第三章早朝にも関わらず、葵荘にはたくさんの人がつめかけていた。大勢の警察関係者がいるのは昨日と同じだったが、今朝はそれに加えて、事件のことを嗅ぎつけたマスコミ関係者の姿が多かった。連続殺人事件である。しかも、推理小説のごとき不可能殺人なのだ。それを大々的に宣伝した雑誌関係者の力によって、『葵荘殺人事件』は世間のちょっとした注目の的になっていた。 しかしこれら一連の報道によってもっとも不利益を被った人物がいた。崎警視である。 「やれやれ、まいった。……朝一で本部長に呼ばれたよ。おそらく、この事件から外されるだろうな」 「まあ、さすがにこれは拙かったですね。全国に警察の無能を晒したようなものですから」 辻真の言い方はあんまりだと思ったが、事実その通りなので反論のしようがない。崎警視は顔をしかめてぐっと口をつぐんだ。 「それまでせいぜい捜査するだけだ。それで、死体はどうなってる?」 「解剖に回しますが、首を絞められて殺された可能性が高いです。それと死体に抵抗の跡が」 「むごいことをする……」 二人はそろって葵荘の中に入った。 堂東光司の弟の公博とクロエとエレナの父ペトロスは、崎警視が到着するよりもずっと前に葵荘に入っていた。ペトロスは娘二人の死体を確認した後、ひとりで部屋にこもってしまっていた。夫を殺された成絵に比して静かな反応だったが、突然娘を失った現実に戸惑っているのだろう。 これからゆっくりと、家族を失った痛みに気付いてゆくのだ。 十年も、二十年もかけて。 「崎警視、大丈夫ですか?」 辻真に顔を覗き込まれた。この男に心配されるとは、相当酷い顔をしていたらしい。 「そんなことよりも、今朝何があったのか教えてくれ」 「最初に死体を発見したのは芝川という、あのコックです」 「あいつか……」 頭痛がした。気のせいではなく、今朝からずっと頭が痛いのだ。寝不足かもしれない。 「クロエとエレナの二人は昨日の夜から姿が見えなかったそうです。昨晩から葵荘の中を探していたそうですが見つからず、今朝外に出たら見つけた、と」 「死因は?」 「首にロープの跡が残っています。それと、二人とも相当激しく抵抗したようです」 「いつごろ殺されたか、分かるか?」 「死体の硬直から考えて、おそらく昨晩の夕食の後――深夜の段階ではすでに死んでいたものと思われます」 「すぐに周辺配備。不審な人物を見た人間がいないか聞き込み。犯人はおそらくここのすぐ近くにいる人間だ」 「近隣の住人ですか?」 「同一犯なら、その可能性が高いだろうな。ここ最近ご近所とのトラブルがなかったかも調べてくれ」 わかりました、と頷いて辻真が駆けて行く。上司がマスコミの槍玉に挙げられてやる気が出ているらしい。そういう殊勝さが普段からあれば、と崎警視は思う。 とりあえずは第一発見者の話を聞こうと葵荘の中に入った。 芝川のことだ、探すまでもなく向こうからやって来るだろうと高をくくっていたがいっこうに見つからない。仕方なく、ロビーから警官たちをぼんやりと眺めていた成絵に芝川の行方を伺った。 どうやら今朝の死体発見から芝川はどこかに外出しているらしい。 あの男のことだから、まさかこのまま逃げるつもりはないだろうが……。 「何でも、少し調べたいことがあるとかで」 「いつごろ戻ると言っていましたか?」 「さあ。今日中には戻られると思いますが」 葵荘のコックが何を無責任な。 芝川の携帯電話の番号が分からず、どころか彼が携帯電話を持っているかどうかも分からないのでこちらから連絡する手段はない。何よりも彼の話を聞きたかったのだが、後回しにせざるをえないだろう。 明日にでも自分は捜査から外されるだろう。それまで自分ができることはやっておくつもりだった。それは芝川のような青臭い正義感からくる行動ではなくて、警察という組織に養われていることへの、自分なりのけじめのようなものだった。 