裁くのは彼女

第4章 殺された闇の中で


 夕食はカレーだった。大きな寸胴鍋の取っ手を布巾で持って、長部勇平がみんなの皿にカレーを注いで回る。
「おい、作りすぎじゃないのか」鍋の底を見ながら八敷が言った。
「すんません、分量間違えました」
「こりゃー、しばらくカレー三昧だね」
 嬉しそうに千歌流。あのテンションの高さを見ると、どうやらあいつはカレーが好きらしい。千歌流の隣に座った翠が「よかったね千歌流ちゃん」と母親みたいなことを言う。
「使えないわね、あいつ」
 相変わらず不機嫌な声で小さく柚亜が言った。柚亜は俺の隣に座っていて、俺は彼女の棘の矛先がこちらに向かわないように、さっきからずっと黙って座っていたのだ。
「……あんた、さっきから黙ってるけど、何? あたしに何か言いたいの?」
「いや、別に」
 沈黙が裏目に出て俺は萎縮する。
「あっそ。カレー嫌いなの?」
「世の中には美味いカレーも不味いカレーもある」
「それもそうね。世の中には愉快な人間も不愉快な人間もいるしね」
 そう切り返すと、打って変わって柚亜は俺を見て意地悪そうにニタリと笑う。柚亜の機嫌が良いのか悪いのか俺にはさっぱり分からない。雑談をしている最中に地雷を踏んではかなわない。
 食堂は俺たち八人が利用するには広すぎる場所だった。しかし社員棟の大きさの割に食堂は小さく、社員全員が一度に利用するのには不便だったろうと思う。きっと時間をずらして食事をするか、寮がすべて埋まるほどには人がいなかったのだろう。
 メニューはカレーにサラダ、それとオニオンスープがついてきた。ただでさえカレーの量が多いのに、これは果たして今晩中に消費できるのだろうか。明日の朝もカレーだったら嫌だなあ、と俺は思った。一度に作るカレーと一晩寝かせたカレーはおいしいけど、だとしてもせっかく旅行に来たというのに食事がすべてカレーだというのは何だか味気ない。
 千歌流の方を見るとすでに料理に手をつけている。翠がそれを見て千歌流の不作法をたしなめて、柚亜がそれを馬鹿にして、鳴雨は一心不乱にスプーンを見つめていた。あれは何をしているのだろうか。超能力でスプーンを曲げようと試行しているように見える。
 鳴雨の行為をぼんやり見ていると、彼女と目が合った。
「……サギちゃんは、超能力を信じる?」
 図星だった。
「超能力は信じるが、テレビに出てるようなのは偽物だと思うな」
「でもスプーンを曲げる超能力があって、それを生かした仕事をしようと思ったら、テレビに出るしかない。だからあれは本物だと思う」
 すでにカレーを食べ始めていた千歌流が顔を上げる。
「んー、でもさ、スプーンを曲げる超能力って正直どうなのよ。ボクはもっと派手なのがいいな。瞬間移動とか、未来予知とか」
「瞬間移動なら運送業者、未来予知なら占い師ね」柚亜が呆れたように言った。
「別に占い師にならなくてもいいよ。なんで他人の未来を占うのさ。自分の未来を見ればいいじゃん」
「他人の未来しか見えないって制約があるのかも」
「もっと万能な能力じゃないの?」
「スプーンを曲げる力があったとして」俺の隣に座っている志摩が口を開く。「それを果たして超能力と呼んでいいのかな」
「あー。つまり、わざわざ念力で曲げなくても、思いっきり力を入れれば曲げられるってこと? 確かにそうだよね。スプーン曲げられたって、テレビでちやほやされるくらいしかないもんね」
「わたしはそれが不思議だな。手を使わずにスプーンを曲げられる人間がどうしてそんなにもてはやされるのか。だって、人間は道具を使えるのだから、何もわざわざそういう不思議な力を使わなくても曲げられる。むしろそういう機械を使いこなせる人をこそ評価すべきだと思うよ」
「確かにそうね。スプーンを曲げるよりも、スプーンを作る方が何十倍も大変そう」柚亜が志摩に同意する。「でも、そういう不思議な力が実際にあったとして、ちゃんと原理とかが解明されたら、機械よりも役に立つテクノロジーになるんじゃない?」
「それは疑問ね。人間一人が汗を流してスプーンを曲げる程度の力が、例えば誰にでも使えるようになったとしても、それによって産業に革命が起きることはないと思うわね。だって、道具というのは人間の仕事をどうやって肩代わりさせるか、という方向に進んで来たのよ。それが、例えば人間が機械と同じように、何かを切断したりねじ曲げる力を得たとして、超能力者が機械の代わりに朝から晩まで工場で働くのは、明らかに歴史に逆行しているし本末転倒だよ」
「でもさー、志摩は不思議に思わないの? 超能力、不思議だと思わない?」
「別に」と、志摩は素っ気ない答え。「見えない力なんて身近にありふれてるよ。磁力も電力も人間の目には見えない力だけど、じゃあテレビで超能力を不思議だと言っている人たちは、磁力や電力についてどれほどのことを知っているの? 何となく、そんな力があるのは知っている……という程度じゃないかな。わたしから見れば、どうして超能力だけが特別不思議だと思うのか、その感性の方が不思議だね」
「それが仕事だからだろ、テレビの。エンターテイメントなんだから、不思議に思わせなきゃ仕事にならない。ショーなんだよ」
 俺が言うと、志摩はこちらを向いて言った。
「みんな簡単に騙されるのね」
