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 旅説の正体を最初に見破ったのは巨大な蜘蛛だった。
 本来ならば十六文書と怪異は不干渉の間柄である。十六文書は怪異を惹きつける存在だが、十六文書が意識してその特性を使っているわけではないし、怪異の側からも十六文書をどうこうしようとするわけではない。
 その不問律が、破られた。
 蜘蛛は旅説に忠誠を誓う。
 ひざまずき、頭を垂れた。
 旅説はそれを乾いた心で見つめていた。
 本に心があるならば、の話だが。


さよならベルティエール

第三話


1

「――だから、私はそのときから運動神経は良かった。体育の授業は嫌いじゃない」
「      ぇ?」
           何だ、これ。
    えーと。
 は?
     ええ?
「何?」
「……吹喜?」
「そう」
「えーと、右島?」
「そう。私は右島吹喜。あなたは?」
「……篠葉洋祐」
「そう……。他に聞きたいことは?」
「ここはどこだ?」
 洋祐は言った。
 目の前に吹喜が座っている。ちゃぶ台の向こう。自分は座布団の上に正座していた。自分は吹喜と雑談をしていたらしい。右手が妙に温かい、と思ったら、洋祐の右手は湯のみを握っていた。中には半分ほどの緑茶。そういえばちゃぶ台の上には吹喜の分の湯のみもある。吹喜は一切手をつけていないらしいが。
 ここはどこだ?
 自分でそう質問しておきながら、洋祐はここがどこなのかをすでに知っていた。
 ここは、吹喜の家だ。
 永春神社。
 今は夜中だ。今日は水曜日。土曜には奈々と吹喜でクレープを食べに行く約束。
 ……で、どうして俺はこんなところにいるんだ?
 一瞬、洋祐はいきなり身一つで見知らぬ土地に放り出されたような心細さを味わったが……すぐにそれは気のせいだと思い直した。
 そうだ。今日の学校帰りに、吹喜に家に来ないかと誘われたんだ。
 で、どうしてこんな夜中にわざわざ?
 そうだ。それも吹喜の希望だった。夕飯を食べ終わった後、夜中に来るようにと。たしか自分はずいぶん不思議に思ったはずだったが、事情を詳しく探るようなこともせずにその要求を呑んだのだ。さすが篠葉洋祐、女性に対して紳士だなあ。よくやった、俺。
「…………」
 鹿爪らしい顔で悩んでいると、吹喜は無言で立ち上がった。
 洋祐はなぜか身構えてしまったが、単に洋祐と吹喜の湯のみを片付けるために立っただけだった。両手に湯のみを持って奥へ下がる。
 洋祐がいるのは畳と障子のある純和風の部屋。ただし、天井が妙に高くてそのせいか少し寒い。
 洋祐はこの神社に来るまでの過程を思い出そうとした。
 しかし彼の記憶はそこだけがモザイクがかけられたように不鮮明だ。正月にはいつも永春神社に参拝するから、神社の場所を知っていることは何もおかしくはない。
「あ……」
 そういえば自分はどうして吹喜の家が神社であることを知っているのだろう。学校からの帰りに聞いたのだろうか。はて、どういった文脈でそんな話題が出たのだろう。
 思い出せない。
 しかし洋祐は特に記憶力に自身があるわけでもなかった。吹喜との会話をすべて一言一句逃さず覚えているわけではない。聞き逃したことや瑣末で記憶に留めなかったこともたくさんあるだろう。さっきあんな妙な感覚を覚えたのは、自分が疲れていたせいだ。それで、失礼にも、吹喜の話を聞いている途中でついつい眠りそうになってしまったのだ。
「んな馬鹿な」
 さすがにこれは無理がある話だった。しかし洋祐にはこれ以外の説明が思いつかない。これは最適解ではない。が、唯一解。
 手ぶらの吹喜が奥から戻って来た。
「もう帰った方がいい」
「今何時だ?」
「二時」
 真夜中である。
「深夜。丑三つ。深夜二時」
「あ、ああ……。分かった」
「……おやすみ」
 未だ釈然としない気持ちを抱えながら、洋祐は腰を上げた。吹喜は玄関まで洋祐を見送った。
「じゃ、また明日な」
 とりあえず吹喜にそう言った。彼女は軽く頷いてから引き戸を閉めた。鈴虫の声と真夜中のひやりとした空気。しばらく玄関の方を向いたまま立ち尽くしていたが、頭を振って踵を返した。
「よくわからん……」
 俺は白昼夢でも見ていたのだろうか。
 何か大切な、それでいてものすごくセンセーショナルなことが起きたような気がしていたのだが……。
 何だったっけ?



2

 洋祐を家に帰してから、吹喜と遥は学校で何があったのかを本格的に悠膳に報告した。
「そうか……蜘蛛の化け物か……」
 未だ傷の癒えない悠膳は、包帯の上を摩りながら答えた。
「そう。心当たりは?」
「無いな。蜘蛛の化け物と戦った経験はあるが、それほど強力で、しかも会話が可能なほどの上級な化け物というのは……話に聞いたことはあるが実際に見たことはない」
 悠膳は普段はこの地区一帯の怪異をほとんど一人で退治していた。その彼が知らないということは、あの蜘蛛が学校に巣くったのはごく最近のことなのだろうか。火曜の夜に吹喜たちと遭遇しなかったのはたまたま巣にいなかっただけなのだろうか。
「……ふむ。何か裏がありそうだな」
「裏?」
「うむ。その蜘蛛が十六文書の魔性に引き寄せられただけ……とも考えられるが、どうも、その……釈然としない」
「よくわかんないな。何がそんなに引っかかってるんだ?」
「勘、というわけでもない。自分の巣にまんまと引っかかった獲物を、蜘蛛が、しかも女蜘蛛が、そう簡単に見逃すはずがないからだ。俺が聞き知った蜘蛛の妖怪なら、今頃お前たち二人は蜘蛛に喰い殺されていただろう」
「あえて見逃した、ってことか?」
「そこまでは言わんが、あえて危険を冒してまで食べるつもりはなかった……ん? 蜘蛛には食事よりも優先すべきことがあって……万が一にも反撃されて死ぬわけにはいかなかった……違うな。危険を冒さないように……なるべく確実な方法で……」
 ぶつぶつと、悠膳は呟く。
 しばらく独りで思考の中を彷徨った後、
「分かった。しばらくは様子見だな……。二人とも、しばらく学校に近づくのはやめなさい」
「なぜ?」
「危険だからだ。俺が復帰するまで、しばらくは」
「大丈夫。問題は無い」
 吹喜は言った。
「次は必ずやる」
「駄目だ」
「でも――」
「危険だ。そんなギャンブルを認めるわけにはいかない」
「……分かった」
 渋々吹喜は頷いた。
「監視する」
「そうだな……。監視くらいならいいだろう。しかし手を出すな。夜近づかなければ大丈夫だろう。遥も、分かったな?」
「ああ。ま、僕は手も足も出なかった口だからね……。あまり大きなことは言わないよ」
「そうか」
 ふふ、と悠膳は笑った。
「けど意外だったよ」
「意外?」
「吹喜のことだよ。あの篠葉ってクラスメイト。吹喜はあいつの記憶を消さずに解放するんじゃないかと思っていたからね」
「なぜ?」
「吹喜のお気に入りみたいだったからね」
「必要があればやる。それだけ」
 吹喜は即答した。
 それを聞いて遥は肩をすくめた。


