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崩壊

 芝川が堂東光司の部屋に引きこもっている間も崎警視には警察としての仕事が待っている。部下に指示を出し、捜査の方向性を示し、さらに指示を出し、部下が情報を集め、それを専門家に渡し、そして指示を出し、けれど情報が集まるばかりで捜査は進展せず――。
 捜査主任というのは決して暇な役職ではない。芝川の相手をしていた数分の間に、捜査本部には崎警視が処理しなければならない課題が大量に溜まっていたのだった。力を抜き、頭脳の半分を使ってほとんど機械的にそれらを片付けてゆく。その間、他の刑事たちにはもちろん、辻真にも芝川の話題は出さなかった。
 崎警視は現場に頻繁に顔を出す。現場百遍、という古くからの教えを守っているわけではなく、単に地図や写真で空間を把握するのが苦手なだけである。そのことは彼の部下の間にも知れ渡っていて、崎警視が部下に指示を飛ばしながら現場をふらふら歩いていても誰も驚かない。
 芝川が部屋に引きこもってから、およそ三時間が経過した。そろそろ夕方である。
 階段から二階の廊下に上がる。鑑識の人間が床に犯人の遺留品がないかどうか、膝を突いてあちこちに目を走らせている。最初の事件現場とは反対側の突き当たり、窓の鍵の指紋を採取している鑑識もいる。
 身内による犯行の線を固めるため、今朝から鑑識による情報の採取がよりいっそう厳しくなった。廊下はたいした長さも幅もないが、常に二、三人の鑑識が何かないかと目を光らせているのだ。その邪魔にならないよう注意を払って隣を歩く。
 廊下の突き当たりのドアは最初の現場。今は中に芝川がひとりきり。
「何か見つかったか?」
 ふと気がついて、床をじっと見ていた鑑識のひとりに声を掛ける。集中していたらしく、顔を上げてから驚いたように崎警視のことを呼んだ。
「いやあ、何も残ってませんね。足跡らしきものはありますが、雨が降っていたわけでもなし、ほとんど消えかけです。犯人のものとも限らないし」
「指紋は?」
「最初の現場のドアのノブ、指紋が拭き取られてたってのはもう報告しましたよね?」
「ああ……確か聞いたな。凶器の指紋も拭き取られていた、と」
「こりゃ多分自分の触ったところは全部拭き取ってますな。知能犯、そしてかなり警戒心が強い」
「なるほど」
「まあ、どんなに用心深い人間でも、完全に自分の存在を消せるわけがない。必ず痕跡は残っとるはずです」
「わかった」
 軽く会釈してその場を離れる。
 堂東司光の部屋のドアを素手で握った。指紋はすでに調べたのだから、今さら手袋の必要はない。ぐ、っと力を込めたところで、部屋に鍵が掛かっていることに気がついた。
「おい。ここの鍵を締めたか?」
「はい?」
 呼び止められて驚いたのか、廊下の奥で再びしゃがみこんでいた鑑識の一人が上ずった声で返した。しばらく崎警視の言葉の意味を図りかねていたのか、返答が帰ってこない。
「いや、ここの部屋のドアに、鍵が掛かってるんだが」
「そうなんですか?」
「ここの部屋の鍵は?」
「いえ、私は知りませんが……。オーナー夫人が持ってるんじゃないですか?」
「誰がここの鍵を掛けた?」
「私は知りませんが……。誰か見たか?」
 後半は他の鑑識官たちへの質問だった。それに対して即答した者はなく、曖昧な返事を返すばかりだった。
「おいおい、きみたちそろいもそろって何やってるんだ」
「すいません。ここ、けっこう人の出入りが多くて。私もずっとここにいたわけじゃないんで……。でも、部外者がここを通ればすぐに分かりますよ」
「当たり前だ。これ以上事件が起きたら、今度こそクビだ」
 半ば冗談のつもりだったが、警視の現状を考えれば笑い事ではない。鑑識官たちは予想以上に神妙な顔をして、気の毒そうに頷いた。中途半端な気遣いが若干頭に来た崎警視だった。
「ということはあれか、芝川はまだここの中にいて、内側から自分の鍵を掛けたのか?」
 鑑識官たちが部外者、つまり芝川の姿を見ていない以上、彼はまだ部屋の中にいるということになるだろう。
 崎警視は目の前のドアを思いっきり叩いた。二度三度。
「おい、芝川! 中にいるのか! 開けてくれ!」
 再び叩く。
「早く開けろ!」
 叩く、叩く。
 それでも反応がない。ドアを叩いた手がじんわりと熱を持った。
