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 ある日突然、その男は現れた。
 どうやら普通の人間ではないらしいということは、目に見えない鎖で即座に旅説の体を束縛してしまったことからも分かる。最初から抵抗する気などなかったが、それでも大人しく捕まってやるつもりなどなかった。
 男の隣で蜘蛛が笑っている。最初から男の味方だったのか、それとも途中で男と取引をしたのか、それは分からない。どちらでも同じだ。
 旅説は男と話をする。何を求めるか、と。期待はしていなかったが返事が返ってきた。
 ――命。
 その答えを聞いて旅説は吹き出しそうになった。そしてすぐに、笑いを堪える自分が奇妙に思えた。どうして魔導書でしかないはずの自分が可笑しいと感じるのだろうか。
 不思議だ。
 まるで生きているみたいだ。
 それほどまでに、旅説は男の目的が可笑しくてたまらなかったのだ。何という無意味。子供が小石をまるで宝物のように集めているのを見たような、そんな感覚だろうか。子供ならいいが、これほどの手際で十六文書を拘束できる魔術師が、そんな幼稚な目的で動いているとは思わなかったのだ。
 生など、死と同じ価値しかないというのに。
 ぼろぼろと旅説の殻が破られる。人間の姿が消え、中に現れるのは真の姿。古びて黄ばんだ、埃の被ったただの本。
 そうして旅説の意識と呼べるものは消滅し、記憶は分断された。
 その男は自らを有檻悠膳と名乗った。


