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 第八法典「旅説」は自らがいつ誕生したのかを記憶していない。遥か昔のことのように思うし、もしかしたらたった今この瞬間に生まれたのかもしれない。それでも旅説は自分の存在について人間のように悩み苦しむことはしないが、ふと考え込むことはあった。
 旅説が永春高校に流れ着いてからしばらく経つ。人間の心理を知り尽くした旅説にとって、人の集団の中に紛れるのは難しいことではない。これまで何百年と繰り返してきたのと同じように、今回も人の姿に化けて組織の『一員』として紛れ込む。
 十六文書のすべてに共通する能力が人に化ける能力である。これは普通の魔術師が使う擬態の術とはわけが違い、よほど神秘に長けた人物でなければ正体を見破るどころか疑いを抱くことすら不可能だ。よって、十六文書と人間とを見分けるためにはその人物の行いや仕草を見て判断するしかない。旅説には焦りはなかった。ゆっくりと、確実に、疑われぬよう時間をかけて溶け込めばいい。何せ、自分にはこれから永遠の時間があるのだ。永遠の後、人類が滅んでいれば私の勝ちなのだ。
 旅説の今回の姿は成人男性だった。
 教師として、永春高校に紛れている。


さよならベルティエール

第二話


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 昨日転校してきたばかりの吹喜が、二日目にしてすでに洋祐たち三人の輪の中に溶け込んでしまっていた。これは洋祐が根気強く吹喜に関わり続けた結果なのだが、当の洋祐は吹喜がそれを受け入れたことが不思議でならなかった。
 右島吹喜は当初洋祐が考えていたのよりもずっと普通の人間らしい。極端に無口で極端に無表情で極端に他人に興味がないところがあるが、極端なところはその三つだけだ。それだけ極端ならそれで十分な気もするのだが。一つ忘れていたが、彼女は極端に美人だった。
 二日目の朝にして吹喜の下駄箱にはラブレターが何通か放り込まれていた。まるで漫画みたいだと洋祐は思った。きっと、明日か明後日にはもっとたくさんのラブレターが放り込まれているだろう。
 しかしラブレターて。
 また古風な。
 しかし吹喜を呼び出して面と向かって愛の告白をすることがどれだけ無謀かを知っているので、案外手紙というのも効果的かもしれないと一瞬思ってしまった。手紙の中身を精読した挙句に執筆者を呼び出して文面の文法上の誤りを細かに指摘する吹喜を見るまでは、の話だったが。
「しかし恐ろしいな、美人ってやつは。このままいくと全校の男が吹喜に支配されかねん」
「でも今のところ全部玉砕でしょ? そのうちみんな気付くんじゃないの?」
「ファンクラブが作られたりしてな」
「そりゃどこの漫画よ……」
「そういえば三組にも転校生が来たんだったよな。男の。そいつも結構な人気らしいが」
「そうみたいね。みーちゃんが言ってた」
「みーちゃん?」
「手崎由美」
「ああ、あの歩く偏向報道か」
「こら。女の子にそういうこと言わないの」
「そんなに格好いいのか? その、えーと、なんて名前だったっけ」
「有檻くんだよ。変な名前」
「こら、男の子にそういうこと言わないの」
「いいのよ、私は女だから。女は何を言っても許されるのよ」
「男はどうして女に勝てないんだろうな」
「弱いからよ」
 真理だと思った。
 昼休み、見ず知らずの男子に呼び出されていた吹喜が戻って来た。五分とかかっていない。どうやら断ったらしい。
「いやー大人気ですなあ吹喜さん。あやかりたいねえ」
「……男色?」
「ちゃうわい」
「あ、あんた、そういう素振りがないと思ったら、そういうことだったのね……」
「だから違うからに」
 吹喜の昼食はコンビニで買ったらしいサンドイッチだった。洋祐は購買で買ったパン、奈々は家で作ってきた弁当である。
「そういうお前こそそっち系なんじゃないのか? お前の勇ましい姿を見て心ときめく少女も多いと聞くぞ。『ああっ、お姉さま、お姉さまっ』『どうしたんだい?』『あの、わたしっ、お姉さまのことを考えると、胸がきゅんきゅんしちゃうんです。どうしてなんでしょう』『それはね』『それは?』『お前を食べるためさー!』」
「途中で赤ずきんの話になってる」
「赤ずきんの赤は血の色なのですよ」
「でもあれって変な話よねー。腹の中に入ったおばあさんが無事に出てきたとは考えられないんだけど。ていうかなんで噛まないの?」
「噛んだらすごく猟奇的な絵になるからな」
 狼の腹から出てきたおばあさんは変死体だ。
 洋祐は想像すると食欲が急激に衰えていったが、対面する女二人はかまわずにぱくぱくと食べ物を口に運んでいる。やはり女は強い。というよりこの二人が異常なのだ、という結論に至った。
「ちなみに勇ましい姿というのは普段俺をぼかすか殴ったり蹴ったりしている姿のことを指す」
「それはあんたの自業自得でしょう? わたしだって好きでやってるわけじゃないわよ。誰かがあんたを止めないといけないの」
「ばっ、俺のどこが自業自得だ。俺なんか仏様も裸足で逃げ出すくらい善良だっての。今朝なんて横断歩道を渡ろうとしているおばあさんの荷物を運びながら車に轢かれそうになった少年を助けようとして道に飛び出しながら道に迷った外国人を駅まで送り届けてやったのに」
「なんでいっぺんに何でもやろうとするのよ。順番にやりなさい!」
 奈々に説教されてわけもわからぬうちに昼休みが終了してしまった。吹喜は二人のやりとりを無感動そうに見つめているだけだった。



「じゃあこれは知ってるか? 猫は犬よりもたくさんの栄養素、特にタウリンを必要とするんだが、ドッグフードにはキャットフードよりも含まれるタウリンの量が少ないから、ずっとドッグフードだとタウリンが足りなくなって失明してしまうんだ」
「それは俺も知ってるぜ。犬は体内でタウリンを合成できるようになってるんだ」
「くそっ、知ってたか……。やっぱり蜂須は生物系は強いな」
「じゃあ俺の番だな。蟻はよく働き者の代名詞として使われるだろ?」
「それなら知ってる。確か徴兵を拒否して出場停止を喰らったんだよな」
「そりゃモハメド・アリだろ。つまらんボケを挟むな!」
「す、すみません」
「……いいか、蟻は大きな食べ物を協力して巣に運ぼうとするだろ? 実はあれは協力しているように見えるだけで、本当はそれぞれの蟻がてんでバラバラな方向に運ぼうとしてるんだ。例えば二匹の蟻が南へ、一匹の蟻が北へ運ぼうとしてると、力の大きい南の方へ餌が動く――とこうなってるわけだ。だから蟻が餌を運んでいるときに片側のを離してやると、残された蟻たちは今までの二倍近い速さで餌を運ぶんだぞぞ」
「ぬ、ぬう。悔しいがそれは初耳だ。それじゃ次は――」
「待ちな。まだ俺のターンは終了していないぜ」
「なにっ?」
「ていうかルール忘れんなよ。相手の知らない雑学を出した後は続けて出してもいいんだろ?」
「そういやそうだった。分かりにくいルールだな」
「お前が決めたんだろ!」
「……あんたたち、顔つき合わせて何やってんの?」
 放課後、真剣な表情で話をしている洋祐と蜂須の元に奈々がやって来た。吹喜は我関せず、というよりぼーっとしていて何を考えているかわからない。もしかしたら何も考えていないのかもしれないし、シュレディンガー方程式を頭の中で必死に解いているのかもしれない。いずれにしろ人の頭の中は覗けない。