3

「ねえ、洋祐」
「んー」
「ちょっとあんた、わたしの話聞いてるの?」
「んー。ああ」
「今日の洋祐変だよ。……まあ、いつもの洋祐が変じゃないとは言わないけど。ていうかむしろ変態だけど」
「ああ」
「……本当に大丈夫?」
 二時間目の終わりの休み時間、理科室から教室へ戻る途中だった。洋祐は奈々の言葉が耳に入らず、生返事を返すばかりだった。
 それは昨日の腑に落ちない夜のこともあるのだが、大部分は朝からの吹喜のことだった。吹喜と初めて会ったのが三日前、洋祐と彼女は急速に仲良くなり二日目の夜にして家に遊びに行くまでになった……のだが、何と言うか、今朝から突然吹喜がよそよそしくなった。
 普通なら三日で見ず知らずの人間と仲良くなるなんてことの方が少ないのだろうし、今の吹喜のよそよそしさが本来なら正しいはずなのだ。しかし今までが今までだけに、そして昨晩のよくわからない違和感のせいで、洋祐は吹喜の態度に納得のいかないものを抱えていた。
 どのようによそよそしいかと言うと、
「洋祐」
 二人のところに吹喜がやって来た。
「お、おう」
「今週の土曜日」
「あ、ああ。クレープな」
「行けない」
「は?」
「都合が悪くなった。行けない」
「え……と、それじゃあ、いつなら行けるんだ? 日程、ずらすから」
「行かない」
「へ?」
「しばらくは、忙しい」
 こんな感じである。
 洋祐がそれ以上何か言う前に、吹喜は洋祐たちを置いてひとりで先に教室に戻ってしまった。
「何あれ、感じ悪い……。洋祐、吹喜ちゃんに何かしたの?」
「い、いや、俺は……」
「すっごく怪しいんですけど」
「…………」
 何かした、のだろうか。
「何で黙るのよ」
「あ……いや……」
「もうっ。今日のあんたおかしいわよ。おかしいっていうか、その、変……じゃなくて、馬鹿……えーと」
 しばらく考えて、結局探していた言葉が見つからなかったのか、
「あーもう! あんたいい加減にしなさい!」
「なんでキレてんだよ」
「ふざけるな!」
「い、いや、至極まっとうな突っ込みだと思うが……」
 なんだか今日は奈々も変だった。
 その日、洋祐はまったく授業に身が入らなかった。と言っても普段から真面目に授業を受けているわけではなかったが、先生に怒られない程度の注意力と要領の良さは持ち合わせているはずだった。
「あんた今日は本当にひどいわね……。今日もまた宿題忘れてきたでしょ。英語」
「ああ……そういえば今日はそうだったな」
「どうすんの?」
「どうしようかな……」
 そういえば、どうして俺は英語の宿題をやっていないのだろう。
 洋祐は昨日の夜のことを思い出そうとした。自分が一体何を考えていたのか。
「ほら、写すなら早くしなさいよ」
 何だかんだ言って奈々はノートを見せてくれるのだ。そのやさしさはとてもありがたいのだが。
「いや……。今日はサボる」
「はあ?」
「ちょっと保健室」
「え? あ、待ちなさい!」
 奈々の制止を無視して洋祐は教室から出ようとする。
 席を立つとき、隣に座っている吹喜の方をちらと見たが、彼女はこちらに何の関心もないようでカバーのかかった文庫本を黙々と読んでいた。
 吹喜は今朝からこの調子だった。
 話しかけても無反応……の方がまだ良かった。洋祐が話しかけると一応の反応はあるのだが、その反応はずいぶんとそっけない。
 まるで、洋祐に興味が無くなったかのようだ。
 洋祐は何か声を掛けようかと思ったが、吹喜の放つ冷たい雰囲気に圧され、諦めて何もせずに教室から出て行った。



