裁くのは彼女

第8章 我がための真実


 何かとてつもなく幸せな夢を見ていたような気がしたのだが、目を覚ましてみると、俺がなぜそんな幸福感に包まれていたのか途端に分からなくなってしまう。
 思い出せる限りの記憶をかき集めてみると、屋根の上で、俺や父や母が座っている光景。そこに志摩や鳴雨が現れる。なぜその二人なのかは分からない。父と紅茶を飲んだ。会話はない。全員が静かに、屋根の上に座っていた。
 本当に脈絡のない夢だ。そして夢は多くの場合、目にした光景とはまったく無関係の感情を見る者に与える。
 殺されかけたというのに俺の体はずいぶんと呑気なものだ。とは言っても、倒れた俺を取り囲むようにしている五人の顔を見るまでは、自分がいかに異常な状況で倒れているかをすっかり失念してしまっていたのだから、体の方ばかりを一方的に責めるわけにもいかないだろう。
 目を覚まして真っ先に言った言葉が「みんな、何やってんの?」だったことが、柚亜の癇に障ってしまったのが最初の失敗だった。
 彼女が喚き散らすを聞きながら体を起こす。頭に鈍い痛みが走ったのは柚亜のヒステリックな非難のせいだけではないだろう。おまけに吐き気もする。喉の奥には何かが絡みつくような気色の悪い感覚。絞められた首も痛かった。
「大丈夫? 痛む?」
 俺が顔をしかめると柚亜は表情を一転させて俺を気遣った。大丈夫だ、ということを言おうとして、頭が痛んだので手だけでそれを示す。うるさいから放っておいてくれ、というジェスチャーに近かったが、まあ意味が同じなので良しとしよう。俺は状況を把握できていないせいで他人を思いやる余裕を失っていた。
「どこだ、ここは?」
「管理棟。どこだと思ったの?」
 立ち上がろうとすると志摩が手を貸してくれた。遠慮なくその手を掴む。よろけそうになりながら何とか立ち上がった。周囲を見渡せば、確かにここは管理棟だ。観音開きのガラスドアの向こう側はすっかり夜になっていた。
 そのまま社員棟の方へ歩こうとすると柚亜に止められた。
「ちょっと、どこに行くつもり?」
「トイレだよ」
「……ごめんなさい」
「おあいこだ」
 俺たちのやりとりを翠が不思議そうに見ていた。もちろん俺たちは何の説明もしない。
「研究棟の……二階のトイレに、長部さんの死体があったぞ」
「え?」
「そしたら誰かに気絶させられた」
「ちょ、ちょっと待って」千歌流が慌てて言った。「長部が死んだって?」
「多分」
「多分って?」
「知らないよ。確認しようと思ったら後ろから襲われたんだ。だから生きてるかもしれないし死んでるかもしれない。けど死んでるように見えたってこと。頭から血を流して」
 質問を強引に打ち切って、俺は社員棟側の廊下へと移動した。管理棟の方を何度か振り返りながら、廊下の途中にある男子トイレの中に入る。
 溜まりに溜まった欲望を解放してやっと気分が落ち着いた。手を洗ってトイレを出ると、廊下の壁に背中を預けて志摩が立っていた。クリーム色のチュニックの中央にプリントされたハートのマークが何故か不気味に見える。
「大丈夫?」
「ああ。漏れそうだっただけだ」
「最初、あなたが殺されたのかと思った」
「俺も死んだと思ったよ」
「無事で何より」
「みんなは?」
「研究棟の方に行った」
「危ないぞ」
「大丈夫よ。二人きりにならなければ犯人は動かない」
 志摩が微かに唇をつり上げて笑った。今の俺たちの状況を揶揄しているのだろう。志摩と二人きりである。寿命が縮まる冗談だ。
 笑えない冗談のせいで二人で話しているのがなんとなく不安になる。俺たちはみんなと合流するために研究棟の方へ向かった。志摩が歩調を合わせて俺の後ろにぴったりとついてくる。
「一体何があったんだ?」
「サギちゃんは研究棟一階の廊下に倒れていたんだよ。千歌流が、サギちゃんがいなくなったと大騒ぎしていたの。それでみんなを集めて研究棟を探していたら――」
「犯人は千歌流じゃない」
「どうして?」
「あのとき千歌流は三階にいたんだ。ところが俺は二階のトイレで犯人に襲われた。ってことは、犯人は俺を待ち伏せしてたんだ」
「そう決めるのは少し早いんじゃないかな」
「一応言っておきたくて」
 志摩が笑ったのが分かった。襲われてもなお千歌流のアリバイを主張する俺が滑稽だったのか。あるいは呆れているのか。
 管理棟を通るときにカウンターに置かれていた懐中電灯を志摩が取った。
 研究棟に一歩入ればそこはもう暗闇の中だ。しかし二階に上がると、廊下の向こうで柚亜たちの懐中電灯の光がゆらゆらと揺れているのが見える。研究棟では彼女たちの声がここからでもよく聞こえる。きっとトイレの中を見ているのだろう。
 俺たちはそちらの方に向かって歩いた。足下が危ないので光は常に下向きで。
 ある部屋の前に来たところで俺の脚が止まった。今志摩が照らしている廊下の光景と、俺が夕方に見た廊下の光景の差異に気がついたのだ。
「どうしたの?」
 志摩が懐中電灯をこちらに向けたので、眩しくて思わず手で遮った。すぐに彼女は光を下に向ける。俺の足下には空の段ボール箱があった。しかし俺の記憶違いでなければ、夕方のこの場所には空箱なんて置いていなかった。どの箱にもぎっしりと中身が詰まっていたはず。俺が足をぶつけた場所なのではっきりと覚えている。そのときの痛痒がじわりと足に蘇ったような気がした。だとしたら、この箱の中に入っていたものはどこに行った?
