月には白のおまじない

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05.広がる世界

 季節はすっかり梅雨を迎え、じめじめとした空気に晴れるのか雨が降るのか分からない中途半端な空模様が続き、気温はじわじわと上がり始めて冬服では少し暑いと感じる日も増えてきました。
 石館くんたちと仲良くなってから一ヶ月近くが経ちました。わたしの周囲はすっかり落ち着きを取り戻してしまいました。最初こそ、仲良くしてくれる宗方さんや戸野くんたちのことを申し訳なく思い、わたしの孤独である時間が侵略されていることに圧迫感を覚えていたのですが、そんな状況が一ヶ月も続けばそれが普通になってしまいました。最初のころは毎日が憂鬱で、何かが起きるたびに動揺し不安に駆られていたのですが、感覚が鈍化したのでしょうか、今はもう何も感じなくなってしまいました。何となく、感覚が鈍化していることに危機感を覚えないでもないのですが。
 とはいえ、脳天気に安寧な日々を送っていた愛しき孤独な日々と全く同じ精神状態というわけにはいきません。悩みは尽きませんし、些細な出来事、会話が、その都度わたしを不安にしてかき乱します。というか、石館くん戸野くん宗方さん新山さんそれぞれに関してわたしは重大な悩みがあるのです。が、今のところそれは棚上げして、わたしお得意の先送りによって、徐々に悪化する未来と引き替えに現在の刹那的な安心を買い占めているところです。自分でも何がどうなっているのかよく分かっていませんし、考えないことにしています。
 そもそも現実を直視したところで現実がどうにかなるわけではないのです。だったら現実なんて見ないふりをして騙し騙し生きていく方がずっとマシなのです。何だか自分がとんでもなく駄目な方向へシフトしているような気がしますがきっと気のせいではありません。自覚していますが、まあとりあえず、この問題は先送りすることにしましょう。
 にしても……。戸野くんは本当にわたしのことが好きなのでしょうか。今のところ宗方さんの思い過ごしであるように思います。確かに宗方さんは誰よりも戸野くんのことを見ているのでしょうが、恋は盲目とも言いますし、戸野くんへの好意が宗方さんの目を曇らせている可能性は決して低くはないでしょう。戸野くんがわたしに優しくしてくれているのは事実ですが、それにしたって別に好意というわけではなくて、単に友達のいないネクラオタクメガネであるわたしのことを哀れんで、お情けでつきあってくださっているだけなのです。戸野くんは正義感の強いさわやかな青年ですから、学級委員よろしく、クラスに孤立した生徒がいると放ってはおけないのでしょう。
 その日の朝、登校して教室に入ると、戸野くんが大声でわたしに声をかけてくれました。クラスメイトの何人かがじろりとわたしの方を見ます。朝から騒がしいのがあまりお気に召さないのかもしれません。
「おはよう。今日は久しぶりに晴れたな」
「そうだね」
 鞄を机の上に置いて、中の教科書を取り出しながら答えました。戸野くんが、さりげなくわたしの机の前に立ちます。戸野くんの言うとおり、今日は久しぶりの晴天です。明け方まで降っていた雨は止んで、わたしが家を出たころには白い雲の隙間から太陽が覗いていました。
「そういえば、今日は園芸部ないよな?」
「うん」
 「園芸部ないよな」という言葉の意味が「本日は園芸部の活動日ではなくかつ竹折乃美子が積極的に園芸的な活動に勤しむ予定があるわけではない」である限りにおいては肯定の意味でうんである。略して「うん」。日本語というのはとっても省略された言語ですね。そして戸野くんのその切り出し方からはとても嫌な予感がします。わたしの嫌な予感はいつも当たるのです。最近は嫌な予感がすっかり日常化してしまって感覚が麻痺しています。
「そんじゃ、今日の放課後どっか行かね?」
「いいよ」
 半ば確信犯的に、わたしは反射的に頷きました。戸野くんの表情が何となく緩んだような気がしたのはわたしの先入観のせいではないでしょうか。
