月には白のおまじない

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04.交差線

 金曜の昼、わたしは駅前で宗方さんと新山さん、戸野くんの三人と落ち合いました。私服の三人は、いつも見ている制服姿とはずいぶんと印象が違います。
 集合場所に一番最後に来たのがわたしでした。待ち合わせの時間に遅れてしまったのではないかと思わず懐中時計で時間を確認します。約束の時間ぴったりでした。単に、三人が早めに来ていただけのようです。しかしそれでもわたしのせいで待たせてしまったことに変わりはありません。わたしの胸の中にちくちくと罪悪感が芽生えていました。
「それじゃ、行こうか。お昼どうする?」
 宗方さんが元気よく聞きました。
「あ、ごめん。お昼、家で食べてきたから……」
 わたしが申告すると、三人の表情が凍り付きました。どうやらカラオケだけではなくてお昼ご飯も一緒に食べよう、というのが今回の集まりの趣旨だったみたいです。たしかに、昼の十二時に集合、というのは少し早い気がしていました。家で食事をしてこなければ、待ち合わせ場所にももう少し早く来ていたと思います。ですが、一般的な高校生が、カラオケのついでにランチを食べるとか、そもそも友達と買い食いをすることだとか、わたしはそういうことについては何も知らなかったのです。大体、こうして平日以外に同級生と会うこと自体が非常に珍しいことなのです。わたしのせいで三人に不愉快な思いをさせてしまったのは事実ですが、罪悪感と同時に、理不尽さに対する不満も感じていました。
「ごめん、みんな。わたしのことは気にしないで。どこかで食べようよ」
「そういうわけにはいかないよ。竹折さんが食べないなら、私も食べない」
 新山さんが非合理なことを言います。その瞳はまっすぐにわたしを射貫いていました。それが少し嬉しくもあり、また恐ろしくもありました。彼女の純真すぎる好意は、わたしには少しエネルギーが強すぎるのです。
 それを聞いて、戸野くんが折衷案を出しました。
「それじゃ、どこかでお昼を買って、カラオケに持ち込もう」
「あそこ、持ち込みオッケーだっけ?」
「いや……前に何度かやったことあるけど、何も言われたことないよ」
「俊一は悪いやつだな」
「お前は小学生か」
「お昼何にする? 一応、近くにマックあるけど」
「私は何でもいいよ」
 新山さんが宗方さんに答えます。戸野くんも、宗方さんの方を見て頷きました。
 わたしたちは駅のすぐ前にあるカラオケボックスを素通りして、その先にあるファストフードの店に寄りました。店内に入り、レジに並んで、順番が回ってくると三人がそれぞれの注文を言いました。普段あまりこういう場所に来ることがないわたしは興味深くその光景を眺めていました。飲食店に親以外の人間と行った記憶はありません。そのせいで、三人が紙袋に詰めた昼食を持って戻ってくるまで、一人になったわたしは何となく心細い思いをしてしまいました。
 店を出ると、駅の方へ引き返し、わたしたちはカラオケボックスの中に入りました。さすがのわたしもカラオケをした経験くらいはありますが、それにしたって、もう何年も前の話です。見る物すべてが新鮮でした。
「どうしたの?」
 新山さんがわたしに聞いてきました。わたしは何も答えずに、小さく左右に首を振りました。少し挙動不審だったかもしれません。内面を他人に読み取られるのは、あまり心地の良いことではありません。わたしはポーカーフェイスを意識しようと思いましたが、なぜか頭に浮かんだのは石館くんの仏頂面でした。
 戸野くんが受付で用紙に記入をし、マイクとリモコンと伝票の入ったカゴを受け取ります。
「206号室だってさ」
「お金は?」
「えーと」
 通路を歩きながら、戸野くんは宗方さんのために伝票の金額を読み上げました。
 通路の左右にずらりと白い扉が並んでいます。くぐもった歌声が通路に流れていました。わたしが歌うときも、あのようにして声が部屋の外に漏れてしまうのでしょうか。歌うときは声の大きさを少し控えめにした方がいいかもしれません。
「割り勘?」
「たりめーだ」
「奢ってよー」
「百歩譲っても竹折さんの分だけだな」