「騙されるのは楽しいぞ。夜、テレビを見るのが習慣になるくらいにね」
「それは真理かもしれない。なるほど、楽しむことの本質は、騙されていることを自覚しつつ騙される、ということなのかもしれないね」
 志摩は上品な仕草でカレーを一口すくって食べた。鳴雨の方を見ると、いつの間にかスプーンで遊ぶのをやめて真面目に食事を楽しんでいるようだった。
 カレーライスはご飯が少し水っぽい点を我慢すれば十分においしかった。オニオンスープは少し味が強すぎる。サラダは野菜が美味かったせいか、一番最初に平らげてしまった。
「きみたちは超能力はあんまり信じてないみたいだね」
 と、長部がカレーをすごい勢いで片付けながら言った。大量に余ったカレーに責任を感じているのかもしれない。
「別に、信じてないわけじゃないけど」柚亜がドライに言う。「たとえそういう能力があったとしても、あたしには何の関係もない話だし。あたしに関わりのない人間がスプーンを曲げてお金を稼いだところで、あたしは痛くも痒くもない」
「無関心な現代人の象徴だね、柚亜は」
 と、千歌流は脳天気に言う。彼女も長部に負けないほどおかわりをくり返していた。かなり幸せそうに食べていたけれど、さすがにそろそろ苦しそうだ。
「僕が子供のころは、みんな超能力者とかって信じてたからね。テレビで超能力の特集とかやるたびにわくわくしながら見てたよ」
「俺は胡散臭いと思って見てたな」缶ビールを飲みながら八敷。「そもそも人の言うことなんか胡散臭い。超能力も占いも天気予報も信じないタチなんだよ」
「いや気象予報士くらいは信じてあげましょうよ」
「きみたちは占いや心霊現象の類は信じているのか?」
 八敷が俺たちに向けてそう言うと、みんなはお互いに目を合わせて誰も返事をしなかった。
 仕方なく俺から言う。
「そうですね……まあ、占いは心に留めておく程度で。大金を出してまで有名な占い師に見てもらおうとは思いません。あと……心霊現象は、信じてません」
「幽霊は怖くないのか」
「そもそも幽霊ってのが納得いかなくて。生き物が死ぬと幽霊になるって言うけど、それじゃ、生きている物と死んでいる物の違いは一体何なんだろう、って。そう考えると、幽霊って概念は、最初から世界にあったルールじゃなくて、人間が勝手に考え出したルールなんじゃないかと」
「なるほど、面白い視点だね」
 長部が愉快そうに言った。体育教師のような歯切れの良い言い方だ。
「ボクは超能力は結構あったらいいなって思うけど、占いも、幽霊も、神様も信じてないよ」
「意外だな。千歌流はそういうの信じてそうだけど」
「ボクが信じてるのは人間だけだよ。何か困ったことがあって、そういう状況をなんとかしてくれるのは、やっぱり人間の力だから。神様なんか何もしてくれないしね」
「むしろ俺は人間こそ信じられないけどね」
「何それ。サギちゃん気取ってる」
 スプーンで俺を指して笑った。特に深い意味があるわけではなくて、思いもよらず勝手に口から出た言葉だった。ただの言葉遊びのつもりだったんだが。気取らずに生きていく、というのは難しいものだ。
「翠は?」
「わ、わたしは」翠はうつむいて、おどおどと答える。「よく……分かんない」
「あたしは自分で見たもの以外は信じないわ」
「聞いてないよ」
 千歌流の言葉に柚亜の眉がつり上がった。俺はとばっちりが来ないように沈黙を始める。柚亜はしばらく静かに怒り狂っていたようだが、やがて怒りを喉の奥に飲み込んだらしい。俺は胸をなで下ろした。
 そんな葛藤があったことなど知らず、千歌流は無邪気に超能力のすばらしさについて語っていた。
「超能力者は」
 それまで黙って食事をしていた鳴雨が、久しぶりに口を開いた。声は小さくゆっくりとした喋り方だが、普段喋らない人間が口を開くとそれだけでインパクトがあるらしく、なぜかみんな途端に黙って鳴雨の言葉を待った。なるほど、あれが人徳というものか。あやかりたいものだ。
 少し言葉を止めて、考え直すようにしてから、再び鳴雨が言った。
「超能力を信じるのは、手品を信じるのと同じ」
「……えーと、どういうこと?」
「つまり、手品と超能力の違いは何か、ってことよ」
 たった一言だけで鳴雨の真意を理解したらしく、柚亜が得意げに言った。それが気に食わないのか、千歌流があからさまにムッとした表情をした。
「手品も超能力も、現象としてはほとんど同じものなのよ。その現象の原因を、トリックに求めるか、超自然的な人間の能力に求めるか、という違いがあるだけで」
「そう。私が言いたいのは、そういうこと」
 鳴雨は志摩を見て満足そうに頷いた。
 柚亜はこの話題で千歌流をもっとからかいたかったらしく、先を越されてしまったことで悔しそうに志摩のことを睨み付ける。志摩はそれを涼しい顔で受け流した。
 志摩に精神的なダメージを与えることはほとんど不可能に近い。心を開くも閉ざすも自由自在なのだ。意図しないところで唐突に心を傷つけてしまう俺のような一般人とは、構造からして違うのだ。
「赤織さんは……えっと、超能力は、信じているの?」
「信じるわ」
「へー、意外。志摩なら絶対信じてないと思ってた」
「超能力をどう定義するかという問題ね」
「信じるってことをどう定義するかってのもね」
 柚亜が皮肉っぽく言った。志摩は口元を緩める。
