月には白のおまじない

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09.シュークリミナル

 正午が過ぎて、ミンミンと蝉がやかましく鳴いています。わたしの住む町はお世辞にも都会とは言えず、少し高い建物から遠くを見れば緑生い茂る江葉山が見えます。緑が失われた都会でも蝉の声は聞こえるのでしょうか。この町ではその心配は当分しなくてもよさそうですが。江葉山ではカブトムシが生息しているという話も聞いたことがあります。
 ところで、わたしの部屋にはエアコンがありません。我が家のエアコンはリビングの一台だけです。必然的に、わたしはリビングで過ごすことが多くなります。と言っても、どうせ家にはわたし一人しかいないのですが。今年も、お父さんは夏休みを貰えなかったようです。働くということはとても大変なことなのだなあ、と思いながらエアコンの下で本を読んでいました。
 わたしは本から顔を上げ、何度もそうしたように、記憶に焼き付けるように、家の光景やにおいをもう一度確かめました。
 引っ越しの、日程が決まったのです。
 夏休みの終わりには、住み慣れたこのアパートを離れて、石館くんの家に移ることになります。というか、石館くんの家がわたしの家になるのです。……家を変えるということが今のわたしにはピンときません。わたしは生まれたときからずっとこの家で暮らしてきました。この家にいるだけでわたしの心は安らぐのです。果たして、石館くんの家に引っ越したとして、わたしは石館くんの家で心安らぐことができるのでしょうか。
 本の中身が頭に入ってきません。集中しなければ、と本の世界に没頭するのですが、気がつくと石館くんのことや、お母さんのこと、この家のことなどを考えてしまい、本のページはめくられていても、その分の中身がまるで頭に入っていませんでした。
 わたしは本を読むのを諦めました。と言っても他にやるべきことなどありません。夏休みの宿題をやるのも気が乗りません。ちなみに宿題は、夏休みに入った直後に半分くらいまでを終わらせていました。当初の予定ではすべて終わらせるつもりでしたが、まる一日何もすることがないという怠惰な環境で自制心を保ち続けるのは困難でした。今のわたしは怠け者です。最近は食事も出来合いの物を買ってくることが多くなっています。
 台所で緑茶を淹れました。緑茶を飲みながら新聞を眺めます。政治や経済に興味はないので斜め読みです。すぐに読むところがなくなります。そのときわたしは、新聞に挟まっていたチラシに目が留まりました。そのチラシには色とりどりのケーキが並んでいて、お茶請けもなしに緑茶を飲んでいるのがとても寂しく思えてきます。
 そのチラシとは無関係に、そういえば商店街の洋菓子店がシュークリームフェアをやっていたな、と思い出しました。その洋菓子店は通学路の途中にあるお店で、これまでにも何度か買い物をしたことがあります。ショーウィンドウの奥に可愛く並んだショートケーキやモンブランやチーズケーキ、色とりどりのフルーツがぎゅっと詰め込まれたロールケーキ、たっぷりと層になるくらいチョコのかかったエクレア、ミルフィーユ、タルト、ワッフル、ムース、トルテ等々、夢を語ればきりがありません。
 中でも一番のお気に入りがシュークリームです。ちょうど高校が終わって帰宅するころ、店頭には焼きたてのシュークリームが並ぶのです。外はカリカリサクサク、中には甘い甘い濃厚なクリームがたっぷりとダイナマイトのように搭載しています。シューの香ばしい香りと舌をとろけさせるクリームの組み合わせはわたしの脳内に麻薬のような幸福をふわふわと垂れ流します。
 まあ単に値段が安いというのも魅力の一つなのですが。わたしはお小遣いが少ないので普段はやたらめったら買い物などできないのです。
