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6.僕の選択

 夏休みは一瞬で過ぎ去ってしまった。僕はまだ暑さの続く夏のアスファルトの上を、これから再び始まる授業に胸を痛めながらふらふらと登校した。だけど僕なんかはまだマシな方だった。仲宮さんは前日の晩まで夏休みの宿題と格闘した挙句に終わらなかったらしく憂鬱というレベルを通り越して顔面が蒼白だった。
「仲宮さん……大丈夫ですか?」
「なあ、石岬。一緒に遠くへ逃げよう」
「放課後でよければいくらでも付き合いますよ」
 仲宮さんは毎朝バスで通学している身だ。それを僕と一緒に登校するためにわざわざ途中で降りて僕のことを待っていてくれるのだ。そのことに気がついて何度か固辞しようとしたけれど、僕以上にがんこな仲宮さんに力押しで敵うはずもなく、僕は今日もこうして遠くから来た彼女を待たせているのです。
 基本的に夏休みが終わり二学期がやって来ても大した変化はない。クラスメイトの何人かは盛大に日焼けをして真っ黒だったし中には突然仲良くなった男女もいるにはいるが、基本的には一学期の状態を引き継いだ変化である。
 唯一不思議なことと言えば、登校日初日にも関わらず浅間が欠席しているという点だった。僕の記憶が確かなら彼は一学期に一度も欠席しなかったはずだ。健康であるのも理由の一つだろうけど、何よりもあいつは学校をさぼってどこかに遊びに行くような軟弱な奴じゃない。学生は学業が本分だとか何とか言って、毎日居眠りもせずに授業を受けるような律儀な男なのだ。
 僕が不思議に思ってそのことについて頼子に質問してみるがもちろんあいつが浅間のことを知るはずがない。
 あいつは変なところで抜けているから夏風邪でもこじらせたんだろう、と無理やり納得して、その日の放課後は久しぶりに生徒会室に顔を出す。
 と、ここでも奇妙なことが。なんと美潮先輩が生徒会室に来なかったのだ。
「仲宮さん、会長は?」
「わからない。掃除が終わったら、先生と一緒に職員室に行ってしまった……」
「美潮先輩、何かしたんですか?」
「呼び出されるようなことはまだしてないはずだが」
 まだ、って。
「心配だ。何か悪いことでもしたのだろうか」
「そんなに信用ないんですか」
「渚紗はときどきとんでもないことをやらかすからな。いつもわたしが助けてやらねばならんのだ」
「えー、そうなんですかー? 私はてっきり助けられるのは仲宮さんだと思ってました」
 扇風機を通したがらがらの声で頼子が言った。あいつはさっきからずっと扇風機で遊んでいる。あんなん一体何が楽しいんだ。
「心外だな。いつも暴走気味の渚紗を抑えるので大変なんだぞ」
「美潮の暴走を止めるために仲宮の方が暴走して収拾がつかなくなる、というのがいつものパターンだな」
 冷静な声で西後先輩。先輩は床の上にチェスボードを広げて一人で両方の駒を動かしていた。いつもは美潮先輩が彼の相手をするのだが、美潮先輩が欠席してしまうとチェスのルールが分かる人間が一人もいなくなるのだ。
「あの……西後先輩」
「あん?」
「ひとりでチェスって面白いですか?」
「そう思うならお前が相手をしろ。掛け金は二千円からだ」
「ご遠慮します」
 ものすごく哀愁漂う姿だった。
「まあ、美潮が来ないことには話はすすまん。とりあえず適当に時間を潰して待つつもりだが。帰りたいなら帰ってもいいぞ。どうせ今日もろくに活動しないしな」
「そりゃそうですけど、生徒会に入ったときに言った権利には義務がどうのこうのって話はどうなったんですかね。僕、まったく生徒会らしい活動をしてないんですけど」
「石岬は十分に生徒会らしい活動をしているぞ?」
「具体例を挙げてください」
「夏休みに旅行に行った時は全員の点呼と誘導をしていたじゃないか」
「あれはみんなが勝手にふらふらどこかに行くからですよ。ていうかここのメンバーは協調性が――ああ、もう。そういう話じゃなくて」
 そもそもそれは生徒会の活動じゃないだろ、という突っ込みが出なくて思考が空回りした。
「んー、単純にさー」
 扇風機に向かって頼子。だま飽きないらしい。
「先生から雑用とか言付かってるんじゃないの? 私たちに仕事がないのって、簡単な雑用ならみんな美潮先輩がやっちゃってるからだし」
「そうなのか?」
「ああ。わたしも何度か手伝うといったのだが、渚紗は何でも一人でやりたがるからな」
「独立精神が強いんですよー。と、いうわけでー、恋十郎は別に心配する必要はないのだー。だからここで一緒に扇風機で遊ぼう」
「遠慮する。お前は小学生か」
 結局その日は美潮先輩が来なかったのでそのまま解散する向きになってしまった。なんとなく不安を感じて僕は下校する。そんな感情を機敏に察したのか、隣を歩く仲宮さんが努めて明るく振舞おうとしているのがバレバレだった。
 そして重要なのは翌日だった。
 九月二日。
 この日が僕にとって決定的な一日となる。
 朝教室に入ると、そこにはやはり浅間の姿がない。遅刻しそうで走ってきたのに加えて残暑で汗が止まらない。指で汗を拭いながら席に着くと、頼子が僕に引っ付いて来た。
「おはろー」
「暑いからやめてくれ……。それで、浅間は来てないのか?」
「うん。なんかねー。しばらく来れないっぽいよ」
 その言い方が唐突だったので僕は鼻で返事をする。頼子の思わせぶりな言い方は今に始まったことではないけれどその言い方がすごくそっけないことに引っ掛かる。
「お前はな、あれだ」
「うんうん?」
「もうちょっと説明をしたまえ。情報源はどこだ」
「うーんとねぇ、所沢先生。今朝廊下で会ったからいろいろ話してて、そういえば浅間くんはきみのクラスだったねえって言われたから、私はそうですよって答えて、そういえば昨日欠席してましたって言ったら、浅間くんはしばらく来れないと思いますよ、って先生が言ってた」
「所沢先生……って学年主任だろ。なんで浅間の名前が……」
「葬式とか法事とか結婚式なんじゃないかなぁ。公欠扱いになってるとか」
「だったら藤谷先生が知ってるだろ。この間浅間のことを聞いたら何も知らないと言ってたぞ」
「ふーん。藤谷先生ねぇ……」
 頼子は何か言いたげな視線を僕に送る。今日は一体何なんだよ。言いたいことがあるなら早く言えよ。
「まあ私はある程度予想がついてるからいいけどね」
「予想?」
「未来の予想。恋ちゃんは経験ないかな。人生のあるポイントで、ああ、こうなるかなって、なんとなく分かるの」
「僕に予知能力はない」
「んー。それじゃ私だけかな。今そういうのがあるの。これからどういうことが起きるのか何となく予想がつくよ。虫の知らせってやつかな。その虫が私に囁いているんだけど、あんまり藤谷先生を信頼しない方がいいかも」
 こいつが僕以外のことを悪く言うのを初めて聞いた。ましてや藤谷先生。顔が広いと言うか、妙に教師陣と仲の良い頼子がそんなことを言うなんて。
「別に信用するなとか、あの人は悪い人だって言うんじゃないけど。あんまり買いかぶらない方がいいかもね。あの人は大勢いる先生のうちの一人でしかなくて、ただの公務員なんだから」