「馬鹿馬鹿しい。何が定義だ。そんなの、ただの言葉遊びじゃないか」
 酔いが回ってきたのか八敷が乱暴に言い放った。長部が慌ててなだめ役に回ったが、八敷は意に介さず鼻で笑ってから新しいビールの缶に手を伸ばす。
「それで結局、鳴雨はどうなのさ。信じる? 信じない?」
「さあ……。私は、超能力が存在するかどうかよりも、どうやってそれを信じ込ませるか、ということに興味がある」
「つまり、超能力を売り出してそれをお金に換える、社会のメカニズムのようなもの?」
「というより、超能力者本人の技巧という面で……」
「まさに手品というわけね」
 志摩がそう言うと、鳴雨は頷いた。
「鳴雨って、超能力で一山当てようとか考えてるの? もしかして」
「あんたと一緒にしないで」と、柚亜が毒づく。「鳴雨は手品が趣味なのよ」
「そうなんだ……すごいなあ」
「前に見せてもらったけど、鳴雨の手品はすごいわよ。鳩とか人体切断とか、あんな馬鹿っぽいやつじゃなくて、観客の目の前で見せる、もっと高度なテクニックのやつね」
 柚亜がまるで自分のことのように自慢する。翠が再び素直な感嘆の声を上げた。鳴雨はそれを無表情で受け止めていたが、口元が微妙に痙攣しているように見えた。どうやらあれでも照れているらしい。
 志摩が好奇心を剥き出しにして鳴雨に言う。
「手品、見てみたいな」
「そんな……大したものじゃないけど」
「そうなの?」
「さあ、でも、志摩がどう思うかは、分からないけど」
「見てみたいわ。手品って直接見たことがないの」
「すぐに道具を取ってくる」
 鳴雨は立ち上がった。まるでバネでも仕込まれていたみたいな勢いで立ち上がり、鼻息も荒い。飄々とした雰囲気の彼女にしては、かつてないほどにやる気がみなぎっていた。
 しかし志摩は食堂を出ようとした鳴雨を手で制した。
「待って。それなら、大広間に行こう」一同の顔を見回す。「みんな、もうカレーは満足した?」
「いいよー。残りは明日食べることにする」
 千歌流はそう言ってから、三割ほど皿の上に残っていたカレーを一気に口の中に流し込んだ。



 物心ついた赤織志摩が初めて言葉を発したときには、すでにその天才の片鱗が現れていたのだという。彼女の教育係が最初に気づいたのは驚異的な記憶力だった。どんな些細な出来事も、目の端に一瞬だけ捉えた数の羅列も、赤織志摩は自分の頭の中にビデオテープが収められているかのように正確に思い出すことができた。
 これだけならば、天才という看板は少し大げさすぎる。写真のように物事を記憶できるような特異体質の人間は過去にいくつも例があった。
 しかし記憶力は志摩の脳が持っている強大な能力のほんの欠片でしかなかったのだ。
 赤織志摩は、赤織家の娘としての最高の教育を施されてきた。彼女はほとんどすべての教えを、まるで教育係の知識を奪い去るかのように吸い込んでいった。吸い込むだけではなくて、知識に対する考察や、その応用に関しては、常に教育係には及び届かぬレベルに達していた。
 赤織志摩の名前が初めてマスコミに出たのは、彼女が小学校に入学するころに書いた情報工学の論文が専門誌に掲載されたのがきっかけだった。当時の志摩はコンピュータに強い関心を持っていて、ただ教わるだけでは彼女の好奇心を満たすには不十分だったのである。
 残念ながらその論文は学会ではあまり評価はされなかった。論文中で志摩が提案したアルゴリズムの評価に関して不十分な点があったためである。
 このときの話について俺が志摩に尋ねたところ、あのときのわたしは未熟だったと、素直に自分の力の至らなさを認める発言をしていた。実際、そのときの志摩はまだまだ発展途上で、彼女の発展と進化は現在に至るまでも停滞の兆しすら見えていない。
 まあそれはともかく。
 たった七歳の少女が書いた論文が、大人の科学者たちの真剣な議論の対象になっただけでも十分にセンセーショナルな出来事だった。マスコミはこぞって志摩を取材しようとした。できるならテレビに出して見せ物にしたかったのだろう。
 マスコミの願いは一時的には叶った。志摩は何度かテレビ番組に出演することを承諾した。あいにくと俺はその番組を見た記憶がないのだが、志摩が一般大衆向けにどんな猫を被っていたのかを想像すると一度見てみたかった気もする。
 しかしそんな時代が一年も過ぎると、志摩はやがてマスメディアからは距離を取るようになった。マスメディアには自分の求めるような楽しさがないことに気づいたのだ。見限った、とも言える。
「そのときのわたしは大衆を操作しているのがマスメディアだと思っていたんだよ。マスメディアに少しでもコントロールを持てるようになれば、わたしがやりたいことの手助けになるかもしれないと思って」
「それじゃ、なんで突然テレビに出なくなったんだ?」
「うんざりしたというのがひとつ。もうひとつは、苦労してマスメディアへの影響力を確保したところで、大したリターンは得られないと判断したから」
「失敗だったわけだ」
「でも得られたものは大きかったよ。特にいろんな人と会えたのは大きな収穫だった」
「馬鹿ばかりだっただろ?」
「最初はね、少しは頭の良い科学者もいたの。有意義な討論をしたこともあった。最後の方は、権力を持っているというだけの大人ばかりで、嫌気が差した」