 さて。その洋菓子店がシュークリームフェアをやっているというのは見逃せません。というか今の今まで見逃していたのですが、洋菓子店のショーウィンドウをぼんやり回想していると急激に甘い物が恋しくなってきます。
「……よし」
 声に出して言いました。一体誰に向けた言葉なのか。わたしは決意を胸に、シュークリームを買うために家を出たのです。



 シュークリームを買って帰ってきたとき、わたしは真夏の容赦ない陽気に当てられて汗だくになっていました。とりあえずシュークリームの箱をすべて冷蔵庫に詰め込んでから、エアコンの風に当たりながらタオルで汗を拭います。少しの間外出していただけで家の中はあっという間にサウナになっていました。外より暑いかもしれません。おまけに、我が家の旧式のエアコンでは部屋を涼しくするために外出していたのと同じくらいの時間を必要とするのです。
 さて、それにしてもシュークリームです。
 お店には目移りするほどの様々な洋菓子が並んでいましたが、わたしはそれらの誘惑を断ち切り、というより転化して、お財布の許す限りシュークリームを買い込んできました。「シュークリームフェア」という宣伝は誇張ではなく、期間中のシュークリームは底なしのデフレーションを起こしていたのです。こんなに安くて果たして洋菓子店は採算が合うのでしょうか。まさか貧民たちにシュークリームを配る慈善活動というわけでもないでしょうに。
 シュークリームを食べるにはまずシュークリームのお供を用意する必要があります。わたしはかなり前に買った紅茶のティーバッグを戸棚の奥から取り出しました。シュークリームに緑茶、というのも趣がありません。何となくそれらしい方法で紅茶を淹れたあと、冷蔵庫からシュークリームの箱を取り出して、開封します。中にはクリームを覗かせたシュークリームが行儀良くぎっちりと並んでいました。開封した瞬間、シューの香りの大合唱が巻き起こります。
 待ちきれずにひとつ取り出して、がぶり。
 外はさくさく、中はとろりと。香ばしさとクリームの甘さの絶妙な配合。甘さを引き立てる香ばしさ、香ばしさを引き立てる甘さ。どちらが主でどちらが従なのか。わたしは一個目のシュークリームを夢中でむさぼります。
 思い出したように紅茶をひとくち。熱くて舌を火傷しました。しかしそれでも、夏の昼下がりにティータイムを楽しんでいるという事実に酔いしれながら、わたしは二つ目のシュークリームに手を出しました。



「……甘い」
 それからおよそ一時間。シュークリームと紅茶を楽しみながら読書の続きをしていたのですが、一箱目のシュークリームをすべて攻略したところで、さすがにクリームの甘さに辟易してきました。紅茶で何とか誤魔化しつつ喉の奥に流し込みましたが、もはやそういう小手先の手法でどうにかなる段階はとうに過ぎています。
 最初の時点では気がつかなかったのですが、この店のシュークリームはとにかくクリームがたっぷりと入っているのです。おまけに甘さは控えることなく自己主張をし、その隣にはクリームの油っぽさが虎視眈々とわたしの味覚を狙っているのです。
 暑さと「フェア」という言葉に踊らされたわたしが愚かでした。シュークリームはあと三箱も残っているのです。
 はしゃぎすぎた――というのが正直なところでした。わたしは恐る恐る、箱に張られた賞味期限のシールを確認します。生菓子だけあって、そうそう日持ちするものではありません。蝉の寿命よりも早く全滅しそうです。
「……うっぷ」
 蝉の死骸とシュークリームがオーバーラップして吐き気を催しました。木の幹にシュークリームが蝉のように吸い付いている想像は、滑稽を通り越して恐怖すら感じます。
