裁くのは彼女

第6章 それぞれの逃避


 大広間に最後に来たのは長部だった。一同の視線が彼に集中する。一瞬居心地が悪そうな顔をしたが、そんな必要はないのに虚勢を張るようにしながら大広間の真ん中に堂々と腰を下ろした。
 八敷の死体は別の空き部屋へと移されていた。腐敗が始まるのは時間の問題だろう。死体の臭いが建物に漂い始める前にさっさとこの島から出ていきたいものだ。
 長部のおかげで廊下の電灯は機能を取り戻した。これまでの分を取り返さんとばかりに、廊下にずらりと並んだ蛍光灯が無人島の夜の闇を光で切り裂いている。しかし誰もそのことで礼を言ったりはしない。せめて八敷が死ぬ前ならば、まだ違った展開があっただろうが。何を今さら、という思いが俺にもあった。
 長部が何も言わないので、自然とみんなの視線は志摩と俺に移る。俺は困惑して志摩の方を見た。目が合うと、すぐに彼女が状況の説明を始める。
「八敷さんが殺されたわ。犯人はこの中にいる。最後に八敷さんを見たのは誰?」
「ちょっと、待ってくれ」
 俺が慌てて志摩を止めた。止めなければこのままみんなを置き去りにして突っ走ってしまうだろう。案の定、千歌流や翠は間の抜けた表情をしてとても現状を把握できているようには見えなかったし、柚亜は不機嫌そうに腕を組んで部屋の隅に立っている。唯一鳴雨だけが大物らしく落ち着いた様子で俺たちのやりとりを見ていた。ただ鈍感なだけのような気がするが、『大物』も『鈍感』も意味はそんなに変わらないと思う。
「そんな簡単に片付けないで。もうちょっとみんなに説明しなよ」
「そうかしら」俺が注文をつけると志摩はこれ見よがしに溜め息をついた。「八敷さんが管理人室のバルコニーで殺されていたよ。死因は背中に刺さったクロスボウの矢。バルコニーには大量の百円硬貨。発見したのはわたしとサギちゃんと長部さん。何か質問は?」
 かなり簡潔な説明だったせいで、実際は違うのにずいぶん早口な言い方に聞こえた。他のみんなが言葉を挟む隙もなかった。質問を、と一同に再び促して、いちはやく我に返った柚亜が志摩に噛み付いた。
「ちょっと何言ってるの? 殺されたってどういうことよ?」
「命を落とした、という意味だよ」
「そんなことを訊いているんじゃない。……あいつ、死んだの? ありえないわ。そんな馬鹿な話……起こるはずがない……」
「わたしの話を信じられないのなら自分の目で確かめてみればいいんじゃないかな。八敷が殺害されたのは事実よ。そして無人島であろうと有人島であろうと人は死ぬ」
「ふざけないで!」
「わたしは真面目だよ。柚亜、落ち着いて」
 ありえない、ありえないと呟きながら、部屋の隅にいた柚亜は俺たちの方へ近寄ってきた。どこかにいる殺人者のことを想像して不安になったのかもしれない。その気持ちは俺にも分かる。
 柚亜の様子を見ながら、翠が遠慮がちに手を挙げる。別にそんな決まりもないのに志摩が翠の名前を呼んだ。
「あの、それで、えっと、犯人って……」
「今は分からないわ」
「でもあの……凶器、クロスボウだって……」
 翠が隣にいる千歌流のことを見た。千歌流は何かに耐えているみたいに表情を固くしてうつむいている。
 それに気づいて慌てて千歌流に弁解した。
「ち、違うの! 私は千歌流ちゃんのこと、信じてるよっ! で、でも、赤織さん……もしかして、千歌流ちゃんが犯人だって、疑ってるんじゃ――」
 段々と自信がなくなり、最後は千歌流と同じように小さく縮こまってしまった。しかしそれでも上目遣いの視線を志摩から外さずに、絶対に離すまいと千歌流のそばから動かない。
 翠の質問に、志摩は柔らかく微笑んだ。
「ええ、今のところ、千歌流が犯人だと確信しているわけではないわ。もちろん千歌流が犯人ではないと確信しているわけじゃないけど……」志摩は翠ではなく千歌流の方に質問する。「それを確信するためにも、みんなには今日あった出来事を話して欲しいの」
「ボクは犯人じゃない」
「わたしもそう思うよ」
 ふて腐れるように千歌流が言って、志摩が穏やかな言い方で受け止めた。
 志摩はこういう人間らしいやりとりもできるのだ。むしろ他人の心は彼女の十八番だと言っても良い。最初の方の、効率と理屈だけで説明していた志摩は、そんなことをする余力すら失っていたのかもしれない。俺たちの適応があまりにも遅いので、仕方なくみんなに合わせているだけなんだろう。
「ちょっと待って。みんな肝心のことを忘れてる」久しぶりに鳴雨が口を開いた。全員が黙って彼女に注目する。「本土に連絡は取れるの? 警察は?」
「そもそも無線機を持ってきていないんだ。電話なんてもちろん繋がらないし」長部が答える。「だから警察は呼べそうにない。今のところ」
「よくそんなので無人島に来られたわね。怪我人とか急病人が出たときはどうするつもりなのよ!」
「そうならないために僕たちが同行したんだけど……」
 柚亜に怒鳴られて、長部はたじろぎながら答えた。
「つまり、あたしたちはこの島から出られないわけね。どこに殺人犯が潜んでいるのかも分からないのに」
 皮肉っぽく言って、柚亜は千歌流のことを見た。千歌流は憮然として睨み返した。翠からも咎めるような視線を受けて、やがて柚亜の方が先にそっぽを向く。腕を組んで舌打ちする。
「とにかく」
 ――と、志摩が全員に向けて言う。それだけでこの場の焦点は志摩に戻る。
「迎えのフェリーが来るまでは島の外に出ることはできない。だからこの事態もわたしたちだけで対処する必要がある。それはいいね?」
 何人かが律儀に頷く。が、長部ひとりが異議を唱えた。
「ちょっと待ってくれ。何だかさっきから志摩ちゃんが仕切っているけど、本当ならそれは僕の役割なんじゃないか? この島には、僕はきみたちの監督のために同行したわけで――」
「ええ、もちろん分かっています」志摩が優等生の顔で頷いた。「だからこれはあくまで提案なのですが――今日の夕方から、それぞれがどのような行動を取ったのかを報告するというのはどうかな。そうすることで殺人犯の行動を検証できるし、それによってわたしたちの方針も立てやすくなる。いかがですか?」
「え、あ、うん……」顎に手を当てて考える仕草をした。「いいね。そうしよう。みんな、夕食の後に何をしたかをそれぞれ話すんだ」
「夕食の後、九時ごろまでは全員で大広間にいたよね。最初に大広間を出たのは柚亜だったかな?」
「そうよ」柚亜は敵意のこもった視線を志摩に返す。「それからずっと部屋にいたわ。気が乗らなくて、結局絵は描かなかったけど」
「その後は?」
「しばらくしたら鳴雨が部屋の前に来て、風呂が沸いたって伝えに来たわ。みんなで入ろうって誘われたけど、面倒だから先に一人で入ってきたの。その後、風呂から上がって、ここで彼と会った」
 柚亜が俺のことを指差した。俺は一同に頷く。
「その後は志摩もやって来て、あたしは部屋に戻ってずっと一人よ。アリバイはないわ。今度はあたしを犯人にするのかしら?」
「次に大広間を出たのはサギちゃんだね」
 志摩は柚亜の嫌味を無視して俺に話を振る。俺は柚亜のことを気にしつつ、訊かれたことに正直に答えた。
「九時前に部屋に戻って、しばらくしたらお前が呼びに来たんだ。それからここでずっと待っていたら、千歌流と鳴雨が来て、しばらくしてから翠も来て、三人は風呂に行った。で、すれ違いに柚亜が来た。その後は志摩も知ってるだろ? 二人で長部さんを呼びに行ったんだ」
 志摩が小さく指を挙げる。
「次はわたしが話す。九時ごろに部屋に戻ってサギちゃんを待っていたけど、一向にやって来ないから、もしかして約束のことを忘れてるんじゃないかと部屋に呼びに行った。その後はずっと部屋で出かける支度をしていたな。三十分くらい経ってから、大広間に行って――その途中で柚亜とすれ違ったけど、サギちゃんと長部さんを呼びに行って、三人で八敷の死体を見つけた」
「ボクたちはちゃんとアリバイがあるよ。ね?」千歌流は翠と鳴雨に同意を求める。「柚亜とサギちゃんと志摩が部屋に戻ってから、ボクたち三人で手品の練習をしてたんだけど、八敷が酔っぱらって部屋に戻っちゃったの。そしたら長部が戻ってきて、お風呂沸いたから入りなさいって。そんでボクは反対したんだけど、鳴雨が柚亜を呼びに行って――」意地悪そうに柚亜の方を見る。「ボクたちは部屋に戻って支度をしてたんだけど、翠がなかなか準備が終わらないから、先にここに来て待ってたの。廊下は暗かったし、ずっと待ってるのも退屈だから」
「それはアリバイとは言わないわ。いくらでも穴があるし。例えば部屋に戻って支度をしている間にこっそり殺して戻ってくるのも可能よ」
 柚亜が言い返すと、千歌流は得意げな顔で反駁を加えた。
「ざーんねーんでした。ボクは超特急で準備をして、それからずっと翠の部屋に行ってたんだよ。だからボクと翠にはアリバイがあるんだ」
「入浴の準備にしてはずいぶんと時間がかかったんじゃない?」
「あ、あの、わたし、急に思いついたフレーズがあって、ずっとメモしてたら遅くなっちゃって……」
「翠のことを疑ってる? あはは、馬鹿じゃないの? だって翠が一人で部屋にいたときは、八敷の部屋の前にはボクたちがいたんだから。こっそり殺しに行こうにも部屋に入れないよ」
「ボウガンは? あんたが昼間にボウガンを使ってたってのは本当なの?」
「そうだよ。でもちゃんと晩ご飯の前にはちゃんと戻しておいたよ」
「信じられないわ」
「信じるも信じないも結構」
「とにかく、これで大体の状況は把握できたよ」