さよならベルティエール

第五話


1

 吹喜が感じたのは耐え難い苦痛だった。
 本来なら逆らうことの出来ない摂理を強引に捻じ曲げる、その軋みが全身に押し寄せている。暴力的、ではなかった。その破壊に意思はない。それゆえにこれまで容赦のない冷酷な苦痛は味わったことがない。
 悲鳴には苦痛を和らげる効果がある。涙を流したり手足を振り回して暴れるのもそうだ。しかし今回はそれすらもできない。何故なら吹喜はすでに死んでいるから。
 死の淵。
 自分を奥底まで引きずる自然の摂理に逆らって、力任せに上に引き上げられる。淵から伸びた手が体に絡みついて引きずり下ろそうとするが、上に引き上げられるせいでその手が吹喜の体中を引っかいてしまう。
 行くも地獄、戻るも地獄。どうしてこうも痛いのだろう。どうしてその手は私を放さない、どうして私を上に引き上げようとするのだ。どちらかが諦めてくれればこうも痛い思いをしなくて済むというのに。
「大丈夫か吹喜!」
 耳が最初に聞いた声は知らない男の声だった。その時点での吹喜は自分の名前が『吹喜』であることにも思い至らなかった。
 彼女はここで死に、ここで生まれるのだから。
 モノクロの視界に色が戻ったころ、吹喜は激しく咳き込んだ。呼吸が再開される。息苦しさに大きく息を吸い込もうとするが、気道の中にまだ血液が残っていて上手く吸い込めない。
 危うく溺れかけたところで何とか落ち着きを取り戻し、本来の呼吸を再開することができた。口の中には血の味が広がっている。
「吹喜……」
 洋祐が横になっている吹喜を心配そうに覗き込んだ。
 悠膳に破壊された胸部の肉体はすでにほとんど修復が終わっていた。吹喜の体いっぱいに、まるで象形文字のような鳥の形が緑色に光っていた。その鳥を囲うようにしてアルファベットにも似た文字がいくつも幾何学的に並んでいる。
 吹喜の故郷で刻まれた厄除けのお守り。子供を厄から守るもの。しかしこれはお守りなどという気休めではなく、破壊された肉体を修復し死者を死の淵から強引に引き上げる非常に高度な魔術なのだ。その効果の大きさゆえに子供にしか効果がないなどという制限があるのだろう。こういった魔術を日常的に行なっていたことを考えると、自分の故郷の村というのは非常に魔術の発達した独特の文化を持っていたのかもしれない、と吹喜は思った。
 子供にしか効果がない――。
 今回は悠膳の外法に助けられたらしい。肉体が子供に戻っていたからこそ、吹喜は死の淵から帰還することができたのだ。
 倒れた体を起こそうとして全身に痛みが走った。まだ立つのは難しそうだ。
「洋祐、無事?」
「あ、ああ。俺は大丈夫だ、つーかお前の方こそ大丈夫じゃなさそうなんだが……?」
「そう。それならいい」
 溜め息。
 とりあえずこれで一休みできる。しかし考えなければならないことは山のようにあるし、しなければならないことも、きっとまだまだたくさんあるだろう。
 これから自分はどうすべきなんだろう。
「悠膳は? 姿が見えないけれど」
「いやわからん。多分学校にはいないと思う。俺も見てないし」
「……神社かな。あそこには遥がいるから」
 悠膳は遥も殺すつもりなのだろうか。
 あの遥が易々と殺されるとも思えないが、かと言って悠膳に勝つのはまず不可能だろう。しかし遥を助けに行こうにも今は立つことすらままならない。遥のことは不安だがしばらくはここで休んでいるしかなさそうだ。
「吹喜、すまん。俺がついてきたばかりに、足手まといになっちまった」
「……なに?」
「俺のせいで吹喜がこんなことになって……。ごめん」
 洋祐は頭を下げた。
 吹喜はそれを見て鼻白む。
「洋祐がいなくてもこうなっていた。多分、場所と時間が少し変わるだけ。気にしなくていい」
「俺は吹喜になにもできなかった。吹喜を守れなかった。すまん」
「私を守れる人なんていない。あなたはあなたが守れる人を守ればいい」
 言いながら、壁に手をついて無理やり立ち上がる。間接が痛い。しかし立たなければずっとここで横になっていそうで、怠惰な自分が嫌だった。
「まだ動くなよ。お前、さっきまですごい怪我だったんだから。なんか勝手に治ってったけど……」
「私が死んでからどれくらい時間が経った?」
「三十分は経ってないと思うけど、え、死んだ……?」
 吹喜の言い方にひっかかりを覚えたようだが、今は説明するのが面倒だ。喋るだけで肺がひりひりする。
 三十分、ということは、悠膳の向かった先が神社なら今ごろすでに遥と接触しているだろう。遥は無事だろうか。変な気を起こして命を懸けて戦ったりしなければいいのだが。
「いや、だから動くなって」
「それでも私は行く」
「無理すると本当に死ぬぞ」
「匿名希望くんの言う通り。下手に動くと傷が開くわよ」
 声の主を見て吹喜は途端に警戒する。白衣を着た女性。あの蜘蛛が人間の姿に化けたものだ。
 しかし当の蜘蛛は無邪気に手をひらひら振って、
「そうピリピリしないでちょうだい。もうあたしは無関係なんだから」
