裁くのは彼女

第9章 犯人はあなた


「何年ぶりだ? 世良島以来だから――」
「意味のない世間話でわたしの時間を無駄にしないでください」
 零時が言いかけたのを志摩が遮る。零時は軽く肩をすくめた。あえて軽薄な態度を取っているが、彼の口元がわずかに震えていることを志摩は見逃さなかった。
 志摩の記憶力は世良島の零時をほぼ完璧に頭の中で再現した。零時の服の上から、筋肉の付き方や骨格のゆがみ、重心の位置、現在の精神状態を素早く読み取る。笠木零時は極めて緊張していると志摩は推測した。
 夕日が零時の顔をオレンジ色に染めている。逆に、零時の側からは志摩の顔が逆光で見えにくくなっている。日没まで一時間くらいだろう。
「つれないな。せっかく久しぶりに会ったのに」
「本題を」
「世良島の二人はお前が殺したのか?」
「あなたはその答えをすでに分かっているはずです」
 零時がしばらく黙った。彼の心の整理がつくまで志摩は数秒の猶予を与えた。その間、零時の顔と夕焼けの反射を存分に楽しむ。
「理由を知りたい」
「動機? そんなことを聞きたかったのですか? あなたは今ここに立って、呼吸し、わたしと会話をして、仕事が終わればテレビを見て、酒を飲み、週末には外食に出かける。そのすべての行動に理由があり、その理由を用いればわたしを納得させることができるのですか? 当たり前ですが、人が生きるのは他人を納得させるためではありませんし、わたしにはあなたを納得させる動機がありません」
「誤魔化すなよ」
 零時はぴしゃりと言った。志摩はそれが面白くて、もう少し彼をからかってやろうかと考えた。しかし彼にこれ以上ヒントを与えたくない。それでは興醒めだ。そう考えている間も志摩の顔は、表情の筋肉を動かす電源をすべて落としてしまったかのようにぴくりとも動かない。
「理由はあるはずだ。ただ誰かを殺したいだけならもっとマシな方法があったし、復讐が動機だとしても、お前なら殺すよりもずっと残酷な方法はいくらでも考えられたはずだ。それにお前は赤織家の一人娘なんだ。ちょっと告げ口をすればあんな二人、一瞬で吹き飛んだはずだ」
 零時は一度言葉を切った。話の続きが聞きたかったので、志摩は口を挟まなかった。代わりに、零時の呼吸や目の動き、言葉の選び方を慎重に吟味した。それを頭の中で様々な方法で分解したり選別したりして、笠木零時という人間を何度も噛みしめる。
「気づいたきっかけは、鳴雨の部屋でくじ引きの箱を見たときだ。あの箱は内側が三重になっていて、相手に引かせたいくじを別のポケットに分けておくという、まあ少し考えれば思いつく簡単な仕掛けだ。だが俺が注目したのはポケットが二重ではなく三重になっていた点だ。くじを引くふりをしてポケットを切り替えるには箱の中に手を突っ込まなければならないが、くじ引きのときにそのチャンスは自分が引くときの一度しかない。だったらもうひとつのポケットは何のためにあったのか。そこで俺は考えた。つまり鳴雨のサクラがあのメンバーの中にいて、その人物も鳴雨と同じようにポケットを切り替えたのだ、とな」零時は両腕を軽く広げる。「なぜ鳴雨がそんなことをしたのか、もしかして鳴雨が二人を殺したのか――と一瞬考えたりもしたが、もちろんくじ引きの不正だけでそんなことは断定できない。そのことで証明できるのは鳴雨が八敷と長部の部屋をあの場所に割り振ったということだけだ。くじ引きの順番は鳴雨、八敷、長部の順番だったからな。鳴雨がなぜそんなことをしたのかは想像するしかないが、大方、そのもう一人のサクラが鳴雨に頼み込んだのだろう。あの保護者二人をわたしたちから離れた部屋にしてくれ、ってな。もちろんそれは鳴雨が犯人ではない場合の話だが」
 志摩の腰掛けている窓から部屋に流れていた風が数秒だけ止まった。その短い時間に、志摩は零時の部屋の匂いを鼻孔に流し込む。わずかに笠木零時の生活臭が残っている。彼がこの部屋でこれまでどのような生活を続けていたのかを想像した。もう少し風が止めば、零時の着ているスーツの汗の匂いや彼の吐息まで感じられると思った。しかし世界の気まぐれでもう一度吹き込んだ風は、志摩の嗅覚を簡単に奪い去ってしまう。