 保健室は無人だった。
 仕方がないので一番端のベッドを無断で使わせてもらうことにした。保険の先生が来たら何と言おうか。気分が悪いので休ませてください? そんな嘘が通用するのだろうか。
 そういえば、と洋祐は思った。最近保険室の古坂先生を見ないな。あの田舎のおばあさんみたいな先生、雰囲気は優しそうでも規律にはかなり厳しかったような気がする。そう何度も世話になったわけではないので、その印象が間違いという可能性もあるのだが。
 騒がしかった廊下の喧騒も、授業開始のチャイムが鳴ると水を打ったように静かになった。耳を澄ましてみれば、微かに近くのクラスの授業の音が聞こえてくる。
「あー。一体どうしちゃったんだろうなあ……」
 吹喜も、自分も。
 なぜ吹喜が自分を避けているのかわからないし、そのことについてどうして自分がここまで動揺しているのかもわからないし、どうして自分は昨日のうちに英語の宿題をやっておかなかったのかわからないし、なにより立川先生の英語の授業がさっぱりわからない。
「いや、俺は何を考えてるんだ」
 そもそも吹喜は俺を避けているのか?
 実はあれが本当の吹喜で、今までが妙に近かったというか、異常だったというか。どちらにしろ自分と吹喜は二日間だけの付き合いで、今日はまだ三日目なのだ。何年も一緒にいる三木田奈々のことすらよく分からない自分が、どうして二日付き合っただけの右島吹喜のことを理解できるというのか。
 人を知るにはどれだけの時間が必要なのだろう。
 二日では足りないのだろうか。
 三日ではどうだ?
 七年では?
 よく考えてみれば、自分は周りにいる人たちのことを何も知らない。蜂須のことも奈々のことも。自分の姉のことでさえ、実はよく分かっていない。
 洋祐が見ているのは、彼らが洋祐に見せている姿でしかなくて――。
 それは友人に見せる姿であったり、弟に見せる姿であったり。
 まるで影を見ているかのよう。
 本当の彼らは自分の後ろにいて、その輪郭しか見せていない。
 洋祐が自分自身、本当の姿を誰にも見せていないことを考えれば、その結論には簡単にたどり着けた。
「何を考えてるんだ俺は……」
 ベッドの上で目を瞑っていたら、少し意識が弱くなっていたらしい。
 目を覚まそうと体を横に向けて――白衣を着た女性と目が合った。
 慌てて飛び上がりそうになって、その人が保険の先生であることに気がついた。
「……先生?」
「あ、気にしなくてもいいのよ。そのまま横になってて」
「えーと……。保険の先生、ですよね」
「他に何に見えるのかしら」
「化学の先生」
「なるほど」
 納得するのかよ。
 うんうんと頷きながら、安物の椅子に座って足を組んだ。赤いスカートの奥が一瞬見えそうになった。
「ええと、でも保険医って古坂先生でしたよね……」
「何言ってるの。古坂先生はもう辞められたじゃない」
「え?」 
 と自分で驚いておきながら、すぐに思い当たる節があった。
 そういえば、始業式の後にそんな話を校長先生から聞いたような気がする。いや、気がするレベルじゃなくて、確かに言われた。生徒の一人がステージで花束を渡して、古坂先生がそれを受け取って簡単な挨拶――内容は覚えていない。
 そうだ、その後にこの女性がステージに上がって、新任の保険医として紹介されたんだ。
 かなりの美人でスタイルがよく、しばらく保健室が仮病の生徒で賑わっていた記憶があるぞ。
 この先生の名前は――。
久島くじま 美智子みちこ……」
「あなた、いきなり女性を呼び捨てにするのは失礼よ。いわんや先生をや」
 そうだ、どうして忘れていたんだろう。
 えーと、なんで俺は疑いもなく現在の保険医は古坂先生だと思っていたのだろうか。今にしてみればあのときの心理状態が想像を絶する。古坂先生は辞めたっつーのに。
 しかしなんだか違和感がある……。
 またこの感覚。
 知らない土地に身一つで放り出されたような心細さ。
 昨日の夜と同じ。
 記憶に自信が持てない。
 まるで誰かに植え付けられた偽の記憶であるかのように。
 というよりは、自分の記憶が何らかの理由によって失われてしまった、というのが正しいのだろうか。
 ……理性では後者が正しい気がするのだが、なぜか感覚的には前者の方が正しいような気がしてしまう。
 洋祐はベッドから起き、改めて久島先生を正面から見た。
 おかっぱのような黒いショートヘア、赤い口紅、白い白衣、その下に着た黒いシャツと赤いスカート、黒いストッキング、大きな胸、長い足、耳に輝く派手なイヤリング、胸元には銀のペンダント。
 美人、と言うか、美女という表現の方がぴったりはまるような気がした。確かに美しいが、なんだか油断ならない人である。もっとも、洋祐は初対面の人間は大抵油断ならないのだが。
「なぁに、じっくり見つめちゃって。先生、恥ずかしいわ」
 年甲斐もなくそんなことを言った。久島先生は美女だが、それほど若そうには見えない。
「で、どうしたの? もう体の方はいいの? つらいなら寝ててもいいのよ?」
「え、あ……はい。大丈夫です」
「本当に? 無理しないでね」
「ええ、大丈夫です。ただの仮病なので」
「まあ」
 クスクスクス、と先生は嗤った。
 どことなく妖しい色気が漂う笑い方だった。
「あなた……名前は?」
「名乗るほどの者じゃありませんよ」
「そう、匿名希望くんね。コーヒーでも淹れてあげよっか?」
 返事を待たずにすでにコーヒーの準備を始めていた。
 インスタントのコーヒーの粉をマグカップに入れ、お湯を注いで洋祐に手渡す。
「砂糖ありますか?」
「ここは喫茶店じゃないのよ。アルコールならあるけど」
 先生も自分のコーヒーを準備する。熱がる素振りも見せずに一口飲んだ。洋祐は猫舌なのでコーヒーが冷めるまで待つつもりだった。
「匿名希望くんって好きな動物いる?」
「そうですね、シマウマとかは好きですよ」
「どうして?」
「美味しそうじゃないですか」
「美味しい? ライオンみたいなこと言うのね」
「昔からライオンに憬れてたんです」
「狩りをするのはメスのライオンよ」
「別にライオンになりたいとは思いませんよ」
「あらあら」
 マグカップのコーヒーを少し口に含んだ。やはりまだ熱い。熱くて味はよく分からない。
「先生は」
「ん?」
「動物は好きですか?」
「そうね。まあ好きな方かしら。とりあえず人間は大好きよ」
 まるで自分が人間でないかのような言い方だと思った。
「でもまあ、そうね……。一番好きなのは蜘蛛かしら」
「蜘蛛?」
「そう。スパイダー。八本脚の――」
「あ、いえ、知ってます。でもなんで蜘蛛が好きなんですか?」
「匿名希望くんは蜘蛛は嫌い?」
「あ、いえ。まあ、好きではないですね」
「そう、残念だわ」
 結局先生は蜘蛛が好きな理由を話さなかった。
「そういえば、この間転校生が来たわね」
 吹喜のことだ。
「ええ……来ました」
「どんな子」
「そうですね……」
 右島吹喜。
 彼女は、どんな人だろう。
 洋祐は言葉に詰まった。この問題に解答するためにはもう少し時間が必要だと思った。
「普通の……普通の人だと思います」
「普通、ねえ。あれが普通なのかしら」
「先生はもう会ったんですか? ええと、その転校生に」
「会ったわ。あまり可愛げのある子じゃなかったわね」
「いいんですか、教師がそんなこと言って」
「素直な感想よ。それに、まだまだ来るみたいだし……」
「え?」
「多分もう一人……多くて二人、転校生が来るはずよ。急な事情とか言っていきなり。場合によってはもう入っているのかも」
「先生?」
 それは気のせいなのだろうが――。
 一瞬、久島美智子が、得体の知れない何かに見えた。
「……なーんてね。冗談よ。ところで、仮病は直った?」
「…………」
 人間の声と口調で、先生は言った。