 それはともかく、今はこのシュークリームを片付ける方法を考えなければなりません。シュークリームを買ったお金が無駄になるとかそういう話以上に、食べ物(ましてやシュークリーム)を無駄に捨てるということにわたしの倫理が耐えられないのです。できれば今日中に、少なくとも明日には、これらをすべて食べきらなければなりません絶対に無理! もうわたし食べられません! と間髪入れずに心の中で叫んでみても誰かが助けに来てくれるはずもありませんでした。ジンジンと遠くで蝉の鳴く声が聞こえます。家の中にわたしはひとりでした。
 「誰かが助けに来てくれる」。――そう、自分だけで食べきれないのなら、誰かに食べてもらえばいいのです。いえ、半年前のわたしなら、この解決法は最初から切って捨てていたと思います。だってわたしには、家に招待して、シュークリームを振る舞えるような友達がいなかったからです。
 しかし今は違います。
 わたしには宗方さんや戸野くんや新山さんのような――。
「……友達、なのかな」
 みんながわたしに良くしてくれているのは事実です。しかし彼女たちがどういう意図のもとでわたしに良くしてくれているのかは、未だによく分かりません。果たしてそれが友情なのか、あるいはただの同情なのか、はたまた、単なるもののはずみなのかは、分からないのです。
 わたしはあの人たちにとって、一体何なんだろう。
 心の内を占めた疑問を確認する勇気が、わたしにはありませんでした。
 考えたくないことを振り払い、考える必要のないことを切り捨てて、わたしは電話の受話器を手に取りました。



 最初にわたしが電話をかけたのは宗方さんでした。ずいぶん前に携帯電話の番号を書いた紙をいただいたのです。かける機会がなかったので引き出しの奥にずっと仕舞われたままでしたが。クラスメイトに電話を掛けるのは非常に勇気を必要とする行為です。まずプッシュボタンを押す指が震え、通話が始まったところで自分の名前を告げる言葉が震え、事務的な女性の声で留守番電話サービスであることを告げられました。舌を噛みながら伝言を残して受話器を下ろすと、泥のような疲労感が押し寄せてきます。
 しかしここでくじけるわけにはいかないのです。宗方さんが留守だった以上、問題はなにひとつ解決していないのですから。
 わたしは深呼吸をしてから、次に新山さんに電話をかけることにしました。若干、部屋に上げるのが怖い部類の人ですが……。
 今度はそれほど時間も経たずに新山さんが出ました。すぐに名乗ろうとして舌を噛みそうになりました。まったく進歩していません。
「こんにちは。竹折です」
「え? ……あ! も、もしもし新山ですっ」
 初めて会った二人のようなへんてこな会話でしたが、そのときのわたしは緊張していてまったく変だと思いませんでした。
「竹折さんから電話が来るなんて初めてだね。すごい!」
「電話のかけ方は知ってるよ」
「あっ。そういう意味じゃなくて。えっと、いつでもかけてきていいよってこと」
「うん。分かった」
「わー、竹折さんの声って電話越しでも綺麗だね」
「……そう、かな」
「えへへ、役得。それで、どうしたの?」
「あ、うん」
 新山さんの盛り上がりから、このまましばらく話は脱線すると思っていたのですが、意外でした。
「もし忙しくないなら、家に来ないかな、と思って。特に何かがあるわけじゃないけど、もし良かったら――」
「え? それって招待?」
「そのつもりだよ」
「わー、竹折さんの家、行くの初めてだよね? すごい楽しみ! 絶対行く! 今すぐ行くわ!」
「……うん、喜んでくれてよかった」
「ところでどこに住んでるの?」
「えーと」
 それからしばらくアパートの位置を伝えようと努力しましたが、結局諦めて、夏祭りのときに使った喫茶店で待ち合わせることになりました。
「それじゃ私、一時間くらいで行くから」
「あ、もしかして今忙しい?」
「ううん。でも準備しないといけないし」
「準備?」
「初めて竹折さんの部屋に行くのよ? ちゃんとした服に着替えないとね」
