第五章崎警視は喫茶店にいた。もちろん平日の夕方はまだ崎警視の就業時間のはずだが、今日は外での用事のついでにここに寄ったのだ。外での用事、というのは単なる口実で、実はここに来ることが目的なのだが。と言ってももちろん、警察の仕事が嫌でサボろうとしているわけではない。店の中には従業員が二人だけだ。カウンター席の向こうに座っているサングラスをかけた中年の男と、崎警視が見せに入ると同時に歯切れの良い挨拶をしてくれたショートカットの高校生くらいの少女。中年男はここのマスターで、少女の方はおそらくアルバイトなのだろう。マスターの方は客が来ても無関心で、こちらに背を向けてスポーツ新聞を読みふけっていた。 店に入った途端、エアコンでガンガンに冷やされた空気が崎警視を安堵させた。今日は事情があって自動車を使わなかったので、夏の太陽とアスファルトの熱に晒されて全身から汗が噴出していたのだ。だが安堵したのも最初のうちで、汗が乾き、暴走していた体温が静まったあたりから、過度に冷やされたエアコンの風が今度は逆に崎警視の体をぶるぶると震わせていた。 最初に頼んだコーヒーを一口飲もうとしたところで、入り口が開いて藍川が入ってくるのが見えた。カランカラン、という古風なベルの音。「いらっしゃいませ!」と元気の良い声が掛けられる。藍川は会釈しながら向かいの席に座ろうとするが、崎警視はそれに構わず淹れたての熱いコーヒーを口の中に含んだ。 藍川は厚手のシャツに黒いジーンズを穿いた非常にラフな格好で、黒いスーツ姿の崎警視とは非常に対照的だ。水色のシャツは首のあたりから藍川の汗で黒く湿っている。ここに来たときの崎警視と同じく、強力なエアコンの力を体感してほっと安堵しているようでもあった。 「すみません。授業が長引いてしまって」 「かまわないさ。どうせ暇な身だからね」 清潔な笑顔を見せて藍川にメニューを手渡した。すぐにアルバイトの少女が藍川の前に水の入ったグラスを持ってくる。藍川はすぐに手を伸ばし、片手で仰いで一気に飲み干してしまった。 会いたいという藍川のメールが来たのが昨日の晩のことだった。話は簡単で、普段メールでやっている情報交換を直接会ってやろうというものだ。藍川のメールの文面から彼が何か重大な情報を手に入れたというにおいを感じ取った崎警視は、さっそく次の日に会うことを決心し、藍川を喫茶店に呼び出したのだ。 崎警視がポケットから煙草を取り出すと、藍川が意外そうにそれを見た。 「煙草吸うんですね」 「前は吸ってた。最近また吸い始めた」 「それは――」言いかけて、藍川は口をつぐんだ。「俺も吸ってましたよ。今は禁煙したけど」 「その歳で、か。警官の前でそういうことを言うのは感心しないな」 煙草をくわえて苦笑いの崎警視。藍川は確かまだ未成年だったはずだ。 安っぽい百円のライターで煙草の先に火をつける。自分がまだ煙草を吸っていたときの記憶が自然に蘇ってくる。いくら禁煙したところで、肺に染み付いた煙の感触はそう簡単に消えるものではない。 「それで、何か分かったのか?」 「けっこうすごいことが分かりましたよ。なんで先に刑事さんの方からどうぞ」 「それは期待できそうだな。……きみがそこまでがんばってくれているというのに本職の刑事がこんなもので少し情けないんだが、こちらの方はほとんど進展はないよ」 「ですか」 「一応これでもがんばってるんだがね。何せ担当を外れた身だ。同僚からちょくちょく話を聞いたりはしてるんだが」 「新証拠とかには期待できそうにありませんか」 「新証拠自体は色々出てきてるんじゃないかな。ただそれが事件の解決に結びつかないだけで」 アルバイトの少女が水を入れたグラスを持ってきて、二人の会話が一瞬途切れた。藍川はろくにメニューを見もしないでアイスティーを注文する。かしこまりました、と可愛らしく頭を下げて立ち去る少女。てっきりマスターが作るものだと思っていたらそのままカウンターの中に入って紅茶を作り始めた。 「ところで、きみはコーヒーは嫌いか?」 「コーヒー、ですか? いや、嫌いってわけじゃないですけど、紅茶の方が好きです。