裁くのは彼女

第7章 茜色の風


 事態が急変したのは、鳩山柚亜を尾行した日から一週間が経った水曜日のことだった。あの夜の襲撃をきっかけに、零時たちの調査は松渕の交友関係から柚亜の周辺調査に徐々に重きを移し始めていた。
 零時の父からはあれから何の連絡もない。柄にもなく息子の意志を尊重しようと考え始めたのだろうか。できればそのまま忘れ去ってくれるならありがたい、と零時は思った。
 水曜日の零時はいつものように穂子と二人で出社し、同僚から零時たちを襲撃した男たちについての調査結果を受け取った。報告書ほど丁寧ではない、憶測も交じったメモ書きを見ながら、零時と穂子は先日から崩れ始めた梅雨の雨を罵っていた。部外者であるはずの穂子の姿も、二週間も経てばさすがに溶け込み始め、同僚たちの話題を独占するほどの鮮度をすでに失いつつあった。
「調査は終了だ」
 今週最初の班会議の、多賀の最初の言葉がこれだった。零時は調査という言葉がどの程度の範囲を示しているのかが分からなくて、その意味を彼に尋ねた。恐らく他の班員も同様の気持ちだっただろう。
「依頼人の飯山弁護士からの正式なキャンセルだよ。キャンセル料どころか、ちゃんと成功報酬分も頂いている。その代わり、直ちに調査を中止すること、だそうだ。よかったね。苦労せずに報酬を頂けてこちらとしては万々歳さ」
「そんな――」
 多賀の言葉に反論しようとして思わずそう口走った零時だったが、冷静に舌を動かそうと思えば思うほど、論理的な根拠を何ひとつ提出できなかった。
「納得できません」
 結局出てきたのは感情論。納得できるできないの問題ではないことは零時も承知していた。これが仕事であるからこそ零時は探偵事務所の人員と人脈を使わせてもらっているのである。個人的な好奇心での調査ならば、すべての責任は自分が負わなければならない。
 零時の顔に、内心の葛藤を読み取ったのか、多賀は反論はせずに善良な微笑を浮かべるだけだった。
「あまり奇麗な終わり方でないのは、認めるけどね」
「どうしてそんな、急に」
「さあて。こちらとしては、依頼人が否と言うのならそれに従うのが仕事だからさ。何か事情があるとは思うけど、それを掘り返すのはただの下種ってものだよ」
 零時に釘を刺して、多賀は別の案件の話を始めた。他の班員はすぐさま気持ちを切り替えて、次の仕事の内容を確認している。
 それに比べて零時は上の空で、以降はずっと自分の考えに没頭していた。傍目に見てもそれは明らかだったが、会議に参加したメンバーは誰もそれを指摘しなかった。零時にとっては赤織志摩の一件が最後の仕事であり、次の仕事についての話などすでに他人事なのである。
 会議が終わり、班員が会議室から出て行く。多賀は少しだけ零時の方を見たが、何も声をかけなかった。
 零時は一人で会議室に残り、ボールペンを手の中で弄びながら、目はここではないどこかをじっと見つめていた。突然の終焉を自分の中でどう処理すればいいのか分からなかった。
 背後に誰かが立っているのが分かった。振り向くまでもなく、それが穂子であると零時は知っていた。
「きっと、志摩だ。あいつが先に手を打ったんだ」
「頭の良い方ですからね」
「松渕は、犯行はすべて自分が計画したと自白するだろう。きっと控訴もしない。多分あいつは、あれから赤織志摩と面会したんだろう。もう一度志摩に会えば、また彼女の虜だ。魔法をかけ直したのさ」
 零時は手をくるりと回して、戯けた調子で話した。穂子は、哀れなご主人様に何か声をかけなければと必死に言葉を探しているようだったが、その慰藉の念が零時をさらに惨めな気持ちにさせていることにまでは考えが及んでいないようだ。
 そして零時は、より一層惨めな気持ちになりたくて、内心の絶望はおくびにも出さずに、より陽気な調子で話を続けた。
「松渕に会ったときに感じていた。あいつはまだ志摩のことを尊敬している。あいつが弁護士に志摩のことを話したのは、志摩に捨てられたからだ。捨てられた犬みたいだな。自分を捨てたご主人様が忘れられなくて必死に暴れてるんだ。だからご主人様が戻ってきたらしっぽを振って大人しく言うことを聞くようになる。……そんなくだらないことに付き合わされた俺たちは世紀の大間抜けだな。親子喧嘩だってもうちょっと真剣勝負だっていうのに、こんな茶番は聞いたことがない」
「零時さん」穂子の声は零時が不愉快に感じるぎりぎりのラインで冷徹だった。「ご自分を責めないでください」
「自分を責めるな? つまり調査が打ち切られたのは俺のせいだって言いたいのか!」
「零時さんは、そう思っていらっしゃるでしょう」
「ああそうだよ。俺の失敗だ。あいつらに襲われたとき、志摩に伝言なぞ頼むんじゃなかった。そんなセンチメンタリズムに踊らされるようなやつじゃない。あの女は、他人の感情については、それをどうやれば利用できるかということしか興味がないんだ」
「後悔なさっているのですね」
「そうだよ……そう言ってるじゃないか。性急に事を運びすぎたんだ。一気に近づきすぎれば、警戒されて逃げられる。釣りと同じだよ。ゆっくりと静かに糸を垂らさないと、魚は逃げてしまうんだ」
 畜生、畜生、と零時は小さく繰り返した。過去に現実を直視できない多くの人がやったのと同じように、机に肘をついて両手で頭を抱えた。もう一度、口の中で呪いの言葉を呟く。その呪いはきっと誰にも届かないだろうが、零時の気を紛らわせるのには十分だった。
「……こんな終わり方か。ずっと待ち続けて、やっと魚がかかったのに、ヘマをして餌だけ取られてしまった」
「本当の魚釣りならば、それからどうしますか?」
「次の餌を付けるだろうよ」
「では、そうなさるのがよろしいかと思います」
 穂子の言うことは分かっていたが、すぐに気持ちを切り替えられるほど魚釣りには慣れていなかった。しばらく目を閉じて、自分の行動と馬鹿さ加減と――すでに思い出として消化されつつある世良島での記憶を反芻した。



