裁くのは彼女

第3章 メイドローキック


 零時が拘置所を訪れたのは実に二年ぶりだったが、その印象は二年前の当時と全く変わらない。ぴりぴりと張り詰めた空気、人数の割には妙に静かな構内、主導権を握り続ける刑務官。零時は警察官や刑務官といった職業の人間が苦手だった。
 自分にやましいところはないのだが、そういう職業の人間と相対すると、妙に肩肘が張って、隙を見せまいと神経を尖らせてしまうのである。警察官や刑務官、とひとくくりにしても、中には親しみやすい人間も最初から敵対的な人間もいるのだが、やはりあの制服が良くないのだろうか。
 本当なら、今日は飯山弁護士との打ち合わせが行われる予定であった。しかし昨日、飯山弁護士の方から打ち合わせをキャンセルしたいと連絡があった。仕方がないので、零時たちだけで松渕被告との面会を先に済ませることにしたのである。
 待合室で二時間も待たされた。他にも面会を待っている、おそらくは被告人の家族や友人たちが大勢いた。汗臭い建物だ。ときおり姿を見せる刑務官に零時の胃がきりきりと痛んだ。
 受付窓口で整理券を受け取り、番号が呼ばれるまではここで待っていなければならない。差し入れのための売店は盛況で、値段を見ると市場価格よりずいぶん高く設定されていたが、それでも人の列が途絶えることはなかった。
 零時が座っている椅子の後ろで穂子はずっと立っていた。否応なしに人目を引く。待たされた時間が長大で娯楽にも乏しいから、中には露骨に穂子のことを観察する人もいて零時は辟易とさせられた。
 まるで避雷針のように人々の視線を集めている。避雷針そのものは平然と立っているが、自分の方にとばっちりが飛んできそうで、できれば穂子とは距離を置いて座りたかった。
「まったく、どれだけ待たされれば良いのでしょうか」穂子は立腹しているようだが、他の面会人の視線を集めていることとは無関係らしい。「この国の人権意識はどうなっているのでしょう。せめて係員が出て待ち時間を詫びるくらいはやってもらいたいものです」
「アミューズメントパークじゃないんだから……」
「ここの職員は私たちのことを何だと思っているのでしょうか。笠木零時をこんなに待たせるなんて」
「公務員ってのはサービス業じゃないからね。自分たちが誰の金で飯を食べてるのか忘れてるんだ」
 長すぎた待ち時間のせいか、零時の口も悪くなる。普段はこういう皮肉めいた言い方はあまり好まない。
「いっそ、会社からこちらに圧力を掛けて――」
「そういうのはナシだ」零時は穏やかに穂子をたしなめる。「俺は笠木零時として探偵をやっているのであって、家は関係ない。俺は俺の力で問題を解決する」
「生まれの力も零時さんの力だと思います」
「それは俺が手に入れたものじゃないだろう?」
「分かりません」穂子は困った表情をした。「零時さんは零時さんの力を最大限に使うべきです。その力の由来が、そんなに大切なのですか?」
「それもひとつの考え方だと思う。けど俺は、そういうやり方じゃあ、自分に自信が持てないんだ」
「自信ですか?」
「誇りと言ってもいい」
「零時さんは優秀な方でいらっしゃいます」
「ありがとう」
 零時は素直に礼を述べる。自分を認めてくれるのは素直に嬉しかった。実家にいた頃は、密に群がる蟻のような、零時の出自しか見ていない大人たちがやたらめったら集まって零時のことを褒めそやしたものだ。その程度の優越感など、自分よりも遙かに優れた才能と遭遇した途端に吹き飛んでしまうのだが。
 言葉よりも体験が、零時の精神を強烈に形作っていた。探偵になってからの十年間は、自分の自信を取り戻すためだけの戦いだったと今になって思う。そんな零時の心に、穂子の世辞はアルコール中毒患者にとっての酒のように染み渡って零時を安堵させた。
「それにしても、こんなに待ち時間が長いと、裁判の打ち合わせもろくにできないのではありませんか?」
 穂子が、おそらくは彼女にとってもどうでもいいような話題を持ち出した。
「弁護人は自由に面会できるんだよ。俺たちは弁護士に雇われてるけど弁護人ではないから自由に面会はできない」
「無責任ですね」
「まったく。後で飯山さんから改めて話を聞かないと……」
 本来ならば飯山が松渕を零時に面会させるように手配するのが筋というものなのだろうが、そういった手間すらも惜しむからこそ零時のような下請けの調査員に仕事が回ってくるのである。そのことを一概に無責任、と糾弾できないような事情がこの国には蔓延しているのだ。
 処理能力の限界が近づいているのだろう。リソースは十分に存在するのに、それが適切に分配されていない。気まぐれな世論や政治家の怠慢がその理由だろうか。国の不便の理由は大体がその二つに起因している、というのが素人である零時の意見だ。
 やがて整理券の番号が呼ばれて零時は立ち上がった。受付で手続きを済ませてから検査室に入る。持ち物を預けて、ペンとメモ帳だけで面会に挑む。