 柚亜はさらに何かを言おうとして口を開きかけていたが、志摩に制されて、悔しそうに唇を噛んで何も言わなかった。千歌流の勝ち誇った顔を見て顔を真っ赤にしている。このままでは柚亜が千歌流を殺してしまいそうだ。
 鳴雨は先ほどから黙って、みんなのやりとりに冷めた視線を送っている。自分のアリバイにも他人のアリバイにも興味がないというように。フェリーの中でトランプをいじっていたような、落ち着きのなさはまるでなく、石像のように動かずにじっと俺たちのことを観察していた。
「犯人がこの中にいると仮定して――」長部は気軽な調子でそう言った。途端に志摩を除いた全員の視線が突き刺さる。「いや、仮定の話だよ。あくまで仮定」
「続けなさいよ」
「そんな、大した事じゃない」
「続けなさい!」
 ずっと年下であるはずの柚亜の恫喝は、その迫力で長部の体をびくりと震わせた。慌てて年上としての威厳を取り繕おうとする。そんなもの、死体発見時の気の弱さを見ている俺はもちろん、柚亜にだって通用しないだろう。
 柚亜に脅かされて長部はおずおずと続きを話す。
「犯人がこの中にいると仮定すれば、容疑者は半分くらいに絞られるな、と思ったんだよ。千歌流ちゃんと翠ちゃんにはもちろんアリバイが成立するし、鳴雨ちゃんは――ちょっと怪しいけど、サギちゃんが大広間に来た時間を考えるとちょっと厳しいから、これも成立するとして……。それから志摩ちゃんも、先にサギちゃんが大広間にいたってことは、八敷さんの部屋にも入れないから、犯行は不可能。というか、八敷さんを殺そうと思ったら、ここでみんなが解散してから、サギちゃんが来るまでのわずかな時間しかチャンスがないんだから、それを考えると犯人は柚亜ちゃんか――」長部は柚亜の視線から逃げるようにこちらを向いた。弱者を生け贄として切り捨てるときのエゴイズムを俺は感じる。「ずっと一人で大広間にいたっていう、サギちゃんしかあり得ないよね」
 全員の視線が俺に集中する。何か弁解しなければいけないと思いながらも、口から出そうになるのは感情論ばかり。今そんなものを出しても逆効果だ。そんなことは分かっている。
 余裕がある振りをして、笑顔を浮かべてゆっくりと首を振った。そんなものが通用するとは思っていなかったが。なるほど、我が身になれば、長部のことを張り子の虚勢だと馬鹿にはできないな。
 意外にも、俺に助け船を出したのは鳴雨だった。鳴雨が口を開くとみんなの意識がそちらに向けられたので、俺はその間に慌てて息継ぎをする。
「みんなは無条件に犯人は私たちの中にいるという前提で議論を進めているけど」
「ちょっと待って、あたしは――」
 鳴雨は柚亜の反論を片手を上げて制する。柚亜は大人しく黙る。
「だって私たちは子供なんだから。常識的に考えて、私たちが犯人だというのはあり得ない」
「子供も人を殺せるよ」志摩が鋭く言った。
「あり得ない、じゃなくて、考えにくい、に訂正する。それに私は肝心な話をまだ聞いていない。あなたのアリバイだよ、長部勇平さん」
 鳴雨が指した瞬間に、長部の顔が引き攣るのが分かった。
「そもそも私たちは八敷政孝とそれほど交流があったわけじゃない。だから殺人の動機がない。でもあなたは違うでしょう? 公私共に八敷政孝との交流があった。そして子供で女の私たちとは違って、大人で男のあなたには人を殺せるだけの体力もある。違う?」
「ち、違う。僕は殺してない。僕が殺すわけないじゃないか。言いがかりだ」
「それじゃ、長部さんにアリバイは?」
「ない。食堂の片付けをしたあと、大広間で八敷さんに言われて、風呂を沸かしたり廊下の電気を――」
「だったらあなたも容疑者だ。それも一番有力な」
「馬鹿なことを言うな。ぼ、僕を犯人にするなんて……子供のくせに――」
「子供にも人が殺せるんじゃなかったかな?」
 鳴雨が酷薄な笑みを浮かべた。なぶりものにするみたいに長部のことを見下ろす。
 まるで勝負にならない。論理的な反論なんていくらでもできそうなのに、長部は頭に血が上りかけていて、言いたいことがまとまらずに舌がもつれるばかりだ。
「長部さん、少し落ち着いて。鳴雨も、あまり意地悪なことを言わないで」
 志摩に言われて、鳴雨はしおらしく頷いてから、それっきり口をへの字に曲げて何も言わなくなった。長部もそれでずいぶん平静を取り戻したらしく、さっきよりも横柄な態度でソファーに腰を下ろす。
「とにかく、次の殺人を防ぐためにも、フェリーが来るまではみんなで一緒に行動する必要があるわ」
「あの、赤織さん、次の殺人って……?」
「起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。起こらない場合はそれでいいけれど、起きる場合は、あらかじめ手を打っておく必要がある」
「ちょっと待って。さっきからあんたの前提はおかしいわ。犯人がこの中にいるという証拠は? 外部犯の可能性だってあるでしょ?」
「世良島は無人島だよ。わたしたち以外の人間がいるとは考えにくい」
 柚亜の質問に冷静に答えた。が、質問する側はまだ頭に血が上ったままらしい。
「あり得ない話じゃないでしょ。この島は広いんだから、こっそりボートか何かで上陸したりできるはずよ。それなのにあんたが内部犯にこだわる理由は何? そんなにあたしたちを犯人にしたいわけ?」
「蓋然性の問題だな。もしかしたらわたしたちの知らない恐怖の殺人鬼がこの島にひっそりと忍び込み、大広間に飾ってあったクロスボウで八敷政孝を殺害し、その死体を百円硬貨で包んだのかもしれない。零ではないだろう。だけど限りなく零に近い可能性だと思うわ。それでは一番蓋然性が高いものは? ……もちろん、それはあくまで『実際に起こりそう』という感覚的な問題だけど。でもあえて蓋然性の低いストーリーを前提にするなんて、それは合理的な思考とは言えないわね。ただの感情論よ」
「気に入らない。犯人捜しだなんて、あんた何様のつもりよ。自分だけは人を裁く権利があるとでも思ってるの?」
「あなた、自分が犯人にされるかもしれないと不安なのね?」
 優しい口調での確認は、今にもレールから外れそうな柚亜の神経をさらに逆撫でした。
「仮にあたしたちの中に犯人がいたとして、もしそれをちゃんと証拠つきで見つけたら、あんたはその犯人をどうするつもり?」
「別に何も。わたしは正義の味方を自称するつもりはないわ。ただ、フェリーが来て、みんなの安全が確保されるまでは、大人しくしてもらうつもり」
「馬鹿げてる。きっと魔女狩りになる」柚亜はかぶりを振った。「それに――百歩譲って、内部犯の可能性が高いとして。みんなで一ヶ所に固まるのは反対よ。犯人が一人ならそれで次の殺人を防止できるかもしれないけど、複数犯の可能性だってある。そうなったら一ヶ所に固まっているあたしたちは一網打尽にされるわ」
「この事件の犯人は単独犯の可能性が高い。あなたもそれくらいは分かるでしょう?」
「それよ! あんたはいつもそうやって決めつける! 一体何の根拠があって? 何の権利があってあたしたちに指図するつもり? 何それ、みんなで一緒? 冗談じゃないわ。死にたいなら一人で死ねばいいし殺したいならあたし以外のやつを殺せばいい。あんたと一緒に行動するなんて絶対に嫌よ」
「支離滅裂なことを言っているよ」
「あんたはそうやって人を馬鹿にしてっ!」
 静かに柚亜の背後に回っていた鳴雨が突然柚亜のことを両腕で拘束した。一体何が起きたのかと思ったが、どうやら柚亜は志摩に飛びかかろうとしたらしい。鳴雨はそれを予測していて、柚亜が動いた瞬間に取り押さえたのだ。
 さすがに鳴雨にまでは手を上げなかった。志摩に悪態を吐いて――ついでに俺の方もぎろりと睨んで、柚亜は大広間から足早に出て行った。長部が制止の声を上げるが、まるで空気の如くそれを無視する。
 柚亜が離脱すると、次は鳴雨だった。元々鳴雨は自分の身の安全にはあまり関心がない様子だったし、柚亜のことも心配だったのだろう。しかし去り際に、志摩の方へ未練がましい視線を送っていたのが妙に印象的だった。
 千歌流と翠の二人も柚亜に同調する。この人数ではもはや全体行動など成り立たない。自分の身を守ることができるのは自分だけ。千歌流はそう息巻いて、長部だけではなく志摩のことも無視して大広間を出る。おそらく柚亜の疑惑と不安が伝染したのだろう。千歌流と翠は、互いのことだけを信じ合っていた。
 最後に失意と絶望の長部が自室に戻り、大広間には俺と志摩だけが残される。
 俺たちが瓦解したのは一瞬だった。
 当の志摩は不安そうでもなく、不本意そうでもなく、あるいは柚亜のように怒りを露わにするわけでもなく――さてと、と口に出した。面倒な作業はこれで終わった、と言わんばかりに。こうなることが最初から織り込み済みだったと言わんばかりに。
「おい、志摩――」
「これで心置きなく犯人捜しができるわね」
 どうやら俺の予想が当たったらしい。
「ちょっと待って……つまりお前は、柚亜をわざと怒らせたのか?」
「まさか。人の心はそこまで単純じゃないわ。だけどああいう言い方をすれば、彼女が意地を張って一人で行動する可能性が高いことは分かっていたし、そうなればいいなとは思っていた。でもわたしは柚亜にそれを強制したつもりはないし、その結果何が起きたとしてもわたしに責任はないよ」
「柚亜を囮にするつもりか?」
「犯人が第二、第三の殺人を考えていて、その標的に柚亜が選ばれるとしたら、わたしたちで止めないといけないね」
 平然とそんなことを言う。すべてをコントロールできる自信があるというのだろうか。しかし俺としては尊敬の念よりも先に嫌悪と恐怖がわき起こってくる。