「どこに行くの?」
「うーん、特に決めてないけど。映画でも見に行く?」
 それは高校生にしてはずいぶんと分不相応な遊びではないでしょうか。高校生だけで映画だなんて、怒られたりしないのでしょうか。いえ、買い食いとカラオケさえ許されたのです、高校生が映画館に行くことを誰が止められるでしょうか。
「誰か他に誘う?」
「んー。今のところ何も考えてないけど。それじゃ、誰か適当に誘っておくよ」
 話は終わったと言わんばかりに戸野くんがわたしの席から離れようとします。そのときわたしは、自分の席でこちらを見つめている宗方さんの視線に気がついて、戸野くんのことを慌てて呼び止めました。
 わたしは宗方さんに言います。
「あ、あの、映画の話をしてたんだけど、宗方さんも一緒に行かない?」
「え、あ、あたし?」
 突然誘われたので、宗方さんは少し動揺していました。動揺していたのは彼女だけではありません。わたしだって、クラスメイトを映画に誘うだなんて、そんな恥ずかしいことをしたせいで首筋の汗が止まりません。体から火が出ています。なんてはしたない。淑女なら、もっと優雅に、緩やかに、お誘いするべきだったのではないでしょうか。いっそ招待状でも書きましょうか。
「う、うん。あたしも、映画行きたいなー。なんて」
「お前も来るのかよー」
「別にいいじゃん」
「私も行くよ」
 新山さんが一方的に宣言しました。断わる理由を思いつけなかったのか、戸野くんもしぶしぶ頷きました。
 わたしの目論見が成功して、少し調子に乗っていたのかもしれません。あるいはわたしが誰かを誘って、その誰かが誘いに乗ってくれるという、コミュニケーションの成功がわたしを浮かれさせていたのかもしれません。
「い、石館くんもどうっ?」
 今日の石館くんはいつもよりことさら機嫌が悪く、自分の机に突っ伏して腕をとぐろのように巻いていました。石館くんは頭をゆっくりと持ち上げると、わたしと、その後ろにいる戸野くんたちのことをゆっくりと眺めました。
 石館くんに声をかけてから三秒以内にわたしは後悔を始めていました。反省していました。いたたまれなくなって後ろを見ると、戸野くんも、宗方さんも、新山さんも、どうしてそんなことをしたのか信じられないといった表情でわたしのことを見ていました。
 そうなのです。彼らからすれば、わたしが石館くんを誘う必然性なんて、これっぽっちも存在しないのです。いえ、必然性の話をすれば、戸野くんとも宗方さんとも新山さんとも、こちらからお誘いする道理なんて存在しないのですが。しかし百歩譲れば、一度は一緒にカラオケを行った仲ですし、次に一緒に映画を見に行こうというときに、再びあのときのメンバーをそろえるのはまだ自然な行為でしょう。
 わたしと石館くんは何度か顔を合わせていますし、自分の部屋に招いたこともあります。なので、戸野くんたちを誘ったのならついでに彼も誘ってしまえ、という軽い気持ちでお誘いしただけなのですが。
 とんでもないことをしてしまった、と頭の中で警鐘が鳴り響いていました。わたしと石館くんが兄妹になって、一つ屋根の下で暮らすことが皆に知られるなんて、考えただけで恐ろしいです。淑女失格というか、それ以前に女子高生失格です。
 そんなことが頭の中を駆け巡り、わたしがおろおろしていると、石館くんが小さくぼそりと言いました。何と言ったのか聞き取れず、わたしは聞き返します。
「あの」
「いいよ」
「え?」
「映画」
「あ、うん」予想外の返事。何を言うべきか、頭の中がいささか混乱。「映画、好きなんだ」
「いや、好きじゃない」
「じゃあ何で?」
「誘われたから」
 そこで石館くんは小さくあくびを噛み殺しました。
 そこで予鈴が鳴って、戸野くんや宗方さんや新山さんの疑問をうやむやにしたまま、わたしは自分の席に戻りました。
 何とかしのいだ、とほっと息を吐いていると、クラスメイトの刺すような視線に気づいて、そのわけに思い当たるまで、わたしは自分の席で身を小さくしていました。