 異変を嗅ぎ取った鑑識の人間たちが、作業を中断して近寄って来る。
「ど、どうしたんですか……?」
「おい、きみたち。ここを通った人間はいないんだな?」
「はい?」
「この部屋から出てきた人間は?」
「……えーと」
 要領を得ない返事。業を煮やした崎警視は再び同じ内容の質問を繰り返す。
「多分、そうだと思いますが……」
「そうだと思う、だと? どっちなんだ!?」
「え、ええ、誰も通っていません。関係者以外は、誰も……」
「本当だな!?」
 階級が幾分も上の人間に怒鳴られ、鑑識たちは少し怯えた様子を見せながら頷いた。
 その場にいる誰もが現状を把握していなかった。もちろん、崎警視を除いて。
「蹴破るぞ」
 よって、崎警視がそう言っても誰も動かない。完全に思考が停止している状態だ。そこに再び畳み掛ける。
「このドアを破壊すると言っているんだ! 手伝え!」
 返事を待たずにドアへの体当たりを行った崎警視を見て、やっと言葉の意味を理解したようだ。大の大人が三、四人。崎警視のカウントに合わせて全力でドアにぶつかる。それがいくら頑丈なドアでも、永遠に壊れないわけがない。
 数分の後に軋み始めたドア。その過程においても、中から物音は一切聞こえてこない。
「どうしたんですか? 何の音ですか?」
 階下から辻真がやって来たが、崎警視は相手をしない。ただ無言で体当たりのためのカウントを口にする。
 体当たりの直後に木が剥がれる音。支えるものを失って皆が一斉に床に倒れた。
 誰よりも先に、崎警視と、後ろからやって来た辻真が部屋の奥を見た。
 ブラインドが下げられ、薄暗い部屋の真ん中で、誰かが首を吊っている。
 誰が?
 部屋から出た者はいない。
 部屋に入った者もいない。
 それならば、導き出される答えは一つしかない。
 ――この部屋は、完全な密室。
「芝川さん……が、く、首吊り……」
 崎警視が言おうと思っていたことを辻真が先に口にした。言葉の端が震えている。彼の動揺した姿を見たのはこれが初めてだった。
「おい、辻真。降ろすのを手伝え」
 崎警視は彼よりもずっと冷静だった。思考が早いのか、硬直していたのもごく僅かで、すぐに言われた通り崎警視を手伝った。
 肌に触れた途端、あまりの冷たさに驚いた。死体というのはこうも急激に熱を失うものなのだろうか。多少の苦労の後に、芝川の死体を床の上に横たえた。
「芝川……さん、ですよね」
 辻真が確認するので崎警視は律儀に頷いてやった。こうも近くで触れて、その顔を見た以上、この死体が芝川ではないという可能性は、ゼロである。
「崎警視、この口……」
「どうした?」
「何か入ってるんじゃ……。ほら、妙に膨らんでいます」
 辻真が芝川の死体の口を無理やりこじ開けようとするので、崎警視は慌ててそれを制した。
 代わりに自らが左手の指で頬を押さえ、反対側の手で強引に彼の口を開く。手袋もしていない生の肌が、冷たく乾いた芝川の口の中に入っていた。
 死体の口の中から引きずり出したのは東京タワーを模した小さなキーホルダー。リングには鍵が一つもついていない。崎警視は反対側の手でハンカチを床に広げ、その上にキーホルダーを置いた。
「な、何でこんなものが……」
「ちょっと待ってろ」
 言ってから、崎警視は今度はさらに強引に、手首が口の中に埋まるほどに深く手を突っ込んだ。
 辻真の顔色が青いのが分かった。崎警視もなるべく死体の方を見ないようにしていた。死体の口腔の中はひたすらに冷たく、生理的嫌悪を誘うものだ。これ以上の気持ち悪さはさすがの自分でも我慢できない。
 ややあって、崎警視は芝川の喉の奥から左手を引き上げる。
 その手には鍵が握られていた。それを、辻真の方に見せる。
「鍵……何の鍵でしょうか」
「決まってるだろう、そんなことは」
 崎警視は立ち上がる。
 死人の唾液で濡れた両手が、まるで血に濡れた両手のような感触を――。
 これは、幻覚……。
「この部屋の、鍵だ」
 蝶番が壊れたドアが入り口に倒れている。そのドアの鍵穴に、手の中の鍵を差し込んだ。
 カチャン――。
 薄暗い部屋に響いた音を、その場にいた誰もが耳にした。蝶番が破壊されたとは言え、ドアの機構はまだ生きている。それが作動したのである。
 堂東光司を殺した密室は――芝川をも、飲み込んだのだ。
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