「志摩にも嫌気が差すことがあるんだね」
「主語はわたしじゃないわよ。マスメディアが、よ」
 確かに。利益がないと判断すれば、直ちに自分の殻にこもる用意がある志摩は、分かりやすい天才の絵が欲しいマスコミにとっては非常に扱いづらい存在だっただろう。しかもその背後には赤織家が控えている。いくら気に食わないからといって、志摩を蔑ろにするわけにもいかないのだ。
 赤織志摩の天才性を表すエピソードのもうひとつは、彼女が模倣の天才であるということだ。
 芸術、学問、果ては運動の様々な分野で、赤織志摩はまるで鏡のような正確さで他人の能力を吸収した。特に顕著だったのは芸術の分野だった。
 例えば絵の先生が志摩に絵の描き方を教えるとする。それはレッスンでなくてもいい。白いキャンバスに絵の具を塗る過程を、最初から最後まで志摩に見せる。すると志摩は、たった一度見ただけの過程を、完璧に制御された精密な動作でほぼそのまま再現し、先生の描いた絵とそっくり同じ物を描いてしまうのだ。
「こんなのはただ、やり方を真似ているだけなのにね」
「それでもすごいだろ。少なくとも俺にそんな真似はできない」
「この芸を生かして、小遣い稼ぎくらいはできるかしら」
「絵を完璧にコピーできるってことは――」
「それは間違ってるよ。完璧にコピーなんてできないし、ましてや芸術家として生きていくのも難しいよ。まあ、もう少し本気で取り組めば別だろうけど、人が描いているのを見て、それを真似ただけではただの模写でしかない。贋作を描いて欲しいなら、ちゃんと腕のある画家に頼むことだよ。わたしが描いた絵は、素人はともかく、専門家が見ればすぐに分かるような粗末なコピーでしかないから」
「どうすればそんなふうにコピーできるんだ?」
「見て、その通りに手を動かす」
 俺の問いに、志摩は真顔でそう答えたのだった。
 赤織家の人たちが、赤織志摩の友人となる少女たちを厳選した理由がここにある。他人の才能を模倣する志摩の周りには、彼女に模倣させるのに足る十分な能力を持った人間を配置しなければならない。
 赤織志摩の能力をさらに発展させ、進化を促進させるために。



 俺たちは食堂を出て階段を上り、二階の広間へと場所を移した。長部は後片付けのために一人で食堂に残った。
 広間へ到着し、ほろ酔いの八敷が全員の分のオレンジジュースを用意したところで鳴雨が遅れて到着した。彼女は手品の道具を用意するために一人だけ部屋に戻っていたのだ。
 鳴雨が見せてくれたのはカップを使ってボールが移動する手品と、観客にカードを選ばせてそのカードを当てる手品だった。鳴雨の手さばきはとても鮮やかで、たとえ彼女に将棋の才能がなかったとしても、手品師としてそれなりに成功できたのではないかと思わせる華やかさがあった。
 志摩は楽しそうに、しかし静かに鳴雨の手品を見ていた。たぶん手品のタネには気づいていただろうが、いちいち大げさに驚く千歌流や、鼻高々に鳴雨の功績を言葉で装飾する柚亜に水を差すようなことはしなかった。
「……すごいもんだね。プロ顔負けだ」
 と、俺もそれにならって鳴雨をおだててみる。もっとも、俺の方は完全にこれっぽっちもタネが分からない状態での賛美だったので、その心はまるで負け惜しみである。
 鳴雨のレパートリーが尽きて、柚亜に挑発された千歌流がタネを見破ろうと何度もアンコールを唱えた。それも終わると、俺たちは柚亜が手品に使ったトランプで再びゲームに興じることになった。
 フェリーのときとは違い、俺と志摩も参加して六人で遊ぶ大富豪はそれなりに白熱した。俺たちがトランプで遊んでいる間、さすがに八敷もアルコールを控えて、ウーロン茶を飲みながらテレビを見て酔いを醒ましていた。ちなみにテレビには選局の余地がほとんどなかった。こんな孤島でテレビの電波を受信できるだけでも十分だろう。
 一時間ほど遊んでから、長部が食堂から戻ってきたのをきっかけにお開きとなった。長部の姿を見て八敷が、廊下の照明がついていないことに文句を言った。
「あれ? 本当だ。点いてないっすね……」
「何他人事みたいに言ってるんだ。さっさと点けてこい」
「八敷さんが点ければいいじゃないっすか」
「スイッチがどこにあるか分からん。管理棟で、全館の廊下をまとめて操作できるはずだが」
「僕、これからお風呂沸かしたり忙しいんですけどね……」
 ぼやきながら大広間を抜けて管理棟の方へ行った。志摩に浴室の場所を確認すると、一階の管理棟側にあると教えてくれた。
 柚亜の提案でゲームのスコアを翠が記録していたのだが、一人で大勝ちしていたのは柚亜で、その下は団子状態。志摩はぴったりとプラスマイナスゼロをキープしていた。相変わらず器用なやつだと、俺はげんなりしてゲームを振り返った。
 ゲームが終わるとその場はお開きになった。柚亜が絵を描きたいと言って大広間を出たのに倣って、俺も自分の部屋に戻った。
 時刻は九時を回ったところ。眠気はまだないし、時間を潰すために誰かに会いに行くのも気が引ける。荷物から読みかけの文庫本を取り出した。ベッドにうつぶせで寝転んで本を読み始める。
 五ページも読み進めないうちにドアがノックされた。その音に少し驚いてから、俺は警戒しつつドアを開けた。他に誰が来ても驚いただろうが、そこに立っていたのは予想通り、赤織志摩だった。
