まるさんのご友人の方で、探偵をしていらっしゃる如月さんです」
「素敵なマスクだ。この館におあつらえ向きだね」
 如月が言うと彼は愉快そうに笑った。
「実は今ブログに載せる写真を撮っていたところでしてね。あ、この覆面、特注で作ったんですよ。やはり一人くらいは覆面キャラがいなくてはね。けっこううまくできてると思うんですが、これをつけてると顔が蒸れてしようがない」
「キョウさん、まだ名乗ってませんよ」
「おっと、こいつは失礼」
 白いマスクを丁寧に取ると、中からは結構な美男子が出てきた。顎に短い髭をそろえた三十代くらいの男。素顔を見られて恥ずかしいのかはにかんだような笑顔を浮かべる。それがまた格好良くて、わたしは少しだけ見惚れてしまっていた。
「Kyoです。あの、『Kyoも日々邁進』を書いてる――ってまるさんはもう知ってるか。実はリアルじゃ新聞記者だったりします。本日は五年ぶりの有給休暇で」
「ああ、なるほど……」
 わたしは合点がいってうなずいた。
 キョウさんのブログ『Kyoも日々邁進』は彼の日常を写真と共に紹介するだけの、ほとんど日記と言っても違いないような内容のブログ。だけど時々どきりとするような鋭い考察や社会の変化に対する敏感な嗅覚を持っていたりして、コミカルなキャラクターとは裏腹なスマートさを彼の文章から感じ取っていたんだけど。なるほど、本職だったわけだ。
「まるさんは? やはり学生さんですか?」
「ええ、まあ」
「いいなあ、大学生か。あ、いや、別に変な意味はないですよ。うらやましいというだけです」
「キョウさん女子大生好きですもんね」
「いやいや、あれは単なるネタですよ」
 キョウさんのブログのネタを持ち出すと、彼は苦笑いをして否定した。困った彼の顔がまた可愛かった。成人男性に対して使う形容詞じゃないと思うけど、そんな言葉を当てはめたくなるような愛嬌がある。
「にしてもすごい館だ。わたしはここに来るのはこれが二度目ですが」
「前のオフ会にも参加されてますよね」
「残念ながら賞品は逃しましたが。ふっふっふ」
 鉛の歯車のオフ会はほぼ毎年この時期に行われている。わたしは何年も前から鉛の歯車の常連だけれどこれまでのオフ会に参加したことはない。もっとも、前回のオフ会の主催者はフミナさんではなかったが。彼女がまだ副管理人だったころだ。
「それではわたしは失礼して。この館の写真を撮らないと、ね」
「キョウさん、去年たくさん撮ってたじゃないですか」
「今年は今年の館があるのですよ。ふふふ。では失敬」
 フミナさんに答えると、片手を軽く挙げて一階の奥へ消えて行った。
「それではお二人のお部屋をご案内します。一階はダイニングホールや遊戯室などで、個人の部屋はすべて二階にあります。あれは今日の昼食から夕食までで、それ以外の時間は基本的に自由行動ですが、朝食と昼食と夕食だけは必ずご参加くださいませ」
「そのアレとやらには私も参加しなきゃいけないのかい?」
「ええと、如月さんはここで私たちが何をするのか聞いていらっしゃらないんでしたよね」
「私の友人は不親切でね」
 如月がわたしの方を見て、口の端をゆがめて笑う。わたしは何も答えなかった。
 フミナさんがわたしたちを交互に見て不思議そうに首をかしげる。どこぞのお嬢様のような上品な仕草だった。
「簡単に言えば学芸会のようなものですわ。役者は私たち全員、脚本は私。観客も私たちですけど」
「へえ、なるほどね。ということはどうやら私は観客に徹していればいいのかな?」
「ですね。ミステリーですから、如月さんもぜひ推理してみてください。犯人を当てた方には賞品も出ますよ」
「それはやめておこう。私なんかが参加したら勝負にならないだろうからねえ。くくくっ!」
「またそんな自信過剰な……。口だけじゃないの?」
「口だけでは名探偵にはなれないのさ」
 わたしが一応突っ込みを入れると、今のところ口だけの如月が言った。
 わたしは呆れてため息を吐く。よくもまあそこまで自分に自信が持てるな。確かに如月は頭の回転は速いし顔も美人だし。ああなるほど、だからそんなに自信があるのか。いや待て、納得してしまっていいの?