 やる気のない声で言った。本当に無関係なのだろうし、今の状態の吹喜ならばいくらでも対応できるという計算も働いているのだろう。彼女はまったく警戒をする様子がない。
「あなたは悠膳とどんな取引を?」
「簡単よ。あたしに手を出さない。それも永久にね。悪くない取引だったわ。これでも前の学校では演劇部の顧問をしていたのよ」
「前、って……。ここに来る前にも学校に?」
「そうよ。学校が一番入りやすいわ。外から隔絶してるから異変に気付かれにくい」
「悠膳が認めても私が殺す」
「それは怖いわね。でもそれも、あの男を倒してからね」
 まるで他人事のように言って踵を返す。
「久島先生?」
 洋祐が不安そうに呼びかけた。
「ごめんね匿名希望くん。それ、実は偽名なの。でもお相子でしょ? きみだって名前を教えてないんだから」
「もし私が悠膳を殺したら、あなたはどうする?」
「簡単ね。ここから出て行くわ」
 蜘蛛は振り返らなかった。
 無防備に背中を向けて、吹喜たちの前から姿を消した。思えば、この瞬間に襲っていればもしかしたらあの蜘蛛を仕留められたのかもしれない。
「でも、それだけでは何も解決しない……」
 自分は何をすべきなのか、この瞬間になってもよく分かっていなかった。壁に背中を預けて目を瞑る。まだ夜明けまでは遠い。いつもは強化されている聴力も今は人並のレベルに落ちている。これも悠膳に子供の姿にされたせいだ。
「吹喜、これからどうするんだ? あの、悠膳って人を止めに行くのか?」
 そんなことはこっちが聞きたい。
「私は……。いや、私にそんな権利はない」
「どうして?」
「どうして、って……。悠膳がやろうとしていることを、どうして私が止められるんだ」
「止めようとしてたじゃないか」
「それは……」
 洋祐の言う通りだった。自分はあのとき、確かに悠膳を止めようと説得までやった。悠膳が遠くに行ってしまいそうな気がしたのだ。事実、彼は今までの場所から遠いところへ行こうとしている。それは物理的な距離ではなく思想の話だ。
「悠膳は……多分、私が介入することを望んでない。多分彼は、誰も殺したくない。もし私がもう一度悠膳のところに行けば、もう一度私を殺さなければならなくなるかも……。私がこのまま消えれば、それが一番彼にとって楽なはず」
「それは悠膳がどうしたいか、って話だろ。俺は吹喜がどうしたいかってのを聞いてるんだが」
 吹喜は言葉に詰まった。
「あのなあ、俺はお前ほど変な人生は送ってないけど、それでもそれなりに生きてきたんだ。その経験則から言えば、状況に流されて自分が何をすべきかがあやふやだと必ずろくな目に遭わないぞ」
 偉そうに洋祐は言った。根拠も何もない説教だったが、不思議と信頼できるような気がした。
「さあ吹喜、これからどうするんだ。悠膳がやろうとしていることを見過ごしていいのか?」
「私は……」
「行って欲しくないんだろ?」
 吹喜は、小さく首を縦に振った。
「だったら止めないと。このまま待ってても何も解決しないぞ」
「…………分かってる。そんなこと、言われなくても分かってる」
 吹喜は自分の体を抱きしめた。寒いのは夜だから、というだけではないだろう。
「私は怖い。悠膳が怖い……。私に悠膳が止められるのか」
「行かないのもいいだろう。行かない方がいいこともある。……でも、どちらを選ぶかは、よく考えろよ。後でやりなおしはできないんだからな」
「……やり直し」
 自分の手を見る。
 子供の小さな手。
 床に落ちた魔性殺しの刃を取る。今の手には余る大きなナイフ。こんなに大きかったのかと少し驚く。
 母との思い出の痕跡も消えてしまった。一度吹喜の命を助けた鳥の紋章は、今はもう光を失い、完全に姿を消している。吹喜の白い肌には何かが刻まれていた跡すら残っていない。
 本当ならもう自分は死んでいたはずだ。
 それを、顔も覚えていない本当の母の力で蘇った。
 こうして悩んでいることも、本来ならあり得ないのだ。
 自分が何を欲しているのか……。
 自分が何のために生きているのか……。
 答えは、出ない。
 それでも、何かしなくては。
「……分かった。私が行く。悠膳を止める」
「そうか。……あれだ、がんばれ」
 吹喜は頷いた。
「洋祐。あなたは連れて行けない」
「そうか」
「ありがとう」
「ん。そりゃ俺の台詞だな。いいもの見せてくれてありがとう」
「……納得は、できた?」
「え?」
 洋祐は少しだけきょとんとしたあと、すぐに表情を取り戻した。
「……ああ、もちろん。ここまで見れたら満足だ。後は結果は……もうそんなことはどうでもいい。結果なんて、たかが結果だ」
「うん」
「どんな結果が出たとしても、吹喜がやろうとしたことは、吹喜が選択したその価値は、変わらないからな」
「うん」
「まあ、その、あんまり気負わずに行ってこい」
 吹喜は力強く頷く。
 不思議と体の調子は戻っている。前のようには動かないが、それでも、吹喜を失望させるほどではない。
 洋祐をその場に残し、吹喜は歩き出した。
 一度も振り返らない。
 目指す場所はひとつだけ。



