裁くのは彼女

第2章 孤島と少女たち

 フェリーの通路で手すりにもたれながら、俺はずっと水平線を見つめていた。別に船酔いをしたわけじゃない。海の香りを嗅ぎながら、海の音を聴き、海の青を見る。これ以上に海を堪能する方法を俺は知らなかった。
 完璧すぎて、作り物にすら見える青い空と白い雲が広がっている。太陽の光が強すぎて目を開くのが辛かった。潮風を五感すべてで感じるのが面白くて、なかなか船内に戻る気にはなれなかった。
「サギちゃーん、どこー?」
 波の音に紛れ込んで、幼い女の声が聞こえた。俺はそちらに振り向いて片手を挙げる。角度によっては敬礼に見えるかもしれない。実際、俺の心境は上官に敬礼する兵士のそれに近いものがあった。
「サギちゃん、こんなところで何やってるの?」
 赤織志摩が俺に近づきながら言った。サギちゃん、というのは志摩が好んで使う俺の愛称だった。そもそも俺のことをサギちゃん、などと呼ぶのは志摩だけだ。
「サギちゃん、聞いてる?」
「……聞いてるよ」
「ねえ、みんなのところには行かないの?」
「別にいいだろ。知らないやつらばかりなんだし」志摩よりも海を見た。「一人にさせてくれ」
「孤独が好きなのね」
「別にそういうわけじゃ……。ただ、馴染めないと嫌な感じだろう?」
「どうして?」
「どうして、って……」ほら始まった、と俺は思った。「居心地が悪いだろ? みんな仲良く話しているのに、俺だけ会話に混ざれなくて、一人でいるのって」
「ふうん。その感覚、わたしには分からないわ。場の雰囲気とか、他者の繋がりの存在があなたの精神に影響を与えるのね。もしかしてそれは、無意識のうちに他者の持つネットワークと自分のネットワークを比較しているのかな。知らない人たちがネットワークを築いていても、自分も別のネットワークに所属していれば、居心地の悪さは感じないのだろうし」
 志摩は真面目な顔でそう言った。俺は皮肉のひとつでも言ってやりたかったが、悪意や罪悪感のない人間に何を言っても効果はないだろう。それでも言えばいくらか気が紛れたかもしれないが、志摩が以前俺に話した『自身に対しての閉鎖的なコミュニケーション』を実行する気にはなれなかった。
 代わりに当たり障りのない受け答えをする。
「志摩にはそういう経験はないのか? その、たとえば自分がその場にいることが耐えられなかったり」
「場の雰囲気というものは、つまりただの文脈でしかないのよ。それを解釈しているのはわたし。わたしが生み出したものなのだから、わたしがそれに支配されることはあり得ないわね」
「そんなふうに割り切れたら幸せなんだが」
 その一言は余計だったらしく、志摩は途端に俺に対する興味を失って、会話よりも海の波を観察することを優先した。そう、それでいい。人間ひとりの相手をするよりも、大自然の美しさにただ見とれる方が健全だ。
 志摩の横顔を見る。外見だけを見れば、彼女はごく普通のどこにでもいる少女にしか見えない。肉体は精神を入れる箱にしか過ぎない、という志摩の主張は、彼女自身が何よりの物証になっていた。
 半袖の白いパーカーの下にはストライプのシャツが覗いている。靴は買ったばかりのスニーカーで、服だけを見れば男に見えなくもない。最近髪の毛を伸ばし始めたらしく、ショートカットとセミロングの中間にあたる微妙な長さになっていた。
「サギちゃんのその服、似合ってるよ」
「志摩のは男みたいだ」
「ふふふっ。わたしが選んであげたんだから、感謝しなさいよ」
「うるさい」
「きっと服は記号なのよ」志摩はつぶやいた。「服を着ているのではなくて、服の持つ意味を着ている。本当なら人間は服を着る必要なんてないの」
「じゃあ今すぐ裸になれよ」
「二人っきりならね」
 その言葉に思わずどきりとした。すぐに、そんな自分が嫌になる。俺の中には俺自身でコントロールできない部分が多すぎる。志摩には俺みたいな自己嫌悪がないんだろうな、と思った。
 志摩は黙って、俺の反応を待っている。どう答えても自分の敗北は必至だった。進めど戻れど取り返しがつかない。その覚悟が俺にはまだ足りなかった。
「……その、サギちゃんって呼び方、やめろよ」
 多分、志摩を失望させる返答だったと思う。安易に逃げるくらいなら下手を打って墓穴を掘った方がマシだった。
 しかし俺がつまらない人間であることなどすでに承知しているらしく、志摩は特別に失望した素振りも見せなかった。そのことがさらに俺のプライドを傷つけた。俺がつまらない人間であることなど、俺はずっと前から承知しているはずなのに。
「サギちゃんて呼び方、嫌い?」
「別に嫌いってわけじゃないけど……」
「じゃあ何て呼べばいい? 『零時くん』? でもサギちゃん、『零時くん』って感じじゃないし、やっぱりサギちゃんは『サギちゃん』じゃないかな」
「論理的じゃないな」
「サギちゃんもわたしのことをオリちゃんって呼べばいいのに」志摩はくすりと笑った。「呼び方なんて人の自由よ」
 俺は笑わなかった。どうせ、すべては志摩の意志が優先される。自分の好悪を貫き通せるとは思えない。
 志摩は手摺りから離れた。
「サギちゃん、そろそろ戻らない? 部屋決めのくじ引きがあるよ」
「分かった。すぐに行く」
 志摩は大人しく船室に戻った。くじ引きをさぼってずっとここで海を見ているのも一つの手だと思った。しかしそんなことをすると、あとで志摩に何を言われるか分かったものではない。何か言われるだけならまだいいが、何も言われないのが一番こたえる。
 一時の別れだと、海の色を強く目に焼き付けて、俺も手摺りを離れた。



 ドアを開けて部屋に入った途端、みんなの視線が俺に突き刺さった。しかしそれは一瞬で、すぐに何事もなかったかのようにトランプでの遊びを続行した。みんな俺のことには興味がないらしい。床にトランプを並べ、それを囲んで四人が座っていた。
 部屋の入り口に靴を脱ぐスペースがあり、みんなの靴の横に俺が脱いだサンダルを並べる。床にはクリーム色のカーペットが敷かれていて、部屋にはソファや、背の低い本棚、木のテーブルがあった。
 志摩はみんなが遊んでいるのを離れた場所からひとりで見ていた。手には文庫本を持っていて、トランプ遊びと本のページを一定時間ごとに交互に見ている。
 志摩がひとりだけトランプに参加しないのは、彼女がトランプでのゲームにやたらと強いからだ。一番強いのは神経衰弱で、ほんの数巡もすればあらかたカードを取り尽くしてしまう。ばば抜きや大富豪などの運が絡むゲームではまだ負けることもあるが、それでも勝率が高いことには変わりなく、自粛ということで本人はその手のゲームに参加することを嫌がる。単に運次第で負けるのが嫌なのかもしれないが。
 俺も志摩に倣って――と言っても理由と立場は大分違うが、四人の天才少女たちを眺めることにした。
 眼鏡をかけた三つ編みの少女が、ちらちらとこちらを気にしていた。名前はたしか桜宮さくらみやみどりといったはずだ。白いワンピースと、頭には電灯の傘みたいな帽子を被って、俺のことが怖いのか目が合うとすぐに引っ込んだ。
 そのことに気づいて、俺のことを睨んできたショートカットの日に焼けた少女が、善条寺ぜんじょうじ千歌流ちかる。翠を庇うように、彼女を自分の背中に隠した。俺は自分の無害さをアピールしようと、わざと二人から視線を外した。
 翠と千歌流は共にヴァイオリニストだ。腕前はすでに一流で、翠の方はどこかの国のコンテストの、史上最年少の優勝者だという。彼女たちはずいぶんと仲が良いみたいで、二人だけで喋っている姿を船内で何度も見かけていた。
「あーもう。やめやめ。あたしセブンブリッジって好きじゃないし」
