裁くのは彼女

第1章 探偵笠木零時

 笠木零時が探偵事務所に勤めはじめて十年あまりが経つ。これまでにもさまざまな人がこの事務所を訪れたが、メイド服を着た女性が訪ねてきたのは初めてだった。そして今回の訪問がさらに特別なのは、その女性が零時にとって非常に馴染みの深い人物だということである。
「お坊ちゃん」
 と、女性は零時のことをそう呼んだ。そのことは瞬く間に事務所の探偵たちの間に広まり、零時のあだ名が「お坊ちゃん」になるのに半日も必要なかった。
 つまり、探偵たちはいつもからかいのネタや出来の良いジョークを求めているのである。そういった精神的な清涼剤を強く必要とするほど、探偵業というのは心を摩耗させる仕事なのである。それはともかく。
「お引っ越しのお手伝いに参りました」
「引っ越し?」
「突然お邪魔して申し訳ございません。ですが、以前教えていただいた住所にいらっしゃらなかったので」
「ちょ、ちょっと待ってくれ……。引っ越し、というのは何の話だ?」
「何の、とは、どういう意味でしょうか」
「引っ越すのか? 俺が?」
「そう約束なさいました」
「いつ?」
「お坊ちゃんが大学を卒業されて、こちらにお勤めなさったときです」
「そんなの」零時は片手で頭を覆った。手の平で温めれば、少しは脳を働かせるための手助けになるかもしれない。「一体何年前だと思ってるんだ……そんな約束、覚えてるわけがない」
「それは困りました。旦那さまや奥さまは覚えておいでです。一方的に反故にするのはいかがなものかと」
「そういう意味じゃない」彼女の対応を見て、相変わらずだなと零時は思った。「穂子ほのこに言われてやっと思い出した、という意味だ。普通は忘れてるだろう? 十年間、約束の日まであと何日、なんて指折り数えて生活してたわけじゃないんだ」
 いつもそうだ、笠木家の人たちは物事を機械的に処理しすぎる――と、愚痴が出そうになったのを押しとどめた。彼女に言ったところで、今さらお気づきになられたのですか、などと冷ややかな反応を返されるに決まっている。それにそういった笠木家の人たちのやり方に誰よりも苦労したのは他ならぬ穂子なのだろうし。
 零時は同じフロアの同僚たちの視線に初めて気がついた。仕切りである程度はプライバシーが保たれているとはいえ、背の高い彼女の姿を完全に覆い隠すことはできなかった。
 壬生みぶ穂子はここが世界の中心で自分がその女王であると言わんばかりの態度で立っている。
 このフロアには数十人の探偵たちが働いていた。しかし穂子のことを口に出して咎める者がなかなか現れないのは、彼女があまりに堂々としているために、それに異議を申し立てる自分が偉大な存在に対する反逆者のように思えてしまうからだろう。単に厄介事に関わりたくないだけかもしれないが。
 さすがに本物のメイドだけあって、その辺にあるメイド喫茶の制服とは出来が違う。装飾は最小限に抑え、それにもかかわらずある種の神聖さを損なわない。機能性と伝統が絶妙なバランスで両立している服だった。その服の担い手である穂子自身も服と釣り合うだけの職務への誇りを持っていて、それがこれほど場違いな場所にいても一切気後れしない剛胆さに繋がっているのかもしれない。服だけを真似たにわか仕込みのメイドたちには絶対に到達できない境地だろう。
 壬生穂子は笠木家のメイドである。と言っても笠木零時と壬生穂子は同じ歳で、彼女が職業メイドとして完成する以前はただの友人として親しくした仲でもある。そして時には友人以上の関係を築いたこともあった。
 それにしても、メイドが出来てるなあ、と零時は思った。さすが笠木家のメイド教育システム。さすがは壬生穂子。
 感心していると、じろじろ観察されるのはさすがに不快だったのか、西洋の油彩画のように整った唇がわずかに歪んだ。防弾性能を期待しているかのように塗りたくられた化粧の下で、彼女の表情の変化は微妙すぎて零時には捉えきれなかった。
 日本人離れした鋭利な美しさがそこにはあった。笑顔もなく美人に睨み返されるとさすがにたじろいだが。
「……とにかく、すぐにお荷物をまとめて、お屋敷へ帰りましょう」
「そんなこと言われてもな。俺にも仕事があるんだ」
「詳しい話は旦那さまと直接なさってはいかがでしょうか。わたしはお坊ちゃんを連れてくるように、お坊ちゃんを逃がさないようにと、命じられただけですから」
 ただの友人として親しくした仲とは思えない、他人事のような口調で穂子が言った。もしかしたら他人のそら似だったのかもしれない。椅子に座ったままの零時を見下ろす穂子の視線が、その可能性の高さを証明しているような気がした。
 笠木家にはいつも悪い噂がつきまとう。特に、伝統と調和を重んじる貴族的な意識を持つ人々は笠木家の革新的で合理主義的なやり方が気に入らないらしい。そういうごく限られた古い価値観の人々は、笠木一族のことを成り上がりと心の中で侮蔑していた。
 もちろんその評価は正しい、と零時は思っている。数十年前、零時がまだ子供だった頃は、笠木家の影響力はこの国に無数に存在するありふれた金持ちの域を出なかった。父の証券会社が記録的に業績を伸ばし、特に財界に広く人脈と恐怖の根を広げる前は、まるでコバンザメのように他の有力な一族に追従し、その庇護によって何とか財界での存在を許されているような、誰かが揺らせばそれだけで吹き飛んでしまうような一族だった。
