月には白のおまじない

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07.夏祭り、開始

 学生生活と一言でくくっても人によって色んな形態があるでしょうが、みなさんに共通する一大イベントといえばやはり期末試験でしょう。一大イベント、というのは少し浮かれた、ポジティブな言い回しかもしれません。一大事、と言い換えればいいでしょうか。まさに一大事です。たとえばテストの点が悪くて親に怒られたりとか、あるいはもっと悪くて夏休みが補習で潰れてしまったりとか、はたまたテストが最悪の結果となり進級が危ぶまれてしまっては、なおのこと一大事でしょう。そうならないために――期末試験を些末な学校行事というカテゴリに押しとどめておくために、高校生たちはその日に向けて努力と研鑽を積まなければならないのです。
 ……もちろん、わたしも。
 勉強は、あまり好きではありません。勉強が好きな人は少ないと思います。そもそもみんな勉強が好きだったら、それを学生の義務にしたりしないでしょうし、学校の成績で生徒に優劣を付けたりなんかしないでしょう。
 勉強は嫌いでしたが毎日の宿題はちゃんとこなしていました。これは中学時代からの習慣です。なぜならわたしには、授業前の休み時間に宿題を写させてくれるような知り合いがいなかったからです。あるいは前日、友達の家で一緒に数学の宿題をやったりとか、小テストの前に勉強のできる友達から山を教えてもらったりとか、そういった器用な真似はできそうにありません。いえ、もしわたしが頭を下げてお願いすれば、優しいクラスメイトの誰かがお情けでわたしを友達の輪に迎え入れてくれたのかもしれません。しかしわたしにはたとえ成績と天秤にかけたとしても、そんな大それたことをする勇気はなかったのです。
 そんなわたしでしたが、高校受験では無事に広崎高校に合格することができました。中学時代の成績は上の中でした。宿題を提出することだけを目的とした勉強でしたが、勉強が習慣化していたおかげか、卒業までそれなりの成績を維持することができました。
 しかし高校に入学してからは、どうやらそんな甘いことを言っていられなくなりそうです。端的に言えば、勉強しなければさっぱり分からないのです。いえ、何を当たり前な、と思われるかもしれませんが、中学時代と比べて、高校の授業は進度が圧倒的に速く、しかも要求されるレベルも非常に高いのです。そもそも教科書レベルの問題を解くことすら危ういのです。宿題は欠かさずに提出してきたわたしですら、先生が中間テストの範囲として指定した問題は高度すぎて手に負えないものでした。
 あれは忘れもしない五月の末。中間試験の前日はまさに修羅場でした。そしてがんばった割に、成績はあまり芳しくありませんでした。というか、四十点以下が赤点なのに平均点が三十八点だった化学の試験はいかがなものかと思うのですが……。
 ともかく、中間試験が散々な結果だったために、一学期の期末試験だけは気合いを入れてがんばらなければならないのです。気合いを入れるのもがんばるのも大嫌いなわたしですが、この際好き嫌いばかり言っているわけにもいかないのです。
 梅雨は開け、本格的な夏の盛りに突入した七月の気温は、平常の授業を受けるのさえ苦痛に思えるほどの暑さでした。
 期末試験の一週間前は試験勉強のために部活動が禁止されます。あまり興味のない園芸部がなくなるのは非常にありがたいのですが、その浮いた時間はすべて勉強のために費やさなければなりません。
 六限目の数学の授業が終わりました。今日の授業はこれでお終いです。教室の空気が一気に弛緩するのを感じます。すでにほとんどの授業が、新しいことを習う授業から試験を前にした演習の時間になっていました。数学はわたしのもっとも苦手とする教科です。化学も、苦手です。得意なのは世界史と、家庭科の授業でしょうか。家で毎日料理をしているわたしは調理実習の時間は無敵なのです。そういえばこの間の調理実習で作ったフルーツポンチは我ながら傑作でした。教科書通りの作り方ではなくて少し冒険をしてみたのですが、同じ班の方々の反応を見る限りは成功したと考えてもいいのではないでしょうか。