 三時間目が終わると、洋祐はコーヒーのお礼を言って保健室を後にした。正解どころか解の一つも出せていないのだが、それならばまだ授業でも受けていた方がマシだと思ったのだ。
 ぼうっと歩いていたのがいけなかったのだろう。
 教室に戻る途中、女子生徒と正面衝突してしまった。
「ふげっ」
 彼女は奇妙な鳴き声を上げて後ろに倒れた。
 小柄で眼鏡を掛けた気の弱そうな女の子で――何より目を引くのは、まるでカツラのような、美しすぎる金色の長い髪――。そういえば、どことなく顔立ちが日本人離れしている。そうだ。この子は海外からの留学生だ。にしても、美人だ。
 思わずしばらく見惚れていたら、
「す、すいませんっ。ご、ごめんなさい、あたしがちゃんと前を見てないから、えーと、ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさ――」
 ものすごい勢いで頭を下げ始めた。
「えー、あ、いや、別に大したことないから……ていうかぶつかったの俺の不注意だから……」
 対応に困っていると、女の子は涙を溜めた大きな瞳をこちらに向けて、
「ありがとうございます……。先輩、優しいんですね……」
「あはは……」
「ここの人、みんな優しいです。あたし、ちょっと感動です」
「それは良かった」
「あーあ……あたしもこういう学校に通いたかったな……」
「…………いや、いま通ってるじゃん」
「……はえっ? あ、いや、今のは口が滑ったというか、言葉のあやというか……。ほら、あたし! 日本語不器用デスカラ! だって南蛮人だし!」
「日本語不器用なヤツが南蛮人なんて言葉知ってるか?」
 一瞬しまった、という表情になり、慌ててそれを隠そうとして、隠そうとすることが逆に怪しまれることに気付いて、慌てて隠そうとしたことを誤魔化そうとして、どんどん深みにはまって怪しくなる女の子。
「えーと……」
 さあ、どうする!
「ご、ごめんなさいっ!」
 一礼して一目散に走って行った。
 逃げたのだ。
「何だったんだ……」
 一瞬吹喜のこととかが頭の中から抜け落ちてしまったじゃないか。
 呆然としながらも、洋祐は気を取り直して教室に行こうとした。
 教室に向かった足が止まった。
 背筋に冷たいものが走る。
 また気付いてしまった。
 またアレが起きた
 これで三度目だ。
「うちの学校に……留学生なんていたっけ?」