2

 有檻悠膳は永春神社にいた。
 平然と立ってはいるが、腕から床に血が点々と流れている。吹喜の後始末を蜘蛛に任せ、すぐに神社に戻って来たところまではよかったのだが。
「くくく、遥は免許皆伝だな」
 家の中に遥の姿はなかった。異変を察知し、すでにどこかへ逃走したのだろう。直接戦闘では悠膳の方に分があり、戦闘を避けたこの判断は正しいと言える。
 しかもそれだけではなく、神社には遥の置き土産があった。大量のトラップである。
「くくくくっ、くっ、くっ、境内に入った途端、腕が切られた……くっくっ、くくく」
 してやられた怒りと一番弟子の強さを確認できた喜びの複雑にブレンドされた、奇妙な非対称の笑みを浮べる。喉の奥から引き攣るような笑い声が響いた。
 腕の傷には和紙が巻きつけてあり、その下では傷が急速に治癒されているところだった。悠膳の神言術でもっても、瞬時に完全な治療を行なうことは不可能なのだ。
 さてどうしたことだろう。悠膳の計画はここに来て完全なる軌道修正を必要としていた。吹喜と遥の二人を無力化することは計画の必要条件なのだ。殺すにしろ、仲間に引き入れるにしろ。
 そもそも今夜の吹喜との対決自体がイレギュラーなのである。本当ならばもう少し後、しかもこちらからの完全な奇襲という形で実現するはずだったのだ。
 悠膳は忌々しげに舌打ちした。自分が苛立っていることを自覚する。それゆえ、自分の思考能力が低下していることも十分承知しているが、それでも向ける相手のいない怒りを抑えることはできない。
 袋小路だった。悠膳の計画が綿密さを欠いていたこともあるが、ほとんどは自分のコントロールできる範囲外からの要素に、悠膳は足元をすくわれているのだ。理不尽だとさえ、彼は思った。
 どうしようもない閉塞感。可能ならばすべてをやり直したい気分である。がんじがらめの糸に身動きが取れなくなってきている。その糸とは管理協会であり、現在逃走中の遥であり、メルベルを悠膳が意図的に騙したことである。もはや計画を放棄することはできない。蜘蛛との関係をなかったことにできないか? 今から協会に十六文書を差し出せば収められるのではないか? いや、遥の存在が危険だ。彼が何をするか分からない。それに自分はメルベルの調査に対して明らかな偽装工作を行ったのだ。そんな言い訳が通用するはずがない。
 何より、自分をこんな状況に追い込んでいるのは自分自身の小細工なのだ。だからこそ、万が一発覚したときに言い逃れができなくなっているのだ。そのことはとっくに分かっていることだ。
「くそ。落ち着け」
 非生産的なことを考え続けても意味はない。
 とにかく最低限、協会に自分のことが伝わることだけは必ず阻止しなければならない。協会と連絡を取るのはそう簡単なことではないし、遥はまだそう遠くへは行っていない。今から遥を追いかけて、殺すしかあるまい。
 腕の怪我もほとんど完璧に『修理』が終わった。向こうから仕掛けてきた以上、和解はあり得ない。会えば、どちらかが死ぬ。
 悠膳は神社に背を向けて、長い石の階段を再び下りる。
 二段目に左足を乗せた直後である。
 何かが空気を切る音を聞いた。背後。
 おそらく細長い何かが数個飛んでくる音。
 そこまで分かっていて、悠膳の体は動かなかった。次の戦場へと移動を始めた、心の隙間を狙う一撃。
「…………う」
 それは音もなく悠膳の体に突き刺さった。
 銀色の巨大な針のようなものが三本、悠膳の背中から胸を深々と貫いた。
 体から力が抜けて、崩れ落ちそうになるのを堪える。今倒れれば、石段の下まで真っ逆さまだ。
 ワンテンポ遅れて、悠膳は喉の奥からこみ上げて来た血液をたまらず吐き出した。さらに二度三度せきをすれば服の前側が血で真っ赤になった。
「そこに、いるのは、誰だ」
 ずいぶんと息苦しい。どうやら肺をやられたらしい。息をするたびに喉を塞ぐ血の泡を口から吐き捨てた。
 悠膳の言葉に応えて、自分の姿を偽装していた秘術を解除する。
 現れたのは、悠膳の予想通り女魔術師メルベルだった。ぼう、と陽炎のように姿を現す。完璧な気配断ちはよほどの熟練者でなければ不可能である。逆に言えば、それだけ彼女はその道の熟練者であるということだ。
「どうし、けっ」
 せき込む。
「失礼。どうしてここにいる? 一応、空港までそれとなく監視していたつもりだったが」
「飛行機に乗ったのは『本物』のノア・メルベル。ここにいるのは偽者のノア・メルベル」
 無表情な彼女が言った。優しさも温もりも感情も感じられない声。きっと、それらを声に込める必要がないから込めていないだけで。必要があればいくらでも取り乱すし、ヒューマニズムを振りかざすことだってしてのけるだろう。この女は、そういう存在だ。
 最初から、自分とは世界が違うのだ。
 どころか、彼女と同じ世界に住む存在が、この世界にどれだけいるだろうか。
「く。そんな、こと。考えて、どうなるってんだ……ふ、ふふっ」
 ひたすら寒かった。
 体を貫く銀色はこんなにも熱いのに、どうしてこうも凍えるのだろうか。
「最初から、俺を騙すつもりで?」
 メルベルは頷いた。
「それはそれは……。狡猾だな」
「あなたが無用心なだけ」
「なるほど。真理、だな」
 また咳き込む。
 死を、強烈に予感した。
 悠膳は生まれたときから死を恐れていた。
 生あるものはいつか必ず滅びるからだ。生きることは死に近づくこと……。
 子供のころ、同世代の人間の中で彼だけが大人になることを恐れていた。成長することは死に近づくことを意味する。
 自分に残された時間はあとどれくらいだ?
 死ぬのは100年後か、10年後か。
 あるいは今日、誰かに殺されて、この肉体は滅びるかもしれない。
 どうしてみんな、平気で生きていられるんだろう。
 自分が永遠の命でないことを理解していながら、どうして笑っていられるのか。
 いつか滅んで塵に還るというのに。
 その切なさを、どうして君たちは感じないのか。
 悠膳の体を貫いていた銀色の巨大な針の表面が、ボロボロとひび割れて剥がれていく。あれだけの強度のあったはずが、悠膳が軽く手で触るとあっという間に壊れて折れてしまった。メルベルの錬金術は、術者の手元から離れると寿命と強度が極端に落ちてしまうのだ。
 今まで自分を縛っていたものがほどけていくのを感じる。

