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 旅説りょせつは自らに問うた。汝は何を求めるのか。
 答えは即座に返ってくる。
 私は何も求めず。
 ――私は、人類の天敵。


さよならベルティエール

第一話


1

 闇の中を疾走する巨大な影があった。
 永春市はこの地方では最も大きな都市のひとつであるが、市街地を出て少し北へ向かえばそこは極端に人口密度の低い山間部で、夜になると人の気配はおろか明かりのひとつも見つけることができなくなる。
 そういう事情があって、今夜その怪物を目撃した者は誰もいなかった。ただ一人、怪物を追いかけている有檻ありおり 悠膳ゆうぜんを除いて、である。
 悠膳は神社の神主が着るような服で、徒手空拳のまま、前方を走る大きな影を追いかけている。外見は年の割には老けていて、今年で四十二になるのだが五十代に間違われることも珍しくない。白髪の混じった長い髪を後ろで束ねていた。
 黒い木々の合間を縫って怪物が走る。怪物と同じ速度で悠膳も走る。人間離れした速度。まるで山猫である。
 彼が追いかけているのは普通の生物ではない。四足歩行で、闇のように黒く、それでいて瞳は血のように赤く、頭に歪に伸びる二本の角を持ち、疾風のように素早く走る『何か』だ。
 その前方に二つの影が現れた。
 一方は少女で他方は少年。女の名前は右島みぎしま 吹喜ふぶき、男の方は有檻 はるかといい、悠膳は二人の保護者である。悠膳とは違い、その年頃の子供が着る普通の服だ。二人は今年で十五歳になったばかりである。
 とてつもない速度で自分たちの方に駆けて来る怪物を、二人は平然と眺めていた。少女の方、吹喜の整った唇がニィと吊り上がった。
 瞬間。
 幾十もの刃物が、怪物の漆黒の体を貫いていた。
 刃物のひとつひとつは刃渡りも小さく、威力も大したものではないはずなのだが、数が異常だった。今までどこに隠していたのか、一瞬で放たれた銀色の雨が怪物の体を撃ち抜いたのである。
 そしてその刃物は、怪物の体に刺さってからが本来の効力を発揮するのだ。ナイフの刃にびっしりと描かれた呪いの文句が奇妙に蠢いた。それは刃の上を滑り、傷口からインクの染みのように怪物の内部にじわりと広がった。
 全く同じ現象が、怪物に刺さった全てのナイフで同時に起きていた。数秒も経たないうちから呪いは怪物の体を蝕み、機能不全を起こし、存在を保てなくなった怪物は、チーズのように糸を引きながら分かれて崩れた。
「ご苦労様」
 悠膳は労いつつ、肩で息をしながら二人に近づいた。この程度の活動で息が上がるようになったとは、自分が現役でいられる時間もそう長くはないらしい。
 その焦りが原因、というわけではなかった。
 無防備に二人に近づく悠膳は、活動を停止したはずの怪物が奇妙に脈動していることに気付けなかった。
 ――ビクン。
 それは怪物の最後の悪あがき。それまでのどの動作よりも素早く動き、怪物の黒い輪郭のぼやけた欠片を悠膳の背中に突き刺した。
「――っ!」
 悠膳の反応は素早かった。すぐに前方に飛び出した後、可能な限り高速化された印と文により、悠膳は神の力を発動させた。
「滅」
 悠膳の周囲が一瞬にして紫の熱に覆われる。黒い水溜りと化していた怪物の残骸はその熱に耐えられるはずもなく、一瞬で焼却されこの世から姿を消した。