 零時はそういう事実を認識しているので、過去に何度か実家の両親に呼び出されて財界のパーティに参加させられた際、他の富豪たちが非常に遠回りな表現で零時のことを侮蔑しても、彼としては仏頂面を徹底してその場を堪え忍ぶ以外にはなかった。例えばこれが彼の姉や両親だったら、一の侮蔑に対して百の報復をするのだろうが、今のところ零時はそこまでするほど一族への帰属意識が高くはなかった。
 とはいえ、庶民に分類されるような一般的な人たちにとって、そんな世界のことは対岸で起きている火事以上に無関係な出来事だろう。本音を言えば零時にもあまり関心がない。大学までの学費を出してくれたことには感謝しているが、彼の両親は零時の生活に関しては不干渉を徹底していた。
 唯一の例外が、現在は父が運営している笠木グループを、いずれは零時が継ぐことになるということだった。本当ならば大学卒業後、すぐにグループの傘下にあるいずれかの企業に秘書として送り込まれるはずだった。そこで零時は経営や金融の手品を何年もかけて習わされ、最後には父親のスペアとしてグループの歯車に取り込まれるのだ。
「……とりあえず、今は仕事中だから」
「そのようですね」
 つんと澄ました顔で穂子はそう返した。それがどうした、と言わんばかりに。
「だから、とりあえず仕事が終わるまで待ってくれ」
「今現在も待っておりますが」
 だからお前がやたら目立つからさっさと出て行けと言ってるんだよ、とは言えない。そんなことを言ったらまた睨み付けられるからだ。本質的に零時は臆病者だった。
「とりあえず、その、家の鍵を渡しとくから……俺の仕事が終わるまで、そっちで待っててくれ」
「逃げませんか?」
「逃げないよ。どんだけ信用ないんだ俺は」
「ご自分の胸に聞いてみてはいかがでしょうか」
 穂子は皮肉っぽく微笑んだ。かなり毒の強い光景で、零時はたまらずに彼女から視線を避難させる。キーホルダーのリングからアパートの鍵だけを外して穂子に渡した。デスクに置いているメモ帳を一枚ちぎり、家の住所と簡単な地図を書いて手渡した。
「かしこまりました。お家でお待ちしております」
 恭しく頭を下げると、奇麗な百八十度ターンを見せて事務所を出て行った。
 その背中を横目で見送りながら、過去の自分が彼女に行った仕打ちを律儀に自分の胸に問い質す零時だった。



 例えば海外のハードボイルド作家が描くような、さびれた事務所の奥で中年の探偵がひとり、依頼人が来るのをウィスキーを飲みながら待っているような、そういうカッコイイイメージとは対極に位置しているのが前島探偵事務所である。
 社員はたくさんいるし自前のビルも持っているし、そこで働き始めた当時の零時は「ああ、探偵と言っても所詮はサラリーマンなんだなあ」という落胆と納得の入り交じった感想を抱いたものだ。
 たとえばこのフロアを見回してみると、書類の文面に頭を悩ませていたり期限が迫って必死にキーボードをタイプしていたり電話で誰かの応対をしていたりと、そんな背広姿の人々が数十以上。職場の光景だけを頼りに探偵事務所と一般の企業を区別するのはかなり難しいのではないだろうか。
 今の零時はただの社会人である。もちろん、だからと言って前島探偵事務所に就職したことを後悔したことは一度もない。サラリーマンの視点から見ても、前島探偵事務所はなかなか上出来な、悪くない職場だと思っている。
「ふーん、何事もなかったみたいに仕事を続けるんだ……」
 報告書の続きを書こうとパソコンに向き直った零時に、班長の多賀がにやにやと粘着質な笑顔を向けた。それを皮切りに、好奇心が旺盛でかつ仕事が切迫していない数人の同僚たちが零時のことをからかいに集まってきた。
「笠木さん笠木さん、あれってもしかして、笠木さんのアレですか?」
「すげーなー。メイドだろ、あれ」
「メイド喫茶っすか? あー、前に調査したことあるんですけど、ああいうところって――」
「いや違うだろう、あれは実家のメイドだよ」
「そういえば笠木さん、実家がすごい金持ちだって――」
「うわーいいなあ。遺産かー」
「その金持ちがなんでこんなところで働いてんの?」
「あれだ、相続争いで敗れて……」
「ミステリーだとこのあと笠木さんが復讐のために実家の相続者たちを殺して回ったりするんですよね」
「ちょっと待て、お前たち」さすがに無視を貫くことはできなかった。零時が慌てて立ち上がった。「放っておいてくれ。勝手な詮索はするな」
「えー、でも」
「お前たち、仕事をしろ」
 ほらほら、行った行った、とデスクの回りに集まっていた野次馬を追い払う。口々に文句を言いつつも、本質的には真面目な会社人である探偵たちは渋々と自らの仕事に戻っていった。一人を除いて。
「それで、実際のところどうなの?」
 多賀が零時に質問する。今度は真面目な表情だった。
 彼は人からものを聞き出すのがうまい。仕事でそれを生かしている場面を何度か見たことがある。それを知っているだけに油断はできなかった。
「どう、って……」
「僕、盗み聞きしてたんだけどさ」
「しないでください」
「引っ越し? 実家に連れ戻されるの?」
