戻る目次へ進む
0

 どうやら蜘蛛以外にも、この学校には何かがいるらしい。それが旅説の至った結論だった。
 その結論が正しいことはすぐに証明された。蜘蛛が、敵の攻撃を受けたのだ。旅説が何も聞かずとも蜘蛛は報告する。この土地を統括している者がすでに十六文書のことを嗅ぎつけているらしい。場所を特定されるのも時間の問題だと。
 旅説はその話に特に興味を示すことはなかった。猟犬のように自分を探している魔術師にも自分の生命にも興味はない。そんなものはないのだ。世界は均一で、魔術師も、自分も、その一部に過ぎなくて、生命は特別な存在ではなくて、ただ存在しているように見えているだけ。
 こんなものは世界の『揺らぎ』に過ぎない。生命なんて存在しないのだ。魔術師の命も、蜘蛛の存在も、学校の校舎も、道端に落ちている石も、この存在も、何一つ違わない。すべて同値だ。同じもの。旅説には世界のすべてが同じ粒子の塊に見えている。
 だから旅説は逃げない。逃げても逃げなくても、結果はどちらも同じだからだ。
 ただひたすら存在するだけ。
 存在することが、自分の理由。


さよならベルティエール

第四話


1

 来なくていいのに土曜日というやつはやって来る。結局洋祐は何一つ決断できずにいた。今まですべてを保留してきたツケが回ってきた――洋祐はそう解釈した。
 今朝は奈々に起こされるのが嫌でやたら早く起きた。奈々が洋祐を起こしに来る頃には朝食も着替えも済ませて出かける用意が出来ていた。
「……早いじゃない」
「まあ、な。今日くらいはちゃんとやるさ」
 まだ結論は出ていなかった。
 クレープ屋が店を構えている大通りの方まで歩いて行く。と言ってもクレープ屋はまだ閉まっている。
「で、昼までどうやって時間を潰そうか?」
「んー。洋祐はどっか行きたいところある?」
「アラスカ」
「日帰りで帰れるところね」
「そうだなあ。適当にウィンドウショッピングでもするか」
「ウィンドウ……?」
「ああ、もうこれ死語なのか。えーと、買い物する振りして冷やかそうぜ、と」
 休日ということもあって通りには人が多かった。昼になればさらに増えるだろう。
「どっか行きたいところあるか?」
「洋祐は?」
「家」
「突っ込んで欲しいの?」
「そうだなー。時間潰せそうなところって言ったら、本屋か服屋かゲーセンだな」
「ゲームセンター? よく行くの?」
「蜂須が好きでね」
「知らなかった。洋祐はゲームセンターとか嫌いだと思ってた」
「別に嫌いじゃないって。奈々こそ、ゲームとかくだらないって言ってやらないと思ってたから」
「……そう。結構長い付き合いだけど、お互いのことあんまり知らないものなのね」
「というか、俺たちの会話は半分以上が嘘だったからな」
「あんたがいつも嘘ばっかり言ってるからでしょうが。残りの半分は全部わたしが言ったことよ」
「嘘は楽しいぞ」
「はいはい」
 それからしばらく、洋祐たちは色んな店を覗いて時間を潰した。
 隣で歩く奈々を横目で見た。
 よく考えれば、奈々とこうして二人で歩くのは初めてかもしれない。
 学校で会って、くだらない冗談を言って、色々迷惑をかけて。そんな関係が洋祐にとっては一番心地良かった。――楽だった。
 しかし、奈々にとっては?
 奈々はどうして自分と一緒にいるのだろう。
 ただの腐れ縁?
 奈々は自分から何を得た?
 洋祐は奈々からたくさんのものをもらった。洋祐には友達が少ない。奈々と蜂須の隣こそ、自分を抑えずに自由に振舞える場所だった。隣に二人がいたからこそ、安心して暴走できたのだ。
「……すまんなあ、奈々」
 気がつけば、謝っていた。
「イキナリ何なの?」
「……えーと。とにかくスマン」
「ふうん。まあいいわ。よくわかんないけど許してあげる」
「よくわからんのに許すのか」
「あんただから許してあげる」
 十年間。
 ずっと奈々に許されてきたのだろうか。



 もう夕方だった。今日という日はやって来るのも早かったが終わるのも早い。
 クレープは思っていたほど感動的な味ではなかった。もっとも、味が予想の範囲内であるときに感動的でなくなるのだから、思っていた以上に美味しくなかった、という表現の方が正しい。
 そんなことはどうでもいい、と洋祐は思った。
「はー。美味しかったわね」
 奈々は恍惚とした声と表情で言った。昼にクレープを食べてから夕方までしばらく二人で街をぶらぶらしていたが、奈々はその間中ずっとクレープの余韻に浸っていた。
「あのクリーム……生地の香ばしさ。世の中にあんな美味しいものがあるなんて思わなかったわ」
「そうか。よかったな」
 俺は普通だと思ったがな、とは絶対に言わない洋祐だった。
「さて……。そろそろ日の入りだな」
「そうね」
「夕方だ。良い子はそろそろ家に帰る時間だ」
「そうね」
「……奈々さんは良い子じゃないのか?」
「そうねえ……。別に良い子ってわけじゃないと思う」
 奈々が言った。
 門限を戒律のように守っている彼女らしくないと思った。
「もうちょっと一緒にいようよ。そんなに帰りたいの?」
「いや、別に」
「ふーん……。あんたってわたしと一緒にいるのが嫌なんだとずっと思ってた」
「それは誤解だって」
「ねえ……。ちょっとそこで休もうよ」
 奈々が指差したのは、通りから少し外れたところにある公園のベンチ。特徴がなく、遊具もろくにない公園だから、そこを利用している人など一人もいなかった。
「二人だけで遊ぶのって、久しぶりね」
「ん。そうだな」
「前は結構遊んだりしてたけどね」
「そうだったか?」
「そうよ」
「……覚えてない」
「わたしは覚えてるもんね」
 何故か自慢するように奈々は言った。
「洋祐が忘れてるようなことも、ちゃんと覚えてるよ」
「そう……か」
「ねえ洋祐」
 奈々の瞳が、真っ直ぐ洋祐を見る。
「答えを聞かせてよ。待つのはもう嫌」
 洋祐は息を呑んだ。
 自分の心臓の音が聞こえる。うるさいくらいに。洋祐は必死に平静を取り戻そうとした。そうしないと、奈々の言葉を聞き逃してしまいそうで。
「わたし、あんたが好き。あんたの馬鹿なところとか、変人なところとか、変態なところとか、大好き」
「……それ、褒めてるのか?」
「けなしてるかも」
「オイ」
「でも――」
 恥ずかしげもなく、言う。
「それでも、好き」
「……そいつはどうも」
「それだけ?」
「えーと、嬉しいよ」
「それだけ?」
「……そうだな。よく分からん」
「わたしのこと、好き?」
「別に。嫌いじゃないけど。……正直な話、好きってのがよく分からん。好きって何なんだ? 恋人って何だ?」
「中学生みたいなこと言うのね」
「ごめん」
「そんなに難しく考えないで、気軽にやればいいのに」
「じゃあ聞くけど、恋人と友達は何が違うんだ? 二人で映画観て買い物して食事して、それは友達じゃできないことなのか?」
「恋人じゃないとできないこともあると思うけど」
「例えば?」
「えーと……キス、とか」
 今度は恥ずかしそうに、言葉を濁らせながら言った。さっきの思い切りの良さはどこに行ったんだ。
「したいの?」
「あんたがしたいって言うなら」
「言わん」
「……やっぱ、あんたは吹喜ちゃんみたいな人が好きなのね」
「なぜそうなる」
「なんかずっと気にしてたじゃない」
「別に気にしてたわけじゃなくて、何ていうか……色々興味があった、というか」
「同じことじゃない」
「……だな」
 しばらく沈黙。
 奈々が溜め息をついた。
「……もういい。ごめんね、つまんないこと言って」
「別に、吹喜が好きとか、そういうわけじゃなくて……。俺は別に誰が好きとかそういうのはないけど、もしあったとしたら、それは多分吹喜じゃなくて、奈々みたいな気を張らなくてもいいような身近な人なんじゃないかと、そういう風に思うんだが……」
「ありがと。でも残念でした。わたし、あんたみたいなのはやっぱり勘弁だわ。馬鹿だし変人だし変態だし。ちなみにこれ、けなしてるから」
「……そうか」
「そ。……わたし、もう帰るね」
「送ろうか?」
「馬鹿。余計なお世話よ」
 奈々はベンチから立ち上がる。
 言われたとおり、洋祐は奈々を座ったまま見送る。
「……失敗だったかなぁ」
 奈々がいなくなったのを確認してから、洋祐は呟いた。
 逃がした魚は大きいかな。
 吹喜に会いたいと、洋祐は思った。