どっちかというと」 「そうか」 崎警視はコーヒーの飲めない後輩の顔を思い浮かべていた。藍川だけでなく、あちらにも目を光らせておく必要があるだろう。それにも限界があるだろうが、限界までやらなければ後々取り返しのつかないことに繋がる危険もある。 「新証拠、っての、具体的な話は分かりません?」 「多分麻薬絡みの話だろうな。暴力団が関わっているという線が有力らしいが。その辺は芝川犯人説と平行して調べているみたいだな。暴力団が関わってる場合、堂東は金銭関係のトラブルで消されたということになる」 「四人目の仲間についての話はありますか?」 堂東兄弟とペトロス・グラン、その三人の仲間で正体不明のその一人。 「あまり聞かないが、まったく調べていないということはないだろうな。少なくともその存在には気付いているはずだ。芝川が犯人にしろ、外部犯にしろ、堂東司光を殺した人物がその四人目である可能性は高いだろうな」 「それは捜査本部の見解ですか?」 藍川が鋭く指摘する。仕方がないので苦笑しながらそれを否定した。 「それと、公安との合同捜査も検討に上がっているらしい。麻薬、暴力団となれば、完全にあちらの専門になるからな」 「合同捜査になるんでしょうか」 「まだ麻薬が絡んでいることが確定したわけではない」 合同捜査になってたまるか、という崎警視個人の考えが表に出るのを必死に押さえる。 注文したアイスティーが届いたので二人は再び沈黙した。店内には落ち着いた感じの音楽が小さな音量でかけられていた。二人の他に客はおらず、こうして黙って耳を澄ましてみると妙に静かで、目の前の藍川の息遣いまで聞こえてきそうだった。 藍川は氷が山のように入ったアイスティーの長いグラスを、おいしそうにちびちびと傾けて飲んだ。どうやらストローは使わないようだ。ガムシロップを入れた際にかき混ぜただけで、すでに役割を終えてテーブルの上に放置されている。 「まあ、こちらの方はこんなところかな……。相変わらず亀の歩みだ。それで、藍川くんの方は何か掴んだのか?」 「ちょっと」 「ぜひ聞かせてもらいたいね」 「堂東たちと麻薬の密輸に加担していた人物の正体が分かりそうです」 さらりと藍川は言ったが、崎警視の内心は穏やかではなかった。数秒間かけて必死に自分を落ち着けた後、ゆっくりと感嘆の声を漏らした。それをどう受け取ったのか、はたまたポーカーフェイスの崎警視を驚かせたことに満足したのか、藍川は得意げな顔をして続きを話した。 「堂東たちは麻薬を密輸した後、ヤクザを通して末端のやつらに麻薬を捌かせていたわけですけど、そいつらの何人かから話を聞きました。当時の噂で、どうも、あの麻薬には警察が黙認していたという節があるそうです」 「暴力団が警察に圧力を掛けていた?」 「そんな力のあるヤクザなんてそうはいないと思いますよ。何せコトは明らかに違法行為、麻薬ですからね。政治家を買収できたとしてもそこまでおおっぴろにはできないと思いますよ」 「それもそうだな……。だったら、その四人目が」 「多分そうなんでしょうね。警察関係に強い人物か、もしくはそいつ自身が警察官なのか」 「公安課か。麻薬を取り締まるはずの人間が何をやっているんだ……っ。それで、そいつの正体は?」 「まだここまで推測できた、というレベルです。だけど知り合いの伯父が公安に勤めているんです。美景ってやつなんですけどね。そっち方向から当たって、公安課が何か噂でもいいから、掴んでないか調べてみます」 「頼む。こっちは捜査一課だが、そういう政治的なことにはまったく手が回らない……」 「大丈夫ですよ。刑事さんは警察の動きを逐一俺に連絡してくれればいいです。多分、次に会うときはその四人目の正体をお知らせできると思いますよ」 胸を張って答える藍川を、崎警視は頼もしそうな眼差しで見つめた。 「そうか。それは、期待しているよ。本当に有能な探偵だな」 「いや、そんな。多分、あの殺された探偵さんの方が俺よりももっと頭が良かったんじゃないですか?」 「そうかな。あいつは肝心なところでしくじる男だったから。現に今は死んでいる」 「ですか。