月には白のおまじない

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02.微妙な二人

 石館親子とレストランで顔合わせをした日の夜、わたしはなかなか眠ることができませんでした。ベッドで何度も寝返りを打ち、部屋の電気をつけると、本棚から適当な漫画本を取り出してぱらぱらとめくります。しばらく漫画を読んでいると、途端に眠気が襲ってきます。しかし部屋の電気を消して、再びベッドに潜り込むと、途端にわたしの眠気は不安や困惑の波にかき消されてしまうのです。
 帰り際にお父さんと奈緒さんが言っていたのですが、二人はそう遠くはない未来に――どんなに遅くても年内には、籍を入れて一緒に暮らし始めるのだそうです。まるで他人事のように感じられましたが、そうなればもちろん、わたしと石館真斗くんも同じ屋根の下で一緒に暮らさなければならなくなるのです。
 わたしはそれがたまらなく嫌でした。それどころか、わたしの家に、わたしの知らない人間がいるということが耐えられそうにないのです。正確に言えば、わたしの家ではなくて、わたしたちが、石館さんの家に住むのですが。つまり、わたしの家に知らない人間がいる、という状況よりも、ずっと悪い未来がこの先に待っているのです。お父さんは、大好きな奈緒さんと一緒に暮らせるだけで満足でしょうが、ではわたしは、一体何をよりどころにして生きていけばいいのでしょうか。
 真っ暗な自分の部屋を見回します。このアパートに引っ越してきたのは、わたしが小学生のときでしょうか。あれから何年経ったのでしょうか。もうすっかり馴染んでしまったこの部屋から、もうすぐ出て行かなければならないのです。この部屋での記憶を掘り返しているうちに、知らず知らず涙が流れていました。この世界は理不尽で、わたしの意志や決定の関わらないところで、わたしのすべてを何かが勝手に定めてしまうのです。
 そんなことを考えているうちに、悲しむのにも疲れて、わたしはとうとう眠ってしまったのでした。
 翌朝、わたしは少し寝坊をしてしまいました。昨晩遅くまで起きていたのが悪かったのでしょう。部屋を出てリビングに行くと、お父さんはもう出勤した後でした。お父さんは朝早く会社に出かけ、帰ってくるのも夜遅くなのです。そのことを考える度に、生きていくということは大変なことなのだなあ、と感じずにはいられません。
 早足で教室に辿り着いたときには、朝のホームルームの四分前でした。わたしは呼吸を整えながら自分の席に座ります。鞄から教科書とノートと筆記用具を取り出して、机の中に入れます。チャイムが鳴り、しばらくして先生が教室に入ってくると、みんなはすぐに静かになりました。
 基本的に、わたしは授業をちゃんと真面目に受けるようにしています。なぜなら、例えば普通の一般的な高校生は、授業のひとつやふたつ居眠りしたところで、その日の授業ノートを誰かに見せてもらえば済む話でしょうが、わたしの場合、そんなことを頼める友人も知り合いもいないので、授業中の居眠りが致命傷になるのです。
 しかしながら本日は、前日の夜更かしが呪って、三限目の英語の授業はなんとかこらえたのですが、四限目の古文の授業では、ついウトウトと、後半はすっかり記憶が飛んでしまって――気がつくと、わたしは額を限界までノートに近づけて、すっかりと眠っていたのでした。
 四限目の授業が終わって昼休みに入ります。クラスメイトのみなさんはほっと息を吐いて、教室で弁当を広げたり、あるいは教室を出て食堂に向かったり、自動販売機でパンを買ってきたりしています。いつものわたしは家で作った弁当を学校に持ってきて、それを自分の机に広げて一人で昼食を済ませます。食事をしている最中はどうせ口の中に物が入っているわけですから、食事と会話を平行して進めることはできません。それなのに、食事というと誰かと一緒に食べなければ我慢ならない同級生がたくさんいるようで、わたしとしてはまことに不思議だなあ、と思う次第です。