「何か用か?」
「……あなたのことを馬鹿だと思ったことはあまりないけど」
「ってことは、多少は思ってるわけだ」
「心当たりがないならあなたの記憶力も大したものだね」と、彼女は珍しく皮肉めいた言い方をした。「一緒に蛍を見に行く約束はどうしたの?」
「ごめん。忘れてた」
「まあ、多少は予想してたけど。でもたまには予想外のことも起きて欲しいな」
「これでも努力はしてるんだけど」
「準備ができたら大広間に」
「準備って、何か必要なのか?」
「そうだね、心構えくらいかな」
 悪戯っぽく言って、志摩は向かいの自分の部屋に戻った。
 特に準備することも見つからず、俺はすぐに部屋を出て大広間へ向かう。暗い廊下を怖々と進むと、廊下の奥から大広間の明かりが漏れていた。窓の外を見ると、真っ暗な地面とそれよりは多少闇の薄い空が見えた。人工の明かりがほとんどないこの島では、雲が月と星を隠してしまえば窓の外はほとんど何も見えなくなる。
 食事の後で志摩が漏らしていたが、昔は工場を動かすためにこの島にも大規模な発電施設が動いていたらしい。今は社員棟と管理棟を動かすための最低限の発電機が管理棟で稼働しているだけだ。
 大広間にはもう誰も残っていなかった。賑やかに遊んでいたときの残滓が残っているような気がして、大広間に一人だけという状況が妙に寒々しく感じられる。
 テレビをつけて寂しさと怖さを紛らわせた。
 夕食の席では幽霊を信じていないと言ったくせに、実際に真っ暗な廊下を歩くとなぜか恐怖を感じてしまう。暗いだけの世界の何を恐れているのだろうか。
 俺は理論で武装しながら、ニュース番組の音量を実用性を遥かに超えるレベルまで高めた。
 志摩が来るよりも先に千歌流と鳴雨が大広間を通り過ぎる。両手にタオルと洗面用具、それに着替えを持っていた。
「あれ? サギちゃん何やってんの? 一人?」
「志摩を待ってるんだよ」
「志摩?」と、鳴雨が素早く反応する。「逢い引き……」
「違うから」
「粗挽き?」
「あいつと蛍を見に行くんだよ。お前たちは何しに来たんだ? 見たところ一緒にニュースを見に来たという感じでもなさそうだが」
「お風呂が沸いたって。だから一緒に入ろうと思って」
「テレビを鑑賞するのにタオルは必要ない」
 鳴雨が律儀に言った。
 二人は当然のようにソファーに座り、三人で並んでしばらく一緒にテレビを見る。
「いや、何で座るんだよ。風呂じゃないのか?」
「翠が来るのを待ってるんだよ。なんか全然来ないから、先にここで待ってようって」
「柚亜は?」
「先に入ったよ。一番風呂じゃないと嫌なんだってさ」
 千歌流が不愉快そうに言った。その際の一悶着を想像して俺は苦笑いする。
 やがて、翠が早足で広間に入ってきた。涙ぐんで、千歌流と鳴雨に訴える。
「ちょっと、みんな……置いてかないでよぅ」
「ごめんごめん。だってぜんぜん出てこないんだもん」
「一人でここまで来るの、すごく怖かったんだから……。廊下の電気、まだ点いてないし」
「幽霊でもいた?」
「言わないでよっ!」
 鳴雨が何気なく言った言葉に翠は過剰反応した。幽霊、という単語は禁句らしい。鳴雨はにやりと嫌らしい笑いを浮かべる。
「幽霊、幽霊、幽霊、幽霊――」
「や、やめてよっ。いじめないで……」
「あー、コラ。鳴雨やめなよ。翠いじめるとボクが許さないから」
「この島では昔、社員の一人が自殺したことがあって――」
「そういうのやめてっ」
「今でもほら、耳を澄ますとロープにぶら下がった死体の揺れる音が――」
 千歌流が鳴雨の頭を叩くと、怪談はオチに至る手前で停止した。翠は両耳を塞いでしゃがみ込んでしまった。
「もう怖くて眠れないよ……」
「大丈夫。今夜はボクが一緒にいてあげるから」
「本当?」
「私も付き合う」
「姫塚さんは来ないで」
「嫌われた……」
 と、鳴雨はこちらを向いて報告してきた。とりあえず俺は「自業自得だ」とコメントを返す。本人もそれは分かっているようで、分かっていてもやってしまうあたり、非常に度し難い。
 翠はたった今俺の存在に気づいたみたいに言った。
「笠木さんも、一緒にお風呂なの?」
「違うよー。志摩と蛍見に行くんだって」
「そういえば言ってたね。でも、暗いし、大丈夫?」
「大丈夫じゃなかったら引き返すさ。そのために俺が同行するんだ」
 しばらく三人は呆けたように俺の顔を見ていた。
「志摩遅いねー」
「……女の子は、準備に時間がかかるもの」
 と、準備に時間をかけない女の子である鳴雨が言った。
「それなら蛍を見に行く前に、ボクたちと一緒にお風呂入ろうよ。サギちゃんの背中洗ってあげるよ」
「いいね、それ。私も入りたい。私は頭を洗ってあげよう」
「じゃ、じゃあ、わたしは……どこを洗えばいいのかな……」
「いや、遠慮しとくよ」
 悪戯っぽい顔で俺に迫る二人と、それに流される一人を、俺は力強く拒絶した。曖昧に否定すると俺まで一緒に流されそうで怖かったし、下手をすれば冗談ではなく本当にそれが実行されてしまうかもしれなかった。
「えー」と、千歌流は笑いながら不満の声を上げた。「サギちゃん、冷たいよ。せっかく通じ合えたと思えたのに」
「裸の付き合い」
