裁くのは彼女

第11章 茜色の魔法


 東京駅で新幹線に乗り換えて零時はほっと胸をなで下ろした。アパートを出た後、雫のところへ挨拶に寄ったのだがそこで思わず時間を喰ってしまった。それが原因で東京駅への電車を一本遅らせたのである。乗り換えの際にもたついたのもあって、二人は危うく新幹線に乗り遅れるところだったのだ。
「零時さんはもう少し、時間にルーズな点を直すべきだと思います」
 穂子に言われて零時は頭を下げた。雫のところで断り切れずに一杯酒を引っかけてきたことや、東京駅の売店での買い物にやたら時間がかかってしまったことだけではないだろう。出がけに忘れ物を取りに戻ると言ってアパートに戻ってから、出てくるまでに十分以上かかっているのだ。
 穂子に志摩のことを話すと、彼女は目に見えて機嫌を悪くした。一見するといつもの凛とした表情を崩してはいなかったが、零時はここ数週間での付き合いで、なんとなく彼女の内面を感じ取れるくらいはできるようになっていた。
 車内を通る売り子から二人分の弁当とビールを買い、それを夕食とした。穂子は食事をゆっくりと、静かに食べる。食べ物をかみ砕くことに偏執しているのだろうか。不機嫌な穂子には何を言っても藪蛇なので、零時も彼女に倣っていつもより静かに食事を続けた。
 ビールの缶も開け、弁当の殻をまとめて窓際に置いて、零時たちは話すこともなく黙って窓の外を見つめていた。時速三百キロの景色は時間を潰すための最良のおかずである。少なくともテレビよりはずっと面白いし、リアリティがある。今見ている景色が日本のどのあたりのものなのか、東京駅を出発した時間をもとに頭の中で計算した。
「分かりました。わたしの負けです」
 唐突に穂子が言った。零時は慌てないよう自分に言い聞かせて、ビールの缶に手を伸ばしかけてそれがすでに空になったことを思い出した。お気に入りの窓の景色と別れを告げて、愛らしい穂子の顔に視線を戻す。
「何が負けなんだ?」
「あまりしつこいと嫌いになるかもしれません」
「それは困ったな。それじゃ、大人しく降伏を認めよう」
 零時はおどけて両手を挙げた。穂子があからさまにむっとした表情を見せたので、ふざけたゲームもこのあたりが限度だと思い直す。
「アパートに戻ったとき、部屋に志摩がいた」
「その点はさきほどお聞きしました」
「何を話していたか、聞きたい?」
「ええ、是非」
 早口で穂子が言う。
「そうだな。俺も聞いて欲しい」
 零時はゆっくりと、丁寧に、志摩との会話を穂子に伝えた。他人に伝えるためには言葉に変換しなければならない。その過程で、伝えたいことの本質がいくつか簡略化され、あるいは削られてしまう。しかしそうやって本質から遠く離れ、物事を単純な『言葉』にしてみることで、理解のための足がかりになることがある。
 零時の説明を彼女が理解するのと同じように、零時自身も自分が言葉に出すことで初めて理解できたことがあった。
「なるほど。赤織さんがあの二人を殺害したのですね」
「まあ、可能性は考えていた。何せ、五分の一だからね」
 零時がふざけて言ったが、穂子は笑わなかった。
「結局、警察は世良島の事件に介入したのですよね?」
「ああ。犯人不明、捜査打ち切り、自殺の線が濃厚……とまあ、志摩の思い描いた通りの結末だ」
「零時さんが気づいたのはいつですか?」
「それは、まあ、柚亜と会ったときかな」
「絵の事件の方で?」
「うん。盗まれた絵は八敷が絡んでいて出所が怪しい。おまけに、どうも柚亜自身が絵の盗難に関わっているらしい。そこから発想して、では盗まれた絵に柚亜の重大な秘密が隠されているのではないかと考えて、柚亜が描いた贋作を、それと知られないように回収するために盗んだんじゃないか、と思ったんだ。まあ、最初にそれを考えた時点では、ただの妄想だったわけだが。志摩に絵の事情を聞いて、やっと納得がいった、という感じだな」
