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第二章

 崎警視は辞退したのだが、芝川がどうしてもと言うので食堂で夕食をご馳走してもらうことになった。
 芝川はどんなエキセントリックな料理を作るのだろうと半ば自虐的な期待を抱いていたが、実際の夕食は極めてオーソドックスな、少なくともそれを食べた客が怒り出すようなことはない堅実な料理だった。
 魚を紫蘇の葉と一緒にから揚げにしたものに、大根と人参の煮物、油揚げの味噌汁。洋食よりも和食の方を好む崎警視には十分満足できる料理だった。
「いや、しかし驚いたな。きみは本当にコックだったんだな」
「僕はこれでも器用な方なんですよ」
 食後に芝川からコーヒーをもてなされ、上機嫌の崎警視だ。
 食堂の外はすっかり暗くなっている。葵荘の宿泊客たちはすでに夕食を終えていて、崎警視がここの最後の利用者だった。ついさっきまで言葉の通じない双子の女の子に対して成絵がずいぶんと苦戦していたようだったが。
 厨房から出てきた芝川が、崎警視のテーブルの向かいに座る。自分の分のコーヒーも持っていた。
「捜査の状況はいかがですか?」
「何だ? 僕はこの事件に関わりませんと宣言した割には、ずいぶんと訊いて来るんだな」
 崎警視は苦笑して答えた。
 「関わりませんとは宣言していません。関わる理由が皆無だと言ったのです」両手をゆったりと広げて芝川。「同様に関わらない理由も皆無です。それに」
「それに?」
「僕と崎警視の共通の話題と言えば事件のことくらいしかありませんよ」
「まあ確かに、そうだな。世間話という間柄でもないし」
 コーヒーを一口飲んだ。中々上等なコーヒーを淹れてくれる。
 崎警視は上機嫌だった。それを芝川が、探るように見ていることには、もちろん気付いている。
 思考能力では芝川が勝るだろうが、人間観察ではまったく勝負にならない。崎警視はそれを、参照できるデータの量の差だと思っている。何も学ばずに数十年間刑事として生きてきたわけではないのだ。
「関係者の今日一日の行動を洗っているところだ。関係者というのはもちろん、葵荘の住人と宿泊客のことだが」
「成果はどうですか?」
「まだ何も分かっていない。当人の主張を聞いただけだ」
「では崎警視のお考えを」
「まだ何も考えていない」
「まさか何も方針を立てずに捜査を指揮していらっしゃるわけではないでしょう?」
「どうして関係者のきみに捜査の方針を教えなくちゃいけないんだ?」
「何かご協力できることがあるかもしれませんよ」
 含みのある言い方だった。
 誘っているな、と崎警視は思った。自分は何かを知っていると思わせようとしている。そしてそれを探らせようとしている。わざと自分の手札をちらつかせて、こちらの動きを誘っている。
 どうするかはすぐに決定した。
 損失リスク利益プロフィット。どちらが大きいかは明白だ。
「今のところ内部犯ということに傾いているな。殺し方がアレだし、それに外部犯だとしたら、内部へ侵入する方法が全くないからな。被害者の顔見知りが、口論の末に、カッとなってその場にあった銅像で殴り殺した……とまあ、こんな筋書きじゃないかと」
「なるほど。妥当な想像ですね」
「何だ? 不満そうだな」
 内心の笑みを隠そうともせずに崎警視。自分の予想通りの展開なので思わず可笑しくなったのだ。
「別に不満というわけではありませんよ。ただ僕は崎警視のお考えを聞きたかったのです。ここで一般論を話されてもどうしようもありません。犯人の目星くらはつけていらっしゃるのでしょう?」
「そうだな……ま、これはまだ決まったわけじゃなくて……オフレコで聞いて欲しいんだが」
「最初からそのつもりですよ」
「被害者の妻の成絵は、特に重点的に身辺を調べてる」
「どうして成絵さんだと?」