「あたしの分は?」
「死んでも払うか」
「あの、わたし、ちゃんとお金持ってるから……」
 わたしが慌ててそう言うと、新山さんがくすりと笑いました。
「遠慮しなくてもいいのに。ここはひとつ、戸野くんに甘えればいいんじゃないかしら」
「そんなに気を使わなくても」
「いや、でも、竹折さんは無理やり誘われて来ただけなんだし、それに竹折さんとこういうところ来るのは初めてだから、やっぱり俺が奢った方が」
「あんた、何言ってんの?」
 宗方さんが睨み付けても戸野くんは無視しました。戸野くんは真剣な顔でわたしに言いました。
「奢らせてくれ」
「……うん」
 少しだけ躊躇いましたが、わたしは最終的に頷いてしまいます。以前、宗方さんたちに遊びに誘われたときも同様のことが起きました。戸野くんの性格なのか、あるいはわたしのことをお客様として丁重にもてなさなければならないという強迫観念があるのか、彼はなぜかやたらとわたしに親切なのです。わたしはついその親切の裏側というか、実は何か暗い考えがあってわたしに取り入ろうとしているのではないかとマイナスの方へ想像力を働かせてしまいます。
 他人の親切は苦手です。
 もちろん、他人の悪意にも、わたしは弱いのです。
 できれば、わたしのことなど気にしないでいただきたい。わたしのことなんて意識して欲しくないのです。わたしにそれだけの価値があるとは、どうしても思えないのです。
 206号室を見つけてわたしたちは中に入ります。白い壁紙に、薄いピンク色の花びらの模様がありました。部屋の中央に長いテーブルがあり、それを挟むようにして黒いソファが二つ、ドアの正面にブラウン管の画面とカラオケの機械が構えています。
 カゴを持った戸野くんが先に座りました。その隣に宗方さんが。わたしが反対側のソファ、戸野くんの正面に座ると、わたしの隣には新山さんが座ります。
 戸野くんがカゴからマイクとリモコンを出して、テーブルの上に並べます。しばらくみんな、それをじっと黙って見つめていました。モニターからはやかましい広告のビデオが流れています。
「誰か入れろよ!」
 戸野くんが声を上げます。
 結局、先陣を切って歌い始めたのは戸野くんでした。メタルだかロックだかの激しいシャウト系の曲を入れて見事に滑っていました。まだ喉が慣れていないのか、高音の部分や歌詞の早い部分などあちこちで歌えていない場所がありましたが、ぽかんと呆けているわたしたちのことは置いておいて、とにかくテンションを上げて乗り切ってしまいました。
「いやー、どもども」
 顔を少し赤くして、戸野くんがペコペコと頭を下げました。わたしと新山さんが申しわけ程度の拍手をしました。
「俊一さー、めっちゃくちゃ滑ってたよ」
 戸野くんからマイクをぶんどって宗方さんが言いました。戸野くんの曲が終わったことで、新山さんが慌てて曲目のページをめくりました。新山さんの手にはリモコンが握られています。
「うるっせーなー。滑ってるって言うから滑ったみたいな空気になるんだろうがよー」
「あたしのせいにすんなよ。事実を指摘しただけだもん」
「そこは空気読んで言わないの!」
「空気滑らせたの誰だよ」
「いやそこはさー、俺が滑ってるとしてもみんなで盛り上げていこーよそこはさ。カラオケってみんなで盛り上げる共同作業的なアレじゃん」
「あーもうあんたうるさい!」
 宗方さんの入れた曲のイントロが始まって、戸野くんを黙らせるために彼の頭をマイクの柄で軽く叩きました。そのとき、新山さんが次の曲をリモコンで予約して、分厚い目録の本と一緒にわたしのところに回ってきました。
 わたしはそれを受け取ると、そのまますぐに戸野くんの方へ回します。
「歌わないの?」
 わたしの方に顔を近づけて、戸野くんが聞いてきました。わたしはその言葉が聞こえなかったふりをして、返事を考えるための時間を稼ぎます。
「歌うの嫌い?」
「ううん。違うけど」
「なんで?」
「後で歌うよ」
 戸野くんの方へ、リモコンと目録を押しつけました。彼は残念そうに頷きましたが、すぐに気を取り直すとページをめくって次に歌う曲を探し始めます。