 手札をカーペットに叩き付け、両腕両足を伸ばして仰向けに寝そべったのは鳩山はとやま柚亜ゆあ。本当にセブンブリッジに飽きたわけではなく、負けが込んでいたのでゲームに嫌気がさしたのだろう。仰向けになった瞬間、スカートの中身が見えそうになったが、本人はそんなことには全く頓着していないらしい。俺はさらに目を逸らした。
「もう! さっきからそうやって負けそうになる度にゲーム変えてんじゃん!」千歌流が抗議の声を上げる。「いい加減に負けを認めろよ!」
「ふん。こんなくだらないゲームに夢中になっちゃって、恥ずかしくないの? あたしはこんな遊びをするよりも絵を描いてた方が楽しいね」
 柚亜は画家の両親の元で、今までずっと絵の英才教育を受けて育ってきたのだ。その成果として、彼女の描いた絵はいつもオークションでは高値で落札されているらしい。
 しかし柚亜の言葉を、千歌流は鼻で笑った。
「あんなわけ分かんない絵に何万円も出すやつの気がしれないよ。もしボクなら引取料を請求するね」
「あんたのヴァイオリンよりはマシよ。何あれ、キーキーうるさくて、素人のあたしが聞いても下手だって分かるわ」
「ボクの演奏は最低限のセンスがないと理解できないんだよ」
「あたしにセンスがないって言いたいわけ?」
「……あの、二人とも……や、やめようよ。ね? け、喧嘩、良くないよ」
 二人の言い争いに、翠のか細い声が混ざった。びくびくと怯えながらもふたりの間に割って入る。喧嘩の気配を感じてすでに涙目になっていた。
「翠は黙ってて。こいつ、いつもボクに喧嘩売ってきて、一度ケリをつけてやらないと」
「あんたは黙ってあたしのものを買っていればいいのよ。あたしはあんたのものにびた一文払う気はないけど」
「なんだと!」
「世の中には二種類の人間がいるんだよ。価値を生み出す者と、それを消費する者。あんたは後者ね。誰かが生み出した価値を、ひたすら消費していればいいのよ」
「それ以上言うと殴るぞ」
「あらやだ、口で敵わなければ手を出すなんて、野蛮ね!」
「あの……姫塚ひめづかさんも、言ってよ。け、喧嘩なんて駄目だって……」
 姫塚鳴雨なりうは、二人が言い争っている間もずっと黙ったまま、手の中でカードを弄んでいた。その手さばきはなかなかのもので、指の上でカードが行ったり来たりをくり返していた。
 鳴雨は億劫そうに顔を上げ、耳に掛かった長くて黒い、艶やかな髪の毛を左手で掻き上げた。柚亜のことをじっと見つめる。
「な、何よ。何か言いたいことがあるなら言いなさいよ」
「さっき、言った」
 抑揚のない声で、変化の乏しい表情だった。まるで魂が入っていないように見える。
「何を?」
「人間には二種類いるって。価値を生み出す者、価値を消費する者……。たぶん、私も後者」
「え?」
「私は何も生み出さないし。柚亜とは違う。ただ消費するだけしか脳がない」
「そ、そんなことないじゃない。だって鳴雨の棋譜、すごく芸術的だし、それに」
 柚亜は慌てて言い訳を口にした。しかしそのすべてを、鳴雨はゆるゆると首を振って否定する。
「価値を消費するだけの人間に、価値はないのか?」
「違う、あたし、そんな、そんなつもりで言ったんじゃ――」今度は柚亜の方が泣きそうになった。「ごめん、違うの、千歌流が突っかかってくるから」
「最初に喧嘩売ったのはそっちだろ!」
 柚亜の言葉に千歌流が怒鳴ったが、翠がなだめるとそれ以上は何も言わなくなった。かなり不満そうに、唇を尖らせていたが。
「大丈夫、気にしてないから」
「ごめん、鳴雨」
「別にいい」彼女は千歌流の方を向いた。「だから千歌流も水に流す」
「土下座したら許してやるよ」
「千歌流」
 静かに、鳴雨の声が名前を呼んだ。
「……分かったよ。今度だけは流す。これ以上やると詰まりそうだけどね」
 千歌流は両手を上げて、降参のジェスチャーをした。
 場が収まったのを確認して、鳴雨はカーペットに散らばったみんなの手札を集め始めた。ひとつの山札にまとめて、慣れた手つきでそれをシャッフルする。
 その手が止まって、目が俺の方を向いた。
「……きみも混ざればいいと思う」
 テレビでドラマを見ていたら、そこに出演している役者から突然声をかけられたみたいな気分になった。俺は今の今まで、自分がこの場に存在していることをすっかり忘却していたのだ。
 志摩の方を見ると、にっこりと笑って俺に許可を出した。志摩にそんなつもりはなくても、それは限りなく命令に近い許可だった。
 俺はしぶしぶと、彼女たちの輪の中に混ざる。千歌流と翠の間に入ろうとしたら睨まれた。鳴雨が手招きして、その隣に入れてもらうことになった。逆側に座っている柚亜はずいぶんと大人しくなってしまった。
「次は何やる? ボクはあんまり頭使わないゲームがいいな」
「じゃあ神経衰弱で」
「めっちゃ使うじゃん!」
 俺が適当に答えると、間髪入れずに千歌流が突っ込んだ。
「じゃあ大富豪、とか」
「えー。あれも色々考えなきゃいけないし」
「スピード」
「ルール知らない」
「じゃあ何がやりたいんだ?」
「んーと、トランプ投げて、的に刺す遊び」
「分かった。きみはトランプに向いてないな」
 失礼な! と千歌流が憤慨した。彼女の反応が面白くて、ついついからかってしまった。俺は初めての人間とすぐに打ち解けられるようなタイプではないのだが、その俺とですら千歌流は気軽に軽口を叩き合えるらしい。
「でもいいじゃん、トランプ投げ。本当はダーツとかやりたいけど」
「ダーツ好きなのか?」
「好き! あ、いや、好きじゃないかも」
「どっちだよ」
「本当は海で泳ぎたい」千歌流は人なつっこい笑顔を浮かべた。「さっき海に飛び込もうとしたら、翠に止められた」
「だ、だめだよ。服が、びしょびしょになっちゃうし、風邪引いて肺炎になっちゃうかも……」
「でもいいな、海」俺も悪のりする。「一緒に飛び込もうぜ。それで島まで競争だ」
「お、いいね。ボク、泳ぎは得意だよ」
「こっちはすぐ船に戻るけどな。それで船長に言ってスピード上げてもらう」
「ズルじゃん」
「ふ、二人ともやらないでよ」
 翠がおどおどしながらも真面目くさった説教をするので、俺も千歌流も、揃って笑いを堪えていた。そのやりとりを見て、柚亜も持ち直したらしい。「馬鹿らしい」と小さく言いながらも、目元はしっかりと笑っていた。
「どちらにしても、カード投げは駄目だよ。カードが傷つく」
 さっきからトランプを切ることに専念していた鳴雨が、誰よりも冷静な声で言った。念のため言っておくけど、と注釈付きで。
 千歌流は俺の方を見る。さっきよりもずいぶんと距離が近くなっていた。
「お前、面白いやつだな。サギちゃん、って言ったっけ」
「そう呼ぶのはきみが二人目だ」
「ふーん。今度特別にボクの演奏を聴かせてあげるよ」
「いいけど……ヴァイオリンなんて分かんないぞ?」
「いいんだよ。分かる人にしか分からない芸術なんて、それはただの自己満だよ」
「あ、それ、反対」柚亜が声を上げた。「みんなが分かる芸術なんて、そんなの芸術じゃない」
「でもみんなに分かってもらえないとどうしようもないじゃん」千歌流が反論する。「ボクがいくら必死にヴァイオリンを弾いても、それがヴァイオリンだって分からないと、ただの音だよ」
「でもそれじゃ、みんなが好きなもの――例えば今流行ってる音楽とか、そういうのも芸術なわけ?」
「うーん、それは分かんないけど」千歌流は腕を組む。「でもさ、褒めてもらえないと食べていけないし。変な演奏したら先生も怒るし」
「木野先生は怒ったりしないよ」
 翠が小さな可愛い声で言う。アニメキャラクターみたいな声だなあと思った。
 千歌流はかぶりを振って、
「ぜんぜん。あの人すっごく厳しいじゃん」
「そうかなあ……」
「翠はうまいからね、演奏」
「千歌流ちゃんも上手だよ」
「あは、ありがと」
 はにかみながら千歌流は礼を言った。柚亜は、芸術についての議論が宙ぶらりんのまま終わってしまったので、ずいぶんともどかしそうだった。