 志摩の質問には答えずに、俺はそのすぐそばにある部屋の戸を開けようとした。しかし引き戸には鍵が掛かっていて開けることができない。何度か戸を揺すってみるも虚しく音を立てるだけだ。
 俺は戸のガラス窓から部屋の中を覗き込んでみる。何も言わなかったが、志摩は窓越しに部屋の中に懐中電灯の光を入れた。
 白い光が長部の青白い顔を映し出して、俺は小さく悲鳴を上げる。後ろにいた志摩を押し退けて部屋から離れた。
 目線を背けて、廊下の先へ向けると、トイレを見ていた四人がこちらに戻ってきたところだった。
「本当に死体なんてあったの? 隅々まで探したけど、死体もなければ血の跡も――」
 千歌流が言葉を止めた。彼女も窓越しに、懐中電灯で照らされた長部の死体を見たのだ。他の三人も少し遅れて死体を見る。翠は息をのんで、慌てて目をつむると千歌流の背中にしがみついた。
 長部は部屋の角で仰向けに倒れていた。大の字に四肢を伸ばして、上体をわずかに起こした体勢だ。長部の体の下には大量の本や書類が積み上げられていて、それが彼の上半身を緩やかな角度で持ち上げていた。
 それだけではなく、大量の本や書類はまるで階段のように天井近くにまで積み上げられていた。その階段の先には、天井で口を開けている小さな通気口が、この部屋よりも一段と深い闇を覗かせていた。
 廊下にあった空箱は、もともと書類やファイルが収められていたものだったのだ。それが今は、死んだ長部のベッドになっている……。
「うわ、何あれ!」
 千歌流が場違いに大きな声で言う。もっと窓に近づいて、長部の死体を間近で見ようとする千歌流を翠が必死に引っ張っているようだ。その背後で柚亜が青ざめた顔をしている。鳴雨は一番後ろで、俺たちのことを見ながら幽霊のように立っていた。
 誰の同意も許可も求めずに、志摩がガラス窓に懐中電灯の尻をぶち当てた。その音に翠がびくりと体を震わせる。何度か当てると窓に罅が入り、さらに数回繰り返して、窓を破壊することに成功した。志摩はガラスで切らないよう慎重に腕を入れて、ドアの鍵を内側から解除した。
 汗が額をじっとりと湿らせた。夜だというのに、研究棟はどうしてこんなに暑いのだろう。
 志摩が死体に近づいて、彼の首に指を当てる。ばっくり割られた頭の血はすでに乾いていた。部屋に入ったのは志摩だけで、俺を含む他の五人は彼女の行動を唖然として眺めていた。
「死んでいる」
 彼女は簡潔に報告する。みんなの動揺は、俺が予想していたよりはずっと小さかった。



 大広間に戻る前に、志摩は長部の死体を検めた。その際に、死体の足下に鍵が落ちているのを見つけた。死体があった部屋の鍵である。志摩が覗き窓を破壊した方のドアはもちろん、もうひとつあった後ろの方のドアにも鍵が掛かっていたのを確認している。当然だがこの事件も密室殺人ということになる。さらにズボンのポケットには、管理棟と研究棟を繋ぐ扉の鍵も入っていた。
 さらに志摩は研究棟の戸締まりを確認することを提案。二組に分かれ、一階の各部屋の窓を調べて、そのすべてが内側から施錠されていることを確認した。
 それに加えて志摩は死体を社員棟に運び込むことを提案したが、俺を含む全員がそれに反対。結局死体は研究棟の二階に放置されることになってしまった。
「それで、サギちゃんが死体を見つけたのは何時ごろだった?」
 大広間の沈黙を打ち砕いて志摩が質問した。俺は少し考えてから答える。
「分からん。夕方くらい……。けっこう暗くなりかけてたから、六時以降だと思うけど」
「そのとき、犯人に背後から襲われたんだよね?」
「そうだよ」
 志摩はしばらく考えるようにしてから、
「みんなに聞きたいんだけど、今日の午後から何をしていたのか、特に夕方以降の行動について教えてくれない?」
「なあ、そういう犯人捜しは――」
「わたしは」志摩の声が遮る。「午後は途中からずっと翠と一緒にいたよ。二人で本を読んでいたの。正確な時刻は分からないけど、四時くらいからかな。そうだよね?」
「え? う、うん……」
 翠は曖昧に頷く。顔を伏せて、それ以上は何も言わなかった。
 志摩は視線を俺に移した。それにつられてみんなの視線も俺に集まる。未だに俺たちはまるで軍隊のようにあいつに統制されているらしい。
「午後に千歌流と会って、二人で研究棟に無線機を探しに行った。その途中、管理棟で柚亜と会った。あとは説明した通り、日が落ちたところで千歌流と別れて、犯人に襲われた」
「右に同じ。サギちゃんがトイレに行ったあと、サギちゃん待ちながらしばらく無線機いじってたけど、暗くなるしサギちゃんのことを何度呼んでも返事がないしで、これはヤバいと思ってすぐに社員棟に戻ったよ。そのあとは、みんなを集めてサギちゃんを探しに行った」
 千歌流が小さく手を挙げて投げやりに言う。
 鳴雨がそれに対してぼそりと質問する。
「襲われた、というのは?」
「ん?」
「方法」
「首を絞められた。あと、薬品か何かを染み込ませた布を口に押し当てられた」
「研究棟には、薬品とかがまだ残ってるから。多分それを使った」