 神秘――それは世界の怪異を葬るための人類最後の手段。怪異とは、闇に潜み、人の絶望を喰らう人類の天敵。そして、悠膳たち神秘を使う人間は、その怪異のさらに天敵なのだ。
 悠膳の使う神秘は、古来よりこの地で受け継がれてきた神言術と呼ばれる力である。その昔、有檻の一族は怪異の専門家として名を馳せていた。衰えたとはいえ現代においてもその力は未だ健在だ。神言術の技術は数多くの神官を経て悠膳へと伝わり、そして今は息子の有檻遥がその最先端である。
「親父!」
 膝を突き、倒れそうになる悠膳に遥が駆け寄ろうとする。それを悠膳は片手で制した。
「取り乱すな。俺は無事だ」
 汚れ一つない純白だった袴が悠膳の血で赤く染まった。先程の怪異によって悠膳の左肩は完全に貫かれ、傷つけられた動脈からは止まることなく血が流れ続けている。
 ――かなり危険な状態だった。  当分、怪異退治には参加できないかもしれない。
「……悠膳」
 右島 吹喜が静かに言った。
「神社に戻ろう。手を貸す」



 右島 吹喜は現代に生きる魔術師だ。遥や悠膳たちと違い、彼女の使う神秘は太古の北欧に起源を持つ、文字を使った呪いの一種だ。遥と違い、悠膳と吹喜の間に血縁関係はない。それでも、親のいない吹喜にとって悠膳は唯一の保護者だった。
 吹喜は遥と一緒に悠膳を永春神社へ連れ帰った。永春神社は永春市の最も大きな神社で、彼女ら三人の活動の拠点となる場所だ。貧血で真っ青になる悠膳に遥はしきりに声をかける。三人の歩いた後には真っ赤な血液の路が残された。
 神社に帰るなり悠膳は神官たちから怪我の治療を受けた。永春神社には常に四人からの神官が勤めていて、それほど神秘に精通しているわけではないが、それなりに何でも出来る有能な人たちだ。
「さすがですね、悠膳さま。命に別状はありません。でも、当分はここで大人しくしている必要がありますね。怪異祓いなんてもっての外です。最低でも二週間は安静にしていてください」
 医療担当の巫女、夏華なつかが言った。六畳ほどの畳張りの和室に、布団の上で横になる悠膳と、それを囲むように吹喜たち三人が座っていた。
「だ、そうだ。そういうわけだから、しばらくは僕らに任せて大人しくしていてくれ」
 眼鏡のリムを指で上げながら遥が言う。
「親父と同じくらい、とまではいかなくても、まあ僕ならそれなりにやっていける。吹喜とふたりならね」
「そうか……。スマンな、迷惑を掛ける」
「なに殊勝なこと言ってるんだよ。それにしても珍しいな、親父が怪我をするなんて。僕が十二歳のとき以来じゃないか」
「どうやら俺もまだまだ未熟らしい。それとも、俺も歳なのか……」
「何言ってるんだ。怪我をして弱気になっているのか?」
「ああ……そうだな。いや、やはり忘れてくれ」
 悠膳の顔色は悪い。胸に巻かれた包帯が痛々しかった。
「――だとしても、アレを放置しておくわけにはいかない」
 それでも、悠膳の瞳は弱ることなく強い光を放っていた。それは意志の力だと、吹喜は思った。
「最近、この近辺で怪異が異常発生してる件だね」
「今週だけで七件。普通ならありえん数だ」
「やっぱり誰かが呼び寄せてるのかな?」
「まさか。あれは誰かが連れて来たというよりは、怪異が自発的に集まっている、という感じだな。でなければ俺たちがあんなに簡単に怪異を発見できるはずがない。各個撃破できてしまうからな。まあ、それすら囮という可能性もありうるが……。吹喜はどう思う?」
「……恐らく、怪異が求めている何かが、永春市にやって来た」
「例えば?」
 遥が聞いた。
「まず考えられるのは、十六文書」