「芸術とエンターテイメントの違いは何かしら?」
 と、突然志摩が言った。みんなの視線は志摩に集まる。それを気にせずに、本を読みながら続ける。
「それは理解されるために生まれたか否か、ということだと思うの。工業製品として作られた絵、音楽、文学は、利益を生まなければならない。もちろん、芸術品だって利益を生むし、それを糧に生きている人たちも大勢いるわ。だけどね、エンターテイメントはそれ単体では完結しないの。その作品そのものが、ユーザーの視線を考慮して作られている。作品の外部にあるものが混ざっているの。それに比べて芸術品は他者の理解をそれほど必要としない。芸術はそれだけで完結している。そこにあるのは作者の込めた情念や意味……。だから芸術は美しいのね。突き抜けていて無駄がないから」
 だけど――と、志摩は一度言葉を切った。
「だけど、芸術家として生きていくためにはそうも言っていられない。誰にもその価値を理解されないものと、本当に価値がないものを区別する手段は? そもそも価値とは何? それは人間が決めることよ。だとしたら、誰にも価値を認められないものとは、それだけで矛盾する存在ね。誰も認めていないのなら、価値なんて存在しないのだから」
「あの、志摩?」千歌流が戸惑ったように声をかける。「それで、結局答えは?」
「答えはまだないわ。それは人類が言葉を発明する以前から取り組んできた課題だから。千歌流ちゃんがその答えを見つけられるといいわね」
 志摩がにっこり笑うと、千歌流はきょとんとした顔をしてから、無理やり愛想笑いを浮かべた。この子、志摩の話をあまり理解できていないような気がする。
 柚亜は真剣な顔で志摩の話を聞いていた。素直に受け入れているわけじゃなさそうだ。むしろ切り込む隙を探しているみたいに。結果的に千歌流との議論をさらわれてしまったのが気に食わないのだろうか。
「そうだ。くじ引き」鳴雨が唐突に言う。「部屋のくじ引きを忘れていた」
「あー。そういえば忘れてたね」
「別にくじ引きなんかしなくても、好きな部屋を使えばいいんじゃないの?」
 と柚亜。鳴雨はかぶりを振って、
「それじゃ、面白くない」
「あたしは別に面白くなくてもいいよ」
「駄目。それじゃあ、いつもと同じになる。たまにはシャッフルしないと」
「ボクも必要ないと思うな」
「あんたは翠の隣に行きたいだけでしょ」
「ふふん、ボクはいつも翠と一緒だからね。うらやましいでしょ?」
 千歌流が開き直ると、柚亜はそれを鼻の先であしらった。
「わ、わたしも、くじ引きは、嫌かも」
「ほら、翠もこう言ってるし」
「別にみんなと一緒なのはいいけど……その、八敷さんとかも、いるし、わたし……」
 どんどんボリュームが小さくなっていき、最後の方はまったく聞き取れなくなってしまった。
 八敷やしき政孝まさたか長部おさべ勇平ゆうへいは赤織家に雇われてこの旅行に同行している保護者代理人である。旅行の手続きや家事全般はすべて大人二人がやってくれることになっていた。俺の価値観で計れば、ずいぶんと気前の良いサービスだと思う。
 志摩たちが旅行をするのは今回が初めてではなく、この手の旅行は五人のスケジュールに都合がつく度に何度も行われているらしい。大人二人はそのたびに保護者役として旅行に同行しているのだ。
「いいんじゃないかな。くじ引き。わたしも賛成に投票するよ」
 志摩が言った。反対三人に賛成二人。鳴雨が俺の方を向いた。
「サギちゃんは? どっちがいいと思う?」
「……それじゃ、くじ引きやる方で」
「えー」
 千歌流があからさまに不満の声を上げる。柚亜は小さな言葉で俺を罵り、翠は不安そうに首を引っ込めた。
 鳴雨は微笑して、
「それじゃ、くじ引きだね」
「なんでよ。まだ三対三じゃない」
「サギちゃんはひとり二票だから」
「不公平よ」
「サギちゃんは初参加だから、初回だけ特別ボーナスがあるの」
 理屈も何もあったもんじゃないが、鳴雨が厚かましい自説を堂々と述べると柚亜は完全に丸め込まれてしまった。ひょっとすると彼女は鳴雨の言うことは無条件ですべてが正しいと信じているのかもしれない。
 しばらく待つように言って鳴雨が部屋を出た。少し待っていると、彼女はダンボールの小箱を抱えて戻ってきた。ダンボールはほぼ立方体で、外側にプリントはない。箱の上の面に丸いくり抜きがあった。その中を覗き込むと、内側にポリエチレンの袋が入っているらしい。袋の口とくり抜きの口が張り合わされて、箱の内張のような形になっていた。
「実はもうくじを作ってある」
 そう言って、くじ箱を、トランプ遊びをしていた床に置いた。さらに箱と一緒に持ってきた紙を広げる。よく見れば、それはどこかの建物の見取り図のようだった。いくつかの部屋に手書きで番号が振ってある。ざっと見た限りでは、地図の中で最大の番号は八だった。
「姫塚さん、これは?」
 地図を覗き込んで翠が質問した。
「世良島で、私たちが泊まる宿」鳴雨は淡々と答える。「船に乗る前に志摩ちゃんから地図のコピーをもらっていた。地図に書いてある部屋番号と、くじ引きの番号が対応している」
「鳴雨、なんか妙に準備がよくない?」
「みんなの交流を深めるため」
 感情を感じさせない声色でそんなことを言うのでとても違和感があった。五人の中で一番何を考えているのか分からないやつだ。志摩も何を考えているのか分かりにくいところがあるが、一番合理的な答えを選択するので納得だけはしやすい。共感はできないが。
「番号、かなりいっぱいあるみたいだけど、ボクたち六人だけだよね?」
「長部と、八敷も参加してもらう」
「あー、あの人たちもくじ引きやるんだ」
「さっきからそう言ってるでしょう」柚亜が千歌流に突っかかる。「あんた人の話くらいちゃんと聞きなさいよ」
「別にいいだろ! ちょっと聞いただけじゃん」
「二人ともやめてよ……」
 翠がか細い声で言うと、二人は睨み合いを続けたまま、しかし口論の方は停止させる。同じ轍は踏まないらしい。天才少女らしいが、コミュニケーションの能力は割と普通だった。
 志摩が文庫本を閉じた。
「それならわたし、二人を呼んでくるわね」
「あ、志摩が行くの?」
「くじ箱持ってくるときに呼んでくればよかったのに」
「私、あの人たち嫌い」
 鳴雨がはっきりと言った。くじ引きに賛成したこととの矛盾を指摘する者はいない。
 志摩は微笑するだけで何も訊かなかった。彼女は部屋を出ていく。
「その二人……えーと、八敷さんと長部さん」名前は出るが顔は思い出せない。「そんなに嫌な人なの?」
「嫌」
 単語の答え。氷の結晶のように、単純で強固な返答だと思った。
「そうか……そんな人たちに、三日も保護されるのか……」
「あの、笠木さんも、気をつけた方がいいよ」翠が、千歌流の後ろに隠れて言う。「あんまり、近づかない方がいいと思う」
 その言葉が何よりも驚きだった。おどおどとして、平和を重んじている様子の翠が他人を――しかも、旅行の保護者を、そんな風に言うとは思わなかった。
「みんな、そんなにその人たちが嫌いなの?」
 俺はそう言って、みんなの顔を見回した。
 誰も俺の質問には答えなかった。しかし、誰も否定はしなかった。ある者は目を逸らし、ある者は何かを言おうとして諦めて、ある者は我関せずといった様子で壁の一点を見つめている。
「くじ引き、一緒になれるといいわね」
 そう言ったのは柚亜だった。俺の持ち出した話題はもう終わったらしい。話題が切り替わったことにみんなが安堵したような気がした。
「一緒に、って、誰と?」
「赤織志摩と」柚亜は意地悪そうに笑う。「あんた、あの子のお気に入りなんでしょ? せいぜい嫌われないようにね」
 その直後、鳴雨と翠がそれぞれの口調で柚亜の無礼をたしなめた。



 しばらくした後、志摩が八敷と長部を連れて戻ってきた。