「……かもしれません」零時は肩をすくませた。「そういう約束ですから」
「困るんだよねえ、勝手に辞められると。きみを推薦したの、僕なんだからさ」
「……すみません、班長」
「何とかならないの? 探偵、続けたいんでしょ?」
「今回は、ちょっと難しいと思いますね。もうこれ以上誤魔化すのは無理だと思います」
「なるほど。ま、無理にとは言わないよ」
「すみません」
「お礼の言い方も教えたはずなんだけどね」
 鼻から息を吐いて、多賀はクリップで留めた書類を零時のデスクに置いた。一枚目を見ると、どうやら次の仕事の詳細らしい。
「とりあえず、今抱えてる依頼だけでも終わらせてからにしてね」
「これは?」
「裁判の証拠集め」
「刑事事件ですか……」
 零時は書類をめくり、依頼の内容を確認した。
 今年の春に、画廊の倉庫から絵画数点を盗み出した男が逮捕された。警察の取り調べに対して男は犯行を認めたが、自分は主犯ではなく、ただ命令されてやっただけだと主張しているようだ。
「信憑性はあるんですか? その話」
「ないからこっちに回してきたんでしょうよ。依頼人はその被告の国選弁護人だ。もし本当に黒幕がいると思うなら自分で調べるだろう」
「そうですか……」
「そうは言ってもね」零時の声に漏れた落胆を感じ取ったのか、多賀が慌てて取り繕う。「これも大事な仕事だよ。もし本当に命令されただけなら、刑罰の重さが全然違うんだから」
「分かってますよ。ええ、大丈夫です。素人ってわけじゃないんですから、そこのけじめはしっかりつけてます」
「そ。最後の仕事、がんばってね」
「多賀さん」帰りかけた多賀の背中に、声をかける。「今まで色々、お世話になりました」
 零時は椅子から立ち上がって、多賀に向けて深々と頭を下げた。顔を上げると、多賀は困ったように目をそらして、何か気の利いた台詞を言い返そうとしているみたいだったが、結局気恥ずかしくなったのか何も言わずに自分の机に戻っていった。
 それを見送って、零時は椅子に座ると、今度は本格的に書類を読み始めた。
 依頼内容の文面を読みながら、いずれは依頼人の弁護士、加えて絵画を盗んだ被告とも直接話をしなければならないと思った。多賀から受け取った書類は非常に丁寧に書かれており、依頼人の対応に当たった人物の繊細な気配りが行き届いているように思えた。しかしそれを鵜呑みするのは危険だと思ったし、零時はそれほど他人のことを信頼しているわけでもないのだ。



 零時の仕事が終わったのは夜の九時を回った頃だった。今日は外での調査がなかった分、普段に比べれば比較的楽な一日だったと言える。しかし家で待っているであろう大きな問題のことを思えば、どれだけ余力が残っていたとしても十分とは言い難い。
 家に帰る途中、電車に揺られる数十分が非常に短く感じた。
 アパートの階段を上って、自分の部屋の前に。帰宅する最中にこれほど気を重くしたのはこれが初めての経験だ。自分の家にもかかわらず呼び鈴を押してから、零時は玄関のドアを開ける。
「お帰りなさいませ、お坊ちゃん」
 予想通り、メイドの制服を着た穂子が頭を垂れてそれを出迎えた。この場合、メイドの主人はどのようにその労を労えばいいのだろうか。熟考する時間もなさそうだったので、とりあえず「ただいま」とだけ言ってドアノブから手を離して靴を脱いだ。
 ここ数年は男の一人暮らしとしては平均的な散らかり具合を維持し続けてきた我が部屋が、突然の来訪者の手によって整然と片付けられてしまった、その結果だけを零時は見た。ベッドの上に脱ぎ散らかしていた寝間着もないし、台所に積んでおいた食器類もすべて洗われて食器棚の中に納められている。フローリングの床を覆い隠すように放置されていた雑誌や文庫本は、紐でまとめられて部屋の隅に追いやられていた。まるで牢獄で沙汰を待つ罪人のような謙虚さで。
 部屋の中央に立ち、周囲をぐるりと見渡してみた。これが間違い探しのゲームならばおそらく成立しないだろう。回答者はいちいち細かな点を挙げるよりも「すべて」と解答する方が利口だ。かろうじて間取りは変わっていないようだが、冷静に考えればそれは当たり前だった。
「すごいな。これ、全部穂子がやったのか」
 褒めたつもりだったのだが、穂子はじろりと冷たい視線を一瞬だけ返した。穂子が片付けたことに疑いを挟む余地はないし、確かに無意味な質問だったと思う。
「お夕食の準備ができております」
 事務的にそう言って、零時がスーツを脱ぐのを手伝った。同じ歳の、しかも昔からよく知っている女性の前で部屋着に着替えるのはかなり抵抗があったが、穂子はまったく意に介していない様子でちゃぶ台に零時の分の夕食を並べ始めた。どこまでも無機質に零時と接するのである。
「あれ、穂子の分は?」並べられた夕食が一人分しかないことに気づいて零時が尋ねる。「食べないの?」
「あとでいただきます」
「一緒に食べればいいのに」あぐらをかいて座る。「別に、そこまできっちりメイドしなくても」
「主人と一緒に食事をするメイドはおりません」
「メイド辞めたら?」
 返事はなかった。
 穂子はお盆を胸に抱えたまま、部屋の隅で正座をして待機していた。いただきます、と一応断ってから、恐る恐る料理に箸をつける。しばらく食べたことのない旨い料理だったが、今にも破裂してしまいそうな窮屈な空気のせいで、快適な食事とは言い難い時間が続いた。