 ところが今日に限って、わたしは弁当を持って来なかったのです。今朝の寝坊のせいで、朝ご飯を食べるのに精一杯で、お昼ご飯の準備をする余裕などなかったのです。そしてさらに間の悪いことに、今朝は慌てて家を出たせいで、家に財布を忘れてきてしまったのでした。つまり、食堂でお昼ご飯を食べることもできません。無銭飲食するというのも手の一つですが、そんなことをしてわたしの学園生活が本格的に終了してしまうのはあまり望ましくありません。そもそも開始していないような気もしますが。
 仕方がないのでわたしは自分の席で教科書を広げます。空腹を紛らわすためでした。わたしの経験則では、空腹が辛いのは最初の一時間か二時間程度で、それが過ぎるとナチュラルハイというか、空腹に慣れて調子が戻ってくるのです。その後はさらに本格的な空腹がやって来て思考や気力にも影響を与えるのですが、そのころには家に帰って夕食を食べているので問題はありません。今日は部活動もないので大丈夫です。
 やはり、朝ご飯を食べてきたのが大きかったと思います。もし朝ご飯も抜いていたのならおそらく午後の授業は血糖値の低下で大いに苦しめられていたでしょう。フレークと牛乳という極めて簡素な朝食でしたが、今はその簡素が非常に生きているような気がします。いえ、空腹を紛らわせるためにそう思い込んでいるだけなのですが。
 それにしても今日は厄日です。その厄災の根源はすべて今朝の寝坊にあるのですが、ではその寝坊の根源は何なのかというと、やはり昨晩のディナーが原因なのです。石館くんと奈緒さん。あの二人と一度会っただけで、今日のわたしはこれほどまでに苦しまなければならなかったのです。まるで呪いではありませんか。一度食事を共にしただけでこれなのだから、一緒に暮らしたら果たしてどれほどの不幸が訪れるのでしょうか。わたしは生き延びることができるのでしょうか。
 古文の教科書を眺めていても、空腹はなかなか薄れませんでした。時間が経つのが苦痛です。先ほどの授業の内容を取り戻そうと、平安時代に書かれた文章の解読を試みますが、二行分ほどを訳したところで力尽きてしまいました。わたしには何よりも気力が足りなかったのです。空襲に怯える市民のように、空腹という巨大な災害が通り過ぎるのを、身を小さくして耐えるしかないのです。
 しかししかし、わたしがどうしてこんな目に遭わなければならないのでしょうか。ちくしょう、石館真斗め、とわたしはガラにもなく八つ当たりをしてしまいます。石館くんにしてみれば、どうして見ず知らずの女の空腹の責任をなじられなければならないのか、と思うでしょうが。
 わたしは窓側にある石館くんの席を見ました。彼は戸野くんと一緒に机の上で菓子パンを広げて食べていました。紙パックの緑茶をストローから飲んでいます。石館くんの、クラスの女性の人気を集めている整った顔立ちが、さらにわたしの反感を買っていました。畜生、あの男め……っと、いけません。また下品な罵倒の言葉が出るところでした。武士は食わねど高楊枝、と言いますがわたしは武士ではないので、高楊枝の代わりに高飛車になることにします。その心は、せめて心だけは高貴に。
 そのとき、戸野くんがこちらを見ました。目が合ってしまったので、慌てて古文の教科書に意識を戻しました。しかしその後が気になって、何気ないふうを装って二人の方を見ると、戸野くんと石館くんが、こちらを見ながら何か話しているところでした。
