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第四章

 芝川の死からすでに二週間が経っていた。
 県警の捜査一課のオフィスで、崎警視はコーヒーを片手にパソコンを操作していた。メールをチェックするとやっぱり来ている。送り主はあの藍川優だ。
 芝川の死によって、葵荘での連続殺人事件は一応の踏ん切りがついている。
 ――犯人は、芝川だったのだ。
 自分とは無関係な三人の人間を殺害し、あげくの果てに自殺。
 そんな馬鹿な、と言いたくなる真相だが、現場の状況を考えればそれ以外の可能性はないように見える。少なくとも、警察の公式見解ではそうなっている。
 あのとき崎警視が辻真に見せた鍵はあの部屋の鍵であった。その場で確認したし、後でちゃんと鑑識に不審な点がないかも確認させた。ドアを蹴破った段階では確実に鍵が掛かっていたそうだ。
 芝川を絶命させたロープは葵荘にあったものではなかった。ホームセンターなどで簡単に買えるもので、このロープを本当に芝川が買ったかどうかを確かめるのは難しい。ロープはあの部屋の天井を走っていた配管に掛けられていた。ロープには切断の後があったので、恐らく配管の高さを見て首を吊れる長さになるようにその場で切ったものと思われる。切り取られた方のロープは現場では見つかっていない。
 今回は部屋の窓の方にも鍵がかけられていた。そして外側からの視線を遮るブラインド。寝室へのドアも鍵が掛かっていた。そちらの鍵は寝室の中で見つかっている。
 あの後、葵荘にいた警官たちへの詳細な聞き取り調査を行ったが、現場に不審な人物の姿はなかったらしい。つまり芝川の部屋は、鍵と、葵荘にいた警官たちの視線による二重の密室となっていたのだ。
 それゆえの自殺。
 状況自体もかなり不自然だが、それよりもおかしいのはどうして彼が自殺したか、その理由である。あのときの捜査本部は芝川を容疑者だとは考えてもいなかった。もし仮に芝川が何もしなくともこの事件は迷宮入りになっていたかもしれない。まさか良心の痛みに耐えかねたわけではあるまい、というのは辻真が崎警視に散々指摘していたことだが。
 一応捜査本部は、芝川のアリバイが偽物であることをすでに調べ上げていた。事件後間もなく成絵がアリバイ工作について告白したのだ。この調子であの密室に関する疑問も解けるに違いないと、そんな楽観的な声が捜査本部の中からぽつぽつと上がるのを崎警視は聞いた。
 藍川からのメールには、主に堂東の麻薬売買に関する内容が書かれていた。彼は事件後も真実を見つけ出そうと独自に調査を進めていたのだ。崎警視は藍川に捜査の情報を教える見返りとして、彼の調査の途中経過を伝えてもらうことになっていた。
 メールの内容を精読する。堂東司光が主犯格であるのは疑いようがないとして、その弟の公博と双子の父ペトロスも関わっているようだ。成絵もある程度は夫が何をしているのか勘付いているらしい。
 そしてさらに、堂東たちにはもう一人の協力者がいるらしい。だが彼らとその協力者は数年前に決裂しており、それがきっかけで麻薬の取引から足を洗うことになったのだという。
 以上のことが、藍川優が自分で、時には誰かに依頼して調べたことの全てだった。
 何度もその文面を読み返し、問題がないことを確認すると、崎警視は自分ひとりで軽率な行動を取らないよう、さりげなく釘を刺す内容の返信を送った。
 犯人の残した遺留品もなく、動機もなく、奪われたのは四人の命だけだ。
 こうして、葵荘連続殺人事件は、非常に中途半端な形で、一応の終末を迎えたことになっていた。



 辻真が県警内の自販機の前で、小銭を片手に長考中の崎警視を見つけたのはちょうど午後三時。外での仕事が一段落し、上司に報告を済ませた後の小休止だった。もうすぐ夕方だが、外に出て食事をしている時間はなさそうだ。
 後ろからそっと近づき、未だに固まったままの肩を手で軽く叩いた。
「こんにちは。休憩ですか?」