 面会室はアクリル板でふたつに分かれていた。零時はパイプ椅子に座り、松渕弘が来るのをしばらく待った。零時の後ろに刑務官がひとりで立ち会っている。彼は立ったままの穂子に椅子を勧めたが、彼女はそれを澄ました態度で辞退した。刑務官の好奇心が穂子に向けられているのを感じた。
 しばらくして、アクリル板の向こうに松渕が現れた。ひどくやつれた小柄な男だった。真っ先に穂子を見て、その格好から目を離せないうちに椅子に座る。松渕が零時に視線を移すまでに、零時はたっぷりとこの男を観察することができた。
「こんにちは、松渕さん」はっきりとした発音で挨拶をする。面会の時間は五分か、長くても十分しかない。「私は笠木といいます。あなたの弁護人の飯山さんの助手を務めています」
「はあ……」
「松渕さんから事件のことを伺うためにここに来ました」
「ええ、はい。あの、弁護士さんから、話は聞いてます」
「聞きたいのはただ一点です。あなたに窃盗を指示した、赤織志摩という人物の話です」
 志摩の名前を出した途端に、ぼんやりとしていた松渕の表情が固まった。沈黙が続くとその時点で面会を中断させられる危険がある。一瞬だけ刑務官の様子を見て、すぐに視線を戻した。
「赤織志摩に命令されたんですね?」
「……はい」
「赤織志摩とはどのようにして知り合ったのですか?」
「向こうから近づいてきたんです」
「それはどのように?」
「俺が盗んだ宝石を、赤織さんが捌いてくれたんです。ある人の紹介で――」
「その人は?」
「俺がいつも使ってた質屋で、山口って人です。俺のブツは危ないから、処分できないって言われて、困ってたら……」
「それで、赤織志摩が松渕さんの宝石を買い取ったわけですね」
「はい。……そしたら代わりに、俺を雇いたいって。絶対に安全な計画だから力を貸してくれと」
「絵を偽物とすり替えましたよね。あの偽物は誰が用意したのですか?」
「赤織さんが」
「偽の絵を描いたのは赤織志摩ですか?」
「さあ……。俺は何も聞かなかったので」
「雫さんという方を知っていますか?」
「……いえ」
 松渕は首を振った。こうして気弱そうに零時の質問に答えている姿は町工場の真面目な親父にしか見えない。今回の件をさておいても、松渕はすでに窃盗の常習犯らしいから、もしかしたら逮捕される度に真摯で真面目な人間に戻っているのかもしれない。そして刑務所から出る度にその皮を脱ぎ捨てる。
「その後、赤織志摩の行方を知りませんか?」
「知りません」
「赤織志摩と話しましたか?」
「……少しだけ」
「そのときの印象を聞かせてください」
「怖い人だと思いました」
「怖い? というと?」
「こちらが何を考えて、どう行動しようと、すべて赤織さんの手の平の上で踊らされてるみたいな……。俺が考えてることなんて全部お見通しなんです。あの人と会うと、なんか、学校の先生に見られてるみたいな感じになるんです。赤織さんをがっかりさせるのがすごく怖くて……精一杯赤織さんについていこうとしてたけど、多分向こうは全部分かってるんだろうなって」
「赤織さんとはどんな話を?」
「赤織さんが質問して、俺が答える、って感じでしたけど……。あまり自分のことは話さない人でした。それで、俺が何を言っても平然としていて。――浮いてる、というか」
 浮いている。
 乖離している。
 その言葉を口の中でくり返した。
 面会の最後に、松渕は断言した。
「多分、今ここに赤織さんが来て、松渕、わたしのためにもう一度働きなさいって言われたら……多分俺は、言うとおりにすると思います。あの人のために刑務所に入るのはむしろ光栄なほどで……。だけど赤織さんは俺のことなんか何とも思ってないんでしょうね。できればもう一度会って話がしたいんですけど」



 拘置所を出てから駅に向かい、しばらく電車に揺られてから適当な場所で降りて、駅を出てすぐのところにある喫茶店に入る。本当ならばただちに事務所に戻るのがサラリーマンとしての勤めなのだが、慣れない場所に行って慣れないことをしたために精神的な疲労が溜まっていた。
 小さな喫茶店である。零時は調査の最中に一息つくために過去に何度かこの店を利用したことがある。零時はこのような場所を避難所だと認識している。仕事のストレスと不快感から逃れるためのブレークポイントだ。零時の脳内にはここだけではなく、あちこちの避難所の場所が記された地図が保存してあった。探偵の能力は二流だがサボりの能力は一流、と酒の席で自嘲気にこぼしたこともある。
 一面がガラス張りになっていて、通りを行く人の姿がよく見える。アイスティーを飲みながらぼんやりと今日の出来事を反芻していた。
「零時さん、お仕事中にこのような場所に立ち入るのは……」
「休憩は外回りの特権だよ」
 穂子は断ったのだが、それでは目立つからと零時が無理やり着席させた。零時が勝手に注文したアイスティーを不服そうな顔で飲んでいる。
「赤織志摩のことが気になりますか?」