2

 魔術師メルベルは突然前触れもなく永春神社を訪れ、そしてさらに吹喜たちに突拍子も無い宣言をしてみせた。
「今夜、日本を発とうと思います」
 それを聞いた三人は咄嗟に反応できなかった。悠膳も、協会の人間が自分の土地から出て行くことを歓迎する以前に、展開の急なことに唖然としているようだった。
「なぜ?」
 まだ平常心を保っていた吹喜がメルベルに訊く。
「えーと、それには色々事情がありまして……。どこから話しましょうか」
「全部話せ」
 悠膳が言った。電流が走ったかのようにメルベルが返事をする。どうやら完全に悠膳へ苦手意識を持っているらしい。
「あのですね、昨日は吹喜さんと遥さんに永春市を案内してもらって――」
「知ってる。私が案内した」
「はい。……えーと、昨日の夜に早速校舎に行って、あの大きな蜘蛛のことを調べようとしたんですけど……。そしたらちょうど鉢合わせしちゃって。まあ、それで、色々あって、十六文書とは無関係だってことが分かりました」
「何だって?」
「あの蜘蛛は十六文書とは無関係ですよ。大体、低級怪異を呼び寄せていたのだってあの蜘蛛だそうですよ。本人が話してくれました」
「は、話したって、あの化け物と呑気にお話してたのかお前は」
「え……そうですけど。いや、あの、多分向こうにしても、このまま下手に協会の魔術師を相手にするよりも、ここであたしに事情を話した方が安全だってことなんでしょうけど。とにかくそうなると、あの学校に十六文書があるのかどうかだって怪しい話ですよ」
「あの化け物はなんで怪異を呼び寄せてたんだ?」
「寂しかったそうですよ。元々のねぐらが使えなくなって、仕方なく学校の体育館に移って来たそうです。越してきたばかりだそうで」
「なんつー迷惑な話だ……」
 遥が呆れたように言った。悠膳は、メルベルの話を、腕を組んで黙って聞いていた。何故かその表情は晴れない。
「今朝、このことを本部に連絡したら、すぐに戻って来いって……。管理協会はこの土地にはないと判断したそうです」
「随分早いな」
「ええ、まあ……。というか、日本に十六文書がある、って段階でかなり信憑性が低いって思われてるみたいですよ……十六文書のほとんどは大陸で見つかってますからねえ」
「今夜帰るのか」
「あ、はい。それともうひとつ。学校に棲みついている蜘蛛が言っていたことですけど、あれは人の領域を荒らすつもりはない……つまり、こちらから手を出さなければ、向こうも人間に手を出すことはない、と」
「蜘蛛が? 怪異が言ったのか? そしてお前はそれを信じたのか!?」
「ひえぇっ。あの、でも……あの蜘蛛はものすごく強力ですし、現実的に、あれを被害なしで排除するのはかなり難しいかと……。少なくとも、悠膳さんの怪我が治るまでは放置しておいた方が」
「そんなことは分かっている!」
 悠膳が大声で叫んだ。
 悔しさに顔を真っ赤にしていた。
「……そうだな。しばらくは学校には手を出さない方がいいだろう。俺の怪我が治るまでだ。俺の怪我が治ったら――必ず殺してやる」
「悠膳、ごめんなさい。わたしが無力で」
「いや……すまん。そういうつもりじゃないんだ」
「とにかく」
 遥が言う。
「それじゃ、しばらくは学校には手を出さない、ってことでいいんだね? それじゃ、僕らはどうする。来週からも学校に通うのか?」
「十六文書がない以上、これ以上の調査は無意味だ。……まあお前達次第だ。学校が気に入ったのならこのまま通えばいい。そうでないのなら、無理に行かなくても構わん。書類上の手続きは全部俺の方でやるから、お前達は好きな方を選んでくれ」
「じゃ、僕は行かないでおくよ。あんな気色悪い蜘蛛が闊歩してる学校、安心して通えないからね」
「吹喜はどうする?」
「わたしは……」
 一瞬だけ迷ってから、吹喜は答えた。
「わたしは、必要がなければ行かない」