 零時は調子を取り戻したのか、語調を強めつつ、車輪のように加速しながらまくしたてる。
「その前に前提条件を確認しよう。まず、犯人は単独犯だということだ。ここでいう犯人とは八敷と長部の二人を殺害した人物だという意味で、例えばくじ引きの不正を依頼する程度の共犯の存在は認める。その根拠は研究棟にあった死体を引きずった跡だ。死体の背中に埃の線がくっきり残っていたのを考えると、犯人はトイレから例の本棚の部屋まで死体の上半身を持って下半身を廊下に引きずりながら運んだと考えられる。もし犯人が二人以上ならば死体の上半身と下半身をそれぞれ持つので引きずった跡など残るはずがない。もちろん、犯人は二人組だったが死体を運んだのが一人だけだったという可能性はあるが、蓋然性で言えば単独犯の方がずっと高いだろう」
「どちらの可能性が高いかは一概には言えません。それはあなたの主観です」
「さて、ここで無視できない事件がひとつある」志摩の指摘を無視して零時は話を続ける。「志摩には世良島から帰ってから何度か話したと思うが、社員棟を出てからしばらく奥に歩いたところにビデオテープが捨ててあった。石で砕いて、手で引っ張った挙句に崖の上から捨てたんだ。海流の流れが悪かったらしくて別の砂浜に戻ってきていたが。あと、ビデオテープというのも不正確じゃないな。あれは正確には8ミリビデオという規格で、あのときの時代では家庭用ビデオの一番メジャーな記録媒体だ。普通のVHSよりも一回り小さい形で、磁気テープも」
「知っています」
「……まあとにかく、そのビデオテープが捨てられていたわけだ。もちろんあの島にコンビニがあるわけはなく、というか当時はコンビニなんてなかったわけだが、ともかく、問題はそのテープが誰のものだったのか、ということだ。これは割と簡単に推理が可能だ。ビデオカメラをあの島に持ってきた長部のものだよ。ちなみに三日目の朝、長部の部屋を見ると、あきらかに荒らされた跡があった。もう、しっちゃかめっちゃかにな」
「しっちゃかめっちゃか」
 その言葉の響きが面白くて志摩は零時の口調を真似して繰り返した。別に悪意などはなかったのだが、彼はむっとして表情を固くした。他人が自分をどのように誤解しているか観察するのは面白かったし、何度か繰り返せばかなりの精度で他人の誤解をコントロールできるようになる。
「さて、ここで問題となるのは、そのビデオテープを破棄したのが一体誰だったのか、ということだ。当然ながら、あの島には俺を含めた六人しかいなかった。――これは前提条件二だな。この二つの前提条件から推論を進める。便宜上、テープを破棄した人物のことをXとする。
 条件一、Xは長部が殺されたことを知らなかった。柚亜の話によれば長部は自らの意志で研究棟に向かった。もちろん、柚亜の証言を信用するなら、だが。とにかく、このXが長部の部屋に入ってテープを盗んだとすれば、それは長部が研究棟に行って部屋を開けている間に違いない。もしこのXが長部を殺した人物ならば長部が部屋に戻ってくる時間を気にすることもない。部屋を荒らした後にちゃんと元通りに片付けていただろうし、テープだってもっと念入りに処理しただろう。そうすれば長部のテープが盗まれていたことは発覚しなかったはずなんだ。Xはテープを海に捨てたんだから、テープの存在を俺たちには隠そうとしていたと考えられるが、これは、長部の部屋が片付けられていなかったことと矛盾する。その矛盾の答えは、Xには部屋を片付ける時間的な余裕がなかった。つまり、Xは長部が部屋に戻ってくるものだと思っていたし、まさか部屋を出た長部がそこで誰かに殺されていたとは思いもしなかったわけだ。ということは、長部を殺した人物はXではない。――が、そもそも長部を殺した人物自体が謎なので、この条件での絞り込みはできない」
 零時は志摩に向けて指を二本立てた。
「条件二、Xはライターを持っていない。このことはXが素手で磁気テープを引きちぎろうとし、失敗した挙句に石でビデオテープを打ち砕いたことから想像できる。もし手元にライターがあるのなら迷わずそれを使うだろう。もちろんそのせいで『Xはライターを持っている』という条件が発生してしまう可能性があるが、そもそもXは崖からテープを処分して、まさかそれを俺に発見されるとは予想していないだろうから、Xがライターを持っていたにもかかわらずそれを使用しなかった可能性は低い。よって、日常的に煙草を吸い、ライターを持ち歩いている鳴雨はXではない」