 鳴雨が補足した。志摩がそれに小さく頷く。
 続いて柚亜が、面倒くささを隠そうともせずに説明する。
「あたしは昼からはずっと管理棟にいたわ。二時か、三時くらいに長部が研究棟の方に行くのを見た。……特に会話はしなかったけど。酔っぱらってたみたいだったし、下手に絡まれたら嫌だから。それからしばらくして千歌流たちが研究棟に行くのも見たわね。その後は、あたしは部屋に戻ってずっと絵を描いていたけど」
「じゃあ研究棟の鍵を開けたのは長部か」
「……だったと思う。よく覚えていないわ」
 彼女は俺の疑問に答える。
「それ以外に研究棟に行った人は?」
「さあ。別に監視してたわけじゃないから」
「だったら何で管理棟に?」
「別に、特に意味があったわけじゃないわ。ただ何となくいただけよ」
 少し言い訳がましいと俺は思ったが、本人が理由がないと言っている以上、これ以上の追求は不可能であった。
「鳴雨は?」
「私はずっと部屋にいた。証明できる人間はいない」
 彼女はそれだけを簡潔に答えた。
 全員から話を聞いて、志摩は口元に拳を当てる。現在思考中のポーズ。志摩の一番可愛い姿は考え事をしている姿だと思う。しかし志摩がそういった仕草を見せることは非常にまれで、大抵はあっという間に答えを出してしまうか、もしくは普段の生活と平行して思考を進めてしまう。
 俺が食い入るように志摩の姿を見ていると、少し露骨すぎたのか、他の四人が怪訝そうに俺を見ていたので、恥ずかしくなってすぐに目を逸らした。もったいないことをしたな、と後になって思う。
「犯人の行動はかなり限定されそうだね。犯人は柚亜が管理棟を立ち去った後に研究棟に行った人物だよ。長部がどうして研究棟に行ったのかは謎だけど、おそらく犯人に呼び出されたんだね。……例えば長部が研究棟の内側から窓を開ければ、管理棟を通らなくても研究棟には行ける。だけど研究棟から出るには管理棟を通らなければならない……わたしたちが見たとき、研究棟の窓はすべて内側から鍵が掛かっていたからね。問題は進入方法ではなく、脱出方法か。理由が不明だな。自殺に見せかけるにしても状況が実に――」
「ねえ、赤織さん」翠は憂鬱そうに口を開いた。「やめようよ、そういうの」
「何か気に障った?」
「うん。犯人探しとか……もうやめようよ。みんなのこと疑ったりして……嫌だよ、そんなの」
「でも、犯人はこの中にいて、あの二人を殺している」
「あの二人だから、よ」柚亜も同調する。「翠に賛成ね。あたしたちの誰かが死んだならまだしも、あの二人なら、何も問題ない」
「おい、その言い方はないんじゃないか? 人が死んでるんだぞ」
 たまらずに俺が声を張り上げると、四対の冷たい視線が俺を襲った。何なんだ、こいつらは。どうしてそうも、あの二人の死に対して冷徹になれる。
「そうね。普通の人ならそうなるわね。でもあの二人なら、あたしはむしろ死んでくれてせいせいしているくらいよ」
「……どういうことだ?」
「あなたも犯人捜しには賛成なのかしら? あたしたちの誰かを、捕まえて、人殺しだと吊し上げる――。それが、一体何になるというの? それで死んだ人が生き返るのかしら」
「それは詭弁だ」
「みんなは、そう思っていないみたいだけど」
 俺は黙った。思わず熱くなってしまった自分を必死に抑制する。自分は無関係なんだ。お前が何かをする必要はない。お前は言われたとおりにしていればいい。お前は何もしなくても……。
「これ以上、疑ったり疑われたり、もうたくさんよ。あたしたちの中に犯人がいたとして、その犯人はこれ以上殺人を犯さないわ。なぜなら残されているのがあたしたちしかいないからよ。楽観的だと、あんたは思うでしょうけどね。まあ、あんたに分かってもらおうとは思わないけど」
 自分たちの中に、友人を殺すような人間はいない――たとえそれが、殺人犯であっても。
 柚亜の、友人に対する絶対の信頼が、果たしてどのような根拠によるものなのかは分からなかったが。
 では『友人』ではない俺は本当に無事でいられるのかと、不安を覚えずにはいられなかった。
 志摩は不服そうだったが、柚亜と翠に念を押されて、渋々と捜査の断念を約束した。



 俺たちは、フェリーが到着する明日の昼までは全員で行動を共にすることを決めた。下手をすれば犯人探しをやりかねない志摩を見張るつもりだったのかもしれない。以前は同様の提案に反対していたはずの千歌流と柚亜による提案だった。
 俺たちは各部屋から荷物と毛布を持ち寄って、大広間のソファやカーペットの上で病人のように休んだ。部屋の端にはみんなが部屋から持ち出した着替えや洗面道具の入ったバッグが寄せられていて、その様子はさながら修学旅行のようだと俺は思った。
 朝からストレスと疲労が続いていたせいか、俺と志摩を除く四人はすぐに静かな寝息を立てて眠り始めた。
 志摩が横になっているソファーの隣で、俺は毛布を被って床の上に寝そべっていた。
「犯人捜し、したいんじゃないのか?」