 一体わたしについてのどのような話題が持ち上がったのでしょうか。きっと良くはない話でしょう。もしかしたら彼ら二人は、わたしが二人の方を見ていた理由を、わたしが二人に好意を抱いていた、という風に解釈したのかもしれません。わたしのような女が、彼らのようなイケメン二人のことをじろじろと見ていたのは、さぞかし分不相応で滑稽に思えたことでしょう。しかしそれは大きな誤解ですし、わたしにそんな大それたことができるはずはないのです。何とかそのことを伝えなければ、と思いましたが、しかしわたしの被害妄想という可能性も捨てきれず、かと言って、二人の元に近寄って「わたしのことを見て何の話をしていたのですか」という質問を投げかけるのは不躾すぎで失礼に当たります。
 ここは見て見ぬふりをするのが正解でしょうか。雄弁は銀、沈黙は金と言いますし、黙って屈辱に耐えることも、上品な淑女になるためには必要なことなのです。
 椅子の動く音が聞こえました。そちらを見ると、戸野くんが自分の席を立ったところでした。それから戸野くんは、机から離れてこちらの側に歩いてきます。トイレにでも行くのだろうと思っていると、なぜか戸野くんは、わたしの机の前で足を止めました。
 戸野くんの顔を見上げます。口をきゅっと締めて、目が厳つくつり上がっていました。しばらくその状態のまま、わたしの視界を占領してから、戸野くんが言いました。
「もし良かったら、一緒に昼食べようぜ」
「うん。いいよ」
 はっ……わたしは一体何を言ったのでしょうか。目の前には安堵で表情を崩した戸野くん。遠くからそれを見ている石館くん。何が起こったのか理解できないわたし。
 つまりそれは条件反射だったのです。これまで人を誘ったりとか、人の誘いを断わったりとかしたことがないわたしにとって、他人の申し出とは無条件で受け入れるものだったのです。わたしにはそういう経験が染み付いていて、例えば戸野くんのお誘いが「今度一緒に校長先生を闇討ちに行こうぜ」だったとしても、お誘いの中身を深く検討することなく首肯してしまっていた可能性は十分にあるでしょう。
 回りくどいなあ、と自分でも思いました。それだけ自分でも混乱しているのです。
 微かに緊張と興奮を見せる戸野くんに連れられて石館くんの席まで行くと、わたしのために近くの空いている席から椅子を持ってきてくれました。石館くんと戸野くんの机が向かい合わせに合体している、その横からわたしの椅子が向けられます。
 石館くんはわたしを見ても何も言いませんでした。これから姉弟になる二人ですが、そのことを学校の人たちに教えるのはなるべく避けなければなりませんでした。年頃の男女が同じ屋根の下で過ごすとなると、そのことで不埒な想像をする人が必ずいらっしゃるものですから。
「あれ? 竹折、お昼は?」
「お昼は、ないの」
「ない? ダイエット中?」
 ダイエット中、というのはどういう意味でしょうか。わたしにはダイエットが必要だと、そう言いたいのでしょうか。体重は適正な値をキープしていたはずですが、もしかして、淑女になるにはそれだけでは不十分なのでしょうか。
「違うの。その、お弁当を忘れて……」
「ああ。そういえば、いつも弁当だったよな」
 と、戸野くんが頷きました。わたしが毎日弁当を食べていたことをどうして知っているのでしょうか。もしかして彼は昼休みのクラスメイトの動向を逐一チェックしているのでしょうか。スポーツマンタイプの爽やかな外見とは裏腹になかなか侮れない人物です。
 ……わたしはクラスメイトの視線が気になりました。女子のグループのいくつかが、わたしたちの方を見てひそひそと何かを話しているようでした。わたしごときが、学校の有名人であり人気者であり憧れの対象である石館戸野ペアと昼食を共にすることが許せないのかもしれません。あるいはわたしごときでは相手にならないと、嘲笑と侮蔑の対象になっているのかもしれません。真偽は藪の中です。
 すっ、と石館くんが、菓子パンのひとつをわたしに差し出しました。
「食べなよ」
「ううん、大丈夫」
 さすがに二度目は慎重に答えました。