「やっぱり吹喜もそう思う? でももしそうならかなり厄介なことになるね」
「ああ。――『悪意を持った神秘の塊』、十六文書。怪異が集まるというだけでも厄介だが、十六文書自体がかなり危険だ。下手をすれば永春市そのものが奴らの食糧庫になりかねん」
 大昔、ロセ=ベルティエールという魔術師が十六の文書を執筆した。この文書はそれ自体がまるで生きているかのように意志を持ち、それぞれが人間の社会に溶け込んで活動を開始した。
 文書というよりは、『存在』と表現するのが正しいかもしれない。
 十六文書の特徴として、それは人の形をした魔導書で、人のように振る舞い、知性をもち自ら考えるのだ。つまり、十六文書が人間の社会に紛れ込んでしまうと、それを見つけ出すのは困難を極める。
 もうひとつの特徴は、十六文書はそれぞれ「外法」と呼ばれる特殊な神秘の可能性を秘めている。外法は人類が到達することのできない神秘の極地とされ、たとえこの先人類がどれだけ技術や神秘を発展させたとしても、未来永劫絶対に辿り着けないことが保障されている類のものだ。
 そして最大の特徴――十六文書が危険である最大の理由は、十六文書のすべてが、人間を破滅させることを目的に活動していることである。
 そして、怪異が十六文書の周囲に集まるのもそれが理由とされている。それは十六文書が、怪異の天敵である魔術師たちのさらに天敵であるからだ。
「……一応、十六文書がありそうな場所に心当たりはある」
「何だって? 本当か?」
「ああ。……しかしなぁ」
「何だよ」
「んー。そうだなぁ、俺もこんなだし、遥はやる気だし、吹喜は相変わらずよくわからんけど、とりあえず二人に……」
「何だ? どういうことだ? というか、知っているならすぐに教えてくれよ」
「実はあまり確信がない」
「何だそりゃ」
「まあ待て。確信はないが根拠はある。第一に、怪異が向かおうとしていた先。そして、十六文書が潜伏するのに都合のいい場所。この二つの条件を満たす場所はひとつくらいしか思いつかん」
「どこだよ」
「永春高校」
 答えたのは悠膳ではなく吹喜だった。
 春永高校は春永市にある市立高校。全国どこにでもある、特に特徴のない普通科の高校だ。
「……だと思う」
「なるほどね。確かに学校なら人がたくさんいるし、子供相手なら怪異の仕事もやりやすい。さすが吹喜だね」
 遥の称賛にも吹喜は眉ひとつ動かさなかった。
「けどどうするんだい? 夜に行っても誰もいないし、昼は昼であそこは授業してるし」
「考えるまでもないだろうが。生徒として潜り込め。お前達、何のために子供をやってると思ってるんだ」
 悠膳が当たり前だと言わんばかりに言った。
「別にそのために子供なわけじゃないけど、確かにそれが一番現実的かもしれないね」
「編入の手続きは俺の方で任せろ。来週からお前達は永春高校の生徒だ。ちゃんと勉強しておけ。それから、一応言っておくが」
 せきをして悠膳の言葉が途切れる。枕元にあったコップで水を一杯だけ飲んでから続けた。
「これは偵察だ。十六文書の存在と、できれば誰に化けているかを探ってもらいたい。俺が復帰するまでの二週間、あまり派手な活動は控えるように。あと、怪しまれないようにちゃんと勉強しておけよ」
「わかってるさ。……勉強かー。一応今は西華高校に在籍してるってことになってるけど、ほとんど通ってないからなー。何習ったかすっかり忘れたよ。吹喜は勉強得意だったっけ?」
「私、学校に行ったことない」