「まあな」
「みなさん、ずいぶんと赤織さんを評価なさるんですね」
「穂子も会えばきっと変わる」
「何が変わるですって?」
「価値観が」ストローをコップから取り出し、口をつけて直接ぐいと飲み干した。「にしても、赤織志摩が泥棒になるとは……」
「阿弥陀も銭ほど光ると言いますし、どんな賢人もお金がなければただの泥棒になってしまうということですね」
「志摩の目的が金なら話は早いんだがな」
「と言いますと?」
「もし目的が金なら近いうちに盗んだ油絵を処分するはずだ。そして油絵を処分できるようなルートはそれほど多くはないし、市場に出ればすぐに分かる。絵を買うようなコレクターは、絵を所有するだけでは満足しないでそれを人に自慢したがるものだからな。それなら最悪、共犯者の存在は裏付けられる」
 目的はあくまで、松渕弘を影で操っていた黒幕の存在を裏付けることなのだ。そして松渕の無罪に関しては飯山弁護士の仕事であって、零時に責任はない。しかし仕事とは無関係に、零時は志摩の行方を突き止めなければならなかった。
 頬杖をついて、零時は志摩を捕捉する方法を考える。穂子がそれを見て言った。
「今さら赤織さんに会ってどうなさるおつもりですか?」
「気になるんだよ」
「赤織さんが堕落した理由ですか?」
「まだ黒幕が志摩だと決まったわけじゃない」穂子には零時の台詞が未練がましいものに聞こえたかもしれない。そう思って慌てて言い訳をした。「不用意に断定するべきじゃない」
「それで、零時さんはどうしてこんなところにいらっしゃるのですか?」
「考えてるんだよ。これからどうしようか……」
「赤織さんを捕まえるのでしょう?」
 それは言葉にすれば簡単だが、実行しようとすればなかなか大変な目標だった。あの雫が血眼になって探しているにもかかわらず手がかりすらつかめていない。いや、本当は志摩の尻尾くらいはつかんでいるのかもしれないが、その情報を零時の方へ流してくれるとは思えなかった。公正な取引には応じてもらえるだろうが、こちらが一方的に利用させてくれるほど簡単な相手ではない。
「最初に考えられる方法は絵が流れていないか市場を見張る方法だが、こちらはどうしても後手に回る上に手遅れになる可能性がある。少なくとも裁判が始まるまでには何かをつかんでなきゃいけない」
「現状、ただでさえ後手に回っていますからね」
 零時はうなずいた。それに零時ひとりで流通の裏も表も監視するのは難しい。零時は特別に美術品に精通しているわけではなかった。
「次に考えられるのは、松渕の周辺から探っていく方法かな。志摩はこの計画のために松渕を選んで接触した……ということは、松渕が志摩の計画に適当な人物だとあたりをつけてから接触したということだな。だとすれば、松渕のことを知る誰かが志摩にそのことを報告したわけだ。つまり松渕の周辺を探していれば、いずれ、その志摩のセンサーの役目を果たした人物にぶつかる。そいつを締め上げて志摩への糸口にする」
「なんだか警察みたいですね」
「立場は警察の方が上だけどな」
 とはいえ、こちらの線はすでに雫が当たっているだろう、と零時は考えた。松渕を警察に売ったのは、松渕には利用する価値がないと判断したためだとも考えられる。
 現状が八方塞がりであることを改めて確認して、零時はウェイターを呼んでチーズケーキを注文した。穂子が零時のことをじっと見ていたのには気づいたが、チーズケーキが来るのを楽しみに待っている振りをしてその視線を無視した。
「そうそう、さっきから気になっていたんだが」
「何ですか?」
「その服」零時が指差すと穂子は自分の服を見下ろした。「その服が目立って仕様がない。もっと普通な服じゃ駄目なのか?」
「そうですか? 普通のエプロンだと思いますけど」
「そもそもメイド自体が普通じゃない」
「そうおっしゃいましても」穂子は困った顔で言った。「わたしは制服しか持ってきておりませんし、それにこの服は機能性を重視した結果です」
「普通の服の上からエプロンつけたっていいじゃないか」
「わたしの仕事は家事だけではありませんので」
「俺の監視か?」
「失礼な。護衛です」
「女の子に護衛されるなんて、姉に知られたら笑われるよ」
「仕方ありません。これに関しては、性別の差よりも才能の差が大きいですから」
「驚いたな。昔の穂子はそんな風に自信満々に自分のことを言ったりしなかったのに」
 口ほどには驚いた様子を見せず、むしろ投げやりな感じで零時が言った。穂子は構わずに、胸を張って言った。
「わたしはそれでお給料を頂いておりますので」
「そうか。まあ、仕事に自信を持てるのは良いことだ」
 チーズケーキが運ばれてきて、零時はフォークでその解体を始めた。頭の中ではずっとあの天才を捕まえる方法を考え続けていた。彼女と過ごしたのは非常に短い時間でしかないが、その短い時間で彼が学んだことは、赤織志摩はあらゆる点において笠木零時よりも優れていて、決して抜け目がないということだった。同じスタートラインに立ったとしても勝てるとは思えないのに、今度の場合は志摩がすでに先にスタートを切っているのである。
