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 この世に法則などなく、ただ思い込みがあるだけである。


第一章

 久しぶりの温泉だった。
 崎警視は浴衣姿であぐらをかきながら、やたらと映りの悪いテレビの画面をぼんやりと眺めていた。開けっ放しの窓から部屋に入るそよ風が、火照った崎警視の肌を冷やして心地良い。昼食までまだもう少し時間がある。それまでこのままテレビを観ているか、それとももう一度温泉に入るか、悩みどころだった。
 有給休暇を取って温泉宿に泊まったのが昨日の夜。それからの十五時間で四度も風呂に入った。特に温泉が好きなわけではないのだが、今朝は汗をかいてしまったのだ。もちろん、自分でも言い訳がましいということは自覚している。
 そのとき、聞き飽きた着信音が崎警視の耳に入ってきた。
 必殺仕事人のテーマである。仕事関係の番号から携帯電話に着信があった場合はこのテーマが流れるようになっているのだ。ついこのあいだ崎警視の下に配属されたばかりの辻真という刑事からの着信である。
 嫌な予感がする……。
 かといってまさか出ないわけにもいかず、それでも最後の抵抗とばかりに五秒ほど待ってから電話に出る。諦めてくれ、という無言の祈りは通じなかった。
「崎です」
「あ、どうも。辻真です」
「用件は?」
「殺人事件です。たしか警視は万陵温泉にいらっしゃいますよね? 現場はそこからすぐ近くですよ。徒歩で十分。葵荘というコテージです」
「お前が何を言っているのかさっぱり分からん。ちなみに現在の状況を話すと、ウン十年ぶりにまとまった有給取って温泉めぐりの最中だ。ここの温泉はすごいぞ。なんと、女湯が覗けるのだ。もっとも、覗きたくなるような美人が誰一人泊まっていないのが玉に瑕だが。なにせ宿泊客は全員男だからな」
「それでは、すぐに着替えていらしてください。おそらく特捜が立ちますよ」
「いや待て、だから今は休暇の最中だと――」
「わたしも今そちらに向かっています。あと三十分くらいで到着です」
「人の話を聞け」
「では失礼します」
 電話は一方的に切れた。
 しばらく手の中の携帯電話を見つめた後、我に返って浴衣を脱いでスーツに着替え始める。いや待てそれでいいのか崎警視、という言葉がどこからか聞こえた気がしたが、きっとこれでいいのだ。と自分を納得させようとする。けれどなぜだか涙がこぼれた。どうして泣いているのだろう。
「次の入浴は当分おあずけか……」
 自嘲げにこぼした。



 万陵温泉から歩くこと三十分、温泉街を少し外れた坂道の途中に葵荘は建っていた。アメリカの田舎道に建っていそうな、非常にレトロな宿である。
 駐車場にはパトカーが何台も駐車してあり、付近には何があったのかを探ろうと躍起になっている野次馬たちの人だかり。まだマスコミは来ていないようだが時間の問題だろう。いつもは静かな葵荘が、今日ばかりは多くの人間の注目の的になっていた。
 葵荘の前で辻真が待っていた。整髪料を塗りすぎた髪がてかてかと光っている。
「遅いですよ」
「あのなあ、お前はもう少し上司を敬うということを覚えろ」
「こちらです」
「聞けよ」
 葵荘へは迷うことなく最短距離で到着することができた。しかしそれにしても三十分というのは時間がかかりすぎな気がする。自分の歩く早さが異常に遅いか辻真刑事の言うことが異常に適当すぎるか、のどちらかが原因だろう。
 現場を封鎖している黄色いテープをくぐって中に入る。正面玄関の左手には広い庭があり、よく手入れされた綺麗な芝生が青々と茂っていた。
「芝生、か……」
「芝生がどうかしたんですか?」
「いや、芝生はどうでもいいんだが」
 辻真はしばらく次の言葉を待っていたようだが、崎警視は構わずに彼を置いて歩き始めた。ささやかな復讐である。
 二人は玄関のドアを開けて中に入った。中はエアコンが効いていて、外の暑さに辟易していた崎警視はほっと息をついた。
 玄関ホールには受付のための小さなカウンターと、時間を潰すための新聞、そして低いテーブルと灰色のソファが置いてある。床は青いカーペットが敷き詰められている。カウンターの隣には年代物の大きな置時計。
 灰色のソファに誰かが座っていた。こちらに背を向けているので顔は見えないが、少し嫌な予感がした。
「現場は二階です。殺害されたのは葵荘の管理人の堂東光司で、発見者は妻の成絵です」
 崎警視は辻真の話を上の空で聞いていた。
 おいおい、頼むからアイツが来るのだけは勘弁してくれよ……。
 しかし再び祈りは届かなかった。
 ソファに座っている男がこちらを振り向く。そこにいたのはやはり芝川だった。前回とは違い、黒ではなくで真っ白な白衣のような服だが。
「こんにちは崎警視。やはりあなたが来ましたか。また一緒に事件の捜査ができて光栄ですよ」
「やはりきみか」
「どうやら今度の事件も一筋縄ではいきそうにありませんね」
「帰れ」
 芝川が言い終わらないうちに叫んだ。
