月には白のおまじない

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03.言ったり来たり

 あの衝撃的な一連の出来事がきっかけでわたしの学校生活は大きく様変わりしてしまいました。第一に、休み時間は石館くんと戸野くん、もしくは宗方さんおよび新山さんと一緒に過ごすようになりました。基本的には戸野くんたちと宗方さんたちがわたしのことを取り合う形になるのですが、折り合いが付かないときは四人で過ごすことになります。
 今までたった一人で、自由気ままに過ごしていたわたしが、ある日突然、多くの人たちと一緒に過ごさなければならなくなったのです。休み時間よりも、なぜか授業中の方が気分が休まるという異常事態です。
 わたしたちのクラスの中では石館くんたちも宗方さんたちも、クラスの中心的、代表的なグループです。実態はどうあれ、その中に組み込まれた形になったわたしには、普段の何十倍も同級生の方々に話しかけられるようになってしまいました。なんとなく、同級生のわたしを見る目も変わってきたような気がします。尊敬や、ややもすれば畏怖に近いような感情をわたしに抱いているようです。逆に、わたしに対して妬みややっかみを持っている方もいらっしゃるようです。
 まるで通り魔に遭ったみたいな気分です。
 金曜日の授業が終わり、家に帰ってからも、せっかくの週末なのにわたしの中には疲労感ばかりが渦巻いていました。いつものような、休日を控えたわくわく感はどこにもありません。しかも明日は、以前約束した宗方さんたちとのカラオケがあるのです。わたしの歌はそれほど上手くはありませんし、かと言ってほとんど歌わないのではみなさんの気分を害する可能性もあります。明日は一体どのように振る舞うべきなのか、そのことを考えると気分は底なしに憂鬱になっていくのです。
 新山さんの告白は、わたしの中では未だに処理しきれていませんでした。あれからわたしたちの関係に進展があったわけではありません。ときおり、新山さんがわたしに熱い眼差しを送っているのを感じる程度です。わたしはそれを曖昧な笑顔で誤魔化すか、積極的に無視するかして乗り切りました。しかしいつまでも彼女の愛をかわし続けられるとは思えませんでした。すでに導火線には火が点けられているのです。そう遠くないうちに、この爆弾が大爆発を起こして、わたしに想像を絶する不幸をもたらすことは決定的なのです。
 その日、アパートに帰ると珍しくお父さんが家にいました。いえ、石館奈緒さんとの再婚を告げたあの日も家にいましたから、今週はこれで二回目です。あの日の夜を思い出して、わたしは嫌な予感がしました。嫌な予感はいつもしていますし、それが現実になる可能性はとても高いのです。すなわち、わたしの日常は嫌なことばかりなのですが、今日もその例に漏れず、やはり嫌なことは現実になってしまったのです。
「今日、奈緒さんと真斗くんが家に来るよ」
「どういう意味?」
 どういう意味も糞も、このアパートにあの二人がやって来るということです。何をしに来るのでしょうか。貧乏人の部屋を見て嘲笑いたいのでしょうか。
「この間会ったときは、ちょっとかしこまった場所だっただろ? だから今度は、もっと気軽に、カジュアルに会える場所が良いと思って」
「それで、うちに?」
「うん。それで、乃美子の作ったご飯を食べてもらおうと思って」
「嫌だよ」
「何で?」
「だって」わたしは言葉を探しました。しかしいざ説明しようとすると、わたしの中にあるこの反発心をどうしても理屈にすることができません。「そんな、急に言われても」
「別にがんばる必要はないんだよ。いつもの通りに作ってくれれば、それで美味しいんだから」
 お父さんはのほほんと言いました。食事を作らない男の人なんてそんなものです。確かにわたしの料理が下手だろうと失敗しようと、お父さんは構わないでしょう。あはは、うちの娘は料理が下手でねーそれに比べて真斗くんはバスケ部で友達も多くて格好良くてうらやましいなーガッハッハと笑っていればいいのでしょうが、そうなったときに恥をかくのはわたしなのです。わたしがあの二人にどんな失態を見せようと、お父さんにとっては他人事なのでしょう。