「邪魔しないでくれ。男同士、プライドを賭けた勝負なんだ」
「あんたに賭けるだけのプライドがあるとは思わなかったわ」
「何をっ? 俺なんてプライドの塊だっての。俺の半分はプライドでできてるんだぜ」
「全身空っぽのあんたがなに言ってるのよ。特に頭の部分」
「お前、ほんとに蔑まれてるな」
「聞いてくれよ蜂須〜。俺はあいつにカーストだと思われてるんだよ」
 蜂須は呆れたように二人のやり取りを見ていた。
「で、あんたら何やってたの?」
「雑学勝負だよ。動物関連。相手の知らない雑学を三つ連続で出したほうが勝ち」
「くっだらないわねえ……。あんたたち夜中まで勝負してるつもり? さっさと帰るわよ」
「先に帰ってくれ。俺は親友と決着を着けねばならん」
「ふっ……俺のことをまだ親友と呼んでくれるのか蜂須よ……。しかし勝負の終わった後、立っていられるのはどちらか一人だ。今日、この時から、すでに俺たちは敵同士なのだ!」
「ああ……。敗者はこれから先、一生『馬鹿』のニ文字を背負って生きていくことになるのだ」
「大げさねえ。それに『馬鹿』の二文字ならとっくに洋祐が背負ってるじゃない」
「もう背負い疲れた。これからは蜂須に背負ってもらう」
「馬鹿、人に押し付けるなよ。最後まで自分で面倒見ろ」
「馬鹿、真司はあんたと違って成績優良者なんだからね」
「お前ら俺を馬鹿馬鹿呼ぶなっ!」
「だって」
「ねえ」
 その後、二人の「馬鹿だもん」という声が重なって洋祐は沈黙した。
「まあそういうわけだから、奈々、俺たちはもう少し学校に残るわ。今日は俺もバイトないしな。こいつは最初から部活行く気なんてないだろうし」
「もう……。それじゃ帰りましょう、吹喜ちゃん」
 座った格好のまま石像のように動かない吹雪に奈々が言った。ゆっくりと、首を奈々の方に向ける。
「私、残る」
 一瞬奈々の顔が「はぁ? あんた何言ってんの?」と言いたそうな顔に変わった。洋祐は表情にこそ出さなかったがその心境はおそらく奈々と同じだった。
「え、あの、え、何で?」
「二人を待つ」
「でも、遅くなるって言ってるよ? いつ終わるかもわかんないし」
「…………」
 奈々が言っても吹喜はその場を動こうとしなかった。
 それでも執拗に吹喜を帰らせようとする奈々。見かねて洋祐が言う。
「別にいいだろ、本人が残りたいって言ってるんだから。今日は奈々一人で帰れば――」
「……私も残る」
「はあ?」
「私も残るっ!」
「だから何でっ?」
 一瞬言葉に詰まった。
「別にいいでしょうっ? さっさとそのくだらない勝負を終わらせなさいよ!」
「お……おう」
 奈々の気迫に押されて返事をした。しかも何故か吹喜の方をちらちらと睨んでいる気もした。当の吹喜はそ知らぬ顔で再び石像のようにピクリとも動かないのだが。そして蜂須はすべてを悟った傍観者のようにニヤニヤと笑いながら洋祐たち三人を見つめている。
 それから洋祐と蜂須の勝負が始まったが、奈々の気迫に脅されながらの雑学対決は、なぜだか全然面白くなかった



 四人で一緒に下校する。
 が、吹喜は昨日ほど喋らないし、逆に奈々は気味が悪いほど喋りまくるし、蜂須はやはり微笑したまま言葉少なげ。
 なんだか妙な感じだった。
「ねえ洋祐、聞いてるの?」
「お、おう。やっぱりGNIを上昇させるためには生活基盤を整えることが最重要課題だよな」
「あんたは一体誰の話を聞いていたのよ」
 奈々に睨みつけられて洋祐は黙った。
「駅裏においしいクレープ屋が出来たから、今度食べに行こうって言ってたんだよ」
「ああ、クレープか。あれはいいよね。俺は砂糖をふってスプーンですくって食べるのが好きだな」
「今度の日曜日に行かない? 昨日ノートをあげたとき必ず礼はするって言ったよね。だったらクレープ奢ってよ」
「……そりゃクレープじゃなくて、グレープやんけ」
 蜂須が小声で洋祐に突っ込みを入れてくれた。やはり彼は親友だ、と洋祐は思った。男の友情って美しいなあ。贅沢を言わせてもらえればこの場の妙な感じもどうにかしてください。
「それじゃ、今度の日曜の朝、洋祐の家に行くね。九時くらいかな」
「ちょっと待て。どうしてクレープを食べに行くのに朝からなんだ。そのクレープ屋というのは朝しか営業してないのか? どんな健康的なクレープ屋だ。そういうクレープ屋の店長ってのは頑固な親父さんで昔の味をずっと守り続けてたりするんだ。ところが店を継ぐはずの息子とクレープの味で大喧嘩して息子は家出、しかも親父さんは体を壊してこれ以上店を開けなくなってしまうのだ。そして最終的には息子が親父の味を超えるクレープを作り出して和解する」
「えーと、クレープ屋さんが開くのがお昼くらいだから、それまで二人でぶらぶらして時間潰そうよ」
「……二流の脚本家みたいな妄想をするな」
 奈々が突っ込まないので蜂須が切り捨てた。三木田奈々は突っ込みの役割を完全に放棄したらしい。そして吹喜には最初から期待していない。
「いや、え、だって、昼まで時間潰すなら、昼に待ち合わせればいいんじゃないのか? わざわざ時間潰す必要はないと思うんだが……」
「何か予定でもあるの?」
「いや、特にない。けど休日くらいはゆっくり昼まで眠らせてくれよ」
「そんなのだからいつも遅刻ギリギリで学校に来るのよ。今日なんかギリギリ遅刻だったじゃない。学級委員長としては風紀の乱れを見過ごすわけにはいきません。日曜はちゃんと起きなさい」
「うえー。ノートを貰った恩があるからクレープを奢ることに異存は無いけど、やっぱり早起きは無理。理由は俺が起きたくないから。朝は俺が一番弱いときなんだよ」
「適当に生きるのを止めなさい! ほら、ちゃんと起きれたらわたしがクレープを奢ってあげるから」
「それは魅力的だけど、それだと何のためにクレープを食べに行くのかわからんぞ……」
「いいじゃない。男が細かいところを気にしないの。わたしが日曜の朝、洋祐の家までちゃんと起こしに行くから」
「ぐ。ま、まあ、俺も借りがある。今回はお前に譲歩しよう。あ、そうだ。蜂須も来いよ。久しぶりにゲーセン行こうぜ」
「あぁ?」
 一瞬奈々の顔が鬼のような形相に変わった。洋祐は鬼の顔を見たことが無かったが、きっと鬼の顔はさっきの奈々のような顔なのだろうと思った。
「あー、悪いけどパス。俺日曜は予定あるし」
 蜂須はちらちらと奈々の方を窺いながら答えた。
「な、なんでだよ。そんな大切な用なのか? バイトじゃないよな。確か日曜はシフトに入っていないはずだから」
「あー、それは、あのー……ブラジルで減少する熱帯雨林に関する国際会議が」
「俺みたいな言い訳をするな!」
「すまん。とにかく日曜は行けない」
「あ、それなら土曜にしよう。奈々、別に土曜に食べに行ってもいいだろ?」
「残念ながら国際会議は土曜から泊まりで行われるんだ」
「もうお前のことを親友だとは思わない」
「……不甲斐ない俺を許してくれ」
 蜂須は沈黙した。
 状況はかなり悪い。何が悪いのか、誰にとって悪いのか、それは定かではないが、とにかく、洋祐の全身を焦燥感が襲っていた。では全身ではなく右腕だけを焦燥感が襲ったりつま先から股関節にかけて焦燥感が襲うということがあるのかというと、そんな特殊なケースは思い浮かばないし、そもそも焦燥感とは何なのだろう。いや待て、現実逃避するあまり妙なことを考えている。そもそもこれは現実なのだろうか。これが夢ならどんなにいいか。悪夢だ。待て待て、もっと建設的なことを考えろ篠葉洋祐。
「あ、吹喜! クレープは好きか?」
「……クレープ」