「お坊ちゃん」
「その、お坊ちゃんっていうのやめてくれ。もう三十路も過ぎてるってのにそれは無理がある。それに昔はそんな呼び方はしなかっただろ?」
「では零時さん」意外に素直に呼び方を改めてくれた。「旦那さまとはお話なさいましたか?」
「……後でするよ」
 零時は気が重くなった。あの親に立ち向かうには今日の自分は消耗しすぎている。夕食を平らげるのにたっぷりと時間を使ってから、零時は覚悟を決めた。重すぎる空気の中で食事を続けるうちに、これならまだ両親と話した方がマシだと考えを改めたのである。
 食事を終えると、何も言わないうちにそれが当然とばかりに穂子が後片付けをする。
 零時は溜め息をついて、自分の出自を時間をかけてたっぷりと呪ってから、携帯電話のアドレス帳から実家の番号を取り出した。この家に固定電話は置かれていない。平日の大半は会社にいるし、休日も家で過ごすことは希だった。それならばどこにいても連絡が取れる携帯電話の方が良い。これからも通信のワイヤレス化は進むだろう、と日本の通信業界に想いを馳せながら、コールが終わるのを待つ。
 父親が出るまでに三人の使用人を介して、最後の一人の「しばらくお待ちください」を聞いてから五分ほど待たされた。どこかで聞いたことのある安っぽいメロディーの保留音が延々と流れ続けていた。
「来週までに戻ってこい」
 ――というのが父の第一声だった。彼の会話に導入部は存在しない。相変わらずだな、と零時は思った。相変わらずうんざりするほど機能的で、能率的だ。
「お父さん――」どう切り出すべきか迷ったが、とりあえず一番当たり障りのないものを選んだ。「もう少し待てないかな」
「約束が違う」
「それは分かってる」
「お前がその仕事を始めたとき、十年だけ、という約束で我々は認めたはずだ」
 我々、というのは一体誰を指すのだろうか。父と母のことか、それに姉は加わるのか、あるいは笠木家の所有する企業全体も含むのか……。少なくとも、父個人が、ということではないらしい。
「約束は守れ。もしお前が約束を守れないというのなら、我々も守るつもりはない」
「だからそれは分かってる。これは約束じゃなくて、お願いだ」
「お願い?」
「お父さん、お願いします」受話器を通して頭を下げるほど、零時は純粋な人間ではなかった。「もう少し待ってください。せめて、今手がけている仕事が終わるまでは……」
「代償を支払え」
「前に言ってた、お見合い。ちゃんと受けるよ」
「……ふん」
 電話の向こうで息を吐く音が聞こえた。自分の人生を切り売りするようで嫌な感じがしたが、切り売りできる自由があるだけマシな状態だと言える。伝統と権威を持つ他の貴族的な一族に比べれば、笠木家の長男は放蕩息子と罵倒されるほどには自由に生きている――彼らの価値観においては。
「いいだろう。自由を許可する」
「本当に?」
 予想外にすんなりと認められて、零時は自分が父の言葉を聞き間違えたのではないかと思った。しかし父はそのような人間的な錯覚には興味がないらしく、零時の確認には答えずに、
「壬生の娘がいるだろう。代われ」
 と、零時に命令した。
 穂子を呼んで、受話器を渡す。洗い物を中断して台所から戻ってきた。
「はい、穂子です」
 受話器に向かって何度か返事をしてから、父に向けて長い話を始めた。どうやら今日起きたことを洗いざらい報告しているようだ。穂子の仕事は父の目となり手先となることなのだ。
 穂子が長い報告を終えるまで、零時は文庫本を開いて時間を潰した。海外の翻訳小説である。
「零時さん」穂子の電話が終わるまでに小説を十六ページも読み進めていた。「旦那さまは、今の仕事が一区切りつくまでは自由にしてもよいとおっしゃいました」
「聞いたよ」
「今の仕事は、あとどれくらいかかりそうですか?」
「さあ。やってみないことには……」
「そうやって期日を延ばそうとしても無駄だと思います」
「なるほど」零時自身も、この作戦に過大な期待を抱いていたわけではなかった。「まあ、そうだな。二週間くらいが限界だろう」
 零時は仕事を終えるまでの日数ではなく、父の寛大さの限度について話していた。あの仕事が二週間で終わるとは思っていなかったが、二週間もすれば父の忍耐もはち切れて、おそらくは何らかの実行力を行使して零時を強制的に実家へと連れ去るだろう。その場合は穂子に命じる可能性がもっとも高い。
 零時は穂子の顔をちらりと横目で見た。彼女は『旦那さま』に命じられれば零時を縛って父に献上することを厭わないし、それに加えて彼女は零時にあまり好意的ではない。命じられなくとも自主的にそうすることすらありえそうだ。
 暗い未来に頭が痛くなった。それを忘れるために話題を別の、事務的なものへ転換させる。
「それで、穂子はそれまでどうするつもりなんだ? まさか、ここに泊まるわけじゃないだろうし」
「いえ、ここに泊まりますが」
「……それは」零時は頭を抱えた。「色々とまずい。倫理的な意味で」
「何かご不満でしょうか」
「不満だよ。いや、それ以上に不安だ」