俺も死なないように気をつけますよ」 「そうだな。あまり危険なことはしないでくれよ」 はい、とはにかんだ笑みを浮べる藍川。 ちらとウェイターの方に目を向けると、やることがないのかカウンターの奥にひとりでぼんやりと座っている。マスターは最初からやる気がないのか新聞から手を離さない。よく見れば耳にイヤホンがついていて、もしかしたらあれで競馬中継でも聞いているのかもしれない。 自分たちの会話が聞かれた可能性がまったくないのを確認して、崎警視はしばしの世間話を交わした後に藍川と別れた。 薬局でのアルバイトは大変だ。全国にチェーン展開している薬局なのだが、もはや薬局というよりはただのスーパーマーケットである。朝は九時から開店し、閉まるのは深夜の十二時。藍川優が働くのはそのうち午後六時から深夜十二時までの間で、十二時に閉店した後も店内の掃除やレジの清算などやらなければならず、結局家に帰れるのはいつも深夜の一時になってからだ。 昼間に崎警視と会った後、午後からの大学の授業に出て、その足でアルバイト先に向かった。およそ六時間の労働で藍川の体力はほとんどつきかけていた。 午前零時を過ぎ、駅前を少し離れれば人の姿はほとんど見当たらなくなる。まだまだこの県も東京と比べると格段に田舎だ。藍川は国道から裏道に入って自分のアパートを目指した。まばらに建っている街灯だけがこの道を照らす光だった。 藍川は大学入学を期に一人暮らしを始めた。父と仲が悪かったのもひとつあるが、最大の理由は兄の復讐をするために自由に動ける時間が欲しかったのだ。しかしそのせいで最近は勉強の方に少し手を抜きすぎていたかもしれない。今日だって本当ならば夏休みのはずが、前期に落とした授業の補習のためにわざわざ暑い中を大学まで通う破目になってしまったのだ。 名前も知らない虫の声が藍川の耳をうるさくかき乱していた。夜道に響く自分の足音。それがぴたりと止まったのは、道の隅にうつ伏せで倒れている人を見つけたからだ。 倒れている場所はちょうど街灯の下だった。服は上下ともに青のジャージ。髪の毛は長く、不自然につやっぽかった。顔を伏せて完全に動きがない。呼吸をしているかどうかも定かではなく、もしかしたら死んでいるのかもしれない、と最悪の考えが頭をよぎった。 「どうしましたか? 大丈夫ですか?」 一応最低限の警戒はしつつ、声を掛けてその人に近寄る。返事はないがかすかに体が動いた。少なくとも生きてはいるらしい。 「救急車を呼びますか?」 返事を待たずにポケットから携帯電話を取り出す。その操作のため、相手から一瞬目を離したのがいけなかった。 世界中に衝撃が走る。 やがて全身に軽い痛み。顎を殴られて、そのまま地面に倒れたんだ、ということが今さらになって分かった。 体中に危険信号が鳴り響く。緊急事態。 自分が昏倒して何秒経った? 相手はどこにいる? 自分は狙われていたのか? 倒れていたのは罠――無差別か? 無差別殺人。殺される。相手はどこだ。くそ、だから深夜のバイトなど…………。 自分を殴り倒したソイツを探そうとするが辛うじて首が動く程度だ。体はまだ鉛のように重いが徐々に回復しているのが分かる。あと数秒で体を起こすことが可能に――。 いつの間にか背後に回られていたらしい。首の左右から手を回され、ロープをかけられてそのまま絞められた。 「…………〜っ!」 全身が緊張して、もつれる腕と足を最大限に動かす。 手も足も何も掴まない。ただ動かすだけで、自分の首を絞めているこの人物には何の障害にもならない。道上に髪の毛の束が落ちていた。いや、あれはカツラか。くそ、あんな簡単な仕掛けで騙されるなんて。頭に血液が集中する。そしてそれ以上に視界が白く霞む。ホワイトノイズ。若干の赤。乱れた液晶ディスプレイみたいに。妙に感覚がはっきりしていて、ロープの目が首の皮を擦る痛みとか、虫の声に背中の人物の息遣い、そして自分の心臓の音がはっきりと聞こえ――。 あ、やばいな。と思考した。 これは死ぬ。と思考した。 だんだんとねむくなってきて、とちゅうからあいかわのあたまはききかんすらもかんじられなくなってきて、ひたすらフラットに脳が――。 