 あれだけ恐れていた死が、彼の目の前にあった。

 メルベルは笑わない。それはそうだ。そこに立っているのはメルベルの偽者、魔術により動かされているだけのただの人形だ。もっとも、そこに立っているのが本当のメルベルだとしても、彼女は笑わないだろうし、何も言わなかったろう。
 体を支えていた最後の力が抜ける。
 ひざまずくように前に倒れた。メルベルの前でこんな姿勢になるのは不本意だったが、もはや立ち上がる気力すら残されていなかった。
 薄れる意識の中で、悠膳は今までにない安堵を感じていた。計画のことも、蜘蛛のことも、遥のことも、吹喜のことも、協会のことも、十六文書のことも。今まで遥を悩ませていたすべてが価値を失い、消滅する。
 死ねばすべてが終わりなのだ。それに比べて、今まで悠膳を悩ませていたことのなんと些末なことか。
 死を前にして、生を失いかけて初めて、悠膳は装飾されていない、ありのままの生を感じることができたのだ。
 今、悠膳が持つものは命だけで。
 その命を縛る『価値』は、どこにも存在しないのだ。
「そうか……。これが自由か……」
 振り絞った声は、果たして彼女に聞こえただろうか。



3

 吹喜は真剣に走っているつもりでも、いつもの風を切る感覚がない。子供の体がこうも使いにくいものだとは思わなかった。昔の自分はよくこんな体に耐えられたな、と妙なことを考える。しかも一度死んだのが原因なのか、先ほどから目眩と発熱がしている。神社の途中で一度、思わず道の隅に嘔吐してしまったほどだ。
 それでも、永春神社の入り口まで来て、血だらけの悠膳が倒れているのを見ると、吹喜は自分の不調の一切を頭の中から追いやった。
 悠膳は石段の一番上のあたりに倒れていた。まるで猫がうずくまるかのように、静かに血を流している。
「悠膳?」
 返事が返ってこないことを知っていても、声をかけずにはいられない。
 真っ直ぐに悠膳の元へ走る。小さな体を可能な限り動かし、石段を駆け上がる。
 しかし数段上ったところで吹喜は足を止めた。収納せずに裸のまま持ってきた魔性殺し一本だけが、吹喜の唯一の武器。それを、境内の闇の一点へ向ける。
「なるほど。親子で同じ轍は踏まないか」
 聞き覚えのある声だった。
「ノア」
「そう。わたしはノア」
 続けて何か言おうとした瞬間、吹喜の脳内で一気に警報が鳴り響いた。
 遅れて風を切る音。
 音を聞いてから回避していたのでは間に合わない。つまりこのとき、吹喜は確かに未来予知に近い危険感知能力を持っていたことになる。
 耳のすぐ隣を、人を殺せる速度で飛翔する銀色の狂気。それを聞きながら、寸分違わず、魔術師にとっての致命傷となる短剣を闇の中に放っていた。
 どう、と何かが倒れる音がした。
 吹喜は悠膳の体を横に避けて、相手の姿を確認するために走り出した。
「今のは?」
 メルベルは冷たい砂利の上で仰向けに倒れている。短剣の刺さった箇所に、陶器のようなひびが入っていた。それが崩れると、彼女の体は銀色の砂に変わって一瞬で崩壊した。その砂ですら、風も吹いていないというのにその場に残ることなく消えてしまった。
「あなた、とうとう未来まで見えるように――」
 体が消えてもメルベルの声はしばらく響いていた。しかしそれも段々と小さくなり、とうとう聴こえないほど小さくなって消滅してしまう。
 吹喜は倒れている悠膳の元に戻った。階段の途中で倒れている悠膳の体を上まで引っ張り上げる。成人男性一人の体がこうも重いと感じたのは初めてだ。小さな体が恨めしい。
「悠膳?」
 返事はない。
 首に触れると氷のように冷たい。脈はほとんど感じられなかった。
 吹喜の脳が限界まで回転していた。
 悠膳の懐に手を差し入れる。メルベルがまだ悠膳に近づいていないなら、彼はアレを持っているはずだ。
 すぐに手ごたえがあった。それほど分厚くはない本の背表紙が吹喜の指に触れた。懐から出すと、それはまさしく十六文書が一、第八法典『旅説』。
 十六文書を開いた瞬間、吹喜の体に衝撃が走った。
 体の中を何かが駆け抜けた。
 世界を捻じ曲げる奇跡を成立するための仕組み。すべての根源に通ずる真理の欠片。そしてなぜ、この本が書かれなければならなかったのか。
「……時獄牢」
 時間を捻じ曲げる外法の技。
 冷や汗が吹喜の頬を伝う。
 改めて自分が何を持っているのかを思い知った。手が震えて本を落としそうになる。自分には耐えられない。自分に、この魔導の祖の所有者の資格はないのだ。
 しかし吹喜はすでに自分に許可を出していた。
 時間はもうない。
 唯一の不安は、子供の体でそれを実行できるかどうか。
「目覚めよ、第八法典」
 悠膳の言葉を思い出して言った。
「蠢動――――――――外法、時獄牢」
 直後、悠膳の体が跳ねた。