 テンションの低い声で復唱した。
「そうそう、クレープだ。いいか、クレープというのは卵で作られた薄い生地で――」
「知ってる」
「物知りだなおい。で吹喜よ、クレープは好きか?」
「嫌い」
「……そうですか」
「でも」
 奈々が一瞬にして勝ち誇った顔をした。
 吹喜が続けて言うまでは。
「わたしも、行く」
「そ、そうだよな! 好き嫌いはよくないもんな! それじゃ日曜に三人で行くかー。あ、そうなると三人が分かるような待ち合わせ場所がいいなあ! 俺の家で待ち合わせだと吹喜がわからないもんな! ええと、それじゃ学校で集合するってことで! 朝の九時だね! いやあ、こんな美少女二人に囲まれるなんて楽しみだなあ! 蜂須が来られないのが残念だなあ!」
「おい、お前、ちょっとは空気読めよ」
 蜂須が小声で吹喜に何か言っていたが、お前は死ね。
 裏切り者め。
「そんなわけだから、日曜は学校前で九時だ。間違えるなよ」
「…………」
「な、なんでお前はそんなに睨んでるんだよぅ。クレープ奢るから見逃してくれよぅ」
 ちょうどそのとき奈々の家に帰る道と洋祐たちの帰る道との分岐点に来た。
「あ、それじゃ、俺はこっちだから。じゃあな奈々。また明日ー!」
 これ以上奈々が何か言う前に早々に退散した。蜂須が奈々の横で小さく手を振った。蜂須の家は奈々と同じ方向なのだ。
「あー、焦った」
 奈々たちと別れてしばらくしてから洋祐が呟いた。吹喜は無表情無感動無音声を貫き通している。
 いつもなら学校からの帰りは開放感に酔いしれる洋祐なのだが、この日は鉛のような疲労感に襲われて開放感どころではなかった。精も根も尽き果てた。
 そういった事情のせいで、普段なら吹喜に話しかけ続ける洋祐が今日は何も話しかけなかった。そうなると二人の間にずっと沈黙が続くだろうが、今は話しかける余力も冗談を言う気力も残っていないのだ。
 ところが、洋祐の予想は裏切られる。予想が裏切られるのはこれで何度目だろうか。
「クレープ、好き?」
 吹喜の方から話しかけてきた。しかもクレープの好き嫌いという、極めて一般的な話題である。一瞬洋祐の頭の中が真っ白になった。これは不意打ちに近い。クレープという言葉に、食べ物以外の意味があるのではないかと疑った。精神分析の専門家にクレープ博士というのがいるのだろうか。そうでなくても何かのメタファーという可能性もある。クレープ? クレープって何だろう。
「クレープというのは卵で作られた薄い生地で――」
「すまん、もしかしたらそれ知ってるかもしれない」
「今度の日曜日に食べるもの」
「ああ、やっぱりそのクレープか。そうだな、クレープは好きだな。卵焼きの方が好きだが」
「わたしはカレーライスの方が好き」
「そ、そうか……」
「カレー」
「カレーが何かは知ってるぞ」
 念のために言っておいた。
「しかし吹喜はどうしてクレープが嫌いなんだ?」
「甘いものが好きではない」
「なるほど。まあどっちかっていうと、吹喜は辛いものが好きな方が似合ってるな」
「そう」
 彼女は頷いた。
 洋祐は思ったが、どうやら吹喜は二人きりになると饒舌になるらしい。単に大人数が苦手なのかもしれないと思ったが、それならわざわざ自分たちを待たずに奈々と帰ればよかったのに。
「奈々はクレープが、好き?」
「ああ、多分な。あいつは甘いもの全般が好きだから。卵焼きには砂糖を大量に入れるタイプだ」
「そう」
「今日の奈々はちょっとおかしかったな……正味な話」
「そう……」
「吹喜もそう思うだろ?」
「わたしは普段の彼女を知らない」
「それもそうか……」
「あれが普段の三木田奈々という可能性がある」
「というと? あれが奈々の素ってことか?」
「あなたが思っている三木田奈々と実際の三木田奈々は常に一致しない。あなたが誤解しているだけかもしれない」
「けどあいつと俺の付き合いは相当長いんだぞ。もしそうならどんだけ猫被ってたんだってことになるんだが」
「猫を被っていたわけではないかもしれない」
 吹喜は言う。
「人の精神は単純ではない。ある面からすべてを観測できるほど一枚岩でもない。わたしの目に映る三木田奈々と、あなたの目に映る三木田奈々もおそらく一致しないと思う。それは、あなたとわたしの、三木田奈々との関係が違うから」
「あー……すまん。よくわからん」
「つまり、相対性の話。どこから観測するかで見える姿が違う」
「どこから、というのは奈々との関係を意味してるわけだな。えーと、俺と奈々は幼馴染だけど、吹喜と奈々は昨日会ったばかり、とそういうことか?」
「そういうこと」
「奈々自体が変わったわけじゃなくて、俺が今まで観測できていなかった奈々の姿が、今回はちょっとした拍子で見えただけだと、そう言いたいわけだな?」
「そういうこと」
「いや、しかしなー。その理屈はわかるけど、やっぱり実践的じゃないと思うんだが。だってこれまで十年近く、あいつに関して色々良い思いも嫌な思いもしてきたわけなんだし、片鱗すら覗かせないっていうのはどうも納得できないんだとな」
「例えば洋祐も、奈々に秘密にしていること、言いたくないことがあるはず」
「………………なるほど。すごい説得力だ」
 今まで全く納得できなかった吹喜理論が、対象を自分に置き換えただけでこうも納得できるとは思わなかった。もし自分のすべてが奈々に知られてしまったらと考えると薄ら寒い。
「洋祐は、何を秘密にしている?」
「そこは洒落にならんから聞かないでくれ……。多分聞いたら引くぞ」
「わたしは、引かない」
「そう言うやつに限って肝心なところでドン引きするんだ。ていうかそんなに俺のことが知りたいのか?」
「興味はない」
「だったら聞くな。それがお互いのためだ」
 吹喜は黙った。
 洋祐も黙ったので、二人はしばらく無言で歩いた。
「……さっきのは、奈々にとっての知られたくないこと、なんだろうか」
「かもしれない」
「そういえば吹喜にも、秘密にしたいことがあるのか? ――って聞くのも野暮だな」
「…………」
「吹喜の場合、秘密というか謎すぎてさっぱりわからん。山に例えるなら濃霧注意報ってところだな」
「そんなつもりは、ない」
「でも結果的にそうなってるんじゃないか?」
「……わたしは、秘密をたくさん持てるほど、深い人間ではない」
「それは謙遜か? それとも自虐のつもりか?」
「…………わからない」
 吹喜が一瞬答えに窮するのが分かった。
「わたしは、今まで自分自身について深く考えたことがない」
「あー。ま、普通の高校生はそうかもしれんな」
「洋祐は、普通の高校生ではない?」
「これでもレクター博士を目指してるからな。哲学とかは、まあそれなりに勉強したつもりだよ。自分が何なのか、どこから来てどこへ行くのか。――死んだ人間はどこへ行くのか」
「死んでも、人はどこにも行かない」
 まるで確かな根拠があるかのように、吹喜は言った。
 それに何と答えるべきだったのだろうか。
 洋祐が口を開く前に、誰かが二人に声をかけた。
「やあ吹喜、こんなところで会うなんて奇遇だね。実は生徒会の手伝いが予想以上に早く終わったんだ。一緒に神社まで帰ろうじゃないか!」
 洋祐は振り返ろうとしたが、相手の方から洋祐の前に回り込んできたのでその必要はなくなった。
 眼鏡を掛けた線の細い美男子だったが、人を小馬鹿にしたような口元の笑みが、洋祐は気に入らないと思った。洋祐たちと同じ永春高校の制服を着ているので、同級生か先輩ということになる。
 えーと、誰だろう、吹喜の知り合い?