「あのなあ……そういう回りくどいのはもうやめてくれ。それと浅間のことにどんな関係あるんだ? いきなり藤谷先生を引き合いに出したのは何なんだ?」
 そこでチャイムが鳴って、頼子はこれ幸いとばかりに僕の元を離れて自分の席に向かう。その背中に何度か声を掛けたけど彼女は何も答えなかった。その目に少しだけ同情が浮かんでいたのが気になった。それは、誰に向けての同情だろう。
 ただでさえ長い休みの直後、それに加えて浅間の欠席と思わせぶりに人の不安を誘う不逞な頼子のせいで僕はまったく授業に集中できなかった。と言っても僕は真面目に勉学を極めるつもりなんか毛頭ないわけだけど。
 放課後に頼子と連れ立って生徒会室へ向かう。
 生徒会室には浅間以外のメンバー全員が揃っていた。昨日はいなかった美潮先輩が、会長用の椅子に座って僕たちを待っていた。
「石岬くん、頼子ちゃん、とりあえず座って」
 僕の名前を間違えることなく読み上げる。それでなくとも彼女の表情は真剣だった。僕たちふたりが床に腰を降ろすと仲宮さんが隣に寄って来た。
 美潮先輩は全員を見渡して話を始める。
「浅間くんが昨日来なかったのは知ってる?」
「ええ、まあ。同じクラスですから」
「浅間くんは停学になったわ」
 ――はい?
 と、僕のリアクションはずいぶんと情けない声だった。そりゃそうだろう、いきなりそんなことを言われて『なるほど、停学ですか。いい奴だったのに残念です』などと返せるはずがない。
「な、何で……? 停学って、あの、浅間は何をしたんですか?」
「浅間くんがアルバイトをしていたのを知ってるでしょう?」
 知っている。お姉さんの喫茶店のアルバイト。いや、まさかあの程度のことで停学になるはずがない。
「バイト中にお客さんと喧嘩になったそうよ。陵真の大学生。相手は骨折と打撲で全治一ヶ月。大学生ってのもまずかったわ。うちから推薦で何人も入れてもらってるから、それに対するアピールってのもあるんでしょうね」
「浅間が喧嘩? 本当に?」
「本人は相手の方から絡んできたって言ってるけど、例えそうだとしてもやりすぎだわね。無期限停学だから……半年か一年か、分からないけど、ほとぼりが冷めるまでは停学は解けないって」
 あの浅間弘という人間と、『喧嘩』とか『停学』とかいう単語が僕の中でどうしても結びつかない。あいつの金髪とピアスを見て不良と決め付ける人間も多いが、あいつの中身は根っからの体育会系だ。自らを自制することを至上命題としている節のあるあいつが、どんな挑発を受ければ喧嘩なんかするんだろうか。
「あの浅間が喧嘩なんて……そんなのあり得ないですよ」
「怪我人がいるのは本当のことよ」
「何かの間違いです」
「その可能性も含めて検討した結果の停学処分よ」
 僕はこの時点でやっと美潮先輩に違和感を覚えた。僕の中にある美潮先輩の像と実際に目の前にいる美潮先輩が結びつかない。
 沈黙した僕に代わって仲宮さんが問う。
「渚紗、浅間はどうなるんだ? 何とか助けられないのか?」
「助けるも何も、こればかりはしょうがないわ。浅間くんが暴力を振るったのは事実だし、その事実に対して目を瞑ることは出来ない」
「――ちょっと待ってください。美潮先輩、もしかして、本当に浅間が喧嘩をしたと思ってるんですか?」
「職員会議ではそういう結論に至ったわ」
「そうじゃないですよ。美潮先輩の見解を聞かせてください。どう思うんですか?」
「……正直に言えば、あの結論にはわたしも少し疑問に思っている」
「だったら生徒会として正式に抗議しましょう。あいつがそんなことをするってことは、何か理由があるはずなんですよ」
「それは浅間くんがあなたの友人だから?」
 意地の悪い質問に僕の舌が止められる。
「あのね、石岬くん、そりゃわたしたちは同じ生徒会で浅間くんの良いところをたくさん知っているわ。だからと言ってそれだけで彼の暴力を弁護は出来ないの。客観的に考えて彼に非があるのは間違いない。それに対して停学という罰を与える。この流れのどこに抗議を挟む余地があるの?」
「それは――」
 納得いかない。僕の中に不満がじわりと広がった。自分の思い通りにならない不快感。美潮先輩がそんな正論を言うことが不快だったし、その正論に対して反論できない自分にも不快だった。
 間違っている。僕は八つ当たりのようなことを考える。破壊衝動。もしこの場に誰もいなかったら僕は躊躇なくそれを実行していただろう。例えばあの会長用の椅子を持って窓ガラスをぶち割るのなんかどうだろうか。それくらいやっておけば僕の閉塞感や不快感も少しは晴れるのかもしれない――。
 仲宮さんが僕の腕を掴んだ。不安そうに僕のことを見る。それだけで僕は少しだけ冷静になった。大丈夫です、と小声で答えて彼女を安心させた。
「それはあまりにも冷たいんじゃないですか?」
「そう思う?」
「はい。もう少し調べる必要があると思います。ちゃんと浅間の言い分も聞いて――」
「その上での判断よ。被害者と加害者両方の意見を聞いて、その上で彼の処分を決めたの」
「なんで……浅間のことを信じられないんですか?」
「これはそういう問題じゃない。わたしは生徒会のメンバーだけを守っていればいいんじゃないのよ。人を殴ったら罰を与える。そうしなければルールを守れないし、ルールを守らなければここの生徒を守れない。わたしは全校生徒の代表なのであって、生徒会の代表じゃないわ。もっと大局を見なさい」
「それでも……会長なら守ってくださいよ! 美潮先輩なら浅間を守れるでしょう!?」
「石岬、少し落ち着け。渚紗も、少し言葉が過ぎるぞ」
 感情的にわめく僕を、静かな声で仲宮さんが諭す。それだけで僕たち、というか主に僕だけど、感情の高ぶりが収まり幾分か冷静になった気がする。美潮先輩は悪びれた様子もなくそうねとだけ答えてそっぽを向いてしまった。僕はまだいろんな事に納得がいかなかったけれど、これ以上騒いでも埒が明かないということを判断する理性ぐらいはまだ残っていた。多分、仲宮さんがそばにいてくれたおかげだろう。
 だけど僕は、納得できなかった。
 それまで黙っていた西後先輩が静かに口を開く。
「つまり美潮、生徒会は浅間への処分に対して納得している――そういうことになっているんだな。浅間を教師たちに差し出した、と」
「そういう意地の悪い言い方は好きじゃない。だってこの処分は公正よ。とにかく、生徒会のリーダーとして、生徒の代表として、この件に関して正式に抗議するようなことはしないわ。もし石岬くんがそれでも異議があるんなら、あなたが個人的に先生に働きかければいい。……今日はこれで解散かしら。わたしもいろいろやらなきゃいけないことがあるからね」
 美潮先輩が一方的に打ち切ったので僕は生徒会室を飛び出した。いてもたってもいられなかったのだ。ああそうかい。個人的にやれっていうならやってやる。こんな理不尽を放っておいてたまるか。それにしても僕はどうしてこんなに憤っているんだろう。頭にこんなに血が上るのは久しぶりだ。そんなに友情に熱かったっけ。この熱さは一体、どこから出て来るんだろう――?