 宗方さんが歌っている曲をわたしはどこかで聞いたことがあるような気がしました。サビの部分に差し掛かって、それがテレビで見たコマーシャルの曲であることに気がつきました。「ロデオロンド」という、最近流行りの男性ボーカルの曲です。宗方さんの声量は確かなもので、サビの部分での軽やかな歌声には、原曲とはまた違った良さがあったと思います。
「やー、どもども」
 戸野くんが歌い終わったときと同じように、宗方さんが片手を挙げてペコペコと頭を下げました。わたしと新山さんは惜しみない拍手を送り、戸野くんは不満そうな顔でしたが、渋々とまばらな拍手を送っていました。
 次は新山さんの曲でしたが、戸野くんはすでに曲を予約し終わり、リモコン一式は歌い終わったばかりの宗方さんに回っていました。宗方さんは休む間もなく冊子を猛烈な勢いでめくり始めます。その一方で、戸野くんはさきほど買ったファストフードの紙袋に手を伸ばしていました。
 新山さんの曲はゆったりとしたテンポの、詩的でやさしい調子の曲でした。サビの部分を聞いても何というタイトルの歌だったか心当たりがありません。アニメとゲームの曲ばかり聞いているわたしには縁遠い曲なのでしょう。
 などと、他人事のように考えている場合ではありません。一巡目はパスできましたが、二巡目、三巡目とパスし続ければそれだけみなさんの心証は悪くなりますし、未だ聞かぬわたしの歌への期待は高まる一方です。ハードルばかりを無駄に上げてしまうと、ますます歌いづらくなって、最終的には、詰みます。
 詰みたくないなあ、と思いながら、もう一冊あった曲目の冊子を開いて、わたしが歌えそうで、かつみなさんがドン引きしないようなマイルドなものを探しました。なんとなく聞いたことはあっても、フルコーラスで聞いたことのない曲はパスしました。予想外の転調や語りが入って失敗する可能性を考慮したのです。
 なるべくメジャーで……かつ当たり障りがなく……音程にも無理がなく……歌詞に痛いフレーズがなくて……えーと、えーと。
 わたしはとにかく、みなさんの歌を聴くよりも、自分の曲を探すことを優先しました。
 そして二巡目のわたしの番。新山さんからマイクを受け取って、みなさんがそうしたように立ち上がりました。
「う、歌います」
 マイクを持った状態で、歌う以外の何をするというのでしょう。自分で言っておきながら実に間抜けな宣言だと思いましたが、みなさんはそこまで深く考えずにわたしの言葉で盛り上がってくれました。
「がんばれー!」
 戸野くんの応援が飛びました。そういう応援は無駄にプレッシャーを与えるだけなのでできれば余計なことは何ひとつして欲しくなかったです。黙って目と耳を閉じてソファーの上で丸くなってくれるのが一番わたしにとってありがたい状況なのですが。
 そしてとうとう、わたしは声を上げました。
「…………」
 わたしが出した初っぱなの声は、ものの見事に裏返ってしまいました。



 予想通り微妙な感じの歌になってしまいましたが、みなさんの反応は上々でした。思っていたよりも、悪くなかったです。可もなく不可もなく。みんなの優しさが心に痛かったです。
 四巡目五巡目に至るとさすがにわたしも慣れてきて、新山さんとデュエットしたり、ちょっと際どいアニソンなんかを歌う余裕も出てきました。
 夕方くらいまで歌って、料金を払った分の時間が過ぎてしまいました。最後に戸野くんが盛り上げて、みんなでテーブルの上を片付けたり、お金の徴収をしたりしました。
 会計の前に、戸野くんと新山さんがトイレに立ちます。個室の中に、わたしと宗方さんの二人が残りました。
「けっこう、歌上手かったじゃん」
 宗方さんの言葉には「誰の」という部分が抜け落ちていたので、最初は一体何の話か分かりませんでした。
「わたし?」
「うん」
「そうかな。音、すごく外してたよ」
「最初のあれは緊張してたからじゃない? その後のは普通に歌えてたよ」
「ありがとう。でも、宗方さんも上手かったと思う」
「よく来るしねー」
「戸野くんと?」
「燈子とか。俊一は誘ってもあんまり来ないかも」
 それは意外でした。戸野くんと宗方さんはすごく仲が良さそうに見えたので、わたしはてっきり普段も一緒に過ごしているのだと勝手に思い込んでいました。
「竹折さんを誘うと、俊一も来てくれるんだよね」