死にかけていた藍川の脳は再び現実世界に放り出された。 呼吸が回復する。 むせながら何度も何度も息をする。その傍らで藍川は何人かの大人の足音を耳にした。 自分の安否を気遣う声。それと同時に「追え」「捕まえろ」「逃がすな」という怒号が飛び交う。 聞き覚えはないはず。しかし呼吸がほぼ正常に戻り、視界がクリアになってなんとか理性を取り戻したところで、その男の名前をやっと思い出すことができた。 「大丈夫か藍川くん!」 「……辻真……さん?」 崎警視の部下だった男が、心配そうに自分の顔を覗き込んでいた。 「すみません。藍川くんを囮に使わせてもらったよ」 「囮、ですか? その、えっと……」 何が起きたのか分からずに混乱していると、辻真が手を差し伸べて藍川を立ち上がらせた。 「行きましょう。私には、きみに説明する義務がある」 やがて二人の前にパトカーが到着し、辻真がそれを運転していた警官といくらか言葉を交わしてから、パトカーの後部座席を開けて藍川を招いた。 「安心してください。逮捕なんてしませんよ」 「どこに行くんですか?」 「今ごろ向こうの犯が犯人を捕まえたころでしょう。それを迎えに行きます」 「犯人?」 「決まっているじゃないか」何を今さら、と辻真が答える。「葵荘で四人の人間を殺害した犯人―― 駅から離れた下町の路上にパトカーが停まっていた。時刻を考慮してサイレンはつけていない。藍川が襲われた道からわずか二十メートルの場所だった。 パトカーの後部座席に、手錠をかけられた崎警視が座っていた。上下のジャージを着た彼の姿は、手に掛けられた銀の手錠と併せてなんだか滑稽でもあった。これでもカツラを被っていないだけマシなのだろうが。 藍川優への殺人未遂の現行犯。しかしもうすぐ正式な逮捕状が出て、葵荘で四人の人間を殺した殺人者として彼を逮捕する手はずになっていた。 辻真がパトカーに近づくと、崎警視は横目で少しだけこちらを見たが、表情筋を一切動かすことなく再び前を向いてしまった。そこに座っているのが犯罪者だとは到底思えない。気品があり、堂々としていて、何も後ろ暗いところなどないような――そんな姿。 警戒することなく後部座席を開けて車内に入る。藍川は少し気後れしていたようだったが、辻真が手で指示すると恐る恐る助手席のドアを開けて座席についた。 「県警へ回してください」 辻真が指示を出すとパトカーはゆっくりと発車した。 運転手の警官も、助手席の藍川も、後部座席に仲良く並んだ辻真と崎も、しばらくは何も言葉にしなかった。 しかしそんな空気に耐えられずに、とうとう藍川が沈黙を破って辻真に問いかける。 「あの、刑事さん。えーと、俺にも分かるように、事情を説明していただけると助かるんですが」 「そうですね。向こうに着くまでしばらく時間があるし、答え合わせということにしますか。到着までどれくらいですか?」 「あと二十分もあれば」 「三十分かけてください。法定速度は守るように」 辻真はそう言って運転席の警官にバックミラーごしに笑みを送った。 崎は今までずっと無反応である。マネキンのように背筋を伸ばし、視線を前に送っている。どこか人間としての機能が停止してしまったような、あるいはそこに座っているのが実は崎警視の死体であるかのような、そんな幻想を抱いた。 それを振り払いたくて、ことさら明るい声を出して藍川に話しかける。 「まずはどこから説明しようか」 「いや、あの、どうして刑事さんが犯人なんですか? いや、あの、崎警視が……。動機は?」 「動機ならきみもすでに知っているんじゃないかな? 崎さんは、過去に堂東兄弟やペトロス・グランと組んで麻薬の密輸を行っていたんだよ」 「でも、俺が聞いた話だと、その四人目のメンバーは元公安かもしれないって……。刑事さんは岐阜県警の刑事だし――」 「この崎さんはね、昔は本庁の公安課にいたんだよ。ちょっとした事情で県警に飛ばされたけど。当時は結婚していて名前が わざと明るい声で茶化すように言ったが、崎が無反応だったので車内の重たい空気を追い払うことはできなかった。胸の中にどんよりとした鈍い痛みが広がった。