 転校生の吹喜にこんな親しい人間がいるとは思えないので、きっと吹喜の家族だろう。兄貴か? などと推理を働かせていると、
「おや、一人じゃないみたいだね。こちらの男は一体何者なのか、僕にも紹介しておくれよ」
「よくぞ聞いてくれた。俺の名前は篠葉洋祐、フリーの日本男児だ。ちなみにフリーなので給料は貰っていない。俺という男は金銭などという矮小な価値に縛られる存在ではないのだ。ただし貰える物なら蜜柑の皮でも貰うという柔軟でフリーな精神を持っている」
「僕は吹喜に訊いたんだ。君は黙っていてくれないか」
 洋祐の渾身の挨拶が、どう考えても友好的ではない美男子の言葉によって遮られた。ここまで敵意を露にした人間と会ったのは本当に久しぶりだった。洋祐はどのように対処すればいいかを見失ってしばらくそのままの姿勢で固まっていた。
 そこに美男子の追い討ちがかかる。
「しかも何だい、君の挨拶は。それはひょっとして冗談のつもりか? 実に低級な冗談だ。そういう発想の貧困な冗談しか口に出来ないとは、不快感を通り越して憐憫すら覚えるね。吹喜、この冗談すら言えない無能な男は一体誰なんだい? いや、さっき名前を名乗っていたような気もするが、こんな男の口からではなく吹喜から直接聞きたいんだ」
「ちょっと待て。さすがにそれは冗談で済ませる領域を超えてるぞ」
「うるさいな……。犬みたいに吼えるなよ」
「……彼は、篠葉洋祐。クラスメイト」
「そうかい! ただのクラスメイトか! それはよかった。吹喜、友人はよく選ぶんだよ」
 かあ、と自分の頭に血液が集中するのを洋祐は自覚した。すぐに、目の前の無礼者を殴ってやりたい衝動に駆られる。しかし拳を握り締め、力を込めたところですぐに気付いた。自分は喧嘩の経験も人を殴った経験もない。
 洋祐は拳を解いた。どうしても、彼には人を殴ることが出来なかった。その一線を越えることが出来なかった。
「彼は……その……わたしの弟。有檻遥」
「おいおい、弟なのかい? 僕は今まで自分ではきみの兄だと思っていたんだけどね」
 見かねた吹喜が洋祐に紹介するが、やはり彼はそこに割り込んで徹底的に洋祐を排斥しようとするらしい。
 有檻遥――。吹喜とは苗字が違うし、兄だとか弟だとかが定まらないのを聞くと、二人はどうやらかなり特殊な家庭環境にあるらしいが、しかしだからといって遥への怒りが収まるわけではなかった。
 怒りの逃げ場所を探して洋祐は黙った。今口を開いてこれ以上不愉快な思いをする必要はないのだ。このままゆっくりと落ち着くのだ自分。少しだけ、息継ぎの時間を。怒りがしぼむまで。
 そうやって怒りを我慢していることそのものが洋祐にはとても惨めに思えてならないし、それがさらに洋祐の怒りをさらに大きくもしているのだった。悪循環である。
「どうしたのかい? さっきから突然静かになったね。僕の言ったことが図星だったから頭に来ているのかな。それとも――」
「っ……!」
 気がついたときには拳を打ち込んでいた。
 しかし喧嘩などしたことのない洋祐である。一応剣道はそれなりにやっているのだが、あれはあくまでスポーツとしての剣道であり、例えば真剣を渡されて人と斬り合えと言われても満足に剣を振るうことすらできないだろう。
 洋祐の拳は無様に空振りした。洋祐は、遥が首から上を微妙に傾けるだけで自分の拳を回避するのを見た。
「なんだい。言葉で勝てなければ暴力か。とことん低脳だな。これはもうどうしようもないな」
「黙れよ……」
「きみ、格好悪いよ」
「…………てめえ!」
「やめて」
 冷静な吹喜の声。しかしそれは冷静というよりは冷徹であるように感じた。まるで、これ以上続けるなら容赦しない、ということを言外に宣告しているような。そしてその宣告は、洋祐ではなく遥の方に向いているのだ。
「悪かった。きみも――えーと、篠葉くんだったかな? 気を悪くしないでくれ。と、言うのも無茶な話だろうけれど」
 有檻遥は意外にあっさりと退いた。しかし本当に悪かったと思っているのではないことは、人の心が読めない洋祐にも簡単に分かった。洋祐の、遥への印象はここに来て最低値を迎えた。
「さて、挨拶も済んだところで。吹喜、そろそろ帰ろう。さようなら篠葉くん。もう会わないだろうけど。……行こう、吹喜」
 吹喜の手を引いて強引に連れ去ってしまった。
 洋祐は追いかけようと思ったが、追いかけたところでまたさっきのような無様な目に遭うだけだと思ってしまい、結局一歩も歩けなかった。洋祐はいいようのない無力感に襲われた。
 吹喜が遥に連れられながら、申し訳なさそうにこちらを見ている。そのことがさらに洋祐の無力感を引き出し、その無力感はやり場のない怒りへと姿を変えるのだった。



2

「遥」
「なんだい吹喜」
「あれは、何?」
 洋祐の姿が完全に見えなくなってからも、遥は未だに吹喜の手を取っていた。遥に質問する吹喜の声は、彼女にしては珍しく非難の色が浮かんでいる。
「何、ってのは、なんだい? 僕としては普通に挨拶しただけのつもりだけど」
「嘘」
「嘘だけどね。ちょっとからかっただけだよ。度が過ぎたのは確かに僕が悪かった」
「…………」
「不愉快そうだね。僕があいつを怒らせると嫌なのか?」
「不愉快」
「それはどうして?」
「それは……」
「まさか、あいつのことが気になるのか? 冗談だろ?」
「洋祐は、わたしの友人」
「友人ねえ」
 遥は何かがおかしいのか、あるいは呆れているように反復した。
「きみが本当にそう思っているだけなら、僕もあんなことは言わなかったんだがな……。きみは少し不安定で……きっとそのことが僕を……。ああ、こういう言い訳は格好悪いな。忘れてくれ」
「遥?」
「僕はいつも吹喜のことだけを見ているんだよ。ずっと昔、僕と吹喜が出会ったときからね。そのときからきみがずっとここにいるんだよ」
 そう言って遥は自分の心臓を指差した。
「悪かった。今度は心の底から謝るよ。篠葉洋祐くんにも伝えておいてくれ。多分僕は、もう会わないと思うから」
「どうして?」
「きっとお互いに譲れないものがあるからじゃないかな」
 それは彼の言葉にしては珍しく吹喜に対して不親切だった。
 吹喜は遥の不機嫌を敏感に感じ取っていた。吹喜の見たところでは――さきほどの洋祐と遥のやり取りは、遥が一方的に洋祐に絡んでいたようにしか見えなかったのだが。一体洋祐のどの部分が遥を不機嫌にさせたのか。あるいはずっと前から遥は不機嫌で、それがあのやりとりの原因となったのか。