「……一応今回は僕も関係者のひとりなんですが」
「構わん。特別に認める。超法規的措置だ。今すぐ帰れ。出て行け」
「散々な言われようですね……」
 崎警視と芝川のやりとりを不思議そうに見ていた辻真がたまりかねて質問する。
「あの、お二人は知り合いなんですか?」
「違う」
「そうですね」
 否定と肯定の二つの返事を受けて辻真はさらに混乱したようだ。今のところ辻真にまったく恨みのない芝川が、説明を放棄した崎警視に代わって自己紹介する。
「僕の名前は芝川です。先月起きた胡蝶館殺人事件を解決したのがこの僕です。そのせつは崎警視に大変お世話に」
「こいつは探偵だ」
「いえ、今はコックです」
「コックぅ?」
 そう言われてみれば、確かにこの白い服は料理人の服だ。
「しかし……。きみ、高見興信所に就職したんじゃないのか? 胡蝶館の事件はきみが解決したわけだし、所長の出した条件はちゃんと満たしたんだろう?」
「ええ確かにあの後は興信所に勤めましたが……残念なことに二週間で解雇されてしまいました」
「一体何をしたんだ?」
「まあそこにはあまり触れないでください」
「で、探偵を諦めて料理人、か?」
「葵荘で用務員をしている上利あがりさんと知り合いでして。彼の紹介でコックとしてここで働かせてもらうことになったのです」
「お前、ちゃんと調理師免許は持ってるんだろうな?」
「……」
 芝川が目を逸らした。
「いやまあ冗談ですけどね。実は探偵になる前は調理師の学校に通っていたんです」
「もし免許を持っていなかったら今すぐに逮捕してここから連れ出すんだがな。まあいい、後で事情聴取に来るから妙な真似はするなよ」
「当然ですね。残念ながら今回は探偵ではなくて容疑者のひとりですから」
 危機感の欠片もない声で芝川がうそぶく。
 相手をするのも面倒なので、芝川を置いてさっさと現場のある二階へ上がる。ソファに座ったままの芝川がふざけて刑事二人に手を振っていた。
「何なんですか、あの男は」
「……一応あれでも警察に協力しているつもりらしいが」
 二階に上がると、そこにはさらにたくさんの警察官がいた。二階はそれほど広くはないのでかなり窮屈だ。
「どこが現場だ?」
「一番奥の部屋です。被害者の自室です」
 廊下の途中にソファとパーティションのある少し広めの空間があった。本来なら部屋があるはずの空間だ。休憩室だと思ったが、灰皿があるのを見るときっと喫煙所としても使われているのだろう。
 そのソファに座って号泣している三十代くらいの女性。警官がなんとかなだめようとしているが全く聞く耳を持っていないようだ。乱れた黒く長い髪とやつれた白い肌はまるで幽霊のようで、彼女の嗚咽にはかなりの迫力があった。
「被害者の妻です。第一発見者の」
 通り過ぎてから、辻真が小声で崎警視に伝える。
 二階の廊下の突き当たりの部屋が、死体の発見現場である。その左右に廊下を挟むようにして部屋が並んでいた。
 部屋の中にはまだ死体が倒れており、その様子を鑑識の人間がカメラに収めている。カメラのフラッシュの眩しさに思わず目を逸らした。
 死体は部屋の中央で、うつ伏せになって倒れている。肥満気味の男で、おそらく生前はコレステロールに悩まされていたことだろう。薄い緑色のシャツと黒い長ズボン、腕には高そうな金色の時計がはめられていた。
 部屋の奥、窓の前には大きな机があり、本や紙の束が散乱していてお世辞にも整頓されているとは言い難い。右側の一面はすべて本棚で、一瞥したところ日本語で書かれていない書物が大部分を占めていた。窓にはブラインドが降りており、室内灯だけでは少し明るさが足りない。
 さらに部屋の奥にはもう一枚ドアがあり、中の部屋にはダブルサイズのベッドが置いてある。奥の部屋が寝室になっているようだ。
 寝室からも廊下に出られるようで、そこにももう一枚ドアがある。ドアには部屋側から鍵を掛けるためのツマミがついており、廊下側から開錠する場合のみ鍵が必要なようだ。寝室にも窓がついていて、こちらにもブラインドが下ろされている。
 部屋の天井には廊下から配管が伸びていた。目でその先を追ってみると、部屋の中央を通って壁際へ行き、そこから直角に折れ曲がって床の中に入っていた。配管自体はこの部屋を目的としているわけではなく、ただの通り道なのだろう。
「死因は後頭部への打撃。倒れてからも二度三度打ち下ろしていますね」
「死体に特徴は?」
「いえ、これから解剖に回しますから、その後で」
「それなら結構」
 崎警視の目の前で、担架に乗せられた堂東光司の死体が部屋の外へ運ばれて行った。
「殺害されたのは葵荘の管理人、堂東光司です。被害者は朝からこの部屋で読書をしており、死体となって発見されたのが今日の昼十二時ごろ。発見者は被害者の妻の堂東成絵です」
「さっきの女性か」
「ええ。成絵は今日の午前十一時にここで生きた被害者と会っています。つまり、被害者が殺害されたのは今日の午前十一時ごろから正午までの間です」
