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0.prologue

 もう何時間も山道を走っている気がする。わたしはカーステレオに表示されたデジタル時計を見た。約束の時間まではまだ余裕がある。だけど目的地までの距離が分からない以上、安全圏かどうかは分からない。わたしは焦っている自分を冷静に分析したけれど、構わずに少しだけアクセルに力を込める。
 ヘッドライトが車の前方にカーテンのような霧を映し出している。この辺りの山岳地帯は霧が多いと予め注意を受けていたけれど、これほどまでに視界を奪うものだとは思わなかった。それでも朝よりはずいぶんまともになっている。今朝初めてこの山に入ったときは怖くてブレーキの上から足を離せなかった。
 元々わたしは運転が得意な方じゃない。ていうか山道を走る経験なんて一度もない。
 それに加えて、この霧。
 慎重になるあまり速度を落としすぎたかもしれない。もしわたしが一般的なドライバーならばもう少し早く目的地につけただろう。
 こんな山道、しかもまだ昼前、そしてこの霧の中、車を走らせているような酔狂は今のところわたしだけだ。もっとも対向車が来たところですれ違えるとは思えない道の狭さ。他のメンバーもこんな危うい道を通っているのだろうか。それとも別にもっと安全なルートがあるのか。
 頻繁にカーブとアップダウンを繰り返しているけれど、基本的に分かれ道のない一本道だった。周囲にあるのは霧と森。たまに岩肌の露出した斜面が見えるくらい。
 最後の分かれ道から三十分以上はずっと同じ景色が続いていた。それがわたしの注意力を鈍らせていた。集合時刻が近づいて焦っていたのもあるだろう。
 危ない、と思ったときには手遅れだった。霧の向こうに立っていた人影がボンネットに跳ね上げられ、回転しながらそのままフロントガラスに衝突する。ブレーキペダルを踏み込むとわたしは見事にハンドルに額を打ち付けた。
 その衝撃で頭の中が空っぽになる。
 わたしはしばらく額を押さえて悶絶していた。しかしすぐに理性を取り返す。わたしが轢いてしまった人影はもうボンネットの上にはない。ブレーキを踏んだときに地面に転がり落ちたのだ。
 一瞬わたしの耳元で悪魔が囁いた。このまま逃げてしまえ、と言う。周囲に人家はない、そしてこの霧だ。逃げてしまえば絶対に見つからない。
「いやいや、さすがにそれはマズいでしょ……」
 自分に言い聞かせてシートベルトを外す。被害者の息があるかどうかくらいは確認しておく義務があるだろう。もしわたしが見捨てたせいで死んだら化けて出るかもしれないし。
 お化けは怖いなぁ、と馬鹿みたいな想像をして、車から出た。馬鹿みたいなことを考えなければ恐怖と不安でどうにかなってしまいそうだった。
 ひんやりと湿った空気が車内に流れ込む。
 被害者はヘッドライトに照らされてアスファルトの上に倒れていた。動かない。し、死んだ? うわあどうしよう、わたしこの年で殺人者だ……などと思っていると、突然その死体が起き上がった。わたしは腰を抜かしてその場に尻餅をつく。
 若い女性だった。喪服みたいな紫色の服を着ている。長靴みたいな黒いブーツ。山の中で見かけるにはひどく違和感のある格好だった。尻餅をついているわたしの元に近づいてくる。ヘッドライトに照らされた胸まで届くストレートの黒い髪は、光の加減によっては緑色に見えなくもない。
 彼女は間近でわたしのことを見下ろした。まるで作り物のような笑みを浮べる。
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