 空が夕焼けに染まる前に二人は神社に着いた。怪異は真夜中(人間が一番無防備になる時間)に最も活発に活動する。なので、吹喜たちの出動にはまだまだ時間がある。
 吹喜はその時間を、学校での宿題を片付けたり、明日の授業の予習をしたり、あるいは未だに動けない悠膳の見舞いに行ったり、神社の裏にある道場で体を動かしたりして過ごした。
 普通の高校生は暇な時間に何をするものなのだろうか、とふと思った。吹喜は自分が一般の高校生の平均から外れた存在であることを自覚しているのだ。



「――で、二人は学校はどうなんだ?」
 夕食の席で悠膳が唐突に質問した。悠膳の傷は未だ激しい運動に耐えられるものではないのだが、それでも日常生活に支障がない程度には回復していた。悠膳の肉体は普通の人間とは違うのである。
「どう、って。別に。僕はずっと前から結構通ってたからね。適当に、それなりにやってるよ」
「吹喜はどうだ? あまり学校に行ったことはないだろう?」
「普通」
「……何だよ突然。親父がそういうことを聞くなんて珍しいじゃないか」
「ちょっと、思うところがあってな。お前達は神秘を扱う側にいることを選んで、今俺と一緒に戦っているわけだが――もしそうでなければ、今ごろは普通の高校生として人生を楽しめたんじゃないか、と思ってな」
「それで気が引ける、ってか? 何を今さら。そのことは今まで何十回も話し合ったことじゃないか。僕には神言術を使う能力も才能もある。それを無駄にしたくないんだ。才能のある高校生が、フィギュアスケートとかレーサーとか役者になって少し人と違った生き方をする――それと同じだろ?」
「しかし怪異祓いはフィギュアスケートやレーサーや役者とは違う。世間に認められているわけではないし、失敗すれば命を落とす」
「……失敗して命を落とすのは、怪異祓いだけではない」
 吹喜がぼそりと言った。
「吹喜も、もう少し自分の将来を考えて欲しい。役者の才能のある人間が必ず役者にならなければいけないわけではない。魔術の使える人間が、怪異祓いをする必要もないんだ」
「分かってる」
「親父も何を突然言い出すんだよ。大体、僕らが親父の仕事を引き継がなかったら誰が怪異を潰すんだよ」
「そうだな。……正直に言って、継ぐ者がいないのなら、この仕事は俺の代で途絶えてもかまわない、と思っている。こんなことを考える俺はきっと善人ではないのだろうが……でも、お前達の意思を尊重してやりたい」
「だからさっきから言ってるだろ? 僕たちの意思を尊重したいなら、僕らに親父の仕事をやらせてくれよ。さっきから聞いてると、僕らのことを思って、というよりは、単に親父が僕たちが仕事を継ぐことに反対してるだけという気がしてるんだが」
「それもある」
「あるのかよ」
「神秘使いなんてろくな死に方をしないからな。神主になるならともかく、怪異祓いを専門にするのだけはやめた方がいい。……と、俺は思うがね。強制するつもりはないが」
 そこで一度、言葉を切った。
「しかし、死んだら、すべてが終わりだ。命に代えられるものは、ない」
 悠膳の鋭い語気に、遥が少したじろぐ。
「怪異祓い以外の、神秘の使い道は?」
 吹喜が尋ねた。
「少なくとも俺は、怪異を祓うか人を傷つける以外の目的で魔術や神言術を使っている人間を見たことがない。……けど、もしかしたら、世界のどこかには、正義の味方みたいに弱いものを守るための魔術もあるのかもしれない」
「そう……」
「まあ、夢の話だな」
 悠膳はそう言って笑った。しかし吹喜は悠膳の話に真剣に耳を傾けていた。
 夕食の後、吹喜は風呂を沸かして入った。有檻家では風呂を沸かす係は当番制になっており、吹喜と遥と悠膳の三人が交代で沸かしていた。今日は吹喜の番だった。そして、風呂を沸かした人間が最初に風呂に入る暗黙の了解ができている。
 ちなみに食事に関しては神社付きの神官たちの誰かが作ってくれている。掃除洗濯も同様である。一緒に食事をしないのは、神官たちにもそれぞれ帰る家があり、吹喜たちの食事を作った後は自分の家に帰って夕食を食べるからである。
 神官たちの帰った永春神社は少しもの寂しかった。三人には広すぎる、と浴槽に湯を張りながら吹喜は思った。
 吹喜は脱衣所で服を脱いだ。陶磁器のような、あるいは人形のような無機質な白い肌が晒される。吹喜は洗面台の鏡の前に立った。
 吹喜の胸の下――腹部のあたりには、まるで怪我の跡のように、ほんの少しだけ他の肌よりも色が違う場所がある。よく見なければ分からないが、その跡はナスカの地上絵のようなデフォルメされた鳥の絵なのだ。
 吹喜はゆっくりとその鳥の絵を撫でた。
 その絵を撫でると、昔の記憶を思い出す。
 この神社にやって来るずっと昔の、本当の両親の記憶。
 体にある鳥の絵は、西欧のある村に伝わる厄除けのお守りらしい。その村では子供が生まれるとその腹に鳥の絵を彫るのだ。
 もはやその村の記憶はない。血統的には純日本人であるはずの自分が、どうしてあの村で生まれたのか、日本人の両親がどうしてあの村で暮らしていたのか――吹喜は何も知らない。
 それでも、あの村での友人のことや、両親との生活は、吹喜にとっての大切な宝物なのである。
 たっぷりと両親の記憶に浸ったあと、吹喜は浴槽の中に体を沈めた。
 今日の洋祐との会話を思い出した。
 秘密にしていること。
 吹喜のプライベート。
 それは、両親のこと。



 今日も今日とて怪異退治。
 吹喜と遥の二人で学校に向かう。いつものメンバーよりも一人少ないが、普段三人で仕事をするときは悠膳がほとんど一人で片付けてしまい、吹喜や遥の仕事は悠膳の取りこぼしを始末することくらいしかなかった。なので、吹喜としては二人でやる方が丁度良いくらいだった。
 遥との怪異退治は永春高校に転校する前から続けているのだが、それでもそろそろただのルーチンワークと化してきた感が否めなかった。
 しかしここに来て、吹喜は永春高校を取り巻く空気がいつもとは大きく違うことに気がついた。その空気を言葉で説明することは非常に難しいのだが、今日の学校は静か過ぎるのだ。いつもの何かが蠢くざわざわとした感じが全ない。静か過ぎて心細くなってしまうほどだ。
 まるで何かが二人を待ち伏せしているかのように。
「吹喜」