 僕はいささか乱暴に職員室のドアを開け、無言で中に入る。本来なら失礼しますと頭を下げるのが礼儀なのだが今の僕は教師に頭を下げられるほど寛容ではなかった。絶対に頭を下げてやるものか。こんな理不尽を僕が正してやるんだ。
 自分の机で何かの書類を書いていた藤谷先生の前に立つと、彼女は僕に気付いて顔を上げる。どうしたの石岬くん、何か用? と平和な声で僕に訊いてくる。今の僕は彼女がどんなリアクションをしたところで油が注がれたみたいに感情の炎が高ぶってさらに熱を帯びるのだ。
「浅間が停学になったという話を聞きました」
「……そう。生徒会長から聞いたの?」
「あいつは人に暴力を振るうような奴じゃありません。あいつは無実です」
「それは、友達を庇いたいのは分かるけど、でも怪我をさせたのは本当なのよ?」
「浅間が暴力を振るったってことはよっぽどの理由があったんです。喧嘩なんかじゃないんですよ! その怪我をした大学生ってのが、多分浅間に何かした――」
「いい? 石岬君。浅間くんの停学は職員会議で決まったことなのよ。私も辛いけど、どうしようもなかったのよ」
 沈痛な面持ちで僕に語りかける藤谷先生。僕の内側から衝動がせり上がってくる。この女の頬をひっぱたいてやりたいと思った。自分も職員会議に参加しておきながらその無責任さは一体何なんだ。あなたには職員会議に出て発言する権利が与えられていたはずだ。あなたには会議で浅間の処分に対して異議を唱える権利があったはずだ。それをしなかったのはあなた自身だ。あなたがあなたの意思においてあなたは浅間を裁いたのだ。それをまるで自分にはどうしようもなかったと言いたげに――被害者面して!
 このときの僕の失望をどのようにして言葉に直せばいいのだろうか。僕は職員室の中でしかも担任の先生の目の前だというのに突然大声で笑い出したい衝動に駆られる。だって、ここで笑わないでいつ笑うんだ? 僕たちのクラスを守ってくれると思っていた女はとんだ役立たずだったよ。あはははは!
 鉛のような体と心を引きずって職員室を出た。人がいないのを確認して僕はこらえていた涙を流した。涙だけではなくて嗚咽も漏れてしまった。それを抑えようとするとしゃっくりのように妙な声が出た。人がいなくてよかった。こんな姿を見られたらたまったもんじゃない。
 僕は悔しかった。美潮先輩も藤谷先生も、誰も浅間を助けてやらなかった。哀れな浅間。美潮先輩も藤谷先生ももしかしたら浅間を助けられたかもしれない地位や立場や力を持っていた。それなのに彼女たちの事なかれ主義によって彼の学校生活は破壊されてしまったのだ。なんて不幸な彼。そして誰よりも彼を助けたいと思っている僕に、彼を助ける力がない。
 僕が放課後の廊下で柱の影で、夕日のまぶしさから隠れながら嗚咽を漏らしていると、僕にそっとハンカチを差し出す手があった。高そうな藍染のハンカチ。差し出したのはやっぱり仲宮さんだった。それでも僕が泣いていると肩をやさしく抱いてくれる。どうしてここで泣いていると分かったんだろう。まるで魔法使いだ。
「大丈夫か。浅間が見たら笑われるぞ」
「……『こういうとき、涙をこらえるのが』」
「『男だろう』、だな」
 仲宮さんは僕の言葉を引き継いで、口元を緩ませた。少し笑ったのかもしれない。彼女の笑顔は相変わらず分かりにくい。
 仲宮さんに慰められてこの正体不明の涙が収まると、今度はいてもたってもいられなくなった。かつて浅間ほど僕に友情を示してくれた男がいただろうか。その友情に対して僕はどのように報いたのか。――彼を助ける以外に、僕のこの感情を示せるだろうか。
 校門を出た僕の足は家へは向かわなかった。不思議に思った仲宮さんが訊く。
「石岬、どこに行くつもりだ」
「浅間から直接話を聞きます」
「今から行くのか?」
 すでに夕方、あれだけ熱を帯びていた空気は太陽が少し下がっただけでもう冷やされてしまった。蝉の声がじんじんとうるさい。その騒音に負けないように答える。
「今行きます。少しでも早く何かしたんです」
 そうか、と仲宮さんは頷いた。それだけで、僕は自分がやろうとしていることに対する不安や不信が吹き飛んだ。彼女はどれだけ僕の力になってくれるんだろう。これが愛の力か、という自分の考えを即座に否定した。
 僕は浅間の家を知らない。だけど浅間がバイトをしていたあの喫茶店の場所なら知っている。目的地をそこに定めてバス停に歩き始めると仲宮さんもついて来た。
「わたしも行こう」
 心細かった僕は正直言って彼女の申し出が非常にありがたかった。
 バスに揺られて数十分、バス停を降りてから何度も道を間違えたけれど、記憶の底を掘り返してなんとかあの喫茶店に辿り着いた。すでに太陽は完全に隠れているがまだ空はほのかに明るく雲ひとつない。今夜は雨の心配はなさそうだ。
 喫茶店のドアにはCLOSEの文字が書かれた長方形のプレートが掛かっていた。中に人の気配がない。浅間の事件が起きてから休業してしまったのだろうか。
「どうするんだ石岬。お前のことだ、こうなった場合の次善策はもう用意してあるんだろう?」
 きらきらと期待に満ちた綺麗な瞳が僕を射殺す。
 ご期待に添えなくて申し訳ないですけど、あいにくこの事態は想定外でした。とは言えない。言えなかったけれど、どうやら察してくれたらしい。
「そうか……。いや、過剰な期待をしたわたしが勝手だったのだ」
「すみません」
「謝ることはない。それにしても、変わったな」
「僕ですか?」
「ああ。衝動的に行動するようになった」
「だめですね、僕。もうちょっとしっかりしないと」
「そうかな。素敵だと思うぞ」
 仲宮さんは僕に背中を向けていた。だからまるで吐き捨てるみたいな言い方になってしまったけど、その暖かさは十分伝わってきた。
 「仲宮さん……」と感動しかけたけど僕らはこんなところでいちゃついている暇はないのだった。どうしよう。喫茶店のどこかに浅間の住所とか電話番号とか載ってないかな、と思っていると、店と民家の間の細い通路を通って誰かが出てきた。
「そんなところで何をやっているんだ?」