 零時は改めて穂子のことを見た。穂子の体を。零時と同じ三十代のはずだが、その外見は二十代と言っても通るだろう。瑞々しく、しかし肉感的でもある。いや、そう思うのは、自分がそういったことにしばらく縁がなかったからだろう。
「何かご不安でしょうか」
「穂子は嫌じゃないのか。その、俺と二人っきりで」
「零時さんがわたしに何かをなさると、そういうことでしょうか?」
「そうならないように努力はする」
 そう言った瞬間、穂子の唇が勝利に歪んだ気がしたが、その変化量は誤差として切り捨てられるほど小さなものだった。零時はそれを無視する。
「それと、零時さん」
「……まだ何かあるのか」
 良い提案であることを望んだが、それは望むべくもない。
「旦那さまのご命令で、お昼に零時さんが出社なさる際もわたしが同行することになります」
「命令か……」
「命令です」
 穂子が確認した。出てくるものが提案であるはずがなかった。そもそも、自分にはこれ以上とやかく言う権利などない。
「同行? 同行だって?」
「護衛とお考えください」
「出社する際……ってのは、昼間ずっと?」
「ずっと」
「朝出勤して帰ってくるまで?」
「いえ、それは違います」穂子は零時の間違いを訂正する。「朝起床なさってから夜就寝なさるまでの間です」
「それまでずっと一緒?」
「入浴とお着替えは自分でなさってください」
 当たり前だ。
 それにしても、護衛とはどういうことだろう。父は探偵という職業がよほど危険なものだと勘違いしているのだろうか。海外ならいざ知らず、ここは日本だ。探偵というよりはただの調査会社社員である自分に、護衛をひとり付けるというのは少々大げさな気がする。
 穂子の視線に気がついて、そうか、これはむしろ、自分が逃げないための見張りなのだなと理解した。護衛とはただの言い訳だろう。
 少なくとも二度、零時は両親との約束を反故にし、交渉によって自由を確保してきた。いざ屋敷に連れ戻されるとなれば姿をくらますこともありえると、そう思っているのだろうか。
 その読みは正しかったが、最大の間違いは、もし失踪すれば探偵の仕事を続けられず、そうなれば失踪する意味がない、と零時が思っていることだった。零時は自由にはそれほど関心はなく、すべては探偵を続けることが最優先の目標なのである。
「でも、どうするんだ? この家、予備の布団なんかないし……」
 ベッドを見ながら言う。泊まりの来客といえば女を呼んだときくらいだが、その場合は同じベッドで眠るので問題はない。それにしても、この部屋に女性が来るのも久しぶりだ。二年ぶりだろうか。最後に別れた女の顔すらおぼろげになっている。
「よろしければベッドの右半分をお貸しください」
「それはマズいだろう」
「では床をお借りします」
「そういうわけにも……」
「かと言って、零時さんが床で就寝なさることは許されません」
 許されない、ときた。
 最終的に、零時はベッドを使い、掛け布団と床の一部を穂子に貸し出すことで二人は合意した。
「わたしと同じベッドで眠るのはお嫌ですか?」
 ――などと、議論の最中に挑発的な言葉が飛び出したりしたが。
 就寝前に穂子がシャワーを浴びる音や、真夜中に聞こえる彼女の寝息、ときおり寝返りを打つ音が妙に響いて、その日の零時はなかなか寝付けなかった。目をつむっていると、真っ暗な頭の中で、昔の穂子の姿やさきほどの挑発的な言葉がぐるぐると回り、零時の中で凍らせていた気持ちを蘇らせた。



 翌朝、穂子は宣言通り零時の出社に同行した。電車での通勤だが、メイド服を着た彼女は人々の注目を集め続けた。しかも護衛を意識しているのか常に零時のそばに立っている。零時はすし詰めにされた車内で穂子の体とほとんど密着した状態で数十分揺られ続けることになった。
 六月だというのに天気の良い日である。まるで梅雨などなかったかのような青空だが、しかし肌にべたつくような湿度だけは健在だった。電車から降りたときに零時はうっすらと汗をかいていた。
 前島探偵事務所の中に入るとより一層強力に視線を集めた。穴があったら入りたい気分になる。もちろん、そんな便利な穴などない。
 同僚の視線を無視して自分の席につく。穂子はメイドのように、零時の背後に音もなく待機した。メイドのように、というか、メイドなのだが、どう考えても場違い……しかも、正直言って邪魔だった。背後の視線が気になって業務に集中できない。
 仕切りの上から多賀が首を出した。
「……お坊ちゃん、ちょっといいかい?」
 返事をする間もなく多賀は零時の腕を引っ張って部屋の外まで連れて行く。廊下に出ると、出社したばかりの同僚のひとりとすれ違った。彼から好奇の視線を送られる。
「ちょっと、あれはどういうことなの?」女が浮気をした男を問い詰めるような台詞で多賀が質問する。「何だあれ。どうして二日連続でメイド同伴なんだよ」
「その、ちょっと事情が」
「きみ、貴族主義にでも目覚めたの? メイドはべらせて何やってんの?」
「誓ってそういう意図はありません」
 ドアの開く音がして振り返ると、二人の後を追いかけて穂子も廊下に出てきたところだった。多賀の視線が彼女に釘付けになる。
「いえ、わたしのことはお気になさらずに」
「気になるよ」
 多賀は正直にそう言ったし、言葉には出さなかったが零時もまったく同じ意見だった。
