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7.彼女の選択

 投票日を二週間後に控え、僕と西後先輩は今日も空き教室で選挙対策会議。なぜか頼子も教室の隅にいて、携帯用ゲーム機で遊びながら両足をばたばた動かしている。仲宮さんには来てもいいと言ったがこいつが来るとは予想外だった。
「思ったよりも好感触だな。あの美潮に挑んだ無謀な一年生として話題性があったのも幸いだった」
 西後先輩はそう言ったけど僕はそんな感触はつかめていなかった。一応僕の言葉は聞いてくれるし僕の方を見てはくれているけど、それは美潮先輩に投票するとすでに決めていてその上で落選する候補者を面白半分に見ているような、余裕のようなものをみんなから感じるのである。
「そういえばそろそろ推薦演説人を決めて公約も発表しないといけませんよ」
 選挙の数日前には各立候補者の立候補声明が印刷されたプリントが全校生徒に配られる。生徒はそのプリントと候補者の演説をにらめっこしながら投票先を決めるというシステムだ。そして僕は今その原稿を書こうとしている。ちなみに未だ白紙。
 推薦演説人とは立候補者の素行などを当たり障りもなく説明する、いわば応援演説のようなもの。はっきり言えば、応援人が演説を通して立候補者の私生活を暴露するようなことはまず考えられない。大抵は「責任感があります」だの「何事にも真面目です」だの「部活動に一生懸命打ち込んでいます」だの、まあ悪いことは言わんだろうさ。
「推薦演説人は西後先輩がやってもらえますか?」
 当然やってくれるだろう、と思っていた、これはただの確認のつもりの質問。しかし意外にも答えは否だった。
「まあ推薦演説くらいならあまり影響はないだろうが、なるべく華のある人間にやってもらった方がいいだろう。ただでさえ石岬は地味だからな」
 地味で悪かったな、とは言い返せない。ううん、正にその通りです。でも一生懸命やってるんです、僕。
「一番理想なのは仲宮にやってもらうことだが……」
「あ、そいつはムリっすー。仲宮先輩は美潮先輩の推薦人やるですよ。ちなみに美潮先輩は仲宮先輩の推薦人やるですよ」
 推薦人は同じ役職を争う候補者同士でなければ何も制限はない。仲宮さんは書記に立候補しているので問題なく生徒会長美潮渚紗の推薦演説人になれるのだ。しかし例えば僕と会長の座を争っている美潮先輩は僕の応援演説人にはなれない。
 ちなみに西後先輩によると、応援演説人は必須ではないのでパスすることも出来る。だけど学校創立以来そんな前例は今まで存在しないという。
「まあ仲宮に期待するのは少し酷だな。だがそうなると誰が応援演説をするか、ということになるが……」
「どういう人がいいんですか? えーと、華があって――」
「なるべく人当たりが良くて、発言力のある人。教師と生徒両方の信頼を得ているような人。見た目も良いに越したことはない」
「んじゃ、私やりまーす」ゲーム画面から目を離さずに頼子が無責任に言った。「私ー、美人だしみんなからもいいんちょで信頼されてるし人当たりは良いし。適任ですよん」
「お前、演説なんか大丈夫なのか?」
「んふふー。人前で話すのは得意だよ」
「いや、そうじゃなくて……」
 お前は美潮先輩の選挙を手伝ってるだろうが。そう言うと誤魔化すように笑った。頼子には珍しい仕草だと思った。
「まあね。あんまり良くはないんだけど。でも私、恋十郎の力になりたいし」
「すまん」
「そういうときはありがとうって答えるもんですよーだ。ふふふ、恋十郎はずいぶんと良い男になったね。たった半年でずいぶんと成長したもんだよ」
「そうかな……。あんまりそういう自覚はないんだけど」
「あーあ。ちょっと後悔、かな。あのとき断らなきゃよかったなー」
 頼子は意味の分からないことをぼやいて、携帯ゲーム機の電源を落とすと教室を出て行こうとした。
「お、おい、どこに行くんだ?」
「馬に蹴られて地獄に」