「いやー、ごめんごめん、ちょっと手が離せなくて、来るのが遅れちゃったね」と、長部勇平は快活な声で言った。「八敷さんとチェスしてたらついつい白熱しちゃって。志摩ちゃんに待ってもらってたんだよ」
「どちらが勝ったの?」
「俺だ。チェスには自信があってね」
 と、八敷政孝が片手を挙げた。
「だったら今度、私が相手をする」鳴雨はニィと魔女みたいに笑う。「私もチェスには自信がある。将棋ほどではないけど」
 姫塚鳴雨はプロの将棋指しなのだ。趣味で打っているチェスもほとんどプロレベルの強さだと聞いたことがある。本業の将棋も、まだ大きなタイトルは取っていないはずだが、それでもチェスが多少強い程度の素人ならば目隠ししても勝てるだろう。そのことを知っているのか、八敷は苦笑いをして言葉を濁した。
 なぜ俺が彼女たちの経歴に詳しく、そして顔をほとんど知らないくせに名前だけは完全に覚えているのかというと、それは旅行前に赤織志摩に無理やり叩き込まれたからだ。
 何日か前に旅行メンバーの名前と略歴が書かれた紙を渡され、当日までにこれをすべて覚えるようにと指示されたのだ。
 その理由を志摩は「みんな、その分野では名の知れた有名人ばかりだから、知らないとサギちゃんが恥をかくよ」と説明していたけれど、実は単純に、俺が各人の名前を覚えていないと一緒に旅行するのに不便だから、という理由だと思う。
 志摩にその手の不効率を病的に排除したがる傾向がある。特に、頭の悪い人間との会話は極力避けたがるし、ただの好奇心で話しかけてくるような一般人に対しては一貫して無視を決め込んでいる。おかげで世間での天才少女赤織志摩の評判はあまり良くないらしいが。
 では俺の方はどうなのだろう。俺は馬鹿ではないのか、一般人ではないのか。
 日本人の平均と比較すれば、確かに俺には突出している部分がないわけではない。が、そんなもの、ここに集ったメンバー、特に赤織志摩の逸脱具合と比較すれば、ただの誤差として切り捨てられてしまうレベルの突出だ。
 今に至っても、俺が志摩に気に入られた理由が分からないでいた。柚亜の忠告は正しいと思う。せいぜい、志摩に嫌われないようにしないといけない。俺の何を気に入ったのかが分からなければ、努力のしようがないのが残念だが。
 長部勇平は華奢な体をした二十代後半の男だ。伸ばした髪をかき上げる腕が意外と筋肉質なことに気がついた。長距離走のスプリンターのような鍛え方をしているのだろうか。カーキ色のベストに、ジーンズはずいぶんと色が落ちていた。
 長部は少女たちの前でどっかりと腰を下ろした。あぐらをかいて、俺の方を見る。
「えーと、ごめんごめん、名前何だったっけ。忘れた」
「サギちゃんですよ」
「そうだ。サギちゃん。サギちゃんか」俺のあだ名を繰り返し言って、笑う。「みんなとは仲良くなれたかな?」
「まあ、それなりに」
「保護者面するな」
 八敷政孝が言う。歳は長部よりも一回り上だろうか。体格は小太りで、髪には白いものが混じっている。丸い眼鏡の下にある細い目が狡猾そうな印象を強くしていた。
「えー? 別にいいじゃないっすか。実際保護者代わりなんだし」
「保護者というよりは護衛兼雑用係だろう」
「うわっ。直球ですね」
 長部は苦笑した。みんなを見回すが、少女たちは冷ややかに見つめ返すだけだ。長部の愛想笑いだけが空しく響く。
「実際、大人の言うことなんか、志摩さんには必要ないだろう」
「大人、子供は無関係ですね。人によります」
 志摩は世辞も謙遜も言わなかった。
「……くじを」
「だね。さっさとやろう」長部が明るい声で言う。
 鳴雨が箱を持って、中に腕を突っ込む。そのままかき回して中のくじを混ぜる。
「引く順番はどうするの?」と千歌流。
「ジャンケンで決める……?」
「必要ないんじゃないかな。フェアに引くなら順番は無関係よ」
「だったら、順番に」
 鳴雨がくじ箱を持って順番にみんなの前に立つ。最初に千歌流……が引こうとして柚亜に横取りされ、柚亜を罵りながら次に千歌流が引き、二人は仲良く隣同士の部屋になった。
 次は翠が、箱の中でしばらく腕をかき回してから、折り畳まれた白い紙切れを取り出す。
 箱を持った鳴雨が俺の前に立つ。俺は投げやりに箱に手を入れると、一番最初に指に触れた一枚を取り出した。その場で広げて部屋番号を確認している間に、鳴雨は志摩の前に行っていた。志摩も翠のように手を入れてかき回すような動作をしてから、しばらくして箱から拳を抜いた。
 続いて鳴雨自身も、目的としている番号があるのかしばらく探るように底をかいてから腕を取り出した。自分の番号を確認する前に、保護者組の長部と八敷に引かせる。
 部屋割としては、二階に柚亜と千歌流と鳴雨が、一階に翠がひとりで、三階で俺と志摩が向かい合わせの部屋になった。八敷は二階にある、一同から離れた大きな部屋で、長部はさらに離れた場所にぽつんと独り。
「ええー? 僕だけなんでこんなに離れてるの?」
「しょうがないわね、ランダムの結果なんだから」
 柚亜が意地の悪い笑顔で言う。人の不幸が楽しくて仕方ないのだろう。
 長部は八敷の引いた部屋を地図で確認して、
「いいなあ、八敷さんだけこんな大きな部屋。バルコニーもついてるじゃないですか」
「普段の善行が生きてきたかな」
「これで運が尽きることを祈ります」
「人を呪わば穴ふたつ、と言うだろう」
「あのー……わたし、一階にひとり、なの……?」
 翠が泣きそうな声で言った。それをそっちのけで、千歌流と柚亜がにらみ合う。
「……あんた、もしヴァイオリンの練習なんかしたら、殺すからね」
「柚亜こそ、ボクに絵の具の匂いなんか嗅がせたら――」
「嗅がせたら?」
「真夜中に、トラウマになるような曲を弾いてやる」
 うふふふ。
 あははは。
 二人は笑った。一触即発、という言葉が浮かんでは引っ込んだ。その横で、鳴雨が当たり障りのない言葉で翠を慰めていた。どうやら幽霊が存在しないことを証明しようとしているらしいが、おそらく翠の不満の理由はそこではないだろう。翠は鳴雨の気遣いに、曖昧に頷いて「わ、分かったよ。ありがとう……」なんて言っているが。
 志摩が俺の方に体を寄せる。
「サギちゃん、隣同士ね」
「廊下を挟んで向かい同士だから、正確には隣じゃない」
「ふふっ、夜中にサギちゃんの部屋に行ってもいい?」
「そ――」
「なに?」と、笑いながら志摩。
「……いや。退屈になったら遊びに行くよ」
 と、俺はテレビタレント並の適当なコメントで会話を締めくくった。相変わらず俺は臆病者だ。チキンだと罵られても反論のしようがない。



 それぞれが時間を潰している間に、フェリーは世良島へと到着した。小さな船着き場に近づいて、船員のひとりがロープを渡して船体を固定した。船体からタラップを出して桟橋にかける。
 俺たちは自分の荷物を持って順番に桟橋へ降りた。歩く度に、波の音に混じって乾いた木の足音が鳴る。どこかから鳥の鳴く声が響いていた。さらには、本土と変わらない蝉の声。
 長部が船と桟橋を何度も往復して荷物を運ぶ。クーラーボックスやポリタンクが大量に運ばれる。それらの中には三日分の食料や水、その他生活に必要な道具が入っている。
 八敷が先に島の奥へ行き、しばらく待っていると、軽トラックに乗って戻ってきた。
「無人島、という話じゃなかったの?」
 トラックに自分たちの荷物を積み込む二人を見て、柚亜が漏らした。それに志摩が答える。
「無人島よ。世良島に籍を置いている人はいないわ」
「あのトラックは?」鳴雨が訊く。
「昔、この島はある会社の所有物で、当時はここの化学工場で働く従業員が三十人くらい住んでいたの。あのトラックはその名残ね。その会社は倒産してしまったけれど、施設は今もそのまま残されているわ」
「へー。廃墟ってやつだ」
「もちろん、施設が使えることはちゃんと確認してあるから安心して」