「凶器は? 現場にあったのか?」
「それですよ」
 辻真が崎警視の足元を指差したので慌てて飛び退いた。そこには先が赤黒い液体で濡れたブロンズの像が落ちていた。すぐそばには鑑識が置いた数字のプレート。
「この像は元々この部屋にあったもののようです」
「何の銅像だ?」
「えーと」
 辻真がかがんで銅像の台座の部分を見る。
「ボウリング大会だそうです。優勝」
「怪しい人物を目撃したとか、そういう話は?」
「いえ、今のところは」
「被害者の家族は?」
「妻と弟がいます。弟は二日前から東京に旅行中だそうです。戻るのは早くても明日の朝ですね」
「怨恨かな」
「今宿泊客も含めてアリバイを調べてます」
 崎警視は頷いた。
「それから、今葵荘に被害者の友人の娘が泊まっているそうなんですが、その子は午前中はずっと二階にいたそうなので、もしかしたら何かを目撃しているかも――」
「じゃあさっさと訊けばいいじゃないか」
「いえ、それがそうもいかないくて。その被害者の友人というのがギリシャ人で、娘さんはギリシャ語しか話せません。今通訳を手配しているところです」
「その子たちの親に頼めばよかったんじゃないのか? 日本に旅行に来るくらいだから、日本語とまではいかなくても英語くらいは話せるだろう」
「いえ、親は被害者の弟の公博と一緒に東京に行ってます。ですから今、ここの人間でギリシャ語を話せるのは被害者だけということに……」
 困惑した顔で辻真が言った。つまり、唯一その娘とコミュニケーションを取れる人間が殺されてしまったのだ。
 「だったら」崎警視が提案する。「俺が通訳をやろう」
「……崎警視が?」
「若い頃は何度もギリシャに旅行に行ったもんだよ。まあ片言のギリシャ語だがね。しかしまあ、怪しい人間を見たかどうか訊ねるくらいならそれで十分だ」



 ギリシャ人の娘は双子だった。
 歳は十かそれ以下。好奇心旺盛といった感じで、慌しく駆け回る警官たちを面白そうに眺めている。白いおそろいのワンピースを着ていて、ぱっと見ただけではどちらがどちらなのか見分けがつかない。それほど二人の容貌はよく似ていた。
 双子への聴取は二階の廊下の途中にある喫煙室を使って行われた。さきほどまでここで泣いていた成絵の姿はない。双子の次は彼女が聴取を受ける番である。
 崎警視は、長椅子に並んで座る二人と、脚のついた灰皿を挟んで向かい合う。
 こんにちは、と声をかける。もちろんギリシャ語だ。怖がらせないよう、笑顔を浮べて。
 双子が向き合って笑う。どうやら自分のつなたない挨拶がお気に召したらしい、と崎警視は思った。
 ――わたしはクロエ。あなたは?
「何と言っているんですか?」
「こっちの子の名前はクロエだ」
 所在なさげに立っている辻真に通訳してやる。
 崎警視も自分の名前を名乗った。警察、ということももちろん伝える。
 もう一方の娘は恥ずかしがってなかなか話さない。クロエに急かされて、小さな声でやっと自己紹介する。
「こっちの、シャイな方がヘレナ。――ん? ああ、すまん。エレナだ」
「今日は朝から何をしていたのかな?」
 ずい、と双子に近づいて辻真が質問する。溜め息をついて、崎警視がそれをギリシャ語に訳した。ところどころ怪しいところがあって、結構な時間がかかってしまう。
「ここでずっと二人で遊んでいた、そうだ」
「ずっと?」
 訳す。
「そう言ってる」
「誰かここを通らなかったかな?」
「ちょっと待て。どうしてきみが質問しているんだ」
「わたしが質問するので、警視は通訳をお願いします」
「もう少し上司を敬え。せめて蔑ろにするのをやめろ」
「誰かここを通らなかったかな?」
 かなり腹が立ったが、どちらが質問しようと質問すること自体は変わらないので、諦めることにする。納得したわけではなかった。
 辻真の質問をギリシャ語に訳す。足りない語彙は身振り手振りで誤魔化した。どうして自分はこんな通訳紛いのことをさせられているのか。
「朝に堂東光司が通ったのを見たらしい。多分自室に行くところだろう」
「時間は?」
「ちょっと待て――えーと、朝食のすぐ後らしい」
「他に誰か通らなかったかい?」
 強い口調で辻真が訪ねる。双子の顔が強張った。さきほどまでの笑みが一瞬で消える。
「どうしたんですか?」
「きみがあんまり脅かすから怖がってるんだ。知らない人にいきなりあんなことをされれば、子供なら誰だって怖がるだろう」
 ――怖がらなくていいよ。この人は悪い人じゃないよ。
 ――でもその人、とてもずる賢そうな顔をしているわ。
 クロエの言葉に笑いを堪えた。確かに辻真はずる賢そうな顔をしている。さらに言えば、この顔は陰湿で厚顔無恥で能天気な顔だ。
「わたしの顔に何かついてます?」
「ついてなきゃのっぺらぼうだ。……いや、何でもない」
 気を取り直して再び質問を続ける。
「お昼前くらいに、堂東成絵が部屋に入るのを見ている」
「成絵の証言とも一致しますね。問題はその後です」
 ――そのあと、誰かがここを通ったのを見たかな?