 さらりと恐ろしいことを言って彼女は教室の扉を開ける。入れ替わるようにして仲宮さんが入って来た。
「利川……」
「んふふ。恋十郎はお返ししますですよ」
 手をひらひらとさせて頼子は立ち去る。仲宮さんはしばらく不思議そうに背中を見送っていたけれど、すぐに気を取り直して、
「石岬、様子を見に来たぞ」
「どうも。今ちょうど推薦演説人が決まったところなんですが……」
「もしかして、利川か?」
 僕は首肯した。
 仲宮さんは僕の隣の椅子に座ると書きかけの原稿を覗き込んだ。
「何だ、何も書いてないじゃないか」
「仲宮さんはもう書いたんですか?」
「ああ。去年と同じだ」
 いいのかそんなので。
「うむ。わたしもこれでいいのかと疑問に思わないでもないが、渚紗に相談したらそれでもいい、と」
「対立候補もないし、仲宮なら立候補すれば確実に通るだろう」
 西後先輩が苦笑しながら予想を述べた。
「心配していたんだが、西後がついているなら安心だな」
「それでも手強いんだけどな……。出来ればお前に石岬の応援演説をやってもらいたかった」
「それは――」
「いや、皆まで言うな。分かってる」
 言葉ではそう言ったけれど西後先輩はまだ仲宮さんに未練があるみたいだった。確かに仲宮さんが推薦演説人ならば心強い。それは票を獲得できるという意味だけではなくて、僕の心の問題になるのだけれど。
 気がつけば仲宮さんは過剰なほどに僕の方へ体を寄せていた。何かを求めるみたいに僕の目をときおり覗き込む。西後先輩の前だというのにお構いなし。それほどまでに寂しいのか仲宮ゆう。
 西後先輩はしばらく僕たちの方を交互に見つめて、なるほどと呟いた。
「そうだな。今日はこのくらいにしておこう」
「すみません……」
「すまない……」
「家でも演説の練習はしておけよ。ちゃんと発声練習もな。あと原稿は明日オレが添削するからな。演説用のも早めに作っておかないと――」
 最後の方は独り言のようだった。西後先輩が教室を出て行って僕たちは二人きりになる。待ちきれないとばかりに仲宮さんが抱きついてきた。ううむ、選挙活動が始まってからこの人は妙に積極的になってきたな。前の恥じらいはどこへやら。
「石岬、お前は酷い男だ」
「そうなんですか?」
「ああ。お前に会えないとわたしは寂しくて死んでしまう」
 死にゃしないだろう、というぶち壊しの突っ込みは控えておく。
「……そういえば、最近渚紗に会ったか?」
 どちらかが会いに行かない限り、学年の違う僕たちが会うことはほとんどない。特に用事を見つけられなかった僕は、生徒会室で選挙への出馬を表明して以来一度も美潮先輩と会っていなかった。
「……そうか」
「あの――」
「うん。渚紗とお前の仲が悪いと、どうやらわたしは不愉快になるようだ」
「そうなんですか」
「石岬と渚紗が会長の座を争うのも不愉快だな。そしてそのどちらか一方しか応援できないのも不愉快だ」
「別に、僕は美潮先輩と喧嘩しているわけじゃないですよ。これはその、必要なことだと思うんです。必然なんです。いいじゃないですか。お互いに全力を出し合って、どっちかが勝って、そしたら勝った方も負けた方も握手して、よくやったなってお互いに褒め合うような勝負――そういうのもアリじゃないんですかね」
 僕は今までそんな勝負をしたことがない。それどころかまともな勝負をした記憶もない。今回が初めての勝負。僕の初陣。――自分自身を全力で使って根こそぎすり減らす勝負。
「ああ。お前の理屈は分かった。だったらそれを実践してくれ。お前と渚紗がよそよそしくなるのは、とても不愉快だ」
 ぎゅ、と両腕に力を込める。
「わたしを愉快にさせてくれ」
 耳元で囁かれた。
 仲宮さんの願いが実現したのは投票日の前日。教室から選挙対策本部(空き教室)に向かう途中の廊下だった。美潮先輩が窓の方を向いて立っていた。しかも目を瞑って。
「……美潮先輩、どうしたんですか? 気分でも悪いんですか?」