「なんだ、てっきりキャンプとかするのかと思ってた」
 千歌流が拍子抜けして言った。
 すべての荷物を運び終えると、フェリーは来た航路を戻っていった。あれが再び戻ってくるのは三日後の昼だ。
 八敷が荷物を満載したトラックを運転して、先に建物へと向かう。俺たちはその道を徒歩で進んだ。
 俺が予想していたよりも大きな島だった。全長は一キロメートル近くはあるだろうか。道路は舗装されているし、島のところどころに建物が見えるし、誰かがここで暮らしていても違和感はないだろう。
 島の中央部に最も大きな、三階建ての建物があった。灰色の飾り気のない外観で、学校の校舎のようにL型に曲がった直方体の建物だったが、一ヶ所だけバルコニーの突き出している場所が目を引いた。建物には窓がずらりと並んでおり、志摩がその部分を指差して、そこがかつての社員寮であることを説明した。
 L字型の一辺が居住用のスペースで、その反対側が研究開発のための施設になっているという。さらに奥に行けば化学工場の跡地があるらしい。
「色々と問題があって、施設の中には今も当時の道具がそのまま残っているのよ。だから、あまり不用意に触らない方がいいわね。危険な薬品や機械があるかもしれないから」
「とりあえず中に入りたいわ。ここは日差しが強すぎる」
 太陽を眩しそうに見上げながら柚亜が言った。俺もまったく同感だ。ほんの少し歩いただけなのに肌が猛烈に熱かった。
「えーと、ボクの部屋ってどこにあるんだっけ」
「あとでみんなの場所を案内する」
「……ねえ、ほんとに、わたしだけひとりの部屋なの? べ、別の部屋に移るのは、だめ?」
「ちゃんと手入れしていないから、使えない部屋がある。それに、くじを作った意味がなくなる」
「どうしても嫌ならボクの部屋においでよ。一緒に寝よう」
「う、うん……」
 翠がうつむいた。
 俺たちが泊まる建物は社員棟と呼ばれているらしい。その社員棟と内部で繋がっている、L字の折れた先が研究棟という。社員棟と研究棟を繋いでいる、L字の角の部分が管理棟。三つの棟にそれぞれ別の玄関があった。それらの建物から少し離れた場所に化学工場跡がある。
 社員棟の玄関前に八敷の軽トラックが止まっていた。彼はトラックの荷台から荷物を降ろしているところだった。
「自分の荷物を自分の部屋に運んでくれ。勇平はこれを厨房に運ぶのを手伝え」
「うっす」
 腕のストレッチをしながら長部が体育会系の応答をした。
 それぞれの荷物を八敷から受け取り、俺たち六人は社員棟の中に入った。
「原則、社員棟はどの部屋も自由に使っていいけど、傷がなくて奇麗な部屋を優先的に選んだ結果があの割り当てだから、あまり期待しない方がいいよ。それから社員棟は大丈夫だけど、研究棟に行くときは一言声をかけてね。勝手に行くと危ないから」
「えー? 探検禁止?」
「千歌流ひとりじゃなければね。研究棟に行くには管理棟の一階を通るしかないわ。研究棟の玄関と窓もすべて封鎖してあるから、研究棟にこっそり入るのは難しいと思う。誰かが勝手に行かないように、八敷と長部のどちらかに見張らせておいた方がいいかもね。社員棟にはお風呂も食堂もあるから、普通に三日間を過ごすだけなら社員棟から一歩も出なくても大丈夫だよ」
「それじゃ監禁されてるのと変わらないじゃない」
「そうだね。後で一緒に島を見て回ろうよ」
 せっかくの志摩の申し出を、柚亜は不機嫌な顔で無視した。それを見た鳴雨がやれやれと頭を振る。
 旅行鞄を持って三階へ上がる。俺の部屋の場所を志摩に教えてもらって、その部屋に入る。鍵は掛かっていなかった。ドアノブの下を見ると、普通のマンションにあるような円筒形に突き出た鍵穴があったので、単に俺たちに鍵が渡されていないだけなのだろう。まあ、こんな無人島に泥棒が出るわけがない。
 室内は一人で暮らすには十分な広さがあった。ベッドとクローゼット、それに小さな洗面台と鏡があるだけだ。クローゼットの前に荷物を置いて、俺はベッドの上に体を投げ出した。埃っぽいベッドを想像していたのだが、実際はそんなことはなかった。少なくともこの部屋は掃除されているらしい。体を動かすとスプリングが音を立ててベッドが軋んだ。
「気に入った?」
 入り口に志摩が立っていた。俺が慌てて起き上がろうとすると、指を立ててこちらを制した。
 こちらに近づいて、俺の隣に座る。
 二人分の体重で、ベッドがさらに軋む。
「良いベッドね」
「……だな」
「一緒に寝ようか?」
「あのな……」俺はたまらずに立ち上がった。「そうやって俺をからかうのはよしてくれ」
「別にからかってなんか」
「俺にどうして欲しいんだ?」
「夕食が始まるまで、この島を案内するわ」彼女はすぐに立ち上がって、部屋を出ていく。「準備が出来たら社員棟の玄関に来て」
「わかった」
 結局、用事のついでにからかいに来た、ということだろうか。まったく、女のやることは分からない。それに加えて天才となれば、もう俺には理解不能だ。
 しばらくベッドで反省の時間を過ごしてから、俺は部屋を出て階段を下りた。
 途中、二階に差し掛かったところで部屋から出て来た柚亜を廊下の向こうに見つけた。向こうも俺に気づいて目を合わせる。
「今から行くのか?」
「島探索のこと?」気だるそうに柚亜は聞き返す。「遠慮しとくわ。そんな子供っぽいこと」
「別にそんなことはないと思うけど」
「ガキじゃない。馬鹿みたい。何が探索よ」
「でも、こういうの、楽しくないか?」
「……赤織志摩のお気に入りって聞いてたからどんなやつかと思えば、あんたもただのガキだったってわけね」
 これ見よがしに溜め息を吐いて、俺に背を向けて歩いて行く。俺はその背中を呼び止めた。
「ちょっと待て、どこに行くんだ? みんな待ってるぞ」
「みんなみんな、ってそんな馬鹿なこと言わないで。あんたが馬鹿なのは別に構わないけど馬鹿なことを平気で口走ってわたしをイライラさせないで。あんたは馬鹿なんだから黙ることでしかわたしに貢献できないんだからそうしなさい」
「人のことを馬鹿だ馬鹿だって、いい加減にしろよ」
「それは失礼しました」
 慇懃無礼に謝ってから、柚亜は再び歩き出した。
「待て。だから、どこに行くんだ?」
「トイレよ!」
 ……ごめんなさい。
 ぷんすか怒って去っていく柚亜の背中に、俺は心の底から頭を下げた。



 外に出ると、志摩、翠、千歌流の三人が待っていた。社員棟の玄関の真向かいには石に囲われた小さな庭があり、中にはマツやキンモクセイが生えていた。
「それじゃあ、行こうか」
「柚亜は来ないって」
 俺は志摩に報告する。
「聞いてるよ」千歌流が答える。「あと鳴雨も来ないって。部屋で寝てるよ」
「みんな自由だな」
「そういう集まりだから……」
 と、翠が言ったのが、なんだか面白かった。
「まずはどこを案内しようか」
「んー。の前に社員棟を案内して欲しいかな。どこに何があるのかぜんぜん分かんないし」
「そうだね。じゃあ、中に入ろう」
 志摩を先頭に、俺たち四人は再び建物の中に戻った。
 社員棟のすべてが寝泊まりのための部屋ではなかった。社員たちが共有で使う部屋も用意されていて、一度に五人は入れそうな浴場、雑誌や専門書が揃っている書庫、飲食店を開けそうな規模の厨房と食堂などがある。俺たちはそれらの場所を順に回って見た。
 食堂へ行ったとき、カウンターの奥で長部が料理をしている姿が見えた。こちらを見つけて声をかけてくる。換気扇の音がうるさくて聞き取りづらい。
「夕食はまだだよ」
「ええ。知っています」志摩が答えた。「八敷さんは?」
「えーと、ごめん、分からない。見つけたらこっちを手伝うように言ってよ」
「伝えておきます」