「何が?」
「その、食べなくても」
「いいから食べろよ」
「でも」
 わたしは菓子パンというやつが大嫌いだったのです。
「いいから!」
「あ。ご、ごめんなさい……いただきます……」
 わたしは頭を下げて菓子パンを受け取りました。ビニールの包装を開けて、パンを小さく一口いただきます。白い生地に、メープルの茶色が混ざった色のパンでした。食べると、口の中に甘い風味が広がりましたが、代わりに口の中がもそもそしました。飲み込むと、喉の水分をすべて持って行かれたようになってしまって、わたしはすっかり喉が渇いてしまいました。
「もしかして、このパン嫌い?」
「ううん。大丈夫。ちょっと喉に詰まっただけ」
 戸野くんが心配してくれましたが、わたしはついつい大丈夫な振りをしてしまいました。喉が渇いて仕方がありませんでしたが、二人の手前我慢して食事を続けます。
 菓子パンを半分ほど囓り終えたとき、教室に賑やかな一団が入ってきました。あれは、宗方真琴さんと、新山燈子さんの仲良し二人組です。宗方さんの健康的な腕と、新山さんのしなやかな腕が絡まっています。その様子だけを見ると、二人はまるで恋人同士のようです。女性の友情というのは、時に同性愛的傾向を見せることがあるらしいと聞いたことがあります。同性愛どころか友情すら持たないわたしには縁遠い話でありますが。
 その宗方さんが、わたしたちの姿を見つけて大声を上げます。
「ああーっ!」
「な、何だよ」戸野くんが怪訝そうに言いました。「いきなり大声出して」
「竹折さんとお昼食べてる」
「そうだよ」
「何で? 何で何で?」
「……俺が誘った」
 恥ずかしそうに、戸野くんが言いました。わたしを昼食に誘うのがそんなに恥ずかしい行為なら、最初から誘わないでくれと思いました。
「ええー」宗方さんは不満の声を上げます。「何だよ、三人だけでさー。それならあたしも誘ってよ」
「なんでお前を誘わないかんのだ」
「あたしだって竹折さんと一緒にお昼食べたかったもん」
 さっきまで仲むつまじくしていた新山さんが「わたしのことは?」と冗談半分に訊ねました。呆れているようにも見えました。さっきまでのは宗方さんに無理やり腕を組まされていたのでしょう。このクラスで誰よりも大人びて見える新山さんが、自ら進んでそのような行為をしていたとは思えませんし。
「じゃあ……お前らも、一緒に食べるか?」
「もう食べてきたよっ」
「だったら諦めろ」
「くそー」宗方さんはしかめっ面をしました。そしてわたしの方を向きます。「それじゃあ竹折さん。明日はあたしと一緒に食べようね」
「うん。いいよ」
 ぜんぜん良くありません。どうしてお昼くらい、一人でゆっくり食べさせてもらえないのでしょうか。他人との会話の種を探しながらの食事など、気が休まるはずがないのです。
 ただでさえ精神を摩耗する学校生活の中で、昼休みはわたしにとって唯一と言っていいほどのオアシスだったのです。そのオアシスが、徐々に侵食されていくのを感じていました。
 戸野くんと宗方さんのやりとりを、石館くんは冷めた目で退屈そうに見つめていました。



 一日の授業が終わり、掃除が終わると、わたしは逃げるように教室を出ました。が、運悪く、教室を出る一歩手前で宗方さんに捕まってしまいました。隣には新山さんの姿もあります。
「竹折さーん。一緒に帰ろう」
「うん。いいよ」
 とわたしは人当たりの良い返事をしました。その裏では猛烈に頭を働かせました。どうにかして、不自然ではない形で、宗方さんに嫌われないように、その誘いをお断りする方法はないものでしょうか。
「そういえば宗方さん、今日はバレーボール部に行かなくていいの?」
「ああ。今日はサボることにした」
「サボりは良くないよ」
「竹折さんだって部活行かないじゃん」
「園芸部は月曜と木曜が活動日だから」