「そうね。したくないと言えば嘘になる」志摩は言った。「でも、みんながしてほしくないというのなら、無理にしようとは思わないよ」
「それは意外だな。お前が他人に遠慮するなんて」
「犯人捜しはあくまで暇つぶしだから。犯人捜しよりも『友達』の方が優先度が高いの」
 彼女はそう言ったが、『友達』が彼女の中で最上位の価値を持つわけではないことは俺も十分に承知していた。例えばこれが、志摩にとってもっと愉快な娯楽が比較対象であれば、あいつは迷うことなく『友達』の方を切り捨てるだろう。ある意味で非常に単純な考え方をするのだ。
「犯人は、誰なんだろうな」
「さあ」
 志摩はそっけなく答えて寝返りを打つ。それ以降は、何を聞いても答えてくれなかった。
 その日の夜は結局深い眠りに落ちることはなかった。短くて浅い眠りを何度も繰り返す。まるでフェリーの喫水線のようだと、俺はまどろみの中で思った。
 トイレから戻ってくる頃にはすでに俺は眠るための努力を放棄していた。眠気がないわけではない。思考はもやがかかっているようにぼやけ、視界が狭まっているのを感じた。
 俺は自分のナップサックからメモ帳を出すと、心配しないようにという旨の手紙を書いてそのページを破いた。手紙をテーブルの上に残して、みんなが熟睡しているのを再度確認してから研究棟に向かった。
 途中で管理棟に寄り、カウンターの奥にあるコルクボードを見る。長部の死体が見つかった部屋の鍵と、研究棟への通路の鍵が戻されていた。俺は二つの鍵を取る。
 置きっぱなしの懐中電灯を手にし、鍵を開けて研究棟に入る。真っ暗、というわけではなかったが、探偵ごっこをするためにはもう少しはっきりとした明かりが必要だった。懐中電灯の光は明け方の曖昧な暗闇を徹底的に追い払う。
 二階の、長部の死体のある部屋へ着く。引き戸を開けると、立て付けの悪さが大きな音を立てる。その音が大広間で眠っている彼女たちにも届いてしまいそうで俺は肝が冷えた。もちろん、心配のしすぎだろう。
 部屋の中に入ったとき、破壊された覗き窓のガラスを踏んづけて嫌な音がした。懐中電灯を下に向けるまで、自分が何を踏んだのか分からなかった。大股で部屋の中に深く入り、未だに放置されたままの死体を懐中電灯で照らす。
 周囲を懐中電灯で照らして、抜け穴の類がないかを確認する。窓にはすべてクレセント錠。これらが閉まっていたのは昨晩に確認済みだ。一ヶ所だけ、あった。天井にぽっかりと口を開けた通気口。八敷の部屋にあったものと同様のサイズで、あそこを通り抜けられるのは子供だけだろう。
 改めて現場の――いや、元々死体は男子トイレにあったのだから、ここは現場ではないのだが、死体が放置されたこの部屋を眺めると、意外に片付いているな、という印象を抱いた。それは本棚や段ボールに収められていた書籍や書類がすべて部屋の一角に固められているせいだろう。そのおかげで本棚や机の上が空になっていて、積み上げられている本と死体を視界に入れなければこの部屋は引っ越し直後の部屋に通ずる空々しさがある。
 死体に触れないように気をつけて近寄り、山積みにされた紙の絶壁を改めて観察する。手を突っ込んで少し形を崩してみると、どうやら内側には小さな棚が入っているらしい。つまり棚を核として、その周辺を本で補強、肥大化させた形のオブジェなのだ。一体何のためのオブジェなのかは、今ここで断定するのは少し危険だったが。
 続いて部屋を出て、廊下を光で照らしながら丁寧に観察する。長年人の手が入っていないだけはあって、あちこちに埃が積もっていた。俺たちが歩いた足跡も残っている。しかし廊下の中央部分には、まるでモップをかけたような埃の拭われた跡が死体のあった部屋まで道のように続いていた。
 俺はもう一度部屋に戻って、かなり嫌だったが、微かに死体の臭いがして吐きそうだったが、何とか我慢して死体の上半身を持ち上げて、その背中を光を当てて観察する。
 埃だらけの廊下を雑巾で払えば雑巾には埃がつく。それと同じ形で、死体の背中にはべったりと埃がついていた。埃は背中の中央に、肩のラインに沿うような形で付着している。おそらく、犯人は死体の両腕を持って、体を引きずってここまで運んできたのだろう。
 気になって、俺は自分の背中を確認した。何度か服を払ってみたが、俺の背中に埃はついていないようだ。どうやら犯人は気絶した俺を引き摺らずに背負って運んだようだ。死者と生者を明確に区別する犯人である。
 また部屋を出て、再び埃の跡を追いかける。埃の轍は何度か止まった形跡があったが、基本的には真っ直ぐに男子トイレの方から伸びていた。
 トイレの中に入る。背後を襲われた恐怖が蘇ってきて、背筋のあたりが騒がしかった。もちろん俺の後ろには誰もいない。
 トイレの床には血痕が残っていた。トイレから出る死体を引き摺った跡が本の部屋へと続く一本だけであることを考えれば、被害者はトイレまでは自分の足で来たと考えるのが自然だ。
 用を足しているところを狙われたか、あるいは犯人に誘われてここに連れて来られたのか。
 さらに、俺が犯人に襲われた状況をじっくりと考えてみる。