「あら、石峠くんじゃない。なんでそう思ったのかしら」
「目を瞑ってうなだれていたら何かあったのかと思いますよ」
「知らないの? 頭の部分を下に向けることで脳への血液がえーと、なんとかなって、それで大気のなんちゃらが目を瞑ると耳から入ってきて、んーと」
「はあ、なるほど。今度試してみます」
 美潮先輩のぐだぐだな説明が続きそうなので強引に打ち切った僕。しかし彼女はそんな僕を見て突然吹き出した。何だ何だ、失礼な人だな。
「ごめんごめん。なんかおかしくなっちゃって。それにしても久しぶりね。選挙はどう?」
「勝ちますよ」
「あらやだ。自信たっぷりね」
 おばさんくさい口調で言って、美潮先輩は口元を隠して上品に笑った。いつもの、コントロールされた笑い。
「……明日はお互い頑張ろうね」
「そうですね」
「まあわたしが勝つだろうけど」
「一言余計ですよ」
 今度は僕が笑った。自分でもどうして笑ったのか、よく分かっていない。もしかしたら愛想笑いなのかもしれない。意識すると不思議な気分になってくる。笑うとは何だろうか。人はどうして笑うのだろうか。
 美潮先輩は笑わなかった。僕もつられて笑いを止める。彼女はしばらく僕の顔を熱心に見つめていた。
「……ごめんね。これだけは言っておこうと思って。わたしの力不足だったわ」
「いえ、いいんです。美潮先輩ががんばってたこと、仲宮さんはちゃんと見てましたよ」
「そう? ほんと、ゆうにはいつも勝てないわ」
「仲宮さんの方でもそう思ってると思いますよ」
「過大評価だって、いつも言ってるのに」
 やれやれ困ったわね、と美潮先輩が言った。しかしその言い方に困っている様子は表れていない。むしろ嬉しくてこそばゆい、そんな表情。のろけているみたいに。
 美潮先輩が僕に右手を差し出した。とても綺麗な手。触ると砕けてしまいそうな、芸術品みたく繊細な。
「明日、頑張りましょうね」
「――はい!」
 僕は美潮先輩の手を握る。
 少し力を込めても、その手は決して砕けたりはしなかった。



 投票日である。
 昨日は緊張と不安のフルコースが僕を襲って、とてもじゃないがすんなりとは眠れなかった。三回くらい風呂に入り、体をほぐし、西後先輩の指導と選挙活動の疲れが緊張と不安を超えた辺りでようやく眠ることが出来た。安らかな眠りとは程遠い、沼の中に沈んでいくような睡眠だった。
 朝はいつものようにひとりで登校。選挙が終わればまた仲宮さんと一緒に登校できる。仮に落ちたとしてもその点だけは僕の慰めになってくれそうだ、と弱気な思考。今のうちに落ちたときの覚悟をしておく敗者の考え方だった。
「……いかんな」
 自分の頬を叩いて気合を入れなおす。朝の選挙活動はこれが最後だ。少しでも大きな声を出してアピールするとしよう。
 すでに校門で待っていた西後先輩と合流してさっそく選挙活動を始める。「このたび生徒会長として立候補した――」はい以下省略。ちなみに文句は全部僕が考えた。もちろん西後先輩の添削済み。
 僕はふと美潮先輩たちの方を盗み見る。僕たちが始めるよりもずっと前からやっているらしい。美潮先輩と目が合うと彼女は他の生徒に気づかれないようにこっそりと僕に挨拶 した。だけど仲宮さんはそれを目ざとく見つけて途端に不機嫌になっていた。付き合い始めて三ヶ月。僕にも仲宮さんの心が多少は分かるようになってきた。
 今さらながら頼子の姿が見えないことに気がついた。頼子は正式に僕の推薦演説人になり最後の一週間は僕と一緒に演説の練習までしたんだが。ちなみに彼女の原稿は八割以上は西後先輩が書きました。オリジナルの原稿は過激すぎて没になってしまったのだ。それにしてもどうして頼子が来ていないのだろう。緊張で昨日の夜眠れなくて遅刻している、というのならいいのだけど。
 しかし授業開始時間となり僕が校門から教室に戻ると、頼子が何食わぬ顔をして自分の席に座っていた。
「おい、お前今朝はどしたんだよ。美潮先輩たちと一緒じゃなかったのか?」