 新山さんは弾んだ声でそう答えました。……わたしも、着替えた方がいいのでしょうか。バーゲンで買った、黄色の花柄ワンピース。
「新山さん、今は家にいるの?」
「学校だよ。ほら、バレーボール部だから練習で。今は休憩中よ。だから電話に出られたのは偶然。っていうか、運命だね」
「ええ? じゃあ忙しいんじゃ――」
「大丈夫! 今暇になったから。じゃあねー」
 新山さんの声の向こうに宗方さんの声が聞こえたような、聞こえなかったような。



 言われたとおり一時間後に喫茶店で待っていると、十分ほど遅れて新山さんがやって来ました。どうやら気合いを入れてお洒落をしてきたようで、そのことについて話すと服を見せるためにわたしの前でくるりと一回転しました。白いショートパンツに、上はフリルのついた青のブラウスです。しかしわたしは残念なことに何がお洒落で何がお洒落でないのかが今ひとつ分からない女なのです。新山さんはいつでもお洒落で可愛い女の子です。
「新山さん、それは?」
 新山さんの持っていた紙袋を指差しました。新山さんはよくぞ聞いてくれたとばかりに笑みをつくると、わたしの目の前に人差し指を立てます。
「秘密。竹折さんの家に着いてからのお楽しみっ」
 それからわたしは新山さんをわたしのアパートに案内しました。竹折乃美子の自宅に対して幻想を抱いていたようだったので、真実を見せるのに若干の抵抗がありました。決して新しいわけでもない、お洒落なわけでもない、立地と家賃くらいしか特徴のないボロアパートです。
「お、お邪魔します」
 緊張している、というよりは気合いの入った所作で新山さんが家にあがります。時刻は三時半を回っていました。急いでリビングのエアコンをつけると、座布団を出してお茶の準備をします。
「へー。思ったよりも普通なんだね」
「一体どんな想像をしていたの」
「うーん。噴水のある洋風の豪邸。お手伝いさん付き」
 それは石館くんの家です。
「甘いものは好き? 今お茶請けを――」
「あ、そうだ。お土産」
 新山さんが紙袋の中から白い紙箱を取り出しました。
 ……その箱に、ものすごく、見覚えが、あるのですが。
「じゃじゃーん! シュークリームだよ」
 可愛い効果音付きで、そいつは現れました。
「……シュークリーム」
「あれ? 竹折さん、甘いものは嫌い? うぇ……あ、あれ? 私何か悪いコトした?」
 わたしは怯える新山さんを置いて立ち上がると、台所へ行って冷蔵庫を開けました。まだ手つかずのシュークリームの箱を持って、リビングに戻ります。無言で箱を開けました。中にはシュークリーム。
「あ。かぶっちゃったね」
 失敗、と苦笑する新山さん。未だに彼女は、事態の深刻さを把握していないようです。
 それからはお気楽な新山さんとわたしとでシュークリームを食べ始めます。新山さんも甘いものは嫌いではないらしく、自分の持ってきた一箱分はけろりと食べてしまいました。しかし我が家にはシュークリームの控えがまだ三箱も残っていることを告げるとさすがに顔色が変わります。
「うぇっ……私もう無理かも」
「がんばって」
「甘い。というか、意外にシュークリームって油っぽいのね。クリームが濃厚すぎる」
「口直しにどうぞ」
「って新しいシュークリームを出さないでよ! 大体、私が持ってきた分のはちゃんと私で食べたんだし、それは竹折さんが」
「一蓮托生」
「……う。なんか、もたれる。胃が」
 二人で楽しいティータイムです。



 健闘むなしく新山さんもギブアップしてしまいました。
「……ごめん。もう気持ち悪い」
「知ってる」
 わたしも同感でした。
 新山さんはカップの紅茶をひとくち飲みました。最初は砂糖を入れていましたが、今は少しでも甘さから逃避したいということでストレートティーです。新山さんは手をついて体を後ろに預けます。ストレッチをしているようにも見えますが、単に目の前のシュークリームから目を逸らしたかっただけでしょう。