 昨日の夕方自分が立っていた位置を確認した。トイレの入り口に立ち、その場所から見えていた眺めを思い出す。長部の死体。そこに背後からの奇襲。犯人はどこかに隠れていて、死体を見たショックで無防備になっていた俺の背後を襲ったのか。
 トイレの外に隠れることができる場所はない。廊下には何かの機材や使っていない椅子が投げ出されているが、犯人の体を隠せるほどではない。
 トイレの向かい側にある部屋の戸を開けて、中を確認した。ネックとなるのは戸を開けるたびにがたがた音がすることだろう。
「音もなく背後に……音もなく背後に……」
 念のため別の部屋も試してみたが、音もなく開く、というのは少し難しい。
 犯人が超能力者で予知能力を持っていたのでない限り、俺がトイレに来たことは犯人にとって不測の事態だったはずだ。どこかに隠れ、可能ならば俺をやり過ごそうとしただろう。しかし不幸にも、俺の目的地はトイレであり、そこで俺は死体を見つけてしまった。その場で騒がれてしまうとまずいので、俺を背後から襲って気絶させた……。
 犯人が隠れていた可能性があるとすれば女子トイレだろう。トイレは階段の側から女子トイレ、男子トイレ、の順に並んでいる。男子トイレに入った俺を確認し、犯人は女子トイレを出て俺の背後に回った。
 本当に他の部屋に隠れていた可能性はないのだろうか。記憶を掘り返す。トイレに入ったとき、戸が開いていた部屋があっただろうか。……なかった、はずだ。自信はないが、研究棟の部屋は閉まっているのがデフォルトだ。もし開いている部屋があれば俺の記憶に残っていたはずだ。
 犯人は二階に下りてくるのが俺であると分かっていたのだろうか。あのときの状況を記憶の中で再生する。何度も繰り返す。これだけ静かな研究棟ならば、耳を澄ませば、俺と千歌流が上の階にいることや、俺が二階に降りてくることは十分に聞こえるだろう。
 研究棟でしばらく時間を潰した。最終的に俺の中に残った結論に比べれば、ずいぶんと密度の薄い時間を過ごした、と思う。研究棟を出るころには、懐中電灯が不必要なくらいに、太陽が登り始めていた。



 そっと大広間に戻る。みんなはまだ眠っているようだった。なんとなく気になってみんなの寝顔を眺める。悪趣味な行動だったが、不思議と罪悪感やそれによる背徳的な喜びも湧かなかった。まるで被告人の顔を観察する裁判官の心境。
 俺は慌てて目をそらす。
 自分は一体何様のつもりだ。これでは志摩のことを笑えない。真実よりも友人を優先した志摩と、我が身の可愛さに友人を疑う俺は、どちらがまっとうなのだろうか。もっともこの場合は、その『友人』の確からしさが危ういからこそ、の単独行動アンド探偵活動なのだが。
 どうして俺はこんなことをしているのだろう、と思わずにはいられない。そんなに死ぬのが怖いのだろうか。
 そんなことはないだろう。
 本当に怖いのは、他人に切り捨てられることだ。
 八敷や長部と同じように、第三の被害者になった俺を見ても、彼女たちは「他人だから」と言って俺の犠牲を矮小なものとして零に近似してしまうのだろうか。
 仲間はずれ。
 どうでもいい存在だから。
 志摩は、俺のことを、どう思っているのだろうか。
「…………何言ってんだ、俺は」
 馬鹿馬鹿しくなって考えるのをやめた。それっきり、彼女たちの寝顔を覗く一切の行為を自分に禁じた。
 次は、外を見ようと思った。部外者が犯人である可能性は限りなく低いが、零ではない。研究棟の中は全員で確認したが、建物の外は、この三日間誰も確認していないのだ。もしかしたら何か痕跡が残されているかもしれない。
 社員棟の玄関から外に出る。朝っぱらから蝉の鳴き声がうるさかった。それでも無音よりはマシだ。ただの雑音だがずいぶんと心強い。
 朝方の風は涼しかった。朝が涼しいのは無人島であろうと変わらない。この風だけを感じるのなら、ここが絶海の孤島であることを忘れてしまえそうだった。
 少し考えてから、俺は船着き場とは逆の方向に歩みを進めることにした。
 外を歩くのは気分が良い。目的を忘れそうになるけれど、周囲へ視線を送るのを怠らないようにする。特に地面をよく観察して、俺たち以外の足跡とか、あるいは何かの痕跡がないかをよく調べる。
 しばらく歩いて、黒いプラスチックの破片がいくつも落ちているのを見つけた。粉々に砕かれたものから、ある程度の大きさを保ったものまで、様々。世良島に来た初日に志摩に連れられてきた小さな崖の手前、なだらかな上り坂の途中である。
 破片をいくつかつまんで形を観察する。砕かれる前の、本来の形を想像する。しかし全体的に量が少なく、ここに落ちている破片だけではもとの形を再現できそうにない。残りの大部分のパーツは持ち去られたのだろう。
 黒い破片のそばに握り拳大の石が落ちていた。近くの地面にはそれに相当する大きさの穴が空いていて、誰かがもともとその場所に落ちていた石を使って、その正体不明のプラスチック製のものを無茶苦茶に打ち付けたのだろうと想像できた。そして破片の大部分を持ち去った。どこに? 何のために?