3

 公園で奈々を見送り、洋祐は行きと同じく徒歩で帰った。奈々はまだ帰るつもりはないらしい。一度門限を破って何かが吹っ切れたのかもしれないし、吹っ切れたのは別の理由なのかもしれない。
 洋祐が永春神社についたとき、時刻はすでに七時を回っていた。
 吹喜に会いたかった。会って、吹喜の話を聞きたかった。
「……さて」
 神社の前に来たが、これからどうしようか。
 いきなり押しかけるのも気が引けるというか、正直怖い。あの神社の中には右島吹喜だけでなく、なぜか吹喜とは苗字の違う兄弟の有檻遥もいるのだ。吹喜に会いに来たところをあの男に見られたら何を言われるか分かったものではない。
 とりあえず石段を登ったところで、中に入ろうかどうしようか悩んでいると、洋祐は突然声を掛けられた。
「何をしている?」
 落ち着いた吹喜の声だ。振り返ると、彼女は石段を登っているところだった。
 びっくりすると同時にどこか拍子抜けする洋祐。
「あ、いや……ちょっと、吹喜に用があって」
「なに?」
「あ、いや、特に用があるわけじゃないんだが……」
「用があると言った」
「言ったな確かに。あー……」
 どう切り出そうか。
「私に話でも?」
「んー、まあそんなところかな……」
「そう……。ここでいい?」
「ん。まあ大した話じゃないんだけど」
 どちらかと言えば妄言の類の話である。
 まずは簡単なところから切り出そう。水曜の夜のこと。そう思っていたら、吹喜に先を越されてしまった。
「洋祐に言っておくことがある」
「え? ああ、何だ?」
「学校を辞めることになった」
 リアクションを取る余裕もなかった。
 しばらく吹喜の言葉の意味を考える。
 ……うん、何かの比喩とか隠語とか、そういう可能性はない。
「ちょっと待て。いきなりどういうことなんだ?」
「私はもう学校には通わない、ということ」
「いや、言葉の意味を聞いてるんじゃねえ」
「あなたには一応伝えておく。洋祐の口から、奈々と蜂須にも伝えて欲しい」
「なんで……」
「あなたには関係のないこと」
 吹喜の冷たい口調に腹を立てると同時に、洋祐はどうしようもない無力感を抱いた。
 自分はそれなりに吹喜と友情を築けていたのだと自惚れていた。吹喜にとっての自分は特別なのだと、勘違いしていた。
 その間違いを、本人の言葉で正される。
「違うだろ……そうじゃないだろ……。そんなのは……あんまりだろ……」
「何が?」
「何が、って――」
「これは私の事情。あなたには関係がないし、影響がない」
「影響がないってことはないだろ!」
 思わず大きな声を出してしまったが、吹喜のガラス玉のような瞳が揺れることはない。
「お前がいなくなったら、俺は寂しい。……それじゃ駄目なのか?」
 吹喜は洋祐の言葉に答えなかった。
「あなたがここに来た理由は?」
「……。水曜の夜のことを知りたい。俺がどういう経緯でここに来たのか、なぜか思い出せない。いや、思い出せないというか、思い出したことに確信が持てない」
「そう」
「……お前、何か知ってるな?」
「知っている」
 予想外の返答に戸惑う。知っているにしても、こうもあっさりと認めるとは思わなかったのだ。
「どういうことだ?」
「あなたの記憶は偽物。洋祐は私と夜中に会う約束はしていなかった」
「それって……どういうことだ?」
「洋祐がそのことに気付いた以上、隠すことはできないと判断して、こうして話している。けれど、これ以上は話せない」
「なぜ?」
「あなたのため。洋祐はこれ以上私に関わらない方がいいし、私もあなたには関わらない」
「わけがわからないんだが」
「……あなたたちはわけが分からないものをいつも放置している。それを裏で片付けている人間の存在は気にも留めない。……いえ、ごめんなさい。今のは忘れて」
 言ってから、吹喜は洋祐を置いて境内の中に入る。
「待ってくれ」
「話は終わった。洋祐も、私も、話すことは何もないはず」
「俺はまだお前に言いたいことが――」
 引き戸が閉まる。
 洋祐の言葉を最後まで聞かず、家の中に入ってしまった。
「言いたいことが、色々あったのに……」
 洋祐は、なんだかどうしようもなくて、どうすればいいかわからなくて、自分でもよくわからないうちに泣きそうになってきた。
 いつもそうだった。何かをしようとしてそれがうまくいかないと、途端に泣きそうになる。
 普段からふざけることで、泣かないように生きてきた。
 弱い人間だと思われたくなかったし、そういう自分と向き合うのが嫌だったのだ。
 それでも泣きそうなときは、隣にいた奈々がさりげなく助けてくれた。
「……けど、それも今回は頼れそうもないしなぁ」
 深呼吸をして、心を落ち着けて。
 今ここで泣くのだけは、洋祐の意地が許さなかった。



4

 透き通った虫の鳴き声を、布団の中で聞いている。照明はすべて落としてあり、月の光も雲に遮られており、吹喜の部屋は真っ暗だった。
 時計を確認したのはこれで六度目だ。吹喜は有檻家の人間の生活パターンを熟知している。何時ごろに完全な眠りにつくのかを完全に把握している。なぜそんなことを調べる必要があったのかと言えば、それは吹喜の持つ帰来の用心深さによるものだった。吹喜は遥や悠膳を信頼しているが、だからと言って二人と袂を分かつ可能性に想像力を働かせないほどに平和呆けしているつもりもなかった。
 こういうとき、自分は悠膳たちとは違う人種なのだと改めて実感する。悠膳と遥は人々の生活とこの土地の安定のために怪異と戦う。一方吹喜は、未だ余所者であるという意識が完全に抜けたわけではなく、この土地にもそこに住む人間にも何の関心も抱けなかった。
 なぜ戦うのかと言えば、それは吹喜自身の心の問題だった。まるで求道者のように、自分自身が進化し、以前の自分を越えることに快感を覚える類の人間である。
 吹喜は外部に理由や価値を求めない。彼女の関心は常に内側にあり、外部のものは吹喜にとって等しく無価値である――少なくとも吹喜はそう自分を分析していた。
 音を立てないよう、細心の注意を払い起き上がる。眠っているとはいえ、この家には百戦錬磨の大魔術師、神言術の達人である有檻悠膳がいる。布団から起き上がり部屋を出るのに数十分もかけて、制服に着替えてから吹喜は部屋の外に出た。おそらく制服を着るのはこれが最後だろう。
「夜遊びは危険だよ」
 闇の中からかけられた声に、吹喜は飛び上がりそうなほどに驚愕した。小さな声だったが、虫の鳴き声以外のあらゆる音が死んでいた世界で、彼の声は驚くほど大きく聞こえた。
「遥?」
「安心して。多分親父はまだ気付いてないよ。物音一つしない」
 遥は飄々として言った。
 吹喜は自身の考えの甘さを知る。神言術は悠膳に及ばないにしても、有檻遥は、この眼鏡をかけたインテリ風の少年は、こと肉体による戦闘に限定すれば、吹喜に匹敵するほどの才能に恵まれた人物なのだ。
「私を止めないで」
「止める? 僕が? まさか。僕が吹喜の邪魔をしたことなんて一度もないじゃないか」
「じゃあ――」
 どうして私を待っていたの?
「ただきみを見送りたくてね。あの蜘蛛をどうしても殺したいんだろ? その感情は理解できないけど、だからと言ってそれを否定しようとは思わないさ。ただ一言、きみに言いたかったのさ。健闘を祈る――ってね」
 思いっきり格好をつけて遥が言う。
 それを滑稽だと思いもしたが、少しだけ――嬉しかった。
「早く行きな。彼が待ってるよ」
「彼?」
「正直に言うと、別に吹喜の気配を察して起きたわけじゃなくて、表でずっと張ってるアイツの不愉快な気配のせいで目が覚めたのさ。まったく、あいつは姿も憎らしいが気配すら僕の神経を逆なでする。嫌だね、本当に。ちなみに僕が学校に行かなくなったのはあいつと会うのが嫌だからさ」
 じゃあね、と言いたいことだけを言って、遥は自分の部屋へ下がって行った。どうやら寝直すらしい。遥に見つかった時点で何か妨害を受けることを覚悟していた吹喜だから、彼の対応にはいささか拍子抜けした感があった。
 それはさておき。
 これで、あの蜘蛛と存分に決着をつけることができる。