信じていた人間に裏切られた痛みと、自分と崎警視との友情が壊れていく苦しみ。 署に着くまでの三十分は、恐らく地獄の三十分になるだろう。 泣き出しそうになるのを堪えて、表情はあくまで犯人をからかう笑顔を崩さない。そうしなければ、きっと、自分の方が壊れてしまう、そんな確かな予感があった。 「崎さんは昔公安課にいて、麻薬の売人や暴力団員を摘発するかたわら、あの三人と組んで麻薬の密売にいそしんでいたんです。捜査情報が全部筒抜けだからかなり安全に密輸できたはずだよ。それが別件で公安課を辞めることになって、それと同時にクスリからも手を引いた。……堂東司光は、それを許さなかったみたいですけどね。そうなんでしょう?」 辻真が訊いても崎は黙ったままだ。しかし辻真はそれでも返事を待ち続ける。崎と辻真の視線が交差した。 長い沈黙の後、低い声で崎が頷いた。 「強請られていたんですか?」 「……そうだ」 「金を渡す必要なんかなかったんですよ。もしあなたを告発したら、あいつらだって逮捕されるんですから」 「正式な告発以外にも人を陥れる方法はいくらでもある。人は根拠のない話も信じてしまうんだ。例えば噂を流すだけでも十分だ。『あの刑事は麻薬の売人に捜査情報を売っていた』……。俺の、人生の汚点だ」 「だから殺したんですか?」 崎は答えなかった。 「でも、あの、辻真さん」助手席から藍川が口を挟んだ。「あの探偵さんはどうしてなんです? それとあの、ギリシャ人の双子」 「それについては順番に話す必要がある。まずはこの事件最大の謎だった密室だ。最初の密室――クロエとエレナの双子に見張られた廊下と、きみと上利に見張られた窓。その部屋にどうやって侵入し、どうやって脱出したのか」 「はい。たとえ刑事でも、あの部屋に入るのは――」 「いや、実はこの密室にはひとつ大きな穴があるんだよ。それは、クロエとエレナの証言を聞いた人物が崎警視しかいないということだ。だってそうだろう? 彼女たちはギリシャ語を話していて、わたしたちはギリシャ語を理解できない。崎警視がギリシャ語の通訳をしていたけど、崎警視が、本当に、双子の話していた内容をそのまま日本語に訳した、という保証はない」 「それだったら、あの二人を殺したのは、その……」 「そうだよ」崎のことを横目で見ながら答えた。「クロエとエレナのギリシャ語を解する人物――ペトロス・グランが葵荘に到着する前に、二人の口を封じる必要があったんだ」 クロエとエレナは堂東光司の部屋に入る崎の姿を見ていたのだ。ところが通訳がその崎本人だったばかりに彼女たちの証言は捻じ曲げられてしまったのだ。 「崎さんとしては苦肉の策だったんでしょうね。最初に部屋に入った段階では殺すつもりなんてなかったはずですから、二人に自分の姿を見られることに何の警戒もなかったでしょうし。……それにいつ誰がやって来るとも限らない。手早く証拠を隠滅し、あの場は立ち去るだけが精一杯だったんだろうね」 よくよく考えてみれば答えはこれ以外にはなかったのだ。 本当の密室の中で人が殺されることはありえない。必ずどこかに穴があるはずで、だとしたら、あの部屋は完璧な密室だったという前提条件を疑うしかないのだ。 加えて双子と崎が会った場面を思い返してみると、子供らしい人見知りで辻真の剣幕に怯えていたあの二人は崎に対してだけは妙に親しげだったような気もする。双子は崎に対して人見知りしなかった。つまり、二人と崎はそれよりも前に顔を合わせていたのだ。 堂東を殺すよりも前に。人殺しになる前に。 崎の横顔を盗み見た。真剣な顔で辻真の話に耳を傾けるその姿は、弟子の出来を審査する師匠のような威厳が感じられた。そのことに気がついて、辻真はわずかに緊張する。 「次は芝川が殺された密室――今度は正真正銘、本物の鍵と鑑識の目による密室だ。だけど鑑識の目の方は簡単に無力化できます。鑑識たちが『廊下を誰かが通らなかったか?』という問いに対して『部外者が現場に入ればすぐに分かる』と答えたわけだけど、これは裏を返せば関係者ならば現場に入ってもすぐには分からない、ということなんだ。