 志摩は、鳴雨が煙草を吸っていることは本人からも、零時の口からも聞いたことがなかった。しかし時折彼女の体から煙草の匂いを嗅ぎ取っていたので、世良島に行った時点ではすでに鳴雨が喫煙者であることを知っていた。
「条件三、Xは鋏を持っていない。理由は条件二と同じく、ビデオテープを完璧な形で処分するのなら鋏を使うだろうし、手で引きちぎろうとした痕跡があるのも、他に磁気テープを破壊する手段を持っていなかったと考えられる。よって、普段から裁縫セットを持ち歩いている柚亜はXではない。
 さらに条件四、Xは海流の流れ方を知らなかった。知らなかったからこそ、一見して島で一番流れの速いあの崖からテープを捨てて、予想外にもそれが島の別の海岸に流れ着いて、不幸にも俺に見つかってしまったというわけだ。ということで、島に着いた日に島の海流を調べていた志摩はXではない。
 以上の条件から導き出した解答。Xは鳴雨ではなく、柚亜でもなく、志摩でもない。俺と一緒に研究棟にいてアリバイのある千歌流もXではない。テープを盗んだのは翠だ」
「海流を知っていて、わざと捨てたという可能性もあるのではありませんか? もしかしたら、捨てたのはわたしかも」
「そうかもしれない。が、それは大した問題じゃない。その可能性を認めるとしても、Xは志摩と翠のどちらかということになるが、そうなると、二日目の午後のアリバイが問題になる。志摩と翠は二日の午後は一緒にいたんだよな?」
「そう言いました」
「嘘だね」と、零時は断言する。「もし二人がその時間、本当に大広間にいたのなら、Xはどうやって長部の部屋へ入ったんだ? 長部の部屋へ行くにはどうしても大広間を通らなければならない。Xが、柚亜や鳴雨や千歌流だった場合、お前たちに見られずに大広間を通過することは不可能だ。三人は長部の部屋には入れない。だから、三人は絶対にXではない。もし翠のアリバイが偽物だとすれば、当然、お前の方にもアリバイがないことになる。その時間、お前は好きに行動して、研究棟に行き長部を殺すことも可能だった。
 長部を研究棟に呼び出したのは、その間に翠に長部の持っていたビデオテープを処分させるためだ。もちろんお前と翠は共犯ではない。翠は翠で、自分の目的のために動いたんだよ。翠は長部が部屋を出た絶好の機会を逃さなかった。素早く部屋を探し、目的のビデオテープを見つけ出した。処分も、何とか成功した、と思った。ところがそれで安心していると、その長部が殺されたことが分かった。もし自分が長部の部屋を荒らしたことがばれれば、自分は真っ先に犯人だと疑われるだろう。例えば、テープを処分しようと部屋を荒らしているところに長部が帰ってきて、もみ合いになって殺したとか何とか。まあそんなことはあり得ないわけだが、他に有力な推理もないしな。そこで救いの手を差し伸べたのがお前だった。みんなで集まって全員のアリバイを確認したとき、お前が翠のアリバイを証言したんだ。あいつは驚いただろうな。翠はそれを、志摩が自分を庇ってくれたのだと思っただろうが、とんでもない。実際は単にお前自身のアリバイを確保するためだった」
 零時の推理は半分以上が想像の域を出ていなかった。特に細部に関する想像は志摩の実際の行動とは大きく異なる。が、そんな些末な点をいちいち説明しても、志摩は不愉快だし零時だって喜ばないだろう。二人の幸福のために志摩は開きかけた口を閉ざした。
「第一の事件にアリバイがあるのは千歌流、鳴雨、翠の三人。ということは、犯人は残された志摩と柚亜のどちらかということになる」
「あなたも犯人候補です」
「そいつは除外する。俺は俺が犯人ではないことを知っているからな」
 零時は肩をすくめた。