 穂子には説明をする気がないようなので、零時は昨日の昼から起きた一連の不幸を多賀に語って聞かせる必要に迫られた。零時が極力誇張を交えずに事実だけを話しているのを聞きながら、穂子は澄ました顔で何も言わずに背後に佇んでいた。まるで背後霊のように。
「なるほどね……と、言いつつも、納得はできそうにないけど」
「すみません」
「あんまり部外者は入れたくないんだけどな」
「ここで見たことは、わたしは一切外部へ漏らしません」
 穂子が理性的な声で断言した。それには多賀の信頼を勝ち得るだけの説得力があった。
 それでも多賀は、穂子を連れて仕事をすることに対する問題点をしばらく並べ立てた。
 しかし究極的には、もしその条件が呑めないのならば零時を強制的に連れて帰るし、穂子の同伴によって発生する損失はすべて笠木家が補償する、というほとんど脅しに近い穂子の主張に折れて、多賀も部下のそばにメイドが控えるという異常事態に目をつむることにしたようだ。
 責任は全部きみが取るんだよ、という条件付きで。ここのところ、交渉はすべて成功しているはずなのに、どんどん肩身が狭くなっている気がする。自分の人生を譲歩しすぎたのかもしれない、と零時は憂鬱な気分になった。。
 多賀に続いてフロアに戻ると、同僚の向井が零時のデスクで待っていた。銀縁の眼鏡を押し上げて尋ねる。
「その人は……」
「班長の許可は取ってる」
「そうか。ならいいんだが」まだ腑に落ちない様子だったが、早速本題に入る。「お前、今度の絵画泥棒のやつ担当になったんだろ?」
「そうだが。……そういえば、あれは向井の対応したクライアントか」
「書類くらい読め。それで、もしクライアントから直接話を聞きたいなら俺が代わりにアポを取るが、どうする?」
「頼む」
「後で電話しておくよ」
「ありがとう」
「手一杯でなければ俺がやってるところだ。俺に恥をかかせるなよ」
 ただでさえ細い目をさらに鋭く尖らせて、向井は零時のことを睨み付けた。仕事熱心な男だと呆れながら、無防備に視線を受け入れる。
 さらに二つ三つほど皮肉を言ってから、向井は自分の席に戻った。
「嫌になるよ。ああも縄張り意識むき出しで接されると」
 穂子にそう愚痴をこぼすも、彼女は空気のように何も答えない。今気がついたのだが、穂子はずっとそうやって立っているつもりなのだろうか。
 「お気遣いなく」――というのが、疑問をぶつけた零時への返答だった。
 とりあえずは依頼人と会うのは確定しているが、それまで遊んでいるわけにもいかないだろう。絵画が盗まれた手口を改めて洗い直すことにした。
 事件が起きたのは四月二日、画商の秀島ひでじま純一じゅんいちが、倉庫に保管していた油絵数点が偽物とすり替えられていることに気づき、警察に通報した。被害者は三月の末に展覧会を開いており、犯人はその際に油絵をすり替えて盗み出したものと思われた。油絵の偽物は一見すると本物にそっくりだったが、知識のある者が近くで観察すればすぐに偽物と分かる程度の出来だった。しかしその手際の良さから美術にかなり精通した犯人による犯行だと思われた。
 犯人が逮捕されたのは被害届が出されてから一週間後だった。犯人の名前は松渕まつぶちひろむという四十三歳の男性で、逮捕時には無職。窃盗の常習犯だった。
 松渕の自宅からは犯行に使われた道具などが多数見つかっているが、盗まれた絵画三点は見つからなかった。犯行の方法は、展覧会の最中に会場の電源を落とし、業者に扮した松渕が修理の振りをしてその間に絵をすり替える――という、かなり単純な方法だった。
 不可解なのは、この短時間でどうやって犯人の松渕の居場所を警察が突き止められたのか、ということだ。つまり、誰かが彼の居場所を警察に密告したと考えられるのではないだろうか。
 零時はその人物に心当たりがあった。被害者の画廊は伊吹市にあるが、その一帯の出来事をおよそほとんど把握している千里眼のような情報網を持つ男がいる。松渕を引き渡したのが彼でないとしても、彼ならその密告者を知っているのではないだろうか。
「すみません、ちょっと出てきます」
 班長にことわってから、零時は事務所を出た。その後ろを会話もなく穂子が付き添った。
 駅まで徒歩で行き、そこから二駅ほど電車で揺られ、駅から繁華街まで十分ほど歩く。昼時にはまだ早いせいか、零時が知っているいつもの街よりもずいぶん人が少ないように感じた。
 通りからずっと奥に入り、くすんだ灰色の汚い雑居ビルの地下一階に目的の場所があった。英語ではない言語、おそらくフランス語で書かれた看板が表に立っていた。
 そこはショットバーであり、営業が始まるのは夕方の五時からだが、零時の目的は酒を飲むことではない。
「あの、零時さん」
 目的の建物に入ろうとしたところで穂子に呼び止められた。
「なに? どうした?」
「いえ、差し出がましいようですが、お仕事を怠けて、このようなところに寄るのはあまり……」
「これも仕事だよ」
 準備中の札を無視してドアを開ける。鍵が掛かっていないことは知っていた。そうでなければ自分のような人間が入れなくなるからだ。
 中に入ると床にモップがけをしている従業員がひとり。格好から推測するにバーテンのひとりだろう。
「営業はまだですよ」