「分かってる」
 遥と短く言葉を交わす。兄弟も同然の遥は、すでに異変に気付いているらしい。
 一瞬で神経が研ぎ澄まされる。
 魔術で刃物を取り出した。二人はほとんど無音のまま校舎に近づく。遥は神言術をまだ使わない。遥の神言術は神秘の発現に言葉を発する必要がある。音を立てないように慎重に近づく。
 校門を一足で飛び越え、二人は生徒用玄関の前に立った。扉はもちろん施錠されている。
 吹喜の右腕に、黄色く光る文字がいくつか浮かび上がった。吹喜の体に刻み込んである魔術の設計図である。後は吹喜の意志で自動的に起動する。その手で鍵穴に触れると、一際大きな音を立てて鍵がひとりでに開いた。
 二人は校舎の中に入る。
 秋の夜とは思えない、ひんやりとした空気が学校の中を満たしている。いつもうるさく鳴いていた虫の声もなぜか聞こえない。
 何かいるな……。それも、吹喜がこれまで遭遇したことのない強力な何かである。
 二人は学校の廊下を土足で歩く。遥が前を進み、吹喜は後方の警戒。
 十六文書だろうか、と歩きながら吹喜は思った。しかし、十六文書そのものは悪意と知能と外法以外には戦闘能力などほとんどないというのが常である。校内に十六文書の抜け番のいずれかが存在するとして、ここまで明確に気配を晒し、私たちを誘い込むようなことをするだろうか。
 たっぷりと時間をかけて一階から順に見て回る。
 一階には何もない。
 二階にも、何もない。
 三階――。
「――――――」
 遥が手で合図した。何かを感知したらしい。ただでさえゆっくり移動していたのを、さらに倍近い時間をかけて移動する。
「…………」
 物理室の前を通り過ぎた。
 一瞬だけ、特に意味があったわけではなく、むしろそれは油断に近い行動であったのだが、吹喜はガラス窓の向こうに目をやった。
 吹喜は影を見た。月の光が逆光になってそれが何なのかを判断することは出来なかった。しかし、窓を突き破って吹喜目掛けて飛び込んで来た巨大な何かを回避するための時間は十分にあったのだ。
 捻じ切れるような噛み砕くようなとにかく大きな音がした。ガラスと窓のアルミフレームが破壊された音だ。
 そいつは三階の窓から飛び込んで廊下の上に降り立った。吹喜と遥の間である。二人はすぐに後ろに引いて距離を取る。
 今度こそ、月光に当てられてその姿が浮かび上がる。
「蜘蛛……?」
 思わず遥が漏らした。
 真っ黒な躯と八本の足、そして妊婦のように膨らんだ巨大な腹――確かにそれは蜘蛛である。しかし何よりも間違っているのは、その蜘蛛は廊下を体一つで塞いでしまうほどの巨体なのだ。吹喜と遥の二人の体を合わせたものよりも大きい。
 巨大な、蜘蛛の怪異である。
「これはすごい怪異だな。まるで妖怪だ」
 遥が感心したように、あるいは嘆くように呟いた。
「あなたたちはそれほどでもなさそうね。ただの人間……まるで歯ごたえがない」
 吹喜のものでも遥のものでもない声が返事をした。それが幻聴や妄想でなければ――その声は蜘蛛が発した声である。
「会話ができる……? そんな、ありえない」
「ありえなくはないわ。だって、目の前にいるんですもの」
 クスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクスクス――。
 耳障りな女性の声で蜘蛛は笑った。
 しかし会話ができるほどの知能と社交性を持った怪異など見たことがない。それこそ精霊や神代の神々、あるいは英霊クラスの霊くらいのものである。
「十六文書?」
「いや、違う! こんな化け物の姿――」
 吹喜の問いに遥が答えようとした。その前に、蜘蛛の巨大な脚が遥の体を後ろに蹴り飛ばしていた。
 遥の体は木の葉のように簡単に吹っ飛ばされた。そのまま勢いに任せてリノリウムの廊下の上を転がる。
 それを見届ける前に、吹喜は反射的にナイフを投げようとした。
 魔性殺しの必殺技――。
 しかし吹喜が右手のナイフを振り下ろす前に、Vの字に分かれた蜘蛛の足が吹喜の右手首を挟んで拘束していた。
 吹喜は呻いた。ぎりぎりと手首を切断する勢いで締め付けられる。腕はおろか手首すら動かせない。
「遠蛇流封祭々――」
 学校の廊下に遥の怪しげな呪文が響いた。背中から廊下に倒れた状態で呪文を詠唱。遥の手の中から真っ青な炎が二本、蛇のように絡み合いながら蜘蛛の体に突っ込んだ。
 鉄でさえ一瞬で溶かしてしまうような熱が蜘蛛の体を焼いた。
  蜘蛛は奇声を上げて暴れまわる。その拍子に吹喜の体は蜘蛛に放り投げられ、そのまま廊下の上を突き当りまで滑って行った。
 その拍子に遥の体は蜘蛛に放り投げられ、そのまま廊下の上を滑って曲がり角まで止まらなかった。
「ちっ……!」
 構わずにナイフを投げる。
 が、そこにはすでに蜘蛛の姿はない。壊された窓から外に逃げてしまった後だった。



3

 洋祐は自室で姉とボードゲームをしていた。ドイツだかで賞を取ったらしい、有名なボードゲーム。洋祐自身はあまりそういう遊びは好きではないが、パズル狂の姉がその手のゲームを拾ってきては洋祐を相手に指名するのだ。
 あまり気乗りもしないし強くもないが、断わると後が怖いのでしぶしぶ姉の対戦相手を務めている。
「――はい! 私の勝ち!」
「よかったな。さあ、満足したら出て行ってくれ」
「じゃ、次は先攻後攻入れ替えてもう一回やろう」
「まだやんのかよ!」
 姉は短いデニムのパンツと半袖の白いシャツという、秋とは思えない清涼感溢れる格好をしていた。というか、季節外れというか、何を考えているんだこいつは。もうそろそろ冬だというのに。
「もういい加減にしてくれよ! つーかずーっと負けてるんですけど俺!」
「あんた弱いからねー。たまにはまぐれで勝つことがあってもいいのにね」
「というか俺も真面目にやってないからな」
「あー強がりだ。ヨウの必殺『俺本気出してない』宣言。わー子供みたいー。中学生中学生ー。ちなみに弱いってのは、パズルのことじゃなくてヨウの頭のことだからね」
「出て行け。今すぐ俺の部屋から出て行け」
「あ、生意気言った」
 ものすごく自然な流れで姉の腕が洋祐の首に巻きついた。そのまま締め上げられる。
 洋祐は無言のまま(というか首を絞められて喋れない)姉の細い腕をタップした。
「ようし。それじゃ、もう一戦行こうか」
「次で最後な」
「それは約束できない」
「帰れ」