「今度は再びくじ引きのトリックの考察に戻ろう。鳴雨にくじ引きの不正を依頼した人物は犯人だ。理由は、犯人は島の外から大量の硬貨を持ち込んでいる。ということは、あの部屋に八敷もしくは長部が宿泊することを、フェリーに乗る前にすでに知っていたということになる。あの百円のトリックが使えるのはバルコニーのある部屋だけだからな。ということは、くじ引きのトリックを手伝ったのは第一の事件にアリバイのない柚亜か志摩のどちらか、ということになる。ここで重要なのはくじ引きの順番だ。くじを引いたのは柚亜、千歌流、翠、志摩、俺、鳴雨、長部、八敷の順番だった。
 三重の箱の仕掛けは、相手に引かせたい番号のくじをそれ以外のみんなが引くくじとは別のポケットに分けておいて、相手にその別のポケットからくじを引かせる、というトリックだ。
 三つのポケットを一番ポケット、二番ポケット、三番ポケットと呼ぶことにする。犯人は一番ポケットからくじを引く振りをして、箱の中の仕切りをずらして、次の人間に二番ポケットからくじを引かせるようにする。鳴雨は自分が二番ポケットからくじを引いたあと、箱のポケットを三番ポケットに切り替えてから長部と八敷に回す。三番ポケットには二枚のくじが入っていて、一方はバルコニーの部屋、もう一方は大広間の先にあるあの部屋の番号になっていた。こうすれば、殺したい二人のどちらかを確実にバルコニーの部屋に泊まらせることができる。
 ところが、柚亜がこの仕掛けを同じように利用しようとすると困ったことになる。というのも、柚亜は一番最初にくじを引いたのでポケットを切り替える意味がほとんどないんだ。柚亜がくじ箱を千歌流に渡すとき、一番ポケットを二番ポケットに切り替えたとすると、二番ポケットからくじを引くのは柚亜と鳴雨の間に挟まれた千歌流、翠、志摩、俺の四人。これでは特定の相手に特定のくじを引かせる効果はまったくないし、そもそも一番ポケットからくじを引くのが柚亜だけなのだからこの仕掛けはまったく意味をなさない。
 逆に、お前なら、この仕掛けは十分に有効だ。お前と鳴雨の間には俺しかいないから、二番ポケットを利用するのは俺だけだ。お前と鳴雨が組むことで、俺に好きな番号のくじを引かせることができる。俺がくじを引いたとき、箱にはくじが三枚入っていたが、それらは全部同じ番号が書かれていた。大方、俺と隣の部屋になりたいからとでも言って鳴雨に頼んだんじゃないのか? お前自身のくじは、箱から引くふりをして手の中に隠し持っていた紙を出せばいい。ついでに鳴雨には保護者二人を俺たちの部屋から遠ざけるようにも頼んだ。鳴雨は俺のくじを操作するのが主で保護者二人のくじを操作するのが従だと思ったのだろうが、実際は逆だ。実際には二人の部屋を社員棟の端に割り振るのが目的だった」
 零時は得意げに語る。まるで裸の王様だ。
「八敷が殺された密室のトリックは、昔お前が話していた通りだ。その点は俺も納得している。が、あのトリックには致命的な欠陥がある。それは、大広間に誰かがいて、八敷の部屋に出入りがないことを監視させなければ成立しないということだ。だってそうだろう? もし大広間に誰もいなくて、全員が八敷の部屋に入り放題なら、洋弓銃も百円硬貨もない。普通に部屋に行って殺せばいい。だったら犯人があらかじめ用意していた百円硬貨の意味は? もし大広間に人がいて、八敷の部屋に入れなかったときの保険か? そんな微妙な保険、かけるだけ無駄だろ。それに、もしそういうことになっても、だったら八敷を部屋の外に呼び出してそこで殺せばいい。長部のときは人のいない研究棟に呼び出して殺してるんだから、それができないってわけではないだろう。つまり、犯人は、一日目の夜に俺がずっと大広間にいることを知っていたんだ。そして俺が大広間にいた理由は、お前に大広間で待っているように言われたからだ。これ以上ないくらいにあからさまな証拠だろう?」
「状況証拠」
「状況証拠も立派な証拠さ」
「そういう意味ではなくて」さすがに志摩は落胆する。「もっと具体的な証拠があるはずです。それを指摘してください」
 零時の表情が強張った。睨み付けるように志摩を見る。もし彼が飛びかかってきたらどうしようかと志摩は考えた。あのメイドのような戦闘能力は志摩にはない。簡単に組み伏せられてしまうだろう。
 零時の反応を見ながら、少しずつ、自分の中にある零時のモデルを修正してゆく。