 零時たちの方を見て、おそらく穂子の姿に怪訝な顔をして男が言った。
しずくさんいる?」
 従業員は面倒くさそうに、ちょっと待っててください、と言って奥に引っ込んだ。しばらく待たされると、奥から燕尾服を来た男が出てきた。両手の指に銀色の指輪をぎらつかせ、髪の毛をジェルでべたべたに固めていた。ショットバーよりもライブハウスが似合いそうなパンクな男だった。
「笠木くんか。久しぶりだな」
「ちょっと最近忙しくて」
「たまには来いよ。ビールの一杯くらいならおごる」
「ビールも置いてるんですか? カクテルだけだと思ってた」
「飲みに来たわけじゃないだろう、優等生」雫は尊大に鼻で笑う。一瞬だけ穂子のことを見たが、すぐに視線を戻す。「用件を言え。これでも私は忙しいんだ」
「四月の頭に、秀島という人が絵を盗まれました」
「ほう、それは気の毒な話だな。お悔やみを申し上げる」
「でしたら、盗まれた絵が今どこにあるのか、秀島さんに教えてあげればいいと思いますよ」
「そいつは買いかぶりだよ。私にだって分らないことはある」
「そういう誤魔化しはやめにしましょう」零時は言う。「無闇に話を長引かせても、お互いに得るものはないでしょう。俺だって、雫さんほどじゃないが、忙しいんだ」
「笠木くんはその事件についてどこまで知っている?」
 すぐに核心に触れた。雫はこのあたりの切り替えがずば抜けている。ペースを取られると、そのままずるずると引きずられてしまう。
「新聞に載っているような、表面的なことばかりです。ほとんど何も知りません。ですが、そこから推測することはできます。松渕を警察に売ったのは雫さんですね?」
「どうして私がそんなことをしなければならない?」
「松渕に絵を盗ませて、あなたがその絵を捌くつもりだった。ところが松渕は絵をくすねて逃亡した。その報復に、雫さんは松渕を警察に突き出した。……というのは、どうですか?」
「見くびってもらっちゃ困るな。絵を持って逃げたんなら、警察になんか引き渡さないさ」雫は笑う。「その場合、あいつには死んでもらう」
「ということは、松渕は絵を渡した?」
「いや、絵は相変わらず行方不明だ。それにそもそも、松渕を使ったのは私ではない」
「というと?」
「私の取引相手は彼ではないということだ」雫は喉に絡みつく声で笑った。「かわいそうに。松渕くんは私の八つ当たりで警察に捕まったんだね。と言っても、あんな計画じゃあ捕まるのも時間の問題だっただろう」
「雫さんの、その取引相手の人が黒幕ということですね。その人が絵を持っている?」
「絵をこちらで処分する、という条件付きで、あいつらの仕事を黙認することにしたんだ。私にも面子というものがある。私のテリトリーで余所者が好き勝手に泥棒を働いては困るからね、色々と……。そのために協力もした。道具とか、調査とか、その他諸々の面倒な仕事をね。秀島が絵を盗まれたと聞いたとき、私は成功を確信した。ぬか喜びだったがね。その後は音信不通、手を尽くしているが未だに尻尾もつかめない」
 この男が素直に敗北を認めるのは珍しいことだ。それほどまでに手強い相手だということか。
「正直言って不愉快だね。ここまで馬鹿にされたのは久しぶりだ。私の顔に泥を塗った報いを、やつに受けさせなければならない」
「そいつは怖い」
「それで、笠木くんも絵を追いかけているのか?」
「幸運なことに、俺が追いかけているのはその黒幕の方ですよ。絵の方は雫さんに譲ります」
「それはよかった。こんなくだらない事件で、友人を失うのは耐え難い」
「それで、その黒幕の名前は何というのですか?」
「女だよ。二十代後半……から三十代前半。化粧が濃かったのでただの印象だが。名前は赤織あかおり志摩しまと名乗った」
「――何ですって?」
「赤織志摩。色のアカに、機織りのオリ、志すのシに、薩摩のマ」
「赤織志摩……」
「偽名だよ。本名を名乗るほどの馬鹿じゃない」
「零時さん、大丈夫ですか? お加減が――」
 見かねた穂子が零時に駆け寄る。零時は自分の顔から血の気が引いているのを感じた。ぞくぞくと寒気が走り、身震いをする。
 それは恐怖に似た感情だった。
 巨大な迷路の中に取り残されてしまったみたいだ、と零時は思った。その迷路は遙か上空から眺めれば意味のある形になっている。しかし迷路の中にいる自分にはその形を認識することができない。その模様を楽しむことができるのは、高みから人間を見下ろしている神だけだ。自分が体験しているこの恐るべき状況に、零時はそんな想像をした。
「ところで、いい加減説明してもらえないだろうか」痺れを切らしたように雫が言った。「この美女は一体誰の女だ? この娘ときみの関係は?」



 事務所に戻ると、さっそく向井から、依頼人の飯山弁護士との顔合わせが明後日に行われることを告げられた。そのときに被告の松渕とも面会させてもらえるらしい。その話を零時は半ば上の空で聞いていて、そのことについていつものように向井が皮肉った。
 家に帰るまで、零時は赤織志摩に関することを何も話さなかった。絵画泥棒以外にも探せばいくらでも仕事がある。最初の仕事は、班長の多賀に退職願を提出することだった。あらかじめ宣言していたのであまり感動もない、きわめて事務的な手続きだけが静かに行われた。
