裁くのは彼女

第10章 帰還、そして…


 昼を過ぎたころに、世良島の船着き場に迎えのフェリーが到着した。
 フェリーの船員はみな、旅の保護者として旅行の一切の雑務を請け負っていた八敷と長部が雇った人間であり、志摩がどのような人物なのかは詳しく聞かされていなかったらしい。志摩が船員に二人の死を告げても、彼らの目には志摩がただの少女に映っていたらしく、最初は冗談だと思われてしばらくはまともに取り合ってもらえなかった。
 しかし志摩が彼らの理解力の範囲内での説明を粘り強く続けると、船員の何人かが顔を青くして社員棟の方へ走っていった。しばらくして、汗をかき息を切らしながら戻ってくる。その男が同僚の船員たちに、志摩の話が真実であり雇い主の二人が今は冷たくなっていることを証言した。うろたえる船員たちに、志摩は社員棟に置いてきた荷物をフェリーに運ぶよう冷静に指示した。
 いつもと変わらない志摩を除いて、俺たちはみな疲れた表情で逃げ込むようにフェリーに乗船した。目が痛くなるほどの太陽が俺の肌を焼く。海面にきらきらと反射して、世界が真っ白に見える。
 俺は人と話すどころか誰かに気を使うことすら億劫で、とにかく独りになりたかった。みんなから離れて、靴を脱いで船室に上がり、ソファの上にうつぶせで倒れ込む。
 しばらくその体勢のまま、目を閉じて波の音を聴いていた。
 足音が聞こえて、俺は慌てて飛び起きる。聞き覚えのあるそれは、やはり赤織志摩の足音だった。
「疲れているね」
「人間だからな」
 毒を混ぜた返答。志摩はそれを微笑で受け流した。
「今、少し話をしてもいい?」
「珍しい」
「無神経な人間だと思われたくないから」
「たちの悪い冗談だ」
 俺は頭を振った。実益のない他人の評価には一円ほどの価値すら認めない志摩である。
「相談があるの」
「回りくどい言い方はやめてくれ。気持ち悪い。さっさと用件を言え」
「犯人は長部だということにする」
 志摩があまりに平易に言うので、俺はその言葉が意味するところを咄嗟には理解できなかった。数秒の猶予を志摩にもらっても、果たしてどのような経路を巡りその結論に達したのか、想像を絶する。
「どういう意味だ?」
 こういう場合はいつも、最後には平凡極まりない質問を返して志摩を失望させることになるのである。
 志摩は聖母のように微笑んだ。まるで俺の出来が悪いことを最初から承知していて、それでもなお俺の程度の低さを許容しようという優しさが感じられる。
 彼女のそういうところがいつも不愉快だった。
「警察が公正な捜査を始めれば、必然的に、わたしたちの誰かが犯人として囚われることになる。サギちゃんは、それを望む?」
「当たり前だ。人を殺したんだからそれは当然――」
「サギちゃんが求めているのは裁き? それとも真実?」
 そう言われては、俺も黙るしかない。
「八敷と長部が殺されて、これ以上の悲劇は誰も望まない。犯人捜しをしても、誰も喜ばない」
「でも、殺された二人は……」
 脳裏に蘇る光景。
 殺された二人を、殺したいほど憎んでいる誰かがいる。当たり前だ、だから殺したのだ。
 殺される理由があり、殺す理由があった。
「一般論は聞きたくない。サギちゃんの意見が聞きたい。あなたが求めているのは真実であって、断罪ではないはず」
 違う、と言いたかった。それは違う、死者に対する冒涜だ。それに俺が求めているのは真実なんかじゃない、俺はもっと下劣で低俗な人間――。
「長部が死んでいた部屋は密室だった。その点が重要なの。警察は捜査をしないよ。というより、すぐに捜査を打ち切る。長部は八敷を殺害して、その後、研究棟で自殺した。自殺の方法は問題ではないし、そんなことは調べさせない」
 志摩が一言、彼女の両親にでも命じれば、赤織家は総力を挙げて事件のもみ消しを図るだろう。世良島は赤織家が所有していて、事件の目撃者は俺たち六人だけ。隠蔽が成功する可能性は極めて高いと言える。
「そんなことしていいのか?」
「今日の朝、みんなと話し合って決めたの。わたしたちの中に犯人捜しを望む人間はいない。八敷と長部の二人は反対しただろうけど、死んでいるのなら関係ないし」
「冗談じゃない」
「あなたは反対? 誰かをつるし上げなければ気が済まない?」
「そうは言ってないだろ」
「本土に戻るまでに決めておいて。もしわたしたちのやり方が気に入らないのなら、あなたが警察に真実を話せばいい。そのせいでわたしたちが不幸になっても、サギちゃんの決定ならわたしはそれでも構わない」
「お前は構わないかもしれないが、他のやつらは……」
 志摩は問題だけを残して部屋を出ていく。俺が答えを出すのを、悠長に待ったりはしなかった。俺は力尽きて再びソファの上に倒れる。寝不足がたたり、思考力が猛烈に落ちていた。このまま寝てしまおうかと思ったが、志摩に言われた言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。
 このまま、真実に蓋をしてしまうのは、卑怯な選択だと思った。沈黙することは、殺人者に荷担することと同じだ。俺の意志が、俺の決定が、あの二人を殺したことになる。
 殺人者になる決心ができなくて、どうしようもなくなった俺は部屋を出る。外に出ると、鳴雨が手摺りにもたれながらじっと海の方を見ていた。風が吹くたびに彼女の髪が巻き上げられて、それを鬱陶しそうに片手で押さえつける。
「結論は出そう?」
「聞いていたのか」
 鳴雨は頷いた。灰色のシャツにカーキ色の長ズボン。船体の白いペンキと太陽と海の光の中で、鳴雨の姿だけがやけにくすんで見える。
「人殺しを許してもいいのか?」
「人殺しでも、友達だから」
「友達なら罪を償わせるべきじゃないのか?」
「それは本心で言っている?」
 俺は黙った。俺の本心が自分でも分からなくて、鳴雨の問いに答えられない。
 しばらく黙って、二人で並んで海を見る。
「でも、本当にできるのかな? その、志摩の家がいくら金持ちだからって、事件のもみ消しとか……」
「方法はいくらでもある。究極的には、通報しなければ誰も気がつかない。他にも例えば、警察が島に来る前に死体を処分する。そうすれば、死体を処分した誰かが死体遺棄で捕まるだけで済む。警察には死体の様子を私たちの口から伝える。警察はそれを信じるしかない」
 淀みなく方法を列挙したが、その考え方からは、どうも志摩の受け売りのような気がしてならない。
「なんか、嫌だな」
 志摩が、そういうことをするのが。赤織志摩はそういった社会の泥臭い部分とは無縁の存在でいて欲しかった。
 俺がそう言うと、鳴雨は笑った。
「神格化しているんだ」
「かもしれない」
「それは過大評価だよ。あの子は化け物でも妖怪でもない、ただの人間だよ」
 言いながら、鳴雨はズボンのポケットを探った。中から煙草の箱が出てきて、一本取り出すと口にくわえる。安っぽいプラスチックのライターから火を出して、煙草の先端を炙る。が、まともに火がつかないうちに火を消してしまう。そのまま煙草とライターを、手摺りの向こうに広がる白い海に放り捨てた。
「良いの?」
「環境破壊」鳴雨は肩をすくめる。「煙草は健康に悪いから。煙草を捨てるのは環境に悪いけど」
 ポケットに戻した煙草の箱を再び取り出して、くしゃくしゃに握り潰すとこれも海に捨てる。清々した顔で、海に背を向けた。
「体に悪いことは、しない方向で」
「それがいいと思う」
「長生きするのも悪くないかな、って。今なら思う」
「それは二人が死んだから?」
 俺の質問に、鳴雨は困った顔を向けてきた。まるで俺の方が不謹慎なことを言ったみたいで居心地が悪い。
 太陽の熱と、海が反射する熱を、背中にじりじりと感じていた。