 「被害者と一番近い人間だからな……ある程度疑うのは定石としても」声をひそめて言う。「近隣の住人への聞き込みの結果、堂東夫妻の夫婦仲がかなり悪かったことが複数の証言から分かっている。何度も夫婦喧嘩をしていたと」
「それで『カッとなって』……ですか?」
「密室の件もあるからな。被害者が十一時に生きているのを確認したのは成絵だけだ。そのときに殺したと考えるなら、密室の問題はすべて消滅する」
「それだけで犯人が成絵さんだと考えるのは少し短絡的だと思いますが」
「だから目星だと言ったろうが」
 崎警視が苦笑した。
 まだほとんど芝川には情報を渡していない。この程度のことなら芝川ならばすでに知っているはずだし、自分たちがこう考えることだってすでに想像しているはずだ。
「じゃ、次はきみの番だ」
「何がですか?」
「自分の考えを教えたんだ。次はきみの考えを話す番じゃないのか」
「そうですね……。ではお話しましょう」
「簡潔に頼むよ」
「努力はします」
 微笑む芝川。
「簡単な消去法ですよ。密室の件がありますから外部犯の可能性はありません。そして葵荘の人間全てにはアリバイがあります。よって犯人は外部の人間でなければ葵荘の人間でもありません」
「ちょっと待て。だからアリバイは、被害者が十一時から十二時の間に殺されたという前提の上で成り立っているが――」
「その前提は崩れませんよ。その前提は成絵さんの証言によって成立しているわけですが成絵さんが犯人ということはあり得ません」
「何故だ?」
「成絵さんが犯人だとしたら行動があまりにも不自然です。成絵さんが犯人だとして犯行の機会は二度あります。一度目は崎警視がすでにおっしゃいましたが光司さんが生きているときに部屋に入ったときです。二度目は部屋で光司さんの死体を発見したときです。この場合は成絵さんが光司さんを殺害して自分が第一発見者だと装ったということになります」
「いや、死体の硬直から見て正午の殺された可能性は低い。まだ正式な結果は出ていないが、死体の状況だけを見れば、死亡は午前十時から午前十一時半ぐらいまでの間らしい」
「では成絵さんが殺人を犯せる機会は午前十一時に光司さんの部屋を訪れたときだけということですね。しかし成絵さんが犯人だとしたら彼女の対応はあまりにも不自然です。どうして彼女はもう一度現場に戻りそのときに死体を発見したと嘘を吐いたのでしょうか」
「そりゃ、アリバイを作る必要があったんだろ」
 「いえそれはあり得ません」芝川はかぶりを振った。「成絵さんが犯人だとしたら午前十一時から正午までのアリバイに何の価値もないからです。なぜならアリバイに関わらず成絵さんは午前十一時に光司さんを殺害できたのですから。彼女が午前十一時に光司さんの部屋を訪れたのはエレナちゃんとクロエちゃんが目撃しているでしょうからその事実は変えようがありませんし」
「あ……」
 今さらながら、崎警視は自分の考えの根本的な誤りに気付いたのだった。
「言い換えれば成絵さんのアリバイは彼女の無実を証明するための一切の効果を持たないのですよ。このアリバイに効果を持たせるためには午前十一時の段階で光司さんがまだ生きていたことを客観的に証明しなければなりません」
 この段階では、崎警視は芝川の論調に対して違和感を覚える精神的余裕がなかったが、後で思い返してみればこの言い方はかなり奇妙である。主体がずれていると言うか――まるで成絵を中心にして話しているような、事件がどのような形ならば成絵が無実となるのか、芝川がそういう考え方をしていることに、崎警視は気付かなかった。
「どちらにしろ成絵さんが犯人というのは極めて不自然です。……今回の事件、犯人の遺留品や犯行の痕跡が現場に残されていましたか?」
「いや……まったくない。荒らされた形跡もないから、犯人は犯行後にすぐに現場を立ち去ったんじゃないかと思う」