 などと自分の好きなことを考えて目を逸らしても数学の問題が解けるようになることはありません。
 わたしは溜息をつきました。高校に進学して、数学は一気に苦手教科になりました。英語も、半ばお手上げ状態です。
 今年の夏は修羅場になるぞ、と静かに覚悟を決めていたところに宗方さんと新山さんがやって来ました。
「たっけおーりさーん。放課後どっか行かない? あたしアイスクリーム食べたいなー」
「もう。真琴は少しくらい勉強しないと。さっきの数学の時間もずっと寝てたじゃない」
「大変だよね。暑いし」
「そうそう、暑いんだよ! だからさー、気分転換に何か冷たいもの食べに行こうよ。どうせあたしテストなんか一夜漬けで十分だし」
「もう。竹折さんを巻き込まないでよ。真琴みたいに不良になったらどうするの?」
 新山さんは立腹していましたが、わたしのことを優等生だと思っているなら大きな間違いです。きっとわたしの中間試験の点数を知らないのでしょう。まああのときは誰にも見せずに家に持ち帰り、お父さんに見せた後すぐに処分したので、知らないのは当然でしょうが。機密書類を抱えた女スパイのような気分でしたが、女スパイはあんなに酷い点数を取ったりはしないでしょう。まったくもって、優雅さも淑やかさもありません。
 試験期間の浮いた時間をアイスクリームの購買に当てることを主張し続けた宗方さんですが、新山さんにしては珍しく断固としてそれに反対しました。
「とにかく駄目。そうやって人を堕落させるのはよくないよ」
「まるであたしを悪魔みたいに言うんだな」
「真琴も! 勉強するの! そうだ、今日は一緒に勉強しようよ。みんなでやればはかどるよ」
「えーっ」
 不満の声を上げたのは宗方さんだけでした。しかしその後も新山さんから執拗に期末試験の重大さを説かれ、赤点の教科があった場合夏休みが補習で潰されるという避けられない事実が、宗方さんへの最後の一押しになったようでした。アイスクリームを食べたい欲求はあっても、さすがに夏休みの方が大切だったようです。
 とにかく、今日は三人で試験勉強をすることになりました。
「俊一! 今日はテスト勉強するよ!」
「えええ。マジかよ。いいじゃん、テスト来週だし」
「あのねえ、テストで赤点取ったら補習で夏休み登校だよ。バスケ部の合宿、行けなくなるかもよ?」
「お前だってそんなに良くないだろ成績」
「だからみんなで勉強しようって言ってるんじゃん。それなら燈子に教えてもらえるし」
「――お供させていただきます」
 ……四人になりました。
「真斗ー! お前どうする?」
「…………」
 黙って片手を挙げる石館くん。
 こうして、わたしたち五人は放課後に図書室へ行くことになりました。
 人と一緒に行動することに未だに馴れないわたしでしたが、一緒に勉強をする、というのは悪くない展開です。宗方さんと戸野くんはともかく、新山さんと石館くんは確実にわたしよりも成績が良いでしょうから。分からないところを教えてもらえる、というのは友達の大きなアドバンテージだと思います。
 ……友達?
 今は、そこをあまり深く考えるのはやめておきましょう。何せ今は緊急事態ですから。
 とにかくまあ、高校生にとっての期末試験というのはそれほどまでに大きなイベントなのです。



 図書室に移動して、机を囲んでノートを広げます。図書室にはわたしたちの他にも試験勉強に勤しむ人たちがいましたが、その割には長閑な雰囲気です。友達同士ひそひそ話をする人や、勉強に飽きて漫画を読み始める人などもいます。普段あまり図書室に来ないような人たちばかりなのでしょう。
 わたしは数学の問題集とノートを広げ、試験の範囲を確認しました。宗方さんと戸野くんは英語のプリントを、石館くんは化学の教科書を広げました。新山さんはわたしの隣に座って一緒に数学の問題集を広げています。
 わたしは問題を解き始めました。基礎問題は教科書を見つつなんとか解くことができるのですが、応用問題になるとどこをどうしていいのか、何から手をつければいいのか、そもそも何を求めているのか、答えがどのような形になるのか、見当も付かないのです。
 隣で同じ問題集を解いている新山さんは淀みなくシャープペンを走らせています。わたしの視線に気づいた彼女は顔を上げ、わたしににっこりと微笑みました。わたしも最大級に上品な笑顔を返して、自分の問題集に戻ります。