「警視、ペトロスと堂東公博の事情聴取ですが……」 制服組の刑事に尋ねられて我に返った。 あらゆる事情を彼岸において、崎警視は最善を尽くさなければならなかった。 午後一時を回ったところで、荷物を持たない手ぶらの芝川がふらりと葵荘に戻って来た。もちろん昨日のような白いコックの服ではなくて、黒を基調とした芝川の普段着だ。 ホールで部下から報告を聞いていたところで呼び止められる。 「これはこれは崎警視。探していましたよ」 「探していたのはこっちだ。きみ、勝手によそへ行かないでくれ」 「これでも色々調べたいことがあったもので……。それなりに前進はしましたよ」 「そいつは期待しよう。それよりも今朝の事件だが」 「お話は後で。それよりも藍川くんを呼んでください」 崎警視の言うことをまったく無視して、呼んでいただけないのなら僕が直接行きます、などとすぐにどこかに行こうとしてしまう。 それを慌てて押し留めて、急ぎ警官に藍川優を連れてくるように指示をした。 「何だ、藍川優がどうかしたのか? あの子はただの宿泊客だろう?」 「ところがそういうわけでもなさそうです」 何度かつついてみたが、そう簡単に口を滑らす芝川ではなかった。この男は犯人を逮捕するよりも、自分が犯人を追い詰める、その快感に酔いしれるタイプの人間なんだろう。もしくは警察ごときに任せてしまっては不安だと考えているのかもしれない。自分ならこの手札を最大限に活用できるという自信の表れなのか。どちらにしろ崎警視にとって不愉快なことに変わりはない。 しばらくして、藍川優が刑事に連れられてやって来た。突然の呼び出しにもかかわらず藍川は不遜な笑みを浮べて二人に軽い調子で挨拶をした。 「またお話を伺ってもよろしいですか?」 先に芝川が言った。そして横目で崎警視の方をちらと見た。どうぞ、と手で示し、元探偵のコックに容疑者を尋問する許可を与えた。こんなことがばれたら俺はクビだ、と内心は穏やかではなかったが、どうせ捜査から外される身、残された時間くらいはある程度の好き勝手が許されるのではないか。なんて、理屈にならない理論武装。 「あんた、ここの宿の人じゃなかったんスか?」 「ここの宿の人でもある」 「フクザツなんですね」 「複雑じゃない人間なんていませんよ。例えばきみも」 「何ですか?」 「藍川さん僕に嘘をつきませんでしたか?」 一瞬だけ藍川は言葉を詰まらせた。ほんの一瞬だ。立ち直りが不自然なほど早かった。崎警視はすぐに、芝川の言葉が図星であることを見抜いた。理論ではなく、経験則。芝川にはない武器。 「そう言うからには何か根拠があるんだと思いますけど。でなきゃ、すっげームカツクんですけど」 「ご安心ください。ムカツク必要はありません。あなたが嘘をついているのは真実ですから」 「探偵みたいなこと言うんですね」 「最初におかしいと思ったのは昨晩のことです。あたは葵荘を宿に選んだのをたまたまだと答えた。オーナーとも面識があるわけではないと。だとしたらあなたはなぜオーナーの名前を知っていたのですか? 『さあ、何だったっけ。ただの世間話なんで、そこまで詳しく覚えていませんよ。大体これ、堂東さんのと何か関係があるんですか?』――確かあなたはこんなことを言っていましたよね。普通は宿泊客が自分が泊まる宿の主人の名前を覚えるようなことはありませんよ。ましてや午前中ずっと話していた上利さんの名前すら覚えていないあなたが」 「それは、警察の人が言っていたのを、たまたま覚えて……」 「かもしれませんしそうでないかもしれません。これはただの違和感で僕にとってはきっかけに過ぎません。確信はつい先ほど見つけてきました」 「きみ、それじゃあ、午前中はずっと――」 「ええ、そうです」崎警視の方を向いて質問に答える。「普通宿に宿泊する際には予約者の電話番号や住所を申告する必要があります。