 クロエとエレナが可愛い仕草で考える。ひそひそと交互に耳うちして相談し合う。
 崎警視はすぐに回答を得た。
「何と言っているんですか?」
「……そのあと、成絵が部屋に入るのをもう一度見たらしい」
「はい?」
「わからんか? 午前十一時にあの部屋を成絵が訪れた後――次にここを通ったのは、成絵だ」
「ど、どういうことですか?」
「つまり、十一時に生きている被害者が目撃された後、死体となって発見されるまで、誰もここを通らなかったということだ。……ここを通らずにあの部屋へ行く手段があるか?」
「なさそう、ですね」
 喫煙所から頭を出して廊下の向こうを覗き込む。死体のあった部屋は突き当たりの袋小路にあり、そこに入るためには必ずこの喫煙所の前を通るはずである。
 「あ、でも」思い出したように辻真が言った。「窓からなら出入りできますよ。現場の窓には鍵が掛かっていなかったはずです。寝室の方は掛かってましたが」
「だったら外部犯か」
「外部犯に見せかけた内部犯、という可能性もあります」
「寝室へ出入りする方のドアはどうだったんだ?」
「そちらのドアには鍵がないそうです。廊下の方へのドアは純粋に鍵が掛かってなかったそうですが」
「どちらにしろ真昼間に二階の窓から侵入、ってのなら誰かに目撃されてる可能性も高い。周辺住人への聞き込みを徹底させてくれ」
「分かりました」
 言うや否や喫煙所を飛び出して行った。ああ見えて落ち着きがないのだ。
 ――あの人、どうしたの?
 ――さあ。彼は変人だからね。
 エレナの質問に、崎警視がふざけて答えた。



 クロエとエレナを解放してからほどなくして、今度は成絵が警官に連れられてやって来た。化粧で誤魔化しているが、目が赤く腫れているのが崎警視の目にも分かった。
「この度はとんだことに……。心中、お察しします」
 お決まりの文句を言って、辻真と一緒に頭を下げた。成絵は白いレースの入ったハンカチで口元を押さえる。
「犯人を、必ず捕まえてください」
「はい、もちろんです」
「そして死刑台に送ってください。必ず」
 一瞬だけ辻真がたじろいだ。未亡人になったばかりの女性とは思えぬほど、その声には迫力があった。警察が何もしなくても、彼女一人で犯人を呪い殺しそうである。
「お辛いとは思いますが、どうか捜査にご協力ください」
「当然です」
 「最後にご主人を見たのはいつですか?」慌てて付け足す。「あの、生きている姿を」
「十一時に――いえ、もしかしたらまだ十時だったかもしれません。そのくらいの時間に、一度あの人の部屋に行きました。そのときに」
「どんな用事で行ったんですか?」
「食堂の裏口のドアのたてつけが悪くて、修理してもらおうと思ったんです。でもあの人、今日は駄目だって」
「どうして?」
「さあ、わたしには……。よく、分からない人でしたから」
「それから奥さんはどうしたんですか?」
 辻真が質問した。彼は椅子に座った崎警視とは違い、その隣で成絵を威圧するように立っている。辻真なりの作戦なのかもしれないが、この婦人にそれが通用するかは疑問だった。
「いえ、あの人が駄目だったから、どうしようかと思ってたのですけど、芝川さんが、それなら僕がやりましょうか、とおっしゃって」
「芝川が?」
 崎警視が眉をひそめた。芝川が事件に関わることはまったく歓迎できない。
「それから、芝川さんと一緒に夕臣町ゆうじんまちの方まで行って、ええと、一時間くらいかしら。戻ってきて、そろそろお昼にしようと思って、あの人を呼びに行ったら……」
「つまり、十時ごろにご主人と会った後、あなたは十二時にご主人の遺体を発見されるまで、ずっと芝川くんと一緒にいたのですね?」
「ええ、そうです。……あの、刑事さんは、芝川さんのことをご存知なんですか?」
「ただの知り合いです。それも仕事上の。プライベートは一切関わりがありません」
「そうですか……」
 腑に落ちない様子だったがそれ以上の追求はなかった。
 ここで、崎警視に代わって辻真が質問する。
「公博さんと、ええと、ご友人のギリシャの方――」
「ペトロス・グランです」
「そのグラン氏は、いつごろ戻られますか?」
「さきほど東京のホテルに電話しましたが、早くても明日の昼になるそうです」
「グラン氏とあなた方のご関係は?」
「昔あの人と公博さんとで小さな貿易関係の会社をやっていたそうなんです。ペトロスはそのときのお得意先だったらしくて。わたしがあの人と結婚したときは、もう葵荘の管理人でしたから、詳しくは分かりませんけど」
「そうですか。ご主人は読書家でしたか?」
「はい?」
「今日のように、部屋にこもって本を読む習慣があったんですか?」
「いえ、昼から部屋にいることはあまりなかったと思います。あれでも活動的な人だったんです」
 崎警視は被害者の太った体を思い出していた。
「今葵荘に宿泊しているのは?」