 穂子が自分のことを気にかけているのが零時には分かった。しかし零時は何も話さない。零時が穂子の気遣いに気づいている、ということをすでに気づいているだろう穂子の方でも、あえて零時への直接的な質問は避けた。
 この奇妙なチキンレースは自宅に戻るまで続いた。零時にとっても意外なことに、最初に折れたのは穂子の方だった。
「ええ、わたしの負けです」
 部屋に戻るなり唐突にそう言われたので、零時は一体何の話題なのかさっぱり分からなかった。たった今まで二人は今日の夕食の献立について話し合っていたのだ。
「零時さん、赤織志摩という人と何か関わりがあるんですか?」
「ああ……その話か」零時は頷く。「ちょっと待っててくれ」
 零時は棚に並んだファイルの中から、もっとも古いもののひとつを取り出した。使い古されぼろぼろになった紙のファイルは、少し力を入れれば簡単に破れてしまうだろう。
 穂子に手渡すと、彼女は零時から見れば滑稽なほど慎重な手つきでファイルの中を検めた。中には新聞の切り抜きや手書きのメモ、写真などが入っている。
「これは?」
 『無人島での惨劇!』という見出しのついた、新聞のスクラップが挟まっていた。とても小さな記事である。
「俺が探偵になりたかった理由……。多分、穂子も知っていると思うけど」
「零時さんが夏休みに、ご学友と無人島に旅行に行ったときのことですね。その……話だけは伺っておりますが、殺人事件が起きたと」
「ああ。捜査は途中で打ち切り。一般向けには自殺ってことになってるけど。多分、赤織家が圧力をかけたんだと思う。そういうことができる人たちだったから」
「世良島……でしたよね」
「ああ。あのとき俺はまだガキだった」
 零時は頷いた。
 零時を含めた六人のグループを中心に、保護者として大人が二人同行した。零時以外の子供は赤織家が厳選した、赤織志摩の友人としてふさわしいような、特殊な才能を持つ子供たちだった。その旅行先の無人島というのも、その旅行のためにわざわざ赤織家が買い取ったのだ。ホテルに泊まるのと同じくらいの気軽さでそんなことをやってのける一族なのだ。
 笠木家が現在のような特権的な富を手に入れる前の出来事である。本来ならば天才少女五人の旅行となるはずであり、家が少しだけ金持ちというだけで何かに秀でているわけでもない零時が気軽に参加できるものではない。
「そんなに卑下なさることはないと思います。零時さんは十分、すごい方だと思います」
「俺なんて、あのメンバーの中にいたらそれだけで霞んでしまうよ。その天才少女たちにしても、赤織志摩の才能とは比較にならない」
「それでは、どうして零時さんはその旅行に参加できたのですか?」
「たまたま赤織志摩と知り合ったら、理由は分からないが妙に気に入られてね……。あれはどこかのパーティだったと思うが」
「ロマンティックな出会いですね」
「ただの気まぐれだと思うが。あの旅行以降、あいつはほとんど俺には近づかなくなったしな。それはさておき、そのときのことが縁で旅行に参加することになったわけだ。赤織家の方はどこの馬の骨とも知らない、ただの凡人が友人面をすることに大反対したらしいが。だとしても、あの旅行もあのメンバーも、すべて赤織志摩のために用意されたものだからな。彼女の意向には誰も逆らわなかった」
 赤織志摩は巨大な恒星のような存在で、他の星はすべて彼女を中心に公転し、彼女の光を受けて輝いている。赤織志摩がほんの気まぐれに地軸を揺らすだけで、他の星々を容易に宇宙の彼方にはじき飛ばしてしまうのだ。
「あれから十年以上経って、色んな人とも会ったが、それでも彼女ほどずば抜けた人間には会ったことがない。頭の良さとは無関係に、何というか、空気が違う。雰囲気というか」
「そんなにすごい方だったのですか」
「しかも赤織財閥の直系、だったからな。富と権力と、知能。それに美人だった。誰にも太刀打ちできないよ」
 穂子の視線が少しだけ鋭くなった。彼女の前で他の女性を褒めるのはマナー違反だったかもしれない。
「ところがその旅行中に殺人が起きた。犯人はそのとき島にいた俺たちの中にいる。……誰が犯人だったとしても角が立つ」
 だから、彼らがしばしば用いる事なかれ主義によって、その事件は強引に封じられてしまったのだ。それは笠木家が力を手に入れた現在も掘り返すことのできないタブーなのである。
「俺は真相を探していた。ずっと――探偵になる前から、ずっと」
「その志摩さんが、泥棒の黒幕ということですか?」
「分からない。志摩自身は現在行方不明だ――あの事件があった後、色々あって赤織は破産してしまったからな。一家離散で自殺者も多数。本当に、あの世良島での出来事が霞むような話だった」
 だからこそ、零時はこの事件の謎を解かなければならないのだ。
 志摩に約束したのだ。いや、約束というよりは、宣言――宣戦布告に近いものがあったが。
 零時は微笑んだ。フェリーで世良島に到着したときのことを思い出したのだ。殺人など起こる前の、赤織家が破産し零時が志摩を見失う前の楽しい記憶。
「長い話になるが、聞いてくれ。最初の日、俺たちは――」

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