それに崎さんが現場に何度も足を運ぶ人であることは、一緒に捜査をした経験のある人なら誰もが知っていることだよ。芝川を殺害する前にだって捜査のために何度もあの部屋を出入りしているんだから、鑑識の誰かが作業に集中せずに周りのことばかり気にしてるという場合でない限りは、鑑識の目はほとんど考慮しなくてもいいということになる」 「それはそうだけど、いくらなんでもリスクが高すぎませんか?」 「崎さんとしては芝川の自殺ということで決着をつけたかったんだろう。あの部屋を完璧な密室にしてしまえば多少不自然でも強引に自殺という方向に持っていけるし、わたしは十分に冒す価値のあるリスクだと思うよ。もちろん崎さんもそう思ったからこそ実行したんだ。そして、崎さんはその賭けに勝った」 最初にその質問をしたのが崎自身である、という点も見逃せない。あるいは鑑識の誰かは崎があの部屋に入るのを覚えていても、まさかそれを質問した張本人があの部屋に入ったとは思わずに自分の記憶を修正してしまったのではないのか。 時には自分自身の思い込みが正しい記憶を捻じ曲げてしまうことだってあるのだ。 「だったら、部屋の鍵はどうなんです?」藍川の質問。「鑑識の目が無視できると言っても、部屋を密室にするような小細工をしていたらさすがに怪しまれるんじゃ……」 「その点に関しても問題ない。なぜなら崎さんは鍵を持って部屋の外に出たからだ」 「外から部屋の中に鍵を入れたんですか? でも死体の口の中にはどうやっても入れられないと思うんですが」 「違う。そうじゃない。きみも思い込みに囚われているんだ」辻真がかぶりを振る。「それじゃあ訊くが、死体の口の中から鍵を発見したのは誰だ?」 あ、と藍川は声を漏らした。すぐに答えを見つけたらしく、固まったまましばらく動かなくなった。さすがに頭の回転は悪くない。四人目の密輸人のことをたったひとりであそこまで調べたのだ、この程度のことならばすぐに看破しても不思議ではない。 それでもかまわず辻真は細部の説明を続ける。さりげなく窓の外を見て、署までの残り時間を簡単に計算した。 「崎さんは捜査の合間にあの部屋に立ち寄り、そこで芝川を殺害した。ロープもあらかじめ用意してね。それから堂東光司の机の中から部屋の鍵を出してキーホルダーと鍵を分けて、キーホルダーだけを芝川の口の中に入れた。あとは廊下の鑑識に不審に思われないように鍵を掛けて外に出ればいい。問題はその後で、鑑識とわたしの目の前でドアを蹴り、部屋の中に入る。ここでわたしが死体の口に何かが入っていることに気付いたわけだけど、崎警視はその場で自分の手で口の中をあらためた……。このとき、崎さんは部屋の鍵を自分の手の中に隠して、死体の口の中に手を入れて、あたかもたった今そこで鍵を見つけかのように演技した。……これがあの密室の真相だよ」 「ブラインドを降ろして部屋を暗くしたのは手元を見られないようにするため、ですか?」 「だと思うよ」 今思えば、あのときの崎の調べ方には不自然な点がある。例えば最初に死体の口からキーホルダーを引き上げた際は右手を使っているのに、次に部屋の鍵を引き上げるときは左手を突っ込んでいる。普通ならば死体の唾液で自分の両手が汚れるのを嫌って、最初に右手を入れたのなら二度目も右手を入れるはずだ。つまり、鍵を取り出した(例えばポケットから)のは左手で、だから両手を死体の口に入れる必要があったのだろう。 司法解剖の結果、喉の奥に異物が詰まっていたわけではないことが分かっている。それを自分たちは鍵が喉の奥ではなくてその手前、口の中に入っていたのだと解釈した。しかしそれも実は思い込みで、そもそも死体の体内に鍵などなかったのである。 「証拠は?」 崎が口を開いたので、車内に緊張が走った。彼が言わんとしているのは自分が人を殺したという証拠のことだろう。確かに今の段階で確定しているのは藍川への殺人未遂だけである。 「犯人は芝川殺しの際、本棚から本を一冊持ち去っています。ですが、わたしたちにはその理由がまったく分かりませんでした。何せ、あの本があの部屋に戻って来たのはその日の朝で、それまであの本は東京のペトロス・グランの鞄の中に入っていたんですから。