「いや、だって、嫌じゃないか? その、まだ会って一日も経ってないのに」
「サギちゃんなら、別に嫌じゃないかな」
「右に同じ」
 翠もこくんと頷いた。
「分かった、分かったから……。もういい加減風呂に行きなよ」
「しょうがない。ボクたち三人で寂しく入浴しようか」
「しようか」
「あーあ、残念。洗いっことか楽しいのになあ」
「そいつは愉快なイベントだな……」
「あの、それじゃあね、笠木さん」
 小さく手を振った翠に、俺もぞんざいに振り返した。三人は賑やかに大広間を抜けて行った。
 大広間は静けさを取り戻す。テレビのニュースキャスターの抑えた声だけが耳に入った。
 そのときになって、俺は大広間に飾ってあった洋弓銃が未だに壁に戻っていないことに気づいた。千歌流が持ち出してそのままにしてあるのだろうか。それともそんなに洋弓銃が気に入ったのか。
 夕方の千歌流の姿を思い出した。それと同時に、その直後に目撃した不愉快な光景も蘇ってきて、俺は慌てて頭を振った。思考を停止させてテレビの音に没頭する。
 俺はソファの上で体を横にして、腕を目隠しにして目をつむった。そのままぼんやりと時間を潰す。志摩が来て、声をかけてくれるのを待つつもりだった。
「あなた、邪魔よ」
 かけられたのは志摩の性格とはほど遠い声だった。目を開けて腕をどけると、風呂上がりの柚亜がソファの前に立っていた。
「どきなさい」
 言われるがままに体を起こし、ソファの半分を譲ると、柚亜はどっかと腰を下ろしてテーブルの上に置いてあったリモコンを乱暴に取る。チャンネルを一通り回して、選局の余地が少ないことを罵った。
 柚亜はペイルブルーのタオルで髪を乾かしていた。シャンプーの香りと風呂上がりの体温が感じられて俺は横目で柚亜の顔を盗み見る。頬が赤く染まり、髪が濡れているだけでこうも人の印象は変わるのである。性格は相変わらずの柚亜だったが。
「そういえば、あんたなんでここにいるの? 暇なの? 友達いないの?」
「友達がいたとしても、この島にはいないだろうな」
「赤織志摩は?」
「友達じゃない気がするな」
 柚亜は不愉快そうに鼻を鳴らした。
 俺と志摩の関係を、例えば友人とか、そういう簡単な言葉で決めつけてしまうのはやはり違和感がある。俺と彼女はそこまでしっかりとした繋がりがあるわけではなく、たまたま俺のレールと彼女のレールが触れ合っているに過ぎないのだ。
 所詮、志摩が俺に興味を示しているというだけの関係だ。志摩の気まぐれが終わればそれで切れてしまうだけの縁。
 という自虐的で後ろ向きな甘美な思考を、柚亜に説明するようなことはしなかった。罵倒されそうな気がしたのだ。自虐的な思考は楽しいが、かと言って、他人に進んで罵倒されるような趣味はないのだ。
「ほんと、つまんないわね。この島、面白い物なんて何もない。三日間も何して過ごせばいいのかしら」
「志摩に絵の描き方でも教えたらどうだ?」
「冗談。あんなのに真似されたらそれだけで筆を折りたくなるわ」
「今日はずっと絵を描いてたんだろ? 良いのが描けたか?」
「あんたに関係ないでしょ」
 柚亜の言うことはもっともだったので、俺はそれ以上の質問を控えた。しかし俺たちの間に沈黙が続き、つまらないテレビ番組を静かに鑑賞していると、予想外に柚亜が質問に答える。
「……なんか駄目。今日は描けなかった」
「天才画家なんだろ?」
「別に。あんなの、単に高い値段がついただけで」
「それって自分の才能が証明されたってことじゃないのか?」
「あのね、値段なんてくだらない尺度で芸術を計らないで欲しいな。値札なんかなくてもあたしには自分の実力がどの程度かちゃんと分かってるつもり。ちゃんとやってる人は他人がどうこう言わなくても、一目見ただけで分かるものなのよ」
「絵、描けなかったのか。スランプってやつか?」
「かもしれない。……もしかしたら、もう描けないかもね」
「大丈夫なのか?」
「スランプっていうのはそういうものよ。もう描けないかも、って本気で思うの。脱出できると確信していたら、そんなのスランプじゃない。ただの筆休めね」
 そう説明する柚亜は、何だか妙に達観しているような気がした。描くことも描けないことも、すべてを受け入れて納得している顔だった。
「あたしの絵に興味があるの?」
「ない」
「……ムカツク」少女らしく悪態をついた。「わたしをモデルに絵を描いてください、くらい気の利いた台詞が言えないの?」
「自分の姿が絵に残されて、それが他人に取引されるなんて、考えただけで寒気がする」
 足音がしたので振り返ると、志摩がのんびりと大広間にやって来たところだった。彼女の姿を見て柚亜が途端に不機嫌な表情を作る。
「遅いぞ志摩」
「知っているわ」
 と、彼女は謝る素振りも見せない。約束を忘れた俺への意趣返しのつもりか。俺がソファから立ち上がるよりも柚亜の方が早かった。手に持っていたリモコンを机の上に放り投げると、志摩と俺に敵対的な視点を投げかけてからさっさと大広間を出て行った。
「何なんだあいつ……ころころと機嫌が変わるな」
「もうみんなとは仲良くなったみたいね」
「どこがだよ。……まあ、零よりは近づいた感じはあるかな。一には届きそうにないが」
「それじゃあ、行きましょうか」
「待て。その前に八敷さんか長部さんに言っておかないと」