 エプロンと声でそれが誰なのかやっと分かった。
 浅間だった。
 僕が彼を浅間と判別できなかったのは彼の金髪がすべて剃られて丸坊主になっていたことと両耳に付いていたピアスがすべて取り去られていたことが理由だった。
「仲宮先輩も。どうしたんですかわざわざ。俺に何か御用ですか」
「用があるのは石岬だ」
「お前、停学になったんだってな」
 僕の顔を見て浅間は言葉を濁らせて黙ってしまった。僕の顔はそんなに険しかったのだろうか。
「……とりあえず、中に入れ。コーヒーの一杯くらいは振舞ってやろう」
 エプロンのポケットから鍵を取り出すと、喫茶店のドアを開けた。



 浅間の話によれば、停学中は店でアルバイトをするつもりは一切ないらしい。ではなぜ今日彼がここにいたのかというと、しばらく閉めることになる店が気がかりで、最後くらいは綺麗に掃除してやろうというただの気まぐれだったのだ。僕たちはその気まぐれにタイミングを合わせて来店したことになる。
 「僕は浅間がこの店に来る可能性を計算していた」などと閻魔大王もびっくりの嘘を吐くと、当然ながら真に受けたのは仲宮さんだけで、ますます僕のことを尊敬を含んだ輝くような瞳で見つめるのであった。これでますますハードルが高くなるな。自分で自分の首を絞めてどうするんだ。
 僕と仲宮さんはカウンターに座って浅間と向き合った。浅間のコーヒーを入れる腕はなかなか上出来だった。とは言えそれでも仲宮さんは紅茶を所望したのだが。
「浅間、何があったのか話して欲しい」
「お前も知っているのだろう? 今さら語ることはない」
「石岬はわざわざお前に会いに来たんだ。会いに来ただけじゃない、お前のために怒ったり抗議もしたんだ。その礼がコーヒー一杯では、割に合わないと思わないか?」
 仲宮さんの言葉に浅間は息を呑んだ。迷っていたみたいだったけど、しばらくして、事の真相を僕たちに話してくれた。
 浅間が殴った大学生というのが浅間の姉に惚れているらしい。それだけならよかったのだが、姉が彼の告白を正式に断ってからもしつこく付きまとうようになったのだ。そして姉が喫茶店に出るあの日を狙って店にやって来た――。
「ちょうど俺も用があってここに来た。すると店で姉貴に乱暴しようとしていたあいつがいた」
「それでお前は――」
「ああ。頭に血が上っていたのは否定しない。姉貴が止めるまで、俺はあいつを殴り続けた」
「だったらどうしてちゃんとそのことを言わないんだ。喧嘩じゃなくてお姉さんを守るためだと説明すれば、学校だって……!」
「姉貴はもうすぐ結婚する。相手の家は結構な名家で……その、こういうことが表に出るとまずいんだ。ただでさえ相手の両親は結婚に反対しているんだ。家が釣り合わない、とな」
 そのために浅間だけが一方的に埃を被るというのか。
 何という理不尽。
 報われない話だ。
「僕はこのことを学校に報告する。そうすれば、もしかしたらお前の停学も解かれるかもしれない」
「それはやめてくれ。ここで俺が停学になればすべて丸く収まるんだ。これでも俺はこの結果に満足しているんだ」
「なんでそこまでお姉さんに肩入れするんだよ……」
「俺と姉貴は血が繋がっていないんだ。俺の前の両親は酷い人たちで……何ていうかな。つまり、俺は姉貴に助けてもらった。その恩に報いたい」
「それが男ってやつか?」
「というより、人としての仁義かな。こればかりは男も女も関係ない」
 浅間と姉の関係について、彼は細かい部分を話さなかった。しかしその分を差し引いても、彼の姉への忠誠心には共感しかねる部分があった。それは単に、僕は浅間のことを知っていて、でも彼の姉を知らないからで――。浅間の物語の中に、僕は入れないのだ。
 あいつが話を出し惜しみするせいでもうコーヒーを飲み終えてしまった。浅間はおかわりを出すつもりはないらしく、僕たち二人を追い出して店を閉めてしまった。
「お前、これからどうするんだよ」
 自分の家に帰ろうとする浅間を引き止めた。そうだな、としばらく考える素振りを見せてから、
「退学にならない限りはまた学校に行くだろうな……。石岬こそ、どうする」
「きみを助ける。浅間の不本意にならないやり方でね」
 じゃ、と格好をつけて僕は背中を向ける。そのまま歩く。僕の背中には浅間の視線があるのだろうか。背中に目がない僕はその判断ができない。
 僕の名前を呼んで仲宮さんが追いかけてくる。
「どうするんだ? 何か策があるのか?」
「策というのはそう簡単に出てきませんよ」
「ふふん。お前にしては言うじゃないか。格好良いぞ」
 仲宮さんは古い映画の侍のように豪快に笑った。高くて可愛らしい声でそれをやられると、まるで下手な芝居のような印象を受ける。
「なあ石岬。渚紗のことだがな」
「何ですか?」
「その、嫌いにならないでやってくれ」
 突然彼女の話題が出て、僕は少し驚いた。
「嫌いに、って……」
「いや、違うな。失望しないでやってくれ。あいつはあいつの出来る限りのことをやったんだ。その点を誤解しないで欲しい。渚紗は体面にこだわるからああいう言い方になってしまったが……。渚紗も、浅間の処分には反対したんだ」
「信じがたいですね」
「本当だ。渚紗は浅間の処分を決めるための職員会議にも出席していたんだ」
「……そうなんですか? え、でも生徒が職員会議に――」
「あまり大っぴらには言えないがな。この学校の生徒会は特殊なんだ、今さら驚くほどのことじゃないと思うが。……渚紗が言っていただろう、会長は全校生徒の代表であって生徒会の代表ではない――。あれは多分、職員会議で他の教師から言われたことだ。そう言われてしまったら、渚紗としては引き下がるしかない」
「僕なら絶対に引きません」
「そりゃ、お前は浅間の親友だからな。渚紗にとっての浅間とお前にとっての浅間は重さが違う」
「もし仲宮さんが職員会議にかけられても、僕は絶対に助けますよ」
「ありがたい話だが、そんな機会は来ないよ」
 仲宮さんは軽くあしらったけど、嬉しそうに笑みがこぼれている。それが僕には少し嬉しかった。