4

 昨日あんなことがあったにも関わらず、月曜日になればつい学校へ来てしまう洋祐である。
 昨日はあれから久島先生に血痕やら何やらの後片付けを手伝わされ(本当はさっさと帰りたかったのが脅されて仕方なくやったのだ)、真夜中の保健室でコーヒーをご馳走になり、途中からアルコールの入った先生の愚痴を聞き、酔っ払った先生をアパートまで送り(なんで蜘蛛の化け物がワイン一瓶で酔っ払うんだ?)、家に帰ったのは日が昇ってからだった。
 それからは母の執拗な追及をなんとかかわし(父は出勤)、姉の質問と嫌がらせに堪え、ベッドに入って死ぬように眠った(もしくは眠るように死んだ)。
 そういう事情で、月曜日の学校にはみんなが不審に思うような痕跡は何一つ残していないはずだ。しかし廊下を通るたびに血だらけの吹喜の姿を思い出してしまうのは仕方がない。と思う。
「おーっす」
 馬鹿みたいに機嫌の良い蜂須が洋祐の肩を叩く。虚を突かれたので驚いた。咄嗟に声を出せなかった。
「なんか暗い顔だなぁ。何かあったのか?」
「人はいつでも何かがあるのさ」
「……何を悟ったことを言ってやがる」
「お前こそ機嫌よさそうじゃないか。いつもより表情が豊かで突っ込みが手ぬるい」
「ん? そうか? まあ人はいつでも何かがあるからな! 俺の友人の受け売りだが」
 けけけけ、と蜂須は愉快そうに笑った。結局蜂須の上機嫌の理由は分からず仕舞いだった。真相が分かったのはそれからしばらく経ってからだったが、まあそれはともかく。
 蜂須と別れて教室に入る。みんな元気そうだ。土曜の夜から日曜の朝までの数時間のせいで、しばらくみんなと会わなかったような、そんな錯覚を覚えていた。記憶の中にあるのと同じ表情をするクラスメイトたちを見て、ちょっと、感動してしまう。
 いつも以上に知り合いと絡んでから自分の席に座る。隣は空席だ。そこだけが少し寂しい。
「おはよう洋祐」
 一番聞きたかった声が聞こえた。
「よ。……奈々」
 片手を上げて挨拶。いつも通りいつも通り。と意識するほどにいつも通りではなくなる。あ、手が震えてる、などと冷静に認識している自分がいて。
「日曜日はどうだった?」
 さりげなく聞いてくる。洋祐の表情を見て何か察したらしい。残念ながらどうにかなったのは土曜日の夜、奈々と別れてからなのだが、さすがにあの後すぐに吹喜のところへ行ったとは思わないらしい。うん、それが常識というものだ。
「日曜日はずっと寝てたよ」
「……そう」
「念のため言っておくけど一人で寝てたからな」
 奈々の反応は薄かった。
「念のために言っておくけど、別に恨んでないからね」
「……そうか」
「大丈夫。三代先までしか祟らないから」
「いやめっちゃ恨んでるし」
 洋祐はそう返事をしながら、もっと気の利いたことが言えないのかと歯痒く思った。
「まあそれは冗談だけど。わたしは最初からああなるのは分かってたからね……。だからあれ、ただの確認作業。ごめんね、付き合ってもらって」
「俺こそ、すまん」
「なに謝ってるの?」
 初めて奈々の口元が緩んだ。
「別に恨んでないって。あんたの気持ちはあんただけのものだから、わたしがそれについてとやかく言う権利はないから。それに、おかげで前に進めそうしね……」
「前?」
「そ。わたしはずーっと前からあんたに引っ掛かってたの。本当はそんなところにいてもどうにもならないんだけど、希望とかいろんなものがわたしを引っ張って放さないの。でもこの間やっとそれが取れて、わたしは晴れて自由の身ってこと。おかげでこれからは青春を謳歌できそうよ」
「そうか。――それは、よかった」
 心の底からそう思った。
 肩の荷が下りた。そんな気分だった。
「吹喜ちゃんは? 今日は欠席なの?」
「んー。かもしれん。もしかしたら転校するかも」
「何それ」
「分からん。本人に聞いてくれ」
「でも今日は休みなんじゃないの?」
「さあて、ね」
 洋祐は曖昧に笑った。
「そこまで薄情なやつだとは思わないけどね。俺と違って」