 表に出たところですぐにその気配に気がついた。
 気付かないように振舞って石の階段を下りる。一番下まで来たところで、篠葉洋祐が吹喜に声を掛けた。
「夜遊びか? 実は不良だったんだな」
 吹喜は彼を一瞥して、無言のまま再び歩き出した。
「ちょっと待て。俺はまだ聞きたいことがたくさんあるんだ」
 吹喜は構わずに学校に向かって歩き続けた。が、洋祐の方を見て、無言のうちにその言葉の先を促した。
「今から学校に行くのか?」
「…………」
「イエスと受け取るぜ。水曜の夜、俺は学校にいた――。これはどうだ?」
「…………」
「なるほど。やっぱりノートを取りに行ったわけだ。でだ、問題は学校で何があったか、だ。話してくれないか?」
「何もない。秘密を守るために私があなたの記憶を消した」
「二つ疑問がある。どうやって俺の記憶を消したのか、もうひとつは何の記憶を消したのか」
「後者の質問には答えられない。前者は、いくらでも方法がある。例えば、ある種の化学薬品は副作用として記憶の混濁や喪失を引き起こす。催眠術を使う方法もある」
「ってことは、俺の記憶を消したのは化学薬品や催眠術以外の方法ってことだな」
 これは少し迂闊だったかもしれない。
 まあいい、と吹喜は思った。
 怪異や魔術の存在を公開することはタブーだが、だからと言って洋祐を殺してまで守らなければならない秘密というわけでもない。記憶操作を自力で破った以上、もう一度記憶を消しても薮蛇になる可能性が高い。そもそも吹喜自身は記憶を消す能力を持っていないので、必然的に悠膳に頼らなければならなくなる。彼に黙って外出している以上、それも不可能だ。
「人の記憶を勝手に弄りやがって、と怒りたいところだが、素直に認めたことに免じて許してやろう」
「……それはどうも」
 吹喜は素っ気無く答えたが、洋祐の横柄な態度に何故か懐かしさを覚えてしまった。彼との付き合いは一週間にも満たないと言うのに。
「なあ吹喜、俺は本当のことが知りたいだけなんだ。知ってそれを公表しようとか、そういうことは一切考えてないし、俺が本当のことを知ったとしても、黙っていればそれは誰にもわからないことなんだ。……なあ吹喜、俺はお前のことが知りたいだけなんだよ。それをお前が不快だって言うなら、まあ、しょうがないから諦めるさ。けど、そうじゃないなら……本当のことを教えてくれよ」
「話せない」
「俺はしつこいぜ? 本当のことを聞くまではずっとつきまとうからな」
「話す」
「軽っ。……え、いやあの、それはマジですか?」
「別に命より重い秘密というわけではない。調べようと思えば調べられるし。洋祐の記憶を操作したのは洋祐を巻き込まないため、という理由が大きかった」
「……そいつはどうも。愛されてるんだなぁ、俺って」
「最後にもう一度聞く。どうしても知りたい?」
「知りたいね」
「知った後、あなたは知らなければ良かったと後悔するかもしれない。それでもいい?」
「ん……そうだな。まあ後悔するのだって悪くないと思うぞ俺は」
 洋祐が気楽そうに言った。
 吹喜は少し考えてから、洋祐にすべてを話すことにした。
 いつの間にか吹喜の歩みは完全に止まり、夜の街で、洋祐と二人きりで立ち話をするかのような格好になっていた。
 世界には魔術や法力といった神秘の力を使うことの出来る人間がいること。人の世界に自然に沸き起こる怪異と呼ばれる謎の存在。そして自分が、その怪異を祓う仕事をしていること。十六文書の関係は説明が面倒なので触れなかった。
 一応洋祐の目の前で魔術の実演も行った。どうやらそれまでは半信半疑だったようで、実際に目の前で見て初めて信じることができたらしい。
「その怪異祓い、ってのがよくわからんが……つまりゴーストバスターズみたいなものなのか?」
 吹喜は頷いた。
 洋祐は腕を組んでうんうん唸ったり首を捻ったりしていたが、やがて自分の中での整理が終わったのだろう、腕を解いて吹喜に聞いた。
「で、もっとよく分からんのだが、それと水曜の夜のこととどう関係があるんだ?」
「洋祐は水曜の夜に学校に行った。そこで私と怪異の戦闘を目撃した。私は混乱を防ぐためにあなたの記憶を消した」
「なるほど。よけいなお世話をありがとう」
 彼は苦々しそうに言った。
「ってことは学校にその怪異とやらがいるのか……おっかない話だな。もしかして今吹喜が向かっているのも学校で、その蜘蛛の妖怪に決着をつけにいくところなのか?」
 吹喜は答えなかったが、否定しなかったことが肯定の合図だった。
「だったら俺も付き合うぜ。っつっても俺はそんな不思議な術は使えないから、まあ、ただの観戦なんだが」
「必要ない」
「……ま、そう言うと思った。けどこれは吹喜に必要なことなんじゃなくて、俺に必要なことなんだよ。……ここまで縁があったんだ、最後までつき合わせてくれよ」
「貴方を守るつもりはない。だから、命の保障はない」
「どうなったか見届けるだけだからな。別に一緒に戦おうとか言ってるわけじゃない。ていうか言ったとしても吹喜は絶対に認めないだろ」
「…………」
「俺はただ納得したいだけなんだ。あとおまけに吹喜の活躍が見たい」
「そう……」
 そう答えて吹喜は目を瞑った。はたしてどうするのが最善なのか――いや、最善など選ばなくてもいい。それが最悪でなければ十分だ。
「わかった。ついて来るのは自由。けど、私は何も保障はできない」
「人生なんてそんなもんだよ――っと」
 へへへ、と笑って、再び歩き始めた吹喜の後を洋祐がついてくる。その顔は心なしか嬉しそうだ。
 吹喜は首をかしげたが特に理由を問うようなことはしなかった。理由はわからないが機嫌が良いことは良いことだ。洋祐が楽しそうにしているところを見ていると自然と吹喜の心も軽くなってくる気がする。
「なあ吹喜」
 洋祐がぽつりと言った。
「なに?」
「学校に来いよ」
「なぜ?」
「奈々や蜂須が寂しがる。特に奈々は、あんな乱暴女だが寂しがりやでな、孤独とか別れとかそういうのが全く駄目なタイプなんだよ。蜂須は……まあ、ロリコンだからな。あいつのことはいいや」
「あなたは?」
「ん?」
「あなたはどう思ってる?」
「そりゃ寂しいさ」
「寂しいだけ?」
「寂しいだけじゃ不満か?」
 吹喜は黙った。自分でも変な問答をしていると思う。
「しかし変な話だよなぁ。吹喜と会ってまだ一週間も経ってないのに、なぜかもう二年も付き合ってるような気がする」
「そう」
「学校に行かなくてもこの街にはいるんだろ? また永春神社に行くよ」
 学校に着くまでの短い間、吹喜と洋祐は取りとめのない話に華を咲かせた。と言っても、それは洋祐が話しそれに吹喜が短い相槌を打つ、という一方的な形だったのだが。