 崎警視は振り向いて驚いた顔を見せると、破顔していつもの皮肉めいた口調で返した。
「ここのところはずっと休憩だよ。デスクワークはあんまり好きじゃないんだが」
「まだ現場に未練が?」
「未練と言うか、天職だからな。人を右から左へ動かすだけというのは、どうも性に合わない」
「部長が聞いたら怒りますよ」
 そうだな、と低く笑ってから硬貨を自販機の中に投入する。最終的に彼が選んだのは何の捻りもない缶コーヒーだった。
「辻真は? きみは確か、まだあの事件の担当だったね」
「そうですよ。と言っても、もうすぐ捜査本部は縮小されるでしょうね。そうなったらわたしも別の事件に行くことになりそうです」
「何か進展はあったか?」
「やはり気になりますか?」
「当たり前だ。あんな謎を目の前に放置しておけるか」
「では芝川さんの自殺ではない、と?」
「不自然な点が多すぎる、と言っているんだ。自殺説なら自殺説でもうちょっとマシなやつがなければ説得力がない」
 毒づいて、崎警視は自販機の隣に置いてあるソファに腰掛ける。辻真も自販機で炭酸飲料を買うと警視に勧められて隣に座った。
「何だ、それは。そんな甘いものを飲んで」
「コーヒーは苦手なんです」
「よくそれで刑事が務まるな」
「甘いものを摂取した方が頭がよく働くんですよ」
 冷たい炭酸をちびちびと飲んでいる辻真に対して、崎警視は缶コーヒーをすでに半分以上飲み終えているようだった。コーヒーが好きというよりは、単に喉が渇いているようだった。
「それで、きみの方はどうなんだ?」
「うるさい上司がいなくなて快適ですよ」
「それは結構だな」
 フン、と鼻で漏らすように笑った。見た限りでは、あの事件以来崎警視に変わったところは見つからない。
「相変わらず捜査に進展はないんだろう?」
「そんなことはありませんよ。まだまだ始まったばかり、やっと前哨戦が終わったという段階です」
「何か新証拠でも見つかったか?」
「堂東司光の部屋の本棚に妙な隙間があることに気付いたんです。調べてみたら、あの部屋にあった本の一冊が持ち去られていた」
「まさか……芝川が言っていた、あの本か?」
 顎に手をあて、おそらくそのときの映像を頭の中で再生しながら崎警視が言う。辻真もそのときの芝川の言動を鮮明に覚えていた。
 芝川が本棚から無造作に抜き取った分厚い本。崎警視に見せる。これで犯人が分かった、と。
「それで今は、さっき警視がおっしゃったように芝川自殺説にはもうほとんど説得力がありません。自殺に見せかけた他殺、ということで捜査を進めています」
「芝川の首は? 自殺なら、それ特有の後が残るはずだ」
「首に残っていたロープの痕跡は自殺特有の……首から上方向へ擦れるような後が残されていました。ですけど、こんなものはそういう知識のある人ならいくらでも偽装できますからね。上に吊り上げるように、例えばロープを肩にかけて背中で背負うようにして締めれば、ちょうどあんな感じの締まり方になります」
「他殺ということは、犯人はそういう知識を持った人間ということだな」
「今は職業殺人者の線も上がっています」
「つまり殺し屋か?」
「被害者は麻薬に関わりがあったみたいですからね。それ絡みならまるっきりファンタジーってわけでもないでしょう」
「どんどん話が大きくなっていくな」
 呆れたようにつぶやいてぐびっと缶コーヒーを仰ぐ。最後の一口を飲み終えたそれを、彼は名残惜しそうに見つめていた。
「そもそも一番の疑問は、どうして部屋の鍵を被害者の口に詰めたのか、ということです。実は密室よりもこっちの方がずっと不思議なんですけどね」
 辻真が話題を展開した。芝川の口の中にあったキーホルダーは光司と成絵が過去に二人で旅行をした際に買ったものらしい。キーリングには部屋の鍵と光司の自動車の鍵のふたつがついていたのだが、死体発見時にはなぜか車の鍵はリングから外されて机の上に置いてあり、部屋の鍵もリングから外されていた。
 自殺だろうと他殺だろうと、一番説明がつかない点はここなのである。