「やっぱりこれ、二人で食べきるのは無理じゃないかな。誰か呼ぼうよ」
「宗方さんは留守番電話だった」
「ああ。部活の練習中だったしね」
 新山さんは練習しなくていいのでしょうか。
「こんなことならバレーの練習してれば良かった。でも竹折さんの家に入れてもらえたんだからやっぱり来て正解だったかも。うー、どっちだろう……」
 なんて殊勝なことを言っています。
 そのとき、新山さんの携帯電話が爽やかなメロディを奏でました。「はいはいはい」と言いながら携帯電話を取り出して、ディスプレイを見て絶句していました。
「新山さん?」
 と問いかけると、彼女は黙ったままディスプレイをこちらに向けて見せました。「真琴」と表示されています。同姓同名の知り合いがいない限りは宗方真琴さんのことでしょう。
 新山さんはしばらく携帯電話と睨めっこを続けていましたが、それでも呼び出し音は諦めずに鳴り続き、とうとう新山さんの方が先に折れて通話ボタンを押しました。
「……はい」
「おい燈子! お前練習さぼってどこ行ってんだ!」
 わっ、と新山さんが携帯電話から耳を離しました。わたしの耳にも宗方さんの声が聞こえました。電話の向こうの宗方さんに、新山さんは体を小さくしてひたすら謝っています。新山さんが電話をしている間、わたしは新しい飲み物の準備をしていました。今日だけで紅茶を何杯飲んだのでしょうか。さすがに飽きてきたので麦茶を二人分用意します。しかしたとえ麦茶でも、今は水一滴口の中に入れたくない心境なのですが。
 麦茶を持ってリビングに戻ると、どうやら宗方さんの説教は一段落ついたらしく、新山さんはいつもの楽しそうな声で話をしていました。
 新山さんはわたしの姿を見ると、通話口を手で押さえて言いました。
「あ、竹折さん、今から真琴呼んでもいい?」
 もちろんわたしに異存などあるはずもありません。新山さんはわたしの家の場所を言葉で宗方さんに伝えます。わたしが諦めたのとは違って、新山さんは整理された言葉で分かりやすくアパートの位置を伝えました。さすが新山さんは賢いお方です。わたしなどとは地頭の良さが違うのでしょう。
 最後に、宗方さんが来る時間を確認して、新山さんは通話を終了しました。携帯電話を二つに畳んでから、そういえば、と新山さんは思い出したように言いました。
「シュークリームのこと言うの忘れた。これを見たら真琴、きっと喜ぶよ。甘いもの好きだから」
「そうなんだ。意外かも」
 勝手なイメージですが、宗方さんは激辛料理の方が似合っているような気がします。わたしがそう言うと、新山さんはお腹を抱えて笑い声を漏らしました。
「ふふふ、確かに。唐辛子みたいだもんね、真琴。いっつも熱いし」
 噂の宗方さんは三十分ほどで我が家にやって来ました。部活が終わってから直接来たらしく、制服姿です。わたしがリビングまで案内すると、遠慮がちに部屋の中をきょろきょろと見回していました。
「へえー。思ったより普通だな」
「一体どんな想像をしていたの」
「本棚が壁一面にびっしりとか」
 そんな家に住みたかったです。
「真琴、それは?」
 新山さんが指差したのは、宗方さんが持っていた白い箱です。宗方さんは誇らしげに箱を掲げました。嫌な予感がします。
「これか? 商店街のケーキ屋でシュークリームが安かったから買ってきたぞ!」
 嫌な予感は、当たるものです。



「あはは。あたしさ、シュークリーム大好きで、いつかお腹いっぱい食べてみたいなあって思ってたんだけど、実際にやってみるとこれ、すぐに飽きるな」
「真琴、ほら」
「どうぞ、宗方さん」
「……せめて一個ずつ出してくれ」
 皿の上に並んだ二つのシュークリームを見て、宗方さんはうんざりした表情で言います。