 食堂を見てから、最後に二階の大広間へ行く。廊下に面しているというよりは廊下の途中に、廊下を遮る形で大広間があった。クリーム色の大きなソファと画面の広いテレビが置いてある。喫茶店にあるような、細いテーブルと椅子のセットもあった。床には白いカーペットが敷いてあり、部屋の隅に観葉植物の鉢植えが置いてある。さらに目を引くのは、おそらくはただの飾りだろうが、赤い煉瓦で作られた小さな暖炉だ。おまけに部屋の壁には油絵がいくつか飾ってある。この場所だけを写真に収めてホテルだと紹介されれば簡単に信じてしまうだろう。
「なんかここだけ雰囲気違うね」千歌流が大広間を見て感想を述べる。
「前の管理人の趣味でこうなったらしい。ここにあるのは管理人が置いていった私物だから、欲しい物があったら持って行ってもいいよ」
「あ! ねえ志摩、あれは?」そう言って千歌流が指差したのは、暖炉の上に飾ってあった洋弓銃だった。「あれも私物?」
「だと思うけど……」志摩が自分のこめかみに指を当てて、しばらく黙る。「ええ、そうね、あれは私物かな。リストにはクロスボウなんてなかったから」
 どうやらこの島に残された物はすべてリスト化されているらしい。赤織家がこの島を買い取った際に、備品のリストも一緒についてきたのだろうか。志摩が、きっと一瞬だけ見たそのリストをすべて覚えていることには、今さら驚いたりはしない。
「触ったらだめ?」
「危ないかもしれない」
「大丈夫。使い方は分かるから」
 言うや否や、千歌流は椅子をひとつ暖炉の前まで動かした。靴を脱ぎ、椅子に乗ると、危なっかしい手つきで洋弓銃を降ろそうとする。
「あ、危ないよ、千歌流ちゃん」
「大丈夫だって」
 よ、と小さく声を出して、洋弓銃と矢を取って椅子から飛び降りた。洋弓銃はずっと放置されていたらしく、千歌流がふっと息を吹きかけると埃がそこかしこに舞い上がった。それをまともに吸い込んだ千歌流が何度か咳き込む。
「うわっ。すごい埃。これ、ちゃんと動くかなぁ……」
「駄目だよ、そんなの……危ないって」
「大丈夫。動くかどうか試すだけだから」
 動くかどうか試すことが大丈夫だという根拠は何もなかったが、翠は言いたいことを言い切れないうちに黙ってしまった。
 話をはぐらかすように、千歌流の興味は大広間のテレビに移る。
「このテレビ、使えるの?」
「ええ。みんなで集まるのはこの場所が一番良いかもしれないわね。夕食が終わったらみんなで何かして遊ぼう。久しぶりに鳴雨とチェスがしたいな」
 志摩は、例えばチェスのような、運の要素が絡まないゲームはやたらと強い。が、それでも将棋では鳴雨には敵わないらしく、彼女と遊ぶときは勝率が五分に近いチェスやチェッカーなどのゲームを好んで選ぶという。
「鳴雨も志摩も、ゲーム強いもんね。ボクじゃ翠にも勝てないし」
「だって千歌流ちゃん、よく考えないで打つんだもの……」
「考えるのって苦手。勘でずばずば進めるゲームの方が得意かな」
 千歌流は洋弓銃を抱えたままだ。弦の張りや矢をつがえる部分の構造を興味深そうに観察していた。
 そのとき、大広間に面していたドアのひとつが開いた。中から八敷が出てきた。大広間に集まっている俺たちのことを、驚いたように見る。
「八敷さん、長部さんが呼んでましたよ」
「ん……そうか。すまんな。それじゃ、すぐに行ってくる。勇平は厨房だろ?」
 志摩に確認して、八敷は俺たちが来た道を引き返していった。
「あの部屋は?」
「八敷さんの部屋よ」
 八敷が出てきたドアを指差して、志摩が俺に答えてくれる。俺たちにあてがわれた部屋とはずいぶん趣が違うようだ。ドアは豪勢な作りで、隙間から一瞬見えた部屋の内部はかなり広かったように思う。
「管理人の個室だったみたいね」
「だとしたら趣味が悪いな……」
「私物化は人類史の華よ」
 誰も人類史の話などしていなかったが。
「それじゃあ、外に行きましょうか」
「んー、ボク、もうちょっとここにいていい?」千歌流は洋弓銃を見せる。「これ、色々いじったりしてみたい」
「いいけど、終わったらちゃんと元に戻しておいてね。それから人に向けて使うのは――」
「大丈夫だよ。ライフル撃ったことだってあるんだから」
「ライフル?」
「去年、アメリカに行ったんだけど、そのときに……」翠が説明した。「わ、わたしは怖くて、触れなかったけど」
「後で試し撃ちもしてみようかな」
「間違っても人を撃つなよ」
「もう、何でそんなに信用ないかな……」
「銃を触りたがるやつが信用できるか」
「あー、それ偏見。ちゃんとスポーツ用のボウガンだってあるんだから」千歌流は頬を膨らませて反論した。「心配しなくても、あとでちゃんと撃ち方を教えてあげるから」
「心配してねえよ」
「じゃあ、次に行こうか」
 中央棟の玄関まで行き、そこで千歌流と別れた。翠は千歌流の方に未練がありそうだったが、洋弓銃への嫌悪がそれに勝ってしまったらしい。俺と翠は、志摩を先頭に歩き出した。



 周りには海しかないというのに妙に埃っぽい風だ。志摩に島内を案内されながら、俺はそんなことを思った。
 最初に向かったのは化学工場跡。パイプや鉄骨で組み込まれた無骨な外観。そのラインが俺にはむき出しになった動脈のように見えた。生物よりも無防備な、必要最小限のものだけで構成された合理性があった。
「ここ……何の工場だったの?」
「ある種の化学物質を精製していたみたいね。詳しい話はわたしも聞いていないけれど、多分、中を見れば大体想像がつく」
 工場の周囲は金属の柵で囲われており、入り口の門は鎖が巻かれて閉ざされていた。門から建物まで白い道が真っ直ぐに延びている。人の手はほとんど入っていないようで、工場の敷地内は雑草でひどい有様だった。
 特に意味はなかったが、俺は門を両手で掴んで前後にゆすってみた。鎖の鳴る音が響くだけで、俺の行為はこの世界に何の影響も与えなかった。
「中には入れないみたいだな。鍵は?」
「あるはずだけど、今は赤織家が管理していて、この島にはないわ」
「残念。見学したかったんだが」
 柵を乗り越えられないかと思ったが、見上げると俺の背丈の三倍はありそうで、これを上るのはなかなか勇気が必要だ。
 志摩はくすくすと笑って、
「そんなに気になるのなら、今度二人っきりで案内するよ」
「ははは。遠慮しておくよ」
 俺も、志摩の申し出を笑いながら断った。翠が奇妙なものを見る目つきで俺たちの方を見ていた。
 工場を迂回して島の奥へと向かう。途中からなだらかな坂道が始まって、島の終端まで行くと、そこは小さな崖になっていた。ゆっくり歩いたとしても、社員棟から五分とかからないだろう。
 志摩が崖の端から海を見下ろした。風が吹いて彼女の髪を巻き上げる。崖へと続く原っぱには背の低い雑草が生えていて、それがわずかに揺れるのと志摩の髪の巻き上げられるのが完全に同調しているのに気づいた。崖の背後、俺たちの歩いてきた道の脇には小さな森があり、少し強い風が吹くと、波の音に混ざって葉や枝のこすれる音が聞こえてきた。それに対抗せんとばかりの蝉の鳴き声。
 俺は志摩の背後に近づいた。彼女は崖の縁ぎりぎりに立っていた。さすがにそこまで行く勇気はなかったが、少し及び腰になりながらも下の海を覗いてみる。
 崖は思ったほど高くはなかった。せいぜい四メートルほどだろうか。拍子抜けして、重心を深く下げた自分の格好が気恥ずかしくなった。波が激しく崖に打ち寄せていて、フェリーが泊まっていた側の海とは違い、こちら側は流れがかなり強そうに見えた。
「あ、危ないよ……」
「大丈夫。そんなに高くないから。落ちても平気だって」
「本当?」
 翠が聞き返して、怯えながらもゆっくりと近づいてきた。多分、落ちたら平気ではないだろうが、人を安心させるには嘘がもっとも効果的なのだ。
 志摩が満足するまで、俺と翠は水平線と波の音と木々のざわめく音を十分に堪能した。