 自殺の場合はどうして鍵を飲み込んだのか、それもキーホルダーごと――キーホルダーから鍵をわざわざ外したにもかかわらず、である。他殺の場合も、あえて被害者の口の中に鍵を詰め込む理由は、少なくとも部外者の辻真からは何もないように思えた。
「崎警視はどう思いますか――その、芝川さんのことを知っている人間として」
「鍵を飲み込んだ理由か? それとも自殺の動機の方か?」
 できれば両方分かると助かるんですけどねえ、と曖昧に笑って答えた。捜査本部では今のところあの鍵については犯人(もしくは自殺した芝川本人)の猟奇趣味、ということでほとんど無視している状態である。もちろん目を逸らしたところでこの世からその存在が消滅するわけではない、と辻真自身は危機感に似たものを覚えているのだが。
「崎警視はどちらだと思いますか。その、自殺か、他殺か」
「しかしきみたちは他殺の線で進めてるんだろう?」
「ええ、まあ。ですが、ほとんどないとは言え、自殺の線がゼロというわけじゃない。可能性の虱潰しが捜査の基本ですから」
「ゼロも何も、芝川自殺説はそれほど悪いアイデアではないと思うが」
 もし真顔でなければ崎警視が自分をからかったのだと思っていただろう。すんでのところで出かかった愛想笑いを引っ込めて、ことさらゆっくりと相槌を打つ。少し時間稼ぎをしたかったのが本音だ。
「でも警視、さっきは不自然な点がどうのと――」
「自殺は不自然だが殺されたとなるともっと不自然だ。第一に葵荘にいた警察。どうやって犯人は芝川のいるあの部屋に侵入できたんだ? 第二にあの部屋の鍵。犯人はいかにして鍵を使わずに室内から脱出したのか。こういう点を解決できない以上、第三者が現れて芝川を殺す、なんてのは、それこそ魔法を使わなければ不可能だ。それに比べたら芝川自殺説は随分とハードルが下がる」
「不自然な点は心理的なものばかりですからね」
「そうだ。……だがそれにしたって怪しいものだがな。芝川と話した時間はそれほど多くはないが――それでも、あいつがそういう普通の人間の考えそうなことを考えない、かなりの変人だということは分かってるつもりだ。自分が人を殺した部屋で鍵を飲み込んで自殺するというのも――まあ、あいつがやったのなら、納得できないことはない」
「わたしは納得できませんけどね……まったく。そもそもその前段階、どうして芝川さんが三人を殺したのか、その動機の方が謎ですよ。もちろん、世の中には意味もなく自殺する人間もいれば意味もなく人を殺す人間もいるわけですが」
 辻真の脳裏には数年前から多発している無差別殺人のことがあった。動機のまったくない通り魔的な殺人は、被害者の人間関係から犯人を辿っていく従来の捜査方法では犯人の推定が難しく、おまけに予防もほとんど不可能に近いというかなりタチの悪い犯罪なのだ。
 あの芝川も、警察の天敵となるようなそういった犯罪者の一人なのだろうか。
 しかし崎警視の返事は否定的だった。
「いや、今回の件に限ってはそういうことはないだろう。被害者は直前まで犯人と普通に会っているふしがあるし、凶器も前もって用意されたものではない。殺人を犯すだけが目的なら凶器は自前のものを予め用意してくるはずだ」
「さっきからわたしの話を否定してばかりですが、警視自身はどう思ってるんです?」
「なんたって警察とはいえ、この事件ではすでに部外者だからな。上司が消えて寂しいだろうと思って、わざわざいじめてあげてやってるんだ。感謝しろ」
「この恩はいずれ仇で返させていただきます。それで、警視は何かないんですか? その、アイデアというか、密室を破る方法とか」
「うん。ないわけじゃない」
 てっきりまた説教で逃げるのだと思っていたばかりに、この返事は辻真にとって意外だった。
「まあこれは密室の方ではなくて、芝川が堂東光司を殺害した理由の方だが」
「麻薬絡みですか?」
「そう。ちょっと小耳に挟んだ話だと、堂東光司は過去に麻薬の密輸に携わっていたらしいんだが、その仲間の一人が正体不明の人物で」