 今日は水曜日なので園芸部の活動はありません。もちろん活動日だけではなくて、普段から土をいじったり、除草したりということは必要ですが、そういうことはやる気のある部員の誰かがやってくれるものです。園芸にさほど興味のないわたしは活動日だけ参加するようにしていました。
 ではなぜ興味のない園芸部に籍を置いているのかというと、単に、勧誘されて断れなかったというだけの理由です。本当なら漫画研究会に入りたかったのですが、活動内容がイリーガルすぎたので断念しました。
 宗方さんと新山さんとわたしの三人で学校を出ます。宗方さんは自転車通学ですが、徒歩のわたしと新山さんがいるので自転車には乗らず押して歩いています。いっそわたしのことなど置いて、新山さんを後ろに乗せて自転車で先に帰ってくれたらどんなにありがたいか。
 正直言って、彼女たちとどのような話題で盛り上がればいいのか皆目見当が付きませんし、かと言って、沈黙が続けば嫌な思いをさせてしまうかもしれません。人間関係がこれほどヘタクソなわたしと一緒に家に帰ることがそんなに楽しいのでしょうか。
「竹折さんってさー、あんまり自分のこと話さないよね」
「そうかな」
「今日の昼だって、俊一たちと一緒に仲良くやってたじゃん」
 宗方さんは戸野くんのことを俊一、と呼びました。二人は小学校からの幼なじみなのです。
「あれは、戸野くんたちが誘ったから」
「何それ」
「一緒にお昼食べないかって」
「ふーん。俊一がねえ……」
 そう言って、後ろ手に腕を組んで、宗方さんはしばらく何かを考えているようでした。
「竹折さんは、園芸が好きなの?」
 考え込んでしまった宗方さんの代わりに新山さんがわたしに質問しました。はっきり言ってずるい、と思いました。質問者は二人なのに回答者はわたしひとりだけです。これでは物量差で負けてしまいます。
「うん。まあ」
 そんな内心はおくびに出さず、わたしは当たり障りのない返事を返しました。
 新山さんは上品に頷くと、わたしに向けて微笑みました。わたしが園芸に興味を持つことがそんなに嬉しいのでしょうか。どうでもいいですが、新山さんと話をしていると、わたしの視線はどうしても彼女のグラマラスな胸の方に行ってしまいます。正直言ってうらやましいです。Aカップのわたしとは戦闘力が違いますから。
 わたしが胸を凝視していることには気がつかずに、わずかにウェーブの掛かった茶色に染めた髪を掻き上げながら言いました。
「私も、実は園芸に興味があったの。と言っても、好きなのはお花の方で、土をいじるのが嫌だから、園芸部には入らなかったんだけどね」
「どうして土をいじるのが嫌いなの?」
「だって、手は汚れるし、爪は割れるし、肥料の匂いはきついし……。わたし、お花の過程にはあまり興味がないのかもね。真琴は?」
「ん。どうせ花を見るならぶわっとまとめて見たいな。一本とか二本とかじゃなくて、ぶわっと、こう……何百本って花束」
「それも花の楽しみ方だね」
 と、花の過程にも結果にも興味のないわたしが言いました。
 わたしたちは学校前の道路を歩き、途中で信号を渡り、繁華街の方に歩いていきます。さらにまっすぐ進めば駅ですが、大通りを途中で折れてしばらく横道を進めばわたしのアパートです。
「新山さんは、どうしてバレーボール部に入ったの?」
「真琴の付き合いで」
「あたしは中学の時からバレーやってたしね」宗方さんは答えました。「その流れで、何となく。まあ別に女子バスケ部でもよかったんだけど、うちの中学のバスケ部、あんまり強くなかったから。……ていうか、竹折さんも同じ中学だったよね?」
「うん」
「あたしさー、高校入るまで竹折さんのこと知らなかったのね。こんなに近くに、こんな面白い子がいるなんて思わなかった」
「面白い?」
「竹折さん可愛いしね」
 ほら来た。来た来た来た来た!
 同性の言う「可愛い」!