 喫茶店でアイスティーとチーズケーキを堪能してから、零時と穂子は事務所に戻った。
 班長の多賀に調査の報告をして、今後の調査方針を決定するための班会議が行われた。基本的に、前島探偵事務所ではひとつの依頼に対して複数の人間が関わることになっている。調査というのは非常に大変な仕事で、時間と資金を投入しても確実に成果が出るとは限らない賭博のようでもある。
 赤織志摩と自分の関係については黙っていることにした。代わりに、単純な金目当ての犯行ではない可能性について示唆するに留める。志摩のキャラクターを知らない同僚たちにとっては、あまり説得力のある可能性ではないようだったが。
 会議で零時は、盗まれた絵がどこかに流れていないかを定期的に監視することと、松渕の身辺から黒幕に繋がるものがないかを調べる、という二方向からの調査を提案した。
 特に異議が出ることもなく、事務所の方針はあっさりと零時の提案通りに固まってしまった。加えて多賀は、松渕が志摩から渡された贋作の作者を捜し出すことを提案した。
「あの絵は素人がぱっと思いついて簡単に描けるような出来じゃないだろう。それなりの腕を持った画家に依頼して描かせたんじゃないかと思う」
「それなりの腕……ですか」同僚の津村がくり返した。
「それなりの腕を持っていて、贋作に手を染めるようなやつだね。金がなくて明日食べるものにも困ってるような貧乏な人。で、贋作は今回だけじゃなくて、普段から贋作を売っている可能性が高い」
「その根拠は何ですか?」零時が質問する。
「赤織志摩がそういう画家と組んで仕事をしている可能性もあるだろうけど、それよりも、自分と繋がりのない誰かに依頼して絵を描かせたって方がしっくりくるような気がするんだ、僕は。そうなるとやっぱり、これまで何度か贋作を描いたことがあるような人間に優先的に依頼すると思うんだよ。そういうことをしたことがないような潔癖な絵描きに頼んで、それで警察に届けられでもされたらたまったものじゃないしね」
 しかし会議が終わり、それぞれの仕事を始める同僚を見て、零時はこの方法では影を踏みつけることはできても決して本体には手が届かないだろうという悲観的な予想をしていた。
 同僚から回された、事件に関する雑多な書類を机の上に放り投げる。零時はやや乱暴に椅子に体を預けると、背中を伸ばして天井を見た。
 後ろに立っている穂子が見下ろしている視線とぶつかって、慌てて姿勢を正した。職場で口うるさく言わなくなったのはまだ救いがあるが、彼女の刺すような視線は十分に零時の抑止力として働いていた。
「削がれていますね」
「何が」
「労働意欲が」
「まさか。俺は仕事をすることが人生の喜びなんだ」
 戯けてそう言ったのに、穂子はくすりとも笑わなかった。
 少し後悔して、未読の資料を少しでも片付けることにした。
 事件に関する細かな説明が、複数の資料に、しかも整理されない状態で書かれていた。どうやって調べたのか見当もつかないような情報もある。同僚の誰かが警察にコネを持っていて、そこから流れた情報なのだろうか。それとも最近の警察は民間の企業にも愛想が良くなったのだろうか。
 零時はこの件に関してもっとも責任を負わなければならない立場にいた。私情が絡んでいることは否定しないが、どこかに突破口を作らなければならない。
 すでに同僚たちが手垢をつけている資料に何か重大な秘密が隠されているとは思わなかったが、何かを思いつくための時間稼ぎのつもりでしばらく読みふけっていた。考え事をするために散歩をするのと似ている気がする。資料を真面目に読んでいたのは頭脳の一割ほどでしかない。
 気がつけば、机の上にコーヒーが置かれていた。湯気が立っている。この事務所にそんなことをする献身的な同僚はいないはずだ。振り返って穂子を見ると、つんと澄ました顔で知らない振りをしていた。
「……あれ?」
「どうしました?」
「いや」資料をめくって、零時は振り返る。「盗まれた絵は、全部同じ作者の絵らしいな。せき夏彦なつひこ。今さらだが」
 というよりは、展覧会を開いた秀島が関夏彦のファンだったということなのだろう。机の上から展覧会で展示された絵のリストを探す。全体の四割ほどが関夏彦の絵だった。
 絵はすべて油絵で、小さなサイズのものが多いようだった。盗む側から見れば、サイズの小さい絵を無作為に三点盗んだとして、それがすべて同じ作者の絵になる確率はそう低いものではないだろう。
「それがどうかなさったのですか? ……というか、作者が同じことに、今まで気がつかなかったのですか?」
「そういうわけじゃないんだが。……関夏彦って名前をどこかで聞いたことがあるような気がして」
 パソコンをスタンバイ状態から回復させて、関夏彦について検索する。