……崎さん、あなたは芝川から聞いた『この本が犯人を指し示す』という言葉が忘れられなかった。あの本が自分の証拠になると思い込んだんです。だから持ち去った」 「犯人が自分の犯罪の証拠になるものを現場から持ち去る……ごく自然な行為だと思うが。それがどうして俺の殺人の証拠になるんだ?」 「あの本が犯人を指し示すことはあり得ないからです。あの本は最初の事件と次の事件のときに葵荘には存在しなかったんです。そんな本が、犯人の決定的な証拠になるはずがない。だったら簡単です。犯人はただ思い込んでいただけなんです。そしてそんな奇妙な思い込みができるのは、あの場で芝川の話を聞いていたわたしと、あなただけなんです」 「だったら」呻くような声で崎が訊く。「どうして芝川はあんなことを……」 「芝川は単に崎さんがギリシャ語を知っているかどうかを確かめたかったんですよ。つまり最初の事件において、エレナとクロエの通訳をしたのがあなたであると確認したかったんです。だから崎さんがあの本のギリシャ語を読んでしまった時点で、すでにあの本の役割は終わっていたんです」 「なるほど、だから……あのペテン師……。そういえば通訳をしたのが俺だとは、あいつには話していなかったな」 芝川は、堂東光司が死んだ密室は、犯人がクロエとエレナの二人の証言を捏造したものであると見抜いていたのだ。つまり二人の通訳をした人間があの密室を作ったということになる。あの本が犯人を指し示す、というのはそういう意味がこめられていたのである。 もちろん、ただのでまかせの可能性は否定できないが。 「運がなかったな、我ながら。どこで気付いたんだ? 何が決め手に?」 「本当の意味で気付いたのは公安課にあった崎さんの写真を見たときです」 「公安課の? しかし、俺は整形して――」 「顔は違いますがどう見ても崎さんでしたよ」 「言ってることが無茶苦茶だな」 「ずっと一緒に捜査してきたんです。顔が変わっていたって分かりますよ。……それに、怪しいところがまったくなかったかと言えば嘘になります」 「例えば? 言動には結構注意を払っていたんだが」 「最初に現場に来たとき、クロエとエレナの話題を出したでしょ? そのときわたしが二人のことをまだ『娘』としか表現していないのに、崎さんは『その子たちの親に頼めばよかったんじゃないのか?』なんてことを言ったんです。その子『たち』ですよ。娘が一人じゃないということを崎さんは知っていたんです」 「よく覚えてるな」 「そういう記憶力には自信があるんです。写真のように記憶する――ってわけにはいきませんけど、テープレコーダーくらいには、ちゃんと会話の内容を覚えてますよ」 だから辻真はメモを取る必要がないのだ。音として聞いた情報ならば、辻真は絶対に忘れない自信がある。 「次は最後の事件、芝川の死体を発見したときです。色々おかしいところはありましたが、一番不自然なのは、あの密室を蹴破ったときです」 「部屋から出てこないからといって普通はドアを蹴破ったりはしないからな」 「いえ、そうじゃなくて。崎さんは堂東光司の部屋のドアに鍵が掛かっていることは確認しましたけど、寝室のドアの方は確認しませんでしたよね。だって寝室と堂東光司の部屋は中で繋がってるんですよ。片方に鍵が掛かってるなら、普通はドアを蹴破る前にもう片方のドアを調べますよ。つまり崎さんは、寝室の方にも鍵が掛かってることを知っていたんじゃないか、と思ったわけです」 「ああ……言われてみればそうだな。なんだ、いろいろと危うかったんだな。自分が捜査していたときは、なんで犯人はこんな簡単なミスをするんだろうと思っていたが……そうか……自分でやってみると、なかなか難しいものだな」 ふう、と崎は溜め息を吐いた。深く背もたれに倒れる。目を瞑る。 自分の行動を反芻しているのだろうか。あるいは後悔しているのだろうか。 さて、と辻真は気合を入れた。もしこの場に誰もいなければ両頬をパシンと手で叩いていただろう。気合を入れるときは人知れず気合を入れて、努力は人の見えないところでする。