「それにしても、メンバーの中で赤織さんだけが利用されていなかったのですよね? それなのにどうして赤織さんが犯人だということに?」
「最初は、柚亜に命令されて志摩が殺したんじゃないか、と考えてたんだ。絵の件に関しても」
「実際は逆だったわけですね」
「ああ。他人の目的を模倣したわけだ。自分の楽しみのために。まるでゲームだな。目的を与えられて、それをどうのような手段で解決するか、が遊びのテーマなんだ」
「ゲーム感覚なのですか?」
「あいつにとって、普通に生きるのは難易度が低すぎるのだろう。スリルも緊張もない。その気になれば何だってできる。人の優れた部分を丸ごとコピーできるんだ、敵なしだよ」
「赤織さんは、零時さんに気づいてもらうために、わざとヒントを残したのですね。零時さんのことも共犯者として取り込むために」
「真相に気づきつつも、俺はそのことを黙っている……ってシナリオを考えていたんだろうが、まさか俺が気づかないとは想定していなかったんだろう。いくら志摩でも、すべて完璧に計画通り、ってわけにはいかなかった。例えば、長部を殴って殺したのは明らかに志摩のミスだよ。自殺ということで決着をつけるなら、あそこは首を絞めて嘘でも自殺に見せ掛けるべきだった。多分、長部を殺すときに予想外に抵抗されて、思わず殴り殺したんだろう。あとはトイレで俺に死体を見つけられたりもしたし」
「自慢になりませんよ、それ」冷静に穂子は言った。「あからさまな証拠を目の前にして、気づけなかったことを、得意げに言われましても」
「でも、最後にはちゃんと辿り着いただろ?」
「それは鳩山さんのことがあったからではありませんか。わたしが言っているのは、世良島で過ごした三日間だけでも、事件の謎を解くことができる、ということなのです」
「穂子には分かったのか?」
「零時さんのお話が正しければ、という前提の元でなら、赤織さんが殺人犯であることを証明できます」
 穂子は人差し指を立てて言った。その仕草の奥底に、零時が気づけなかったことに対する優越感が見え隠れしているのを零時は感じた。得意げに言いやがって、と零時は内心舌打ちする。
「零時さんは世良島での出来事を細部まで非常に正確に記憶していらっしゃいました。零時さんは赤織さんのことを天才だと何度も強調なさっていて、天才ではない自分が世良島にいることにコンプレックスを感じていらっしゃったようですが、とんでもない。零時さんもれっきとした天才ですよ。零時さんと赤織さんの天才の差は、確かに存在するのでしょうが、凡人であるわたしにはどちらも同じような存在に思えます」
「世辞はいいから、本題に入れ」
 穂子の言葉を煙たく思いながら零時が言う。自分の言葉で、数時間前の志摩との会話を思い出した。
 穂子は零時の心の中を敏感に読み取って表情を崩した。
「いえ、これは嘘ではありません。零時さんはとても有能な方です。普通の人間なら、十年以上も前のことを覚えていたりしません。零時さんが十歳のころでしたから、二十年前でしょうか」
「九歳だよ」
 夏休みを利用して世良島に行ったのは小学校三年生のときだ。零時は五月生まれだから、当時は九歳である。家が金持ちだという以外は普通の小学生だった零時に対して、翠と千歌流はすでに一流の奏者であり、英才教育を受けて育った柚亜はもはや父親の技量に迫る画家であり、鳴雨はぐれて煙草を吸っていた。赤織志摩に関しては言わずもがな。
「九歳にしてあの観察眼は素晴らしいと思います。他の方々も同様です。単に、特別優れた技術を持っていたというだけではなかったのですね。世良島の彼女たちは大人顔負けの精神力と行動力を持っていました」