 その日の夜も次の日も朝も、ずっとこれからのことを考えていた。
 生徒会は浅間を助ける力にならない。いや、力はあるのだが、その意思がない。あったかもしれないが、現在はもうない。藤谷教諭も同じ。力はあるのに意思がない。戦いは終わってしまったのだ。今、本気で浅間を助けようとしている動きは存在しない。
「孤軍奮闘もいいところだな……」
 まあ、孤軍なのは今に始まったことじゃないし。奮闘したことは今までないけど。
 僕は何かとっかかりがないかとふらふらと校内を徘徊する。頑張る、という言葉は簡単だけど、何を頑張ればいいのか分からないこの状況は非常にやりにくい。努力や創意工夫は問題を解決するための後半で、一番大変なのは、何が問題なのか、何をすればいいのかを見つけることだと思う。それを思えば勉強なんか努力とも言えないくらいに簡単だ。
 ふと僕は足を止める。ヒントを見つけたというよりは単に興味をそそられて。
 学生用の掲示板だった。学校からの告知や通達が画鋲で何枚か貼り付けてある。大半はさんざん聞かされた内容で、例えば近所の祭りだったり作文コンクールの応募要項だったりと、まあ僕に関係のある情報ではない。
 その中で僕が見つけたもの――生徒会選挙の立候補についての規定だった。
 後期選挙なので立候補に制限はなし。応援演説として一名を登録。その他一切条件はなし! この後期選挙はほとんど生徒の話題には上らなかった。なぜなら権力の美潮と人気の仲宮が組んているのだ、彼女以外が生徒会長になるはずがないと、そう思っている。そんなルールがあるわけでもないのに。
 僕は自分の中に浮かんだ大それた考えを必死に消そうとした。でも僕の理性はそれが最適解だと告げている。生徒会選挙に出て、僕が生徒会長になって、そして浅間のことを正式に抗議する。
 いや、何も生徒会長になる必要はない。選挙で浅間のことを話し、それが議論の対象になりさえすればいい。少しでもみんなの目をアイツに向けさせることが出来れば……。
 そもそも僕はみんなの無力を嘆く前に自分が行動すべきだったのだ。お前は何様のつもりだよ。自分は何の努力もしないで他人にばかり期待する。美潮先輩だって自分の力の限りやってくれていたんだ。それなのに力が及ばなかっただけだ。それを僕は失望しただの何だの、だったら僕がやるべきなんだ。それをしない人間がいくら美潮先輩を批判したところで、その言葉に正義はない。
 僕は静かに興奮しながら教室に戻った。いくら興奮しているとはいえ授業開始のチャイムを聞き逃す僕ではないからだ。でも僕の頭は熱を帯びそうなほどに回転している。この馬鹿げた計画を実行できるかどうか、勝算を考えていたのだ。
 結論として、勝算はない。
 だけど、それでも実行する。
 このときすでに僕は自分が判断を誤ったことを自覚していたのだ。それでも僕はブレーキを踏むつもりはなかった。半ばヤケクソみたいにアクセル全開。行ける所まで行ってみるつもりだった。
 その日のうちに藤谷先生に頼んで申し込み用紙を一枚貰う。わざわざ職員室まで取りに行き、挙句紙が見つからずに数十分待たされた。それだけこの紙を使う人間が少ないということだろう。
 僕はすぐさま教室に戻ると申し込み用紙に記入を済ませ、また職員室に戻り藤谷先生に提出する。この間およそ五分。
「石岬くん……その……もう少しゆっくり考えたら? その、あんまりきみには向いてないんじゃないかと思うんだけど……」
「考える時間は終わりました。今は行動のときです。浅間を助けられるのは僕しかいません」
 こんなとき、あえてアクセルを踏むのが男だろう。僕は一礼して職員室を出た。興奮で荒くなった鼻息を必死に抑える。
 あとはいかに選挙を戦うか、応援演説を誰に頼むか、という問題が残っているだけだった。ていうか問題だらけだ。あの美潮先輩に選挙で勝つ絶対無理だ。僕単体の力ではあの人には太刀打ちできない。どう考えても応援が必要だった。
 僕は内心複雑な思いを抱えて生徒会室へ向かう。
 生徒会室には浅間を除く全員が揃っていた。選挙の登手続きをしていた僕とは違ってみんなは授業が終わってすぐに集まっていたのだろう。気合がみなぎっている僕をみんなは不思議そうに見た。
「どうしたの? 何かあった?」
「僕、今度の生徒会選挙に立候補します」
 ぽかーん、としたみんなの顔。
「えーと、何? 選挙? いいんじゃないからしら。どの役職? 保険委員長?」
「生徒会長選挙です」
 しーん、と水を打ったように静まる。恋十郎がまた壊れた……と誰かが小さくつぶやいた。
「えーと、つまりこういうことかしら。次の生徒会選挙に立候補する、と」
「つまりも何も、僕がさっきそう言いました」
「…………………………ふ、ふーん」
 美潮先輩はどんな表情をしていいのか分からないみたいに顔を非対称にゆがめて、怒っているのか笑っているのか分からない微妙な顔を作っていた。
「それじゃ何、生徒会をやめるの?」
「はい。次の選挙でお手伝いは出来ません。今までありがとうございました」
「まあ別にいいけどね……。がんばりましょ。お互いに、ね」
「ありがとうございます」
 僕はもう一度お礼を言って頭を下げた。美潮先輩は誰もが一番最初に思うであろう『何故』を訊こうとしなかった。聡明な彼女にはもう理由が分かっているのだろうか。それとも僕ごときが何かをする理由になんか興味がないのだろうか。
 僕は踵を返して生徒会室を出て行く。しかし仲宮さんがすぐに僕のことを追いかけて来た。
「ちょっと待て。どういうつもりだ。浅間のためか?」
「そうです。美潮先輩が浅間を助けられないのなら、僕が会長になって浅間を助けます」
「だからって……渚紗だって一生懸命やっているんだ。それを――」
「心配しないでください。別に美潮先輩に失望してるとか、そういうんじゃないんです」
「だったらなぜお前が渚紗と戦う必要がある」