 そして何故、を考えたとき、俺はあることを閃いた。自分の考えの正しさを証明しようと足早に崖まで移動する。
 崖の上から身を乗り出して、寄せて返す波の打ち付ける岸壁を見た。波は白く泡立って、海面に突き出た岩の周囲で渦を巻いていた。海の流れは緩やかだとは言い難い。きっと島のこちら側に港がないのは、反対側と比べてここの流れがずっと急だからなのだろう。
「ここで打ち砕いて……それを捨てたのか? ここから――」
 一人で呟きながら、海沿いに歩き始める。海の底をさらってみれば何か見つかるかもしれないが、今それをやる勇気はなかった。
 しばらく海岸線沿いに歩くと、崖が岩場になり、岩場がただの砂浜になった。
 その砂浜に、黒い塊が流れ着いていた。
「な、何だ?」
 まるで昆布のように長くて細い、帯のようなものが砂浜の上に広がっていた。波が寄せるたびにゆらゆらと揺れている。
 近寄って手に取ると、それが磁気テープであることが分かった。本来テープを収めているはずのプラスチックの容器はなかった。軽くて流されやすいテープの部分だけがここに漂着したのだろう。
 俺はしばらく考えた。何者かがあの崖でビデオのカセットテープを石で砕き、それを崖の上から流した――この崖の下が、この島周辺でもっとも流れの速い場所だからだ。ところが予想外にも、テープの部分だけが流されてこの砂浜に戻ってきてしまった。丁寧にテープを確認すると、人の手で強引に引っ張ったような跡がそこかしこにあった。素手で磁気テープを破壊しようとして、それができずに仕方なく海に流したのか。磁気テープの強度はよく知らないが、専門家に頼めば、このテープに何が記録されていたのか読み出すこともできるかもしれない。
 いや、もしかしたら島の外から流れてきた、単なるゴミかもしれないが――と思い、周囲の砂浜を見渡してみた。そこにはゴミどころか流木すらなかった。あるのは黒い、一見して海草に見えなくもないこのテープだけ。少なくともこの砂浜は、頻繁にゴミが流れ着くような場所ではない。ただのゴミかもしれないが、そうでない可能性も、十分にありそうだった。
 一応、その磁気テープを回収しようと思った。回収作業の途中、手は海水と砂でべたべたになり、数メートル分をかき集めたところで、諦めた。テープが長いのもさることながら、磁気テープ自体が、一本や二本では済まなかったのだ。ここに流れ着いているものだけでも五、六本はある。ではその何者かが破壊した元々のテープの総量はどれくらいなのだろう。
 帰り道は別のルートを選んで社員棟に戻った。プラスチック片と磁気テープ以外のめぼしいものは何も見つからなかった。
 ふと閃くものがあって、俺は大広間を素通りして長部の部屋へ向かった。一応、外出の言い訳を考えていたのだが、みんなはまだ眠っているようだった。時刻はすでに八時を過ぎていた。
 長部の部屋のドアを開けると、俺は自分の推測が正しかったことを知る。最後に長部がこの部屋を後にした段階で、一体この部屋がどんな状態だったのかは分からない。が、それでも、この部屋の散らかりようが異常な事態であることは分かった。この散らかし方は部屋の主によるものではなく、部外者が、あるものを探して部屋を引っかき回した跡なのだ。
 俺は部屋に入って、ベッドの上にひっくり返っていた二つの鞄を検める。中身のほとんどが投げ出されている。他の荷物は手つかずで残されていたから、この部屋を荒らした誰かは目的のものを見つけてこの部屋を去ったのだろう。
 ベッドの上にひっくり返っていた荷物の中に、長部のものと思われる家庭用ビデオカメラを見つける。ところが、映像を記録するためのビデオテープがない。ビデオカメラの中も確認してみたのだが、そちらも空であった。
 もちろん、長部が偶然カメラのテープを忘れてきた、という可能性もないわけではないが。犯人が持ち去って崖から捨てたと考えるべきだろう。
 大広間に戻り、みんながまだ寝ていることをよく確認した上で、俺は社員棟の中をさらに詳しく調べることにした。
 次に調べるのは、みんなの個室だ。



 最初に手をつけたのは一階にある翠の部屋だった。いささか緊張しながら部屋に入り、ヴァイオリンの入ったケースや、ベッドの上に放り出してある文庫本の位置を丁寧に観察し、記憶した。今度ばかりは、調べた痕跡を残すわけにはいかないのだ。俺が立ち去るときには、この部屋の最初の状態を正確に再現しなければならない。
 翠の部屋は持ち主の性格を表すように奇麗に整頓されていた。荷物の大半はベッドの脇にある大きなボストンバッグの中だ。
 不用意に物を動かさないよう気をつけながら、俺は部屋の中すべてを確認した。荷物の中身はもちろん、ナイトテーブルの引き出しの中、ベッドの下、クローゼット、念のため窓の外まで入念に調べる。荷物の中に使用済みの下着を入れたビニール袋を見つけたときは、さすがに俺も抵抗を覚えたが。
 あまりひとつの部屋に時間をかけていても仕方がないので、すぐに次の部屋に取りかかることにした。
 次に手を付けたのは二階の柚亜の部屋だ。ベッドの脇には絵の具が収納されたずんぐりとした黒いトランク、椅子の背にかかった真っ白な汚れのない白衣、テーブルの上には植物の図鑑と空のペットボトル。クローゼットの中には白紙のキャンバスが立てかけてあり、ナイトテーブルの上にはリップクリームが転がっていた。引き出しの中は空。