「橋ノ口さんたち三人と、あと、藍川さんの四人です。橋ノ口さんたちは、朝からお出かけになったようですが」
「分かりました。ありがとうございます。後でまたお話を伺うことになると思いますが……」
「ええ、分かっております。わたしに出来ることがあれば何でも言ってください」
 深々と、しかし上品に頭を垂れて、成絵は引き返して行った。
「んー、奥さんの犯行じゃなさそうだな」
 辻真と二人きりになって、崎警視が伸びをしながら言う。正直言って、あの婦人と話すのは疲れる。
「完璧なアリバイがありますからね。警視は、芝川という人を信頼されているんでしょう?」
「信頼というか、信用というか。どちらにしろ、目撃証言がないうちは断定できないがね。あとで、その買い物に行った店とやらで聞き込みだな」
 そうですね、と辻真が答えたところで、灰色のスーツを着た刑事が手帳を持ってやって来た。
「えっと、辻真さんが言っていた目撃証言なんですが」
「何だ」
「犯行があったと思われる十一時から十二時の間、中庭で用務員の上利という男がずっと芝刈りをしていたそうです。で、その中庭というのが、現場の窓の真正面なんですが」
「誰かが窓から侵入する姿は見ていないと、そういうことか?」
「はい。ブラインドが下りていたので中までは見えなかったそうですが、誰かが窓から出入りすれば確実に分かる、と」
 「まいったな」崎警視が後頭部を撫でた。「どういうことだ」
「見落としがあったんでしょう。中庭にいたと言っても、ずっと見張っていたわけでもないですし」
 冷静な声で辻真。
「とりあえず、周辺住人の聞き込みを急いでください。他に目撃者がいないか」
 「あ、それと」刑事が手帳に目を走らせる。「ここの宿泊客で、藍川という大学生なんですが。その子はずっと、中庭で自転車の手入れをしていて、芝刈りをする上利を見ていたらしいんですが、一度も中庭から離れたりはしなかったそうです」
 刑事の補足を聞いて、辻真が唸った。
 可能性がまたひとつ、潰えた。
「そうか……。とりあえず、当面は内部犯と外部犯の両方の可能性を考えて捜査を進めよう。あと、奥さんに現場の部屋を見てもらって、なくなったものがないかをチェックしてもらって。あとは荒らされた痕跡がないか」
 崎警視の指示に、刑事二人が揃って返事をした。
 そのとき、すべてをぶち破って、何かを打ち付ける大きな音が聞こえてきた。下の方、つまり一階から聞こえてくる音である。
 低い振動が、何度も何度も響いてくる。
「な、何だ? 何の音だ?」
 崎警視の質問に答えられる者は、その場にはいなかった。



 音は食堂から聞こえてくるものだった。
 ロビーから階段を上らずに廊下を真っ直ぐ進めば、両開きのドアの向こうに古い食堂がある。エアコンはかかっていないようで、食堂のドアを開けた途端にむわっとした熱気が流れ込んだ。
 音は、厨房の奥から響いている。辻真と二人で奥を覗き込む。
「おい、何をしているんだ」
「あ。これは警視」
 案の定、騒音を立てていたのは芝川だった。厨房の裏にある、ところどころ錆びの浮かんだスチールのドアにハンマーを振るっていた。
 そしてもう一人、芝川の隣には作業服を着た初老の男がいる。髪にはいくつか白髪が見え、歯は煙草のヤニで黄色くなっていた。
 誰だろう、と思っていると、すかさず芝川が紹介した。
「こちら上利さん。葵荘の……えーと。いろんなことをやっています。警備員も兼ねていらっしゃるんですよ」
「い……いえ、あの……ただの用務員です」
 上利は日に焼けた顔を赤くして、恥ずかしそうに謙遜した。
「ここを僕に紹介してくださったのも上利さんなんですよ」
「そんなことはどうでもいい。一体きみは何をやっていたんだ」
「何って。ドアを直していたんです。奥さんに相談されていましたからね。どうも錆び付いているらしくて」
 そう言って、芝川はドアを左右に大きく揺さぶった。ガリガリとドアが擦れる音がするばかりである。
「あ……あの、一応私は、あの、止めたんですが」
 申しわけなさそうに上利。立ち位置がまるで芝川の保護者のようだ。
「何でもいいが、後にしてくれ」
「駄目ですか」
「駄目だね。まだいろいろここで調べなきゃならんことがたくさんあるんだ。あんまり妙な真似はしないでくれ」
「しょうがないですね」
 何だその態度は、と文句も言いたくなったが、我慢。
 芝川は上利としばらく話した後、明日直すということで決着がついたのか、上利は崎警視たちに一礼した後、厨房を出て行った。礼儀正しい男である。
 「さて崎警視」上利の姿が見えなくなったのを確認してから、芝川が言った。「捜査の方はどうですか? 犯人は特定できましたか?」
「現在捜査中だ」
「なるほど……」
 顎に手を当て、芝川は唸った。
「密室殺人ですか」
 隣にいた辻真がぽかんと口を空けた。