そこで成絵さんに頼んでそれを見せてもらい藍川さんの素性を調べようと思い立ったのですが」 藍川の方を向いて、にやと笑みを浮べた。あんな笑みを向けられる藍川に同情を禁じえない。多分、ものすごく嫌な感じだろう。そばで見ているだけで嫌な感じなのだから。 「デタラメな住所を書いてはいけませんよ藍川くん。どころか藍川という名前が本名なのかどうかも疑わしいです。……きみは葵荘に用があったのではなくて堂東光司に用があったのではないですか? 観光もせずにこんな宿に二泊もするのは明らかに不自然ですよ」 「嘘の住所と名前で宿に泊まるのは犯罪ですか?」 「別に僕はきみを告発して逮捕したいわけじゃない」笑みを消して真顔に戻る。「堂東さんを殺したのがきみでないことは知っています。ですがきみは堂東さんに関する何かを知っている。それを提供していただけるならこの事件の謎を解けるかもしれない」 「あんたは――えーと、名前何だっけ」 「まだ名乗っていませんよ」 そうだっけ、と藍川を名乗る青年は笑った。まるで普通の子供のように笑う。 「あんたはどうしてそんなに何でも調べたがるんですか? 警察の人ってわけでもなさそうなんだけど」 「僕は人を殺す人間が嫌いだというだけです。人を殺す人間は地獄におちればいいと思っている」 「そうだな。俺も全面的に賛成です」 芝川と青年がしばしの間見つめあった。 お互いの心の中を探り合っているようにも見えたし、自分の心の中を相手に伝えようとしているようにも見えた。どちらにしろ言葉がなければ相手の心なんて分からないし、伝えることもできない。まさかそんな簡単なことを忘れたわけではないだろう。 崎警視は二人の無言の伝達に口を挟めないでいた。 やがて、どちらかが先に、視線を外した。 「……何を聞きたいんですか?」 観念したように、両手を軽く挙げた。 にっこりと芝川は微笑む。 「ここに来た目的は?」 「お察しの通り、堂東光司を目的としてここに来ました」 「堂東光司の知り合いなのか?」 「いえ……。多分、向こうは俺のことは知らないと思います」 複雑そうな表情で藍川。 「兄のことはもう話しましたよね?」 「すでに亡くなっていらっしゃるとか」 「兄は、重度の麻薬中毒患者でした」 ――さすがに、芝川の眉が吊りあがった。もちろん崎警視も驚きを隠せなかった。 「その兄に麻薬を売っていたのが、あの堂東だったんです」 「……それは、確かなのか?」 「それを調べたくて、俺はここに来たんです。最初は兄がどこから麻薬を買っていたのかを調べました。何人か売人と会って、そいつらから堂東光司の名前を聞き出したんです」 「それじゃ、堂東は麻薬の売人だというのか?」 「まだ分かりません。堂東自身がどこから麻薬を手に入れているのか、それを調べたかったんです。あの男は美術品を集める目的で頻繁に渡航していますから、そのときに密輸したのではないかと」 「どうして警察に告発しなかったのですか?」 「警察は捕まえた犯人を法で裁きます。俺は、法ではなく、自分の手で裁きたかった」 藍川に後ろめたさはない。全身から自身がみなぎり、自分の正義を信じて疑わない力強さを崎警視たちにぶつけていた。 「復讐したかったのです。兄のためではなく、自分のために。堂東光司をこの世から抹殺したとしても、兄貴が蘇るわけじゃない。そんなことは分かっています。この復讐は、俺が、俺のために行なう、ただのうさ晴らしです。……それでも俺は、やり遂げたかった」 「昨日上利さんと話していたのは――」 「そうです。堂東光司のことを色々と聞き出していました」 この青年なら、たしかにその程度のことはやり遂げてしまうだろう。 「そのとき不審な人物を見たりしましたか?」 「見ていませんし、見ていたとして庇い立てする義理はありませんよ」 「そうだな……」 ちらと芝川の方へ視線を送る。 予想に反して彼は無表情だった。いや、気取られないくらいほんの少しだが、僅かに落胆の色が見られる。