 世良島に行った当時、技術だけではなく、精神面でも彼女たちは普通の子供ではなかった。志摩が少女たちの技術を模倣したように、少女たちもまた、志摩の精神を模倣したのである。精神や思考の成長は、他人を模倣することによってもたらされるのである。
「九歳で人殺しをするんだから、驚きだ」
「あとは喫煙も」
「鳴雨はひとつ上の学年だった。と言っても、四年生で禁煙をしたやつも珍しいだろうな」
 自分で言って、零時は思わず笑ってしまった。我ながら上出来な冗談だと思ったのだが、穂子は話の腰を折られて不満そうだった。穂子にはどこか志摩と通じる部分があるように思う。だからこそ、志摩を失って失意の十年間を過ごした後に、穂子のことを志摩の代替として求めたのであるが。
 九歳のときのトラウマを成人するまで引きずっていたのだ。零時の人生は志摩そのものと言ってもいいくらいだ。
「言うまでもなく、九歳の子供でも、殺意があれば人を殺せます。ボウガンを使えば筋力や体格に関係なく人を殺せますし、薬品を使って眠らせれば、刺殺絞殺扼殺撲殺毒殺望むままの殺し方ができます」
 論理的には人を殺せるかどうかは年齢とはあまり関係がない。が、常識というフィルターをかければその可能性は真っ先に排除されてしまうのである。だからこそ、あのような状況にもかかわらず警察は世良島の捜査を打ち切ったのだ。常識的に考えて、小学生が人を殺すとは考えにくいからである。
「零時さんもその先入観に囚われていましたね。二日目、八敷さんが殺された部屋に抜け道がないか調べているときも、大人が通れないからという理由で通気口のルートを早々に除外していました」
「そりゃそうだろう。あの状況じゃあ、怪しいのはどう考えても長部だ」
「ただ、いくら殺せるとは言っても小学生の女の子ですから、持てる重さには限度というものがあります。第二の殺人の際、現場の密室からは通気口を通って脱出したわけですが、部屋の隅に積み上げられていた本はその際の足場として使ったのですね。もちろん足場ならば本棚を動かしても良かったのですが、子供の力では天井まで届くような本棚は動かせません。しかし部屋の隅に本を積み上げるのならば、少しずつ順番に積み上げていけば力がなくても可能です。零時さんのお話では、二日目のお昼に赤織さんと会ったときには彼女は水色のタンクトップとジーンズを着ていましたが、その日の夜、零時さんが赤織さんと会ったときは、ハートのプリントが乗ったチュニックを着ていました。これは、埃だらけのダクトを通ったために、服を着替えなければならなかったのです。三日目の朝に赤織さんの部屋のクローゼットの中に湿ったジーンズとタンクトップがありましたよね? タンクトップはともかく、ジーンズは旅先で洗濯するにはあまり適さない服ですよ。面倒くさいですからね。つまり、赤織さんには服を洗わなければならないのっぴきならない理由があったということです」
「それは確実な証拠とは言えんだろ」
「分かっております。服を着替えていたことを証明しても、せいぜい傍証くらいにしかならないでしょうね」
 澄ました顔で穂子が言った。一ヶ月前まで、こんな態度の穂子は想像もできなかった。いつも無表情の仮面を被って、常に無関心の壁でこちらと距離を置いていた穂子はもういないのだ。屋敷で初めて会ったときの、慇懃無礼でおてんばな壬生穂子が復活しつつあるのだ。
「ではお聞きしますが、世良島のお話の中で、零時さんはわたしに嘘を吐いていましたよね?」
「嘘? まさか。俺が知っていることはすべて正直に話したよ」
「嘘、というのは正確ではありません。本来は話すべきことを話さなかった――そのことに関して沈黙なされていた、という意味です」
 零時は首を曲げて、窓の外を見た。真っ暗なキャンバスの上を、ビルやアパートや街灯の光が流星のように流れていた。ビールをもう一缶欲しいと思った。売り子がもう一度ここを通るのと、穂子の推理が核心を衝くのとどちらが早いだろうか。