5

 メルベル本人が日本に戻って来たのは二日後のことだった。
 今日は火曜日。まだ退学届けは出していないので、本当なら吹喜は学校に行かなければならない身分のはずだった。しかし十年近く時間を戻され、子供の体に戻ってしまったことはどうやっても言い訳のしようがない。本人が学校に行くことにあまり乗り気ではなかったこととも併せて、ここ二日間は遥共々自主休校ということになってしまった。
「これが、ご報告に上げたものです」
 馬鹿丁寧に言って、遥がメルベルに旅説を手渡した。メルベルはまじまじとそれを見つめると、中を検めることなく頷いた。
「はいっ、確かにいただきました。ご協力感謝します」
 元気よく言ってぺこりと頭を下げた。しかし今となってはその仕草の裏に何かが隠されているのではないかと勘ぐってしまう吹喜である。
「あのう、本当にすみません。本当なら吹喜さんのその体も、もう一度8thを使って戻してあげたいんですけど。規則で、無闇に十六文書を使うことは禁じられているんですよ」
 表面上は申しわけなさそうな表情を作ってメルベルが言った。8thというのはどうやら第八法典を指しているらしい。
「ええと、今回は色々とご迷惑をおかけしました」
「まったくだ」
 遥が頷く。
「勝手にやって来て勝手に罠を張って挙句に人の父親を殺すとはね」
「あう。わ、わたしだって仕事なんですよぅ」
「へえ、そうですか。そいつは失礼しました」
 遥は嫌味ったらしく言い、メルベルは困惑して唸った。
 そのやり取りを、吹喜は無表情で見つめていた。
「吹喜さんにも、ご迷惑をおかけしました。あの……怒ってます、よね?」
「別に」
「吹喜さんもいけないんですよぅ。わたしの分身殺したりするから。だから直接わたしがここに来ることになっちゃったんですから」
「あれは正当防衛」
「ふふ……小さいのにお強いんですね」
「別に。あなたほどではない」
 しばらく二人は見つめ合っていたが、暖簾に腕押し、メルベルの方がすぐに諦めた。
「それじゃわたし、もう行きます」
「お気をつけて」
 本心ではないことを遥が言った。一体どうして、彼はこうも慇懃なのだろうか。
「それでは、招かれざる客は退散します」
 メルベルの声と顔でそう言って、彼女は境内に背を向けて歩き出した。
「ところで」
 すぐに振り返る。
「さっきから気になっていたんですけど、そちらの少年は誰ですか?」
 吹喜の後ろにずっと隠れていた少年を指差した。