「あれ? 確か県立のところに行ったんじゃなかったか?」
「一度も登校していない。必要なかったから」
 吹喜はそっけなく答えた。



2

 朝の教室は生徒が集まるにつれ騒がしくなり、ほとんどの生徒が揃った授業の数分前に騒がしさのピークを迎える。一年生の篠葉しのば 洋祐ようすけもその騒がしさの一端を担っていた。この状況は中学のときと何も変わらない。
「洋祐ー。数学の宿題やったー?」
「あー、やってない。というか宿題があるということすら知らなかった。それ以前に今日数学の授業があるということも知らなかった」
「駄目じゃん」
「ていうか、もしかして今日は火曜日か。間違えて水曜日の時間割を持ってきちゃったぜ」
「馬鹿」
 奈々ななにそう言われ、洋祐は何か言い返そうと思ったが、客観的に考えて今の自分は馬鹿以外の何者でもないので反論は控えた。
 ああそうさ、俺は馬鹿さ。
「ほら」
 奈々はそう言って数学のノートをこちらに差し出した。
「あー。どういうこと?」
「さっさと写しなさいよ。ニ限目なんだから急がないと間に合わないわよ」
「さっきも言った通り写そうにも数学のノートがない」
「…………」
 奈々はものすごく嫌そうな顔をして、自分の鞄から新品のノートを取り出すと洋祐に差し出した。奈々の席は洋祐の席のすぐ後ろなのだ。
「いいのか?」
「あんたね、数学の丸川先生に目つけられてるんだからちょっとは自覚しなさいよ。これ以上宿題忘れたらあんた本当に殺されるわよ」
「ううっ、すまん。お前は俺の命の恩人だ。友情っていいなぁ。暖かいなあ」
「ちゃんと後でお礼してよね」
「いつかまとめて利子をつけて返してやる」
「どうだか」
 洋祐が奈々の宿題を写し始めてからすぐにチャイムが鳴った。一限目のHRが始まる時間だ。HRの時間も使えば二限目まではかなりの余裕があることになる。
 担任の谷矢先生が教室に入ってきてからも、洋祐は構わずにノートのコピーを続けていた。
「ねえ、洋祐」
「んあ? まあ待て、今は連立方程式を写すことで手一杯――」
「そういえば今日だったよね?」
「正月はまだ先だぞ」
「んなこと言ってないでしょ! ていうか知ってるわよそれくらい!」
「で、何の日だって? まさかあの日か?」
「そうそう。前からずっと噂になってたけど」
「お前の女の子の日か」
 バン!
 洋祐は背後から数学の教科書の角で殴られた。大きな音がしたので先生他クラスのみんなが洋祐の方を注目していた。注目されて興奮した洋祐は放送禁止用語たっぷりの大人なジョークをその場で披露したが、途中で再び奈々に殴られて沈黙させられた。谷矢教諭は洋祐たちのことには一切触れず、何事もなかったかのようにHRを再開した。
「……痛いじゃないか」
「変態。馬鹿。ノート返せ」
「ノートは勘弁してくれ」
 少し悪ノリしすぎたらしい、と反省。
 奈々は深くため息を吐くと机に突っ伏して倒れてしまった。
「どうした? メンスか?」
「そういうネタやめなさいよ……。わたし以外の女子にそれ言ったらマジ引きされるわよ」
「お前だってマジ引きしてるじゃないか」
「分かってるなら止めなさい」
 ああああ、と今度は頭を抱えて唸りだした。なんだこいつ。
「もう……なんでわたしはこんなのに……こんな変態で馬鹿で無能な……ああムカツク!」
 ガン!
 洋祐の椅子の足を思いっきり蹴られた。物理的なダメージは無かったが精神にひどく傷を負った。
 洋祐はトラウマを抱えた!
 もうだめだ! 死にたい!