「えげつねえな」
「柚亜の言ったことも一理あるのよ。複数犯の場合、全員が一ヶ所に固まるのは危険だよ。例えば犯人グループが毒物や爆発物を用意していた場合、全員で同じ行動を取ることが命取りになることもある」
「そんなやつが俺たちの中にいるとは思えないがな」
「いずれにせよ、わたしたちで犯人を特定する必要があるわ。何よりもあなたとわたしの安全のために」
「他の奴らは死んでもいいってか?」
「わたしの身の安全よりは、いくらか優先順位が低いかもね」
 俺は嫌になって溜め息をついた。志摩の考え方が汚いとは思わない。だとしても、もう少し小奇麗で理想主義的な言葉を聞かせてもらいたかった。
 特に俺は、志摩がこの世の誰よりも優れた人間だと信じていたのだ。もし彼女の能力をもってしても、俺が望むような安っぽいヒューマニズムは実現できず、冷徹なエゴイズムに走らざるを得ないのなら、きっとこの世の誰もが理想を達成できないのではないか。
「それに、犯人を捜すときにみんなの視線があると不都合だよ。できれば誰にも知られないよう、静かに探したいものだわ」
「だとしてもやりすぎだろ。柚亜を怒らせて……みんなバラバラだ」
「そんなに不満ならあなたが何とかしなさい」心外そうな口調で志摩が言う。「そんなことでわたしを煩わせないで」
「身勝手だな……」
「今夜は遅いからもう寝ましょう。でも、ああ、楽しみだわ。確かめたいことがいくつもあるもの。密室殺人だなんて……本当に楽しみ。わたしたちの中にこの事件を実行した犯人がいるんだよね。それを考えるとドキドキする」
 志摩はうっとりとした表情でそう言った。蛍の観察が中止になってしまったことなどすっかり忘れているようだ。もっとも、彼女にとっては蛍よりも死体の方が好奇心を刺激するのだろうけど。



 ベッドの上で目が覚めて、自分がまだ生きていることに感謝した。正体不明の殺人犯が夜中に忍び込んできて俺の息の根を止めてしまうかもしれないと、昨夜は戦々恐々とベッドに潜り込んだのだ。
 窓から差し込んだ朝日が床の上に長く延びていた。耳を澄ましても、遠くから蝉の鳴き声が聞こえるだけだ。部屋の中に一人でいるのが息苦しくて、すぐに下に降りようと思ったのだが準備にたっぷりと時間が掛かってしまった。俺は急かされるように部屋を出る。
 廊下には誰の姿もない。向かいにある志摩の部屋をノックするが、返事はない。不安になり、ドアを開けて中を覗き込んだが部屋は無人だった。どうやら志摩はもう出かけているらしい。志摩が部屋で殺されている、という悪夢はとりあえず取り払われたのだ。
 廊下の男子トイレに寄ってから、俺は一階へと下りた。社員棟そのものがしんと静まりかえっている。二階を通り過ぎたとき、柚亜の部屋が気になって廊下を覗き込んでみたが何の気配もない。
 食堂まで行くと鳴雨が食パンを食べていた。
「おはよう」
 平凡な文言に俺は面食らった。殺人だの密室だのと、昨夜はそればかりを考えていたので、人間が朝にする当たり前の挨拶をすっかり忘れていたのだ。
「朝ご飯?」
「パンだけど」
「俺の分は?」
「自分で用意すべし」
 もはや二日目にして世良島のサイクルは崩壊してしまったのだ。本来なら長部が全員の分の朝食を作らなければならないはずなのだが。
「長部さんは?」
「知らない」
 厨房を漁りながら質問すると、鳴雨は興味がなさそうな声で答えた。昨晩あんな出来事があったのに、一見して彼女はいつもの鳴雨だった。
 昨晩のカレーを探したのだが寸胴鍋は洗われて空になっていた。記憶では昨日の段階でカレーはまだ残っていたはずだが。悪くなったので長部が捨てたのだろうか。鳴雨と同じように食材をそのまま食べるだけでも十分なのだが、別に急いで食べる必要はない。時間は余るほどあるのだ。
 飲料用のポリタンクを見つけて鍋にあけて、大根を切って味噌汁を作る。その隣でスクランブルエッグを作った。白米も食べたかったが米がどこにあるのか分からない。仕方がないのでトーストで我慢する。
 食堂に積んであったトレイを借りて、俺の食事を机に運ぶ。鳴雨の二つ隣の席に座ると、鳴雨は俺のことを見て目を丸くした。何かまずいことをしたのかと冷や汗をかく。
「……な、何?」
「サギちゃん、料理できるんだ」
「まあ、これしかできないけど」
 レパートリーはスクランブルエッグと味噌汁くらいだ。実家で働いている家政婦に気まぐれで習ったメニューだった。俺がもう少し物覚えが良くて、手先が器用だったなら、提供できるメニューはもう二、三品多くなっていただろう。
「私の分は?」
「自分で用意しろよ」
「私の分も作ってくれたら何でもしてあげる」
 それは魅力的なお誘いだった。
 厨房に戻ると、寄せ鍋のごとく、味噌汁の鍋に具と水と味噌を追加して煮込む。その横で追加のスクランブルエッグも作る。多少手間取りながら調理を済ませていると、食堂に千歌流と翠がやって来たのが見えた。別にそんな義理はないのだが、俺はさらに二人分の食事を作る。
 俺たちとは離れた席に座る千歌流と翠の前に、食事の乗ったトレイを並べる。二人は不思議そうに俺のことを見ていた。
「朝ご飯、まだだろ?」
 そんな必要はないと思ったが、一応説明を付け加えた。
「あ……ありがとう」
「えー。お味噌汁にパンって、合わないよ……」
 素直に例を言う翠と、メニューに文句をつける千歌流。反応は真逆だったが、二人の顔には共に疲労が強く浮かんでいた。声にも覇気がない。千歌流は眠そうに目をしばたたかせた。
 鳴雨の分もトレイで運び、俺はもとの席に戻る。すっかり冷めてしまったトーストを囓りながら味噌汁を飲んだ。
「美味」
「ありがとう」
「昼食もよろしく」
「自分で作れよ」
「不器用なもので」
「……お前は変わらないな」
 鳴雨は少し首を傾けて、不思議そうに俺のことを見た。「人が殺されたのに、って意味だよ」と慌てて付け加える。
「サギちゃんは不安?」
「人並にはな。次に殺されるのは自分かもしれない、って」
「殺される人間には殺されるだけの理由がある。理由がない私は殺されない」
 殺される理由――。その言葉を聞いて、俺は思わず翠の方へ視線を走らせていた。翠はやつれた様子で黙々と朝食を食べている。隣に座った千歌流が不自然なほど元気に話しかけていた。
「分からんぞ。もしかしたら動機なんてないのかもしれないし。ただの猟奇殺人かも」
「長部に気をつけていれば大丈夫」
「どうして?」
「犯人は長部だから」
 鳴雨がさらりと断定したことに驚倒した。そう言うからには何か根拠があるのかと思ったが、理由の説明はなく、単にそう決めつけているだけのようだった。当てが外れて力を落とす。
「どちらにしろ、二人きりにはならない方がいい。二人きりほど危険なものはない。命が惜しければ」
 物騒なことを言ってから、鳴雨はトレイを持って立ち上がった。皿の上の料理はまだ半分以上残されている。
「もういいのか?」
「これは柚亜の分」
「言ってくれれば用意したのに」四人分も五人分も、一度に作るなら手間は変わらない。「柚亜はどこにいるんだ?」
「秘密」
「あいつの様子は?」
「……志摩ちゃんのことが気に入らないみたい。まだ怒ってる」
 昨夜の様子を見るに、柚亜と志摩の確執は今に始まったことではないのだろう。志摩の方にはわだかまりがないだろうから、おそらく柚亜からの一方的な嫌悪。志摩は他人からの嫌悪や好意には無頓着だ。
「サギちゃんが会いたがってる、と伝えて。昼にここで待ってるから」
「禁断のラブ?」
「至って健全な友情だよ。あと、来てくれたら昼食を作る、とも」
「ご相伴に預かります」
 一方的に宣告して、片手を挙げて鳴雨は食堂から出て行った。結局、千歌流と翠とは一言も言葉を交わさなかった。出がけに二人の方を見ていたが、千歌流は平然と、翠は罪悪感を持って、それを無視しているようだった。
 食事の相手がいなくなったので、俺はトレイを持って立ち上がる。翠と千歌流のすぐ隣の席に腰を降ろす。
「ここ、座っていい?」
「駄目」
「いいよ」
「どっちだよ」
「……どうぞ」
 千歌流は不承不承と同席を認める。俺は苦笑いした。
「調子はどうだ?」
「何が?」
「昨日は眠れなくて」
「平気だよ別に。ボクたちは」
「千歌流ちゃん、やめなよ」
 翠がたしなめると、千歌流がそっぽを向いた。状況が分からずに、翠に目で助けを求める。
「千歌流ちゃん、犯人はわたしたちの中にいるんだって言うの。だからあんまりみんなといない方が良いって……」
「今のところサギちゃんが最有力容疑者だよ」
「千歌流ちゃん!」
「冗談だよ。でも、サギちゃんが犯人じゃないとしたら、現場の部屋は密室ってことになる。そうなると八敷は自殺ってことになる」
 翠は必死に反論を試みたが、実のところ現状では千歌流の理論が一番妥当な結論なのである。俺はそれを自覚していたので、未だ警戒心を解くことができない千歌流にも特に思うところはなかった。状況だけを考えれば、一番怪しいのは俺だろう。
「まあそう言わないで。犯人だって昼間から人を襲ったりしないよ」
「昼でも夜でも関係ないよ。だってこの島にはボクたちしかいないんだから、人目を気にする意味はない」
 言われてみればその通りだった。千歌流は俺が犯人である可能性を警戒しているかもしれないが、同様に、俺も千歌流と翠が犯人である可能性を警戒しなければならないのだ。
 昨日の光景を思い出す。純真そうに見える翠は、八敷と長部に、あんなことをされていた。それは殺人の動機としては十分すぎるのではないか?