「最初の違和感は一日目の夜ですね。零時さんが大広間で赤織さんを待っていたときのことです。善条寺さんと姫塚さんが来て、しばらくお話されたあと、遅れて桜宮さんがやって来ましたよね? そのときに桜宮さん、零時さんがいることに気づいて『笠木さんも、一緒にお風呂なの?』と質問しました。『一緒に』、ですよ? つまり桜宮さんは、零時さんと一緒に入浴することを前提にしているのです。これは桜宮さんのキャラクターから考えると少し過激な発言ですよね?」
「みんな俺に惚れていたんじゃないか?」
「その可能性も考えましたが、初めて会ってから一日と経っていないのに、三人が一斉に一人の男性に好意を持つ、というのはとても不思議なことだと思います」
「それだけ俺の魅力がすごかったってことだろう」
「もうひとつ。初日の夜、零時さんが犯人ではないかと言い出した長部さんに、姫塚さんが噛み付いたことがありましたよね。そのとき姫塚さん、『子供で女の私たちとは違って、大人で男のあなたには人を殺せるだけの体力もある』、と言っていたそうですね?」
「そうだよ」
「それは少し変ですよね。だって、あの場には子供で女の姫塚さんたちと、大人で男の長部さん、それにもう一人、子供で男の零時さんがいらっしゃったはずなのに。どうして零時さんのことには触れてくださらなかったのですか?」
「そんなのは言葉の綾だよ」
「さらに決定的だったことは――」零時の冗談を眉一つ動かさずに無視する。「二日目の夜、犯人に襲われた零時さんが意識を取り戻して、みなさんに何があったのかを説明した場面。零時さんは犯人に襲われる前に、男子トイレに倒れていた長部さんが床に血を流しているのを見ていましたし、三日目の朝に研究棟を調べた際にもその血痕がはっきりと残されていました。それなのに二日目の夜、問題のトイレへ向かった姫塚さん他三人はトイレには何もなかったと言っていました。夜の研究棟が暗かったから見落とした? もちろんその可能性もあるでしょうが、想像力を働かせればもっと単純な理由に思い当たるはずです」
 零時は白旗を揚げたくなる。残念なことに、零時のスーツのポケットに入っているハンカチの色は紺色だった。そんなことを考えつつも、愛する女性に追い詰められてゆく感覚を、零時は密かに楽しんでいた。
「つまり、零時さんは、世良島では女の子だと思われていたのです。二日目の夜に四人がトイレの血痕を発見できなかったのは女子トイレの方を調べていたからなのです。零時さんは死体のあった場所を『トイレ』としか説明しませんでしたから、彼女たちはそれが女子トイレの方だと思ったのです。そう思って零時さんのお話をもう一度思い返してみると、たとえば零時さんは赤織さんを除く六人の前では『俺』という一人称を極力控えていますし、他の六人の方々の服装に関してそれなりに細かくお話なされていた割には零時さん自身の服装に関しては何の言及もありません。零時さん、女の子の格好をしていたのではありませんか?」
 理由は分からないがなぜか笑いたくなる。それを押さえようとして零時の口元が僅かに歪む。穂子は零時の表情を見て怪訝な顔をした。
「零時さんの服は赤織さんが選んだものです。世良島へ行くフェリーでそう言っていましたよね。高校生や大人ならまだしも、小学生の性別による隔絶というのは非常に大きなものです。下手をすれば誰とも仲良くなれずに旅行が終わるかもしれません。そこで赤織さんが一計を案じて、零時さんのことを女の子としてみんなに紹介したのです。あの歳の女の子が初対面の男の子といきなり打ち解けられたのは、零時さんが初対面の男の子ではなくて、初対面の女の子だから、なのですね。そのとき零時さんはまだ小学生でしたから、声変わりもまだですし、髪型と顔立ちによっては十分に女の子だと押し通すことができると思います。