 荷物の詰め方が下手で、中を調べるのに苦労した。完璧に最初と同じ配置に戻すのは不可能だったが、まあこの感じでは詰め方に何かポリシーがあるわけではないだろう。気づかれる可能性はあまり高くない。
 部屋を出て、隣の千歌流の部屋に入った。
 こちらはさらに散らかっていた。脱ぎ散らかした服や、タオル、楽譜などが床やバッグの上に無造作に放られていた。部屋のすみには、翠の部屋で見つけたのと同じ大きさの黒いヴァイオリンのケース。ゴミ箱には、島外から持ち込んだと思われるスナック菓子のパッケージが握りつぶされて捨てられていた。
 二階の最後は鳴雨の部屋だ。部屋にはおよそ日用品とは思えないようなものがいくつかあった。全体的に片付いていたが、手品の道具を作るためか、鋏や糊、厚紙がテーブルの上に散らかっていて、俺は小学校の図工の授業を連想した。黒いトランクケースの中から白いシルクの布がはみ出ていて、中を見ると、ステンレスのカップや指の先にはめる幅の広い指輪のようなものもあった。すべて手品の道具である。
 しかし一番俺が気になったのは、フェリーで使ったくじ引きの箱だ。
 くじ箱の中を慎重に調べて、俺は戦慄する。
 箱の内側にはビニールの袋が接着してあるのだが、この接着面を丁寧に指でさぐってみると、袋の端が指にかかった。引っ張ってみると、実はこのビニール袋は一枚ではなくて、三重の袋になっていることが分かった。これは言うなれば、箱の中が、二枚のビニールの仕切りによって三つの空間に分けられているということだ。箱の中は暗いし、ビニールは透明なので、一見しただけではこの仕掛けは分からない。
 くじ引きの光景を思い出す。どの順番でくじを引いたのか必死に思い出そうとする。……思い出せ、思い出せ。問題は鳴雨の前後だ。くじを引くふりをして、ビニールのしきりを隣に送る。こうすれば、自分の前の人間が引くくじと、自分の後の人間のくじを分離することができる。鳴雨の次に引いたのは、長部と八敷だった。あの二人の部屋を孤立させるためにこんな小細工を使ったのか?
 いや、違う。くじ箱の袋は三重になっているのだ。鳴雨が仕切りを送って、くじの残りを切り替えるだけならば、仕切りは一枚だけ――袋は二重で十分なのだ。
 手品の道具以外の私物も調べる。服や、棋譜、折りたたみ式の将棋盤も見つかった。
 俺は鳴雨の部屋を後にした。階段で三階に上がり、俺の部屋の向かいにある志摩の部屋へ入る。
 記憶するまでもない。小さなスーツケースがベッドの脇に置いてあるだけだ。スーツケースを開けると、中には着替えと洗面道具ぐらいしか目に付く物がない。クローゼットの中には水色のタンクトップとジーンズがハンガーに掛かっていた。触ってみると、タンクトップはすでに乾いていたが、ジーンズの方は僅かに湿り気が残っていた。
 志摩の部屋を念入りに調べたが、他にめぼしいものは見つからなかった。仮に志摩が犯人だったとしても、俺が調べたくらいで簡単に見つかるような場所に決定的な証拠を隠したりはしないだろう。
 俺は志摩の部屋を出た。向かい側にある自分の部屋に行き、異常がないことを確認してから、大広間に戻る。いくら疲れていたとはいえ、みんなもそろそろ起き出すころだろう。



「どこ行ってたのよ」
 大広間には柚亜だけが残っていた。タオルケットを膝の上にかけながら唇の先を尖らせる。
「みんなは?」
「食堂。朝ご飯食べてる」
「柚亜は食べないの?」
「ダイエット中なのよ」
「てっきり待っててくれたのかと思った」
 俺がそう言うと、柚亜は無言でこちらにタオルケットを投げつけてきた。もはや反論よりも先に手が出る精神状態にあるらしい。
「ダイエットなんてする必要ないだろ」
「その分昼と夜に食べるわ」
「低血圧なのか」
 柚亜は気だるそうに首を振った。朝だから、ということではなくて、単に疲れているだけなのだろう。
「あんたは食べないの?」
「今は食べるよりも少し休みたい」
 ソファに体を沈めると、柚亜の目も気にせずに横になった。柚亜の投げてきたタオルケットを自分の体にかける。
「寝てないの?」
「明け方に起きて、外を散歩してた」
 嘘は言っていない。タオルケットの下から柚亜の反応を伺ったが、特に気にした様子もなく目をこすっていた。柚亜はリモコンに手を伸ばし、テレビをつける。テレビの音は俺の睡眠になにひとつ貢献してはくれないが、柚亜との会話が途切れても気まずくならないのはありがたかった。
「勝手に出歩かないでよ。危ないじゃない」
「心配してくれた?」
「馬鹿。……みんなは、心配してたみたいだけど。だから、食堂から帰ってきたら、ちゃんと謝っておきなさいよ」
「ご忠告痛み入る」
「何ですって?」
「痛み入る」俺は舌と唇を大げさに動かして、一語一語をはっきりと発音した。「フェリーは今日の昼に来るんだよね?」
「そういう予定ね。まあ、今さら何が起きても驚かないわ。例えば、嵐で船が近づけなくなるとか」
「今日は良い天気だよ。風もほとんどない」