 俺はテレビを消してから、大広間に面している八敷の部屋のドアをノックした。
 返事があるまでしばらく待つ。しかし一向に応答がなく、俺と志摩は思わず顔を見合わせた。志摩がドアに手をかけるが、鍵が掛かっていてドアが開くことはなかった。
「八敷さん! 八敷さん!」
 俺は大声で中に呼びかけながら、さっきよりも数倍は激しくドアを叩いた。もしかしたら酔っぱらって寝ているのかもしれない。八敷の部屋のドアは頑丈な作りで、外で立てた多少の物音くらいは完全に遮断してしまうだろう。
 しばらく八敷の名前を叫び続けて、それでも何の反応もないので俺は途方に暮れてしまった。
「長部さんを呼ぼう」
「あの人の部屋ってどこだったっけ?」
「今は部屋ではなくて、管理棟で配電盤を探しているはず」
 宿泊のための部屋はL字の先端部分にあり、それ以外の部屋――例えば食堂や浴場などの施設は管理棟側に集中している。大広間は、その二種類の間にある関所のようなものだった。
 大広間を抜けて管理棟側にさらに進んでも、そこから管理棟に入ることはできない。管理棟は社員棟の一階部分でのみ繋がっており、そのため俺たちは、わざわざ管理棟とは反対側の方向に戻り、階段を下りてから、再び管理棟へと向かわなければならなかった。
 大広間の先には階段がなく、代わりにエレベーターがあるのだが、今は使用不可能になっていた。
 真っ暗な一階の廊下を進んでいるといつの間にか管理棟の中に入っていた。
 志摩はロビーを見渡してしばらく考えてから、受付と思われる場所から奥に入り、発電室のドアをノックして中に入る。ドアを開けると中からは闇に慣れた目には強烈な光が漏れた。さらに何かが動く周期的な音が聞こえる。目を細めながら志摩の背中に続く。
 長部が軍手をつけて、機械のパネルと睨み合いをしていた。彼の後ろには、大きな鉄の塊が内部から大きなうなり声を上げていた。その音はかなり大きく、金属の床を踏む音が完全にかき消されていた。
「ああ、ごめんごめん。まだ廊下のスイッチが分からなくて……おかしいなあ。ここじゃないのかなぁ」
「今、少しよろしいですか?」
「お。どうしたんだ、何か困ったことでもあったのかい?」
「外出の許可を」
「え、外出? 今?」
「蛍を見に行くのです」志摩はうっとりと言った。「世良島には最初、豊かな自然があったのですが、化学工場が原因でその大部分が破壊されてしまいました。化学工場が操業を停止して何年も経ちますが、その時間の経過によって、自然環境がどの程度復元され、また結果的に元の状態からどの程度の変質があったのかを確認したいのです」
「ちょ、ちょっと待って」
 長部は作業を中断して志摩に向き直った。
「今から森に行くの?」
「そう言いました」
「ダメだよ。外真っ暗だし、この島は道もちゃんとしてないんだから。危ないよ」
「サギちゃんも連れて行きますし」
「サギちゃんがいても夜道の危険は減らないよ」
 長部は俺に一瞥をくれる。それほど積極的に蛍のことを観察したいと思わない俺は、軽く肩をすくめるだけで長部の説得に荷担はしなかった。ただ状況が流れるのを黙って見守ることにする。
「とにかく、志摩ちゃんたちだけで行くのは危ないからダメだよ。どうしても行きたいなら、誰か大人の人を連れて行かないと」
「この島にその資格があるのは二人だけですよ」
「僕はダメだよ。今ちょっと忙しい。八敷さんに連れて行ってもらいなよ」
「わたしもそう思ったのですが、八敷さんが部屋から出て来ないのです」
「あの人、寝てるのかなあ。大分飲んでたから」八敷の無責任さに呆れてため息をつく。「とにかく、僕はまだ時間がかかるから……。それじゃ、八敷さんを起こしに行くか」
 長部は制御盤をいくつか操作して、軍手を脱ぐと懐中電灯を持って発電室を出た。真っ暗なロビーを懐中電灯を頼りに事務室まで行くと、コルクボードには建物の鍵がずらりと並んでいた。その中から八敷の部屋の鍵を取る。
 懐中電灯を持った長部を先頭に大広間まで戻った。長部は懐中電灯を消すと、八敷の部屋をノックして何度か声をかける。返事がないのを確認してからドアを鍵で開けた。
「八敷さーん。入りますよー」
 呑気にそう報告して、長部は部屋の中に入った。その後を志摩が、遅れて俺が続く。
 部屋の電気は点いていた。俺たちの部屋とはずいぶんと様子が違う。壁紙は豪華だし、壁から生えた照明はランタンを模した飾り気のあるものだった。部屋の一番奥にガラス戸があり、その向こうはバルコニーになっている。
 ガラス戸は開いていた。バルコニーの側からドアに向かって風が流れていた。八敷はバルコニーで、こちらに丸めた背を向けて倒れていた。
「八敷さん?」
 驚きよりも疑問の色を濃くして長部が名前を呼んだ。
 八敷政孝の背中に刺さった矢にすぐ気づけなかったのは、何よりも、彼の体の上やその周辺に散らばった銀色のチップに目が行ったせいだろう。
 長部が動くよりも先に志摩が八敷の体に近づいた。首に手を当ててしばらく待つ。こちらを見て首をゆるゆると横に振った。呼吸も脈もない。八敷は死んでいるのだ。
「矢か?」
「だと思う」
「それ、百円玉か?」
「え? 何? どうしたの?」