「流れが強そうだね」志摩が突然言った。「もしフェリーが来なくて、自分たちで筏を造ってこの島を脱出する必要があるときは、向こう側から出るのが良いかもしれない」
「お前、そんなこと考えてたのか」
「他のことも考えていたわ。いつも色んなことを考えている」彼女は無邪気に笑みを浮かべて言った。「そうね、さっき工場の周りに発泡スチロールが捨てられていたから、それを浮かべてこのあたりの海流を調べてみるのも面白そうね」
「海流なんか調べてどうするんだよ」
「ただの好奇心よ。わたし、気になることは調べないと気が済まないの」
「赤織さんって、そういうの好きだよね。実験したり、本を読んだり。将来は科学者になるの?」
「そうやって自分を決めて、固定してしまう必要はないのよ。科学者でなくても科学には関われるし、ヴァイオリニストでなくてもヴァイオリンは弾ける。職業、というのはお金を稼ぐ手段だから、その職業に就いたからと言って、それ以外他に何もしてはいけないというわけではないの。重要なのは仕事のない時間に何をするか、ということではないかな」
 それは能力があって、簡単に金を稼ぐことができる人間の理論だと思った。もちろん、この島にいる少女五人はすべてその理論で生きることができるだろう。彼女たちには才能があるのだから。俺は違う。
「さて、案内はこれくらいかな。他に見るものは研究棟くらいだけど、そちらを見たいときは八敷の許可を貰ってね。……そうそう、このあたり、夜になると蛍が出るのよ」
「蛍?」
「と言ってもゲンジボタルじゃないよ。それも含めて、今夜調べてみるつもり……。翠も一緒に来る?」
「千歌流ちゃんに聞いてみないと」
「そう。翠は千歌流が好きなんだね」
「うん。千歌流ちゃん、いつもわたしのこと庇ってくれるし」
「蛍か……。実は本物を見たことないんだよな」
「良かったじゃない。今晩見られるよ」
「……もしかして」
「サギちゃんも一緒に行くんだよ」当たり前だ、という口調で。「わたしだけで森に入って、何かあったらどうするの?」
「というか、志摩はどうしてそんなに世良島に詳しいんだ?」
「旅行の下見で一度だけ来たのよ。そういうことをすると興醒めだから、本当はみんなと一緒に来たかったんだけど、両親がどうしてもと言うから」
「セキュリティ的なことかな……。最低限の地理は覚えておかないと、いざというときに大変だから」
 それでいて娘の旅行は禁止しないあたりがさすが赤織家というところか。赤織家の話題を出すと、志摩は迷惑そうに表情を曇らせた。
 翠が気まずそうに口を挟む。
「ねえ、あの……それじゃあ、わたしもう戻っていい? ちょっと疲れちゃった」
「そうだね。わたしはもう少しここにいるけど、サギちゃんはどうする?」
「んー。もうちょっとあちこち歩いてみるよ」
「効果があるか分からないけど、気をつけて、と一応言っておくよ」
「そりゃどうも。……それじゃ、社員棟まで送っていくよ」
 そうして、小さな崖の上で俺と翠は志摩と別れた。来た道を戻って宿まで歩く。それほど大きな島ではないから、志摩の案内がなくても迷う心配はなさそうだ。
「笠木さんって、赤織さんと仲がいいんだね」
 しばらく沈黙が続いてから、翠が俺にぽつりと漏らした。どうやら切り出すタイミングをずっと伺っていたらしい。フェリーからこちら、みんなからサギちゃんサギちゃんと連呼されていたのでその呼び方が妙にくすぐったかった。
「別にそういうわけじゃないが。単に、向こうから絡んでくるから相手をしてるだけで」
「でも、それってすごいことだと思う……」
「そうかな」
「うん。……わたし、赤織さんのこと、全然分からないし。赤織さんのところから突然声をかけられて、こういうのに参加してるけど……。親切にしてくれてるけど、どうなんだろう。赤織さんは、わたしたちのことをどう思ってるのかな」
「友達だと思ってるんじゃないかな」
 安易にそう答えてしまって、その台詞の空々しさが自分に跳ね返ってきた。俺と翠はしばらく無言のまま歩いた。俺と彼女との才能の差など、志摩とその他大勢の人間との差に比べれば、すべて誤差として片付けられてしまう程度のものだ。
 志摩はヴァイオリンも弾くと、以前聞いたことがある。その腕前はどの程度のものなのだろうか。
「笠木さんは、えっと……赤織さんのこと、どう思ってるの?」
「特に何も。すごいな、とは思うけど」
「……あんなすごい人のそばにいて、そうやって自分を保っていられるのって……その、笠木さんも、すごいと思うよ」翠が純真な眼差しで俺を見る。「わたしなんか、いつも千歌流ちゃんと一緒じゃなきゃ、ダメだから。自分で何もできないし……いつも迷惑かけてるし」
「あいつとは長い付き合いなんだね」
「うん。ヴァイオリンの先生で、木野先生っていうんだけど、わたしも千歌流ちゃんも、その人にヴァイオリンを習ってるの。だから」
「なるほど。ずっと一緒だったわけだ」
「うん。……千歌流ちゃん、いつも守ってくれてる」
 社員棟に到着した。腕時計を見ると、夕食の時間まではまだ余裕がありそうだ。責任を終了して、その場で翠と別れる。
「あの、それじゃ、笠木さん……」
 俺は片手を挙げて、社員棟に背を向けた。
 さて、これからどうしたものだろうか。自室にひとりでこもるのは嫌だったし、かと言って誰かと一緒にいるのもあまり気が進まない。知らない人間ばかりの旅行に、俺は早くも気疲れを起こしていたのだ。
 志摩の科学的探求心に付き合うのも御免だ。彼女の俺への愛着が、自然への好奇心よりも勝っているとは思えない。たぶん、俺の相手など後回しにして、自分のことを優先するだろう。
 当てもなく歩き始める。どうせ狭い島だ、どこに行こうとも迷えるはずがない。
 海岸まで歩いて、砂浜を少し歩いてから、すぐに引き返した。 
 散歩は好きだ。歩いている間は何も考えなくていい。
 思うに、人の不幸や不満の大半は、自分の周りのことを考えるから起こるのだ。何も考えなければ不幸も不満も起こるはずがない。そこにはただ自分がいるだけだ。俺が俺の不幸を認識することで、一体何が変わるというのだろうか。この考えは、志摩にはまだ話していなかった。彼女がいつものように俺のことを優しく否定するのが怖かったのだ。
 何かの音が聞こえた。俺は足を止めた。
 断続的に聞こえ続けている。相変わらず蝉の鳴き声がうるさかったが、時折聞こえてくるその音だけが明らかに浮いている。
 鳥が木を突いているような音だった。
 俺は好奇心に突き動かされて、そちらに向かって歩き始めた。
 道を外れて森の中に進む。枯れ葉や湿り気のある土を踏みながら、ときおり立ち止まって音のする方向を探した。立ち止まったのは自分の足音が邪魔をしてその音が聞こえなくなってしまうからだ。
 何度か方向を間違えて、とうとう、その音源を肉眼で捉えた。
 善条寺千歌流が洋弓銃を撃っていた。目標と定めた木の幹に向かって、引き金を引く。
 この位置からでは、彼女の手元から小さな針が飛び出したようにしか見えなかった。矢は確かに木の幹に命中した。刺さった矢の周囲には別の矢が何本も刺さっている。命中率は中々のものだ。
 撃つと、すぐに次の矢を銃に装填する。まるで軍人が銃の訓練をしているかのような機械的な作業だった。ストイックに、ただ、どうすればリロードの時間を縮められるかを追求する。
 装填が終わり次第、目標に向けて引き金を引く。
 どうやらそれで手持ちの矢は尽きてしまったらしく、千歌流は木に近寄ると、刺さった矢を抜き始めた。それが終わると再び木から離れて、装填と発射をくり返す。
 どうしても声をかけることができなかった。
 今の千歌流には、あの快活な少女の面影がなかった。何かに切羽詰まっているようであり、しかしそれと同時に、ただ追われるだけではない、立ち上がらなければならない、という悲壮な決意も感じられた。