 二日目の夕方、研究棟で善条寺さんと別れてトイレに向かったとき、なぜか三階ではなく二階のトイレを使いました。これはトイレに入るところを善条寺さんに見られたくなかったらからなのですね。女子トイレに入らなかったのは男の意地でしょうか」
「そんなんじゃないさ。いつまでも女のふりをするわけにはいかないから、いずれは男だということを告白しなければない。そのときに変態呼ばわりされたくはないからな」
「他にも、零時さんが女だと思われていたことを補強する事実がいくつもあります。例えば二日目の朝に、零時さんが会いたがっていることを鳩山さんに伝えるように姫塚さんに頼むと、彼女は『禁断のラブ?』と零時さんをからかいました。しかし零時さんと鳩山さんのどこが禁断なのでしょうか? どこが健全ではないのか? 姫塚さんは、零時さんのことを女の子だと思っていたのです」
「女子校じゃあ、割とそういうこともあるらしいけどね」
 非常に適当なことを言ったが、幸いにも穂子はそのことに関してはまったく興味を示さない。
「先日、零時さんに服を買って頂いたとき、どうもおかしいと思っていたんですよね。零時さん、あまりファッションには縁がないとおっしゃってましたけど、その割には女性の服に妙にお詳しかったですからね」
「それに関しては志摩に無理やり教え込まれたんだよ。旅行のメンバーのプロフィールと一緒にな。別に、今も女装してるってわけじゃないぞ」
「さてそれはどうでしょうか。今も女性のファッションに詳しいのは、零時さんの私生活でそれを役立てる機会が多いからではありませんか? 零時さんはこれまで一体何人の女性に服をプレゼントしてきたのですか?」
「……で、それが一体何の証拠になるんだ? 俺が女装してたことがそんなに重要か?」
 零時がはぐらかすように言うと、穂子は口元を隠して静かに笑った。
「二日目の夕方、零時さんが犯人に襲われた状況を考えてみましょう。犯人は零時さんが二階に降りて来たのを知ってあわてて女子トイレに隠れました。そして、零時さんが男子トイレに入ったその背後を襲いました。零時さんが二階のどの部屋に行こうとしているのかは犯人には分かりません。もしかしたら善条寺さんと別れて無線機を探していたのかもしれませんし、単に興味本位で二階を覗きに来ただけかもしれません。が、たとえどの部屋に用があったとしても、男子トイレには来ないはずなんです。零時さんが女性だったなら。犯人がそこまで考えていなかったとしたら、わざわざ男子トイレを出て女子トイレに行ったりはしません。つまり犯人は、零時さんが女子トイレに入る確率よりも男子トイレに入る確率の方が高いと判断したということになります
 さきほど説明した通り、赤織さんを除く四人は零時さんのことを女性だと思っていました。ということは、零時さんを襲った人物は、零時さんが男子トイレに入る可能性を考えていた。つまり、零時さんが男性であることを知っていた赤織志摩さん、ということになります。以上です。何かご質問はありますか?」
「いや、ないよ。見事だ」
 零時は唸った。顎の下に手を当てて、世良島から本土に帰った後のことや、アパートでの志摩の言葉を思い返していた。
 なるほど。志摩が失望するだけのことはある、と零時は思った。確かにあからさまである。問題は、志摩がこの証拠をわざと残したのかどうか、ということだ。
 その可能性は低い、と零時は考えた。零時と千歌流が研究棟に行くことはただの気まぐれだし、さすがの志摩も零時がトイレに行くタイミングを予測することは不可能だろう。
「他に何か決定的な証拠を残すはずが、図らずもトイレの件があったので急遽取りやめにした、ってとこかな」