「それほどまでに冷徹で冷静だった犯人がそんな無意味で危険なことはしませんよ」
 言い終えてから、芝川はマグカップに残っていたコーヒーを全て飲み干した。そしてすぐに立ち上がり、厨房に入って二杯目のコーヒーを入れてからまた戻って来た。
 その僅かの間に崎警視はなんとか冷静に頭の中を整理することができた。他人との議論には情報の受け渡しだけではなくて、自分の中にある情報を整理する効果もある。
「ではきみの言う通りに消去法で犯人候補を消していったとして、そうなると外部犯ではなく内部犯でもない……って、それは犯人がいないということになるんだが」
「まだ検討していない可能性がありますよ」
 二杯目にも関わらず、芝川は湯気の立つコーヒーを上手そうに舐めた。
「もったいつけるな。きみの悪い癖だぞ」
「すみません。実はわざとです」
「謝るくらいなら最初からやるなよ。……それで、まだ検討していない可能性とは?」
「光司さんが自殺した可能性です」
 崎警視と芝川はしばし無言でお互いの顔を見ていた。咄嗟に言葉が出なかった崎警視と、それ以上の説明を続けなかった芝川。
 やや間が空いて、
「それはありえんだろう。被害者は後頭部を殴られたんだ」
「しかし部外者が密室を破る方法を考えるよりも他殺に見せかけて自殺する方法を考える方がより簡単です」
「簡単かそうでないかで真相が決まるわけじゃない」
 崎警視が反論すると、仰るとおりですと、意外にあっさりと引き下がった。
「正直に言って僕もまだ真相に近づけていません。この事件は複雑に見えてその根元は意外に単純にできているような気がするのです。こんな小手先のトリックではなくて――何か根本的に間違えているような……」
 芝川の語尾は徐々に萎んでゆき、顎に手を当てて考え込むように黙ってしまった。
 崎警視は腕時計を見た。ベルトが銀色に光る割と高価な時計だが、時刻を告げるという本来の役割において幾分も勝っているわけではない。
 食事だけのつもりが思った以上に時間を使ってしまったことに気付いて、崎警視は椅子から立ち上がった。
「夕食をありがとう。なかなか上出来だった」
「お褒めの言葉をありがとうございます」
「そろそろ戻る」
「お帰りですか?」
「あと一時間もすれば帰るよ」
 そう告げて、崎警視は食堂を出た。



 崎警視を乗せたパトカーが葵荘を離れるのを見送って、芝川は玄関ロビーのソファに体を落とした。それを見計らったかのように成絵が近づいてきた。芝川は彼女の対応をしなければならないことに内心嫌気が差していたが、もちろんそんなことを表情に出す芝川ではない。
「どうでしたか?」
「何がですか?」
 わざととぼけた返事を返した。成絵は苛立った様子で、
「あの刑事、何か言っていませんでしたか?」
「成絵さんを疑っていらっしゃるようです」
「まあ」
 手を口に当てて大げさに驚いた。その指に赤いマニキュアが塗ってある。飾り気のない白いワンピースと茶色のローヒールを身に付けた彼女にとっての唯一の装飾と言える。それにしても、やはり彼女の幽霊じみた不気味さが完全に消えることはない。
「け、けど、わたしにはアリバイが――」
 「あのアリバイですが」事もなげに芝川。「あれが成絵さんの無罪を証明することはできません」
 そう前置きして、崎警視に説明したのと同じことを成絵にも説明した。
 それを聞いた成絵はしばし色を失っていたが、
「ど……どうしてそれを言ってくれなかったんです!?」
「知っていれば言っていましたよ。僕が事件のことを細部まで知ったのは警察が到着する寸前だったのですから」
「そんな。それじゃ、わたし……どうすれば」
「さあ」
 芝川は投げやりに言った。当然の成り行きとして、成絵は激怒して芝川に迫った。
「さあ、って――無責任な!」
「僕に何の責任があると言うのですか」
「それは――」