「んー? まあね。ちょっと寝坊したんだよ」
「……ならいいんだけど。今日の演説、任せたぞ」
「今日の五時間目だよね、演説」
「そうだよ。って昨日確認しただろ」
「うん。ごめん。聞いただけ」
「……お前、大丈夫か?」
 心なしか頼子の顔が赤く、全体的に反応が遅い。それに少しだるそうだった。今日の頼子にいつもの飄々とした感じがない。
 彼女は頼りなくかぶりを振って否定して、
「大丈夫。ちょっと風邪気味なだけ。演説するくらいなら大丈夫だから」
「きついならやめておいた方がいいよ。いざとなれば西後先輩もいるし――」
「推薦演説人の代理人なんて認められてたっけ?」
「いや……聞いたことないけど」
「だったら私ががんばるしかないよね。大丈夫、倒れるときは演説が終わってからにするから」
 冗談めかして言ったけれど、妙に熱っぽい頼子の口調では冗談に聞こえない。
 五時間目に控えた演説は僕が思っていた以上に早くやって来た。今日は妙に精神が昂ぶっていて、普段は聞かない授業を真面目に聞いてみたりして、とにかく僕は落ち着けなかった。
 クラス全員で体育館へ向かう。全校生徒が移動するので廊下は非常に混んでいた。私語が多くて廊下は騒然としている。多くの生徒は生徒会選挙なんて授業が潰れてラッキー、くらいにしか思っていないだろうが、僕にとってこれが一世一代の大勝負、大博打、とにかく言葉をいくら尽くしても言い表すことが出来ない。僕の勝負どころだ。
 クラスメイトの何人かが能天気な応援をしてくれる。「がんばれよ石岬ー」「相手はあの美潮さんだからなぁ」「演説期待してるよ」「もし会長になったらテストを廃止してくれ」。他人事だからみんな気楽なもんだ。でも今はそんな気楽な応援すら心強い。
「おい頼子、大丈夫か?」
 頼子が妙に静かなのが気になって、彼女の脇腹を突付いて話しかける。頼子にいつもの覇気はなく「うん……」と静かに頷くだけだ。おいおい本当に大丈夫か? 無理してぶっ倒れたら洒落にならんぞ。保健室に行くなら今のうちだ。
「大丈夫。それより恋十郎こそ」
「うん」
「絶対に勝ってね」
 無理やり作った笑顔が痛々しい。僕は決めた。こいつの風邪はもはや放置出来るレベルじゃない。今すぐこいつを保健室へ連れて行く。
 僕は頼子の手を取って有無を言わさず引っ張った。妙に軽い。体育館へ行くクラスメイトの列から離れて保健室へと向かう。
「やめて」
 手を解かれた。もう一度掴もうと手を伸ばすと頼子は数歩遠ざかる。僕の手の届かない距離。
「私はまだ大丈夫」
「何言ってんだ……もう演説なんか出来る体調じゃないだろ」
「私のことは構わないで。今は自分のことだけ考えるの。私が倒れても気にしなくていいから」
「んなわけないだろ。ほら、さっさと――」
「やめてって言ってるでしょ!」
 頼子が叫んだ。頼子に伸ばしかけた手が止まる。頼子は荒い息をしていて今にも倒れそうだった。それでも彼女は絶対に倒れない。何故だか僕は確信していた。それは利川頼子の意地だった。僕を睨む瞳にはいつもと同じ強靭な精神力。
「……ほら、行くよ。恋十郎の勝負はここじゃない」
 頼子は僕を待たずに体育館の方へ歩いて行く。僕はそんな彼女をどうすることも出来なくて、黙って後を追いかけた。頼子の隣に並んで歩く。すると頼子は歩調を速めて僕の先に行ってしまう。
「何だよ」
「一緒に歩くのはNG」
 病人とは思えない固い口調で答えた。
 体育館には全校生徒が集合していた。僕たちのことを待っていた藤谷先生に指示されて、一般の生徒たちとは別れてステージの脇に並ぶ。すでに他の候補者たちが自分の演説の番を待っている。
 司会に促されて僕たちは脇からステージに登った。この時点で僕の緊張はピークに達していた。だけどこれくらいの緊張がちょうど良い。体育館の音、生徒たちのひそひそ話、マイクのノイズ、ステージへの階段を登る足音。四人分。生徒会長に立候補したのは僕と美潮先輩だけ。壇上での一騎打ち――!