 自分のデスクに戻ったところで、タイミングを計ったかのように実家から電話がかかってきた。なぜか父親は今回の件の顛末を知っていて、電話の向こうで音質の悪いテノールが、最後の任務が終わったことを改めて零時に確認した。本来は絶対機密であるはずの探偵事務所の内部事情をどうして外部の人間が知っているのであろうか。
 来週中に引っ越しを完了する旨を伝えて零時は受話器を置いた。思わず舌打ちが出る。父親の前では舌打ちひとつできない自分が情けなかった。
 多賀のところへ行き、退職に伴う手続きを済ませる。手続きは思っていた以上にあっけなく終わってしまった。この事務所に就職し、仕事を覚え、様々な敵と戦ってきたというのに、終わらせるのはたった数回の手続きで事足りてしまう。自分の十年間は一体何だったのだろう、と零時は思った。自分の十年は、こんなにも軽かったのだろうか。
 すでに零時は仕事を免除されているので、それからはデスク周りの私物と備品の選り分けと、アパートの引っ越しに伴う手続きの時間に割り当てた。穂子がそれを手伝おうとしたが、零時はそれを断わった。煩雑な作業に手を動かすことで自虐的な思考から逃れることができたし、それに、デスクもアパートも、すべて自分ひとりが用意したものだ。だから、片付けるときも自分ひとりでやるべきだと思ったのだ。自分の十年間は、決して簡単に片付けられてしまうようなものではないと、自分に言い聞かせたかったのかもしれない。
 一週間も経てば、職場の片付けとアパートの引き払いにまつわる作業はすべて終わり、あとは零時と穂子が実家に戻るだけとなった。家具を処分してだだっ広くなった零時の部屋を見回して、身一つでこのアパートに転がり込んだ十年前のことを思い出す。
 職場では多賀や向井が送別会を開いてくれた。
 何人かの多忙な職員は顔を出すだけですぐに事務所に戻ってしまったが、零時とは互いに迷惑を掛け合った仲であり、彼らも別れを惜しんだ。
 もっとも、実家に戻れば少なくとも金銭的には不自由しない生活が待っている零時をやっかみ半分で見ている者もいたのだが。そんなときは、向井が攻撃的な性格を遺憾なく発揮し、他人の自尊心を粉々に打ち砕くような皮肉を言って追い払ってしまうのである。
「悪いな、向井」
「馬鹿野郎。俺はお前に一番腹を立てているんだ」泡だらけのビールが入ったグラスごと、零時の方に向けて指をさす。「所詮金持ち息子の道楽だったんだな。俺たちが真剣にやってることを遊び半分でやりやがって」
「それは違う。俺だって真剣に――」
「だったらお前はファザコンだ。未だに父親離れできないただの餓鬼だ」
 零時を挑発するように言って、向井はビールを呷る。その顔に拳のひとつでも打ち込んでやりたかったのを必死に堪えた。胸の中にムカムカしたものがこみ上げてきて、衝動と、こんなところで同僚を殴ってはまずいという打算とが零時の中で拮抗した。
 怒りが顔に出ていたのか――あるいは、あまりにも無表情な零時の内心を推察したのか、向井はつまらなそうに鼻を鳴らして、零時の席から離れる。送別会の会場として選ばれた居酒屋の座敷は、会話がないのを気にしなくても済む程度にはうるさかった。
 帰宅途中、電車に揺られながら、零時は向井の言葉を繰り返し頭の中で再生していた。今思い出しても腹が立ったが、では自分はどう言い返すべきなのかという問いには、果たして何も答えられない。頭の中で何度もシミュレーションを繰り返して、結局、向井の言うことが図星だったからこそ、自分はあんなにも腹立たしかったのだという非常に不愉快な結論に至ったのである。
 電車の窓に頭を押しつけながら、黒と白のコントラストがやかましい街並を眺める。酔いが回ったときは、普段棚上げしている問題を片付けるのに絶好の時間だ。判断力が弱っているために、たとえ結論が絶望しかあり得ずとも、ついつい思考の箱を開けてしまうのである。
 志摩も、こんな風に無力感に苛まれることがあるのだろうか。赤織家が崩壊してしまった志摩を縛るものはもはや何もない。その自由を、彼女は泥棒になることで行使した。それが志摩の望みだったのだろうか。
「零時さん、大丈夫ですか?」
「もちろん」窓の外を見ながら答える。「今……すごくいいところなんだ。邪魔しないでくれ」
 穂子はそれっきり何も訊かなかった。こういう肝心なところで黙っていてくれるのが穂子のいいところだ。そういう都合の良さに目を付けて、大学時代の零時は穂子を弄んだのだ。
 二人の関係にそういう単語を用いることを零時は好ましく思わなかったが、客観的に見れば、あれは「弄んだ」以外の何ものでもないだろう。
 遊んで、捨てた。嫌な男だと、自分でも思う。
 世良島の自分と、今の自分は、何が違うのだろうか。
「零時さんは、どうして世良島の事件を調べたいとお思いになられたのですか?」
 唐突に穂子が質問する。しばらく考えてから、今の自分には嘘を吐く能力すら欠けていることに気がついた。少し飲み過ぎたらしい。向井め、とかつて同僚だった男のことを恨んだ。あの男があんなことを言わなければ、それを誤魔化すために馬鹿みたいに酒を飲む必要もなかったのに。
「志摩がいなくなったからだと思う。……結局さ、あの事件の探偵役って言ったらあいつしかいなかったんだよ。あいつだけが事件を解決できたんだ。それが……」
「赤織さんの代わりに、ということですか?」
「代わりに、ってのはちょっと穏やかすぎるな。取って代わりたくて、ってことかな」
「探偵役に憧れていたのですね」
「違う」即座に否定した。当時の零時は確かに子供だったが、そこまで可愛げはなかったはずだ。「憧れていたのは志摩だ」
「天才だから?」
「それもある」
 他人のすべてを操っていた、彼女の自由がうらやましかった。妬ましかった。だから、彼女にできなかったことを、世良島の真実を暴くことを、零時は始めたのである。競争相手は彼女なのだ。何か一つだけでも志摩に勝つことができれば、自分も自由になれるのではないかと思ったのだ――他人とか、自分の生まれとか、過去のしがらみから。
 零時は自分の感情にそのような理屈を付けた。今のところこれが一番正しい動機に思える。
 しばらく黙っていると、主人に忠実なメイドもそれに倣って沈黙を守った。