 崎警視はそれを横目で見ながら、平静を装いつつ訊き返す。
「なぜそう思うんだ?」
「犯行が起きたのは午前十一時から正午の間。奥さんの証言の信用性が疑われない限りこれは絶対です。その時間にはエレナちゃんとクロエちゃんがずっと二階の廊下で遊んでいました。しかも現場の部屋とそこに通じる寝室の窓は庭に面しています。庭では上利さんがずっと芝刈り機と格闘していましたからね。万が一犯人が窓から侵入すればきっと見つかっていたでしょう」
 パン、と手を叩いた。
「以上のことから現場に入るには廊下を通るしかないということ。そして廊下を通ったのならばエレナちゃんとクロエちゃんがそれを目撃する。この二点が分かります。しかし崎警視は僕の問いに対して現在捜査中と返事をした。つまり犯人が特定されていない。ということは双子は犯人の姿を目撃していない。あの廊下を通らずしかも窓も使わずに犯人は堂東光司さんの部屋に侵入し殺人を犯したのです」
 にやり、と子供のような笑みを浮べた。
「これはかなり奇妙な事件ですね。しかもアリバイのこともある」
「アリバイ?」
 芝川の切り札に、崎警視は思わず反応してしまう。そのことが少し不愉快だった。もちろん、芝川の能力は信頼しているつもりなのだが。
「この葵荘に関係している登場人物の全員にアリバイが成立しているのですよ。僕と成絵さんは昼までずっと行動を共にしていましたし。上利さんの潔白は宿泊客の藍川くんが証明してくれるでしょうし。双子は言わずもがな。双子の父と光司さんの弟の公博さんはずっと東京です」
「じゃあ外部の犯行ということだ。何も不思議なことはない」
「警察はこの事件を強盗の犯行だと考えているんですか?」
「だとしたら何か不満か?」
 「不満ですね」断言した。「不満の理由を説明しましょう。あちらへどうぞ」
 芝川に案内され、崎警視と辻真は食堂のテーブルについた。
 芝川が厨房から湯のみを持って来る。それを二人の前に並べ、それぞれの中に急須から緑茶を注いだ。飲め、ということなのだろう、恐らく。
「それで、何が不満なんですか?」
 辻真が質問した。
 芝川は辻真を無視して、気が遠くなるほどゆっくりとした動作で自分の湯のみを傾け、中の緑茶を飲み干した。
 それを見て辻真がやきもきしているのが可笑しかった。いい気味だ。
「以前堂東さんが生きているときにあの部屋に入ったことがあります。僕の記憶が確かならば殺害に使われた銅像は本棚に置いてあったはずです」
 崎警視の頭の中に、べっとりと血が付く前の銅像の映像が浮かんだ。その銅像は埃を被って本棚の一角に置かれている。
「そして堂東さんは後頭部を殴られていました。もし犯人が堂東さんの知らない人物ならばかなり無理のある状況と言えるでしょう。なぜなら堂東さんは殺害されるそのときまで椅子に座って本を読んでいたはずなのですから。犯人は部屋に闖入し堂東さんの目の前であの銅像を手にし堂東さんの後頭部を殴った――」
「犯人は顔見知りだと言いたいのか?」
「少なくとも堂東さんは読書を中断して犯人を部屋に向かい入れています。堂東さんが犯人に背中を見せたところで本棚の銅像に手を伸ばし後頭部を殴打――。最低でも背後を簡単に晒せるほど堂東さんの信頼を勝ち取っている人物が犯人の候補に挙げられるでしょう」
「よく現場を見ているな」
「成絵さんが光司さんの死体を発見して悲鳴を上げたあと真っ先に現場に駆けつけたのが僕ですから」
 「にしても、すぐに現場は警察に封鎖されたわけですから」辻真が言う。「たいした記憶力ですよ」
「お褒めにあずかり光栄ですが別段僕が記憶力に優れているわけではありませんよ。何を記憶すべきかを正しく判断できているだけです。世の中には見たものを写真のように『完璧に』記憶できる人間がいるそうですから」
 何を言いたいのか最初は分からなかったが、照れている芝川を見て、それがただの謙遜以上の意味を持たないことにやっと気付いた。



 その後、用務員の上利拓巳とシェフの芝川、さらに宿泊客の藍川優に対しても順次事情聴取が行われたが、二人の証言は事件の不可解さを裏付けるのみで、解決の糸口になるようなものは何も見つからなかった。
 夕方六時を回ったところで宿泊客の橋ノ口純一、妻の橋ノ口秋香、そのひとり娘の橋ノ口絢乃の三人家族が葵荘に戻って来た。
 すぐさま簡単な事情聴取をしたが、この一家は今朝の九時ごろから午後六時までの間、街を観光していて完全なアリバイが成立することが確認された。本人たちが家に帰ることを望んだため、崎警視は連絡先を聞くだけでこの場は帰宅を許可した。
 エアコンの冷気を逃さないため、葵荘の窓はすべて閉められている。それにも関わらず、ガラス一枚を通して蝉の鳴き声がうるさいくらいに聞こえていた。
 二階の廊下の窓から、夕日の赤と空の青が混ざり合った奇妙な模様をぼんやりと眺める。