 志摩にとってコミュニケーションにほとんど意味はなかった。自分の中に他人のモデルを作るようになってからだろう。自分がどういった言葉を投げかければ相手がどのような反応をするか、そのモデルを使って実験するのである。現実とモデルのすりあわせを何度か行えば、他人の反応を極めて高い精度で予測することができる。その仮想のコミュニケーションは、しばしば志摩の好奇心を大いに満足させた。しかし、遊び尽くすのも早かった。
 人間を遊び尽くしてしまった。
 もはや刺激はない。予定調和のコミュニケーション。
 時折モデルの欠陥を発見して一喜一憂するだけの、退屈な作業。
「やっぱり、わざと証拠を残したな」
「あなたの能力を過大評価していました。あなたなら世良島の三日間で解答に辿り着けると思っていましたから。ヒントの出し方が不十分でした」
「……翠と鳴雨だけではなくて、柚亜も嘘を吐いていた。管理棟にいたのはなんとなくで、管理棟から自分の部屋に戻って絵を描いていた――全部嘘だ。柚亜の部屋には汚れ一つない白衣があった。絵を描くときは油絵の具が服に付かないようにあれを羽織って描いていたんだと思う。ところが、白衣には絵の具の汚れがまったく付いていなかった。絵の具の匂いもない。もし油絵の具を扱ったのなら絵の具の跡くらいはつくだろう。つまり、柚亜は世良島に着いてから、一度も絵を描かなかった」
「ただの推測です。単に、絵の具の扱いが上手かっただけかもしれませんし、その白衣をエプロン代わりに使っていた証拠もありません」
「だからさっきは言わなかったんだ。……そういえば、一日目の夜に、スランプで描けないって本人が言っていたような気がする。はっきりとは覚えていないが」
「結構な記憶力です」
 志摩は皮肉を言った。こんな陳腐な答えを出すために一体何十年かければいいのか。
「つまり柚亜は部屋に戻らなかった。管理棟にいて、犯人が研究棟に出入りするのを見たんだ。だけど柚亜はそのことを話さなかった。犯人を庇ったんだ。あの夜、自分のアリバイを主張した志摩を見て、柚亜はお前が犯人だと気づいた。だから管理棟で見たお前のことを黙っていたし、辻褄を合わせるために部屋に戻って絵を描いていたと嘘をついた。――千歌流もそうだ。犯人は八敷の背中を一発で仕留めた。洋弓銃の扱いに慣れていなければそんなことはできない。ましてや真下に撃つのなら練習は絶対に必要だ。一日目の夕方に、お前は千歌流からボウガンの撃ち方を習ったんだ。お前なら、何度か千歌流の撃ち方を見れば、すぐにそれを真似ることができるだろう
 ここで重要なのは、柚亜も千歌流も翠も鳴雨も、みんな犯人の正体を知っているのは自分だけだと思っていた点だ。だから誰かに相談することもしなかったし、みんな自分の裁量の範囲内で、こっそりと志摩のことを庇おうとしたんだ」
「では、どうして四人はわたしのことを庇ったのでしょうか?」
「それは、お前が友達だから……」
 零時の口が止まる。彼の目の焦点が自分からわずかに離れた。思考の証拠である。志摩はそれが終わるのを気長に待った。
「逆、なのか?」
「時間切れです。では、わたしはこれで失礼します」
「ちょっと待ってくれ、まだ答えを聞いていない」
「彼らを裁いたのはわたしではありません。わたしはただ、彼女たちの殺意を代弁したに過ぎません。八敷と長部を殺した殺意は、わたしのものではないのです」
 それはただの責任転嫁だ――と、零時は責めるだろう。
「それはただの責任転嫁だ」
「いいえ、違います。鳴雨も、千歌流も、翠も、柚亜も、誰もわたしを止めませんでした。それは殺人に合意したことと同じです。二人を殺したのは四人の殺意なのです。翠と鳴雨はあの二人に体を弄ばれ、二人が消えてしまえばいいと願っていました。千歌流は、自分の身代わりに体を差し出した翠を救いたいと考えていました。柚亜は、二人の金銭のために才能を使われることに矜持を汚されました。みんなが彼らの死を望んでいたのです。誰かがわたしを告発していれば、わたしに二人を殺すことはできませんでした」
「だからお前に罪はないと?」
「あなたにわたしが裁けますか?」
 零時の表情が歪む。確率は低いが――彼が、今ここで、自分を殺そうとする可能性だってある。もし彼がその手段を選ぶのなら、志摩は手放しで彼に賛嘆するだろう。