 わたしはこの言葉に何度騙されたことでしょうか。その度に根拠のない自信を抱き、そして打ち砕かれてきたのです。何度ぬか喜びを重ねたのでしょう。そしてその後には毎回必ず現実を直視したときの自己嫌悪が待っているのです。
 女子高生の言う「可愛い」には、見てくれの悪い人間に対する蔑みや優越感が含まれているような気がしてならないのです。たとえ意識しなくても、気がつけばそうなっているものなのです。
「あはは……そうかな」
「燈子もそう思うよね?」
 宗方さんが新山さんに確認すると、彼女も微笑みながら頷きました。その微笑みの意味は何なのでしょうか。根暗なオタクメガネであるわたしを哀れんでいるのでしょうか。
 大体わたしは、中学時代から、宗方さんや新山さんのようなタイプの人間は特に苦手だったのです。何事にもはつらつとしているというか、青春を謳歌しているというか……。とにかく、二人はわたしのようなじめじめうじうじタイプとは正反対の種類の人間なのです。大声で悲鳴を上げながら走って逃げたい衝動に駆られました。
 宗方さんの攻撃をどう捌こうかと思案していると、ちょうどわたしたちは本屋の前を通り過ぎました。全国展開をしているチェーン店の本屋です。
「あ、あの。わたし、帰りに本屋に寄りたいから……」
「ああ、そうなの?」
「だから、二人は先に行っても――」
「一緒に行こうよ」
 そう言われると、ついつい頷いてしまう駄目なわたしでした。



 本屋に入ってまず見るべき場所は漫画の新刊コーナー、続いてライトノベルの新刊コーナーです。と言ってもめぼしい物の発売日はほとんど押さえているので、新刊コーナーでは前評判やストーリーは気にせずに表紙を見てピンと来たものを場当たり的に購入していきます。
 宗方さんと新山さんは雑誌のコーナーで立ち読みをしていました。わたしは単行本派なので雑誌はあまり買いません。ただでさえ漫画の保管場所に困っているのに、これ以上雑誌を収納する余裕はわたしたちのアパートにはありません。
 二人から離れ、わたしはつかの間の安らぎを得ました。新刊にはあまり心惹かれるものがなかったので、次は少女向け小説のコーナーに移動します。ずらりと並んだ背表紙のひとつひとつに小説のタイトルが刻印されています。タイトルは物語の顔であり、内面を確認するのは顔の条件をパスしたものだけです。タイトルがいい加減な物語は中身もいい加減であるような気がするのです。ですが、もしかしたら、いい加減なタイトルの物語の中にもわたしがまだ知らない傑作が潜んでいるかもしれません。ということでわたしは、タイトルが気に入っても気に入らなくても、目に付いた物は片端から手に取ってみることにしているのです。その物語を読むか読まないのか、最終的に決めるのはわたしの第六感――物語との運命を感じられるか否か、によるのですが。
 ニヤニヤしながら少女小説のコーナーを抜けて、続いて少女漫画のコーナーへ行きました。少年漫画も好きですが少女漫画も大好物です。男女が付き合ったり別れたりのくだらないストーリーが好きです。あり得ない設定の学園ラブコメが好きです。リアリティのない超大金持ちの御曹司設定が大好きです。
 わたしはニマニマしながら、漫画を手に取り、棚に戻し、いややっぱり手に取りまた棚に戻し、を繰り返していました。娯楽にお金を使うことはやぶさかではありませんが、そろそろわたしの部屋の本棚は飽和状態です。購入の対象は慎重に選ばなければなりませんからね。
「漫画好きなの?」
 背後から突然声をかけられてわたしの体がびくりと跳ね上がります。恐る恐る振り返ると、わたしの肩越しに少女漫画の棚を見ている新山さんがいました。ずい、とわたしの背中に一歩近づいて、息の掛かりそうな距離でわたしの手元を覗き込みます。背中に彼女の体温を感じてわたしは危機感を覚えました。人の温度が苦手です。