 重力の錯覚を覚えながらホールの階段を二階へ上がり、奥へ進んだ先で廊下を一度曲がる。廊下には宿泊用の部屋がずらりと並んでおり、その無個性なドアの整列はまるでホテルにいるようだった。
「こちらがまるさんのお部屋です。えーと、如月さんのお部屋は――」
「ああ、気遣い無用だよ。私は真理紗と一緒の部屋で構わない」
 わたしは驚いて如月の顔を見た。この女は一体何を考えているんだ。
「ですけど、部屋ならたくさんありますし……」
「友人同士、同じ部屋で話したいことが色々とあるのだよ。せっかくの旅行だからね」
「でもベッドはシングルサイズのがひとつしか――」
「構わないさ。二人で同じベッドで寝ればいい」
 わたしは猛烈に嫌な感じがした。如月からわたしへの無条件の好意に薄気味悪いものを感じ取ったのだ。フミナさんに如月用の部屋を用意するよう抗議しようと思ったけれど、では友人同士ということになっているわたしたちが同じ部屋に泊まるのを断るもっともな理由とは何だろう。ここでわたしが下手なことを言えば彼女とわたしがまったくの他人であることがばれてしまうんじゃないだろうか。……いや、別にばれてもいいんじゃない? と思いつつも言い出せないでいるわたし。どうも如月の罠にはまっているような気がしてならない。わたしと彼女のスペックの差を考えれば、わたしをこのくらいコントロールするのは簡単なことだろう。
「部屋は内側から鍵がかかりますが、外から掛けることは出来ません。あと、窓がないので、煙草を吸われるときは一階に下りてきてくださいね」
 その他、部屋の利用に関する細かいルールの説明がフミナさんからなされる。要約すると、とりあえず常識的に使う分には問題ない、という程度の話だ。
「それでは私はこれで失礼します。昼食までにダイニングホールまでいらしてくださいね。場所は――」
「台本の地図を見れば分かります」
「ですね。それでは後ほど。『問題』は十二時半からです」
 フミナさんにお礼を述べて、如月と一緒に部屋に入る。如月がわたしの荷物をベッドの脇に下ろした。
「さて。真理紗と私の、二人きりの愛の巣だな。くくくく!」
 嬉しそうに茶化す如月に、わたしは暗い展望を抱かずにはいられなかった。


 部屋にはシングルのベッドとテーブルと椅子、クローゼットに洗面台と、寝泊まりするためだけならば十分すぎるほどの設備が整えられていた。もちろん、本当のホテルではないのでバス、トイレは共用のものを使わなければならないけれど。如月はそれがずいぶんと不満なようだった。
「考えても見たまえ。共用の風呂ということは他の人間も入るということだ」
「裸を見られるのが嫌だとか?」
「いや。真理紗の裸を独占できないのが不愉快なのさ」
 そう言ってふふっと笑う。彼女の視線がわたしの体を這うのを感じて一歩遠のいた。
「……冗談だよ。当たり前じゃないか。合意の元でのセクハラが楽しいんだ。真理紗も分かるだろう?」
「いや、全然分かんないけど」
「にしてもいいね、それ。真理紗の敬語には常々違和感を覚えていたところだ。ましてや私に敬語など使う必要はあるまい」
 如月に言われて初めて気がついた。如月のようなデタラメな人間に対して敬語を使うことはわたしのプライドが許さない、などというしっかりとした理由があるわけではなくて、単に突っ込みを入れていたら地の言葉遣いが出てしまっただけだ。
「……にしても珍しいね。自信過剰のあなたが、敬語を使う必要がないなんて」
「自信過剰はいいね。今度から自己紹介のときにはその四字熟語を使うことにしよう。それはともかく、敬語なんてのは言葉による装飾に過ぎないのだよ。ただのお飾りだ。私のような人間にそんなまやかしは通じない。本当の敬意とはそのような表面的なものではなく、言葉の奥の、心の中に存在するものだ」
「如月にしてはロマンチックなことを言うのね」
「もっとも、世の中にはこのロマンが分かる人間と分からない人間がいるわけだが……。それにしても、今のツッコミに私は真理紗の敬意を感じたよ。どうもありがとう」
「いや敬意なんか込めてないから。むしろ敵意を込めたから」
「くくくっ。いいねえ、そういう風に噛み付くの。そういう娘を手懐けるのがお姉様の愉しみというものだ。真理紗はどんな声で鳴くのかな?」
「……フミナさんに言って部屋を変えてもらいます」
「冗談だよ。厳しいなあ。少しくらいは許容してくれたまえ。真理紗という名前なんだから、多少の百合ネタは勘弁してくれたまえ」
 まったく反省していない様子で言って、部屋に一つだけの椅子に座り足を組む。そんな如月の嫌がらせに耐えかねて、わたしは昼食までに歪曲館の中を見学しておこうと、台本を片手に部屋を出た。