「ちょ、ちょっと。なんで警視がそんなこと知ってるんですか?」
「だから小耳に挟んだ話だって言ってるだろ。もし何か違う情報があったら遠慮なく訂正してくれ」
「さすがにこれは同じ警察と言えども話せませんよ。捜査員に緘口令が出てるので」
「何だ、そんな大事になってるのか?」
「公安絡みでね、ちょっと公にはできないんだそうです」
「いや、まあいい。それじゃ堂東光司と堂東公博、それにペトロス・グランが麻薬密輸をやっていたのは確かなんだな?」
「ノーコメント」
「その三人プラス一人の合計四人がヨーロッパから麻薬を密輸していたと」
「だからノーコメントです」
「ノーコメントであることがすでにコメントになってるぞ」
 冗談めかして言った。刑事としての経歴は崎警視の方がずっと長い。その彼なら、無闇に他の刑事に話せない自分の立場にもある程度の理解はあるだろう。
「四人目の人物はもう掴んでいるのか?」
「容疑者なら何名か」
「その四人目というのが芝川だという可能性はないか?」
「え……? 芝川さんが、ですか?」
 ああ、と頷く。
「ちょっと個人的にあいつの経歴を調べてみた。あいつ、中学を卒業して四年ほど日本から姿を消してるんだ。その空白の四年と、堂東たちが密輸をしていた時期がぴったりと合う」
「それだけではちょっと弱い気がするんですが」
「証拠にはならんだろう。が、芝川がその四人目だとしても不自然ではない。彼の経歴とは矛盾しないんだ。さて、では芝川がその四人目だと仮定したら、彼が三人を殺す動機はどのようなものが挙げられるだろうか」
「ありがちなのがその密輸時代の儲けをめぐっての諍いでしょうか」
 堂東はいろいろと胡散臭いところのある人物だから、まあ殺される理由は普通の人間よりも多いだろう。が、クロエとエレナの二人は別だ。日本に住んでいるわけでもなく、ましてや子供。
「ではクロエとエレナの二人は? まさか、口封じですか?」
「あの二人は光司の部屋に芝川が入るのを見ていたんだ。それを芝川がその場で口止めしたんだ」
 でも、二人はいつそのことを話すか分からない。だからその日のうちに二人も殺してしまう。
 欲しいから殺す。邪魔だから殺す。
 欲望と保身による殺人。
「だとしたら自殺の動機は何なんです? 金を手に入れて、自分の無実も確保して、一体何が悲しくて自殺なんか」
「そこが違うんだよ、辻真。芝川は最初から自殺するつもりだったんだ。あの密室でのロープがその証拠だ。わざわざ事前にあの部屋を調べて、その長さにロープを切っていたんだ。だから本来の一番の目的は最後の自殺だけで、その前の二つは副次的なものなんじゃないかと思うんだ」
「自殺のための、殺人?」
「辻真、人はどうして自殺すると思う?」
「知りませんよ。生憎わたしはまだ生きているので」
「世の中の大半の自殺者はただの逃避で、自分が死んだ後の世界については考えもしないのがほとんどだ。ところがごくたまに、自分の名誉や財産や――死後の世界のために死ぬ人間がいるんだ。昔、自分の名誉を守るために武士が切腹したみたいに、な」
「センチメンタリズムによる自殺ですか」
「思うに、芝川は自殺の前に自分の過去の悪行を抹消したかったんじゃないだろうか。密輸の主犯格である堂東光司を殺害し、殺人犯の汚名を逃れるために双子も殺し、そして罪を背負わない形での綺麗な死――。わざわざ成絵と共謀してアリバイまでこしらえた。……自分で言っていてかなり気持ちが悪いんだが、あの芝川にもこういう幻想があったとしてもおかしくはない」
 辻真に講義しているというよりは、自分でもまだ納得できないところがあって、その点をどうにか説得しようとしているような、わずかな必死さが見てとれる推理だった。
 あまり綺麗とは言えない。舗装ばかりされて無闇にごてごてと装飾された物語。
 しかし事件のピースがぴったりとはまる形。
 崎警視が立ち上がった。彼の身長は辻真よりも頭一つ分高いことに今気がついた。しかし今の崎警視にはいつものような静かな熱はなく、どこか燃えかすのような、微妙に消えかかった熱意を纏っているだけだった。