 と言いつつ次のゲームを始める。
 結局、洋右が解放されたのはその4ゲーム後だった。
「くそう……あの姉、いつか絶対復讐してやる」
 そう誓ったのはこれで何度目だろう。最初の誓いは遥か昔。もしかしたら物心がつく前かもしれない。いや、そんなわけはないか。
「あー、英語の予習やっとかないと」
 英語の立原という教師はやたらと生徒の予習にはうるさい。授業自体は簡単なのでその点は助かっているのだが。もし予習をしていかなければ説教から拳骨コースへまっしぐらだ。別に頭を殴られる程度のことならそう大したことでもないのだが、あの嫌みったらしい説教と生徒を完全に見下した態度が大嫌いだ。
 立原に大きな顔をさせないためにも予習はしっかりとしておかなければ。予習をすることでさらに大きな顔をさせているような気もしないでもないのだが。
「と思ったはいいものの、英語の教科書がない」
 鞄の中には英語の教科書どころかノートもなかった。ついでに辞書もない。今日は英語の授業があったが何か忘れ物をした記憶はないから、おそらく学校に置き忘れてきたのだろう。洋祐は優等生ではないので持ち帰る必要のない教科書やノートはすべて学校の机の中に置いてある。そうしておくことで鞄を軽くし、忘れ物をなくす効果を期待したのだが、どうやら今回はそれが裏目に出たらしい。
「しまったな……。よし、学校に忍び込んで」
 そんな馬鹿な。いくら犯罪率が低い永春市と言えど、夜の校舎に施錠がしていないなどと、そのようなことがあってたまるか。



「まさか本当に施錠していないとは……」
 洋祐は夜の校舎、玄関の前に立っていた。さすがに校門は閉まっていたが、そばに生えていた桜の木を足場にして乗り越えたのだ。しかしそんなことをしたところで玄関の鍵が閉まっていればそこから先はどうしようもなかったのだが、きっと洋祐にとって幸運なことに生徒用の玄関のドアのひとつは無用心に開け放たれていた。
「危ねえなあ……。泥棒が入ったらどうするつもりだ」
 もしくは忘れ物を取りに来た不良生徒とか。
 自分で思って笑いがこみ上げてきた。しかし客観的に今の自分を見るとかなり危険なので実際に笑うのは堪えておいた。
 夜の校舎。
 何もないのに笑う男。
「怪しすぎるな」
 一人で突っ込み。
 わざわざ言葉にする必要はないのだが、ありていに言えば、怖かったのだ。
 そのとき、洋祐の耳に奇怪な音が飛び込んで来た。
 窓ガラスの割れる音――なのだが、それにしては妙に大きい。
 まるで爆発でもあったかのような……。
「何だ? 不良が夜の校舎で暴れてるのか?」
 洋祐は玄関から入ろうとした足を引き返し、校舎の外を回って音のあった場所を見に行く。万が一不良が暴れていた場合は見つかるとこちらにも被害の及ぶ可能性があるのでいつでも逃げる準備は整えてある。
 音を立てないよう、校舎の壁に寄り添うように移動した。
 窓が破壊された場所はすぐに見つかった。地面の上にガラスの破片が散らばっていて、それに月の光が反射している。
 しかし奇妙なことは、割れたガラスは一階の窓ではなく三階の窓であるということだった。
「なんだ……? どういうことだ?」
 三階の窓――物理室のあたりだと思うが、窓ガラスどころかその周囲ごと大破していて、何か窓よりも大きなものが力任せに無理やり飛び込んだ、といった、そんな破壊だった。
 不良が夜の校舎で窓ガラスを割って回るという話は聞いたことがあるが、だとしても三階の窓ガラスを割ったりはしないだろう。大体どうやればあんな奇妙な破壊ができるのか。
 洋祐の見える範囲では周囲に人影は無い。校舎の中も、無人だ。
 ……むくむくと、洋祐の好奇心が膨れ上がった。
 すぐに玄関に戻ると、内履きの靴に履き替えて校舎の中に入る。洋祐は迷うことなく三階の物理室まで行った。
 物理室前廊下は窓ガラスの破片が散らばり大変なことになっていた。元々は窓だったと思われる金属の棒が落ちている。多分窓のフレームだろう。切り口はとても汚く、力任せに強引に捻じ切ったようだった。
「な、何なんだ……?」
 これまでこの校舎に人の気配はなかった。当然、この場所にも、無残に破壊された窓以外に何か特別なものはない。
 ――ほんの微かだが、音が聞こえた。すぐ近く、というわけではない。しかし確実にこの校舎内だ。自分の呼吸音さえ邪魔になるほどの音だが、かろうじてそれが人の声であるということは分かった。そういえば足音のようなものも聞こえないこともない。
 少しだけ時間をかけて考えてから、それでも音が消えていないのを確認すると、ガラスを踏まないよう足元に注意して、ゆっくりと音のする方へ歩いて行った。



4

「無事?」
「ああ、うん。骨は折れていないと思う。触るとまだ痛いが」
 蜘蛛に蹴られた胸をさすりながら遥が言った。
 現在は二人で逃げた蜘蛛を追跡中である。吹喜の魔術によって走査した結果、校内かその周辺内にはまだ怪異が存在しているらしい。あの大蜘蛛を殺すのはかなり骨が折れそうだが、退魔が仕事である吹喜たちがここで逃げるわけにもいかないのだ。
「……完成した」
 吹喜の手の中にはついさっき拾ってきたガラスの破片があった。その破片のすべての面に、吹喜が魔力を込めて文字を書き込む。すると、その破片は怪異の居場所を教えてくれる即席のガイドとなるのだった。
 吹喜はそっとガラスの破片を床の上に置いた。破片は、しばらくカタカタと揺れ動いた後、滑るように廊下の上を移動し始めた。歩くような速度で。
「しかし便利だね、吹喜の魔術……。文語魔術だったっけ? 文字を書くだけで何でもできるなんて。僕の口語魔術はいちいち長い文句を言わなきゃいけないからね」
「別に」
 吹喜を先頭に二人はガラス片の後について歩いた。この破片は自動的に一番近くにある魔性の存在へと移動するように吹喜が設定してある。蜘蛛が物理的に隠れているだけならば確実に発見できる方法である。
 真っ暗な廊下を歩く。途中で階段を下りてさらに進む。
 まだガラスは動き続けている。
 そしてとうとう、校舎の外に出てしまった。そのまま体育館の中へ進む。
 もちろん体育館には鍵がかかっている。吹喜は何も言わず魔術で鍵を開けた。
 体育館の中には何もなかった。昼間体育の授業で使ったときとは違い、がらんどうで底が知れない印象だった。
「で、あの化け蜘蛛はどこにいるんだい?」
「…………」