「僕はあなたに頼まれてアリバイ工作の片棒を担いだまでです。そこまで面倒を見なければならない道理なんてありませんよ」
「……何が欲しいんですか」
「はい?」
「お金ですか? いくら払えばいいんですか?」
「そういう問題ではありません」
「ではどういう――」
 「正直に言って」真正面から成絵の目を見る。「僕はあなたが犯人ではないかと疑っています」
「な――」
「それでもよければお引き受けしましょう。成絵さんの無実を証明する最も確実な方法は真犯人を告白することです。そして僕が真犯人を探しましょう。もちろん成絵さんが犯人だった場合は庇い立てできませんが」
「……そうですか。ええ、もちろん、お願いします。わたしは犯人ではありませんから」
 成絵の態度は堂々としており、やましいところなど何ひとつないように見えた。表向きは。
 芝川は自分の能力をそれほど過信していない。彼の自信はすべて経験則から来るものだ。過去に経験のないものについてはまったく自信を持たない。それゆえに、表向きは犯人には見えない成絵の態度だったが、自分の観察眼をそれほど過信することもなく、芝川の中では冷徹な計算が静かに働いていた。犯罪者の味方をするつもりなどないが、正義のためのボランティアをするつもりもなかった。
「まず約束して欲しいのは僕の質問には正直に答えていただきたいということです」
「わたしは嘘なんてついていません」
「それは結構。あと成絵さん以外にも葵荘の人たちからお話を伺うことになると思います。その許可を」
「もちろんですわ。わたしにできることはなんでも」
 「では後で遺体の見つかった光司さんの部屋を見せていただくとして――」少々鋭すぎる眼つきで成絵を見る。「今朝何があったのか本当のところを話していただきます」
 堂東成絵にとっての今朝は昨日とほとんど変わらない今朝だった。唯一の違いは堂東公博がいないことと、クロエとエレナという言葉の通じない双子の娘を預かっているという点だけだ。
 食堂で料理を作るのは成絵の仕事だった。
 橋ノ口一家が食堂に現れたのは午前七時ごろ。観光雑誌を見ながら食事をする夫を行儀が悪いと叱る妻。娘は眠そうな目を擦りながら焼き魚をつついていた。葵荘には一泊するだけだ。
 食事が終わると父親の橋ノ口純一から温泉への道のりを質問される。彼らのワゴン車が駐車場に停められていたことを思い出した。
「橋ノ口さんは車で来ていたんですね?」
「ええ、そのはずです」
「彼らはどこに行かれたんですか?」
「場所を聞かれたのは央妙温泉というところです」
「オウ……なんですって?」
「オウミョウオンセン。車で……そうですね、一時間も掛からずに着くと思いますが」
「ずっとそこにいたんでしょうか」
「違うと思います。あちこち見て回る、ということを言ってましたから」
 しばらく間を置いてから藍川優がやって来た。彼は学生で、夏休みを利用して自転車で旅をしているらしい。荷物は自転車とリュックだけ。葵荘には三泊の予定だった。今朝が二日目ということになる。
「朝来たのは二組だけですか?」
「いえ、もう一人」
「それは?」
 成絵が芝川を指差した。そういえば今朝の段階では自分はただの宿泊客だったのだ、と思い出した。
 芝川が食堂に顔を出したのは八時半。食堂が閉まるぎりぎりの時間だった。出された味噌汁の味が濃すぎてさりげなく文句を言った覚えがある。もしかしたら自分がコックということになっているのはそのことが関係しているのかもしれない。勝手な想像である。
「その後はどうなさったのですか?」
「食堂の掃除をして……そのときに主人が起きてきて、たしか九時くらいだったと思いますけれど、急いで朝食を準備して、わたしは一旦食堂の外に出ました。お洗濯するために……」
 ああ、成絵。
 堂東光司が出掛けの成絵に声を掛ける。
 今日はずっと部屋で本を読んでいるけど、集中したいから、部屋へは入らないでくれないか。