 学校を前にして、吹喜の表情が一気に険しくなった。と言ってもその変化はごく僅かで、おそらく彼女のことをよく知る人間でなければいつもの無表情だと思うだろう。
「……いるのか?」
 洋祐の質問に首肯して返した。
 吹喜は別段気配を消すことなく、普通の歩みで校内に入った。先日のことで気配を消してもあの蜘蛛には意味がない事が実証済みだし、今回は洋祐もいるので完全な奇襲はおそらく不可能だろう。
 そう考えると、この男がいかに足手まといかが改めて分かる。別に連れてきても自分なら今度こそ問題なく蜘蛛をしとめられると考えてしまったが、冷静に考えるなら一人で来るべきだったかもしれない。
「…………」
「な、何だよ。その目は『ああ、こんな足手まとい連れてくるんじゃなかった』って後悔してる目だな」
 吹喜は諦めて洋祐を睨みつけるのをやめた。
 校舎の鍵を、前回と同じく魔術であける。
 それを見ていた洋祐から感嘆の声が上がった。
「その能力を使えば空き巣し放題だな」
「それだけじゃない」
「ん?」
 吹喜はそれ以上答えなかった。魔術を使えば殺人だって楽にできるのだ。
 真夜中の冷たい空気が二人の肌を刺す。昼間は賑やかな校舎がこうも静かだと、洋祐などにとってはかなり恐怖を感じる状況らしい。平静を装っているが、洋祐がかなり緊張しているのが吹喜には分かった。
 吹喜は土足のまま校舎に入ったが、洋祐は律儀にも内履きに履き替えている。静かな校舎に二人の足音がペタンペタンと響いた。
 何事も起きないまま二階へと登る。
「なんか怖いな……。いや、多分蜘蛛の化け物がいるって聞いたから怖く思うんだろうが」
「…………」
 吹喜の足が止まった。
「どうした?」
 ぐい、と洋祐を廊下の壁に押し付ける。
「な、何だ?」
「何かが近づいてくる」
「妖怪か?」
「多分人。歩く音。足取りに余裕と自信が感じられる。階段を降りてきている」
「そうなのか? 俺にはさっぱりわからんが……」
 吹喜はポケットからレシートくらいの大きさの紙を二枚取り出した。紙には墨でびっしりと漢字が書かれている。それは悠膳の持っていた護符を大分前に吹喜がくすねたものだった。
 そのうちの一枚をこよりのようにねじり、洋祐の右手を取りその中指に巻きつける。
「何だこれ」
「ただのまじない。壁から離れないで。あと音を出さないで。あと動かないで」
「注文が多いな」
 もう一枚の紙も同じようにして自分の中指に指輪のように巻きつける。
 洋祐と吹喜は背中を壁に貼り付けるようにして並んで立った。
「……あの、吹喜」
「喋らないで音を立てないで」
「すっげシュールな光景なんだが」
 吹喜に睨まれて洋祐は黙った。
 そのままの状態でしばらく待っていると。
 無用心にも大きな足音を立てて、白衣を着た女性が階段を下りて来た。妙齢のスタイルの良い女性。吹喜はその女性には見覚えがなかったが、隣にいる洋祐が動揺しているところを見ると、どうやら彼は知っているらしい。
「変ねぇ。誰かがいたと思ったんだけど」
 独り言をつぶやいて辺りを見回す。
 動こうとした洋祐の手首を握り、睨みつけてそれを制す。
 女がすぐ目の前まで来た。
 校舎はこんなにも寒いのに、吹喜の首筋には汗が浮かんでいた。精神が研ぎ澄まされていく。どうするべきか逡巡する。
 ――この女、怪異か。
 怪異が人間に化ける、という話は聞いたことがなかったが、人語を操るほどの知能を持った怪異ならばそれも可能だろう。いつでも魔性殺しを取り出せるよう、腕に描かれた魔術の紋を意識した。
 しかし吹喜はすぐに攻撃を思い留まった。
 吹喜の獣よりも敏感な聴力が――廊下に反響する微かな足音を捉えたのだ。
 こちらの足音は女の方とは違ってかなり聞き取りにくい。相当体術に秀でた人間だ。足取りに迷いや躊躇がない。冷酷で残忍で理性的。ただの印象だったが、こと殺し合いに関する吹喜のこういった感覚はかなりの的中率を誇っていた。
「……またあの子猫たちかしら」
 女の独り言。
 間違いない。この女が蜘蛛だ。
 もうひとつの微かな足音が廊下に降り立った。
「先ほどまで何かがいたが、突然気配を消した。……何かの術を使ったか」
 渋い声で、その男が――。
 ………………思考が停止した。
 洋祐の手首を握っていた吹喜の手が、力なく下に落ちる。
 吹喜はいつもあらゆる可能性を考えていた。今日この場で自分が殺されるかもしれないということは十分に可能性として考えられたし、突然奇襲を受けてそれに巻き込まれた洋祐が死ぬ、といった想像も出来るくらいには現実を見ているつもりだった。
 ――しかし、これは。
「早めにあぶりだしておく必要があるな。ここまで来て、子猫一匹にすべてを台無しにされるわけにもいかん」
 どういうことなのか、そのことだけを考えた。
 すぐに解は導かれる。しかしそれは、到底、吹喜には受け入れられるものではない。
「悠膳さま、子猫はまだ遠くに行ってはいないはず」
 女は、男――有檻悠膳に向けて、敬意のこもった声で言った。
 悠膳は袴を履いた完全なる戦闘のスタイルだった。悠膳ほどの使い手が、女の正体に気がつかないわけがない。つまり、悠膳と蜘蛛は……。
「そう思う根拠は?」
 悠膳が女に問うた。
「はい。気配絶ちの魔術は一般的にかなり高度な魔術です。ただ一般人に見つけられにくくするだけのお守り程度の術ならば様々な流派に見つけることが出来ますが。今子猫の使っているものはわたしの探知すらかわす強度を持っている……」
「なるほど」
「しかしそんな強度の術を、儀式もなしに咄嗟に行えるとは思えません。気配を絶てる場所か、時間か、あるいは行動に制限がつくか……少なくとも子猫の行動に著しい枷が掛けられたのは間違いありません」
「その理論に付け加えるなら、子猫は隠れた場所から一切動くことはできない」
「……それはなぜですか?」
「子猫の使っているのは恐らく俺が作った結界符――これは特に怪異から自分の身を隠すのに使う、まあ一種の厄除けだ。壁など自分の身を預けられる場所で指に巻きつけることで効果が現れる。使い方さえ知っていれば一般人でも使えるものだ。ただし、壁から離れたり音を立てたり、あるいは体を動かすとすぐに効果が切れる」
 悠膳の鋭く冷たい目が、
 寸分違わず、
 迷うことなく、