 翌日の夕方、零時と穂子はアパートを引き払った。部屋はすでに空である。近所への挨拶も済ませた。と言っても、アパートの住人たちとの交流などほとんど持たなかったのだが。一様に、零時のことを冷めた目で見ていた。零時がこのアパートに済んでいたことなど知らなかったと言わんばかりだ。それは零時の方でも同じだった。
 西の空から延びる橙色の波が空を侵食している。これから大家に鍵を返しに行き、その足で駅に行けば今夜中には到着するだろう。
 タクシーの到着を待ってから、トランクに最後の荷物を載せる。穂子がそれを手伝った。
 後部座席のドアが自動的に開くと穂子が先に乗り込む。零時はそれをぼうっと見つめていた。
「零時さん?」
「ちょっと待っててくれ。忘れ物だ」
 スラックスのポケットにアパートの鍵があるのを確認する。それを取り出しながら、アパートの階段を上った。
 表札の名前はすでに片付けられている。この部屋はもう零時のものではないのだ。ドアの鍵を開けて、中に入る。
 玄関で靴を脱いでフローリングの床に足を下ろした。
 正面奥の、零時が寝室として使っていた部屋に彼女がいた。
 窓が彼女の侵入経路らしい。開いたままの窓から、夕方の湿った風が舞い込んだ。カーテンの取り払われた寝室の窓は、零時の目が痛くなるほどの夕日を取り込んでいる。
 彼女の姿が逆光になってよく見えない。逆に、彼女の方からは、零時の姿がはっきりと見えているだろう。そういう関係性は、世良島と全く同じ。彼女は常に観察する側で、いつも制御する側に立っている。
「久しぶりだな。本当に……」
 窓際に立っている彼女の姿は、記憶の中にあるどの赤織志摩とも一致しなかった。
 ただ、彼女に対する尊敬と嫉妬だけが、あのときと同じままだった。

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