「なんだい、探検かい? 私もお供させてもらおう」
「トイレに行くだけですよ」
「台本を持って? ついでに貴重品も持って行ったらどうだい。フミナが言っていたじゃないか」
 ……すべてお見通しか。というより、頭に血が上っていたわたしの不手際だ。
 しかし意外にも如月はあっさりと引き下がった。
「まあいいさ。荷物の番は私がしておくから、せいぜいこの館の間取りを頭に叩き込んでおいてくれ。これからは館の中を歩くときは真理紗に頼ることにするからよろしく頼むよ。なあに、私は方向音痴でね、常に案内役が必要なのさ。くくくくっ!」
 この女、館の勝手が分からないのを口実にわたしにくっつくつもりか。しかしだからと言って今あいつを連れて行くのは非常に不愉快だ。というわけでまんまと如月の手の平の上で踊らされる形になる。
 如月がまだ何か言おうとしているのが分かったのでその前に慌ててドアを閉めた。
 決して厚くはない台本の最後にはこの館の見取り図が載っている。まず自分のいる場所が分からないので、とりあえずは位置が分かるような場所を探すつもりだった。
 玄関に戻るつもりで歩いていたのだけど気がつけば玄関ホールよりも大きな空間に出ていた。鼻につく心地よい静かな香り。図書室だった。
 奥に行くと一階への階段がある。一階と二階にまたがる巨大な空間のほとんどが本棚で埋め尽くされている。その一角に、ソファに身を沈めながら雑誌を読む男の姿があった。
 ブラウンと黒が混ざったような、毛先の跳ねたショートヘア。肌はほとんど日に焼けておらず真っ白。かなりのやせ形で見るからにスポーツが苦手そう。銀縁の眼鏡をかけて、手元の雑誌を一心不乱に読んでいる。年齢はわたしと同じくらい――大学生だろうか?
 集中しているのかわたしが物音を立てずに歩いているからか、彼がわたしに気づいた様子はない。声を掛けて邪魔をするのはどうかと思ったけれど、このまま無視して通り過ぎるのも少し変だ。
 わたしは声を掛ける決意をする。静寂を破るときにはそれなりの決意が必要なものだ。
「あの、どうも」
「ん」
 片手を軽く挙げて返されてしまった。
 ……あれ?
 わたしがしばらく困惑していると、彼は雑誌をソファに投げ出してわたしの方に向き直った。どうやらそれは科学系の雑誌らしい。惑星の描く楕円の軌道が表紙になっていた。
「えーと、どなた? あ、ちなみに俺は西弓東刀ね」
 西弓東刀。鉛の歯車の常連。自分のサイトは持っていないがかなりの読書家で、政治にも科学にも強い。彼とは個人的にメールを送り合う仲だった。まあ、それほど親しいわけでもないけれど。
 ちなみに彼のハンドルネームをどのようにして読めばいいのか、未だに聞けずにいる。『にしゆみひがしかたな』なのか『さいきゅうとうとう』なのか、どのように読んでも据わりが悪い。なのでなんとなく彼のことを『西さん』と呼んでいるわたしたちである。
「MaLです。いつもお世話になってます」
「いやいや、お互い様っしょ。まるさんも本を読みに来たの?」
「いえ、たまたまここに来ただけです」
「ここ出て向こうに行くと遊戯室があるよ。確かゆーせいさんもいた」
 ゆーせいとはもちろん鉛の歯車の常連客。愛称でもなんでもなく、ハンドルネームはそのまま『ゆーせい』だ。
「西さんは――」
「あー、あんま敬語使わなくていいよ。同じ世代じゃん俺ら」
「……ちなみにおいくつで?」
「いくつに見える?」
「十七歳」
「んじゃそれで」
 西さんは笑った。チャットでのやりとりみたいだ、とわたしは思った。笑わなかったけれど。
 わたしの知っている西さんのイメージと、実際に目の前にいる青年の姿がどうしても一致しない。
「でもまあ、初対面の人間ですから。どうしても敬語になっちゃう……し」
「あはは。まあそうかもね。あー、俺とかも馴れ馴れしいかな。さっきもゆーせいさんにめっちゃタメ口聞いてたけど」
「まあゆーせいさんならいいでしょう」
「実際のあの人もいじられキャラだったよ。なんつーか、いじめてると楽しい」
 へえ。それは会うのが楽しみだ。
「でもすごいよなあ、ここの本。小説だけじゃなくて科学雑誌とかも置いてある。日付は大昔だけどね。今見ると古すぎて笑えるくらい。ほら、これなんか――」
 ソファに投げ出した雑誌を広げてわたしに見せる。それからしばらく彼の科学ネタが疲労された。自分の知識をひけらかしたがるその子供っぽさは、確かに西さんだった。
「まるさんは大学生だったよね?」
「ええ、一応」
「一応?」
「あんまり真面目に大学生やってるわけでもないんで」