 三限目は体育の授業です。体育の授業なので、体操服に着替えなければなりません。我らが広崎高校は四年前に体操服のデザインが変わり、それまでのブルマから近代的なショートパンツに進化を遂げました。わたしはブルマが嫌いではありませんがそれはあくまで鑑賞の対象としてであって、自分でそれを穿くのは望ましいとは思えません。ブルマというのはただの運動着なので、それに対して邪な連想をしてしまうわたしの方が間違っているのだと思いますが、人は自らの価値観を自分の意志で簡単に変えることはできません。
 女子は更衣室に移動して体操服に着替えます。更衣室には人間の体臭が染み付いていて、わたしはこの場所がどうしても好きにはなれません。
 クラスメイトに体を見られるのが恥ずかしくて、わたしは素早く着替えました。下着姿のまま友達と会話をしている彼女たちのようには、どうしてもなれません。わたしの体は、同級生の目にさらせるような大したものではありませんし。
「わ。竹折さん、着替えるの早いね」
 体操服の背中に入った髪の束を両手ですくい出して、畳んだ制服の上に置いてあった眼鏡をかけました。それまでぼやけていた世界がくっきりと輪郭を取り戻します。
 ブレザーの上を脱いだ新山さんが、ショートパンツにブラジャーという官能的な格好でわたしの隣に立っていました。どうしても新山さんの豊満なバストに目が行ってしまいます。栗色の、緩やかにウェーブした髪の毛先が胸の上にかかっています。高校生らしからぬ、うらやましい限りの体です。
 しかし更衣室で着替える他の同級生たちの体を眺めると、新山さんの発育が特別に良いというわけではないことに気がつきます。単にわたしを基準にするのが間違っているだけでしょう。貧相でごめんなさい。
「ほら、さっさと行こうよ」
 宗方さんの着替えも割と早い方で、新山さんが体操服を着るのを待ちながらその場で落ち着きなく体を動かしていました。体を動かしたくて仕方がないのでしょう。それとも、今日の授業がバレーボールなので張り切っているのでしょうか。
 体育館に移動して、ポールを立てたりネットを張ったりします。女子が使えるのは体育館のステージ側半分だけで、もう半分は男子がバスケットボールをするのに使います。緑色のネットのカーテンで、体育館が二つに区切られました。
 チャイムが鳴りバレーの準備が整うと、青いジャージ姿の千田先生が前に立ち、みんなを出席番号で整列させます。
 わたしは体育があまり好きではありません。休日はほとんど家を出ない超インドア系マンガメガネのわたしにとって、体育の授業はあまりにもハードルが高いのです。
 準備運動が終わってから、わたしたちは先生が割り振ったチームごとに試合を始めます。新山さんや宗方さんとは別のチームになってしまいました。まあ、一緒のチームになったところで、わたしの精神的負担は一ミリも変わらないのですが。
 運動が苦手である以上にわたしは団体行動が苦手なのです。そもそもコミュニケーションに深刻な障害を抱えているのです。おまけに根暗だし臆病者で、わたしみたいな人間と一緒にスポーツをしなければならないチームメイトの方々には同情を禁じ得ません。そういう負い目があるせいで、彼女たち以上にわたし自身もスポーツを楽しむことができないのです。
 どうして日本の体育教育はやたらと団体行動を強制するのでしょうか。学校を卒業して大人になれば団体で運動をすることなんてないのに。せいぜい休日にジムに行って一人で運動をするくらいでしょうに。だったら体育の授業はマラソンとか縄跳びとかウェイトトレーニングとか、個人で好きにペースを配分できるものだけにすればいいのです。
 試合が始まりました。ネットを挟んで向かい側のチームの選手がサービスを行います。ポン、と音を立てて跳ね上がったボールが、弧を描いてこちらのコートに落ちてきます。前で守っていたクラスメイトが、そのボールをレシーブで上げました。とりあえず、自分のところにボールが回ってくることがなさそうなので、わたしはほっと息を吐きました。