 はじめからすべてを知っているその目が。
 ――吹喜の瞳を捉えた。
「なあ、そうだろう吹喜」
 老練の魔術師はニィ、と口元を緩めて、笑った。
 直後、吹喜は洋祐の手を掴んで走り出した。打算も計算も何もない咄嗟の判断。ただその場から逃れるためだけの――純粋の逃走。
「な、おい、ちょ吹喜!」
 洋祐が必死に叫んだ。吹喜の足の速さについていけず、ほとんど引きずられている形になっている。しかし洋祐の抗議は吹喜の耳には入っていなかった。
 どうして。
 どうして悠膳が――。
 そのことで頭が半分埋められ、もう半分は、果たして自分が悠膳と敵対して無事でいられるかということだった。
 悠膳の目の中には悪意はなかった。ただひたすら純粋な殺意があるだけだった。その殺意の恐ろしさに、吹喜の体は半ば自動的に逃走することを選んでしまったのだ。
 そして、恐慌の吹喜は逃走経路の選定も悠膳の行動予測も何もかもを放棄して、ただひたすら原始的に悠膳から物理的に離れることだけしか考えられなかったのだった。
 吹喜の全身から汗が噴き出している。心臓が暴走を始めている。
「発華導獣挫」
 吹喜の目の前で小さな爆発が、しかし無数に起きた。
 すぐにそれをよけようとしたが、洋祐の体を庇うようにして廊下に伏せた。爆発の衝撃を吹喜の防壁が自動的に減衰させる。しかし自動発動の魔術なんてたかが知れている。背中の熱と衝撃に吹喜は声を上げた。
 床に倒れた吹喜たちの元に、悠膳がゆっくりと歩いてくる。それもそうだろう、慌てて走るような不恰好なことをする必要もない。ゆっくりと歩くだけで悠膳は吹喜をつかまえることができるのだ。
「選べ。死ぬか――戦うか。いつも俺たちの選択肢はそれだけだった」
 無造作に近づいて、吹喜の腹を蹴り上げる。
 が、その足は大きく空振る。吹喜は蹴りが当たる直前に横に転がって回避したのだ。
 体のばねを使って飛び起きる。吹喜と悠膳は向かい合う形になった。
 悠膳はちらと洋祐の方を見た。吹喜は悠膳から一切目を離すことができない。もし一瞬でも注意から外してしまえば、彼がその一瞬を見逃すはずはない。おそらく容赦なく神言術を叩き込んでくるだろう。そのことが二人の実力差を表していた。
 吹喜は――自分の周りがガラガラと崩れていくような感覚に襲われていた。
 何も分からない。
 何もできない。
 そして自分は、とうとう完全に悠膳と敵対してしまっているらしい。後には引き返せない。出口のない袋小路に迷い込んでしまったようだ。その心細さが吹喜の思考をさらに単純なものにしてしまった。
「どうして……」
 かろうじて声を出した。
 怖かった。声を出した一瞬に、目の前の猛獣が牙を剥くかもしれないと考えたからだ。
 そんな吹喜の恐れとは裏腹に、悠膳はいつもと同じ穏やかな笑みを浮べている。しかしその目の奥に光る狂気を完全に隠すことはできない。
「どうして? それは方法を聞いているのか? それとも理由? そして何について聞いているんだ?」
「……悠膳がなぜアレと一緒にいる?」
「アレというのは蜘蛛女のことか。あれは俺の手駒だ。向こうも俺を利用しているつもりだろうがな」
「悠膳――」
「種明かしは趣味じゃないんだがな。せめてもの手向けだ。お前の質問には何でも答えてやろう」
「……目的は?」
「これだ」
 悠膳が取り出したのは黄ばんでぼろぼろの西洋書だった。吹喜はそれが何なのか分からなかったが、悠膳の表情を見てすぐにその正体に思い当たる。
「十六文書……?」
「察しはいいな。敵というのはこうでなければやりがいに欠けるというものだ。これは正確には第八法典『旅説』という。物質の時間変化を司る『魔法』だ」
「それじゃ、学校に十六文書があるっていうのは――」
「本当のことだ。もっともあの調査員は、ここに十六文書はないと本気で思い込んでいるらしいが」
「蜘蛛と組んだのは、十六文書の存在を隠蔽するため?」
「その通り。いかに十六文書を隠したところで、十六文書の持つ怪異を惹きつける性質だけはどうしようもなかったからな。管理協会はその点に注目し、各地の怪異の動きには細心の注意を払っている。第八法典が見つかるのも時間の問題だったわけだ」
「……怪異が集まっていた理由を、蜘蛛のせいにした」
 あの化け物には人間並の知性があるのだ。
 そういった取引も、不可能ではないだろう。
 悠膳が蜘蛛の偽証と引き換えに何を渡したか、それが気になるところではあるが。
「そうだ。人は答えを手にするとすぐに思考が止まってしまう……その先にあるものを考えようとはしない」
「けれど、今、こうして私に気付かれた」
「そうだな」
 ゆっくりと、悠膳の顔から笑みが消える。
「問題はお前だ。俺を見つけてどうするつもりだ」
「馬鹿なことは考えないで。協会を敵に回してはいけない」
「おいおい、もしかして俺を説得しようとしているのか?」
「事実を話している」
「真実ではないな。この第八法典には協会を敵に回すだけの価値がある」
「時間を弄るだけの手品に、命をかけるつもり?」
「あまり短絡的に物事を考えるな」
 それは悠膳にこそ言いたい言葉だ。悠膳は出来の悪い生徒に教える教師のように答えた。
「時間の価値は命の価値に等しい。時間を手に入れることは命を手に入れることと同義だ」
「命にそこまでの価値が?」
「命以上に価値のあるものはないさ。ついさっきお前が言ったことだ」
 吹喜は必死に頭を回転させていた。
 どんな嘘でもどんな詭弁でもいい。悠膳を説得しなければならない。気がつけば、悠膳と戦うことで自分が殺される危険などは完全に抜け落ちていた。今吹喜が必死に説得しているのは、こうしなければ悠膳がどこか遠いところに行ってしまうような気がしたからだ。
「どうした吹喜、普段のお前らしくもない。敵を見つければ獣のように勇んで喰らいつくお前が、何を躊躇しているんだ?」
 いやらしく笑いながら悠膳が問う。
「悠膳、冷静に考えて。そんな子供だまし、うまくいくはずがない。必ず失敗する」
「その子供だましに気付けたのはお前だけだ。それも偶然」
「おい、吹喜……」
 黙っていた洋祐が恐る恐る聞いた。悠膳には吹喜と対峙していながら堂々と洋祐の方を向くだけの余裕がある。
「お前が篠葉くんだな。娘が世話になっている。帰るなら今のうちだ。きみのことは見逃してもいい」