 成絵は困惑する。が、逆らえば何をされるか分からない。素直に頷いて、昼食はどうなさいますか、と訊いた。
 そうだな。十二時くらいに呼んでくれるかな。それまでは絶対に部屋に入らないように。
「部屋に入らないようにと……そうおっしゃったんですね?」
「ええ、そうです」
「でも成絵さんは十時くらいに一度光司さんの部屋に入っていますよね」
「ええ」
「彼はそのとき何をしていましたか?」
「あの人は……確か、椅子に座って本を読んでいました。黒い背表紙の。多分、ギリシャの本だと思いますけど」
「それから?」
「すぐに追い出されました。……ものすごく怒られました」
「それからは?」
「ずっとカウンターに立ってましたよ。途中で抜けて、お昼ご飯の準備を始めました」
「何時ぐらいに抜けられましたか?」
「十一時くらい……だと思います。それからはずっとお料理していました」
 十二時に主人を呼びに行った成絵はそこで主人の死体を発見。急いで一階に下りてきて、ホールで新聞を読んでいる芝川に声をかけたのだ。
「光司さんは誰かと約束があったのではないでしょうか。つまり自分の部屋で誰かの訪問を待っていたとか」
「そうかもしれません」
「過去にそういうことがあったのですか?」
「……その、よくわかりません」
 素人目にも、成絵が嘘をついているのが分かった。
 これ以上の収穫はなさそうだ。名乗り出ない以上、堂東光司と会う約束をしていたその自分物が犯人か、もしくは犯人を知っている人物であるに違いない。
 問題はどうして成絵がそれを隠しているか、ということだが。
 成絵は居心地が悪そうに体を小さくくねらせた。芝川の視線から逃れようとしているみたいに。



 何はともあれ、もう一度関係者から証言を聞いてみる必要がある。関係者というのはもちろん、葵荘に宿泊している人たちのことである。
 芝川自身は葵荘に宿泊してこれが三泊目である。チェックインする姿を他の客に見られた覚えはないから、ずっと葵荘にいる成絵や上利がばらさない限りは、自分がコックではないと他の人たちに悟られることはないだろう。
 その上利の部屋の前に、芝川は来ていた。宿泊客は一階の部屋に泊まることになっており、従業員は全員二階の部屋を利用することになっている。と言っても、今のところ利用しているのは堂東一家と用務員の上利拓巳だけなのだが。
 芝川はドアを躊躇うことなくノックする。
 二度三度。
 応答がない。
 さてどうしたものかと思ったとき、階段を上って上利がやって来た。
「あ、あの、どうしたんですか……?」
 自分の部屋の前に立っている芝川に向かって怯えるような調子で上利が尋ねる。彼と知り合ってまだ一週間と経っていないが、人付き合いが苦手な人種であることは十分すぎるほどに分かっていた。
「今日のことでニ、三伺いたいことがあるのです」
「は、はあ」
 戸惑いつつも、中へどうぞ、と言って芝川を自分の部屋へと招き入れた。
 上利の部屋は一階の客室と同じ程度の広さで、簡易な冷蔵庫と小さなテーブル、椅子とベッドがそれぞれひとつずつ備え付けられている。テーブルの上には飲みかけの酒、ベッドの上にはカバーのかかった文庫本と脱ぎ散らかしたズボンが投げ出されていた。
 それを上利は慌てて片付ける。芝川に椅子を勧め、自分はベッドに腰掛けた。上利は上下共に青いジャージを着ていた。昼間着ていた作業服はハンガーで壁に掛けられている。
「あの、それで、何を訊きたいんでしょうか」
 おどおどと芝川に質問する。非常に警戒されているのが分かった。
「今朝からの行動についてです。恐らく何度も警察の方にお話になったと思いますが――」
「い、いえ。私は」
「何です?」
「大丈夫です」
 伏目がちに上利。
「まずは今朝起きたところからお話願いますか?」
「あの、その前に。奥様が、そうしろと、言ったんですか?」