 こういった団体球技では、とにかく自分の所にボールが来ないことを祈るばかりです。しかしさすがに試合中ずっと同じ場所に立っているだけではチームメイトのみんなの心証も悪いですから、適度に動いて、試合に参加する振りをしながら、その実ボールが来ない場所を必死に探しているわたしです。
 試合は一進一退を繰り返していました。所詮は女子の体育ですから、レベルはそれほど高くはありません。そんな中で、やはりバレー部に属している人たちは一際目を引きます。特に宗方さんは、隣のコートでスパイクやらブロックやら、跳んだり跳ねたりしながらコートの中を縦横無尽に駆け回っていました。ほとんど宗方さんのワンマンチームです。
 対するチームの中に新山さんがいました。宗方さんほどの運動能力はありませんでしたが、要所要所でチームの隙間を確実に埋めているようです。
 ぼんやりと、二人の凛々しい姿を眺めてしまいました。あんな風になれたらどんなにいいでしょうか。友達が多くて、勉強もできて、可愛いし、スタイル抜群、運動神経も良く、チームの人たちが彼女たちに尊敬の眼差しを送っているのが分かります。
 あんな風に一目置かれる存在になりたいと何度妄想したことか。そのたびに、わたしみたいな人間には過ぎた理想であると、その妄想は妄想のままで、心の奥に押しとどめてきたのです。
 ほとんどボールには触っていないのに、少し体を動かしただけで息が上がります。体を動かすと、髪の毛の重さが体にのしかかります。背は、それほど低くはありません。中学時代、お父さんには運動部に入ることを勧められました。わたしの背が平均よりも幾分か高かったからです。今でも、クラスの女子たちよりも頭半分ほど飛び出しています。
 もしわたしが、団体行動への苦手意識やコミュニケーション能力の決定的な欠如を乗り越えて、中学時代にバレーボール部に入っていたら。今のわたしは、宗方さんや新山さんのような人間になっていたのでしょうか。
 そうやって、試合中にぼんやりしていたのがいけなかったのです。
 ダン! と、ボールの叩き付けられる音がしました。慌ててそちらの方を向きます。今は相手チームにサーブ権が渡っています。
 前を向いたとき、相手チームが放ったスパイクサーブが、わたしの目の前にありました。
 ガーン! と頭の中で衝撃が反響しました。鼻の付け根が痛かったのは、ボールが眼鏡を直撃したからです。わたしの顔の皮膚が、ボールの皮のざらつきを確かに感じ取っていました。衝撃は熱さに変わり、じん、と皮膚の下まで浸透します。
 さらに強い衝撃を受けて頭がくらくらしました。気づくと、わたしは天井を見上げています。背中が冷たい。視界が歪んでいる。ひび割れ。とにかく顔が熱かったのが印象に残っていました。じん、じん、じん……熱は、顔から全身に伝播します。
「竹折さん!」
 それは誰の声でしょうか。
 心配をかけないように、わたしは慌てて立ち上がろうとしました。しかし仰向けに倒れた状態からどうやって立ち上がればいいのか分からなくて、しばらく床の上でもがいていました。すぐに記憶を取り戻して、コートに手を突き膝を突き、わたしは立ち上がります。
 宗方さんが心配そうにわたしの顔を覗き込んできました。
「大丈夫? 今めっちゃぶつかったけど」
 大丈夫だと答えようとして、ボールの直撃を受けて眼鏡が破損していることに気がつきました。眼鏡を手に取ると、フレームの部分が派手に曲がり、レンズに罅が入っていました。ああ、なんてこと。今日の授業は眼鏡なしで受けなければいけない……。
「ちょっと! 今のわざとやったでしょ!」
 宗方さんが大きな声で相手チームのサーバーを非難しました。宗方さん、それは違うのです。ぼんやりしていたわたしが悪いのです。わたしが鈍くさいのがすべて悪いのです――。
 慌ててそう弁解しようとして、わたしの顔にぬるりとした、液体の感覚が走りました。それが妙にこそばゆくて、顔に手を当てて指で軽く掻きました。