 犯人はあらかじめ絵の偽物を用意して、それを本物とすり替えている。ということは事前にその三点を盗むことを事前に計画していたことになる。単純にサイズの問題と贋作を作る手間から選んだわけではなくて、その三点でなければならない理由があるのではないかと思ったのだ。
 黒幕が赤織志摩だとしたら、この事件が単純な金目当ての窃盗だとは思えないのである。
 関夏彦はすでに亡くなっているらしい。多作な作家のようだ。作品はすべて平面のものばかりで、彫刻やオートマティズムには一切手を出さなかった。
 批評家の間ではそれほど評判にはならなかったようだが、市場での絵の価格はそれなりといったところだ。油絵で風景画が中心ということだから、絵に疎い人間にも取っつきやすい面が多分にあったのだろうと、あるウェブサイトに解説が書かれていた。
 パソコンを操作して他のページを見る。関夏彦の経歴が書かれたページにぶつかる。零時はそれをぼんやりと眺めていた。
 突然あっと声を上げたので、コーヒーカップを片付けていた穂子が何事かと慌てて戻ってきた。
「どうなさいましたか?」
「いや、ちょっと……これはすごい。偶然じゃないよな」
「何ですか?」
「関夏彦の名前をどこかで聞いたことがあると思ってたら、略歴を調べててやっと分かったよ。そうか……。関夏彦ってのは、鳩山柚亜の父親なんだよ」
「鳩山……って、世良島に旅行した、あのメンバーの?」
「そうだ。思い出した。あれ、でもなんで鳩山夏彦じゃないんだろう……。ああ、なるほど。関夏彦は子供のころに両親が離婚して、名字が鳩山夏彦になったんだな。えーと、幼いころに絵を描いた記憶こそが関夏彦の原体験である――ああ、郷愁が絵のモチベーションになっているのかな。だから関の名字で活動していたのか。ということは、ええと、ちょっと待ってくれ」
 考えるのと、穂子に説明するのとを同時にやろうとして、零時はにわか両方の機能を停止させてしまった。混乱していた。この手綱を放してしまえば、今後二度と赤織志摩に近づくことはできないだろうという確信があった。
 自分を落ち着かせるために煙草を吸おうとしてポケットをまさぐる。職場が禁煙であることを思い出して席を立とうとした。そしてポケットに煙草がないことが分かり、煙草を切らしていたことを思い出した。零時は自分が禁煙していたことを思い出す。禁煙してかれこれ五年になる。煙草を吸い始めたのは六年前だから、一年間しか煙草を吸っていないのだ。喫煙者失格だと零時は思った。
 両肘を机の上について、祈るように手を合わせた。会わせた手の上に顎を載せて、目をつむった。
 今は亡き鳩山柚亜の父親の絵を、赤織志摩が盗んでいる。それは事実だ。
 では赤織志摩はどうしてそんなことをしたのだろう。盗まれた絵は三点。関夏彦の絵は他にもたくさんあったのにそちらには目もくれなかった。しかも関夏彦の絵を持っているのは秀島純一だけではない。
 ということはやはり、関夏彦の絵であれば何でも良いということではなくて、志摩はあの三枚の絵こそが目的だったのだ。
 天敵を見つけて突如走り出す兎のような機敏な動きで、零時は机の上の資料をひっくり返した。何枚もめくって、盗まれた絵に関する書類を見つけ出す。机の上の乱雑な様子が気に食わないのか、穂子の眉がわずかにつり上がった。
 絵は三点とも油絵。サイズはかなり小さい。どれも零時が知っている情報ばかりだった。零時が知りたいのは、この絵がどのような経緯で秀島の手元に入ってきたかということだった。
「多賀さん!」
 立ち上がって、パーティションの向こうにいる多賀を呼びつけた。立場も年齢も下であるはずの零時に呼び出されて、苦笑しながらも仕事の手を止めて零時のデスクに駆け寄ってきた。
「どうしたんだい? 突然神の啓示でも降りたのかな?」
「今はそれに近い状態です」
 真面目な顔でそう言うと、多賀は声を出して短く笑う。
「それで。もしかしてそれを報告するためにわざわざ呼んでくれたのかな?」
「盗まれた絵のことについて聞きたいんですけど」
「たしかまとめて報告書を渡したと思うんだけど」
「あれでは不足です。あの絵が秀島純一の手に渡った経緯が知りたいのですが。その、誰から買い取ったのか、とか」
「そこまではまだ誰も調べていないと思うけど……」多賀は考えるような仕草をしてから言った。「もしそれが必要なら自力で調べなきゃね」
「分かりました。調べます」
「それ、必要なことなの?」
「……それは」断言はできなかった。「おそらくそうです」
「探偵の勘というやつかな」
「違います」
「……ただでさえ人手が足りないんだ。そういう根拠のないことに手間をかけるわけにはいかないんだよ」
「分かってます。俺が時間を見つけてやりますから」
「何か変わったね、きみ。急に労働意欲に目覚めたみたい」
「前からがんばって働いてたと思うんですが」
 多賀は沈黙した。頭をかいて、零時から目をそらす。しばらくフロアを見回したかと思うと、再び零時に向き直る。