「はい? ……ああ僕のことですか。そうですよ。僕は成絵さんに頼まれて動いています」
「そうですか」
 両足をぴったりと合わせてその上に手を置いている。指と指をもぞもぞとお互いに絡ませていた。緊張を少しでも和らげようとしているのかもしれない。
 上利拓巳が起きたのは今朝の五時半。当然だがそんな時間ではまだ成絵の準備が終わっておらず、朝食は食堂ではなくて自室でとることになっている。昨日のうちに買っておいたコンビニのパンとウーロン茶だ。
 朝食を食べた後に葵荘の本日の営業の準備を始める。まずは玄関と表門を開けてボイラー室の点検。玄関の掃除とシーツ点検の準備、云々……。
「それを全部お一人で」
「……はい」
「上利さんはずっとこちらで住んでいらっしゃるんですよね」
 無言で頷く。
「失礼ですがご家族は?」
「つ、妻は十年前に肺ガンで死にました。子供はいません。……あ、あの、旦那様と何か関係があるんですか?」
「ありません。そう肩肘張らずに気楽に答えてください。ただの雑談ですよ。ちなみに僕には兄が一人と妹が一人います。父は三年前に亡くなりましたが母は健在です」
「結婚は?」
「まだ今のところ予定はありませんよ。どうも出会いがなくて。依頼人とそういう関係に発展することはまず不可能です。仕事に私情は持ち込めませんからね。同業者ともまずあり得ませんね。僕の方が御免こうむりますよ。何せ探偵を伴侶に選んでしまったら浮気が一切できなくなりますから」
 芝川の出来の悪い冗談に、上利はわずかに微笑んで返した。
「今日はずっとお仕事だったんですか?」
 上利は首肯する。
「何時くらいから庭にいらっしゃったのですか?」
「あの……すいません。実は正確な時間は……」
「そうなのですか? 警察には十一時からずっといたと証言したと聞きましたが」
「いや、十一時くらいから、という意味で……。もしかしたら十一時半くらいだったかもしれませんし……」
 おや、と芝川は思った。単一のソースのみによって情報を得ることの危うさがこういうところにあるのだ。
「では十時半だとして――上利さんはずっと庭にいらっしゃったんですね?」
「そうです」
「ずーっと?」
「ずーっとです」
「一度も離れなかった?」
「一度も離れませんでした」
「宿泊客の藍川くんもそこにいたのですよね」
「ええ、そうです」
「彼はどうしてそこに?」
 「それは……」言葉に詰まる。「あの……よく、分かりません。ええと、私が芝刈り機を動かすのを、ずっと見ていました」
「藍川くんと何か話しましたか?」
「その……世間話を」
「例えば?」
「え……いや……大したことは」
 語尾が徐々に小さくなり、とうとう芝川の耳では聞き取れないレベルにまで落ちてしまった。もごもごと言い訳のようなものを口の中で言い続けている。
 芝川の眉が少し吊り上がる。どうやらこの辺りに何かがあるようだ。
「夜分遅く失礼しました。今晩はどうぞごゆっくりお休みください」
 頭を下げて、芝川は上利の部屋を出る。
 上利の方を見ると、やっと解放されたと安堵するような表情を浮べていた。
 「それと」ドアが完全に閉まる前に、言い残した。「またお話を伺うことになると思います。恐らく近いうちに」
 二階の廊下に出ると、突き当たりにある光司の部屋が目に留まる。中を自分の目で確かめたい衝動に駆られたが、今は時間も遅い。宿泊客の藍川優から話を聞くのが先だろう。
 階段を下りて藍川の部屋を探そうとしたところでその必要がなくなってしまった。玄関ロビーで日焼けした青年とばったり会ったのである。
 無言ですれ違おうとする青年に芝川は声をかける。
「こんばんは」
「……こんばんは」
 一瞬こちらを怪しむ素振りを見せたが、素直に挨拶を返す。しかしやはりどこか警戒している様子は否定できない。
「あなたが藍川さんですか?」