「少し喋りすぎたな。……また何かあったら教えてくれ。あんまりさぼるなよ」
 彼が今どんな表情をしているのか、気になって横顔を見上げようとしたが、もうそのときにはこちらに背を向けてしまった後である。言葉をかけ損ねた辻真を残して、崎警視は構わずに廊下の向こうに歩き始めていた。



 通常よりも長い休憩を終えて辻真は自分のデスクに戻った。予定ではもうすぐ会議があるはずである。それまでに色々と準備しておかなければならないことがある。
 県警の殺人課は一般にイメージされているほど小汚いところでなければ人が多いところでもない。白い壁には染み一つなく、それぞれの捜査官たちのデスクは空いているところが多かった。ほとんどが捜査のために外に出払っているのだ。
 辻真は崎警視の姿も探してみたが、彼のデスクには電源の入ったままのノートパソコンがあるだけだった。彼も自分の事件を抱えて大変なのだろう。担当する事件が違えば会う機会は劇的に減るのだ。
 片付いているというよりは単純に物がないだけの自分の席に戻ってデスクのデジタル時計を見た。会議までにまだ時間があるのを確認して、ひきだしの中に強引に仕舞い込んであった書類の束を引っ張り出した。
 会議で何を報告すべきかを自分の手帳に走り書きしてゆく。部下の捜査による報告書自体は何度も目を通してほとんど記憶している状態だったが、これを他の捜査員たちに分かるように順序だてて整然と説明しなければならない。基本的には事実の羅列をするしかない捜査会議だが、だからといって報告書の一字一句をすべて知らせていたのでは時間がいくらあっても足りないのだ。
「辻真さん」
 机を二つ挟んだ向こう側から声を掛けられた。同僚の川田利由である。辻真と同様に葵荘での事件の捜査を担当している。崎警視が主任を降ろされた後に捜査本部を強化する目的で捜査員の増員が行われたが、この刑事はそのときの増員組の一人である。
「今日の会議は何時だったっけ。あ、いや、メモを取るのを忘れて……」
「会議は七時ですよ」
「ああ、やっぱりそうだったか。スマン」
 両手を合わせて感謝のポーズ。馴れ馴れしい男だがさっぱりとした性格で人情にも厚いために嫌な思いはしない。
「そうそう、辻真さん。工藤と獅子田もこっち配属になりそうだって部長が言ってましたよ」
「葵荘のやつですか?」
「うん。捜査費用も特別予算が組まれたって話だし」
「ここに来て増員ですか……」
「そうとう躍起になってるみたいだねえ」
 他人事のように川田が言った。この事件に最初から関わっていた辻真とは事件に対する温度が違う。
 おそらく警察の上層部も同じなのだろう。警察が封鎖していた建物で四人の人間が死んだのだ。世間へのイメージは最悪。これでもし事件が迷宮入りにでもなってみれば、それこそ後世まで日本警察の無能の実例としてこの事件が挙げられるのは疑いようがない。
「少なくとも全力で捜査にあたっているという、その事実というか、建前は必ず必要だから。必ずしも犯人が見つからなくてもね」
「ずいぶん志が低いんですね」
「そうかな。信じてもらえないだろうけど、これでもやる気はあるんだよ。崎警視の弔い合戦――ってわけでもないけどさ。俺たちの上司があそこまでコケにされて、このまま引き下がるわけにはいかないからな」
 おや、と辻真は思った。多少の皮肉を込めて言ったつもりが予想以上に勇敢な答えが返ってきた。崎警視のため、という考え方は辻真には理解できないが、そういう考え方をする種類の人間は多そうだし、案外犯人逮捕に熱意を持っているのは上層部ではなく現場の刑事たちなのかもしれない。
 それからしばらく川田と話して――辻真自身は雑談よりももっとやりたいことがあったのだが、川田が積極的に話しかけてきたので相手をするしかなかったのだ。とにかく時間が来たので、まだ話し足りない様子の同僚をあしらう形で連れ立って会議室へ向かった。