「そういえば、今日はなんの日なんだ? いや、おかげさまで数学の宿題もなんとかなりそうだし、俺の命もあとしばらくは持ちそうだから、聞いてやってもいい」
「…………」
「いえ、聞かせてください。聞かせてください奈々お嬢様」
「お嬢様やめれ。……ごほん。あのね、今日は転校生が来る日じゃなかったかしら、と言ったの」
「おお、その喋り方お嬢様っぽい」
「そ、そう? うふふ、どんな方がいらっしゃるか楽しみね」
「うまいうまい」
「セバスチャンはどう思われて?」
「誰がセバスチャンやねん」
 篠葉=セバスチャン=洋祐。
 格好悪いなあ、とセバスチャンは思った。
「あー、俺の儚げでいい加減な記憶を掘り返してみるに、たしか転校生は二人やって来るんだったな」
「そうだったわね、んふふ」
「ていうかいつまでやる気だ」
「どっちが来るのかしら」
 奈々は何もかもを無かったことにして普通の喋り方に戻る。
 どっち、というのは、転校生のどちらがやって来るのだろうこの教室に、という意味だろう、多分。洋祐の心許ない記憶によれば、確か転校生は男子と女子の二人だったはず。
「それにしても中途半端な時期に来るのね。まだ九月なのに」
「アメリカのスクールだと秋から新学期なんだぜ」
「転校生ってアメリカから来るの?」
「いや、県内だったはず」
「…………もういい」
 奈々が諦めた。
「――それじゃ、紹介する。入って来なさい」
 洋祐は谷矢先生の前口上をほとんど聞いていなかった。よって、転校生がどこからやって来たとか転校の事情や転校生の名前すら分からなかった。
 それでも分かったことは、教室に入ってきた生徒が女の子であったことと、その女の子がとてつもなく美人であるということだった。
 癖のない真っ直ぐの短い黒髪と、狂いのない整った顔立ち。さらに教室に入ってから一切動かすことのない表情が、どこか人形のような、まるで生き物ではないかのような印象を洋祐に抱かせた。
「自己紹介しなさい」
 先生に促され、彼女が口を開いた。小さいが通る声。
「右島、吹喜です」
 まだ続きがあると思っていたクラス全員の沈黙が続くが、しばらくして、これで自己紹介が終わりだということに気付いた谷矢先生が慌てて補足した。あの美人の転校生は両親の仕事の都合で転校することになったらしい。それ以上具体的なことは知らないのかかなり曖昧な説明だった。
「えーと、空いている席は……。ああ、そうだ。ついでだから今の時間に席替えを済ませてしまおう。おい、委員長」
 先生に呼ばれて奈々が前に出て行った。奈々は学級委員長なのだ。
 洋祐たちのクラスはそれぞれの学期に一回ずつ席替えをすることになっているらしい。たしか昨日谷矢先生がそのことを宣伝していた。ような気がする。基本的に洋祐は人の話を聞かない人間だ。
 学級委員長の奈々と副委員長の男子が仕切って席替えのくじ引きをする。くじはどうやら前もって作ってあったらしい。
 洋祐も自分の順番が回ってきたので紙切れを一つ取る。今の席の二つ隣、一番窓側の席になった。
 一限目の終了時刻が迫っているので急いで机を移動するよう、担任から指示があった。教室の中が机を移動する音で騒然となった。
「……お」
 転校生が、洋祐の隣に机を移動してきた。
「もしかして隣か?」
 そう聞くと、吹喜は黙って自分の机に座った。
 きっと照れ屋なんだろう。そう思い込むことにした。
 自己暗示自己暗示。
「どこの高校から来たんだっけ? この時期の転校って珍しいね」
 親切なお隣さん、しかも頼りになってなんでも相談したくなっちゃう! というキャラで話しかけてみた。
 反応がない。ただの転校生のようだ。