「わかった。面倒なことはこちらでやっておくから、きみは好きなように調べればいい」
「すみません」
「最後に花を持たせてあげたんだよ。それに、きみの仕事は向井くんに回すから」
 向井はただでさえ仕事が手一杯で、だからこそ零時にこの一件を回してきたというのに。後で向井に謝らなければならないと零時は思った。そのときにどんな嫌みを言われるかと思うとすでに頭が痛かった。



 今日一日の調査を報告書にまとめて、この日の零時の仕事は終わった。
 夜の八時ごろに事務所を出る。普段と比べてかなり早い時刻だ。仕事の具合によっては帰宅が翌日になることも珍しくない。
 穂子と二人で連れ立って歩き、いつもより賑やかな夜の街を横目に見る。
 服屋のショーウィンドウに零時たちの姿が反射して映った。スーツ姿の自分は見慣れた映像だったが、その背後にメイド服の女性が立っているのは、こうして絵だけを見ているとまるで心霊写真のように場違いだ。
 零時が急に足を止めたので、背中に穂子がぶつかりそうになった。
「どうなさいましたか?」
「せっかく早く帰れたんだ。穂子の服を買いに行こう」
「わたしはこれで満足しておりますが」
「俺が不満なの。そんな目立つ格好じゃ尾行もできない」
 穂子は自身の服を改めて足下から見直した。彼女が他人の目についてどのように考えていようとそれは自由なのだが、あまりに人の記憶に残りやすい格好は調査の上で大きな障害になる。
 そういう理屈は説明せずとも理解しているらしく、いつものように必要以上に零時の申し出を断るようなことはなかった。穂子の肩を押すようにして目の前の服屋に入る。
 どうやら女性用の服ばかりを扱っている店のようで、穂子に着せる服を探すために零時が店内を練り歩く必要はなかった。どの棚に目をやっても、サイズと趣味の問題を除けばどれも穂子が着るのに十分なデザインと機能性を持った服ばかりがそろっている。流行り物の派手な服ばかりをそろえたミーハーな店ではないのだ。
「ほら、好きなのを選びなさい」
 などと、まるで孫の買い物に付き合う祖父のような口調で零時は言った。
 穂子はこういった場所にはあまり慣れていないらしく、言われたとおりに服を物色しながらもしきりに店内に視線を走らせていた。
「穂子はどういう服が好きなんだ?」
 沈黙を嫌って話しかける。ただそれだけのことが妙に緊張してしまった。
「その……服が好悪の対象になるようなことがありませんでしたので」
「普段はどんな服を?」
「いつもこの制服を着ております」
「違うよ。休みの日とか」
「そうですね……ジャージとか」
 ジャージ姿の穂子を想像してみた。いかに服の影響が大きくても、それだけで彼女の魅力が大きく損なわれることはないだろうが、零時は頭の中に浮かんだ不一致な穂子の姿に目眩がしそうだった。
「というか、休みの日は何をしてるんだ?」
「ロードワークですね」
「体鍛えてるんだ」
「……セクハラ」
 穂子が小さく抗議して、零時から距離を取る。それは心外だと零時は思った。
「運動好きなの?」
「体が鈍ると取り戻すのに時間がかかってしまいますから。それでは旦那さまをお守りできません」
「仕事熱心なんだね」
「仕事ですから、熱心なんです」
「名言だな。……この服は?」
 ハンガーに掛かったワンピースを一着手に取り、穂子に見せる。穂子は二秒ほどワンピースを検分して、ハンガーをすぐに戻した。
「気に入らない? こういうガーリーなデザインは穂子によく合うと思うけど」
「わたしには、こういうのはちょっと。もう三十ですから……」
「穂子なら十七でも通るさ」
「セーラー服でも買いますか?」
「それならまだメイド服の方が目立たない」
「あの、メイド服は正式な名称ではありません。これはメイドの仕事着か、もしくはエプロンドレスですから。そういう言い方ですと、まるで――」
「まるで?」
「……いえ、なんでもありません。お好きなようにお呼びください」
 穂子は口を閉ざしてしまった。
 メイド服と呼んでしまうと、まるでコスプレをしているみたいになってしまうのが気になるのだろうか。装飾的な意味ではなく、あくまで機能として制服を着ている穂子にとってその呼び方は屈辱なのだろう。単に、言葉に厳格なだけだという可能性もある。
 最初の店で数十分ほど時間を潰し、結局穂子の好みに合うものがなくて店を出た。
「あの、すみません。わたしが目立たない服を持ってきていれば……」
「別に良いよ。おかげでこうして穂子とデートできたわけだし」
「ギリースーツでよければすぐに取り寄せますが」
「それはやめてくれ」
「そうですよね。街で隠れるなら都市迷彩です」
 店を出てから大通りを下る。穂子はいつも零時の半歩後ろを歩いている。大英帝国の貴族にでもなったような気分だと、零時は思った。大通りに並んでいる電灯はガス灯だ。道を走る自動車は馬車で、自分は燕尾服とステッキを持っている。そんな子供っぽい妄想をしてから、零時はすぐに自分が恥ずかしくなった。