 他人事。
 たった一人の肉親ですら、他人になってしまうのです。
 わたしは自分の不幸を嘆くよりも先に、恋というのは恐ろしいものであるなと改めて実感したのです。恋に感染すると家族すら他人事にしてしまうのです。その毒性は腸チフスやマラリアにも匹敵するレベルでしょう。しかも恐ろしいことに、恋を治療する薬は未だに発明されていないのです。
 本来なら今夜の夕食はアジの塩焼きに里芋とこんにゃくの味噌煮、あとはきんぴらごぼうを――くらいに思っていたのですが、何せ食材の量が圧倒的に足りません。アジなんて二尾しかありませんし、本来なら二人で食べるはずの量を四人で食べれば、一人当りのカロリーは半分以下です。そんな貧相な食事を出せばわたしたちは四人分の食事も出せない貧乏人だと思われてしまいます。
 お金の有無が人間の価値に関係するとは思っていませんが、かの親子がどう思っているかは分かりません。いずれ奈緒さんとお父さんが結婚し、わたしがその家族の中に加わることを考えると、彼女たちに馬鹿にされるのはなるべく避けたいと思いました。庶民の意地というやつです。
「買い物に行かないと……」
「ああ、そうか。ごめんね。急に決まったものだから。買い物なら僕が行こうか?」
 わたしはその申し出を断わりました。お父さんに買い物を任せて下手なものを買ってこられても困ります。
「二人って、何時くらいに来るの?」
「七時だって言ってたけど」
 もう二時間もありません。
 わたしは制服のまま家を飛び出すと、自転車を全速力でこいでスーパーまで行きました。深く考えずに適当な魚と野菜を買うと直ちに家に戻りました。
 台所に立つと、すぐに頭の中で料理のプランを立てます。なるべく無駄な時間を使わないよう、精神を昂ぶらせながら調理に挑みます。まるでレースゲームのタイムアタックのようです。頭の中で立てたスケジュール通りに動くだけの単純作業です。
 わたしのアパートは、キッチンとリビングが七畳くらいの大きさの部屋にまとめてあり、そこからわたしの部屋と、お父さんの部屋とが襖で分けられています。
 リビングでテレビを見ているお父さんの姿が見えます。長方形の木のテーブルの前にあぐらをかいています。一見するとリラックスしているようですが、奈緒さんが来るということでどこか落ち着きがありませんでした。緊張しているのか、今夜の期待で浮ついているのか、一体どちらなのでしょうか。
 七時ちょうどに、来客を知らせるチャイムが鳴りました。手が離せないわたしをキッチンに置いて、お父さんが出迎えに行きました。
 わたしの家に、家族以外の人間が入る光景を久しぶりに見ました。奈緒さんはにこやかな表情で、石館くんは相変わらずの仏頂面で、やや興奮気味のお父さんに連れられてリビングにやって来ます。テーブルの周りに並べられた座布団に、三人が座りました。
「あの、夕食は、いつも乃美子が作るんですよ」
「まあ、そうなの。若いのに立派ね」
「乃美子、ご飯はまだできないのか?」
「あと十分くらい」
「私もお手伝いしましょうか?」
「いえ。そこで待っていてください」
 わたしは答えました。奈緒さんとお父さんは楽しそうに談笑していましたが、石館くんは手持ち無沙汰な様子で、台所に立っているわたしの姿を見ていました。心の読めない石館くんの眼差しに、わたしは何度か手元を狂わされました。
 キッチンからリビングのテーブルに料理の皿を運びます。石館くんが自然に立ち上がり、わたしが運ぶのを手伝ってくれました。それを見て、奈緒さんとお父さんも慌てて立ち上がりました。
 わたしが作った料理は概ね好評でした。ただし奈緒さんの講評からは、わたしのご機嫌を取ろうとするようなおべんちゃらが感じられましたから、言葉をそのまま受け取って有頂天になるわけにはいきません。
「お上手ねえ。真斗なんて、今まで家事のひとつもやったことないのに」
「それじゃ、奈緒さんが家事を? お仕事なさっているのに」
「いや、うちにはお手伝いさんがいるから……」
 石館くんが真顔でさらりと答えました。お手伝いさんですか。さすが上流階級の方ですね。家事をしたことがないのではなくて、家事をする必要のないやんごとなき身分の方々なのでしょう。わたしは心の中で反発心を強めました。