 宗方さんが甘いもの好きだという話は本当でした。宗方さんの活躍で、当初我が家にあった分のシュークリームはもはやあと一箱を残すばかりとなりましたが、しかし宗方さんの様子を見ている限り、これ以上はもう戦えそうにありません。
「……誰か、他に呼ぶしか」
 わたしがぽつりと漏らすと、宗方さんがすぐに反応します。
「それじゃ、俊一と真斗を呼ぼうぜ。とりあえず俊一かな」
「その前に真琴、戸野くんに、シュークリームは絶対に買ってこないよう言ってね」
「当たり前だ。これ以上増やしてたまるか」
 宗方さんは携帯電話を操作して戸野くんの電話番号を呼び出しました。戸野くんとしばらく他愛のないやりとりをしてから、ここの場所と、今現在わたしたちが置かれている状況について説明します。
「いいか、絶対にシュークリームは持ってくるなよ。絶対だぞ!」
 最後にそう言い含めて宗方さんは電話を切りました。
「それじゃ、次は真斗だな。燈子、かけてくれ」
「私、番号知らない」
「あたしも知らん。じゃ竹折さん――は、知らないよなあ」
「知ってるかも」
 わたしがつい答えると二人は目を丸くしました。奈緒さんとお父さんが再婚する関係で、石館くんの住所と電話番号はちゃんと控えてあるのです。
 若干錯乱気味になった新山さんがわたしに詰め寄りました。
「な、何で? どうして竹折さんが知ってるの? え。嘘? ち、違うよね? なんで!?」
「なんとなく」
 新山さんに意味のない答えを返してから、彼女のことは宗方さんに任せて、わたしは石館くんに電話をかけることにしました。わたしは携帯電話を持っていないので家の固定電話からかけます。
「竹折さん、携帯電話持たないの?」
 宗方さんが不思議そうに聞いてきました。高校生が携帯電話を持つのは少し早いのではないかと思うのですが、正直にそう答えて野暮ったい人間だと思われるのは気が進みません。何と答えるのが一番スマートだろうかと考えていると、答える前に電話が繋がりました。
 電話に出たのは石館奈緒さんです。電話越しに聞く奈緒さんの声は、いつもより凛々しく聞こえます。
「もしもし、竹折です」
「え、乃美子ちゃん?」
「はい」
「あらまあ。乃美子ちゃんから電話が来るなんて、びっくり」
 わたしも、まさか石館くんの家に電話をかける展開になるなんて思ってもみませんでした。びっくりです。
「それで、どうしたの? 私に用? それとも真斗?」
「石館真斗くんに変わってください」
「分かったわ、ちょっと待ってて」
 保留音がしばらく鳴ってから、石館くんのぶっきらぼうな声が聞こえました。
「石館くん、今は暇?」
「ああ」
「じゃあ今からわたしの」
 言いかけて、電話で男の子を家に誘う気恥ずかしさが今さらながらこみ上げてきました。いえ、そんな小さなことを気にしていてはいけません。なぜならわたしと石館くんはこの先ひとつ屋根の下で暮らすことになるのです。こんなところで気恥ずかしさを感じている場合ではないのです。いやそもそも、石館くんがわが家に来るのは今回が初めてではありませんし。
「――今からわたしの家に遊びに来ませんか?」
 友達っぽく聞こえるような精一杯の言い方で誘ってみます。石館くんは受話器の向こうでしばらく押し黙ってから、「今から行けばいいのか?」と短い疑問で返事をしました。
「今すぐに」
「分かった」
 先に電話を切ったのは石館くんでした。通話は耳障りな音で遮断されて不通音に切り替わります。平静を取り繕ってわたしも受話器を戻します。
「真斗は何て言ってた? 来るって?」
 わたしはゆっくりと頷きました。
「……おかしい」
 と、新山さんが低い声で言います。新山さんは、後ろから羽交い締めにされるような格好で宗方さんと床の上で絡まっていました。
「ああ? 何がおかしいんだ?」
「今竹折さん、石館くんにここの住所言わなかった。なんで石館くんが竹折さんの家の住所を知ってるの?」