「……行ったか?」
 メルベルの背中が見えなくなるまで少年は何度も二人に確認していた。その口調はいつものものだったが、幼い声には強い違和感がある。見かけ上、少年の年齢は今の吹喜と同じくらいに見える。
 ふう、と少年は溜め息をついた。
「もう大丈夫」
「そのようだな。しかし、意外にばれないものだな」
「それは……」
 吹喜が言いよどんだ。
「何だ?」
「別に」
「言いたいことは言え」
「何も」
「気になるな。話せ」
 吹喜が言い難そうに、顔を少年からそらして小声で言う。
「……子供の悠膳、可愛い」
 それを聞いて遥が吹き出した。
 吹喜の唱えた外法は悠膳の時間を数十年巻き戻し、彼を吹喜と同じくらいの年齢の少年に変えてしまった。
 もちろん、悠膳の肉体の時間を遡行しただけでは、彼の体が受けた致命的な傷を治すことはできない。彼を復活させるにはもっと別の力が必要だった。
 吹喜が使ったのは、昔彼女の故郷で使われていた魔除けの鳥の刻印だった。子供にしか効果のない、死すらも乗り越える蘇生魔術。うっすらと残る故郷の老人達の魔術を必死で手繰り寄せて、なんとか悠膳の体に刻み込むことに成功したのだった。
「にしても、なんで子供の姿のままにしたんだ……。生き返った後に戻してくれれば嬉しかったんだが」
「そりゃ親父、あの女錬金術師を騙すために決まってるだろ。すぐに戻るって言っていたけど、多分しばらくこの辺りの監視をするために日本に残るんじゃないかな。首謀者の遺体をこちらで勝手に処分しました、じゃ違和感ありまくりだからね」
「それに多分」
「ん?」
「いや。何でもない」
 多分彼女はこの少年が悠膳だということに気付いているだろう、とは言わなかった。その推測にほとんど根拠はなかったし、メルベルにそこまでの情があるとは思えなかったからだ。
 けれど。
 もしかしたら。
 どちらが表で、どちらが裏なのか。
 それともすべてが表で、どこか別の裏があるのか。
「何だ吹喜。また失礼なことを考えてるんじゃないだろうな」
 吹喜を見た悠膳が不審そうに漏らした。その口調と可愛らしい男の子の声との差異がまた可笑しい。
「大体悠膳も悪い。私を子供の姿にしたのは悠膳。今のその体は天罰」
「いや、お前も旅説を使って元に戻ればよかったじゃないか」
「そんなことをしたら今度は吹喜が協会に追われるよ。十六文書を使用した者は、理由のいかんに関わらず滅殺すべし――だそうだよ。別のつてで聞いた話だと」
 遥が呆れたように言った。この間から遥の父親に対する扱いが酷くなっているような気がするのは、父親の外見が子供の姿になったことだけが理由ではないだろう、と吹喜は邪推する。
「それにしても……ううむ、納得いかない」
 鹿爪らしい顔をして、腕を組んで唸る。
 あの事件に関して悠膳は何も語らなかった。一応形ばかりの謝罪を二人の子供に示したわけなのだが、本来ならばそれだけで済むはずがない問題だ。しかし吹喜も遥もそれ以上、本気で悠膳を追及することはしなかった。悠膳が去ることを二人とも望んでいなかったし、何より、何かを見つけたらしい彼の晴れやかな顔を見ると、彼に抱いていた怒りや悲しみがとても些末なものに思えてならないからだ。
 きっと彼は、答えを見つけたのだろう。
 それが何かは私たちには分からないけれど。
 悠膳がそれで満足なら、私たちも満足。
 吹喜はそう思った。
「ところで、あの少年とはどうなったんだ。今日は学校に行かなきゃならないんじゃないのか?」
 洋祐の話題が出ると一瞬で遥が不機嫌になった。どうも遥の方から洋祐を一方的に嫌っているらしい。二人ともそれほど遠い存在ではないから、お互いのことをよく知ることが出来れば良い友人になれそうなものなのだが。
「特に何も」
「何も?」
「普通」
「そうか」
 と言いつつも悠膳は納得した表情ではない。
「篠葉洋祐か……。なかなかいい少年じゃないか」
「私もそう思う」
 吹喜が思ったことを口に出せば、今度は遥と悠膳が驚いたように絶句した。二人の顔を見て吹喜は心外に思った。別に私は感情のないロボットというわけじゃない。
 遥が妙に真剣に突っかかる。
 悠膳が面白そうにそれを茶化す。
 吹喜はなんとなく、理由が分からないけれど、とにかく、自然に笑みを浮べた。
「なあ吹喜、お前は洋祐くんのことが好きなんじゃないか?」
 遥を茶化すのを唐突に遮って悠膳が言った。不意打ちに近いが、吹喜を動揺させるほどの威力はなかった。
 涼しい顔をして悠膳の言葉に応える。
「好きだと思う」
「おお。すごい言葉を聞いたな。お前の口から『好き』とか『嫌い』とか聞いたのは久しぶりだ」
「私にも好きな人や嫌いな人はたくさんいる」
「へえ、それは僕も意外だな。吹喜ってあんまり好き嫌いを顔に出さないから」
「他に好きな人は?」
「お父さん」


《 さよならベルティエール / Have not you understood me yet? 》

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