「真斗、美味しいでしょう?」
「ああ」
 石館くんは頷きました。心の中は読めません。きんぴらごぼうをおかずに白米を食べる石館くんを見ていると、彼もわたしのことを上目遣いで見ていました。わたしは慌てて自分の食事に戻ります。
 三人の食事が終わり、わたしも慌ててご飯を口にかき込むと、みんなの食べ終わった皿をキッチンのシンクまで運びました。
「ああ、乃美子。後片付けは後でいいよ」
 お父さんがわたしの背中に言いましたが、わたしはそれを無視して皿を洗い始めました。後片付けは後でいいと言いましたが、でも、後になって片付けをするのは結局わたしなのです。ここ数年お父さんは家事をほとんどやりませんし、わたしもそれが当たり前になっていました。
「乃美子ちゃん、私も手伝おうか?」
「いえ。いつもやってるので」
 腰を上げた奈緒さんを片手を挙げて制します。しばらく手伝う、手伝わないの押し問答を繰り返しましたが、結局奈緒さんの方が折れて、わたしは晴れて台所を守ることに成功したのです。
 わたしが皿を洗っている間、お父さんと奈緒さんが楽しそうにお話していました。石館くんはテレビのリモコンを持って、あちこちにチャンネルを変えていました。石館くんはいつもの仏頂面でしたが、それでも彼が退屈していることくらいはわたしにも分かりました。
 食器を洗い、濡れた手を拭くと、棚から急須と湯飲みを出します。緑茶を注ぐと、お盆に載せてテーブルまで運びます。三つの湯飲みをテーブルの上に並べました。
「ごめんね、何もかもやってもらって……」
「いえ。お家では、家事はやらないんでしょう?」
 わたしがそう言うと、奈緒さんは苦笑いをしました。家事もできない人間が手伝っても足手まといなだけだと、言外に含めて彼女に棘を刺しました。
「それじゃわたし、部屋に戻るから」
「乃美子!」
「全部ひとりでやったから疲れたの。それじゃあごゆっくり」
 他人行儀に言いました。呼び止めるお父さんを無視して部屋に戻りました。
 部屋に戻り、襖を閉めてから後悔がどっと押し寄せてきました。わたしは何てことを言ってしまったのでしょう。お父さんも奈緒さんも石館くんも、何も悪いことはしていないのです。それなのにわたしが、子供みたいにだだをこねているだけなのです。
 今すぐリビングに戻って謝ろうかと思いました。いえ、たとえ謝らなくても、知らない顔をして三人の話に加わって、わたしとも仲良くしてもらえばいいのです。
 でもそれはできませんでした。わたしの中の子供の部分が、どうしてもそれを認めないのです。お父さんに対する不満や、奈緒さんに対する怒りがわたしの足を縛っていました。お父さんと、奈緒さんは、ただお互いのことが好きで、一緒になろうとしているだけなのに。わたしは、まるでお父さんを取られたみたいで――いえ、まるでお父さんに捨てられたみたいな気持ちになって、怒りと悲しみにおかしくなってしまったのです。いつも家事をして、お父さんを支えてきたわたしが、家事もできないあの女に負けてしまったのです。そんな理不尽なことがあるでしょうか。
 わたしはベッドに体を投げ出しました。枕の下に頭を埋めます。もしかして、わたしはファザコンなのでしょうか。そんなにお父さんのことが好きなら、どうして普段から仲良くしてこなかったのでしょうか。我ながら虫のいい話です。お父さんにしたって、家に帰っても娘が冷たいから、再婚したいと考えるようになったのではないでしょうか。
 わたしは勝手な人間です。
 最低です。家族として、娘として、わたしは最低です。
 自分の愚かさに、わたしはすべてが嫌になりました。わたしのことなんて捨てて、どうか三人で、幸せに暮らしてください。お父さんは立派な父親になれますし、奈緒さんだって、わたしがあんな態度を見せても嫌味の一つも言いませんでした。石館くんは、ええっと、よく知らないけど、奈緒さんの言葉を信じるなら、きっと良い子なのでしょう。そんな幸せな家族にわたしなんて不要なんです。わたしみたいなゴミにいつまでもこだわってはいけないのです。ああ、神様、どうか、わたしをこの世界から消してください――。