 ……「ここの問題、教えて」なんて、言えるわけがないのです。黙々と問題を解き続ける彼女の集中力を妨げるのは申し訳ないですし、浮かれているとはいえ図書室の沈黙を破る勇気がわたしにはなかったのです。
 解く当てのない問題と格闘するのは地獄のような苦痛でした。手当たり次第に方程式を立ててみますが、変数の立て方が悪いのか、原理的に解けそうにありません。しかもそれすらスタート地点で、では方程式を立ててから、さてどのように計算を進めればいいのか、まったく想像できないのです。さすがは応用問題。解けるわけねーだろこんな問題、という言葉を飲み込み、自分の数学的素養のなさを恥じ入るばかりです。
 そんなことばかりやっていては、必然的にわたしの意欲と集中力は低下します。わたしは他の四人の様子をこっそりと伺いました。
 新山さんは相変わらず数学の問題集を解き進めていて、なぜかわたしの方を意識しているらしく、わたしが新山さんのことを見ていると向こうもすぐにこちらに気づきます。宗方さんは英語のプリントを前にして目を閉じてじっとしています。瞑想しているのでなければ、眠っているのでしょう。戸野くんは予想に反して真面目に英語の勉強をしているようです。英和辞典を何度も開き、プリントの余白に単語の意味をびっしりと書いています。石館くんは化学の教科書を見て化学式の暗記をしているみたいです。
 わたし自身は完全に集中力が切れてしまいました。一度トイレに立ち、図書室に戻って来てからも、勉強を再開する気になれず、図書室の本棚の間を意味もなくふらふらと歩いていました。何冊か気になる小説があり、手に取ってみますが、今は文字を読む気分ではありません。しばらく図書室を歩き回り、気分を一新したところで、みんなのところに戻りました。
「……あらら」
 机にいたのは四人だけではありませんでした。同じクラスの人たち……と、わたしが存じ上げないおそらく別のクラスの人たちがいました。
 背の低い落ち着いた雰囲気の女の子とウェーブのかかった茶色っぽい髪の女の子が化学のノートを抱えて石館くんに話かけていました。石館くんは無表情に受け答えをしていましたが、女の子二人は喜んだ表情を隠せていません。さっきまで眠っていた宗方さんの方には髪を後ろで縛った男子が話しかけています。その男子には見覚えがあって、同じクラスのサッカー部の人だったと記憶しています。彼も宗方さんに思いを寄せる男子の一人なのでしょう。宗方さんは彼の対応にかなり困っている様子でしたが、肝心の戸野くんは力尽きて机の上に突っ伏していました。どうやら勤勉さのすべてを使い果たしてしまったみたいです。
 わたしが席に戻ると新山さんは待ってましたとばかりにわたしに話しかけました。周りを気づかってか、必要以上に小さな声でした。
「竹折さんって、数学得意?」
「得意では、ないけど」
「そうなんだ。……あの、私、数学は得意で、その、だから、もし分からないところがあったら、力になれるかもって思ったんだけど、あ、もし迷惑だったらごめんね。別に、竹折さんが数学苦手だって言いたいわけじゃなくて」
「うん。ありがとう。それじゃあ、教えてくれる?」
 わたしが問題集を開き、さっきまで格闘(とは呼べないほどの一方的な戦いでしたが)していた問題を指すと、新山さんは表情を輝かせました。椅子を寄せて、わたしと肩が触れ合うほどの距離まで近づきます。わたしに勉強を教えるのが楽しくてしかたがないのでしょう。新山さんの純真な好意を利用しているようで、わたしは少し罪悪感を覚えましたが。
「あ、そこのところ、オレも分からなかったんだ。どうやって解くの?」
「僕も。ついでに」
 隣の机から男子が二人やって来ました。彼らも同じクラスの人で、わたしも何度か授業で同じ班として一緒に活動したことがあります。椅子を持ってやって来て、わたしたちのそばに座ります。なるほど、彼らは新山さんが目当てなのでしょう。
 よくよく考えてみれば、この机で勉強をしている面子というのはオールスター、四天王級に人気のある人たちばかりです。今は居眠りをしている戸野くんも、さきほどから声をかけたそうに女子が何度も机の周りを通り過ぎているのが分かりました。