「これ、わたしも読んだことがあるわ」
「そう……」
「面白いよね、これ」
 新山さんは、わたしの持っている漫画を手に取りました。
 四文字熟語をタイトルにした、けばけばしいピンク色の漫画の最新刊です。正直言ってその物語はわたしにとってあまり楽しめるものではなかった――つまり地雷だった漫画です。一巻が面白かったので我慢して三巻まで買ったのですが、その後があまりに超展開だったのでそれ以降買うのを控えていたものです。
「買うの?」
「いや……別のやつを」
「そう」
 新山さんは手にしていた漫画を棚に戻しました。わたしが少女漫画のコーナーから離れようとすると、何故か新山さんも後ろについてきました。
「あの、宗方さんは?」
「DVD見てるよ」
 同じ建物の中にDVDのレンタルショップも入っているのです。宗方さんにとって活字は娯楽たり得ないのでしょうか。もちろんわたしは活字こそが娯楽の最高峰であると確信しているわけではなくて、小説が駄目なら漫画を、漫画が駄目ならアニメを、アニメが駄目ならゲームを楽しむ覚悟ができています。
 わたしは少年漫画のコーナーに行きたかったのですが、新山さんがわたしの後ろをSPのようにぴったりと付き添っているので断念せざるを得ませんでした。確かに少年漫画のコーナーを確認することは大切ですが、そのために新山さんの時間を無駄に使わせてしまうことはあまり望ましくありません。
 宗方さんに合流しようと、わたしたちは本屋のスペースを離れました。
「漫画、もういいの?」
「え?」質問の意味がよく分からなくてわたしは思わず聞き返しました。「うん……」
「漫画、好きなの?」
「うん」
「私も漫画はよく読むよ」
「そうなんだ」
 偏見ですが、新山さんの漫画の趣味と、わたしの漫画の趣味は合わないような気がしました。彼女は家でひとり漫画を読んでいるよりも街に出て友達と遊んでいる方が似合っているような気がします。
「竹折さん、休みの日はいつも何をしているの?」
「本を読んだりとか、ゲームをしたり……」
「ゲーム?」新山さんは目をぱちくりとさせました。「テレビゲーム?」
「そうだよ」
「面白いの?」
「ゲームによるかな」
 その点に関しては漫画も人間も同じです。
「竹折さんって――」
 次の質問が出かかったところで、音楽のコーナーでCDのジャケットを眺めている宗方さんを見つけました。
 そのあとは、三人で音楽の趣味について語らいながら、店を出て帰路につきました。
「竹折さんってさー」本屋を出てから、宗方さんが唐突に言いました。「人と話すのってあんまり得意じゃない?」
「いや、その……そんなこと、ないけど」
 人と話すのが得意なのではなくて単にあなたたちのことが苦手なだけです。ではどういう人間が得意なのかと聞かれれば、これまでの人生で苦手な人間とは数多く会ってきましたが得意な人間には一度もお目に掛かったことがありません。……ということは、結果的に言えば、わたしは人と話すのが苦手ということになりますし、そうなれば、わたしは宗方さんの質問に対して嘘を吐いたことになってしまいます。
「ふーん。そっかー」
 わたしの返答が嘘だと気がつかないで、宗方さんは何やら考えていました。嫌な予感がしました。いえ、嫌な予感は日々の生活の中でいつもわき上がるものなのです。そして、嫌な予感の大半はそれが現実になるのです。だからわたしの生活には嫌なことばかりが溢れかえっているのでしょうか。
 宗方さんへの返事を受けて、今度は新山さんが質問します。
「あの、竹折さんは、私たちと一緒に帰るのは、迷惑?」
「そんなことないけど」
 チェックメイトの予感がしました。新山さんの表情がぱああっと明るくなりました。「ギクリ」。嫌な予感を表す擬音語です。
「それじゃあ竹折さん、明日から一緒に帰りましょう」
 ほら来た。来た来た来た来た!