「……そりゃ、ありがたい提案ですね」
「なに、ただの高校生であるきみがいくら騒いだところで何が動くわけでもない。俺とて人間だ、無意味な殺生はしたくない」
 それはつまり意味のある殺しならば躊躇はしないという意味でもある。
「ていうか提案も何も俺には何が起きているのかさっぱりわからないんですがね……」
「知る必要はない。知らない方がお前のためだ」
「なに……?」
 悠膳の言葉が洋祐の神経に触れた。それを吹喜は感じ取る。
「洋祐、やめて」
「知る必要はない、知る必要はないってなあ、お前――」
「やめて!」
「お前こそ黙ってろ! どいつもこいつも秘密主義してんじゃねえよ! しかも俺のためとか言ってんじゃねえ! 勝手に盛り上がってんな馬鹿! お前らうぜえんだよ! 自分たちのことなんて放っておいてくださいってか? それは俺の台詞だ俺のことなんか放っておけ勝手に俺のためとか言って俺を無視してんじゃねえ!」
「大きな口を叩くんだね。大きな口を叩く若者は嫌いじゃない」
「俺はあんたのことは好きじゃない」
「俺も好きではないな。嫌いではないだけで。目障りだがな」
「だったら何だよ」
「少し黙っていろ」
 羽貫流疎――。
 いきり立っていた洋祐の様子が一変した。突然黙った、というよりは、まるで立ったまま気絶しているようである。
「悠膳、何をした?」
「黙ってもらっただけだ。急げよ。呼吸も止まっているからな」
「悠膳!」
「助けたければ俺を殺せ。逃げることは許さない」
 吹喜の呼吸が荒くなる。
 どうするどうするどうするどうする。
 逃げられない。逃げれば洋祐が死ぬ。いやそれがなかったところで悠膳からは逃げられないかもしれない。だったら戦うしかない。悠膳は強いが今はまだ怪我をしている。あの怪我は本物だ。自分なら五分かそれ以上に渡り合えるはずだ。だったら決まっている。このままあの男に突っ込んで魔性殺しを喉に突き立ててやればいい――!
 なんでなんでだよそんなことが分かっているのに魔性殺しも構えて今すぐに始めてきっと十秒以内に息の根を止められるのに。
 どうして体が動かない!
 がたがたと膝が震えていた。
 恐怖?
 違う。
 むしろ冷静に考えれば悠膳を殺すことは不可能でもなんでもない。この男は平静を装っているが1対1の今の状況ならば逆に吹喜が勝つ可能性だって十分にあるのだ。怖くなんかない。今この男の命は自分の手が握っていると言ってもいい。
 なのに。
 そのことを知っているのに。
 いや、知っているからこそ。
 吹喜の体は動かないのだ。
「まさか――」
 悠膳が言う。それは意地悪な質問なんかではなく、純粋な彼の疑問。
「お前、俺を殺すことに躊躇しているのか?」
 図星だったのだろうか。
 自分でもよくわかってない。
 こっちが教えて欲しいくらいだ。けれど悠膳もその答えは知らないらしい。だったら、答えを誰に求めればいいのだろう。
「待つのは性に合わん。こちらからいくぞ」
 悠膳が吹喜の方へ白い紙を投げた。悠膳の呪文が廊下に響く。発火呪文。
 ごうという大きな燃焼音を伴って、紙が真っ白な光を出して燃え上がる。強力な光と音が吹喜の視覚と聴覚を奪った。まるで閃光手榴弾である。
 視覚と聴覚を奪われても、この隙に乗じて悠膳が突撃してくることは十分に理解している。見えなくても聴こえなくても校舎の地理は心得ていた。悠膳の直進をかわすように横に飛び退き、見えないが悠膳がいると思われる方向に向かって人差し指を突き出す。
 肩の呪紋で回転し腕の呪紋で加速し指から射出する力が前方の空気を渦巻かせる。それは竜巻と言うには程遠い、つむじ風程度の力しかないが、まるでかまいたちのように鋭く肉を切る性質を持っているのだ。
 それが悠膳に当たったかどうかは知りようがない。しかし当たったところで悠膳が致命傷を受けるとは思えない。あの風はあくまで牽制だ。悠膳を倒すにはもっとピンポイントで強力な攻撃を与えなければならない。吹喜はそのことを十分に理解している、はずだった。
 ここに来て――戦闘が徹底的に始まってしまったこの瞬間ですら、吹喜はまだ覚悟を決められないでいた。そのことが吹喜の積極性を奪っていた。
 吹喜はひとまず走って距離を取ろうとした。もちろん誤った方向に進み壁に衝突するような下手はしない。少なくとも視覚と聴覚が回復するまでは正しい方法であるはずだ。
 しかしここで攻撃の手を緩めたことが、悠膳の反撃を許すことになった。
「焔蛇流封祭々――」
 吹喜の視覚は半分以上回復していなかったが、自分に向かって悠膳が何を放ったかは十分に認識できた。
 熱である。
 大きさはかなり小さいが、温度が桁違いだ。
 それも高速で迫ってきている。
 足を止めて振り返る。
 熱の、真正面に立つ。
 胸の前で両手の指を複雑に絡ませる。まるで忍者が使う印のように。
 意識を集中して、防壁を展開させた。
「…………お願いっ」
 吹喜の文語魔術による防壁は、弾丸サイズに圧縮された悠膳の熱によってあっけなく突破された。
 肩に鋭い衝撃を受ける。
 防壁は僅かに射線を反らし、悠膳が狙っていた頭部への直撃は避けることはできた。しかし肩を貫いた熱は周囲の肉を焦がし、吹喜に耐え難い苦痛を与える。
「ぐ――ううっ、くっ」
 肉の焼ける音と匂いが吹喜にも分かった。
 魔術師でなければこの傷であっても致命傷だっただろう。吹喜がいつも稼動させている自動防御の魔術が、その致命傷を苦痛を与えるだけの傷にさせていた。
 視力と聴力はすでに回復していた。
 回復した視力が、素早く吹喜の懐に潜り込む悠膳を捉える。
 右の肘が飛んで来た。腰の回転に乗せて素早く打撃する悠膳。
 吹喜は左上腕でそれをブロックする。
 直後、吹喜の体が後ろに吹っ飛んだ。それは誇張ではなく本当に一瞬体が空中に浮いた。
 左の至近距離から打撃を受けたのだ。その打撃の重さに内臓が軋んだ。胃の中のものをすべて吐き出しそうになるのを堪える。
 すぐに次が来た。今度は回し蹴り。頭を狙ってきたのを上体を後ろに下げて回避。
 しかし悠膳はその勢いのままもう一回転し、姿勢を低くして吹喜の足を払った。
 完全に予想外の攻撃に吹喜はなす術もなく廊下に倒れる。魔性殺しを振り回して牽制しつつ起き上がる。無理な追い討ちは来なかった。