 眼鏡がなくても、わたしの指先が真っ赤になっているのが見えました。そのときにやっと、鼻腔を満たしている液体が鼻水ではなく鼻血であることに気がついたのです。
「竹折さん鼻血出てる! 上向いて、ほら」
 新山さんが、わたしの顔を優しく上に向けます。体育館の天井が見えました。規則正しく立体的に鉄骨が走っています。鼻の中では、喉の方へどろりとしたものが流れてゆきました。
 騒ぎを聞きつけて先生がやって来ました。体育館の反対側では、バスケットボールをしていた男子たちが、手を止めてこちらを見ています。どんどん大事になっていくのが怖くて思わず立ち去ろうとしてしまいましたが、歩き出そうとしたわたしの腕を新山さんががっちり掴んで離してくれませんでした。
 体育館の向こう側では戸野くんがバスケットボールを床に置くと、ネットをくぐってこちら側に駆け寄ってきました。上を向いて鼻血を堪えているわたしの顔を見ます。
「おい、大丈夫か? 保健室連れて行くぞ?」
 わたしが何も答えないのに、戸野くんは新山さんからわたしの腕を奪って、わたしに肩を貸して歩き始めます。わたしの手に戸野くんの肩の感触がありました。すぐそばには戸野くんの横顔や吐息があるのです。男の人とこんなに接近したのは初めてで、自分が汗臭くないか不安になりました。
 しかし次に考えたのは宗方さんのことでした。足を止めて後ろを振り向くと、宗方さんが呆然と、わたしと戸野くんのことを見ていました。ズキリ、と胸に不安が刺さりました。宗方さんはわたしのことをどう思っているのでしょうか。わたしのことを、戸野くんを奪った泥棒猫とでも思っているのでしょうか。優しい宗方さんのことを考えると、その可能性はわたしの心をぎりぎりと締め付けました。
「い……いいからっ! ひとりで行けるからっ!」
 強引に戸野くんの体を振りほどいて、わたしは一人で歩き出しました。頭がくらくらとして足下がぐにゃりと歪んでいましたが、なるべく大丈夫そうに見せようと、一歩一歩を力強く踏み締めました。
 体育館の扉を開いて――まったく、なんて重い扉だ! 分厚い鉄の引き戸を、全身を使って開くと、わたしは廊下に滑り込みました。後ろ手にドアを閉めようとして、力が出なかったので諦めます。
 保健室に向かって歩いていると、徐々に体の調子が戻ってきました。目眩がひどかったのは、血液が不足していたりとか脳にダメージが残っていたりとかそういう物理的な理由ではなくて、単に突発的な事故で精神的に動揺していたのが原因なのかもしれません。
 授業中の人気のない廊下を歩いていると、わたしの隣に誰かが並びました。
 どきりとしてその顔を見上げると、石館くんが不機嫌そうな顔でわたしのことを見ていました。眼鏡は壊れていましたが、さすがにこの距離なら表情を読み取ることが可能です。
「い、石館くん……」
「保健室、連れて行くよ」
「大丈夫だって」
「いいから」
 有無を言わさずに、石館くんはわたしを先導します。肩を貸すとかではなくただ隣を歩くだけならいるのもいないのも変わりがないじゃないかとわたしは思いましたが、石館くんが不機嫌そうだったので黙りました。わたしに面倒をかけられて迷惑だと思っているのかもしれませんが、だったらわたしのことなんて無視して体育館でバスケットボールの続きをやっていれば良かったのに。そんな不機嫌な顔で隣にいられるとわたしだって迷惑です。ということは怖いのでもちろん言いません。ついこの間わたしの家でせっかくそれなりに仲良くなれたのに、わたしへの好感度に水を差すようなことはしたくありません。
 ろくに会話もしないまま、わたしたちは保健室に入ります。石館くんが保険医の先生に事情を説明します。わたしは鼻血をティッシュで拭いた後、保険医の先生にベッドで横になるよう指示されました。鼻に詰め物を入れる姿を石館くんに見られなかったのは幸いでした。彼はわたしを送り届けると、そそくさと保健室を出て行きました。



 ……ベッドの上で、しばらくうとうとしていました。