「な……て、てめー、この俺様を無視するとはいい度胸じゃねえか! 転校初日にしてこの俺に目を付けられるとはお前の未来は真っ暗闇だな! 放課後に体育倉庫に来なさい。ハァハァ、こ、個人指導してやるぜ」
 中指を突き立てて宣戦布告。
 と同時に奈々がやって来て洋祐の後頭部に強烈なハイキックを叩き込んだ。一瞬、奈々のみずいろのパンツが見えたような気がしたが、きっと気のせいだろう。
 今日のパンツは白だったはず。
「……すばらしい蹴りだ。惜しむらくは、その対象が俺の頭だということだ。どうだ、一緒にサッカーでも始めないか。君なら花園を狙える」
「学級委員長として、変質者がいたいけな少女に絡んでいるところを見過ごすわけにはいきません。あと、花園はサッカーじゃなくてラグビーよ」
「というか助かった。いやマジで。あのまま突っ込みが入らなかったら俺は本当の変質者になるところだった。いやいや、ありがとう」
「悪いけど突っ込みが入ったところで洋祐が変質なのは変わらないと思うわ」
「どうやら君もこの俺様を敵に回すらしい……。放課後に体育倉庫に来なさい。ハァハァ、こ、個人指導してやるぜ」
「もう一度蹴られたい?」
「ごめんね、右島さん。俺、篠葉っていうんだ。趣味は郵便貯金、特技は確定申告の社会派のハードボイルドなんだ。これからよろしくね。何かわからないことがあったら遠慮なく言ってね」
 奈々が怒り心頭、といった感じで洋祐を睨みつけていた。ちなみに奈々の席は洋祐たちの席とは反対側、一番廊下側の席である。わざわざご苦労なことだ。
 洋祐は返事を一切期待していなかったので、吹喜が小さいがよく通る声で「質問」と言ったことには正直驚いた。
「何かな。ちなみに俺は彼女いないからね。あとお金の相談は無理だからね。お金のことはこの奈々お姉さんに頼みなさい」
「誰がお姉さんか」
 二人の掛け合いを無視して、たっぷりと時間を掛けてから言った。
「体育倉庫の場所、分からない」



 数学の授業が始まった。
 洋祐は奈々の大いなる協力のおかげで無事に宿題を提出することができた。ほっと一安心していると、隣の美人な転校生に小声で話しかけられた。
「教科書」
「あん?」
「持ってないから、見せて」
「なにぃ? やだ奥さん聞きました? この篠葉洋祐にあんな無礼を働いておきながらよくそんなことが言えたもんですね、全く。厚顔無恥というのはあなたのような人の事を言うのですよ恥ずかしい。親の顔が見てみたいわね。そんなんで鬼ばかりの世間を渡っていけるんですかねホントに」
「…………」
「あいや、待たれよそこの転校生。この篠葉洋祐、根っからのジェントルメンだからに、困ってるレディーを見捨てることなんてできるわけがないのです。そうだな、この俺に向かって『洋祐さま、どうかこの卑しい卑しい転校生に、あなたさまの持つ高貴なる教科用図書を、どうかどうか拝見させていただきますよう、切にお願い申し上げます』と素直な気持ちを白状することができたのなら考えてもいいだろう」
「洋祐さま――」
「いや、待て。マジに言うな。教科書くらい見せてやるから自分を安売りするな、若者よ。……ていうか俺も教科書忘れたんだった。右島さん、数学の教科書を見せてください」
「持ってない」
「だろうね、さっき聞いたよ」
 このような、洋祐が馬鹿なことを言い、吹喜がそれを真面目に返す、という奇妙な流れが昼休みまでに数回繰り返された。最後の方ではさすがに洋祐も吹喜がどんな人かを理解することができたので、あまり飛躍した会話を仕掛けないように心がけていた。
 昼の休み時間になると、洋祐の予想通り吹喜の席の周りに人だかりができていた。
「右島さんのいた学校ってどんなところだった?」
「部活は? スポーツとかやるの?」