 僕は自分の考えを仲宮さんに話した。内からとめどなく溢れてくる理由。もしかしたらただの言い訳かもしれないけれど。とにかく僕は、誰かにまかせっきりで取り返しのつかない事態になるのは嫌だったのだ。どうせ駄目になるのなら自分の手で何かをしたい。それにもし美潮先輩が浅間を助けられなかったら、僕は理不尽にも美潮先輩のことを恨んでしまうかもしれない。
「……だから、僕は美潮先輩のことを嫌いになったわけじゃないんです。むしろ嫌いにならないために立候補したというか」
「そうか」それっきり沈黙。完全に納得出来ているわけではないみたいだ。「意思は固そうだな。わたしには止められない、か」
「もしよかったら、選挙について色々教えてください」
「教えるだけなら、な。……すまないが、選挙の手伝いは出来ない。わたしには、その……渚紗が……」
「いえ、いいんです」
「すまない」仲宮さんは深く頭を下げる。「お前を助けたい。だがわたしにも渚紗への友情がある。約束があるんだ……だから……」
「だから大丈夫ですって。美潮先輩についていてください」
 それでもなお謝罪を続ける仲宮さんを何とかなだめる。正直言って仲宮さんの力を借りられないのは残念だけど。でもまあ、それくらいは仕方がない。仲宮ゆうと美潮渚紗の歴史は僕よりもずっと長くて太い。それを僕が無理に断ち切ることは出来ない。
 友情と、愛情か――。僕は思った。
「本当はお前に立候補を取り下げてもらいたいと思っているんだが、無理だろうな」
 僕は頷く。これは仲宮さんの頼みでも聞くことは出来ない。決意が固いというよりは、僕の今の勢いと流れは誰にも止められないのだ。
「お前と一緒に戦いたかった――お前と、ではなくて、一緒に、だ。……申し訳ない」
 最後にまた謝ってから、仲宮さんは生徒会室に戻って行った。彼女はまだ美潮生徒会の会員だからだ。僕は若干の寂しさを感じながらその背中を見送った。



 高校の生徒会選挙と国の選挙の最大の違いは何か。それは選挙活動が大きく制限されているということだ。まさか選挙カーを走らせるわけにはいかないし、講演会を開いたところで人が集まるわけでもない。高校の選挙活動と言えるものは大体二種類くらいだろう。毎朝校門で生徒たちに自分の存在をアピールするのと、投票直前に体育館で行われる演説。
 とにかく立候補したのなら毎朝校門に立って挨拶のひとつもしておきなさい――と生活指導の先生からご指示を承った。
 ちなみに生徒会選挙の立候補の締め切りが過ぎ、会長に立候補したのは僕と美潮先輩だけだった。そのことがクラスに知れると僕は一躍有名になった、というわけではなく、ひそひそと静かに噂が右へ左へ流れるだけだった。仲宮さんと付き合ったことが知れたときの盛り上がりはない。
「みーんな美潮先輩が勝つと思ってるからねぇー」
 僕の机に座りながら頼子が言った。朝のホームルームが始まる前、選挙戦略を考えていた僕に頼子が絡んでくる。
「ここで勝てば奇跡だね。恋十郎は奇跡を起こしたことがある?」
「仲宮さんと付き合った」
「それは勝手に起きた奇跡だよ。奇跡ってのは恋十郎が自分の意思で自分の手段で起こすものなのだ」
「……起こしてやるさ」
「へへっ。かっこいいじゃん。あー、美潮先輩のがなかったらそっち手伝うんだけどなー。でも生徒会入っちゃったしなー。会長に義理立てしないとなー」
 頼子は僕以外に対しては非常に真面目な女の子なのだ。義理堅く友情に厚くて、親切。
 僕ひとりが辞めたところで美潮生徒会にはヒビのひとつも入りそうになかった。正直言えば、生徒会の誰かは僕の手伝いをしてくれるんじゃないかと妄想していたんだけど、それは少し見通しが甘すぎたか。
 選挙期間が始まり僕は初めて朝の声掛けに立った。玄関前の駐車場では美潮先輩たちが並んで生徒達に声を掛けている。うーん、壮観。僕がそちらを見ていると仲宮さんと目が合った。僕はども、と挨拶するジェスチャーを見せると仲宮さんは気まずそうに目を逸らした。まだ彼女の中では折り合いがついていないのかも。後で話し合う必要があるかな……。
 一方の僕はひとり。僕に友達がいないのがこんなところで致命傷となって現れている。数少ない友達は停学中だったり対立候補者の応援中だったりで。僕ひとりで見知らぬ生徒達に声を掛ける心細さは、僕に立候補を後悔させるのに十分だった。
 最初の一日は最低だった。学校一の有名人と学校一の無名人の僕。そして美潮先輩はただでさえ美人で口が上手く愛想が良い。僕に興味を示す生徒はほとんどいなかった。例外的に僕のクラスの人たち。たまに会釈を返してくれたりして、その程度のことが僕をとても安心させてくれた。どうやら僕が思ってる以上に世界は優しいらしい。
 朝のことが僕に精神的な疲労を与えていた。正直言ってその日はそれ以上のことをする元気がなかった。それは僕の真っ暗な前途を絶望してのことでもあったし、予想以上に『何もない』僕自身への失望も含まれていた。
 放課後、浅間のいない掃除を終えて、僕が自分の机でぐったりとしていると石岬と名前を呼ぶ声が聞こえた。聞きなれない声に戸惑って教室の入り口を見るとそこには西後先輩が立っていた。
「お前、本当に選挙をやるつもりらしいな」
「そのつもりですけど……今のところは」
「何だ? もう嫌気が差したのか?」
 笑いながら先輩。
「正直言って、人前に出るのが辛いです。なんかみんな冷たいですし……」
「そんなもんだよ。うちはまだマシなところさ。他の高校なんか、生徒会そのものに無関心だからな」
 僕は西後先輩の話が見えなくていぶかしんだ。
「あの、それで……僕に何か御用ですか?」
「お前、朝は一人で立ってたな」
「そうなんです。おかげで死にそうです」
「明日からオレも参加するよ。挨拶するなら校門の外がいいな。内側だと門に隠れて目立ちにくいしな」
「え……でも西後先輩、美潮先輩はいいんですか?」
「別に生徒会会員だからって会長の選挙を手伝わなきゃいけないわけじゃない。仲宮と利川は単に義理と友情で手伝ってるだけだ。オレにはそのどちらもないからな。というわけで、オレは訳あってお前を手伝わせてもらう。迷惑か?」
「と、とんでもない。……心強いです」