「うーん、さっきの店、色々と良い服はあったんだけどな。値段も相応だったし。穂子はもっとマニッシュな感じの服の方がいいのかな」
「零時さんは女性の服にお詳しいのですね」
「別にそんなことはないけど」
「きっと何人もの女性の服を選んでいらっしゃるのでしょうね」
「それじゃ、他の店に行ってみるか」
 零時がそう言うと、穂子は静かに頭を垂れる。
 自分が主で、穂子が従である。実際の所はどうなのだろうと思った。地位や生まれや職業を抜きにした、笠木零時と壬生穂子は、一体どちらが優れた人間なのだろう。
 考えるまでもないと思った。もし自分が笠木家に生まれなかったら、穂子はこうも零時のことを敬ったりしないだろうし、決して付き従ってもくれないだろう。
 それを思うと、こうして二人で夜の街を歩いているのが非常に脆くて希薄なもののように思えてきた。何か一つでも違えれば、それだけで壊れてしまうような危ういバランスの上に今が成り立っているのだ。
「そういえば穂子、昔――」
 穂子に話しかけようとして振り返ると、そこにいたはずの彼女の姿がなかった。が、視線を少しだけ動かすと、衣類専門店の前で足を止めている穂子の姿がすぐに見つかった。
「どうした。ここがいいのか?」
「はい。あの、よろしいでしょうか」
「別にいいんだが……。でも、これ」
 紳士服の専門店である。背広や礼服をメインに扱っているはずだ。
 穂子が先に店に入り、零時がその後に続いた。
 結局、穂子はその店でブラウスとレディススーツを一着選んだ。会計は零時がクレジットカードで支払った。決して安くはない出費だったが、探偵を辞めて実家に戻ればもはや生活費に苦心することもなくなるのだ。
 零時の半歩後ろに、大切そうに袋を抱えた穂子が歩いている。荷物は自分が持つと申し出た零時だったが、メイドが主人に荷物を持たせるわけにはまいりません、とすげなく断わられてしまう。
「にしても、スーツか……」
「気が引き締まります」
「動きにくくないか?」
「ですが、一番目立たない格好だと思います」
 零時は自分の背広を見た。確かに、そばにずっとくっついているのならば服を合わせる方が違和感はなくなるだろう。
「帰り、どこかで飯を食べてくか」
「わたしがお作りしますけど」
「いいんだよ。今日くらいは楽しても」
 穂子は大人しく頷いた。
 零時の知っているレストランを見つけて中に入る。零時はこの店にある、和風ステーキと銘打たれたメニューが好きだった。鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てている焼きたての牛肉を、ポン酢の付けだれに落として食べる料理である。
 店内は照明が暗めに設定してあり、壁やテーブルなどの木材もすべて黒っぽい色で統一されていた。ここが洞窟で、テーブルの上に吊されている照明はまるでランタンの光のようである。暗い場所は本当なら人間にとって危険な場所であるはずなのに、こうした洞窟のイメージに妙な安らぎを感じるのはなぜだろうか。
 四人がけのテーブルについて、向かい合って座る。いつもはもっと混雑しているのだが、今日は幸運にもすんなりと席に着くことができた。
「穂子は嫌いなものある?」
「零時さんは椎茸がお嫌いでしたね」
「ああ。あれは克服した」
「そうなんですか」口元に手を当てて、驚いたように穂子。「あんなに嫌っていらっしゃったのに」
「だから昨日の茶碗蒸しは椎茸が入ってなかったのか」
「すみません、余計な気を利かせてしまって……」
「いや、別にそれでもいいよ。苦手は克服したけど、特別好きになったってわけじゃないし……。不思議だよな、歳を取るだけで、好き嫌いが変わるなんて」
「最後にお会いしたのは、零時さんが大学に通われていたときでしたよね」
 穂子が高校を卒業して、彼女の母と同じように笠木家に使用人として就職したのだ。あのときのことは覚えている。世良島での出来事が脳裏にまだ鮮明に焼き付いていて、志摩に捨てられた傷が完全に癒える前のころだった。
 そうだ。穂子との出会いは笠木の屋敷で、セーラー服の彼女が自分の職場となる場所に初めて訪れたときのことだ。最初に声を掛けたのはどちらだろう。記憶にはなかったが、当時の自分たちの状況を考えると、零時の方から声を掛けるのが自然な流れのように思えた。
 店員がやってきて、零時たちに注文を尋ねる。零時は定食のステーキセットにビール。穂子はレディースセットとアイスティーを注文した。
「きっと、鈍感になっているのでしょう」
 穂子が突然そう言ったので零時は一瞬戸惑ったが、すぐに自分の椎茸嫌いについてのコメントだと分かった。
「子供のころは飲めなかったビールが、今はおいしく飲めるのと同じように」
「退化しているんだ」