芝川としてはあの密室の謎を解きたかったのだろう。藍川青年の正体がそのための手助けになると踏んでいたのだろうが随分と当てが外れたようだ。裏で堂東が何をしていようと、今回の事件に物理的に影響を及ぼすものではないのだから。 「とりあえずこのことは公安に相談してみよう……。麻薬はあっちが専門だ。いいね?」 「ええ。俺の復讐も、どうやらここまでのようですし。後はご自由に」 悟ったように――というよりは、半ば投げやりに藍川は言った。目的だった堂東光司への復讐は果たして達せられることなく、彼は殺されてしまった。これからこの青年はどうするのだろうか。 「さあて、とりあえず家に帰りますよ。あいつは死んでも、俺はまだ生きていますから」 それでは、と一礼して一階の奥の廊下を歩いて行った。部屋に戻って荷物をまとめるのだろうか。もうここに用はないのだから。 用はないのだから、立ち去る。ドライに。機械的に。合理的な判断。理性的な復讐……ね。 色々思うところはあったが、これで、またひとり事件の舞台から登場人物が消えた。もちろん、彼が犯人という可能性がまったく零というわけではないのだが。 「あの用務員の上利という男だが……。きみは親しいのか?」 「僕はここに来て日が浅いのでそれほどは」 「そうか」 それ以上説明するつもりはなかったが、こんな下手な手を見逃すはずはなかった。 「何なんです? 上利さんがどうかしたんですか?」 「いや、別にどうもしない」 「ではなぜ僕と上利さんの関係を質問したのですか?」 「だから特に理由はないと言っただろう」 「いくら僕でも崎警視が嘘をついていることくらいは分かりますよ」 「嘘をつけ」 「嘘ですけどね。でも限りなく本当に近いことです。上利さんの身の上に関することですか? そんなことは僕が調べれば一日も掛からずに調べられますよ」 「……きみが今日調べたのは、あの藍川青年のことだけか?」 「でなければもっと時間がかかっていますよ。お互いに時間はエメラルドのように貴重なのですから下手な時間稼ぎはやめにしませんか」 エメラルドのように、か。なるほど、確かに時間は貴重である。エメラルドを突然比喩に持ち出すのは少し飛躍しているが、何か元ネタがあるのだろうか。けれど、この喩えは気に入った。 崎警視はふっと唇を緩めた。芝川に説得されたのではなくて、あくまで合意しただけだ。説得と合意には越えられない大きな隔たりがある、と自分を説得して。 「上利拓巳の妻は十年前に死んでる」 「存じていますよ。肺がんですよね」 「違う」かぶりを振って否定した。「殺されたんだよ。通り魔に」 芝川の口から息が漏れた。溜め息を付いたわけではないだろう。焦点の合っていない目が、再び崎警視を見て瞬きする。 「犯人はすぐに逮捕された。無職の二十代の男だ。……薬物中毒者だった」 「なるほど……。だから上利さんは。なるほど」 「藍川は上利に堂東のことを聞いたんだろうが……。その上利自身も、復讐の相手を探してここに来ていたというわけか」 「上利さんが藍川くんに協力したのはそれが理由ですか。上利さんが藍川くんとの会話の内容を僕に秘密にした理由は――いや」違うな、と首を傾げる。「藍川くんをけしかけて自分の代わりに復讐させようとしたのかもしれない。上利さんがそこまで狡猾な人とは思えませんが。でも考えなしに人を殺すほど軽率な人間でも――」 「それより考慮しなければならないのは上利と藍川が共犯関係にあった場合だろう。その場合、目撃者を気にすることなく堂々と窓から侵入して、堂東を殺害することができる」 窓から入るのに「堂々と」なんて言い方をするのは少し変だが。 「確かにそれならば密室はクリアできますが。その場合はどうして密室にしたのかという問題が残ります」 「そんなのは決まってる。密室に意味なんてないんだ。強いて言えば、それ以外に方法がなかったから、だな。