 わたしはやって来た男子二人と新山さんとの間をなるべく邪魔しないようにしていたのですが、意外にも新山さんは男子二人にかなり冷たい視線を送っていました。自分に好意を寄せる人たちに対してそこまで冷たくなれるのはある意味すごいことです。そのせいか男子二人はずっとわたしの方に身を寄せていましたし。
 わたしが分からなかった問題の解説を一通り終わらせ、雑談に持ち込もうとした男子を追い払ってから新山さんは溜息をつきました。わたしの耳元で、さらに声を絞って言いました。
「ほんと、あんなのばかりで嫌になる」
「新山さん、人気なんだね」
「……え?」
 信じられない、という顔でわたしのことを見ました。それ、本気で言ってるの? と言いたげな顔です。あの、わたしは何か間違ったことを言ったのでしょうか。
「あれって、私目当てじゃないと思うんだけど……」
「そんなことないと思うよ」
 新山さんは可愛いのですから、男子に好意を寄せられても不思議ではありません。わたしはそう思うのですが、新山さんは謙遜ではなく、本気で否定しているようでした。
 新山さんはもっと自分に自信を持って良いのに。だって、新山さん目当てではないのなら、どうしてあんな風に男子が話しかけてきたりするのでしょうか。
 恐れ多くも新山さんはわたしに対して好意を寄せてくださっているということですから、それ以外の他人の好意に対して鈍感になっているのかもしれません。



 夕方になり、図書室が閉まる時間になったので、わたしたちは下校することになりました。玄関で靴を履き替え、校舎の外に出ます。太陽は傾き昼間と比べれば幾分か過ごしやすい気温になっていました。蝉がジンジンと鳴いているのが聞こえました。
「おー、涼しい」
 外に出た戸野くんが言いました。彼の言うとおり、夕方の心地よい風が吹いています。
「あー疲れた。今日はもう勉強したくない」
「俊一ずっと寝てたじゃん」
「スタートダッシュかけたらすぐに力尽きた」
「駄目じゃん」
「短距離型なの」
 そう答えて戸野くんは大きく伸びをしました。
「あ。そうだ。竹折さんって、夏祭り行く?」
「夏祭り?」
 聞き返しながら、わたしは宗方さんの顔をうかがいます。
「今のところ、予定はないけど」
「じゃあさ、一緒に行かない? テスト終わった後の土曜日なんだけど。あの、毎年神社でやってるやつね」
「いっつもあたしと一緒に行ってたくせに」
「何だよ。竹折さん誘ったら悪いのかよ」
「そんなこと、言ってないけど」
 宗方さんはぼそぼそと答えました。
 いつの間にかわたしの隣にいた新山さんが、それを聞いてにっこり微笑みます。
「私も、毎年行ってるんだよ。浴衣着て。竹折さん浴衣持ってる?」
「持ってない」
「じゃあ貸す! 祭りの日はうちに着て。サイズ、どうかなあ。竹折さん背が高いから、私の浴衣だと少し小さいかな」
 嬉しそうに言います。今さら「浴衣を着るのが面倒だ」とはとても言えません。いえ、むしろ「夏祭りに行くのが面倒だ」と言いたかったのですが、すでに手遅れのようでした。我ながら主体性がありません。
 石館くんは会話に加わりませんでしたが、みなさんの様子を見ていると、どうやら彼も含めて毎年夏祭りに行っているようです。そんな集まりにわたしなんかが誘われて、果たして大丈夫なのでしょうか。
「浴衣か……。楽しみだな」
 ぽつりと、戸野くんがつぶやきました。
「あー、浴衣ね。あたしも今年は浴衣着ようかな」
 独り言のように宗方さんが言います。
「燈子ー、あたしにも浴衣貸して」
「う、うん。いいよ」
「新山さんは毎年浴衣を着てるの?」
「うん。浴衣とか、好きなの。初詣のときは着物着るし、クリスマスのときはサンタクロースの服着るし」
「本格派なんだ」
「あー、去年のクリスマス会のやつね。アレはびっくりした。さすがの俺も」
 戸野くんは苦笑いを浮かべました。
「ふん。あんた思いっきり喜んでたじゃん」
「だって似合ってただろ? なあ真斗」
「俺に振るな」
「……というか新山はなんであんな服持ってたんだ?」
「石館くんが好きそうだったから」
「石館くんはサンタ服が好きなんだ」