「あそう。でもそんなもんだろ。レポートさえ出せばちゃんと単位はもらえるし」
 この発言。大学生だろうか。そうだとしてもあまり勉強熱心だとは思えない。わたしも人のことは言えないけれど。
「台本は覚えた?」
「見ながらでも大丈夫ってフミナさんが言ってましたけど」
「んー、あれ、一言一句同じじゃないと駄目なんかな。なんとなく流れは覚えてるけど。まあよっぽどならフミナさんから何か言われるだろ」
 西さんの興味が再び雑誌に戻ったのでわたしは大人しく撤退することにした。
 地図の載った台本を自分の進行方向に合わせてくるくると回しながら館の中を歩いた。とりあえずはゆーせいさんと顔合わせをするのが先だろう。わたしは遊戯室と書かれた部屋に向かう。
 それにしてもこの館の中は歩きにくい。すべてが傾斜しているので気を抜くとどんどん内側に引き寄せられていく。宿泊室や図書室は別にしても廊下や階段は容赦なく歪んでいる。常に重心がどこかに引っ張られている状態で歩くので、足の端が痛かった。
 ほどなくして豪華な内装の部屋に到着する。大きな部屋の中にはビリヤード台やダーツ用の的、おそらくカードで遊ぶためのテーブルが配置してあり、大規模なパーティを開いても差し支えないくらいの設備がある。
 部屋の隅に大きなテレビとソファがある。ソファに座って煙草を吹かしながらテレビを見ていた男が、わたしの姿を見て慌てて煙草を灰皿に押しつけた。
「こんにちは」
 先に声をかけたのはわたしの方だった。
「ども。あー、えっと、ゆーせいです」
「MaLです」
「ひぇぇぇっ」
 ゆーせいさんはなぜかのけぞった。彼の背後では通信販売の番組。こんな山奥に来てまで安眠枕が気になるのだろうか。
「すごいな、まるさんか。うええ、美人さんだなぁ」
 冗談めかした口調だったけれどわたしは嬉しかった。
「ゆーせいさんも男前ですよ」
「そうかなぁ。ほら、頭もすっかりハゲちゃって」
「大丈夫です。毛があっても大して変わりませんし」
「うわっ。それって傷つくなぁ」
 笑いながら頭を手で撫でた。
 ゆーせいさんの頭は毛が一本もない。もちろん禿げただけでこのような状態になろうはずもなく、自分で選んでこの髪型にしたんだろう。スキンヘッドというやつだ。肌は日に焼けた小麦色で、腕には高そうな銀色の時計が光っていた。
 ソファから立ち上がる。かなりの長身だったけれど、人の良さそうな顔と、切れ長というよりはいつも笑っているみたいに見える糸のような目のおかげで威圧感はまったく感じなかった。
 ゆーせいさんは自分のサイトを持っている。『ロジカルマジック』という、漫画やゲームやもちろん小説などを手当たり次第にレヴューしているサイトである。鉛の歯車には常連と言うよりもサイト管理人同士の付き合いという形で関わっている。確かこのオフ会に来るのはこれが初めてだったはずだ。
 ちなみにロジカルマジックでの彼の申告を信じるなら、ゆーせいさんは今年の冬に四十四歳になったところだ。
「ゆーせいさん、煙草吸うんですね」
「うん。もしかしてまるさんって嫌煙家?」
「愛煙家じゃないですけど、まあ別にいいんじゃないですかね。好きなように寿命を縮めてください」
「あ、きっついなあ。さっき西くんが来てたんだけどさ、あの子めっちゃくちゃ嫌煙家でね。もう脱兎のごとく、って感じでね」
「蛇蝎のごとく、ですね」
「おう。笑顔で訂正してくれてありがとう。煙草の成す害と副流煙の被害に関してこってりなじられたよ。しばらく立ち直れそうにない」
「その割にはまだ吸ってるんですね。西さんを呼んで説教の追加オーダーを頼んできます」
 わたしが踵を返して遊戯室から出ようとすると、ゆーせいさんがわたしの腕を両手で掴んだ。泣きそうな顔だった。
「みんなの前では吸わないから許して」
「それなら自分の部屋で吸えばいいじゃないですか」
「フミナちゃんの話を聞いてなかったの? あんな換気のないところで煙を吐いたら燻製になるよ」
「そうでしたっけ」
「それに広いところで吸いたかったんだよ。部屋だとテレビもないし」
 そこまで通販に興味があったのだろうか。
「これはこれは、ゆーせいさんにまるさん。私もお話に混ぜていただいてよろしいですか?」
 カメラを抱え、未だに白いマスクをつけたキョウさんが部屋に入ってきた。ゆーせいさんはキョウさんのマスクを見て少し顔が引きつっているようだった。どうやらあのマスクがお気に召さないらしい。彼のサイトによるとミステリやホラーは駄目らしいから。
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