「ねえ、その服」柚亜が正座のままで、カーペットの上を滑るようにしてこちらに近づいた。そしてタオルケットをめくって、俺の首もとに目をやる。「ボタンが取れてるんじゃない?」
 指摘されて初めて気がついた。首の周りを締め付けられるのが嫌いだったので、上着の襟のボタンはいつも開けたままにしておいたのだ。本来そこにあったはずのボタンがない。
「貸して」
「は?」
「脱げって言ってんの」
 柚亜の手が伸びて、俺の服のボタンを外しにかかった。俺は抗議の声を上げて、柚亜の手を振りほどくとソファの上から飛び退いた。しばらく押し問答が続いて、仕方なく俺は自分から服を脱いで柚亜に手渡した。
 下着姿になった俺は柚亜に背を向けて膝を抱えた。
 柚亜はウェストポーチの中から長方形をした筆箱ほどの大きさのものを取り出す。ジッパーを開けて、中から針と糸とボタンを取り出す。裁縫セットのようだ。
「それ、いつも持ち歩いてるの?」
「ウエストポーチ? ソーイングセット?」
「両方」
「大抵は持ち歩いているわね」
「それは意外だ」
「手先は器用なのよ」
 ものの数分で柚亜は俺の服にボタンを取り付けた。他のボタンとは色も形も違うが、まあ大目に見ることにしよう。柚亜は最後に鋏で糸を切断し、服をこちらに返した。俺は慌てて服を着る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 柚亜はふんわりと笑って、テレビのニュース番組に視線を戻す。芸能人にまつわるくだらない疑惑をいちいち細かく検証しているのが滑稽だった。
 なんとなく眠る気分にはなれなくて、柚亜と並んでぼんやりとテレビの画面を見つめる。その情報に価値があるのではなくて、テレビを見ているという行為そのものに意味があるような気がした。その証拠に、俺たちはコマーシャルが流れている間も食い入るように画面を見つめ続けた。
「八敷と長部が殺された理由、心当たりないか?」
「さあ。あの二人ならみんなに嫌われてたから、誰が殺しても不思議じゃないわ。もちろん、あたしも含めて」
「どうして?」
「別に」
「人を好きになるのに理由はいらないが、人を殺すのには理由が必要だ」
「その台詞、格好良いわね」
「翠があの二人に何をされたか、知ってるのか?」
 性的暴行。レイプ。
 忌まわしい光景を思い出しながら、テレビではなくて柚亜の方を向いた。テレビの光が柚亜の顔を照らして、それがまるで能面のように見える。知らなかった、というわけではないのだろう。
「みんな、あんな目に?」
「…………あの二人は本当に最低の人間だった。今まで汚い大人は何人も見てきたけど、あんなに最悪な人間は見たことがない。本当に、劣悪ね。子供だけを集めて、その中で威張り散らして……自分が王様にでもなったつもりなのかしら」
 柚亜の顔が壮絶に歪んだ。
 その顔が怖くて俺は慌ててテレビに視線を移した。それでも恐怖が消えなくて、この質問をしたことを心の底から後悔する。
 それでも聞かなければならないことがあった。
「志摩も、なのか?」
「あいつらは所詮箱庭の王様でしかないのよ。だから本物の王様に喧嘩を売るはずがない」
「……柚亜は」
「幸運なことに、あたしはあいつらの好みとは違うらしくてね」引きつった笑いが聞こえた。「その代わり、別のことをさせられてるわ。千歌流は、翠が守ってる」
 翠が? と、聞き返したりはしなかった。普段の千歌流が過剰なまでに翠を守るのは、自分の純潔が親友の犠牲によって守られていることへの代償行為なのだろうか。
「でもそれなら志摩が――あいつのお父さんか誰かに相談して、あの二人をどうにかすれば」
「そう簡単な話ではないのよ。確かにそれで、あの二人は始末できるけど、あの二人だって自分の身を守る手段は持っているのよ。……あたしたちは天才少女と言われていて、くだらないと思うけど、能力の実態じゃなくて、どうでもいい部分をつつきたがる人間は大勢いる。例えば、あんな風に」
 勇気を出して柚亜の方を向くと、彼女はテレビの中を指差していた。そこでは相変わらず、芸能人の下世話な噂が真実であるか否かを大の大人が大真面目な顔をして議論していた。
「スキャンダル? 脅されていたのか?」
「辱められた天才少女、というキャプションに、馬鹿な大衆は食らいつくでしょうね。そうなれば、絵も音楽も盤上の仕合も全部吹き飛ばされて、下品な好奇心と薄汚い脚色であたしたちが殺されるわ。誰もあたしの絵なんて見てくれなくなる」
 スキャンダル。辱める。天才少女……。
 俺は盗まれた長部のビデオテープを連想していた。翠にあのような卑劣な行為をしていたとき、長部はビデオカメラを手にしてはいなかったか?
「柚亜は絵のために耐えていたのか?」
「天才少女には、才能しかないのよ」
 諦観したように柚亜は言った。そして、下品な好奇心と薄汚い脚色に彩られたテレビの電源を落とす。東京から送られてきた電波はスイッチひとつで受信できなくなる。
 柚亜はリモコンを放り投げた。不安そうな溜め息を吐いて、膝を抱えてうずくまった。
 俺は何を言っていいのかも分からず、ただ彼女から逃げるためにその沈黙を守り続けた。

Copyright(C)2010 叶衣綾町 All rights reserved.

inserted by FC2 system