4

 吹喜は英語の授業を受けている振りをしていた。黒板の文字を必死にノートに書き写す振りをしながら、実際には英語とは何の関係もないことを考えている。
 今朝体育館を見に行ったのだが、昨夜びっしりと天井に張られていた蜘蛛の糸が一本残らず片付けられていた。吹喜たちの仕事ではない。他の可能性としては、あの蜘蛛自らが自分の巣を人目につかないよう片付けたのだ。それは何故?
 吹喜は自分の考えが上手くまとまらないことに苛立ちを覚えた。
 自分は何を焦っているのか。
 あの蜘蛛に負けたことに動揺しているのか?
 ふと、洋祐のことを考えた。
 隣の席は空席。奈々によれば気分が悪くなって保健室へ行ったとか。
 彼の記憶は永春神社の神官たちによって完璧に修正されているはずで、彼があの蜘蛛のことを思い出すことは絶対にないだろう。
 それがいい、と吹喜は思う。
 いくら自分が彼と親しくしたところで、彼と自分が同じ領域の上に立つことはない。二人の間には消して超えることのできない境界線があるのだ。
 私と彼の世界は決定的に違うのだ。
 私ははこうして彼の世界に触れることができるが、
 彼が私の世界に触れることは、彼の死を意味する。
「何を考えている」
 だからどうした。そんなことを考えて何になる。今考えるべきことはそれではないし、もしかしたら、今は何も考えるべきではないのかもしれない。
 蜘蛛を殺す。
 それ以外に何をする必要がある?
 理由は単純。遥と悠膳と私は、魔を狩るのが役目なのだ。
 シンプルになれ。
 構造がシャープなほど強くなれる。
 機械のように。
 単純思考。
 勝つだとか、負けるだとか。
 そんなことは関係ないし、意味がない。
「――――っ!」
 人間が外界を知るためのセンサーは五種類に限られていて、それは言うまでもなく視聴嗅味触の五種類であり、理屈の上ではそれ以外のものを感じることはできないはずである。しかし人間には虫の知らせや勘といった、第六感とも言うべきものが備わっていると主張する説もある。吹喜たち魔術師は魔術によって自分の感覚の精度を増したり、あるいは感覚の『チャンネル』を増やしたりすることができるのだが、吹喜は常に怪異の存在を感じ取るような人工的な第六感を自分の体の中で働かせている。
 そのセンサーが今、怪異の存在を感じ取っていた。
 こんな昼間から……?
 ただの振りだったノートの書き取りが止まる。
 この学校の中だ。いきなり現れたようだが、おそらく前からこの学校の中に気配を絶って隠れていたのだ。
 吹喜は教室を飛び出した。
 英語教師が制止するのも無視。
 教室を出たところでチャイムが鳴った。英語教師は吹喜を止めるのを諦めたらしい。それでいい。もし邪魔をするようなら、一般人と言えど容赦はしない。
 気がつけば全力で走っていた。
 遥を探そうかと一瞬考えたが、そんな時間が惜しかった。
 何を焦っている?
 焦っているわけではない。これが最善手。
 階段を駆け上がる。目指しているのは屋上だ。この学校の一番高い場所に何かがいる。
 鍵の掛かった屋上のドアを蹴破った。
 そのまま転がるように屋上に躍り出る。巨大な蜘蛛の姿を見つけるのとナイフを投擲するのとがほとんど同時だった。
 投擲した二本の短剣は蜘蛛の体に届く前に、腹部から吐き出した細く白い糸のようなものに絡め取られた。
「あら、あなたもわたしに用なのね?」
 蜘蛛の言い方に腑に落ちないものを感じる吹喜。
 全身に魔術を走らせる。両手に新たなナイフを構えて少しずつ近づく。
「あら、近づいてくるの?」
「投げるだけが――」
 言い終わる前に蜘蛛の突進。
 両足に何かが流れる感覚。足に刻んだシステムが、吹喜の注ぎ込んだ燃料によって爆発的に始動する。
 蜘蛛の突進を、吹喜は五メートル近い垂直飛びによって回避した。
 空中で上半身を捻り、自分の真下にいる蜘蛛にナイフを叩き込もうとしたが、突進を回避された蜘蛛はその場に止まらずにそのまま屋上から外に飛び出していた。
 しかし地面に落下したわけではない。
 校舎の壁を、巨大な蜘蛛が走っていた。
 八本の脚の爪を壁に突き立てて、その巨体に似合わぬスピードで。
 蜘蛛の下には何もない。そのまま地面まで一直線である。
 よって、あるいは空を飛んだりしない限り、吹喜は壁を走っている蜘蛛には手が出せない――はずだった。
「逃がさない」
 吹喜は助走をつけて――壁を走る蜘蛛目掛けて飛び降りた。
「は――?」
 そのまま蜘蛛にぶつかり、両手のナイフを蜘蛛の腹に突き立てた。
「う――――ィキキキィィイイイアアアアア!」
 金属のような泣き声を上げて、蜘蛛は魔性殺しの痛みにのたうち回った。それでも吹喜は両手をナイフから離さない。さらに刃を蜘蛛の体に押し込んで、両足もつかってしがみついていた。
「くそ、離せ!」
 上下左右に大きく振られる。
 まるで暴れ馬のようだ。
 そして、浮遊感。
 重力が消失した。
 蜘蛛が壁から手を離したのだ。
 吹喜のしがみついている背中を下に向けて自由落下。
 吹喜は両足で背中を蹴った。その反動で自分は蜘蛛から離れる。
 蜘蛛と吹喜の着地は同時だった。
 くるりと体を反転させて脚から着地した蜘蛛と、全身のバネと魔術の強化によって無傷で着地した吹喜が再び向かい合った。
 蜘蛛の背中から流れた体液が地面に青い水溜りを作っていた。
「惜しかった。もう少しで致命だった」
「お前……正気か?」
 吹喜は答えずに、一歩分蜘蛛に近づいた。
「なるほど、これもまた人間なのね……。不安定で、軸がない。どうにでもなるし――なんにでもなる。そこがわたしたち怪異との差なのかしら……」
 今度は十メートルほどの距離を一足で飛んだ。
 蜘蛛の懐に飛び込もうとした吹喜を、蜘蛛は脚で払って迎撃する。
 横に薙いだ脚を地面に伏せてかわした。
 それを目掛けて別の脚が振り下ろされた。
 横に転がる。
 はねるように起き上がって走る。
 脚の内側は安全地帯。
 無防備な本体に向けて一撃――。
「――――ィィィイイイイ!」
 腹を切り裂いたところで脚に蹴り飛ばされた。
 かろうじて腕での防御には成功したが、体が軽々と吹っ飛ばされる。
 先ほどの一撃はまだ浅かった。蜘蛛への致命傷にはなっていないのだ。
 背中を強く打つ。
 たった一回、攻撃を防御しただけで、両腕がしびれて動かなかった。
 倒れた吹喜を、蜘蛛の脚が踏み潰そうとした。
 手加減だとか余裕だとか、そんなのとは無関係な、ただ吹喜を殺すためだけの攻撃。
 吹喜の目には、今にも自分を踏み潰そうとしている足と、その背後には雲ひとつない青空。
 体は動かなかった。
 吹喜はただ目の前のものを見ていた。
「あ…………」
 蜘蛛の脚が切られた――。
 きらりと走る銀色の長剣。
 綺麗に切断された脚からは滝のように体液が流れてきて、切断された部分と共に吹喜の体の上に落ちてきた。
 体液が目に入らないように目を瞑った。
「え、あ……だ、大丈夫ですかぁ〜?」
 蜘蛛の脚を切った人物がずいぶんと間の抜けた、しかも気の弱そうな声で言った。
 腕で顔を拭った。制服が体液でぐっしょりと濡れて気持ちが悪かった。
「あ……大丈夫そうですねぇ」
 蜘蛛の姿はもうそこにはなかった。脚を切られて退散したらしい。
 代わりに、そこには女性がいた。しかも吹喜と同じく制服を着ている。
 美しい長い金色の髪、というだけでも目立つが、真っ先に吹喜の目を引いたのは両手で握っている銀色の剣だった。
 あの剣で蜘蛛の脚を……。
 彼女は剣を握っていた両手を離した。剣は下に落ちる――が、地面に接触する前に、光る粉のようなものになって消えてしまった。
「……誰?」
 顔に見覚えはない。
 しかもさっきの剣――あれは魔術によって作り出されたものだ。
 魔術師……だろうか。
「えーと、会うのは初めてですよねえ。でも、誰ってことはないんじゃないですかあ? 多分もうあなたにはあたしが誰かなんて見当がついてると思うんですけど」
「……?」
「あたしの名前はメルベル……十六文書管理協会から派遣されたエージェントです」
 十六文書管理協会。
 聞いたことがあるような気もする。
 確か悠膳が言っていた、十六文書を保管し封印するための機関。
「派遣? いつ?」
「少し前から……。あなたたちとは違って正規のルートで入ったわけじゃないですけど」
「魔術で、生徒の記憶を?」
「ち、違いますよぅ……。あたしのことを見ても違和感を覚えないようなおまじないみたいなもので……。さすがに魔術師のあなたには通用していないみたいですけど」
「あなたの目的は?」
「調査、です。さっきの蜘蛛さんは、あたしが廊下を歩いていたらいきなり襲いかかって来て……怖くて逃げちゃいましたけど」
 女魔術師メルベルの手を借りて吹喜は立ち上がった。体のあちこちが痛かった。少し無茶をやりすぎたらしい。
 悠膳の命令も破り、しかも単独行動……。
 二人には何と言い訳しようか。
 まあ、それよりも今は。
「メルベル」
「はい?」
「ありがとう」
「え……っ?」
「助けてくれた」
「あ、はい。え、いや……そんな。や、やめてくださいよう……そんな大したことじゃ……」
 メルベルは顔を真っ赤にして謙遜した。