 千歌流はさっさと料理を平らげて、未だにのんびりと食事を続けている翠のことを待った。しかし翠はただでさえ食べるのが遅く、しかも俺と話しながらの食事なのでなかなか料理が片付かない。ちらちらと千歌流の様子をうかがっているところを見ると、どうやらわざと時間をかけているらしい。
「ねえ翠、早く食べようよ」
「千歌流ちゃんが早いんだよ」
「サギちゃんも、食べ終わったのになんでずっとここにいるのさ」
「別に良いだろ。暇なんだよ」
 やらなければならないことは山積していたが、今こうして千歌流たちと話すこともやらなければならないことのひとつだ。
「二人とも、これ食べたら暇?」
「……暇だけど」
「それじゃ遊ぼうよ」俺は明るい声で二人を誘う。「今日と明日、ずっと何もしないでいるわけにはいかないだろ?」
「うん。わたしも遊びたいかな……。ね、千歌流ちゃん?」
「分かったよ!」千歌流は溜め息をついた。翠と俺の結託に降参したらしい。「別に良いけど。でも、遊ぶって言ってもトランプくらいしかないよ。チュエスボードはあるけど、ボクはチェスできないし」
「ただ一緒にいて話してるだけでもいいよ」
「何それ」
 千歌流は胡散臭そうに俺の方を見た。何か企んでいるのではないかと勘繰っているのだろう。探られて困ることはないので、俺は正直に白状する。
「昨日のことで、みんなバラバラになっちゃっただろ? そういうのよくないと思うんだよ。犯人捜しよりもまず先に、次の犠牲者を出さないことが大事だと思うんだ」
「だからみんなで一緒に行動する?」
「その方が安全だと思うんだ。千歌流も、翠も」
「うん、それはまあ」翠の名前を出した途端、千歌流はぐらついた。「ボクも同感だけど」
「別にずっと一緒に行動するってわけじゃない。あくまで自由行動。で、たまたま一緒に行動してる、ってだけ」
 少し言い訳がましかったが、それで千歌流は納得してくれたようだった。
「ところで二人は、死体のそばに大量の百円玉があったのを聞いてるか?」
「そういえば昨日、志摩がなんか言ってたね」
 翠も頷いた。
「八敷さんと百円玉に何か関係があるとか、聞いたことはないか?」
「別に。……趣味で百円を集めてたとか? 知らないけど」
「八敷さんとの付き合いは長いんじゃないのか?」
「そんなに仲が良かったわけじゃないし。大体あの人が何やってる人なのかも知らない」
「そうか……」
「犯人はサイコパスなんだよ。だからそんな意味のないことをしたんだ」
「だからって百円はないだろう」
 さりげなく翠の様子をうかがった。彼女は知らん顔をして、食べ終えて空になった皿をじっと見つめていた。
 会話を切り上げて、千歌流たちの皿とトレイを厨房まで返しに戻る。さすがに皿洗いまでする気にはなれなかった。流し台へ置いて、そのままにしておく。
 食堂に戻ると、千歌流と翠が入り口で俺のことを待っていた。俺のことを置いてどこかに行ってしまう、くらいのことはやりかねないと思っていたのだが。千歌流は思った通り義理堅い人間らしい。
 三人で大広間に移動して、昨日から置きっぱなしになっていたトランプで時間を潰した。
 大広間には八敷殺害の凶器に使われたボウガンが改めて飾られていた。その下には一本数を減らした矢が壁に並んでいる。
 精一杯明るく振る舞う翠と、精神的な摩耗が限界に近づいている千歌流と、二人の顔色ばかり伺う俺の、歯車の噛み合わない時間がしばらく続いた。
 今は閉ざされている扉の向こうに、八敷政孝の幻影を見た。



 俺たちの奇妙な時間は赤織志摩の乱入によってぶち壊された。何気なく時計を見ると、午前十時三十分を回ったところだった。
「サギちゃん、探したよ」
「何か用か?」
 俺たちはフェリーの時のように床にカードを広げ、それを囲うようにして腰を下ろしていた。俺は手札を伏せて志摩の顔を見上げる。今日の志摩は水色のタンクトップにジーンズという、極めて簡単な服装をしていた。手にポラロイドカメラを持っている。昨晩、志摩が長部にカメラを探すように指示していたのを思い出した。
「少し話したいことがあるの。千歌流、サギちゃんを借りるね」
「別にいいけど」
 千歌流が気だるそうに許可を出すと、志摩は俺の手を引いて八敷の部屋へ連れて行った。俺を中に通すと、後ろ手にドアを閉めて、鍵をかける。
「何だ、話って事件のことか」
「サギちゃん、朝からどこに行ってたの? ずっと探していたのに」
「普通に起きて朝ご飯食べてたが……。お前の方こそ、どこに行ってたんだ?」
「呑気ね。自分がどういう状況に置かれているのか分かっているの? 今のところサギちゃんが犯人である可能性が一番高いんだよ?」
「それくらい分かってるが」
「下手をすればみんなであなたを拘束していたかもしれない」
「それは……」
 あり得ない、とは言い切れなかった。
 皮肉っぽく唇を歪めた幼い志摩の顔はまるで妖怪のように見える。何百年も生きていて、しかし姿だけは子供のままの得体の知れない存在。
「忠告しておくけど。サギちゃんが思っている以上に、今の状態は危険なんだよ。わたしが事件を調べているのはあなたのためだということを忘れないで」
 恩着せがましく彼女は言う。俺が鈍すぎることに失望しているのかもしれない。
 八敷政孝の部屋は、今はもう死体も片付けられていて、殺人の痕跡はほとんど残されていないように思えた。強いて挙げるならばベランダに残された百円玉の山がその名残だ。しかしそこから殺人を連想するのは難しい。百円玉以外には、血の跡もほとんど残されていなかった。
「大丈夫。死体の状況は写真に収めたから」志摩がカメラを掲げる。「見る?」
 俺が頷くと、志摩はポケットから丸まった写真の束を取り出した。俺はそれを受け取って、上から一枚ずつ確認していく。死体と洋弓銃の位置関係を写したものに始まり、洋弓銃のアップ、死体が握りしめていた手、矢の刺さった部位、死体の表情など……。
 生理的嫌悪を覚えて、俺は途中で写真を見るのを諦めた。
「何か分かった?」
「こんなものを見せるな。気分が悪くなる」
「死者への冒涜ね」
 偉そうに志摩が言ったが、死体を見て何も感じない方がよっぽど冒涜なのではないかと思った。
「重要なのはこの三枚だね。まず現場に落ちていたクロスボウ。かなり強い勢いで叩きつけたみたいで、フレームが歪んでしまっているわ」
「写真じゃよく分からないな」
「クロスボウを大広間に戻すときにわたしが確認した。あの状態で撃ってもまず当たらないと思うから、犯人対策にクロスボウを当てにするのはやめた方がいいだろうね」
 そう言われても、そもそも俺は洋弓銃の撃ち方など知らないのだが。
「凶器はこの洋弓銃で間違いないのか?」
「矢がこのクロスボウから発射されたかどうかは断定できない。犯人が独自にクロスボウを持ち込んだ可能性はあるし、クロスボウがなくても、手で矢を持って直接刺すこともできる。どちらにしろ、犯人を特定する手がかりにはならないけど」
「もし別の洋弓銃を持ち込んでいる場合は、今も犯人は人を殺せる武器を持っているということか」
「これが計画殺人で、しかも連続殺人を予定しているのなら、どちらにしろ犯人は次の殺人のための手段を確保しているはずよ。それがクロスボウなのかナイフなのかピストルなのかは分からないけど」
「……なあ、さっきからクロスボウ、クロスボウ、って言ってるが、あれは洋弓銃だろ?」
 俺はたまらずに確認した。彼女は可愛く首をかしげて、不思議そうに俺のことを見る。
「サギちゃんこそ。洋弓銃って、意味は分かるけど。クロスボウという呼び方の方が一般的でしょ?」
「クロスボウは英語だ」
 ちなみに日本ではボウガンという呼び方が浸透していて、千歌流もそれに従っているが、ボウガンは商品名なので、あの武器の一般的な呼び方としては適切ではない。
「英語が嫌いなの?」志摩は吹き出した。「別に、何でもいいじゃない。言葉が表している対象は同じなんだから。英語だろうと日本語だろうとスロベニア語だろうと」
「でも、気になるんだ」
「分かった、サギちゃんがそう言うなら、それに合わせるわ……わたしは別に、これの呼び方にポリシーやこだわりがあるわけじゃないから。それじゃあ、次の写真ね」
 洋弓銃の写真を後ろに送り、今度は死体の手元の写真を俺に見せる。八敷の右手は強く握りしめられていた。
「手の中を開いてみたら、中には百円硬貨が握られていたよ。硬直が始まっていたから大変だったけど」
「それがどうしたんだ? 死ぬ直前に、自分の近くにあったものを握りしめただけだろ?」
「ということは、八敷が撃たれた時点で、ベランダには百円硬貨がすでに落ちていた、ということになる」
 あ、と俺は声を上げた。ただ死体を百円玉で飾るだけが目的なら、死んだ後に百円をばらまけば済む話だ。事前に百円をばらまき、そこに八敷を誘い込んだということか?