 捜査会議、というよりも、内輪での打ち合わせ、という趣の強い会議である。会議室には見知った顔が大半、知らない顔が数名、といった面子で、全員を合わせても二十人に満たないだろう。
 どうやら辻真たちが最後のようだ。正確に会議の始まる時間に来たので遅刻というわけではない。みんな始まる時刻よりも早めに会議室に来ていたらしいが、辻真は時間よりも早く着くことが遅く着くことと同じくらいに嫌いなのだ。
 ペコペコと頭を下げて着席する川田に対して、辻真は上司に軽く会釈しただけで席に着いた。
「さて、もう知っている人もいるでしょうが」
 余計な挨拶を挟まずに、このミーティングの司会である藤吉警視が切り出した。崎警視の後任として急遽捜査を取り仕切ることになった若手のエリートである。ゆくゆくは辻真たちのように『使われる』のではなく『使う』立場になるだろう。
 一般の警官たちから見れば辻真も十分に『人を使う』立場の人間なのだろうが、その中にも階級は厳然と存在し、つまり組織とはごく一部の人間がすべてを動かしているのだ。合理性を追求しなければならない警察ではその傾向がことさら顕著に現れている。
「獅子田と工藤の二人もこちらの事件の担当ということになりました。後で山辺も合流するはずです。……これは政治が絡んだ話ですが、上からは何としても犯人を捕まえろ、とのお達しが出ています。そのための助力も惜しまないそうです。捜査費を湯水のように使って、日頃の節制の鬱憤を晴らしましょう」
 いくつかの席から笑い声が漏れた。辻真は笑わなかった。
「今日集まっていただいたのは、正式な捜査会議の前に、ある程度我々の見解を一致させておく必要があると思いまして――まあ、要はこれまでの会議の総復習ですね。所轄の刑事たちにみっともないところを見せないように、必要なデータはちゃんと頭に入れておきましょうね」
 顔は笑っているし物腰も柔らかい。が、藤吉警視が決して甘い人物ではないことをその場にいる誰もが知っていた。この半分ふざけた態度は部下をこき使うための道具でありただのポーズなのだ。
「では、まずは事件の発端から――。最初に通報があったのは最初の被害者の奥さんからですね。それを受けて地元警察が死体を確認し、県警へ要請。たまたま非番で近くの温泉街へ宿泊していた崎さんが捜査主任ということで呼び出されたわけですが――」
 それから順に、被害者の状態、葵荘関係者のアリバイ、物的証拠、そして第二の殺人――などが藤吉警視の口から次々と羅列されるのだが、現場で崎警視と一緒に捜査をしていた辻真にとっては今さらな情報ばかりだった。
「では最後の殺人――まあ、五人目の被害者が出ない保障はまだないんですけどねえ」
 不吉なことを口走りつつ芝川が殺された事件について話を進める。
 芝川が死んだ直後に崎警視が主任から外され、同時に辻真もおいそれと現場でうろうろするわけにもいかなくなった。捜査主任でありながら現場に直接おもむく崎警視は岐阜県警においても非常に稀有な存在なのである。
 メモこそ取り出さないが、辻真はこの事件に関することを一言一句聞き漏らさないように細心の注意を払って話を聞く。
 最初は死体発見の様子や芝川の死因、部屋に内側から鍵が掛けられていたことなどが話題に上った。この中で唯一その現場を見た、というよりは死体を発見した人物として簡潔な報告も行った。
「最初の事件とその事件、現場の部屋から寝室に繋がってるんですよね。こちらの部屋からは廊下に出られるんですか?」
「はい。ですが、死体発見時、寝室のドアには内側から鍵が掛けられていました」
 工藤の質問に、辻真はホワイトボードに葵荘二階の見取り図を貼り付け、その部分を指して説明した。
 二階の廊下の突き当たりに堂東光司の部屋がある。その左右、廊下を挟むようにして堂東夫妻の寝室と弟の堂東公博の部屋がある。堂東光司の部屋と内扉で繋がっているのは寝室だけで、公博の部屋とは完全に壁で隔てられている。
 つまり、後の方の事件では寝室と堂東光司の部屋をひとつの密室として考えることができる。