 錬金術師――?
「ち、違いますよ! 錬金術師なんかじゃないです〜」
「でも、錬金術を使う」
「まあそうですけど……」
「だったら錬金術師」
「んー、そうかもしれないですけど……でもお給料は協会からいただいてますし……」
「そんなことはどうでもいい」
「え、は、はいっ。しつれいしま――」
 メルベルは悠膳に下げようとした頭を机の角に思いっきりぶつけた。
 うにゅ、と妙な声を出して真っ赤になったおでこを涙目で押さえる。吹喜はそれを無表情で見ていた。悠膳は胡散臭そうに見ていた。遥はメルベルの何かが琴線に触れたらしい。
 学校が終わった後、吹喜はメルベルを永春神社に招いた。これは別に彼女と友好を築くためではなく、十六文書管理協会の大使としてこの土地の管理者に面会をしたいという、メルベルのたっての願いだった。
「で――十六文書管理協会の使いとやら。一体誰の許可を得て永春市にやって来たのかな」
 悠膳が怒っていることに吹喜は気付いた。というか、悠膳は自分の不機嫌を隠そうともしていない。
 悠膳が睨みつけると、メルベルは怯えたように縮こまってしまった。
「ま、まあ親父……とりあえず話を聞こうじゃないか」
「……ふん」
「え、あの……すいません。で、でもあたし、部長に行けって言われて、あの、あたしだってまずいとは思ったんですけど、そんなの関係ないって……」
「関係ない、だと?」
「ひやっ。あ、う……誰の許可もいらない、勝手にやる、って……それが協会の方針だから、って……」
「まったく、噂通りだな。協調性ゼロでやりたい放題、邪魔するやつは力で押さえつける――なんて下品な組織だ」
「あうっ。す、すみませんっ」
「……けっ」
 悠膳は完璧にやさぐれていた。
「まあまあ……。で、その協会のエージェントさんが、どうしてわざわざ僕たちに接触してきたのかな」
「はい。えーと、聞くところによるとあなたたちも十六文書を探してるとかで」
「あんな迷惑なものを黙って見過ごせるかっ」
「ひ……。えーと、でしたら、その、あたしの目的も十六文書ですし、ここはひとつ、お互いに有益な情報交換でもするのがいいかなー、なんちって、思ったわけですけど……」
「断る」
「はうっ」
「親父ぃ……」
 遥が呆れたように言った。
「第一にお前たちと組むメリットがない。こちらが情報を提供した見返りに、お前たちは一体何をくれるんだ? この土地に長くないお前たちが、俺たちの知らないことを知っているとは思えんのだが。第二に、お前たちが仮に何か情報を掴んでいたとして、そちらの渡す情報が真実だとは到底思えないんだがな。なにせ邪魔者は真っ向から切って捨てる天下の管理協会様だ。そんな管理協会様がどうして俺たちに協力してくれると思える? そして第三に――」
 すう、と悠膳は息を吸った。
「お前たちが気に食わん!」
 はうっ、とメルベルは怖がって、吹喜の背中に隠れてしまった。吹喜は未だ無表情を貫いている。
「で、でもっ、目的は同じで、悠膳さんは十六文書がこの土地から消えて欲しい、あたしは十六文書を確保して本部に持ち帰りたい、ってことは、やっぱりここは協力してつかまえる、ってのが一番スマートなんじゃないか、って、思いますけど、あの……」
 吹喜の背中で怯えながらもメルベルは譲る気配がない。
「第一の理由は、あたしたちが十六文書を封印する技術を持っていることです。普通の技術ではあれを永続的に封印ないし管理することは難しいと思うんです……。だからもし悠膳さんたちが十六文書をつかまえた後は、やっぱりあたしたちに引き渡すしかないと思うんですよね。第二の理由は、協会は十六文書さえ封印できればそれでいいのですから、あたしたちとしてはむしろ悠膳さんたちにがんばって欲しいくらいですよ。ちゃんと後で十六文書さえ引き渡してくれるなら、ですけど……。手間も時間もかけずに十六文書を捕獲できれば言うことなしですから。最後の理由は……そのぅ……あたし、何かいけないことしましたかぁ……?」
「…………」
 悠膳は険しそうな表情で腕を組んで黙っている。恐らくメルベルが言ったようなことは悠膳はもうとっくに承知しているのだ。それでも彼には譲れないものがあるらしい。悠膳がどうしてそこまで協会を毛嫌いしているのか、吹喜は知らない。
「なあ、いいじゃないか」
 やはり悠膳をなだめるのは遥だった。
「聞いてる限りじゃ別に悪い話じゃないだろう? 確かに勝手に学校に入ってきて化け物退治、ってのはあまりいい気分のするもんじゃないけれど。でもとりあえず十六文書をなんとかしたいというのは同じなのだし、その点においては向こうも裏切りようがないわけだし……信用してもいいんじゃないかな」
「遥……裏切り者め」
「人聞き悪いな」
 苦笑したように言った。
「大人になりなよ。あ、いや、子供の僕が言うのも変だけど。親父の好き嫌いは分かるけど、ここはどう考えても協力するのが得策だよ。正直、十六文書は僕らの手には余ると思うんだ」
「臆病風に吹かれたか?」
「悠膳――」
「吹喜まで! この家に俺の味方はいないのか!」
 絶望したように悠膳が叫んだ。
 全員が悠膳から目を反らした。
「……もういい。好きにしろ」
 投げやりに言ってふいと後ろを向いてしまった。
「あ、あの、それじゃいくつかお話を伺いたいんですけど、いいですかっ?」
「ん? あ、ああ……僕が答えるのか」
「あと、それから迷惑ついでに、夜の永春市を案内してくれませんか? えーと、あたし、この辺りの地理がまだぜんぜん分からないので……」
「道案内ってことだね。いいよ。引き受けよう」
「八方美人めが」
「何か言ったか、親父」
「…………」
「…………」
 にらみ合う二人。
 珍しく、遥は譲る気がないらしい。
「……勝手にしろ」
「それは許可を貰えた、って解釈していいんだね?」
「許可なんぞ貰わんでも勝手にやるくせに」
 明らかに今日の吹喜のことを言っていた。
 悠膳の嫌味が胸に突き刺さる。
「で、ではっ! 今から外に行きましょう! こんなときは家の中に篭っちゃだめなんです! えーと、情報交換は旅すがらおいおいということで……」
 メルベルが元気よく言う。場の空気を無理やり明るくしようとしているらしいが、空回りだった。
 メルベルに促されて吹喜と遥が立ち上がる。
「あ、あのっ。お二人は先に外に行っててください。あたし、あの、部長から悠膳さんに伝言とか連絡とか調整とか、色々お話があるので」
「遥」
「何だよ親父」
「お前が代わりに聞いてやれ」
「はぁ〜。有檻悠膳、大人になりなよ」
 遥は溜め息をついて部屋から出てた。