 まだ状況を把握できていない長部は、俺と志摩を交互に見比べた。志摩はもとから必要以上に他人を気遣うようなことはしないし、俺にしても誰かに何かを説明できるほど余裕はなかった。
 八敷政孝の体――死体に振りかけるように、大量の百円玉がバルコニーに散らばっていた。部屋の照明に照らされてきらきらと光っている。八敷を絶命させたと思われる矢は背中から体の中心のあたりに突き刺さっていた。こちらから確認した限り出血はほとんどない。
 志摩は八敷の死亡を確認してから、不必要に死体に触れることなくバルコニーから部屋に戻る。
「あそこにクロスボウが」
 志摩が俺に言った。バルコニーを覗くと、八敷の死体から少し離れた場所に洋弓銃が落ちていた。背中の矢は洋弓銃から発射されたものだろう。
「長部さん、大丈夫ですか?」
「死んでるのか?」
「そうです」
「え、どうして?」
「ですから、他に外傷が確認されませんので、背中に刺さった矢が原因ではないかと思います。もちろん、毒物などで殺された後に、矢を刺した可能性もあります」
「ど……どうして?」
「それを含めて、長部さんには今後のことを考えて頂かなければなりません」
「え、僕が?」長部は後ずさった。ドアのすぐそばの壁に背中をつける。「ど、どうしよう……。まず、警察を呼んで」
「無線機はありますか?」
「……ない」
「世良島から電話は通じませんから、警察を呼ぶのは不可能ですね」
「でも、本当に……八敷さんは……」
「だから、死んだんですよ! 殺されたんです。見ての通り」
 俺はうんざりして、やや乱暴に長部に言い聞かせた。俺自身混乱して喚き散らしたいくらいだった。しかし俺以上に混乱し、惨めなほどに状況を把握できていない長部のせいで、俺まで衝動に甘えて現実から逃げることはできなかった。
 自分よりも素直に混乱を発露できる長部への嫉妬や、この島で唯一残された大人である彼が保護者の役割をほとんど放棄していることへの苛立ちが、俺の中で煮えたぎっていた。
「長部さんはみんなを集めてください。これからはなるべく全員で行動を統一する必要があります。それから、どこかにカメラはありませんか? 死体をこのままにしておくわけにはいきませんが、警察が来たときのために状況を写真に記録しておく必要があります。その後は廊下の照明を点けましょう」
「八敷さんが持ってたはずだけど」
「すみませんが、探して頂けますか」
「ええと、この部屋にあるはずなんだが……」
 長部は少し躊躇っていたが、ベッドの脇に置きっぱなしになっていた八敷の旅行鞄を開けて中を検める。それを横目に志摩が俺に近づいて、耳元で囁く。
「蛍はおあずけね」
「人が死んだってのに――」
「怒らないで。わたしが殺したわけじゃないんだから」
 どうだか。
「みんなを大広間に集めて。状況の説明はわたしがする」
「俺が?」
「彼にやらせたらパニックになる。あることないこと言い触らして、ね。それにこの部屋に一人で残したくない」
 ぶつくさと文句を言いながら故人の荷物を漁る長部を、志摩は背中越しに指差した。
「俺だって混乱してるんだが……」
「大丈夫。落ち着いているように見えるよ」
 色々と言いたいことはあったがぐっと堪える。長部の持ってきた懐中電灯がベッドの上に置いてあったのでそれを拝借することにする。幽霊を信じているわけではないが、死人が出た建物の真っ暗な廊下を一人で歩くのはぞっとしなかった。
 俺は懐中電灯を唯一の武器に八敷の部屋を出た。生きている四人が泊まっている部屋の方へ廊下を進む。そこでやっと、志摩が長部を一人にしなかったのは、彼が犯人である可能性を考えてのことだと思い至った。
 白く、狭い光が廊下の突き当たりまで延びている。俺の前方には、少なくとも突き当たりまでは何者もない。しかし背後はどうだろう。背筋が寒くなって振り返る。懐中電灯の光を向けても、そこには何もなかった。光を向けられるのは一方だけ。どちらを向いても背中は無防備だった。背後に迫る誰かの視線を空想しながら俺は彼女たちの部屋に急いだ。
 恐怖を紛らわせるために別のことを考える。
 八敷の死因が背中に刺さった矢だとすれば、自殺や事故という可能性は少なそうだ。やはりこの島にいる誰かが彼を殺したのだ。犯人はこの中にいる、という古くさい名探偵の台詞を思い出す。
 もちろんこの島に第三者が隠れていて、その人物が八敷を殺したということもあり得るだろう。いや、その可能性の方がずいぶんと説得力がある。俺に人殺しは無理だし、千歌流や翠や鳴雨や柚亜にだって無理だろう。志摩ならやりかねないが。一番有力な候補が長部だろうか。
 しかしもし仮に、可能と不可能をとりあえず棚に上げて、全員に殺害が可能だったとして、八敷を殺した理由は一体何だろう。
 すぐに思い至った。容疑者の顔も。
 夕方に見た光景がフラッシュバックする。
 俺はうめき声を上げた。真っ暗な廊下にそれは一段とよく響いた。
 八敷と長部が、二人で翠を犯しているところを、俺は確かに見たのである。忘れようとすればするほどに、その事実は俺の心臓を締め上げた。
 自分の周りにどす黒い何かが渦巻いているのを、意識せずにはいられなかった。
 真っ暗な廊下を俺は小走りで急いだ。

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