 選挙の大まかな流れは頭に入っている。司会は選挙管理委員の三年生。一番最初に会長立候補者たちの演説。候補者全員とその推薦演説人がステージ上のパイプ椅子に控え、推薦演説と候補者演説を順番にする。演説は申し込みの早い順、今回の場合は美潮先輩が先だった。
 座って深呼吸をしていると美潮先輩と目が合った。彼女は僕に微笑んで、がんばりましょうと口を動かした。僕はそれに頷いて返す。しかし美潮先輩の視線は僕から前に座る頼子の方に移っていた。やはり美潮先輩の目から見ても頼子の体調は悪いのだ。
 最初に仲宮さんが美潮先輩の応援演説を行なう。仲宮さんは一瞬だけ僕に目線を送り、そして普段の仏頂面にさらに磨きを掛けてマイクの前に立つ。流石だ、と僕は思う。緊張していないはずはないのに。
「わたしと美潮さんとの付き合いはかれこれ十年になるが――」
 仲宮さんが語る美潮先輩との歴史。それに耳を傾けながら僕はずっと自分の演説の内容を頭の中で繰り返していた。暗記は完璧。あとはどうやって読むのか、その一点のみ。
 拍手の音で我に返った。続いて候補者演説、美潮先輩の演説だ。
 仲宮さんよりも緊張が色濃く出ていた。ただし、それは椅子から立ち上がってマイクの前に立つ数秒の間だけである。さすが美潮先輩。人の上に立つために生まれてきた人間。僕はそんな怪物と戦おうとしている。
 この演説が終われば頼子の演説だ。僕は前に座っている頼子の肩を小さく叩く。
「おい、大丈夫か?」
 返事はない。ステージの上でお喋りをするわけにいかないのは分かるが、少しくらいは返事をして欲しい。不安になるじゃないか。しかも頼子の首筋には汗が浮かんでいる。息が荒いのがここからでも分かる。まずい。あいつの体調は最悪だ。
「おい、辛いなら早めに――」
 美潮先輩の演説は僕の予想を遥かに超えて短かった。それにも関わらず体育館に響く溢れんばかりの拍手。彼女はこの短時間で生徒たちの心をしっかりと掴んでいたのだ。
 拍手が終わるのを待って司会者が次を促す。続いて生徒会長に立候補した一年二組、石岬恋十郎くんの推薦演説人、利川頼子さんの演説です。ほら、頼子の出番だ。
 しかし頼子は立ち上がらない。僕にとっては永遠に近い、だけど客観的に考えればほんの数秒、頼子は椅子に吸い付いたみたいに動かず、やがてゆっくりと立ち上がってマイクの前に歩いて行く。
 一歩、二歩――。コツコツと彼女のシューズの音。
 三歩目の音は聞けなかった。その前に彼女は倒れたのだ。ステージの上。足音よりもずっと大きな音。僕は迷うことなく立ち上がり頼子のもとへ。仲宮さんと美潮先輩も同時だった。こんなときに僕は生徒会――元生徒会メンバーの絆の深さを実感してしまうのである。
「頼子、大丈夫か!?」
 僕は頼子の上体を抱き起こした。熱い。いつかこいつに抱きつかれたときも体温を感じていたけれど、今のこの熱はその比じゃない。呼吸は弱々しく、まるで眠っているみたいだった。気絶しているのか返事はない。
 少し遅れてステージ下から一足で飛び上がる影。生徒たちの間を縫って西後先輩が走って来たんだ。
「利川は大丈夫か?」
 西後先輩の問いに僕と美潮先輩が否定の意味を返す。仲宮さんが頼子を運ぶために背負おうとしていた。
「いや、利川はオレが運ぶ。石岬は演説を」
 仲宮先輩の背中から頼子を受け取って兎のようにステージから飛び降りる。人ひとりを背負っているとは思えない身軽さ。そのまま体育館から出て行った。
「えー、とですね、推薦演説ですが……」