 鳴雨が部屋に戻ったので、俺は一人で甲板へ行き、上下する喫水線をじっと眺めていた。きらきらと光る波を見つめ続けているとすぐに目が痛くなる。まぶたを落として目頭を押さえた。フェリーはいつになったら出航するのだろうか。
 しばらくその姿勢のまま波の音を聴いていた。目を開けると、廊下の向こうに翠がいてこちらに向かって手を振っている。
 甲板まで早足でやって来る。
 俺の目の前に立つと、口を開きかけて、また閉じた。しばらくもじもじとこちらの顔色をうかがっていた。
「……何?」
「ご、ごめん」顔を伏せて、落ち着きなく両手を弄んでいる。「あ、あの」
「どうした?」
「な、何してるのかな、って聞こうとしたんだけど。迷惑かな」
「いいよ別に、聞くくらい。そんなことで迷惑がるやつはいないだろう」
 いるかもしれないが、少なくとも自分は違う。
 俺が言うと、翠はうつむいたままこちらに近づいて、俺の隣にちょこんと並ぶ。二人で海に背を向けながらフェリーの方を向いていた。
「ごめん。なんか、機嫌悪そうだったから。いいのかな、って思って」
「そういうことは話しかける前に考えるものだ。あと謝りすぎ」
「ごめん」
 わざとやってんのか、と思って翠の方を見れば、手を口に当てて体を震わせて笑いを堪えていた。どうやら自分のとっさの言葉がツボにはまったらしい。
「また、みんなと旅行に行きたいな」
「懲りないな」
「そのときは笠木さんも来てくれる?」
「サギちゃん、でいいよ。みんなそう呼んでる」
「うん。でも、ちょっと呼びにくいかな……ごめん」
「謝るの禁止」
 翠の頭に冗談の手刀を落とすと、彼女は大げさに痛がった。なるほど、こうして付き合ってみると、案外冗談の通じる愉快な女の子なのかもしれない。翠の目が、眼鏡の奥でいっそう細くなる。
「こんなことになっちゃったからこそ、もう一度、旅行をやり直したいの」
「やり直し、か」
「笠木さんは、やっぱり納得いかない? どうしても犯人を捕まえたい?」
「違う。ただ――」
 ただ、何だというのだろう。
 志摩にも解けなかった事件の謎を解決すれば、彼女を越えられる?
 翠が悲しそうな目で俺を見ているのに気がついて、俺は慌てて話題を変えた。
「そうだな。まあ、あれだ。また旅行に行きたいってのは同意かな。無人島は絶対に嫌だけど」
「だね」
「次、また旅行するときは、俺も呼んでくれよ」
 俺が本心からそう言うと、翠は笑って頷いた。
「うん。絶対に呼ぶ」そして付け加える。「でも笠木さん、自分のことを『俺』って言うのね。なんだか男の子みたい。変なの」

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