「それからこの写真――死体を動かしたときのものだけど、百円硬貨は死体の下にも落ちていたの。つまり、ベランダには最初から百円硬貨がばらまかれていて、その上に八敷が倒れ――そして彼は殺される際に目の前にあった硬貨を掴み、犯人は死体の上からさらに百円硬貨をかけた」
 志摩は身振り手振りを交えて俺に説明する。
「犯人は何のためにそんなことを?」
「あなたはどう思うの?」
「そうだな」少し考えてから答えた。「木を隠すのなら森の中、というだろ? それで――」
「犯人は百円硬貨をベランダに落としてしまい、それをごまかすために大量の百円硬貨をばらまいた? あのねえサギちゃん、もう少し真面目に考えて。これが遊びだとしても、あなたの態度はとても不愉快だよ」
「それはお前の遊びだろう? 推理ごっこは一人でやってくれ」
「忘れているようだけど、このまま何も解明が進まなければ犯人にされるのはサギちゃんなんだよ。血の気の多い柚亜あたりが、先にあなたのことを殺しに来るかも」
 そう言って、彼女は上目遣いに俺のことを見た。とてもではないが、親切心で事件の真相を暴こうとしている少女には見えない。犯人に対するよりも一段強い不安を覚えながら、俺は事件についてさらに深く考えてみた。
「犯人は百円をあらかじめ用意していたんだから突発的な行動じゃない。……部屋が密室だったことと関係があるのか?」
「安易に密室と結びつけるのは危険だと思う。けど、とりあえず百円硬貨の問題は棚上げしましょう」
「百円以上に問題なのは部屋に入る手段だな。部屋の前には俺がいたわけだから」
 俺たちは部屋の中を見て回った。秘密の抜け道がないことを前提にしなければ、まともな推理など成り立つはずがない。
 一通り部屋の中を見て回り、壁や床に穴がないことを確認した。外部と繋がっているのは大広間に面したドアと、反対側のベランダだけだ。
「ベランダから入ったのか?」
「それが一番現実的な方法だけど、それだと八敷がベランダで死んでいたのが不自然だよね。それに、ロープを使って上の階から降りるのは、サギちゃんが考えている以上に難しいと思う。体格的に優れた長部でも難しいだろうし、わたしたちにはなおさら不可能な方法だね」
「それなら犯人は長部さんだ」
「証拠がないって」
 志摩は淡泊に俺の説を退けた。しかし各人の状況を無視し、容疑者のキャラクターだけを考えるのなら、もっとも犯人として妥当なのは被害者と関係があり体力もある長部勇平なのだが。
「あれはどうだ? あそこを通ってこの部屋に出入りするのは?」
 俺は天井のすみにある換気口を指差した。正方形の黒い穴がぽっかりと空いている。その穴がどこに続いているかまでは、見ただけでは分からなかった。が、おそらく他の部屋にも繋がっているだろう。経路としては申し分ない。
「無理だろうね。第一にあの穴は普通の大人が入れる大きさじゃない。第二に、あの穴は高すぎて届かない。犯人があの穴からこの部屋に入り、同じように脱出したのなら、あの穴の近くには犯人の足場となるものが残されているはず」
 部屋の中をぐるりと見回してみて、一番背が高いものは本棚だった。棚に足をかけて本棚を登れば通気口にも十分に手が届くだろう。だが本棚は通気口のある側とは反対側の壁にあり、もし犯人が本棚を利用したとしたら、通気口に登ってから、どうやって本棚を元の位置に戻したのかが問題になる。
「自分の体重と同じ重さの百円を袋に詰めて、それをロープに結び、反対側を自分の体に結ぶ。ロープをどこかに引っかけて、百円玉を重りにしてエレベーターの要領で上の階から降りてくる。それで長部を殺したあと、同じようにして、今度はバルコニーから一階に下りる。バルコニーの百円玉は、下に降りるときに、袋に入った百円玉を減らして重さを調節したときのものなんだ」
「被害者が百円硬貨を握りしめていた点は?」
「矢で撃たれてからも、しばらくは生きていたのかもしれない。それで、犯人が残した百円硬貨を掴んだ」
「だとしたら、犯人が重りに百円効果を使った理由が不明だよ。自分の体重と同じものであればいいんだから、例えば砂を詰めた袋を使えばいい。百円硬貨は銅とニッケルの合金だから、比重だけを考えれば砂や鉄よりも重いけど、それを理由に百円硬貨を採用するのは少しリスクが高いと思う」
 志摩の言う通りだと思った。大体あんな大量の百円、用意するだけでもかなり大変なのではないだろうか。
「ベランダに落ちていた百円硬貨は、被害者が握りしめていたものも含めて二百枚以上あったよ」
 その二百枚だけを考えれば二万円である。あり得ない金額ではない。が、人間一人の重さの百円玉がどれくらいコストのかかるものなのかは、ちょっと分からない。
「ところでお前さ、柚亜がどこにいるか知らないか?」
「わたしは今日は一度も会ってないよ」
「一度ちゃんと会った方がいいぞ。あいつ、お前のこと誤解したままだし」
「サギちゃんの言う誤解がどういうものなのかは分からないけれど、柚亜がわたしのことをどう認識しているのか、わたしには興味がない」
「興味とか、そういう問題じゃないだろ。このままじゃ全員バラバラになって終わるぞ」
「そうなれば次の犯行も起こりやすくなるかな」志摩は平気でそんなことを言った。「そんなにみんなが心配?」
「当たり前だ」
「わたしが信用できない?」
「お前は自分以外のことには興味がないだろ?」
「それも誤解だよ」彼女は微笑む。「でも、あなたがそこまで言うのなら、自分で何とかしなさい。わたしは誤解されることにも誤解を解かれることにも抵抗はないけど。積極的に柚亜をどうこうしようとは思わないから」
「分かったよ……。それならお前が推理担当だ。俺がみんなをなんとかする」
「うまくいくといいね」
 他人事のように言ってから、志摩は写真をポケットにねじ込んで、部屋を出て行った。俺が言う『みんな』には志摩のことも含めたつもりだったが、そのニュアンスは伝わらなかったようだ。



 大広間に戻ると千歌流や翠の姿が消えている。テーブルの上にトランプの山札が残されたままだった。
 何よりも先に柚亜のことが気にかかり、俺は二階の彼女の部屋へ向かった。ドアを何度かノックしてみるが返事がない。鳴雨の部屋も同様にして確かめてみたが同じだった。悪いと思いつつも、ドアを少しだけ開けて確認してみるが、どちらも中は無人だった。
 きっと殺人犯の襲撃を恐れて部屋を変えたのだろう。社員棟には綺麗な部屋、汚れた部屋も含めて、かなりの数の部屋がある。社員寮として使われていただけあってホテル並だ。隠れる場所には事欠かないだろう。
 帰り際に千歌流の部屋も確認したがこちらも無人だった。翠の部屋にいるか、あるいは別の場所で暇をもてあましているのだろう。そこまで確認はしなかったが。
 さっそく当てが外れてしまったが、鳴雨がうまく柚亜をおびき出してくれれば昼には食堂に現れるはずだ。食べ物で彼女を釣れるかどうかは自信がなかったが、柚亜が鳴雨に弱いのは何度も確認しているし、成功率は半々といったところだろう。
 仕方がないので先に長部の方を当たることにした。
 長部の部屋には一度も行ったことがなかったので、部屋を探すのに少し時間が掛かってしまった。大広間を通り過ぎ、管理棟の側へさらに廊下を進む。二階の廊下の、袋小路に面したドアのひとつが、長部に割り当てられた部屋だった。
 長部の部屋からは激しいロックンロールの音楽が漏れていた。深呼吸してから、俺はドアを何度か叩いた。返事がなかったが勝手に中に入る。
 ドアを開けると中からは大きな重低音の音楽と、かすかなアルコールの臭いが流れてきた。長部は部屋の中央にあるソファーに体を深く預けながら、琥珀色の液体が入ったグラスを静かに傾けていた。俺の方には目もくれずに。
「長部さん、大丈夫ですか?」
「あ? ……ああ、何だ、サギちゃんかー」
 たった今気づいた、という素振りで俺のことを見る。彼の顔は真っ赤で、しかも呂律がうまく回っていなかった。ベッドサイドに置かれたラジカセからうるさい音楽が延々と流れている。
「みんな、ばらばらになってます。このままじゃ危ない。みんなで一ヶ所に固まる必要があると思うんです」
「あー。あ?」大げさな仕草で聞き返した。「そんなの自分でやれよ! 僕は今忙しいんだからさあ」
 長部は陽気な声でゲラゲラと笑った。さらに、瓶からコップに新しい酒をついで、俺の方に突き出した。
「サギちゃんも飲もうよ一緒に」
 返事をするのも馬鹿馬鹿しい。差し出されたグラスは見なかったことにして、俺はきびすを返して部屋を出た。ドアを叩きつけるように閉める。やかましいロックの音が聞こえなくなって、俺は胸をなで下ろす。
 長部は酒に逃げてしまっている。親しい人が何者かに殺され、助けが来る見込みもなく、しかもそんな状況で自分が指揮を執らなければならない。一度にこれだけのストレスがのし掛かったのだから、長部のことを弱い人間だと非難するのは少し酷かもしれなかった。
 とは言え、長部のことをそれなりに当てにしていたせいで、俺の落胆は小さくなかった。八敷が死んだ以上、長部がこのグループの責任者であり、唯一の保護者なのだ。料理と風呂の世話だけではなくて、できれば殺人者からも保護してもらいたかった。