「転校一日目で篠葉の席ってツいてないよなー。まああれだ、がんばれ。あいつ、根は悪い奴だから話しかけられても目を合わせない方がいいぜ」
「学校のこと分かる? 案内してあげようか?」
「ちょっと待て、誰だ俺の悪口を言ったのは」
 隣の席の洋祐のことは誰も気に留めていなかった。
「よう、親友。なんかすごい人だかりだな」
「やあ顔見知り。隣のクラスからわざわざご苦労なことだな」
 そう言って洋祐と蜂須はちすか 真司しんじは挨拶を交わした。蜂須と洋祐とは中学からの知り合いで、蜂須は当時から親しかった洋祐と奈々の二人に加わる形で三人でよくつるんでいた。
「って、顔見知りはないじゃないか。今さら友情否定かよ」
「うっさい。先週の賭けポーカーのことは死ぬまで忘れんぞ。七代先まで祟ってやる」
「あれは、お前が調子乗ってばんばんレイズするからだろうが。俺はちゃんと警告したぞ」
「あんなの普通ブラフだと思うだろうが」
「お前は裏を読みすぎなんだよ。もう少し素直に生きろ」
「だーっ! 黙れ偽善者め! 俺の全財産返せ!」
「残念だがあれは全部俺のアクセサリに変わっちまった」
 ポケットから取り出した財布にはジャラジャラと金やら銀の光り輝くアクセサリーがついていた。財布を取り出す指にも銀の指輪がいくつかはまっていた。蜂須の趣味は光物を集めることなのだ。もっとも、本人の話によると宝石の類に興味はないらしいが。
「いつか……いつかその余裕で幸せな顔を踏みにじってやる……。その顔が悲しみで歪むところを必ず拝んでやる!」
「なーんかモロ悪役のセリフだよな、それって」
「うーっす、真司」
 奈々が片手を挙げて近寄ってきた。
「よう奈々。今日も美人だな」
「ありがと。洋祐もたまにはこういうことを言いなさいよね」
「やあ奈々さん。今日は昨日と違ってイマイチだね」
「あんた死になさい。……ごめんねー、右島さん。こいつ迷惑掛けなかった?」
「…………」
「洋祐! 右島さんに謝りなさい!」
「なんも言ってないじゃねえか!」
「このいたいけな目を見なさい! この変態に怯えるか弱き瞳を!」
「別に、迷惑だとは思っていない」
「そらみろ冤罪だ! 裁判長は何を見ていたんだ! 俺の人権を守れ!」
「右島さんって優しいのね……。ねえ、吹喜ちゃんって呼んでいい?」
「好きにして」
「ありがとう、吹喜ちゃん」
「無視するな。おい自称俺の親友、俺の弁護を頼む」
「なんつーか、お前ら仲いいよな」
「くたばれ弁護人!」
 洋祐は真司に向かって中指を突き立てた。
 それを奈々がたしなめる。
 二人の様子を、真司が面白そうに眺めてる。
 これがいつもの三人のスタイルだった。
 真司は洋祐の隣の席の美女に今さら気付いたらしい。やっとそちらに話題を移す。
「そういや転校生が来るって言ってたな。……んー、確かに美人だ」
「こら、本人の前でそういうこと言わないの」
「へっへっへ、所詮お前も血に飢えた野獣ということか。ええ、真司さんよぉ。シルバーアクセサリなんて気取ったものを集めて、その実女にモテるための小道具なんだろう、このスケベ!」
「いや、俺幼女にしか興味ないし」
 奈々が頭を抱えた。
 洋祐も頭を抱えたい気分になった。
「蜂須真司です。どうぞお見知りおきを」
「……右島吹喜。よろしく」
「ああっ! 右島さん、蜂須にだけは丁寧に自己紹介してる! 差別だ!」
「あ? これで丁寧なのか?」
「お前は普段の右島吹喜を知らんからそういうことが言えるのだ」
「あんただって半日隣に座ってただけじゃない」
「よし、今日からお前のことは吹喜と呼ばせてもらう」
「いきなり馴れ馴れしいな。それじゃ俺はふーちゃんと呼ばせてもらう」
「黙れロリコン」
「幼女趣味は風当たりが冷たいな……」
 真司は長い前髪をかきあげながら教室を去った。