 チェックメイト。もはやキングに退路はありません。わたしは自らのキングに手をかけました。ぱたり、と駒が倒れます。
「うん。いいよ」
 他にどのような返事ができたのでしょうか。人と話すのが苦手ではないし、一緒に帰ろうと誘われたことが迷惑でないのなら、わたしはいかなる理由をもってして彼女たちの申し出を断わることができるでしょうか。
 なんてこった。今日は厄日です。朝から財布を忘れ、イケメン二人にからかわれ、美少女二人に馬鹿にされ……。戸野くんも宗方さんも新山さんも、わたしよりも二段も三段も優れた人間なのですし、わたしのような愚図を相手にしている場合ではないでしょうに。そんなにわたしの愚かさが楽しいのでしょうか。そんなにわたしが憎いのでしょうか。
「それじゃあね、竹折さん! また明日!」
 宗方さんが大きく手を振ってわたしたちと別れました。彼女は自転車にまたがると駅の方へ向かって自転車をこぎ始めました。わたしと新山さんは大通りからそれて、脇道に入りました。新山さんの家はどうやらわたしと方向を同じくするようです。新山さんと二人きりになり、沈黙はさらに威力を増して、喉を締め付けてわたしを息苦しくしました。
 わたしたちはしばらく無言で歩きました。横目で新山さんの顔を覗き見ます。彼女はこの沈黙をそれほど窮屈には感じていないようでした。はっきりとした目鼻立ちは美女の条件を満たしています。
「竹折さんって、彼氏いる?」
 唐突に新山さんが質問しました。わたしはびっくりして答えます。
「いないよ」
「恋人いないんだ」
 いたことがない、という表現でも真実です。
「竹折さん、モテそうなのにね。可愛いから」
「可愛い……」
 その言葉を繰り返します。その意図がわたしには分かりませんでした。わたしにとって新山さんは、正体不明の恐るべき怪人なのです。
「彼氏とか、興味ないの?」
「あんまり」
「そうなんだ」
 新山さんは嬉しそうに指を合わせました。わたしに恋人を作る気概のないことがそんなに喜ばしいのでしょうか。新山さんに彼氏がいるという話は聞いたことがありませんから、仲間がいて嬉しいのかもしれません。他人の不幸は蜜の味です。
 隣を歩いていた新山さんが足を止めました。何があったのかと、つられてわたしも足を止めます。新山さんは、じっとわたしのことを見ていました。表情が固いです。呼吸も、少しだけ荒くなっているような気がしました。
「竹折さん!」
「は、はい」
 わたしは身構えました。何かされるのではないかと、すぐに臨戦態勢に入ります。
 目が合いました。すぐに新山さんはわたしから目を逸らしてしまいました。うつむきます。両手をぎゅっと握りしめました。勇気を振り絞るようにして、わたしに告げます。
「あなたが好きです!」
「          は?」
 告げられてしまいました。
 顔を真っ赤にして、新山さんは走っていきました。心地よい足音を立て、スカートを翻して、彼女の姿はどんどん遠ざかっていきました。
 が、途中で立ち止まると、反転してこちらに戻ってきました。行きと同じく全速力です。その勢いに、わたしは思わず後じさりました。元の位置に戻った新山さんは、言いました。
「あの」
「う、うん」
「友達からで良いから……」
「うん」
「私と――友達になってくれる?」
「いいけど」
 いやよくないだろ、とわたしの中の大多数が叫んでいました。「友達から」という言葉には、いずれは友達以上になることが約束されているような、そんな気配がありました。尋常ではない危機感を覚えます。
「でも、その。わたしたち、女同士だけど」
「うん。でも、好きなの」
「その『好き』って、えーっと」わたしは言葉を探しました。「性的な意味も含む?」
 ああ、わたしはなんて馬鹿なことを聞くのでしょうか。もっとオブラートに包んだ表現があったはずなのに、今のわたしには思いつけませんでした。
 新山さんは、真っ赤な顔をして頷きました。
 ああ……何だろう、これ。
 今日はすごい一日だ。
「だから、ゆっくり考えて。それで、もし、竹折さんも、いいって思ったら、その時は……」
 新山さんは最後まで言わずに、わたしを残して走っていきました。さっきの暴走よりはずいぶんと軽やかな足取りでした。自分の想いを告げ、とりあえず友達の関係を確保して、新山さんとしては上々な戦果なのでしょう。
 一方、心のすべてを破壊されたわたしは、新山さんの姿が見えなくなってからもしばらくぼーっとその場に立ち尽くしていました。
 もしわたしが新山さんのことをいいと思ったら、その時は――どうなってしまうのでしょうか。新山さんと、恋人同士に……。思わず想像してしまいます。
 百合ですか。
 そうですか。
 いえ、確かに、わたしは今日の昼、宗方さんと新山さんが腕を組んでいるのを見てそんな想像をしましたが……。
「……帰ろう」
 帰って、すべてを忘れて、ぐっすりと眠りたい気分でした。
 それにしても、今日は疲れた。
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