 ベッドの中で懺悔していると、襖をノックっする小さな音が聞こえました。わたしは慌てて飛び起きると、制服を直してから襖を開けました。
 てっきりやって来たのがお父さんだと思っていましたから、そこに石館くんが立っていたことに驚きました。
「よう」
「……何?」
「まあ、いいから」
 石館くんはわたしに断りもなく、入り口に立つわたしの体を避けて部屋の中に入ってきました。しかも、部屋に入ってから襖を閉めてしまいます。わたしを残して、石館くんは部屋の真ん中に立つと、そこからぐるりと一回転して部屋を見回しました。
「ちょっと!」
 男子が、女子の部屋に断りもなく勝手に入ってくるなんてマナー違反も良いところです。わたしは息を荒げて石館くんの前に立ち、その不作法を罵ってやろうと思ったのですが、いざ彼の前に立ち、彼の顔を直視すると、そういった勇ましい気持ちはしおしおと萎んでしまいました。訳もなく殴られそうな気がして、わたしは何も言えずに石館くんから一歩遠ざかりました。
「何だよ」
「……石館くんこそ。何の用?」
「別に。ただ、うちの母親と竹折の親父さん、二人っきりにした方がいいと思って」
「嘘。退屈だったから逃げてきたんだ」
「別に良いだろ」
 ふて腐れたみたいな言い方でした。わたしの方を見ずに、本棚に並んだ漫画とライトノベルの表紙を見ていました。
「いっぱいあるな。読書家だな」
「漫画ばかりだよ」
 わたしは押し入れを開けて、中からクッションを引っ張り出します。立ったままの石館くんにそれを渡して、座るように勧めました。小さなガラステーブルを挟んで、わたしと石館くんが向かい合って座ります。
 会話が途絶えて、嫌な沈黙が続きました。よく考えれば、自分の部屋に男の子と二人きりなのです。状況だけを考えれば、その、かなり危ないというか、際どい感じです。
「あの夕飯」
「え?」
「うまかったよ」
 石館くんはぶっきらぼうに言いました。
「ありがとう」
「すごいな」
「そうかな」
「ああ。……本、たくさんあるな」
 また話題が飛びました。もしかすると、石館くんの方も、話題が見つからずに苦心しているのかもしれません。
「石館くんは、本読むの?」
「ぜんぜん読まないな」
「だと思った」
「……なあ、俺たち、いつか一緒に暮らすんだよな」
 その言葉にわたしの胸が大きく高鳴りました。まるで、プロポーズした後の恋人同士のような会話ではありませんか。いえ、石館くんにそういった感情は持っていませんが、男の子と二人きりのこの状況で、そういう台詞を生の声で聞いてしまうと、ついつい別のシチュエーションを想像してしまうのです。
 わたしは思わず笑いそうになって口元を押さえました。石館くんは怪訝そうにわたしのことを見ています。
「何だよ。変なこと言ったか?」
「う、ううん。ごめん。別に」
「真面目な話をしようとしてたのに」
「ごめん。ちょっとおかしかっただけだから。ごめんね、ほら、続きを言って」
「……もういい」
 ふん、と石館くんはそっぽを向いてしまいました。いえ、そっぽを向いたのではなくて、わたしに背を向けて、小さな本棚に並んだ少年漫画の背表紙を見ていたのです。石館くんはわたしに断りもなく漫画を手に取ると、そのままそれを読み始めました。本当に、石館くんはデリカシーがないというか、とにかく失礼な人です。
 しかし会話をしなくてもいいというのはありがたいお話です。わたしも石館くんにならって、テーブルの上に置いてあった読みかけの文庫本に手を伸ばします。先に本を読み始めたのは石館くんの方なのですから、この場合は不作法には当たらないはずです。
 しばらくわたしたちは無言のまま、それぞれの読書を続けていました。
 やがて夜も更けて、奈緒さんが石館くんのことを呼びに部屋に入ってきました。
 お父さんと二人で、玄関に見送りに行きます。
「それじゃあね、乃美子ちゃん」
 はしゃいだ様子で奈緒さんは手を振りました。お父さんと二人っきりで、一体どんな話をしていたのでしょうか。奈緒さんの横で、石館くんはポケットに手を入れたままニコリともせずにわたしのことを見ていました。
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