 石館くんはぎょっとして新山さんとわたしのことを見ました。違う、と短く言って、ゆるゆると首を振りました。
「嘘吐けー。お前、テンション上がってたじゃん」
「あれは、クリスマスだからだ。そういうイベントのときにテンションが上がるのはおかしいか? 普通じゃないのか? 俺がサンタクロースの衣装にテンションが上がったのは事実だが、あくまでそれは、クリスマスというイベントの一部だからであって、別にサンタクロースのコスチューム自体に何か思うところがあったわけじゃない」
「……何でムキになってんの?」
 宗方さんが聞くと、石館くんはしまったという表情を一瞬だけ見せて黙りこんでしまいました。
 うん。もしかしたら、意外と、石館くんはサンタフェチなのかもしれません。あるいは新山さんのサンタコスがよっぽど魅力的だったのか。新山サンタを想像してみましたが、なるほど、彼女の愛らしい姿に石館くんがノックアウトされても不思議ではありません。
「もし良かったら、今度はわたしがサンタクロースの服を着て見せようか?」
 わたしが言うと、石館くんはこちらをちらりと見ただけで何も答えてくれませんでした。と同時にわたしは猛烈に後悔しました。少し調子に乗りすぎたのかもしれません。普段、いいようにあしらわれている石館くんへのささやかな反撃のつもりだったのです。
「それじゃ、クリスマスになったら私の服、貸してあげるね! どうしようかなー、竹折さんがサンタだから、私はトナカイの着ぐるみでも着ようかな」
 新山さんは無邪気にはしゃいでいましたが、サンタの服やトナカイの着ぐるみを一体どこから手に入れているのか、気になるところです。
 繁華街の手前で石館くんと戸野くんが離れ、駅へ向かう宗方さんと別れ、わたしと新山さんの二人だけになりました。
 新山さんはしばらく黙って隣を歩いていましたが、唐突にわたしに言いました。
「竹折さんって、石館くんと何かあった?」
「どうして?」
 反射的に答えてから、自分の心臓が跳ね上がりました。我ながら上手い返しだったと思います。何気なく返事をしてから、わたしは必死で自分の心を落ち着かせようとしました。
「だって、竹折さんがああいうこと言うのって珍しいよ」
「そうかな。わたし、人をからかうのって好きだよ」
「本当に?」
「うん」
 新山さんはわたしのことを見ていました。心が読めません。
「じゃあ、私のこともからかってよ」
「え?」
 いや、突然そんなことを言われましても……。
「…………新山さんって体育の着替えのとき、他の女子の着替え見て興奮したりするのかな?」
「私そんな女に見える?」
「すみませんでした」
 少しギリギリを狙いすぎたかもしれません。
「でも竹折さんの下着を見たときはドキドキした」
「…………」
「あのごめん引かないで」
 新山さんが慌てて言いました。遅くまで図書館に残っていたせいで、辺りに人影はまばらです。二人きりになってしまったのは、ちょっと迂闊だったかもしれません。
「まあそんなことはどうでもいいんだけど」
「いいんだ……」
 まあ石館くんとのことが完全に吹っ飛んだのは喜ばしいことではありますが。
「竹折さん、すごく良い人だよね」
「え?」
「惚れそうなくらい良い人」
「う、うん……」
 とりあえず肯定します。
「でもね、世界中のみんなが竹折さんみたいに良い人ってわけじゃないの。だから、無垢で純粋なのは良いけど、そればっかだと傷ついちゃうってこと」
「石館くんのこと?」
「近いけど違う。この間、体育の授業のときに、竹折さんがボールを当てられたことがあったでしょ?」
「でもあれは当てられたんじゃなくて、事故だよ」
「当てられたのよ。あの子、石館くんのことが好きなんだろうね。竹折さんと石館くんが仲良くしてるのを見て、良い風に思わない子もいるってこと」
 わたしは曖昧に笑いました。まさか、そんな馬鹿な。しかし新山さんの真剣な表情を見て、わたしは背筋に冷たいものが走りました。それが真実だとしたらわたしはとんでもない状況に陥っているのではないでしょうか。気がついたときにはすべてが手遅れになっていたのです。
 新山さんは、続けてぽつりと言いました。
「でも大丈夫。竹折さんは私が守るから」
 じっと、わたしのことを見つめます。
「――あなたのことを、愛しています」