「そこの、内側のドアはどうだったんですか?」
「このドアに鍵はつけられていません」
「それじゃ、寝室の窓は?」
「こちらの窓も、現場の部屋と同様に内側から鍵が掛けられていました」
「どちらの事件も?」
「最初の事件では寝室の窓だけですね、鍵が掛かっていたのは。芝川が殺害された事件の方は、寝室から廊下へのドアと、寝室の窓、現場から廊下へのドア、現場の窓、すべて鍵が掛かっていました」
「ドアの錠は外部からでも掛けられる?」
 藤吉警視の質問。
「はい。内側からなら開けるのも閉めるのも鍵は必要ありませんが、外――つまり廊下側からロックする場合には鍵が必要です。死体発見後、現場の部屋の鍵は被害者の口の中から、寝室の鍵は寝室の化粧台のひきだしに入っていました」
「合鍵は?」
「堂東公博と堂東成絵に質問したところ、合鍵を作った覚えはないと。もちろん、こっそりと合鍵を作ることは可能でしょう」
 答えてから、一同の顔を見渡す辻真。それ以上の質問がないのを確認して着席した。
「それから事件後、現場の本棚から一冊本が消えていると堂東成絵が言ってきました。消えた本は辻真さんと崎さんによればジャン・コクトーの詩集だそうです。これはギリシャでは普通に手に入る、発行部数も多い一般的の本です。ちなみにこの本は最初の被害者が死の直前に読んでいたものとは違う。本棚の埃の状態と堂東成絵の協力を得て検証した結果です」
 藤吉警視がちら、と別の刑事に視線を送った。ぼんやり話を聞いていたその刑事が慌てて立ち上がり報告する。
「ペトロス・グランの話によると、堂東公博と東京に発つ日に被害者から何冊か本を借りていて、その中の一冊にその詩集が含まれていたそうです。事件の三日目に二人は葵荘に戻っていますが、その際に成絵に本を返却し、その成絵が本を本棚に戻した――ということだそうです」
「本が消えたことが犯人によるものなのか、またはまったくの無関係であるのか現在のところ不明です。犯人が持ち去ったとして、その理由も今のところ不明です。ここまでで質問は?」
「警視、被害者の口の中にあった鍵の――」
「ああ、そうだった。その話をすっかり忘れてました。解剖の結果、被害者の口の中にあった鍵はそれほど奥まで押し込まれていた可能性はないということでした。これは死体の気道の状態から明らかだそうで――口の中か、喉の手前、浅い場所に鍵があったのだろう、ということだそうです」
「つまり、生きていた被害者が自分で鍵を口に含んだということですか?」
「まだ断定はできないが、その可能性もある」
 川田の質問に藤吉警視が答えた。
「次に殺人の動機について、被害者の身辺を洗っていたところ面白いものを見つけました」
 警視がクリアファイルからA4の紙を出して、全員に配布する。前回の全体捜査会議で一度見た資料だったので辻真の表情は一ミリも動かなかった。
「最初の被害者の堂東光司の銀行の口座の様子です。ここ数年は断続的に、出所不明の振込みが見られます。それも相当な額の。妻と弟、それとギリシャ人に聞いても分からないとのことですが、恐らくこの三人も光司から金を受け取っているでしょう。これが殺人の動機に繋がっている可能性は高いと」
「強請り、ですか」
 獅子田が質問、というよりはつぶやくような形で確認を取った。返事が欲しかったわけではないのだろう、食い入るようにプリントに目を落としている。
 プリントには口座の引き落としと預かり、その両方の金額が日付付きで詳細に記されていた。引き落としに比べて預ける額が明らかに多い。しかも定期的に大きな金額が口座に振り込まれている。
「被害者は麻薬の密売に手を出していた、という情報もあります。証拠はないですがこれはほとんど決定事項と言っていいくらい確かな話です。現在、そちら関連で公安に情報提供の交渉を行っています」
 一同に緊張が走った。もちろん、辻真にとっては今さら感のただよう話だったけれども。