 すぐに後ろに飛ぶ。対人の格闘では悠膳にまったく歯が立たない。これまでの吹喜の敵はいつも怪異であり、彼女が人間を相手にしたことはほとんどない。
「炉祖玖爾――」
 悠膳の詠唱を聞いたとき、考えるよりも先に動いていた。
 それまで組み立てていた理論の一切を放棄して、命を賭けたぎりぎりの場面で生まれる『勘』にすべてを賭ける。
 両手には魔性殺し。
 刺せば殺せる。
 悠膳の詠唱が先か、吹喜の刃が届くのが先か。
 刃を滑らせる。狙ったのは悠膳の首だった。
 もちろん真正面から切らせてもらえるほど甘くはない。完全に見切られて体を少し後ろに引くだけで避けられてしまう。
 そうやって上半身が後ろに反れた瞬間に、吹喜は悠膳の水月につま先を叩き込んでいた。
 手ごたえあり。
 悠膳の詠唱が一瞬中断した。
 吹喜は姿勢を低くして一気に突進した。
 悠膳の足を払い、後ろに倒し、上半身に馬乗りになる。
 勝った――。
 吹喜は確信する。そしてその確信は正しいはずだった。
 後は。
 後はどうする?
 この手の中の刃を、悠膳に振り下ろせばいい。それだけで終わる。どんな障壁も、妨害も、奇跡も、この刃の前では紙ほどの抵抗もない。
 振り下ろす――。
「……どうした。いつまで俺の上に乗っているつもりだ?」
 悠膳が心底不思議そうに言った。
 何秒経っただろう。悠膳の首に向けた刃先は、いつになったら到達するのだろう。
 ――刃先が小刻みに震えていた。
「………………刺せ、ない?」
 吹喜の声には、隠しようのない動揺が現れていた。実際、悠膳よりも吹喜の方が驚きは大きかった。
 どうして刺せない?
 どうして?
 私は悠膳を刺せない?
 悠膳が消えることに――耐えられない。
「そんな、まさか……」
 そんなはずはないと、なんども力を込めた。体が動かないわけではない。いざ悠膳にナイフを突き立てようとすると、心の中にどうしようもない絶望と不安が浮かぶのだ。力を込めるたびに悠膳が自分に刺されて死ぬ光景が浮かび――その光景は、吹喜が最も見たくない未来であり、そんな世界に自分は耐えられないと、なぜか確信することができた。
「ああ……そうだったの……」
 吹喜はやっと理解することが出来た。
 自分は悠膳が好きなのだ。
 自分にとっての家族は遠い記憶にある母だけだと思っていた。けれど本当は――この男も、間違いなく吹喜の家族で、つまりは彼こそが吹喜の父親なのだ。
 吹喜は笑いそうになる衝動を堪えた。
 なんてことだろう。
 なぜ今まで気がつかなかったのか。
 自分はこんなにも悠膳のことを愛しているのに。どうしてそんな簡単なことが分からなかったのだろう。
 強さにこだわっていたのは他でもない、悠膳のためだ。悠膳の力になって、悠膳に褒めてもらいたかった。自分の父親に、必要とされたかったのだ。
「吹喜……泣いているのか?」
 泣いている?
 まさか。どうして泣く必要がある? こんなにも嬉しくて楽しくて――切ないというのに。
「悠膳、もうやめよう。私はあなたに生きて欲しい。だから……」
 だから。
 いつものあなたに戻ってください。
 そうか、と悠膳は呟いた。
 彼は言った。
「そいつは出来ん相談だ」
 万力のような力で吹喜の両腕が悠膳につかまれた。それは逃げるための行為ではなく、吹喜を逃がさないための行為である。
「目覚めよ、第八法典」
 魔術師のコールに応じて、彼の懐に入っていた十六文書が八、旅説が、ひとりでに動き出す。もぞもぞと悠膳の懐から出てきた第八法典は、風もないのに紙がめくれ、その白紙のページに血のような赤で呪いの証が刻まれてゆく。
「蠢動――――――――外法、時獄牢」
 瞬間、吹喜の中を圧倒的な何かが突き抜けた。
 体の中を何かがかき回し、大切な何かが壊されていく。
 自分自身が、背中から流れていく。
 声が出せない。
 動くなんてもってのほか。
 全身がおかしくなって、体が全部壊れて――。
「いつまで乗っている」
 悠膳に体を持ち上げられる。そのまま廊下の上に投げ飛ばされた。
 立ち上がろうとしてバランスを崩した。平衡感覚がおかしい。立ち上がっているのに立ち上がれない。足も背中も伸ばしているのに、視界が低い。
「……………………え?」
 ここにきて、自分自身の体に起きている異変に気がついた。抵抗が緩んでいたのだとしても、吹喜の体は軽すぎた。
 手足が短くなっていた。手足というより、体全体が小さくなっていた。鏡がないので確信は持てないが、これは――。
「子供?」
「可愛いなぁ……。お前、昔は危険じゃなかったんだな」
「悠膳、何をした?」
「時間を戻しただけだ。ちょうど十年分ほどな」
「物質の、時間操作」
「そうだ。お前の過去はよく知らないが、まさかその歳から魔術を極めていたわけではあるまい?」
 いつも体に感じている文字の力を感じない。魔性殺しを保管している収納空間への接続も絶たれていた。
 これはまずい、と認識すると同時に、悠膳が向かってきていた。
 何の工夫もない蹴り。
 しかし身体能力を失った吹喜にそれを回避することはできない。腕を交差させて蹴りを受けるも、体が軽すぎて勢いを殺すことがまったく不可能。
 動揺で完全に次の手が遅れる。ほとんどノーガードだった吹喜はあっさりと悠膳の接近を許してしまい、首を掴まれて壁に背中から叩きつけられた。
 その痛みに顔が歪んだ。いつもの自分ならこの程度のことでここまで痛くなるはずはないのに。
「終わりだ」
 死の予感。
 悠膳が吹喜の心臓を指さした。
「絨吏如圏脱」
 吹喜には意味の分からない呪いの言葉を吐くと――
 バンと破裂音、血液の逆流と猛烈な寒気と眠気、意識が泥のように沈み息ができない肺はどうした胸が熱い痛い痛い痛い痛い血液が寒い何をされた下を見る心臓がない胸に穴が開いている赤がどろどろと溢れてすべてが奪い取られて――。
 悠膳の神の言葉は吹喜の心臓を吹き飛ばし、悠膳の手の中にあった吹喜が力なく崩れ落ちる。
 まるで絨毯のような赤い血液の上で、右島吹喜はすでに意識を失い、完全に死の淵の奥底に沈もうとしていた。
「すまない」
 悠膳が懺悔の言葉を口にしたとき、吹喜はすでに事切れていた。

戻る目次へ進む
inserted by FC2 system