「鈍化することが一概に悪いことだとは思いません」淑女のような穏やかな口調。「過敏すぎるのも考えものです。昔、牙が大きすぎて絶滅した生き物がいたでしょう。えーっと……」
「サーベルタイガー」
「強力すぎる能力を持つと、周辺への適応ができなくなるのではないでしょうか。人間が苦い物を嫌うのは、苦い物には毒が含まれていたり食べられないものである可能性が高いからだと聞いたことがあります。ですけど、苦くても体に良いものはたくさんありますし、そういうものはどんどん食べなければいけません」
「子供の好き嫌いが激しいのは、何が体に良くて、何が体に悪いのかを本能で選別しているからじゃないかな。それが大人になると、そういうリミッターが外れて、逆に知識と経験で判断して、自分の食べるものを決めるようになる」
「面白いお話ですね」
「……大人になってから、好き嫌いがずいぶん少なくなったような気がするな。嫌いなものがなくなったのはありがたいが、好きなものもなくなったのは味気ない」
「零時さんは、逆に、好きではなくなったものってありますか?」
「肉料理かな。嫌いじゃないが、昔ほどわくわくとはしなくなった」
「この店に連れてきて言う台詞じゃありませんね」
 ステーキの店で肉料理が好きではないと言う。その場違いが面白くて、零時は頬を緩めた。穂子は笑わなかった。
 何かを好きになる、ということはとてもエネルギーを使うことなのだ。逆に嫌いになることも。それは方向が違うだけで、何かに強く心を揺さぶられ、何かに対して強く思う――好んだり、嫌ったりすることなのだ。
「鈍感だということはとても合理的なんだと思うんです。子供のころのように、心が敏感なままでは、わたしたちは傷つきすぎてしまいます。それではいつまでも傷が癒えません」
「でもそれじゃ、誰かを愛することはできない」
「その台詞は良いですね。素敵です」
「どのあたりが?」
「自分を棚に上げているところが、です」
 先にビールとアイスティーが運ばれてきた。グラスを半分ほど飲み干すと、いつもより苦いような気がして零時は顔をしかめた。
「赤織志摩さんも、頭が良すぎたのですね」
 唐突に志摩の名前が出てきて零時はぎょっとした。一瞬で、心地の良い退廃的な世界からくっきりとした現実世界に引き戻されたような気分だった。突然冷水をかけられたらこんな気分になるのだろう。
「志摩の不幸は知能が高すぎたからだと?」
「わたしはそう思います。もし赤織さんがもっと低脳な方だったら、今度のような事件は起こせなかったと思います」
「それは違うな。第一に、志摩が何に幸せを感じるのかを、俺たちが勝手に決めることはできない。第二に、俺たちは志摩が現在どこでどんな状況にあるかを知らない。第三に、知能の高さと性格の悪さは別の問題だ」
「性格、悪かったんですか?」
「少なくとも俺には意地が悪かったね。世良島に旅行している間中、ずっといじめられていたよ」
「ああ、あの、零時さん」穂子は自分のこめかみに手を当てた。「わたし、面白いことを発見してしまいました。聞いてくださいますか?」
「もちろん」
「わたし、零時さんが赤織さんのことを話すと、とっても不愉快になるみたいです」
「志摩の話題を出したのはきみだよ」
「すみません、わたしもお酒を頼んでいいですか?」
 零時は笑ってから、店員を呼ぶためのボタンを押した。店員がやって来ると、穂子は芋焼酎の水割りを注文した。
 トレイに乗った定食が零時たちのテーブルに運ばれる。小さな鉄板の上で赤色の残った牛肉が激しい音を上げていた。
 二人はまるで葬式の最中みたいな静けさで食事を進めた。向かい合って座っている二人の間に見えない壁があって、零時と穂子は別々に食事を取っているようだった。
 しかし零時は食事をしている最中も頻繁に穂子の方を盗み見て、そのうちの何度かは穂子の方も零時のことを見ていて、目が合うと彼女は慌てて自分の料理に視線を戻した。
 食事が終わってからも、二人の間にはずっと気まずい空気が流れていた。いずれはその話題について触れなければならないのに、自分から切り出すのが嫌で、お互いにその役割を押しつけ合っているのである。
 会計を済ませて店を出たところで、とうとう零時の方が先に折れた。いつもは零時が競り勝つのに、今日に限って、忍耐強いのは穂子の方だった。
「俺は今でも穂子のことが好きだよ」
「では、どうしてわたしを捨てたのですか?」
「捨てたわけじゃない。そもそも俺のものじゃなかったから」
「零時さんは赤織さんのものでしたからね」
「否定はしない」
 穂子が零時の足を蹴った。体を鍛えているのは本当らしい。女性の仕事とは思えない、体重の乗ったローキックだった。
 痛みを堪えられなくて、零時は歩きながらすねを手でさすった。穂子は拗ねたようにそっぽを向く。
「……それで許してあげます」
 隣を歩いている穂子は、こちらを見ないようにして言った。

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