廊下から部屋に入れば双子に見つかってしまう。それを避けるためには窓から侵入するしかない。そしてアリバイを確保するためにお互いが証人に――」 「だとしたらずっと庭にいただなんてことは言わないでしょう。もし庭ではなくて別の場所にいたということにすれば部屋は密室でなくなり例えば強盗の犯行に見せかけることも不可能ではありません。密室ということにするメリットが何一つありませんよ」 「それは……そうだが。しかしな、この世のすべての人間が損得を勘定できる人間というわけではないんだぞ。そういう計算ができずに思わず現場を密室にしてしまったという可能性だってある」 「それもそうですね。僕も最近それを痛感していますよ」 芝川の言い方には何だか実感がこもっているようだった。彼ほど計算の早い人間はいないから、それと比べれば普通の人間の計算の弱さが余計に目に付くのだろう。 「それはそれとしても。崎警視のおっしゃることにも一理あるかもしれません」 「二人が犯人だと?」 「密室を作った理由の方です。凶器から推測しておそらく突発的な犯行だったにも関わらず手品師のごとく部屋を密室にした理由。密室にしたのではなくて部屋を解放しなかった。密室がデフォルトなのでしょうね」 「だとしたら問題は、密室だった現場にどうやって侵入するか、ということになるな。それで、見当はついているのか?」 「崎警視のおかげで切り口が見えてきました。……不躾なお願いなのですが」 「きみはいつも不躾だ」 「現場をもう一度見せていただけませんか?」 芝川の能力を知っている以上、崎警視は断るための自然な理由を見つけることができなかった。 芝川は最初の事件現場である堂東光司の部屋に入ると、鑑識が何度も調べた場所をなぞるようにもう一度調べ、部屋の中をあちこち歩き回った挙句に行儀悪くデスクに尻を乗せて考え込んでしまった。その間中ずっと無言である。崎警視に解剖の結果を伝えに来た辻真がそのあまりの傍若無人っぷりに言葉を失って、いつのまにか崎警視と一緒に芝川を観察しているのも失笑ものだった。 「それで? ……現場を見せたが、それからどうするんだ?」 崎警視の言葉を無視して、というか聞こえていないのかどこ吹く風で、両足をぷらぷらと揺らして子供のように視線を部屋中に行ったり来たりさせている。 視線が壁を這い、それがぴたりと止まる。 本棚に並んだ黒い背表紙。デスクから飛び降りるとそこまでツカツカと歩み寄って、無造作に一冊抜き取るとその場で開いて中を改めた。 「光司さんは殺害された日に読書をしていたそうですが」本を見る姿勢のままで言う。「それが何の本なのかはご存知ですか?」 「いや、知らん。成絵も背表紙だけで何の本を読んでいるかまでは分からなかったそうだが……」 「これがその本ですよ」 崎警視に本の表紙を見せて言った。辻真は多少オーバーに驚いているようだったが、崎警視は特にリアクションは見せなかった。 「何で分かるんだ?」 「埃ですよ。光司さんがあまり本を読まなかったというのは本当のようで本棚のほとんどの本は埃を被っています。その中で唯一埃を被っていないのがこの本なのです」 「つまり一番最近取り出した形跡のある本が、それか。それが事件に関係あるのか?」 「関係あるのかないのか……。この世に無関係なことなんてあるんでしょうか。全ては繋がっている。 さすがの崎警視も今度ばかりは完全に意味不明で、ぽかんと口を開けて芝川の言葉の続きを待った。しかしやはり大した意味があるわけではなく、じっと自分を見つめる崎警視たちに気付いて逆に不思議そうな顔をする芝川だった。 「崎警視、これは何の本ですか?」 突然彼は寡黙であることを放棄して崎警視に質問する。 分厚い本の表紙には黒地に金色の文字が躍っていた。もちろん読めないわけがない。崎警視はギリシャでの生活に困らないほどの語彙を持っているのだ。 