 鼻血くらいで大げさな。体育の時間が終わったらすぐに教室に戻ろう――と考えていたのですが、ふと気を緩めると、体育の時間はとっくに終わり、もうすぐ昼休みという時間でした。わたしは体を起こします。鼻の詰め物を取ると、血はすっかり止まっていました。
 問題は眼鏡です。すっかり粉砕されてしまいました。窓の外が見えません。こんな調子で、教室のわたしの席から黒板の文字が読めるとは思えません。
 カーテンを手で少しめくり、保険医の先生を探しましたが、どうやらどこかへ出かけているようです。保健室にたったひとりだけでした。
「静かだ……」
 独り言を呟くと、その声がびっくりするほど大きくわたしの耳に響きました。しかし声はすぐに吸い込まれて、代わりに風が窓を揺らす音や、遠くの教室で椅子や机をガタガタと鳴らす音が聞こえました。
 妙な感じです。
 みんなは普通に授業を受けているのに、わたしひとりだけがベッドの上でぬくぬくしているのです。
 本当なら、すぐに教室に戻るべきでしたが、今から戻っても十分ほどしか授業を受けられません。どうせなら昼休みから教室に復帰した方がいいでしょう。それに保険医の先生に何の断りもなく出て行くのは少し気が引けます。……と、自分を正当化しました。乃美子は悪い子です。
 ただひたすら耳を澄ます時間はあっという間に過ぎて、昼休みを告げるチャイムが鳴りました。それをきっかけに廊下には足音と話し声が溢れます。まるで波のように、学校中に広がりました。
 わたしはそれをぞくぞくしながら聞いています。
 意味のないことをしている自覚はありましたが、どうしてもこのコンサートから耳を離すことができなかったのです。
 ピッチの早い足音がすぐそばの廊下で鳴りました。予想外にもその足音は保健室の前で止まり、ノックの後に保健室の戸が開きました。先生の不在を来訪者に教えようと、カーテンをめくって顔を出しました。
「竹折さん」
 女の子が言いました。その声で、彼女が新山さんであることを確信しました。新山さんは続けて言います。
「竹折さん、大丈夫? 怪我は?」
「もう治ったよ」
 わたしは苦笑しました。みんな、そろいもそろって大げさなんですよ。
「教室戻る? まだ寝てる?」
「ん。戻る。お腹空いた」
「真琴も心配してたよ。……眼鏡は?」
「壊れちゃった」
「ちゃんと見える?」
「新山さんがぼやけてるよ」
「眼鏡のない竹折さんも可愛いわ」
 突然そんなことを言われたので、わたしは何も言い返せませんでした。
「四時間目の地理、あとでノート見せてあげるね」
 新山さんはわたしに腕を貸そうとして、しかしわたしが自力で立ち上がったのを見て腕を引っ込めました。新山さんの様子があまりに深刻そうで、わたしは思わず笑みを漏らします。いいえ、失礼だということは分かっていたのですが、こらえることができなかったのです。
「あー、何よ。心配したのに笑うことないじゃない」
「ごめんごめん」
「もしかして竹折さん、怪我馴れてる?」
「なに? 怪我馴れてるって」
「スポーツやってたとか」
「やってたらあんな怪我しないよ。おかげで眼鏡はレンズもフレームも壊れちゃった」
 わたしたちは笑いながら保健室を出ました。
 教室に戻ったわたしのことを、戸野くんと宗方さんが囲みます。自分の席から、石館くんもこちらを伺っていました。眼鏡が壊れているのでみなさん輪郭が曖昧です。
 他人の心配や気遣いは、いつも鎖のようにわたしを縛っていました。そのせいでわたしは身動きが取れず、皮膚に食い込んだ鎖がいつもわたしのことを傷つけていました。
 だけど、たまにはこういうのも悪くない――と、わたしは思ってしまいました。魔が差したのかもしれません。
「竹折さん、何で笑ってるの?」
「笑ってたら、変?」
「んー、変じゃないけど」宗方さんが困った顔で言いました。「なんか、いつも笑ってるのと違う感じがしたから」
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