 仕方なく大広間に引き返す。大人数を収容できる憩いの場であるはずなのに、大広間にいるのは今は俺一人だけだ。分裂した俺たちを象徴するみたいで心寒かった。
 大広間のソファで横になり、とりとめのないことを考え続ける。
 部屋に戻って読書をする気にはなれなかったし、テレビも、BGMとしては少し明るすぎる。最初はすべてが新鮮だったのに、今はもう何もかもが億劫だ。
 殺人事件が起きたというのに、どうしてこうも感覚が鈍化しているのだろう。きっと、人が死ぬということは、普段俺たちが思っている以上にちっぽけなことなのだ。
 足音がしたので慌てて体を起こした。翠がトレイにポットとティーカップを乗せてやってきた。
「どうしたんだ?」
「あの……。喉が渇いたし、やることもなかったから、紅茶を淹れたんだけど」翠はポットとティーカップをテーブルに置いて、顔の下半分を隠すようにトレイを持った。「あの、よかったら飲んで。わ、わたし、ヴァイオリンだけじゃなくて、お茶も少し習ってるから……」
 ポットからカップに紅茶を注ぐ。ティーカップから湯気が立つ。ふわりと紅茶の香りがした。かなり熱そうだったので冷めるのを待とうと思ったのだが、翠がずっと俺のことを見ているので急かされているような気分になる。多少の熱さは覚悟して一口飲んだ。
「どうかな?」
「……おいしいよ。すごいね。こんなに美味しい紅茶を飲んだのは久しぶりだ」
 本当は、いつも飲んでいる紅茶と何が違うのかさっぱり分からなかった。紅茶なんて、どう淹れようとそれほど味が変わるとも思えなかった。しかし俺の心ない世辞にも、翠は顔を輝かせて、その後は照れたように目を伏せてしまった。
「何か、変な感じ。八敷さんが死んだのに」
「変、って?」
 唐突だったので、驚きながらも聞き返す。翠が小さく首を振ると、背中の三つ編みがそれに合わせて左右に揺れる。
「だって、人が死んだのに。誰も悲しんでない。わたしも、悲しくない。みんな壊れてるのかな」
 俺の脳裏に、二人に犯されていた翠の姿が浮かんだ。慌ててそれを振り払う。考えないようにする。犯人は翠かもしれないと、心のどこかで疑っていたのかもしれない。
「壊れるって、心が?」
「どこか変なのかも」
「あんまり気にしない方がいいよ。悲しんだって別にいいけど、だからって、みんなで泣き叫んで半狂乱になられても困る」
 翠は笑って「そうだね」と答えた。
「千歌流はどうしてる?」
「うん……犯人はみんなのうちの誰かなんだ、って言ってた。今は疲れて寝てる」
「そうか」
「本当なの?」
「分からん」
 彼女は少し残念そうな顔をした。俺にその可能性を否定して欲しかったのだろう。嘘をつくのは簡単だが、嘘だけではみんなをつなぎ止めることはできない。お世辞くらいならいくらでも言えるのだが。
「昼になったら、千歌流を連れて食堂に来てよ。また何か作るから」
「手伝おうか? あの、ちょっとくらいだったら、わたしも作れるし」
「心強い」
 俺がそう言うと、翠ははにかんでまた目を伏せた。そしてうわずった声で言う。
「笠木さんのお味噌汁、あんまり美味しくなかったから……だから、わたしの方が――ご、ごめん」
 俺と目が合うと土下座しそうな勢いで頭を下げた。
「いや、美味しくなかったのは事実だから仕方ない」
 と口では平静を装ったが、ずばり言われるとやはり傷つくものだ。別に料理の腕に自信を持っていたわけではなかったし、あんなものが本当に美味しいと思っていたわけじゃあないのだ。
 多分、それを言ったのが翠だから、余計に傷ついたんだろう。
 そんなことを思っていると、翠は突然楽しそうに笑った。何が彼女をそうさせたのかは分からないが、彼女が幸せそうだったので、俺もつられて笑顔を浮かべた。
「ご、ごめんなさい。何だか変な感じがして……。し、知り合って一週間も経ってないのに、なんだかずっと昔からの友達みたいな気がして、変だなって、ごめんなさい」
「別に謝る必要はないよ。翠にそう言ってもらえて嬉しい。素直に」
 翠は顔を真っ赤にしてうつむいた。そう過敏に反応されると俺まで照れてしまう。
 俺たちはしばらく、静かな大広間で二人っきり、お互いの顔を見ることができずにいた。しかし俺の心の一部は不気味なほどに静かで、無邪気な翠を冷徹に観察し続けていた。



 十一時になったのを見計らって、俺と翠は食堂で昼食の準備を始めた。翠は俺が予想していた以上に慣れた手つきで野菜と肉の炒め物を作る。俺は米と配膳の担当になった。
 千歌流が最初にやってきて、すぐに料理に手をつけようとして翠に止められる。しかし三十分待っても柚亜と鳴雨が来なかったので、仕方なく先に食事を始めることにした。
 せっかくの料理も冷め始めたころ、二人はやっと食堂にやって来た。
 柚亜は不機嫌そうに俺たちの顔を眺めると、何も言わずに席に着いた。鳴雨が付き人のようにその隣に座る。
「何よ」
「別に」
 そっけなく答えて、千歌流は食事の続きを再開した。昨晩のようにかなりの量を口に運んでいたが、それは食事をしているというよりも無理矢理体に押し込んでいるというふうに見える。
 楽しい会話もなく、俺たち五人は粛々と食事を続けた。ときおりそれぞれがお互いの挙動や顔を盗み見て、それで偶然目が合うとさらに気まずい雰囲気になる。柚亜の不信感が千歌流や翠にも伝染しているのである。
 俺は志摩のことが気になって、食事中は何度も入り口の方を見ていた。今さら彼女に期待しているわけではなかったし、むしろあいつがいない方がみんなにとってはありがたいのかもしれない。だとしても、俺は志摩だけを切り捨てることがどうしてもできなかった。俺なんかが志摩のことを切り捨てるなど、おこがましいにもほどがあるけれど。
 志摩が来たのは、みんなの食事が終わりかけたころだった。柚亜は自分の食事が終わればかまわずに席を立っていただろうから、かなり際どいタイミングだったと言える。
「美味しそうだね。誰が作ったの?」
「それは翠」
「サギちゃんは?」
「ご飯担当」
「スイッチを押すだけだね」
 冗談を言って微笑むと、志摩はテーブルについた。翠が慌てて立ち上がり、彼女の分の料理を持ってくる。
 志摩のことを見て柚亜があからさまに舌打ちした。箸をその場に置いて、立ち上がろうとする。
「待って」
「何よ」
 柚亜が俺のことを睨む。
 かまうものか。話を続ける。
「昨日の話を蒸し返すけど……しばらくはみんなで一緒に行動した方がいい。誰がどこにいるのか分からないこの状況は、すごく危ないと思う」
「そんなのは無意味よ」
「いざってときに、誰も助けに来ないよ」
「分からないようだからはっきり言わせてもらうけど」興奮を押し殺すように柚亜が言う。「あんたたちが信用できない。あんたが殺したんじゃないって、証明できる?」
「殺してない」
「じゃああたしが殺したと?」
「そうじゃない……違うんだ。誰が殺したとか、そういうことじゃなくて――」
「サギちゃんは犯人じゃないよ」志摩が誰よりも落ち着いた声で言う。その声は冷却剤のように、俺と柚亜の興奮を一瞬で冷ましてしまう。「密室の謎はもう解けた。わたしたち全員が犯人である可能性を有している」
「へえ……それはすごい! さすが天才様は違うわね!」
「ひとつ言っておくけど――わたしは、犯人が誰だとしても、その人を責めるつもりはない。その人が八敷を殺したというなら、きっと、その人にはどうしても殺さないといけない理由があったんだと思うの。わたしはそれを尊重する。わたしは過去のことについて断罪するつもりはない。もう八敷は生き返らないのだから。でも、これ以上誰かを殺すというのなら、それは諦めて欲しい。わたしたちが一緒にいた方がいいというのは、そうすることで次の殺人を未然に防ぐことができるからだよ。この中に犯人がいるのなら、ぜひ聞いて欲しいのだけど――これ以上の犯行は、あなたの罪を暴くことになる。次にあなたが誰かを殺せば、わたしは確実に犯人を暴くだろう」
 志摩が全員の顔を順に見ながら言った。もちろん俺も含めて。まるで取り調べを受けているみたいで何とも落ち着かない気分になる。
「気に入らないのよ。あんたいつもあたしたちのこと、そうやって馬鹿にしてる」
 柚亜がぽつりとつぶやいた。
「別に馬鹿にしてないよ」
「馬鹿にしてる! そうやってあたしのことを下に見てる。余裕ぶっちゃって、何様のつもりよ。……ふふ、あんたは天才様だから、みんなあんたが正しいのよね。あたしたち凡人は黙ってあんたに従ってればいい、ってこと? それはそれは素敵なトモダチね。反吐が出る」
「わたしに嫉妬しているの?」
 俺はその瞬間、柚亜が志摩のことを殴るだろうと咄嗟に思った。実際はそうではなかったが。勢いよく椅子から立ち上がった柚亜は顔を真っ赤にして、拳を握りしめて、それでも必死に自分の怒りを抑えようとしている。
「わたしはあなたを馬鹿になんてしていない。あなたとわたしは対等な関係だと思っている。わたしがあなたのことを下に見ているというのなら、それはあなたがわたしに劣等感を抱いているというだけ。そしてその劣等感はあなたが作り出したもの」
「気に入らない……あんただけがいつも正しくて。あんたはやろうと思えば絵も音楽も、何でも一番になれるくせに」
「そんなことない。わたしは、柚亜の真似をしているだけ」