 そういえば西後先輩、朝は美潮先輩たちと一緒じゃなかったな。単に可愛い女の子だけを並べて華やかにするというフェミニストが怒り出しそうな理由だと思っていたんだが。
 人生何があるか分からない。たった一人で戦っていた僕に、西後先輩という予想外の仲間が現れたのだ。
 西後先輩に連れて行かれた僕は一階奥、保健室の隣にある空き教室に入る。選択授業などでクラスが分かれて授業を受けるときに使うくらいで普段人の立ち入らない場所だ。
「今日からここを石岬恋十郎選挙対策本部にする」
「って、勝手に使っていいんですか?」
「遊ばせている土地を有効利用しているんだ。母校思いの生徒だろ?」
 西後先輩は無茶苦茶なことを言って、「まあクレームが入ったら出て行けばいいだけの話だ」と答えた。
「確かに美潮は人気がある。カリスマもある。そして美人だ。まあオレはタイプじゃないけどな。しかし何より決定的な差がある。何だと思う?」
「人員の差ですか?」
 僕は大昔の浅間の言葉を思い出して言った。だけど西後先輩はかぶりを振って、
「それもあるがあまり関係ない。生徒会選挙は人数が多くても出来ることは少ないからな。何より美潮に有利なのは、あいつが前期も生徒会長をやっているということだ。前に会長をやったという経歴以上の武器はない。何せ信頼できるし、しかも美潮はたくさんの実績を残しているからな」
「かなり厳しいですね」
「つまりお前はその実績を覆すほどの人気を手に入れなければならないということだ。まずは公約を掲げるところから始めよう。お前は会長になったら何がしたい?」
「浅間の停学を取り消す!」
「……質問の仕方が悪かった。お前が会長になったとしたら、お前に投票してくれた生徒にその分を還元してやらなければならない。さて、お前は何をすれば生徒たちを喜ばせられると思う?」
「うーん……綺麗な校舎、とかですか?」
「問題はお前が具体的にどういう働きをするか、だ。明るい学校生活とか挨拶の絶えない学校とか、そういう公約を掲げるやつは多いが、じゃあどういう状態を『明るい学校生活』と言うんだ? この学校がどうなったときに『挨拶の絶えない学校』と言えるのか、その基準がまったく見えてこない。つまり具体的な数値が設定されていないんだ。だから実感としてわかりにくい」
 そこまで真剣に選挙対策を考える高校生が本当にいるのか、といささか疑問に思わないでもない。いや、そこまで考えないと僕なんかは会長になれないんだ。僕と美潮先輩、最初から実力差は歴然としていてその上ハンディキャップまである。
「そして最大の問題は、生徒が本当に『挨拶の絶えない学校』なんか望んでいるのか、ってことだな。大部分の生徒は挨拶があろうとなかろうとほとんど感心が無いだろうし、現状の挨拶に不満を覚えているわけじゃない。ま、美潮と正面きって戦うには少し弱いかな」
「じゃあ、金髪とピアスとアルバイトを解禁します、ってのはどうです? 需要はあるでしょ?」
「それをやってしまうと教師たちが美潮の側に肩入れしてしまう恐れがある。ただでさえ協力者の数に差があるんだ、これ以上向こうが有利になるとさすが厳しい」
「ですね……」
 普通の高校ならば、そういう公約を掲げた生徒会長が誕生しても、先生たちの賛成がなければ実行できない。だけどこの学校では生徒会長が大きな権力を持っている。だから先生たちはそもそもそういう公約を掲げる生徒会長が誕生しないようにするしか食い止める手段がない。事前にそういう候補者を潰してしまうんだ。
「じゃ、こんなのはどうですか? 補習を受ける生徒を現状の半分にします。それなら生徒も先生も、両方得ですよね?」
「で、そのためにどういう取り組みをするんだ?」
「勉強会を開きます。それぞれの教科の先生を集めて、生徒が勉強していて分からないところを質問出来る場を作る」
「なるほど。……それをやるなら生徒だけの方がいいかもしれないな。教師に教わっても分からないからこそ赤点になるんだから、教えるのは教師以外の方がいい。生徒同士で教え合う場にすればいいだろう。学年で分けずに一箇所に集める。上級生が下級生に教えるシステムにしてもいい」
 僕と西後先輩はこんな感じで、美潮先輩と戦うための準備を具体的に進めていく。最初は単に僕の手伝いをしてくれる、くらいに思っていたのが、いざ蓋を開けてみると選挙対策はほとんど西後先輩が主体のようになっていて選挙プランナーそのものだった。
「投票権のある生徒は二種類に分けられる。石岬ことを前から知っている生徒と知らない生徒。お前のことを知っている生徒が投票するかどうかは普段のお前の生活態度次第だな。普段から無責任なところを見せているならお前に投票するやつなんかいないだろう」
「絶望的ですね……」
「だがしかし! 幸運なことにお前は無名だ。誰も石岬恋十郎の名前を知らん。そういうやつらは第一印象で誰に投票するかを決める。つまり、第一印象さえ良ければ当選する! 勝負は選挙公約と選挙演説。演説は内容も大事だが言い方が大きなウェイトを占める。今のうちから練習しておくぞ」
 初期の西後先輩の憂鬱なイメージはどこかへ行ってしまったみたい。自分で言っているうちに興奮してきたのか拳を掲げて熱弁する。西後先輩の意外な一面に僕は圧倒されていた。もしかして美潮先輩、選挙対策として西後先輩を生徒会に入れたのかな……。いや、それは考えすぎか。
「そういえば西後先輩、どうして僕を手伝ってくれるんですか?」
 美潮先輩の味方をする義理も友情もないというのなら、僕の味方をする義理も友情もないだろう。僕の疑問に西後先輩は、
「別に石岬の味方をするわけじゃないんだが……そうだな、強いて言えば、美潮の敵をやってる、という感じかな」
「美潮先輩の? どうして?」
「オレと美潮は付き合ってるんだが――」
 衝撃の告白。僕はぶったまげて椅子から転げ落ちた。
「……そんなに驚くことか?」
「そりゃ驚きますよ……。え、いつからですか?」
「ずっと前、中学上がったくらいからかな。美潮の方から付き合ってください、ってね。自慢出来ることでもないから黙ってるが」
「いや、それは自慢していいと思います……」