 吹喜たちが外に出てから十分ほど待たされた。
「す、すみませんっ。長引いてしまって……」
 メルベルがぺこぺこと頭を下げながらこちらに走ってくる。途中でなぜか何もないところで躓いて顔面を石畳にぶつけた。鼻血を流してもメルベルは元気だった。
「大丈夫?」
「ふぁい……ずみまぜん……」
 吹喜の差し出したハンカチで鼻を押さえた。
 遥が「ドジっ子だ」と呟いたのが聴こえたが、深く追求するようなことはしなかった。
「はい、えーとそれじゃ、行きましょう」
 三人は並んで石の階段を下り始めた。
 道中、メルベルにこれまでの経緯をかいつまんで説明した。怪異の数がここ最近異常に増えたこと。その怪異の異常発生の中心地が永春高校であること。昨日の夜、学校で蜘蛛の化け物と戦ったこと。
「――なるほど」
 メルベルの目は日本の街を珍しそうに追いかけていたが、遥の話の曖昧なところや誤魔化そうとしているところには遠慮なく鋭い指摘を入れていた。伊達にも協会のエージェント、ただの魔術師ではないということだ。
 結局、彼女には洗いざらい話す羽目になってしまった。これは隣で黙って胃歩いていた吹喜がメルベルに対してそれほど敵意や不信感を持っていなかったことにも関係する。
「んー、まだ断定はできないんですけど」
「聞きたい」
「そうですねえ……。十六文書は本当にこの街にあるんですかね」
「ない、と思う?」
「いや、まあ、まだ何も分かってないので、あまり断定はしたくないんですけど。あたし、協会で働いて結構長いですけど、十六文書って世界に十六冊しかないですからねぇ……。やっぱり、十六文書があるって話は、ほとんどがデマだったりするんですよね」
「今回のもそうだ、って言いたいのかい?」
「んー、あたしはその蜘蛛ってのが怪しいと思いますけど……。力のある怪異は低級の怪異を引きつけますからね。まあそれはこれから調べますけど」
「何か、協力が必要?」
「いえ、あたし一人で大丈夫です」
 吹喜の問いにメルベルは断言した。
「とりあえず、お二人には学校以外の怪異を駆除していてください。しばらくはあたしがあの学校で調査をするので……。何か分かり次第お伝えします」
 はきはきと言うメルベルには、自信と、その根拠となる実力が確かに備わっているように、吹喜には思えた。
 吹喜が調査のために学校に通い始めて三日目。
 調査は、すでに終盤へと向かっていた。



5

 金曜日になった。
 一晩過ぎても、洋祐と吹喜の関係は何も変わらなかった。
 避けられているわけではなくて、相手にされていないような……。
「そう? そんなに変かしら?」
「奈々よ……お前には右島吹喜に漂う人を寄せ付けないオーラが見えないのか?」
「そんなもん見えないわよ。というか、吹喜ちゃんが人を寄せ付けないのは最初からだと思ってたけど。えーと、別に悪い意味じゃなくて、えーと、もの静かというか、えーと、クールというか」
「いや、そんなしどろもどろになって弁解しなくても……」
「とにかくっ! 二、三日一緒にいただけなのに、吹喜ちゃんの全てを知ってる、みたいなことを言うのは――」
「言うのは?」
「痛い」
「はうっ」
 奈々の言葉は的確に洋祐の急所をえぐる。
 洋祐は大ダメージを受けた。
 以前から自覚していたことだったが、改めて他人に指摘されるとかなりショックだった。
「ただ単に洋祐の気にしすぎだと思うよ?」
「そうかなあ……」
「じゃあ逆に聞くけど、洋祐には何か思い当たる節でもあるの? 吹喜ちゃんに嫌われるようなことでもした?」
「……してない」
「じゃあビクビクすることないじゃない」
 なるほど、慰めてくれているつもりだったらしい。
 昼休み、洋祐は勇気を出して吹喜に声を掛けてみた。
 吹喜は昼食のサンドイッチをもそもそと食べていた。ちなみに洋祐の昼食は弁当である。
「よ、よう」
 無言で見つめ返される。
「え、えーと」
「なに?」
「あー、その、だなあ。一緒に、お昼でも、と……」
「食べてる」
「へ?」
「今、一緒に食べてる」
「お、おお……。そうなのか?」
「私とあなたとの距離は近い。そして、私たちは同時に食事を摂取している。これは一緒に食べている、と表現するのが妥当」
「あー、いやまあそれを言われると確かにそうなんだが」
「……何?」
「いえ、何でもありません」
 今の吹喜はやっぱり近寄りがたかった。
 仕方がないので弁当を広げて『一緒に』食べる。
 ウィンナーを口に運んでいると、吹喜がじっとこちらを見ていることに洋祐は気がついた。
「な、何か……?」
「体調」
「は?」
「体調は、どう?」
「……えーと……健康ですが、今のところ」
「そう」
 用は済んだとばかりに残りのサンドイッチを食べることに専念する吹喜。
 わけがわからん。
 結局その日も何も解決しないまますべての授業が終わってしまった。
「な、なあ吹喜……よかったら今日一緒に帰――」
「やあ吹喜! さ、一緒に帰ろう。浦場君、吹喜に何か用かな。彼女は僕との先約があるんだが」
 洋祐の言葉を遮ったのは有檻遥だった。吹喜の手を取って勝ち誇った顔をしている。今の洋祐は、彼に怒る気力すらなかった。
 吹喜は一言も喋ることなく、遥に連れられて教室を出て行ってしまった。
 仕方がないので奈々と帰ることにする。
「仕方がないってどういうことよ!」
「口に出していたか……」
「明日の約束、忘れないでよね」
「学校の校門前な」
「……んー、それなんだけど、やっぱり場所変えない? どうせ吹喜ちゃんは来れないんだし、わざわざ学校で待ち合わせる必要なんてないじゃない」
「つまり?」
「あんたの家に行くわ。あんたが寝てたらわたしが起こしてあげる。感謝しなさい!」
「いや、別にそこまでしてくれな――」
「…………」
「ありがとう。奈々は優しいなあ。君は本当に俺の女神だよ」
「え……」
「じゃ、そういうことで。俺は今日はもう帰る」
「あ、ちょっと待ちなさいよ!」