 志摩は歯を見せずに微笑んだ。
 毒気を抜かれて、柚亜は目を大きく見開いた。
 しばらく立ち尽くしてから、居心地が悪くなったのか、何も言わずに食堂から出て行った。ごちそうさま、と言い残して鳴雨もそれに続く。
 帰り際、鳴雨と志摩の視線が交差して、二人が何かを伝え合ったのが分かった。それが「ありがとう」なのか「ごめんなさい」なのかまでは、さすがに分からなかったが。
 二人が出て行ったのを見て、志摩は食堂に残った俺たちの方に体を戻した。
「さて、問題はどうして被害者の体を百円硬貨で覆う必要があったのか、ということね。その答えは『ベランダに落ちた百円硬貨を隠すため』であり、さらに言い換えれば『被害者が手に持っていた百円硬貨をごまかすため』です。もちろん、犯人のミスで被害者に百円硬貨を握られたのではない。犯人は百円硬貨をあらかじめ用意していたんだから、被害者が百円硬貨を握りしめるのは犯人の計画に含まれている。その点と密室の手段を結びつければ答えは一つしかない」
 志摩はまるで舞台女優のような非常にもったいつけた説明をする。しかし俺たちは文句を言うことなく彼女の話に聞き入っていた。
「犯人は三階から被害者を撃ったんだよ。まず三階の窓からベランダに百円硬貨を複数枚落とす。被害者はその音を聞いてベランダに出る。ベランダに散らばった百円硬貨を拾おうと、身をかがめたところを上から撃った。被害者はそのとき拾っていた百円硬貨を握りしめていたんだね。その後は洋弓銃を三階からベランダに落とし、被害者の体の上にも百円硬貨を落とせば終わり。その証拠に、ベランダの下には飛び跳ねた百円硬貨が何枚も落ちていたよ。もし犯人があの部屋にいて、その場で百円硬貨をまいたのなら、硬貨が勢い余って下に落ちる、なんてことは起こらないから」
「でもさ、そんな上から落としたらすごい音が鳴るんじゃない?」
「もちろん普通に落とせばそうなるけど、例えばバケツとロープを用意して、バケツにロープを結び、硬貨を入れてロープでゆっくりと降ろし、被害者の体のすぐ上でバケツをひっくり返して中の硬貨を落とせば、普通に落とすよりもずっと音を小さくできると思う。実験してみなければ分からないけれど」
 千歌流の質問に、志摩は早口で答えた。
 俺が小さく手を挙げると、志摩は俺の方を向いてどうぞと手で促した。
「だけど、もし八敷さんが百円玉を拾わなかったらどうするんだ?」
「そのときは殺さなければいいだけだよ。指紋さえ拭き取っておけば百円硬貨から犯人を特定するのは不可能だし、第一、その時点ではまだ誰も殺していないのだから、計画を中止するリスクはない」
 自分の推理を披露してから、一通り料理に手をつけると志摩はすぐに食堂を出て行ってしまった。長部は結局、朝から一度も食堂に顔を出していない。
 俺と翠で昼食の後片付けをする。その様子を、千歌流が食堂からじっと見つめていた。
「……二人さあ」千歌流が気だるい声を出した。「仲良いよね」
「気が合うんだ」
「意外だね」
「千歌流ちゃんだって、笠木さんとは仲良いじゃない」
「別にそれほどじゃないけど」
「じゃあ仲良くして」
 翠が言うと千歌流は黙ってしまった。翠は気づかない振りをして皿洗いを続ける。俺は二人の間に口を挟まないよう心がけた。
 洗い物はすぐに終わる。一緒に食堂に戻ると、千歌流が不機嫌そうな顔を机の上に乗せていた。
「それで、二人はこれからどうするんだ?」
「部屋に戻って音楽でも聴くかな。次の課題曲を覚えないと」
「下手に出歩くのは危ない。じっとしてなよ」
「じっとしてても危ないよ。……行こう、翠」
 千歌流はそう言って、翠の手を引いて食堂から出て行った。
「……さて。俺はどうすべきなんだろうな」
 そうつぶやいたが答えは返ってこない。志摩がいれば、俺を小馬鹿にするように何か一言返事を返してくれるのだが。
 命令を待つロボットのように、無気力なまま食堂で無為に時間を消費していた。窓を開けると、乾いた夏の風が入ってきて気持ちが良かった。
 ぼんやりと志摩のことを考えていた。
 さらなる高みへ登るため、赤織家が厳選した天才少女たちを友人としてあてがわれている赤織志摩。模倣の天才は、音楽も、芸術も、戦術も、すべての思考を丸ごと飲み込んでしまう。英才教育と言えば聞こえは良いが、これではただの天才製造計画だと、かつて志摩が俺にこぼしたことがある。
 ところが、模倣の対象となったのは天才少女たちだけではなかったのである。志摩自身も、彼女たちの模倣の対象となったのだ。志摩が彼女たちの技術を真似るのと同様に、彼女たちも、志摩の価値観や思考の手法を模倣し取り入れたのである。
 模倣の相互作用。
 それは特別なことではない、ただのコミュニケーションである。
 俺も無意識のうちに、志摩の持つ何かを模倣しているのだろうか。もしそうならば、俺にもこの事件を解決できるのだろうか。
 仕方なく俺は立ち上がる。志摩は万能の人間だが、俺の望みをすべて叶えてくれるわけではないのだ。自分の希望は自分で叶えること。志摩との付き合いで学んだ数多くのことのひとつだった。
 ふと気まぐれで、俺は三階のある部屋へ向かった。その部屋は八敷の部屋の真上にあり、志摩の推理によれば犯人が洋弓銃を撃った場所だ。
 部屋は木の臭いがした。木の丈夫なテーブルがいくつも床に据えられていて、テーブルの端には万力がついていた。木の棚には工具箱が並んでいる。工作室のような場所なのだろう。
 窓際には流し台があり、細い水道管の蛇口が一列に並んでいた。流し台に足をかけて窓から身を乗り出して下を覗けば、そこには八敷が殺されたバルコニーが見える。ここで誰かが人を殺したのだと考えても、俺には何の実感も湧かなかった。八敷の部屋で見た彼の死体そのものに比べれば、なんというリアリティの差だろう。誰かがここで人を殺したという事実など、あの死体を思い出すだけで一瞬で吹き飛ばされてしまう。
 志摩もこの部屋に来て、犯人の行動を推理したのだろうか。
 それもまた、食堂での彼女の大見得に比べれば、実にリアリティのない想像だった。



 部屋に戻ろうと廊下を歩いていると千歌流とすれ違った。彼女は俺を見て無邪気に手を挙げる。
「おー、サギちゃん」
「怪しいやつは見つけたか?」
 千歌流は俺のことを指差した。相変わらず失礼なやつだ。
「そうだ。サギちゃん、今からちょっと付き合って」
「何かするの?」
「うん。ふと思って志摩に訊いてみたら、研究棟に無線機があるんじゃないかって。ある、とは言っていないけど、その可能性はある、だって。同じ意味なんじゃないかと思うんだけど」
「あいつはそういう回りくどいのが好きなんだ。……研究棟に探索に行くの? 何度も言うけど、一人で出歩くのは危ないよ」
「だからサギちゃんを誘ってるんじゃない」
 心外だ、という顔をした。千歌流と話していると、まるで自分が口うるさい継母にでもなったような気分になる。
「志摩と翠は?」
「連れて行けないよ。犯人が隠れてるかもしれないのに」
 外部犯の可能性は極めて低そうだったが、ここで口を挟んで不信の種をばらまくこともないだろう。彼女の警戒心が必要量に達していない点に関しては、俺がそばにいて目を光らせていれば問題ない。
「念のためボウガン持ってった方がいいかな? 大広間にあったやつ」
「諦めた方がいいね。誰かが三階から落としたせいで壊れてるらしいから。暴発したら危険だ」
 ちぇ、と千歌流は不満そうに口元を歪めた。
「それじゃ、ちょっと待ってて。翠に言ってくる」
「翠は?」
「大広間にいるよ。サギちゃんは先に管理棟に行ってきて」
 千歌流は大広間の方へ向かって廊下を駆け出した。
 俺は手をひらひらと振って別れると、階段を下りて管理棟の方へ向かった。
 管理棟へ続く渡り廊下でしばらく待っていると、千歌流はすぐにやって来た。ぱたぱたという小気味良い足音が廊下に反響していた。
「お待たせ」
「デートみたい」
「まさか」千歌流は白い歯を見せて子供っぽく笑う。「もしボクが帰ってこなくてサギちゃんだけが戻ってきたら、犯人はサギちゃんってことになるからね。そこんとこよろしく」
 千歌流に続いて管理棟に入ると、柚亜がひとり、ロビーのソファに座ってくつろいでいる姿が見えた。彼女は俺たちの気配を感じて振り向いて、特に千歌流の姿を認めると思いきりねめつける。千歌流もそれに対抗心を燃やして、ひたすら不毛な睨み合いが続いた。
「ここで何してんのさ」
「あたしがどこで何しようと勝手でしょ」
「それもそうだ。ボクは柚亜が何しようとまったくもって興味も関心もないもんね」
「気をつけなさいよ。そいつ、あんたを殺すかもしれないから」
 柚亜が俺に向けて言ったので、慌てて愛想笑いを返した。あまり角を立たせないために気を使ったつもりだったが、中途半端な対応は双方に不満をつのらせる結果となってしまった。柚亜は敵意のこもった、千歌流は不満げな視線をそれぞれ俺に送る。
 逃げるようにして研究棟へ向かった。管理棟と研究棟を繋ぐガラス扉に手をかけたとき、鍵が掛かっていることを思い出したのだが、力を込めると予想外にすんなりと扉は開いてしまった。鍵は開いていたのだ。
「誰か研究棟に行ったの?」