「……はい、そうですけど」
「僕はここのコテージの関係者なんですけどね。今日のことで少しお話を伺ってもよろしいですか?」
 芝川は青年の返事を待たずにロビーのソファーを勧めた。藍川は何か言いたそうな顔をしていたが、結局何も言えずに、芝川の言う通りに大人しくそこに座る。
 藍川優は日焼けした、スポーツが得意そうな好青年だった。灰色のシャツに白の長いパンツという、非常にラフな格好をしている。不ぞろいに伸びた髪がアクティブな印象を芝川に与えていた。
「今日起きたことを今朝から順番に話してください」
「何度も警察に話したんですけど」
「まあそうおっしゃらずに」
 愛想笑いを浮べた芝川に、藍川は不満そうに口元をへの字に曲げて答えた。
「今朝は七時に起きました。着替えて食堂で朝ご飯を食べて、それからしばらく自転車の手入れをしてました」
「自転車?」
「まあ。俺、自転車でここまで来たんで」
「今は学生さんですか?」
「そうです。大学生っす。今夏休みなんで、自転車旅行してます」
「それはすごいですね」
「それ、本心から言ってますか?」
 苦笑いする藍川。確かに、芝川の口調は第三者からは感情が欠落しているように見えるだろう。そのことを自覚している芝川だが、長年の生活で身についた習慣というのはなかなか変えられないものだ。
「ずっと一人で自転車の手入れをしていたのですか?」
「いや、それはすぐに終わって……しばらくやることもないから、その辺をふらふらしていました。昼ご飯まで時間があったから、芝刈りしてる用務員の人と話したりとか」
「上利さん?」
 多分そうです、と藍川。
「参考までに聞きますが上利さんとはどんな話を?」
「ただの世間話ですよ。ここで働いて長いんですかー、とか。温泉行くならどこがいいですかー、とか」
「上利さんは何と答えましたか?」
「さあ、何だったっけ。ただの世間話なんで、そこまで詳しく覚えていませんよ。大体これ、堂東さんのと何か関係があるんですか?」
「あまり肩肘張らないでください。ただの世間話ですよ」
 藍川の言葉を捉えて芝川がニマと笑う。
「上利さんはずっと庭にいたのですか?」
「そうですよー」
「一度もその場を離れなかった?」
「あの人が呼びに来るまでずっと話してましたから」
「あの人とは成絵夫人のことですね?」
「です」
「ちなみにこちらには何泊のご予定ですか?」
「三泊です。今日が二日目。まあ別にきっちりした予定とかはないんで、気が向いたらもう何泊かするかもしれませんけど」
 自転車の件と併せて成絵からすでに聞いている情報だったが、さも今初めて聞きましたという風を装う。その方が落とし穴に気付きやすいという、芝川の経験則である。
「どうして葵荘に? その、オーナーのお知り合いとか?」
「なんで? 泊まっちゃ駄目なんですか?」
「深い意味はありません。そもそも何を目的とした旅行なのですか?」
「ただの気まぐれですよ。俺も、あんまり深い意味とか目的とかはないです。自転車を使ってるのは、単にお金を使いたくないのと、体を動かすのが好きだからで」
「そういえば温泉には行きましたか?」
「いや、まだ行ってないです」
「ぜひ一度行くことをおすすめしますよ。温泉街に来ていながら温泉に入らずに帰るなど温泉への冒涜ですよ。僕はまだ行っていないのですが」
「めっちゃ矛盾してますよ」
 少し気に入ったらしく、喉の奥からくくくと笑い声を鳴らした藍川。それを芝川の視線が冷たく射抜いていた。
「それで。どうなんですか?」
「えーと、何の話でしたっけ」
「宿泊先に葵荘を選んだ理由です」
「ですから、特にありません。なんとなく、です」
「例えばオーナーの知り合いとか」
「違います。会ったこともありませんよ」
「……そうですか。変だな」
「何がです?」
「藍川さんはご家族は?」
 質問を無視された藍川は少しむっとして、