 夏の空を眺めて、子供のころを思い出していた。夏の空には、過去を振り返らせる魔力がある。
「今夜はどうされるんですか?」
 突然背後からそう言われて、思わず声を上げそうになった。
 いつの間にか、崎警視の背後に芝川が立っていた。
「そうだな、今日中には帰るつもりだが」
「長引きそうですね」
「犯人はほとんど痕跡を残していない。よほど慎重なやつなのか、それとも手馴れているのか……」
「密室についてはどうお考えなんです?」
「後回しだ。……というかだな、そんなの犯人を捕まえてからそいつに直接聞けばいいんじゃないか、と思ってるんだが」
 「ずいぶんドライなんですねえ」芝川は苦笑する。「胡蝶館のときとは大違いだ。あのときはどうして犯人があんなことをやったのかずっと頭を悩ませていたのに」
「実を言うと、犯人の動機についてはもう想像がついている。密室の方の動機だが」
「聞かせてください」
「捜査情報は一般人には漏らせんよ」
 にやりと笑って芝川に言った。
 そうですか、と答えて、芝川もにやりと笑った。
「では僕が勝手に話すとしましょう」
「そうしてくれ」
「事件を整理します。殺人が起きたのは午前十一時から正午までの一時間の間。死亡推定時刻とは無関係にこの時間だと絞られます。根拠は二つ。エレナちゃんとクロエちゃんの証言と成絵さんの目撃証言。もちろんエレナちゃんとクロエちゃんから話を聞いたわけではないのでこの辺りは想像ですが。二人から証言は取れたんですよね?」
 芝川の質問には答えず両腕を広げる崎警視。
 そうですか、と芝川は構わず先を続けた。
「殺人が起きた部屋へアクセスする方法は二つ。一つが廊下。もうひとつが窓です。しかし窓から部屋に入るのはまず不可能でしょう。庭には上利さんと藍川くんがいましたし二階の窓へ侵入するのはただでさえ目立ちますからね。そこまでの危険を冒して殺人を犯すよりは、別の日のもっと殺しやすいときに犯行に至ればいいのです」
「そして廊下から部屋に入るのも、不可能だ。あの双子がずっと廊下にいたんだからな」
 「そうですね……」芝川は考える仕草をする。「大分絞られてきました」
「きみ好みの、不可能犯罪というわけだ」
「さてどうでしょうね。不可能犯罪が僕の好みなのは事実ですが――この事件は『不可能』と呼ぶには程遠い。まだまだ十分『可能犯罪』ですよ」
 さらりと言ってのける芝川に、崎警視がぽかんと口を開けた。芝川の言葉の意味を理解するのに数秒かかったのだ。
 そして慌てて芝川に訊き返す。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。もしかしてもう、犯人が分かったのか?」
「いいえ生憎そこまでは。ですがこの事件は特別に難解な事件というわけでもないと思いますよ。目撃者はたくさんいるし容疑者も限られていますから」
「しかし、犯行現場は――」
 「可能性だけならいくらでも挙げられます」人差し指を立てて、教師のように言った。「例えば第一発見者の成絵さんが犯人ならば密室の問題はクリアすることができます。もちろんただの可能性ですが。あるいは上利さんと藍川くんの共犯でも同様に密室は問題になりません」
「堂東成絵が犯人ではないか、という可能性は、すでに我々も検討中だ」
「なるほど。理由はやはり密室ですか」
 崎警視は頷く。
 少し喋りすぎかもしれない、と思ったが。
「さらに別の可能性。双子が嘘をついている場合です。この場合は犯人がなんらかの方法で双子の口を封じたかあるいは双子が犯人を庇っているか……。どちらにしろ犯人は双子に近しい存在です。まあ面倒なので答えを言ってしまうと、双子の父のペトロス・グラン氏です」
「その可能性はないな。今は堂東公博と二人で東京にいる」
「公博さんとグラン氏の共犯かもしれない」
「おいおい、そこまで言い出したらキリがないだろ」
 あまりにも無茶苦茶なので、呆れて笑みがこぼれた。しかし芝川は真剣だったようで、笑みどころか表情を崩すこともしなかった。
「まあぶっちゃけた話、僕が今回の事件に関わる理由はまったくもって皆無ですからね。あんまり嗅ぎ回るのも崎警視にご迷惑でしょうし今回は大人しくしていますよ。あるいは安楽椅子探偵よろしくただ真相を推理するだけの推理機械と化しましょう」
 芝川は失礼しますと言って、気障っぽく片手を挙げて階段を下りて行った。
 その背中に声を掛ける。
「そういえばきみ、この近くに住んでいるのか?」
「今夜は帰りませんよ。やっと面白くなってきたところですからね」
 芝川はふざけて答えた。



 芝川は崎警視と別れて、ひとりで厨房に来ていた。
 事件のせいで普段の葵荘の営業とは大きくずれてしまったが、それでも彼の表向きの仕事である食事の用意を疎かにするわけにはいかない。まだ葵荘にいる崎警視に不審に思われるわけにはいかないからだ。