 肩を叩かれたとき、咄嗟に声を出さなかったのは、衝撃のあまり喉が詰まって声を出せなかったからだ。反射的に振り向くと、俺の頬に指が突き刺さった。
 鳴雨が俺の肩に手を置いた状態で、その手の人差し指を立てて、俺の頬を突いていた。
 向こうへ、と彼女が手で指示する。俺の肩から手を離すと足音もなく歩き始めた。千歌流に気づかれないように森を出ようとする。
 俺は千歌流の真剣な姿をもう一度見てから、大人しく鳴雨の後についていった。
 森を抜けると日差しが強くなった。鳴雨は眩しそうに手の平をかざす。
 ジーンズのポケットから煙草の箱を取り出すと、そのうちの一本を口にくわえてライターで火を付けた。
「ちょっと待て!」
「…………なに?」
 俺が慌てたのを見て、首を傾げて聞き返してきた。いや、そんなに落ち着いていられると、慌てている俺の方が恥ずかしくなってくるんだが。
「煙草なんか吸うのか?」
「悪い?」
「でも、お前――」一瞬だけ、こんな常識的なことを口に出すのかと、自問する。恥ずかしかったがやっぱり言うことにした。「鳴雨、未成年だろ。煙草は駄目だ」
「誰も見てない」
「俺が見てる」
 鳴雨はしばらくぼんやりとした表情で黙ってから、煙草の箱をこちらに向けて、一本出す。
「吸いたいの?」
「違います」
「常識的なんだね、きみは」鳴雨は煙草を指に挟んで煙を吐き出した。「志摩ちゃんなんて、煙草も薬もやってるよ」
「く、薬?」
「そう。彼女の頭がいいのは、薬をやってるから。だから回転が速いんだね」
「嘘だ」
「嘘だよ」
 煙草をくわえて、また吸い始めた。
 俺は腹が立って、立ち去ろうとする。すぐに鳴雨に呼び止められる。
「ごめん。冗談だから怒らないで」
「からかってるだけだろ」
 俺が睨み付けると、鳴雨は煙草を地面に捨てて、ミュールの踵でもみ消した。その姿が妙に様になっている。鳴雨は俺たちの中で一番背が高い。彼女が近づいて俺の隣に並ぶと、女王さまとそのお付き、みたいな不釣り合いの二人になった。
「さっき、見てたよね。千歌流が撃ってるとこ」
「……洋弓銃の練習だろ?」
「千歌流、スポーツ万能だから。射撃だけじゃないよ。真剣に陸上やれば県大会くらいには出られるかも」
 鳴雨からほのかに煙草の香りがした。匂いで他の子たちにばれたりしないのだろうか。翠など、鳴雨の喫煙を知ったら泣いて怒りそうなのだが。
「……善条寺、どうしたんだろう」
「何が?」
「なんか、雰囲気が、普通じゃなかった」
「普通じゃないって?」
「いつもと違う」
「いつもの千歌流を、サギちゃんはどれだけ知っているの? 私たちもよく知らない。翠だって、知らない部分はあると思う。私が煙草を吸っているのを、みんな知らないのと同じで。そっとしてあげて欲しいな」
「それを言うためにわざわざ?」
「たまたま見かけたから。もし声をかけたら、千歌流と気まずくなる」
「言われなくても、声なんかかけなかったよ」
「サギちゃん、好きな人はいる?」
 話題が突然転換した。この感じ、志摩との会話によく似ているような気がした。
 だから俺は、志摩の相手をするときと同じように、たっぷりと時間をかけて返事を考えることにした。
「……いないよ」
「そう。それじゃ、恋人募集中なんだ」
「募集はしてない」
「私が立候補してもいい?」
 鳴雨は真顔だった。さっき冗談を言ったときも真顔だった。彼女の顔は信用できない。俺は動揺しまいと厳しく自分を律することにする。
「姫塚は――」
「鳴雨、って呼んで」
「鳴雨は棋士なんだよな」
「ナイトじゃなくて、プレイヤだけどね」
「どうして将棋を始めたんだ?」
「私に興味がある?」
「……それなら、答えなくていいよ」
「別に、いいと思うけどね。他人に興味がある、ってのも」
 ぽつりと鳴雨が漏らした。鳴雨は受動的に生きていそうだな、と俺はなんとなく思った。何かに心血を注ぐようなタイプには見えない。
 志摩から教えてもらった姫塚鳴雨の話を思い出す。史上最年少でプロの棋士になった少女。この記録はおそらく今後百年は破られることがないだろうと、ある解説者が語っていたらしい。
「プロ棋士と言ってもピンからキリまであるよ。私は史上最年少のプロではあるけど史上最強のプロではないから。プロになってからの私の戦績を知っている? 酷いもんだよ。天才少女、なんてのはからかい半分」
 鳴雨が皮肉っぽく笑った。その表情には確かに煙草がよく似合いそうだ。
「それでも、同じ世代の人間と比べたら、それはすごいことだと思う」
「その、同じ世代と比べたら、ってことなんだけど。そんなふうにして、比較の対象を勝手に決めてしまえば、いくらでもすごくなるんじゃないかな。私も、千歌流と翠のヴァイオリンも、柚亜の油絵も、現役で戦っているプロの腕前と比べたら勝負にならないし。それじゃ私たちは、ただ若いというだけでもてはやされているってことになる」
「でも将来を考えれば――」
「早咲きの花が大輪の花であるとは限らない。大輪の花は、たいてい早咲きの花だけど。……前にこのことを志摩ちゃんに相談したことがある」
「志摩に?」
「志摩ちゃんに。聞き間違いじゃないよ」鳴雨は笑う。「すると彼女はこう言いました。若いということはそれだけで商品価値になるのよ、って。すごいよね。割り切ってる。きっと志摩ちゃんは私のことを、デビュー後に連敗続きの落ち目な女棋士としか見ていない。天才少女、みたいな言葉に惑わされたりしないで、本当以上に価値のある人間だとは思っていない」
「そんなことは……ないと思うけど」
「志摩ちゃんは、絶対値だと思う。世界がどれだけ揺れても絶対に動かない。こう、一人だけ浮いているっていうか……。だから、地震が起きても関係ない」
 その比喩は的確だと思った。
 思ったので、これ以上俺が付け加える言葉はなかった。
 俺たちはしばらく黙ったまま、それぞれの方向を見ていた。俺は海の方を、鳴雨は森の方を見ている。彼女の手がポケットに伸びて、煙草を取り出そうとする。俺の方を気にして、煙草の箱は再びポケットの中に戻った。
「それじゃ」
 簡素な別れを告げて、鳴雨は社員棟とは反対側の方へ歩いて行った。俺は呼び止めなかった。背の高い鳴雨の影をしばらく見てから、俺は社員棟の方へ歩き出した。
 道なりに進めばすぐに到着する。時計を確認するとまだ四時を回ったところだ。それにしてもみんなはどうやって時間を潰しているのだろうか。こういった旅行では全員で行動するのが普通ではないのか。ここまでまとまりのない旅行というのも珍しい気がする。
 社員棟に戻ったが、自室で時間を潰す気にはなれなかった。特に意図もなく、棟内をふらふらと歩く。扉を見つけては中を覗き込み、面白そうなものがあればそれを観察する。
 そんなことをくり返していたときに。
 俺は見てしまった。
 言葉を失う。
 見たのは一瞬で、すぐにドアを閉めた。
 真っ先に思ったことは、俺がここにいることがばれてしまうのではないか、という保身だった。
 すぐにその場を後にする。音を立てないよう最初は早歩きだったのが、最後は全速力で廊下を駆けていた。
 自室に戻る。
 鍵をかけて、ベッドの上に体を投げ出した。
 枕に顔を押しつける。
 その光景がまぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
 あれは何だったんだ。あれは何をしていたんだ。
 考えてもどうしようもない。俺には何もできない。見なかったことにするしかない。
 不幸はそれを認識するから発生する。
 何も考えなければ人は平穏に生きていけるのだ。
 今回の件も、俺のその哲学に則って処理することにした。
 つまり俺は、何も見ていないのだ。

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