「これは、詩集だ。作者はジャン・コクトー」 「ギリシャ語ですね」 「そうだな」 それっきり黙って手元の本をひっくり返したりぱらぱらとページを捲ったり、まるで手持ち無沙汰になったみたいに弄り始めた。 恐らくこの場の三人の中でもっとも意味不明であろう辻真だったが、部屋を立ち去るようなことはしなかった。それは芝川が本を弄っている最中にぽつりと、 「きっとこの本が犯人を指し示して……だから唯一犯行が可能な人物が――密室……」 と呟いたことも無関係ではない。 「芝川くん。この本が何かの証拠なのか?」 「証拠ではなく指針……犯人を指し示す魔法の針」 まるで熱病に侵された患者のうわ言のようだった。 やがて、この場の解散を申し出たのは、崎警視の予想通り芝川の方だった。 「しばらくの間ひとりにしていただけませんか? 少し……頭の中を整理したいのです」 またしても、崎警視には、それを却下するだけの論理的な理由を見つけることができなかった。 「あの芝川という人がますます分からなくなってきました……」 「だろうな。というか、彼だって理解されることを望んでいるわけじゃないだろう」 「でも、芝川さんは警視の友人でしょう?」 辻真を連れて葵荘の廊下を歩いていた崎警視だったが、それが突然歩みを止めたことに気付かず、崎警視をしばらく置き去りにしてから慌てて戻って来た辻真だった。 ぽかんと、辻真を見ながら崎警視は口を開ける。あまりにあんまりな突然の誤解に、それを否定しようとする言葉が怒涛のように溢れ出たために言葉がつまり、結局何物も言えずにその場に立ち尽くしてしまったのだ。 「どうしました?」 「誤解しているようだが」 「はい」 「芝川とは何の関係もない。友人というわけでもない」 「だったら、どういう関係なんですか?」 「無関係、だ」 無関係。自分たちの関係を言い表す言葉でこれ以上的確な言葉があるだろうか。 自ら使った言葉にうんうんと感心する崎警視を冷めた目で見てから、だったら――と辻真は切り返す。 「どうして事件に関わらせているんですか? もうすぐ解任される警視にこんなことを言いたくはないのですが、明らかに越権行為ですよ」 「嘘付け。目が笑ってるぞ」 「冗談で言ってるんじゃないですよ。わたしが上に密告すればきっとお咎めが行くでしょう」 「それは脅しているのか?」 「恐喝罪には問われたくないですからね。でも警視がわたしに勝手に奢るのはアリでしょう」 「どいつもこいつも足元を見やがって……」 頭痛がしたのは気のせいではなかっただろう。まあ、しかし一般人に捜査情報を漏らしているのは確かに自分なのだし、辻真の言うことももっともだ。そのうち酒の一杯でも奢ってやれば口を閉ざすだろう。 辻真は嫌な部下だが人を裏切るようなことはしない。むしろ正面から切り込むタイプだ。そんな姑息な手なんて使わずに。 「芝川を事件に関わらせているのは、あいつが事件を解決する可能性が高いからだ。高いと言っても、宝籤を買う程度の期待値だがな。しかもあの宝籤は無料だ。リスクと言ったら、捜査の情報を一般人に漏らしていることが部下に密告されることくらいだ」 「それは大変なリスクですね。上司を売るなんてわたしには信じられません」 「そうだろう。そういうやつは普段から上司に尊敬の念を抱かず、上司を蔑ろにして、あろうことか口封じに何か奢れと要求するようなやつだ」 「まさに悪人ですね」 「だからまあ、そうだな……。芝川に関しては、無駄になってもともと、事件を解決してもらえるなら儲け物、くらいに考えておいてだな」 「なるほど」 「放っておいていいんだよ。それはそれとして、警察は、警察の仕事を果たそう。ところで、東京での聞き込みだが――」 崎警視が真面目な調子で上司の顔に戻ると、辻真も軽口を叩くのをやめてそれに答えた。ふざけたところもあるが、基本的には辻真は分別をわきまえた有能な部下だ。 |