「まあとにかく。最近のあいつは少し調子に乗っている。元々頭も良いし運動神経も良い、愛想も人当たりも良い。しかしだからと言って天狗になっては駄目だ。というわけで、彼氏のオレが責任を持ってあいつに世間の厳しさを教えてやるのだ」
「はあ、それは」コメントに困った。「がんばりましょう」
「だな。あいつの自慢げな顔はもう見飽きたぜ」
 西後先輩は今まで見たことのない、皮肉の含まれない笑みを浮べて言った。美潮先輩と一緒にいるときはいつもこんな笑顔をするのだろうか。そして仲宮さんはこのことを知っているのだろうか。うーん、美潮先輩なら仲宮さんに対してすら秘密にしてそうな気もする……。
 次の日から朝の選挙活動は僕と西後先輩の二人になった。単純に考えて戦力は二倍。西後先輩の能力を考えれば十倍くらいには到達しそうだった。
 僕はおはようございますと威勢の良い声で挨拶をする。生徒会長に立候補した石岬をよろしくお願いしますと頭を下げる。具体的な公約や宣言は必要ない、との西後先輩の指示だった。
「朝は大半の生徒が急いでいるからな。悠長に選挙公約なんか聞く暇人はいないだろう。それをやるよりもお前の名前を覚えてもらう方が大切だ」
 玄関の付近で活動している美潮先輩達を見た。美潮先輩が西後先輩とねぇ……。全然そういう風には見えないなぁ。しかし思い返してみれば、美潮先輩と西後先輩が絡んでいるところはほとんど見た事がない。あれは美潮先輩が意識してあえて人前で接するのを避けていたんだろうか。今になって思うと少し不自然な気もする。
「おい、ぼーっとするなよ。聡明で回転の早い人間というイメージを作るんだ」
「は、はいっ」
 厳しい選挙プランナー様のアドバイスを受けて、僕、石岬恋十郎は皆様の素晴らしい学校生活のために戦います。



 朝の選挙活動を始めてから一週間。毎日放課後は西後先輩と一緒に空き教室で演説の練習だった。
「違うな。原稿を持ち込むことは許されているが目は生徒の方に向けるように。だから原稿の野内容はすべて暗記する必要がある」
「もっと胸を張れ。あと視線は落として。ちゃんと生徒の方を向くんだ」
「あまり首を振るな。全体を見渡すのはいいが、ゆっくり動かさないと落ち着きのない印象を与える」
「途中で詰まるくらいならアドリブで乗り切った方が良い。あと原稿を音読するんじゃなくて、生徒の方に話しかける感じでやってくれ」
 ……とまあ、こんな具合に。
 学校が閉まるぎりぎりまで残されて「まあ今日はこんなところか」という西後先輩の言葉にやっと解放された。僕は僕のために努力するのは必須なんだろうけど、西後先輩にとってはほとんど無関係の選挙、ここまで協力してもらえることがありがたい。
「おい、さっさと出ろ。もう鍵を閉めるぞ」
「あ、はい」
 言われて慌てて鞄を抱えて教室を出る。西後先輩が教室の鍵をかける。
「じゃあオレは鍵を返してくる」
「あ、僕が行きますよ」
「お前は家に帰ってさっさと寝ろ。明日も朝からやるんだからな」
 正直言って疲労の極致にあった僕は西後先輩の言葉に大人しく従うことにした。
 僕が人気のない夜の廊下をふらふらと歩いて玄関を出ると、校門前に人の姿があった。シルエットで何となく予想はしていたけど、その人はやっぱり仲宮さんだった。
「もう終わったのか?」
 仲宮さんの方から僕に声をかける。そういえば選挙活動を始めてからここしばらく会っていない。生徒会室に顔を出さなくなったので自然と顔を合わせる機会がなくなったのだ。
「ええ、まあ。仲宮さんの方は、その、順調ですか?」
「前と同じ、だな」
「ですか」
「その、お前は疲れているみたいだな」
「いやあ、もうヘトヘトですよ。このまま倒れそうです」
「そうか、じゃあ倒れないように支えてやらないとな」
 言うや否や仲宮さんは僕に近づいて、周りに人の姿がないのを何度も確認してから僕を抱きしめた。
 それだけで頭が真っ白になった僕は、一体何秒抱きしめられていたのか分からなかった。仲宮さんの呼吸が耳元でくすぐったいのを意識した。実はグラマラスな仲宮さんの体が押し付けられていることを改めて発見した。仲宮さんの心臓の鼓動を僕の体で感じて、僕の方からも仲宮さんの背中に手を回して強く抱きしめた――ええと、つまり何秒経ったんだ?
「すまない」
 長い長い抱擁の後、彼女は僕から顔を逸らして恥ずかしそうに謝った。
 多分、僕の顔も真っ赤になっていたと思う。
「何ですか、突然」
「補給だ」
「は?」
「しばらく石岬に会っていなかったから、その分を補給したかった」
 当たり前だ、と言わんばかり。あまりに堂々としているのでそんなものか、と納得しかけてしまった。いや、それでいいのか僕。
「まだこれからも忙しくなるのか……?」
「ええ、まあ。来月の選挙までは当分こんな感じだと思います」
「そうか」
「遊びに来てくださいよ。保健室横の空き教室にいると思うんで」
「いいのか?」
「仲宮さんならいつでもどこでも歓迎です」
「お前も、寂しかったら生徒会室にいつでも来い」
「ありがとうございます。でも――生徒会室に行くのは、当選してからにしますよ」
 その言葉に驚いたのか、ちょっと目を丸くして僕の方を見た。今のは少し自信過剰だったかもしれない。だけど少しくらい過剰じゃないと、美潮先輩の自信には到底及ばないし万が一の勝利もない。
 仲宮さんは寂しそうに口をゆがめて、
「そうか、お前は渚紗と戦っているんだよな。わたしはお前を応援出来ないが……良い結果が出るといいな」
「仲宮さんも。書記か何かに立候補するんでしょ?」
「ああ。……しばらく会えない、か。寂しいな」
「だったら、寂しくないようにします」
 そう言って、今度は僕の方から彼女を抱きしめた。人通りをまったく気にしなかったから、もしこれが知られたらやばかっただろうけど、そんなことを考えている余裕はなかった。もしかしたら僕の方こそ仲宮さんが恋しかったのかもしれない。
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