辻真の哲学というわけではなかったが、法定速度くらいには守る価値のあるルールだと思っている。 「捜査から外された後、崎さんは藍川くんにコンタクトを取った。これは、兄の復讐のために葵荘にやって来たきみが、そのままこの事件から手を引くとは思えなかったからだ。つまり崎さんはきみのことを監視して、もし何か自分に繋がるようなことを見つけたらすぐにきみを殺すつもりだった」 「辻真さん……最初から俺が殺されそうになること、知ってたんですか?」 「あ、いや、これはただの結果論で、崎さんのことをマークしてたらたまたま藍川くんと連絡を取り合ってることが分かったから、これは何かあるんじゃないかと保険的な意味で――」 藍川が疑わしそうな目で見るので慌てて弁解した。しかし弁解すればするほど怪しくなってしまう。どうすればいいんだろう。辻真は考えるのをやめた。 「ちなみに崎さんが温泉旅行に行っていたのも偶然じゃない。たまたま旅行先で殺人事件が起きるなんて、そんな偶然はそうそうあるわけがないしね。一日目の晩も、家には帰らずに近くに潜伏していて、こっそりと呼び出しておいたクロエとエレナの二人を殺したんだ。多分、あの二人の事情聴取のときにそういう約束をしたんじゃないですか? わたしが途中で抜けた後です」 「ノーコメント。そういう細かいのは署に着いてから話すよ。今はもう、疲れた」 殺人者ではない顔で崎が言った。 ほっと安堵しているみたいな。 もしかして、逮捕されることすら望んでいた――。 いや、それはさすがに思い込みだろう。辻真は自分をたしなめる。 「どうして殺人なんか」 「大方は辻真が想像した通りだ」 「もしかして奥さんのことが関わってるんですか? その、公安課を辞めるときに――」 「辻真」崎の刃物のような声がそれを遮った。「それ以上は越権行為だ。お前が俺の取調べを正式に担当することになったら話してやる。そうでなければ、これ以上の詮索はただの侮辱だ」 「……そうですね」 辻真はすぐに引き下がった。たとえ答えが返ってきても、それが本当かどうかを確かめる術はないし、それは自分の仕事ではない。 だがこれだけは訊いておきたかった。 「だったらクロエとエレナを殺したのは?」 「きみの想像通り、あの二人に俺のことを話させるわけにはいかなかった」 「そのために罪のない子供二人を殺したんですか? 最低ですね」 「最低だよ、俺は」 口元をゆがめてうそぶいた。おそらく誰よりもそのことを実感しているだろう口ぶりで。懺悔するのではなく、そのことを諦めているみたいに。 「芝川のこともです。殺すことはなかった」 「怖かったんだよ、あいつの推理が。胡蝶館のときの芝川を見てるから余計にそう思うんだろうがね。あの本を処分したのも、だ」 「その恐怖がなければ四人目を殺すことも、こうして逮捕されることもなかったのに」 「まったくだ。しかしそれを言うなら最初の一人目を――」 「殺さなければよかった、ですね」 だな、と崎は同意した。 辻真も同感だった。そして、このことで崎と同意できることが嬉しかった。 最善ではないけれど、最悪ではない。もちろん、限りなく最悪に近いのだけれども。 犯人と捜査陣の双方が自分の思い込みに囚われ、誰もが望まない方向に進展してしまった。自分自身に囚われることなく物事を見ることのできる人間がいれば、少しは何かが変わったのかもしれない。しかしその可能性をただ一人持っていた芝川が、この事件の最中に殺されてしまったのだ。 喜劇みたいに、その場を堂々廻りして。 最後はこんなに滑稽、尻すぼみ。 「もうすぐ到着です。長い話を聞いてくれて、ありがとうございました」 辻真は崎に頭を下げる。 崎はそれをつまらなそうに見ていた。 夜中だというのに埼玉県警の建物から照明が消えることはない。パトカーが建物に近づくにつれ、窓から飛び込んできた光が強く崎の顔を照らすようになった。 薄汚れた灰色の警察署を崎はまぶしそうに見上げる。しかしすぐに視線を落とし、パトカーから降りても決して上を向こうとはしなかった。 《 青色 / Brute blues brung blue brumes. 》 |