 俺が柚亜に質問を投げたが、彼女は無視して千歌流との皮肉の応酬を続けていた。
 これ以上二人の関係を悪化させたくなかったので、半ば無理やり千歌流の腕を取って研究棟に連れて行く。その瞬間に柚亜の機嫌がさらに悪化したのが分かったが、もはや俺にはどうすることもできない。
 社員棟と比べて研究棟はかなり埃っぽく、向こうよりも雑多な印象を受けた。ただでさえ狭い廊下にはダンボールや機械や机がはみ出している。真っ直ぐな廊下にはペンキの剥がれた引き戸が等間隔に並んでいて、学校の教室のようにひとつの部屋につき出入り口がふたつ設けられていた。
 好奇心で戸のひとつを開けようとすると、立て付けが悪くガタガタとうるさい音が廊下に響く。部屋を覗き込むと、洗面台付きの真っ黒な長方形の机が据えてあり、それを覆い隠さんとばかりに空の水槽や灰色のボンベ、フラスコやビーカーが並んでいる。天井の隅には口をむき出しにした換気口があり、大きさは八敷の部屋のものと変わらないように見えた。壁際の棚には本やファイルがぎっしりと詰まっていて、入りきらなかった分が棚の外に積み上げられていた。
「痛い……痛いよっ!」
 千歌流の抗議を受けて、俺は未だに彼女の腕を掴んでいたことに気がついた。慌てて放すと、彼女は腕をさすりながら俺のことを非難がましい目で見た。
 無意識のうちに、千歌流に助けを求めていたのだろうか。腕を放した今、左手が妙に寂しかった。俺は恐がりなのだ。こういう場所はあまり得意じゃない。
「どうやって探す?」
「しらみつぶしに探すしかないんじゃない?」
「でも……この散らかりようじゃあ」
 確かに、部屋をひっくり返して隅々まで探すよりも、きっと明日のフェリーを待った方が早いだろう。
「適当に見て回ろう。探してるのは無線機なんだ……まさか、あの中に埋もれてる、ってわけじゃないだろ。適当に見て、見つからなかったら、なかったってことだ」
「本当に適当だね」
「悪いか」
「ボクも賛成。片付けまでしてらんないよ」
 千歌流は投げやりに言って、頭の後ろで腕を組んだ。
 彼女と一緒に一階の部屋を見て回る。立て付けの悪い戸を開けて、中に入り、埃と正体不明の匂いに不快感を覚えながら中にあるものを確認する。それの繰り返しだ。
 何の気はなしに蛇口を捻ってみると、ちゃんと水が出た。と言っても世良島に水道管が繋がっているわけではなくて、屋上にある貯水槽からの水である。この島に来る前に、不用意に蛇口の水を飲むなと八敷に注意されたのを思い出した。
 その八敷はもうこの世にいないし俺と言葉を交わすこともない。妙な感覚だ、と俺は思った。八敷とは常に行動を共にしていたわけではないし、むしろ彼と一緒だった時間の方こそ珍しい。八敷政孝は俺の人生には組み込まれていなかったのである。
 だとしたら、八敷が死んだことを、俺はどのようにして実感すればいいのだろうか。
 そんなことをぼんやりと考えながらも、万が一犯人が潜んでいる場合に備えて、初めての部屋に踏み込むときは俺が最初に入ったし、彼女のまわりに細心の注意を払っていた。我ながら上出来だと思う。ボディーガードは無理だろうが将来は警備員くらいにはなれるかもしれない。
 一方の千歌流は俺の緊張を粉々に打ち砕くほどの脳天気で、部屋に落ちているものにいちいち反応しては無邪気な顔で俺に話しかけてきた。
「一階にはないんじゃないの?」
 と、千歌流が突然言った。
「何で?」
「だって、ここって化学関係の部屋ばっかじゃん。無線機とかってそういうところに置いてあるものじゃないと思うけど」
「元々化学工場だったんだから当然だろ」
「そっか」
 しかし千歌流の言うことももっともである。
 一階の捜査を適当に切り上げて、二階へと移動した。こちらの階も、無線機がありそうな雰囲気ではなかったので、飛ばして三階へ上がる。
 三階のとある部屋で無線機を見つける頃には、すっかり日が落ちてしまった。窓から飛び込んだ橙色の光が灰色の床に一列に並んでいた。
 無線機を見つけた部屋にはコンピュータや計測機械、電極のついた導線などが乱雑に散らばっていた。部屋の中には机がいくつも入っていたが、規則性もなく、ただ置く場所がなかったので適当に入れた、という感じに部屋の隅に固めて置いてある。無線機はその机の上に置いてあった。
「ねえねえ、これじゃない? なんかそんな感じする! 『無線機!』って。電波出てる感じ!」
 最初に千歌流がそう言ったとき、俺はそれが無線機だとは塵ほどにも思っていなかった。第一に千歌流に無線機とそれ以外の機械を見分けられる能力があると思っていなかったし、第二に、彼女が無線機だと言い張る機械をこの部屋に来るまで少なくとも六回は発見したからである。
 なぜか千歌流は探索を続けるほどテンションが上がり続け、それとは対照的に千歌流のテンションの奔流をまともに受けてしまった俺は、ほとんど放し飼いと言っていいほどの放任主義で千歌流の護衛を務めていた。
「どんな感じだよ……」
「だってほら、ボリュームとか、チャンネルとかいじるやつがあるよ」
 無線機は平べったい立方体の黒いボディで、前方にはオレンジ色のデジタル表示計、その周囲に様々なボタンと、中央には大きなダイヤル式のスイッチ。後ろ側にはいろんな種類のケーブルが尻尾のように生えていた。
「これ、持って行けるかな……」千歌流は机に飛び乗って、無線機を持ち上げようとした。「ちょっと重いかも」
「いや、持って行って動くのか? アンテナも、マイクもないんだけど。それ、実験用のやつじゃないの?」
「実験できるってことは動くってことじゃない?」
「本土まで届くかどうかは分からん」
「んー、これ、どうやったら動くんだろう」
 千歌流はしばらくボタンを押したりダイヤルを回したりケーブルを抜いたり差したりを繰り返した。数十分の試行錯誤の後に、そもそも研究棟には電気が通っていないという結論に至った。
「えー。水道はちゃんとあるのに……」
「発電機は長部さんが動かしてたはずだから、後でこっちの電気も回復するように頼みに行こう」
「気が利かねーな」
「いや、普通に三日間を過ごすだけなら、社員棟の電気さえつけば問題ないはずなんだから。だから長部さんも研究棟には行くなって言ってたんじゃないかな」
 なぜか長部の弁護をする俺。
「んー、これ、こっから動かすのは難しいかな」
「その、後ろに付いてるケーブルとか……勝手に抜いていいのか?」
「駄目かな」
「刺さってたってことは、動かすのに必要だってことだろ。それに、これが動いたとしても、操作方法は分かるの?」
「うーん。志摩なら分からないかな?」
「コンピュータ関係なら確実に分かるだろうけど、無線機はねえ……。それよりも、早く向こうに戻った方が良いかもしれないよ。そろそろ日が落ちる」
 さっきから、窓から飛び込んでくる光量がずいぶんと少なくなってきたのが気がかりだった。研究棟に電気が通っていないのなら、日が落ちてしまうと真っ暗の中を手探りで社員棟まで戻らなければならない。それを想像して背筋が寒くなった。
「まだ大丈夫だって」
「暗くなったら作業なんかできないだろ。それに、あんまり遅くなると翠が心配する」
「もうちょっとだけ」
 千歌流は手を合わせて拝むように言った。別に俺に拝んでもらったところで、日の入りが遅れるわけではないのだが。
 俺は溜め息を吐きつつ部屋を出た。千歌流が戸の影から頭を出す。
「あ。先に戻るの?」
「いや、トイレに行きたいんだ」
「あっそ」
「雪隠」
「大きい方?」
「あのな、下品だからそういう質問はやめなさい」
「失敬失敬」
 二階に下りて、直線の廊下をしばらく進む。途中で廊下に出したままの段ボールに足をぶつけて悶絶した。中には書類やファイルがぎっしりと詰まっていて、なるほど重いはずである。
 廊下の突き当たりの左手に女子トイレと男子トイレが並んでいる。トイレ、というよりも便所という呼称が合う趣だ。
 尿意を我慢しつつ男子トイレに入る。
 中に入るとき、トイレ特有のアンモニア臭に混ざって血の匂いがした。すぐにその正体を視覚で捉える。
 長部が頭部から血を流して倒れていた。流血は少なく、タイルの目に沿って血が格子状に流れている。長部はうつぶせに倒れていたが、後頭部を割られた乱暴さに反して両手と両足は行儀良く伸ばしたままだった。
 俺は声を忘れてその様子を見ていた。声を出したところでここには俺しかいないのだ。声を上げる意味もない。悲鳴とは、仲間に異常を知らせるためのもの。一人だけなら意味がない。
 だから、振り返って、社員棟に戻ろうとした。悲鳴が意味を持つ場所に。
 誰かの腕が俺の首に巻き付く。ハンカチのようなものが俺の口と鼻を押さえる。
 俺は恐慌状態に陥って、めちゃくちゃにもがいた。
 首に巻き付いた腕が俺の気道を容赦なく締め付ける。頭がぼうっとして、視界から徐々に色が失われていった。
 とうとう体が動かなくなって、意識が沼の中に沈んでいく。自分の天と地の違いが分からなくなって、かろうじて生きている灰色の視界から、俺が床に倒れていることを悟った。なぜか心地良い気分になって、それは眠るときの感覚に似ているせいだと、気絶する前に思い出した。

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