「お前こそ、誰かを裁くことができるのか?」
 その質問は意外だった。ずばりと本質を突いてくる。志摩は零時に笑顔を見せた。零時は顔を強張らせる。自分の表情が相手に与える効果をよく知っていた。
 誰かを裁くこと。誰かを恨むこと。誰かを愛すること。
 すべて、対等の相手が存在しなければ、成り立たないことだ。志摩は、自分以外のすべての人間を見下していた。人はそれを傲慢だと言うだろうが、そうではなく、志摩にとっての自分は他のすべての存在から乖離しているのだ。ゆえにこの世界に悲しみはなく、喜びもない。何かを渇望することも、志摩にはない。
「もう質問は終わりですか?」
「最後にひとつ。柚亜の絵を盗んだのはお前だな?」
「あなたはその答えをすでに分かっているはずです」
「あの絵は元から贋作だったのか?」
「そうです」
「八敷と長部は柚亜に贋作を描かせて、それを売って金にするつもりだった」
「その通りです」志摩は肯定する。「わたしは柚亜に相談されて、絵を盗むことを計画しました。つまり、偽物の絵と偽物の絵を入れ替えただけなのです。贋作に手を染めたことは柚亜にとっての汚点でした。証拠となる絵は適切に処分しました。いくら探しても、もうこの世には存在しない絵です」
「何十年も前に、もう存在しなかった」
「そうですね」
「でも普通気づくんじゃないのか? だって、絵の売買をするときは鑑定するだろう。万が一にも偽物を掴まされないために。特にあの絵は、二十年前に焼け落ちたことになっているんだから」
「他人が似せて描いた絵ならば、鑑定すれば正しい判定ができるでしょうね。しかしあの三枚の絵を描いたのは関夏彦ではありません。作者は鳩山柚亜なのです。あれは関夏彦の他愛ない悪戯だったのです。美術館に絵を寄贈する際、自分の絵の中に娘の描いた絵を三枚混ぜて、誰がそのことに気づけるかを試したのです。結果はもちろん、誰も気がつかなかった。誰もが絵の作者は関夏彦だと疑わなかった。八敷政孝と長部勇平はその点に目を付けた。世界で唯一、火事で焼けた関夏彦の絵を復活させることができる人物が、鳩山柚亜だったのです」
「盗まなくても、買い取ればよかった」
「秀島純一は関夏彦の熱心なコレクターでした。簡単に絵を手放したりはしません」
「秀島は、正真正銘本物の関夏彦の絵と、柚亜が描いた関夏彦の絵の両方を持っていた。二つの絵の微妙なタッチの違いを見つけられるかもしれない。絵が贋作であることが発覚すると、柚亜が描いたことが分かってしまう。金儲けのために贋作を描いたなんて、柚亜のプライドが許さない」
「概ねその通りです」
「お前は、柚亜の手先になったんだな。ただの道具に」
「目的は柚亜が設定しました。わたしはそれを最適な手段で実行するだけです」
「お前には目的がない」
 志摩は答えなかった。
「お前は天才だ。他人の力をそのまま模倣する。だけど、お前にはそれを利用する目的がなかった。能力を持て余しているんだ。だから手段どころか目的すら他人のものを模倣した」
「見事な分析です」
 再び皮肉を言った。零時の真剣な眼差しに対して、志摩は冷めた目で彼のことを観察していた。
「本当に、そんな生き方を望んでいるのか?」
「ではあなたは何を望んでいるのですか? 金銭ですか? 権力ですか? 名誉? しかし金銭も、権力も、名誉も、すべてはあなたの中にある他人が生み出しているものに過ぎません。それに価値があると考えるのは、ただの幻想です。金銭や権力や名誉に実体があるわけではありません」
「俺は、真実が知りたかった」
「わたしには共感できません。真実なんて、少し考えれば簡単に手に入るのに」
「屁理屈」
 拗ねた声を出す零時が可愛くて、彼のことを抱きしめたいと思った。対等の存在に抱く愛情ではなくて、ずっと目をかけてきた愛玩具に抱く愛着に近い感情。目の前の零時が、自分と同じように喋り、呼吸し、思考することが、志摩にはにわかに信じられなかった。
 別れの挨拶もなく、志摩は零時の部屋を去った。

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