「父と母の三人です」
「一人っ子ですか」
「兄がいましたが、二年前に死にました」
「……それはお気の毒です。事故ですか? それとも何かのご病気?」
「あの、俺の兄のことをどうしてあんたに話さなきゃならないんですか?」
「答えたくなければけっこうです」
「答えたくない」
「この山荘はいかがですか?」
 突然質問の矛先を変える。藍川程度の頭脳では芝川から会話の主導権を奪うことはできない。
「悪くないと思いますよ。少し割高だし、ムカツク関係者もいますけど」
「そうですか。それは何よりです」
 藍川の皮肉を無視して芝川が笑みを浮べる。作り物の表情。
「ぜひまたいらしてください。チェックインなさるときに僕を呼んでいただければ特別に割引させていただきます」
「……それはどうも。今度の休みには、必ず来ようと思います」
「今後ともどうぞごひいきにお願いします。夜分遅く失礼しました」
「いや、俺はどうせ夜型なんで」
 頭を下げた芝川に、片手を挙げて藍川は別れた。
 一階の廊下の奥に消えていく藍川の背中を見つめる。葵荘では落ち着いた雰囲気を演出する目的で過剰な照明を避けるようにしている。廊下を照らしているのもクリーム色の頼りない光だけだ。藍川の背中が廊下の闇に微妙に溶けてゆく。
 どうもおかしいな、と首を傾げる。
 何かがある。何かがあるのは確実なのだ。しかしその何かがはたして今回の事件と関わりがあるのか、超能力者ではない芝川には未だ判断がつかない。まだ情報が不足していた。
 ――いや、不足しているのではなく、過剰なのだ。
 芝川は思い直した。何か先入観がある。その先入観がこの事件の殻を作り、それゆえに、殻の中にいくらピースを詰め込んでも本来の形にはならない。ピースを嵌める場所は殻の外にもあるのだ。
 どうも思考が散乱しているな。ありていに言えば、眠かった。いつもの芝川ならこの時間にはすでに床に入っている。そのため今の芝川の思考はいわゆるナチュラル・ハイの状態にあり、思考が超加速度的に回転した結果としてオーバーワークしているのだ。意味不明だ、と自分でも思っている。きっと意味のないただの言葉遊びだろう。
 もう一度二階に上がる。
 廊下の突き当たり、光司の部屋の前まで行く。鍵が掛かっていなかったので勝手に中に入った。
 壁を手で探り照明のスイッチを入れる。当たり前だが死体はすでに片付けられていて、あらかたの証拠品はすでに押さえられている。それでももう一度、自分の目で現場を確認しておきたかった。
 本棚に目を走らせると、日本語の背表紙の本もあるが、芝川が読めない文字で書かれた本がかなりあった。適当に手にとってぱらぱらとめくってみる。挿絵もなければ飾り気もない。それを何度か繰り返した。
 じっと耳を澄ます。
 とても静かな夜だった。



 静かな夜に似つかわしくない、どたどたとした足音を立てて成絵が部屋に入ってきたのは、それからすぐのことであった。
「芝川さん! どこにいたんですか!」
「僕に何か?」
 成絵は早足で歩いた代償で呼吸が大きく乱れ、壁に手をついて体を支えていた。
「あの、夕方にはいたんですけど、それから姿が見えなくなって、わ、わたしは、どこかでまた遊んでるんじゃないかって、でもこ、こんな夜遅くになっても」
「落ち着いてください。何があったんですか?」
「クロエとエレナがどこにもいないんです!」
 それから、成絵と芝川と上利で葵荘の捜索がひっそりと行われた。葵荘には普通の宿泊客である藍川優もいるために、あまり大げさに騒ぎ立てるのがはばかられたのだ。
 しかしその晩に双子の姿を見つけることはできなかった。
 見つかったのは翌朝のことである。
 葵荘の裏庭の木の根元。
 ――首を絞められた、双子の死体。
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