「……そうなんだ」
「竹折さんさー」宗方さんは意味もなく曲リストの冊子を開いたり閉じたりしていました。「俊一のことどう思ってる?」
「どう、って?」
 嫌な予感がして、わたしは慎重に訊ねます。わたしの嫌な予感はいつでも当たってしまうのです。宗方さんは何気ない風を装っていますが、わたしのことを注意深く伺っているのが分かりました。
 宗方さんはしばらく黙っていました。やがて意を決したように深く息を吸うと、わたしのことを真っ直ぐに見つめました。
「俊一さ、多分、竹折さんのことが好きなんだと思う」
 まるで抜き身の刃物のような言葉でした。それを受け止めるのはあまりにも危険すぎます。慎重に扱わなければ、わたしの肌はいとも簡単に切れてしまうのです。
 わたしに突きつけられた刃物をどうすればいいか戸惑っていると、宗方さんは自嘲するような溜め息を吐きました。わずかに、笑顔を見せます。
「うん。ごめん。いきなりこんなこと言っても、竹折さんは困るよね」
「……ごめんなさい」
「別に竹折さんが謝ることじゃないじゃん。でも俊一が竹折さんのことが好きってのは、多分本当だよ。あたし、ずっとあいつのこと見てたから、分かるんだ。あいつ、竹折さんの前だとすっごく張り切ってるから」
「そうなんだ」
 いつも賑やかで、わたしに気を使ってくれる戸野くん。戸野くんがそうなんじゃなくて、相手がわたしだから、そうしてくれているのですね。
 なんだかこそばゆい気持ちになりました。誰かに好意を寄せられていると――もしそれが本当なら、それは大変嬉しいことです。が、嬉しい反面、申し訳ない気持ちもありました。本当に戸野くんがわたしのことを好く思ってくれているのなら、わたしのどこを評価してくれたのでしょうか。わたしは彼のような快活で優れた人間の好意を受けるに値するような人間ではありません。それは戸野くんの買いかぶりか、勘違いなのです。
「本当のことを言うとね。竹折さんを誘ったのって、俊一が来てくれるからなんだ。あいつ、あたしが誘っても全然来てくれないから。ごめん。迷惑だったでしょ?」
「そんなことないよ」
「竹折さんって、騒いだりうるさくするの、あんまり好きそうじゃなかったし。無理に誘っちゃってごめんね」
「そんなに戸野くんのことが好きなんだ」
 わたしの質問に、宗方さんは顔を真っ赤にして頷きました。なんと健気なのでしょうか。いえ確かに、戸野くんを誘い出すための餌として連れて来られたわたしはピエロそのものなのですが、そんなことはどうでもいいのです。宗方さんの純真すぎる恋心と、ただただ怠惰なわたしの休日を天秤にかけることはできないのです。
「あ、でも、あたしが言ったのは、内緒にしておいてね」
「どうして?」
「あいつは多分、自分の気持ちは自分の口で伝えたいだろうから」
「もう宗方さんの口から聞いたんだけど」
「あの、それは」宗方さんはしまった、という表情を見せました。「今日聞いたことは、忘れて」
「うん。分かった」
 わたしがそれが面白くて、笑いを堪えながら頷きました。聞かなかったこと、見なかったことはわたしの得意技です。わたしの人生はただひたすら問題を棚上げし続けるだけの人生だったのです。と自慢げに言うほどわたしの人生が波瀾万丈だったわけではありませんが。
 しばらくして、新山さんと戸野くんが戻ってきました。五人で部屋を出て、受付に行って料金を支払います。帰り道、前方を歩く戸野くんと宗方さんが騒がしく話していました。わたしはそれを複雑な気持ちで眺めています。
「竹折さん、どうしたの?」
 わたしの隣を歩いていた新山さんが小声で訊ねます。
「別に何でもないよ」
「なんだか考え込んでいたみたいだから」
「ちょっとね」
 わたしが曖昧に返事をすると、新山さんはそれ以上の事情を聞いたりはしませんでした。代わりに、宗方さんと戸野くんの後ろ姿を見て呟きます。
「二人とも、仲良いよね。夫婦みたい」
 そう言ってくすりと笑う新山さんとは正反対に、報われない宗方さんのことを思うと、わたしの心の中に苦い何かがじわりと広がっていました。
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