「言ったよ」
 はい、嘘をつきました。
「言ってなかったよ! ねえ真琴」
「あー、そうだったっけ?」
「わたし、言ったよね?」
「真琴、どっち!?」
「言ったような、言ってないような……」
 宗方さんの記憶が曖昧で助かりました。
 数十分後、先にやって来たのは戸野くんの方でした。石館くんの家からでは、車を使わなければどんなに急いでも三十分はかかると思います。
 戸野くんが家に上がってきたとき、嫌な予感というか、確信に似た予測を抱いたのは、戸野くんが見覚えのある白い箱を抱えていたからです。
「シュークリームは買うなって言われたから、あえて買ってきたぜ!」
 その直後、宗方さんが戸野くんを張り倒しました。



 その後、さらに石館くんが合流して、わたしたちは五人でシュークリームを食べました。狭いリビングに五人も詰め込んだのでエアコンをつけているにもかかわらず徐々に蒸し暑くなってきました。
 戸野くんは自らシュークリームを買ってきて盛大な自爆をしてくれたわけですが、甘いものがあまり好きではないらしく、自分が買ってきた分も満足に食べられない様子でした。そのことで再び宗方さんにいびられています。石館くんも、それほど美味しそうには食べていなかったのですが、機械のように一定のペースでシュークリームを咀嚼していました。
 夕方になって、その頃にはシュークリームの残りもあとわずかになりました。これくらいならばお父さんとわたしとで二日もせずに食べられると思います。わたしは助けに来てくれた四人に頭を下げてお礼を言いました。
「みんな、今日はありがとう」
「つーかごめん。あたしなんかシュークリームを買ってきて逆に増やしたわけだし」
「そうだぞ真琴。反省しろ」
「お前にだけは言われたくねえ」
「もし良かったら、また来ても良い?」
「今度は夕食をごちそうする」
 そう宣言すると、新山さんは興奮気味に何度も頷きました。「約束だからね? 絶対だよ?」と念押しします。ひょっとすると軽率なことを言ってしまったのかもしれません。
「…………」
 石館くんは何か言いかけていましたが、みんなのことを見て喋るのをやめました。今日の石館くんはいつにも増して無口です。余計なことを言ってボロを出すのを恐れているのかもしれません。
 シュークリームの残りを冷蔵庫に戻してからも五人でだらだらと雑談を続けていました。
 家のドアが開く音が聞こえました。お父さんが帰ってきたのです。わたしは急いで出迎えに行きました。
 お父さんは最初、家にわたしのクラスメイトがいることに驚いて、リビングを見て、石館くんの姿があることに驚きました。
「乃美子、真斗――」
「め、珍しいね! こんなに早く帰ってくるなんて!」
 お父さんが余計なことを言う前に慌てて遮りました。声が少しうわずってしまったかもしれません。新山さんが不審な目をわたしに向けています。
「お、おお……。あ、そうだ。ちょうどお土産を買ってきたんだよ。みんなで食べなさい」
 一瞬で、みんなに緊張が走りました。
 固唾を飲んで見守ります。
 ――お父さんがテーブルに置いたのは、茶色の紙袋です。
「……おじさん。これは?」
 恐る恐る戸野くんが訊ねます。お父さんは気圧されながらも答えました。
「タイヤキだよ。もしかして、あんこがダメな子がいるとか?」
 それを聞いてみんなの表情が緩みます。一番派手に喜んでいたのは宗方さんでした。わたしも安心してその場にへたり込んでしまいます。わたしたちは、運命のもたらしたシュークリームの試練に打ち勝ったのです。勝利の達成感と、厄災が終わった安堵に酔いしれました。
「……よく分からないけど、喜んでもらって嬉しいよ。それじゃ、すぐに食べよう」
「いえ、もう結構です」
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