 会議は二時間ほどで終わった。藤吉警視の会議にしては早く終わった方だ。
 資料をファイルにまとめ、他の人に倣って会議室を出ようとしたところで藤吉警視に呼び止められた。
「川田さん、辻真さん。二人は少し残ってください」
 三人以外の刑事が部屋を出て行き、しかも念入りにドアが閉められたことをチェックしてから話を切り出した。
「二人にも話しておきたいと思います。もちろん口外無用、同じ警察官であっても、です」
「麻薬がらみですか?」
 川田が鋭く指摘する。藤吉警視が頷いた。
「ちょっと……非公式に、ね。協力をいただいているところがありまして。まあ、二人にもそちらに関わっていただこうかと」
 曖昧に口を濁して席を立った。二人について来るように指示して会議室を出る。
 階段を下り、三人が向かった先は資料室――それも普段めったに人の出入りがない、ほとんど資料の墓場となっているような、そんな部屋だ。
 資料室に窓はなく、組み立て式の金属の棚には資料が乱雑に載せてあるだけで、これではいざ必要な資料を探すときにまったく役に立たないだろう。部屋の中は辻真の予想を超えて狭く、男二人がすれ違うのにも苦労するほどだった。
 特に今は夏で、エアコンのない資料室の中はむせ返るように暑かった。
 藤吉警視に先導されて部屋の奥に行くと、灰色のデスクとパソコン、そしてその前の椅子に座るスーツの見慣れない男を囲むようにして、葵荘の事件を担当する何人かの刑事の姿。
「ご苦労様です」
 警視が椅子に座っている男に頭を下げる。やたらと暗いくせにまともに照明をつけていないので、その男の顔ははっきりとは見えなかった。
 どうしたものかと顔を見合わせる辻真と川田に、その男は重低音の声で挨拶をした。
「公安課の美景みかげです」
「公安、ですか」
「あまりまっとうなポストについているわけではないので、こんなところで失礼します。今日も公務ではなく休暇ということになってますし。……ちょっと、ワケありでね」
 はあ、と曖昧な相槌を打つ。
 どうしたものかと黙っていると、
 「公安に協力を要請したとさっきは言いましたが――実は、本当の狙い目はこちらです」警視の説明。「美景さんの仕事は警察組織の膿を摘出することです。詳細は私も知りません。仮に知っていたとしても教えられません」
「そういう約束で協力しています」
 輪郭だけで、美景が笑みを浮べたのが分かった。
「堂東光司、堂東公博、ペトロス・グラン――それともう一人。堂東光司が誰かを強請っていて、それが理由で殺されたのならその四人目こそが犯人です。犯人でないとしてもあの殺しに深く関わっているのは確実です」
「その人物はおそらく、我々が前からずっと追っていた人物です」
 表紙の黒いファイル――と言っても、中はA4の紙に穴を開けて閉じただけのものである。美景はそれを辻真たちの方へと差し出した。中身は顔写真と経歴が載った、いわゆる履歴書の束である。
「そいつは元公安課の誰かです。一応ここまで絞り込めました。この中にその四人目が含まれているはずです」
「元公安……ですか?」
「だから表立っては動けない」
 さらに低い音で小さく笑い声を漏らした。
 手で促されて、辻真はそのファイルをぱらぱらとめくってみる。もちろん、これだけで何かに気付くわけがないのだが――

 と、
 その顔に、
 気がついた。

「どうした? 何か気になることでもあったんですか?」
 藤吉警視に声を掛けられて、自分がずいぶん長い間考え事をしていたことに気がついた。
 辻真はそのページから目が離せない。

 ――秋山あきやま 孝道たかみち

 溜め息。
 悪寒だけが辻真を支配していた。
 諦め。落胆。背筋が凍る――。
「ああ、ちくしょう……。最悪だ」
 思わず口をついた突然の悪態に、その場にいたほとんどの人間が目を丸くしたのが分かった。それでも言わずにはいられなかった。
 くそっ。
 最悪だ!
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