「ありがとう」
 わたしは作り笑いを浮かべて、新山さんの告白に答えました。



 その日の夜遅く、石館親子が我が家にやって来ました。例によって、二人が来ることはわたしが帰宅したとき初めて聞かされたのですが、どちらにしろ試験勉強に手一杯であまり豪華な食事は作れなかっただろう、と思います。
 野菜と豚肉を適当に炒めたものと、漬け物と、卵と油揚げの味噌汁、に冷蔵庫の残り物を適当に追加した、実にやる気のないメニューです。
 奈緒さんは美味しいと言ってくれましたが、もう少しだけわたしに時間と気力(とほんの少しの財力)があれば、あんな似非フルコースには負けないほどの料理を見せつけられたのに、と悔やんでも悔やみきれません。と言うほどには悔しくはなかったのですが。なぜでしょうか。試験勉強のしすぎで感情が消えかかっているのかもしれません。
「美味かった。ありがとう」
「ほんと、乃美子ちゃんの料理は美味しいわ。今度、私に料理、教えてよ」
「人に教えられるほどのものではありません」
「また乃美子は謙遜して」
 お父さんはそう言って笑いましたが、わたしは別に謙遜で言ったのではなくて、奈緒さんに今さらわたしから教えられる技術もレシピもないだろうと思うのです。
 夕食の後、食器を片付けてからわたしは食卓に番茶を出しました。お父さんと奈緒さんは話に花を咲かせていましたが、わたしはテスト勉強があるのですぐに辞退しました。
 部屋に戻り机に向かってノートを広げたところで部屋に石館くんがノックもなしに入ってきました。もはや遠慮も躊躇もありません。
「テスト勉強か?」
「そのつもりだけど」
「真面目なんだな」
「不真面目じゃないよ」
 ふうん、と言って、石館くんはわたしのことを見ました。彼は持っていた黒い手提げ鞄を床に置くと、中から英語の教科書を取り出しました。
「それじゃ、俺も付き合うよ」
 それからしばらく、わたしと石館くんはそれぞれの試験勉強を無言で続けました。最初のうちは、自分の部屋にある他人の存在が気になって仕方がなかったのですが、馴れてくると、その存在がちょうど良い緊張となって試験勉強を続けるための枷となるのでした。教室で勉強がはかどるのと同じ原理でしょう。
 新山さんに言われたことが頭をよぎりました。
 クラスメイトたちが普段のわたしと石館くんの関係を見て「仲が良い」と嫉妬するなら、現在部屋で二人きりのこの状況を見せたら卒倒してしまうのではないでしょうか。
 うん、これはますます、石館くんとのことは秘密にしなければなりません。わたしはひっそりと、こっそりと、静かに生きていたいのです。知らぬ間に石館くんへのガードが下がっていたかもしれません。これからはもう少し慎重に生活する必要があるでしょう。
 問題を解くのに疲れて、わたしは石館くんの様子をうかがいました。彼はあぐらをかき、うつむいて静かな寝息を立てていました。
 何度か声をかけましたが、一向に起きる気配がありません。
 わたしは石館くんに近づくと、彼の鼻を摘みました。
「…………………………んがっ!」
 すごい声を上げて石館くんが目を覚ましました。それを見て笑いを堪えるわたしです。――ああっ、ついさっき慎重に生活する必要性を認めたばかりなのに、またやってしまいました。石館くんの隙を見るとついつい悪戯心がわき上がってしまうのです。あるいはお父さんを取られたことに対する復讐なのかもしれませんが、どちらにしろみっともないことはなはだしい動機です。
「……なんでお前が落ち込んでるんだよ」
 寝顔を見られ、あまつさえ悪戯されて起こされた石館くんが、微かに顔を赤くして言いました。



 二週間後。
 試験の全課程が終わり、順次答案が返却されました。
 わたしの数学の成績は決して芳しくはありませんでしたが、真面目に勉強をした成果か、とりあえず大半の教科で平均点の前後に留まることに成功しました。補習もありません。他のみんなも、なんとか踏みとどまったようです。意外にも石館くんがかなり苦戦していたようでしたが。
 何はともあれ、こうして一学期が終わりました。
 夏休みが始まります。
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