 今夜のメニューはどうしようかとひとりで迷っていると、こそこそと人目をはばかるようにして堂東成絵が食堂に入ってきた。
「夕食はまだできていませんよ。あと二時間は待ってください」
「そんな話で来たんじゃないわ」
「だと思いました。なんの御用ですか?」
 業務用の大きな冷蔵庫の中を除きながら成絵と受け答えをする。冷蔵庫の中は随分と寂しい。こんなことなら昼間買出しに行けばよかった、と芝川は思う。
「あの刑事、わたしのことは何と言ってましたか?」
「別に何も。捜査はまだ始まったばかりですから」
「わたしのアリバイについては? 何か不審に思われたりは?」
「さて今のところは。しかし安心はできません。崩すことが出来ない鉄壁のアリバイというわけでもありませんし」
 矢継ぎ早に質問する成絵に、のんびりとした調子で答える芝川。
 芝川はすでに夕食の調理を始めていた。成絵とのやりとりの最中も彼の手はよどみなく動いている。
「念のために訊いておきますが成絵さんは犯人ではありませんよね? いくら僕が金で動く人間だからと言って殺人の片棒を担ぐのはまっぴらご免ですので」
「ええ……それはもう。確実に、わたしではありません。わたしが部屋に入ったときは、あの人はもう死んでいました」
「それで慌てて僕のところにいらっしゃったわけですよね。たまたま宿泊していた僕が探偵であることを思い出して」
「ええ、その通りです」
 成絵が深刻そうに答えた。実際、深刻な話だ。
「それからは芝川さんの指示通り、芝川さんをコックとして雇ったということで上利さんに口裏を合わせてもらって――、それから、わたしのアリバイを」
「僕が腑に落ちないのはそこです。結果的に僕はあなたに雇われ、あなたが偽のアリバイを作るのに協力しておまけに今夜の夕食を作ることになってしまったわけですが。あなたが犯人でないのならどうしてこんなことをする必要があるのか僕には理解できません。万が一僕が協力を拒めばどうするつもりだったのですか?」
「さあ……わたしは、そこまでは考えていませんでした。あのときは藁にもすがる思いで」
「僕は藁ですか」
 芝川は僅かに口の端を吊り上げた。笑顔のつもりだったが、目が笑っていない。出来損ないの笑顔である。
「どうしてアリバイ工作をしようと思われたのですか?」
「主人が殺されて、真っ先に疑われるのはわたしだからです」
「どうしてですか。その、差し支えなければ」
「……主人との仲は最悪でした。多分、警察が調べればすぐに分かることだと思いますけど。ろくに働きもせず、道楽の骨董や美術品ばかりを買い漁って――。この事件が起きなければ、きっと、わたしが主人を殺していたと思います」
「それはずいぶんと過激なことをおっしゃる」
 茶化すように芝川が言った。
 顔を少しだけ上げて成絵の方を見た。調理をしながら話を聞く芝川の態度に不満があるのだろう。神経質そうに芝川の顔と手元を交互に見比べていた。
 「僕はあなたに雇われた身なので」魚を捌いていた手を休めてから言う。「説教をするつもりはないのですが。できるなら姑息な工作などやめて警察に全てを話すべきだと思います」
「姑息、ですか」
 成絵が苦笑いをする。
「いずれは必ず発覚します。何せ急ごしらえのアリバイですから。調べられれば調べられるほどボロが出るでしょう。それに何よりこのアリバイは――」
「そうならないように、あなたを雇ったんです」
 芝川の話を遮って、一段と強い口調で成絵が言った。夫を亡くしたばかりの女性とは思えない、迫力のこもった声だった。いや、夫を亡くしたからこそなのかもしれない、と芝川は思った。
 乱れた髪と上目遣いに芝川を睨みつける表情は、まるで彼女に悪霊が乗り移って今まさに誰かを呪い殺さんとしているかのようだった。そう考えると、成絵の可愛らしい白のワンピースも、まるで幽霊の装束のように思えてくる。
「……全力を尽くします」
 必ず大丈夫、などと気休めを言うことはしなかった。むしろ芝川の方が気休めを言ってもらいたいくらいだった。これから数日間、捜査主任であるあの崎警視を騙し続けなければならないのだ。それを考えるととても楽観的にはなれない。
「具体的にはどうするつもりなんですか?」
「真犯人を捜します。真犯人さえ見つかればアリバイが偽物であることが発覚したとしても問題にはなりませんから。防御が難しいなら攻撃するまでです」
 芝川にはそれくらいしか現実的な方法が思いつかなかった。
 しかし成絵はそれで納得してくれたようで、何度か頷いてからよろしくお願いしますと一礼して厨房を出て行った。
 一人取り残された厨房で、芝川は額の汗を拭った。
 さあて困った、とひとりつぶやく。
 真犯人探しも大変だが、さて、これから数日間、ずっと自分が食事を作らなくてはならないのだろうか。
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