「吹喜?」
「すぐ近くにいる」
 怪異を追いかけていた小さなガラスが、吹喜の足元で停止していた。
「……どこに?」
「近く」
 体育館には遮蔽物が何もなく、つまり隠れようがない。
 しかし吹喜はすぐに気がついた。
 すぐに体育館の天井を見上げた。遥もつられて上を見る。
「蜘蛛の、巣だ」
 光源がないために細部まではわからないが、天井に白い何かが網目のように走っている。あの怪異が蜘蛛の化け物であることから連想すれば、あれはあの蜘蛛の巣なのだろう。
 次の瞬間、吹喜の視界が奪われた。
 ――ホワイトアウト。
 何も見えない。
 目に痛みを感じてすぐに瞼を閉じた。一瞬遅れて、体育館の照明が点灯したのだと気がついた。闇に慣れた吹喜たちの目は光に脆くなっていたのだ。
「吹喜!」
 遥の声。
 何も見えないまま走った。
 衝撃音。何か巨大なものが二人目掛けて飛び降りてきたのだ。あのまま突っ立っていれば危うく踏み潰されるところだった。
 体育館の床が揺れた。吹喜はそれに足を取られて前のめりに転んだ。
 吹喜は背中にひやりと冷たいものを感じた。これはまずい。
 蜘蛛は自分のすぐ近くにいるのだ。一方、自分は視界を奪われ、床に転んだまま。
 すぐにナイフを魔術で取り出し、狙いもつけずに投擲した。
 当たったのか外れたのか分からないまま、両手を使って起き上がり、すぐに離れようとする。
「あ――」
 その吹喜の足を何かが掴んだ。
 人の手ではない。硬くて尖った、化け物の脚。
 別の脚が吹喜の背中を上から押さえつけられた。体が軋む音が聞こえた気がした。
「勝負あったわね。罠のある場所に不用意に入るからこうなるのよ」
 天井に巣を張ったのは、吹喜たちが天井、つまり照明の方を見ることを計算に入れてのことだったのだ。
「吹喜……」
 掠れた遥の声がする。
 徐々に視力が回復してきた。遥も吹喜と同じく、首を掴まれ、床に脚で押さえつけられていた。
 その足を、吹喜は魔性殺しの短剣で撃ち抜こうとして、これも再び蜘蛛に阻まれた。吹喜の両手首も蜘蛛の足によって押さえつけられた。
「…………」
「あらあら残念。悪いけれどこの状況からの逆転はありえないわ。さあ困ったわね。これからどうしようかしら。わたしが少し力加減を誤れば」
 遥の顔が苦痛に歪んだ。
「ほら、こうなる。人間の体は脆いわね。首を折るだけですぐに死ぬ」
「――今すぐその汚い足をどけなさい」
「あら、強気なのね。強気な子供は嫌いじゃなくてよ」
「そうすれば、あなたのことは見逃してあげる」
 アハハハハ……!
 耳障りな笑い声に吹喜は眉をひそめた。
「強気な子供は嫌いじゃなくても、現実が見えない子供は大嫌いなのよ。あなたのすべきことはわたしとの『取引』ではなくてわたしへの『懇願』なのよ。どうかわたしを食べないでください――ってね!」
「私は寛大。これまでのことは水に流してもいい。目障りだから消えて」
「……そろそろ笑えなくなってきたわ。不愉快よ、あなた」
「消えろ、蜘蛛女」
 言った瞬間、蜘蛛の押さえている場所に強烈な不可がかかった。体がかなり危険であることを自覚したが、吹喜はそれを表に出さないよう細心の注意を払った。
 もしこれが、知性を持たない低級の怪異ならば、ここですでに吹喜の命運は尽きていただろう。しかし、この蜘蛛は人の言葉を理解するのだ。
 会話ができる、ということは、それだけで付け入る隙が生まれる。
「あなたのような醜い蜘蛛、今まで見たことがな……」
 最後は声がかすれてうまく発声できなかった。
 さあ、怒れ。
 そして慢心しろ。
 逆転の可能性はそこにあるのだ――。
「……なあんて、わたしが激怒するとでも思ったの?」
 え……。
「お見通しなのよ。そしてそれに乗ってあげるほどわたしはお人よしじゃないわ。さようなら、不愉快な魔術師さん」
 そして、吹喜の体が蜘蛛の足に押し潰されようとした、その時。
「あの……誰かいるんですか?」
 声がした。
 体育館の入り口。
 ガタ、と鉄の扉が動いた。
 今にも誰かが入ってくる。
 一瞬だけ、蜘蛛の注意はそちらに向いた。
 吹喜はその隙を見逃さなかった。
 押さえられている右手首をくるりと回して足の下から滑らせる。
 吹喜の体が光った。彼女の体に刻まれた、文字の魔術が起動したのだ。
 いつの間にか右手に握っている、世界で最も危険な短剣を、思いきり蜘蛛の足に突き立てた。
「…………っ!」
 反射的な行動だった。ただの刃物ならまだしも、吹喜のそれは魔性殺しのもっとも残酷な呪いの掛かった最悪の一品なのだ。
 吹喜の腹を押さえつけている足が浮き上がった。
 吹喜はすぐに体育館の床の上を滑り、そのまま勢いをつけて左手を押さえている足目掛けて強烈な蹴りを放った。
 そうしてとうとう――ほんの一瞬の隙を突いて、吹喜の体は完全に自由になったのだ。
 しかしまだ遥の体は蜘蛛の足の下だ。つまり人質に取られている形。
 膠着状態――。
 そう分析した吹喜の予想は、あっけなく裏切られた。
「――――そうね」
 一瞬の逡巡の後、蜘蛛の体がふわりと上に浮かび上がった。飛んだのではなく、天井から蜘蛛の糸が張られていたのだ。
 そのまま天井近くまで上ると、上の窓を突き破って体育館の外へ行ってしまった。
「…………はっ」
 それを見て、吹喜の体からどうと力が抜けた。
 拍子抜け、というよりは、なんとか引き分けの形に持っていけたことに対する安堵だった。
「……おい。あれはどういうことだ」
 ついさっき体育館にやって来て、一瞬の隙を作り出して吹喜を救った張本人が、あっけに取られた様子で二人と破れた窓を交互に見ていた。
「吹喜、俺にも分かるように説明してくれ。これは夢なのか?」
 吹喜のところへ歩きながら、篠葉洋祐が言った。
「……夢」
「ああ?」
「そう。これは夢」
 蛇のように伸びた吹喜の手のひらが洋祐の頭を掴んだ。
 洋祐がそれに抗議するよりも早く、吹喜の手の甲に緑に光る文字が浮かび上がり――洋祐の体は力を失ってその場に倒れた。
「……眠らせたのか」
 喉元をさすりながら遥が起き上がる。どうやら大した怪我では無いらしい。
「彼を神社に連れて帰る」
 倒れた洋祐の体を肩に担いで、吹喜は言う。
「そして、彼の記憶を消す」
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