 明日は奈々と二人きりで出かけるというのに、洋祐の心の領域のほとんどがそれ以外のことで占められていた。
 自分の記憶と吹喜の違和感についてじっくりと考える必要がある。時間はたっぷりあるのだ。
 姉が遊んでくれと駄々を捏ねるのを無視して、洋祐はベッドの上で仰向けに寝ながら二日前の夜のことを思い出していた。
 人の思考、記憶は決して断片的なものではなく、連続している。
 水曜の夜の記憶すべてがないわけではない。覚えている時点から、自分が何を考え、何を連想し、どう行動したかを順に追っていこう。
 水曜日の学校終わり。確か蜂須と奈々と吹喜と一緒に帰ったんだ。これは確かか? ――蜂須と雑学対決をする。テーマは動物。それが終わるのを待つ奈々と吹喜。OK、ここまでは確かに起きたことだ。
 それから四人で帰った。奈々と土曜日の約束。そういえば明日だな……。吹喜が行けないから奈々と二人きりか。なんだか嫌な予感がする。まあ今はそんなことはどうでもいい……。あのときの奈々は少し様子が変だった。
 奈々と蜂須は途中で別れた。そこからは吹喜と二人だった。そのときに奈々が変だってことを話したんだった。奈々の人格……精神分析……そこであの嫌味な男が現れた。有檻遥。女みたいな名前のやつ。
 で、遥に喧嘩を売られた後……吹喜と別れて……えーと。
 どの段階で吹喜の家に行く約束を取り付けたんだ?
 話の流れとして……吹喜がそんなことを言い出す理由はない。俺自身もそんなことを言い出すとは思えない。……あれはどちらから言い出した約束なんだ?
 洋祐はひたすら考える。外界のすべてが思考の邪魔だった。目を閉じる。それでも音はうるさい。どうして耳を閉じることが出来ないのか、と洋祐はいつも思う。
 まあいい。約束のことはいい。奈々がいたらきっと必ず一緒に来たがるだろうし、あの嫌味な有檻遥がそんな話題をスルーするはずがないから……吹喜と約束を出来るのは二人で歩いていたあの短時間の間だけだ。
 さて。それから俺は家に帰った。部屋で漫画を読んで、夕飯を食べる。その後はテレビを見て、姉が部屋に来て、ゲームで遊んであげて……。
 ……吹喜の家に行って?
 ……お茶を出されて?
 ……雑談して?
 家に帰った?
「そこなんだよなあ」
 例えば吹喜の家に行くことになって自分は何を考えたのか。吹喜の家が神社だと知った自分はどんなリアクションを返したのか。彼女の家で、誰がお茶を淹れたのか。吹喜とどんな話をしたのか。
 そういう細かなポイントを、思い出そうとすれば思い出せる。が、違和感がどうしても消えない。なんだか出来すぎてる――まるで辻褄合わせのような、当たり障りのなさを感じてしまうのは何故だろう。
「洋祐〜。遊んでよ〜。お姉ちゃんは退屈でーす」
「うっさい。あんたは黙ってろ」
 では自分が水曜の夜に何をしたのか、推理によって考えてみよう。記憶を頼りにするのではなく。もし何事も起きなければ自分はあの夜に何をしていただろう。
 まず、ええと、夕飯を食べて。
 その後はテレビを適当に観つつ。
 風呂に入って。
 宿題して。
 寝る。
「…………」
 そういえばどうして自分は英語の予習をやらなかったのだろう。水曜の夜、は確か、次の日がちゃんと木曜であって英語の授業がある、ということを分かってたはずなんだが……。
「……? お姉さま」
「何かな弟よ」
「昨日の夜はずっと遊んでやってたよな?」
「おう。遊んでもらったぜ。というかなに、ヨウって記憶喪失にでもなったの?」
「当たらずとも遠からず……。昨日はたしか十一時になる前には解散したはずだよな」
「正確には十時二十五分だったけどね。あの後母さんとテレビ観たから覚えてるにょー」
「にょーって……」
「ヨウくん遊んでー」
「ひとりで遊んでろ」
「ヨウくんが私に冷たいって母さんに訴えてやる」
「子供かアンタは」
 木曜の朝のことを回想した。
 洋祐は必要に迫られない限り教科書やノートの類は学校に置いていく。木曜の朝に確認したときには、確か英語の教科書やノートも机の中に入っていたはずだ。だから時間割もろくに確認していないのに忘れ物をしなくて済んでいるのだが。
「でも学校にノート置いてったら予習なんかできないよなあ」
 もしそうなったら、自分ならどうするだろう。
 すっぱり諦めるか。
 あるいは、夜の学校に忍び込んで教科書とノートを……。
 夜の学校。
 その言葉に引っ掛かるものがあった。
 自分はそう遠くない過去に夜の校舎を体験したような、そんな気がした。
 冷たい風、静かな廊下。
 ……夜なのに照明のついた体育館。
 ドアを開ける。
 中を覗きこむ。
「………………」
 だめだ。
 ここから先は何も出てこない。
 というか自分は何を真剣に考えているのだろう。もしかしたら逃避、のつもりなのかもしれない。明日は奈々と二人でお出かけだ。実質デートですね。どうしたものか……。
 洋祐は深い深い溜め息を吐いた。
 自分は今、何か決定的なものを見逃そうとしている――そんな焦燥感を覚えながら。
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