「赤織さんは世良島の三日間で零時さんが犯人に辿り着けると考えていたのでしょうね。わざわざ部屋を密室にしたのも、そうすることで容疑者を限定し、零時さんが真相に辿り着きやすくするためですね。それから零時さんが赤織さんをどうするのか、赤織さんを断罪するのか否か、の判断にすべてを委ねようと考えていたのでしょう。ところが最後まで零時さんが真相に気づいた様子がない。そこで仕方なく、事件を隠蔽するから口裏を合わせろと零時さんに持ちかけたのでしょうね。何らかの形で零時さんの合意を得られなければ、これは赤織さんの殺人ということになってしまいますからね。あくまで、彼女は殺意を代行したに過ぎないのです。事後承諾の代行ですね」
「何が代行だ……。殺したのはあいつの手じゃないか」
「あくまで赤織さんがどう考えたか、を想像しただけですよ」
「殺意なんて人間が日常的に抱く物だろう。……そんな顔をするなよ。穂子にだって誰かを殺したいほど憎んだことがあるだろう? でも穂子は殺さなかった。普通は殺さない。そういう恨みとか憎悪を、ぐっとこらえて生きているんだ。ところがふとしたきっかけで、殺意の方が勝ってしまうときがある。魔が差すんだな。でも本当は殺さないのに越したことはないんだ。押さえられる殺意なら押し込めておいた方が良い。その殺意の蓋を勝手に開けたことにして、あまつさえ自分は無関係だなんて、ずうずうしいにもほどがある。俺はあいつを許せない」
「それは、殺意ですか?」
「かもしれない。が、俺は志摩を殺さない。もしかしたらいつかあいつのことを許せるようになるかもしれないし、そうなったときに後悔したくない」
「ええ……そうですね」穂子が頷く。「赤織さんは、これからどうするのでしょうか?」
「さあ。これからもずっと暇つぶしを続けるんじゃないか? まあ、生きるってことは、死ぬまでの暇つぶしだからな」
「でもそんな、消化試合みたいな生き方は、果たして幸せなのでしょうか」
「そんなもんだろ。人生なんて」
 零時はそっけなく答えた。世良島のことを怨念のように想い続けた零時と、次の目的をひたすら探し続けた志摩の、どちらがまっとうな生き方なのだろうか。零時は、志摩のような突き詰めすぎた生き方をうらやましいとは思わないが、かと言って自分の十年間が健全だったとも思えない。
 十年ぶりに再会した志摩を見て、零時は機械のようだと思った。目的を与えられるとそれを実行するだけだ。命令の善悪や好悪などない。まるで災害ではないか。今回はたまたま、志摩の目的が柚亜の目的だったから、絵が三枚盗まれただけで済んでいたが。例えば別の誰か、もっと邪悪で野心のある人間が志摩を利用すれば、彼女がもたらす厄災は計り知れないだろう。
 そのとき、誰かの意志を代行するだけの志摩に、はたして罪はあるのだろうか。
 裁かれなければならない、と零時は確信していた。しかし結局、志摩と対峙したあのとき、それを面と向かって口にすることはできなかった。ただ無邪気であっただけの志摩が悪であると断定することに、どこか後ろめたさを感じているのかもしれない。
「あいつは常に時間を潰す課題を求めてる。子供と同じだ。出された問題が解けたら、次の問題を、次の問題をって、先生にせっつくんだよ。そのうち柚亜は志摩を持て余すだろう。志摩にしたって別に柚亜に忠誠を誓っているわけじゃない。柚亜のそばにいても退屈が消えないのなら、あいつは迷うことなく柚亜を切り捨てる。……いや、切り捨てられたのは志摩の方かもしれないけど」
「同情なさっているのですか?」
「あいつは嫌がるだろうけどな。他人の幸福や不幸は、あなたが決めるものではありません、ってね」
 零時は口を閉ざして窓の方を向いた。頬杖を突いた自分が窓に映っている。やつれた中年男は、まるで魔法が解けてしまったみたいに間の抜けた表情をしていた。


《 裁くのは彼女 / Then, who can judge her? 》

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