 司会の困った調子がマイクを通じて体育館中に響く。さきほどまでの静寂があっという間に喧騒へと変わる。僕は司会者の方を向いて小さく手のひらを振った。こうなった以上推薦演説は不可能だ。えー、立候補者の石岬恋十郎くんです。と僕の名前を紹介すればいい。心許ないがこうなった以上は行くしかない。配られたカードで勝負するしかないんだ。
 しかし司会者は僕の紹介をしなかった。何故ならまだ推薦演説人の演説が終わっていない。マイクの前には仲宮ゆうが、まるで自分が推薦演説人みたいに立っていたんだ。
「……あー」
 当たり前だが仲宮ゆうは僕の演説の内容を考えてきたわけじゃない。マイクの前に立って何を言おうというのだ。僕は仲宮さん、と声を掛けそうになって、仲宮さんが手で僕の言葉を遮った。背後の僕に向けて。顔はあくまでも生徒の方を向いていた。
「えー、本当なら利川が石岬の推薦演説人なんだが……あー、場合が場合だけにわたしが代理を務める」
 無茶苦茶だ。静寂を取り戻そうとしていた体育館が再びざわめく。特に一番混乱していたのは先生たちだった。あれを認めて良いのか、何が起きてるんだ、そんな馬鹿な――。そんな中でただひとりだけ、藤谷先生だけが静かに仲宮さんの方を見ていた。
「……渚紗と石岬の両方の推薦演説人というのは妙な話だが、これがわたしの本心だ。この二人にはどちらにも会長たる資質がある」
 仲宮さんの落ち着いた声がマイクを通じて体育館に流れる。その声の魅力だろうか、少しずつ生徒たちは静寂を取り戻していた。先生たちはそういうわけにも行かず、すぐに中止させろと騒ぐ先生もいたのだが、藤谷先生が立ち上がって何か言うと、文句を言っていた他の先生たちも黙って仲宮さんの演説に耳を傾け始めた。
「石岬は……その、少し優柔不断なところがある。事なかれ主義で度胸がない。消極的で妙に達観して努力を放棄し――」
 以下数十項省略。
 隣で美潮先輩が笑いを噛み殺しているのが分かった。
「――そんな石岬が生徒会長に立候補する、という。彼には親友がいる。その親友が困っているとき、あいつは立ち上がった。あの事なかれ主義の石岬が、だ。その裏にどれほどの決意があったのか、わたしは知らない。……石岬はヒーローじゃない。普通の人だ。もしかしたら普通以下の人かもしれない。だが石岬は目の前で倒れている友人を見捨てたりはしない。そのために立ち上がり、自分を犠牲にしても戦うことの出来る男だ。石岬の決意と信念を、どうか酌んで欲しい。わたしは石岬が強いから好きなのではなくて、戦うことの出来る人間だから好きだ。愛している」
 仲宮さんは晴れやかな顔で最後にそう締めくくった。集められた生徒たちは一様に狐につままれたみたいに壇上の仲宮さんを見つめていた。やがて、誰かが拍手をした。体育館の入り口から、たった今保健室から戻って来た西後先輩が力いっぱい手を叩く。次に拍手をしたのが誰かは分からない。やがて拍手は体育館中に伝染し――。
 結局のところ、仲宮さんの演説はただの惚気だったのだ。全校生徒を前にしての恋人自慢。なんてこった、と僕は後になって回想する。だけど今の段階では、雰囲気に飲まれていたと言うか、僕にも仲宮さんのが伝染していたというか――ええい、言い訳だな。僕も仲宮さんが大好きです。
 司会者に言われて、仲宮さんと入れ替わるようにして僕が前に出る。すれ違ったときに見た仲宮さんの顔はしてやったり、という表情ではなくて、ああやってしまった、恥ずかしいな、でもまあいいか、言ってやったぜ、という羞恥と諦めと後悔と、そして喜びと達成感が混ざった顔だった。多分僕の顔も似たような感じになっていただろう。ああ恥ずかしい。
「ごちそうさま」
 演説を始める前、美潮先輩が仲宮さんを小声で茶化すのが聞こえた。
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