「…………」
「ねえ、吹喜ちゃん。部活はどこに入るか決めたの?」
「まだ決めていない」
「でもどこかには入るんだろ? 帰宅部はつまらんぞ」
「そう考えてる」
「じゃあ私たちで案内しようか? この学校って部活動の数が多いから一人で選ぶのは大変よ」
「そう……」
 吹喜は少し考えて――いるのだろう、おそらく。洋祐の目には停止しているようにしか見えなかったが。とにかく、吹喜は数秒の間停止した後、顔の必要最低限のパーツだけを動かして答えた。
「よろしく」



3

 吹喜が洋祐たちの誘いを承諾したのにはいくつか理由があった。第一に、学校の中で十六文書の探索をする以上、なるべく多くの人間と接触できるような環境が望ましい。第二に、十六文書側からの発見を避けるために、なるべくクラスに溶け込んでおく必要があるということ。
 なのだが、昼休みに篠葉洋祐たちと話してからどうもクラスメイトたちの態度がよそよそしい。どうやら自分は洋祐たちのグループに入ったという認識がクラスでなされているようだが、そのことでクラスメイトが一歩離れているのを考えると、もしかしたらあの男の誘いを受けたのは間違いだったのかもしれない。
 吹喜の中では、洋祐への興味はあっても洋祐への評価は非常に低い。吹喜は一部の人を除いて、有用か無用かということのみで他人を評価する傾向があるのだ。もっとも、吹喜は人間関係そのものをあまり重要なものとして考えていなかったが。
 学校の授業は退屈だった。吹喜としては受験するつもりも卒業するつもりもなく、悠膳の怪我が回復するまでの僅かな時間を過ごすだけのつもりでいたので、とりあえず教師に目を付けられない程度の勉強しかしていない。
 最初、たくさんの知らない人間と同じ部屋で一緒に過ごすというのは彼女にとって新鮮な経験だった。しかしその新鮮さも夕方ごろには慣れてしまい、真面目に取り組む気のない授業とすぐに理解できてしまう教科書は吹喜の心をどんよりと曇らせた。やはり自分は、怪異相手に大立ち回りする方が性に合っている。高校では体育の授業があるらしいが、あれならば自分も少しは楽しめるだろうか。ちなみに教科書は洋祐と反対側の隣の席の生徒に借りた。練条れんじょうという名前の女子生徒だが、今のところ彼女が吹喜からもっとも高い評価を得ている生徒だった。
 放課後になり、洋祐と奈々との約束の時間だと吹喜が認識するよりも早く、吹喜の席の周りには二人が集まっていた。
「おっし、それじゃ行くか。まずは文化部と運動部、どっちから案内するのがいい?」
「蜂須くんは?」
「あいつ今日はバイト入ってるからな……。郵便局の向かいに『ジョット』ってレストランあるだろ? あそこの厨房でバイトしてるんだよ、あいつ」
「真司って料理上手だもんねー」
「あいつに料理を教えたのは何を隠そう、この俺なんだがな」
「嘘つきなさい。あんた卵焼きくらいしか作れないじゃない」
「だからその卵焼きを教えてやったのだ。そして俺の卵焼きに感動した真司は、それ以来料理の道を志すようになったのだ。つまり俺があいつの師匠なわけだ」
「本当ー?」
「本当のような嘘の話」
 三木田奈々のドロップキックが篠葉洋祐の脳天を揺らした。もう少し体重を乗せた方が効果的だと吹喜は思った。
「それで、吹喜ちゃんはどこの部に入りたいとか希望はあるの? 運動部? 文化部?」
「……人が多い方」
「それなら運動部だな。文化部は部の数が多い分、ひとつあたりの部員数は少ないからな。確か英会話部なんか今年は部員二人で廃部になったな」
「英会話部なんかあったっけ?」
「この間部室棟の一階で映画上映してたやつらだよ」
「あの人たちって英会話部だったの? 映画研究会だと思ってた」
「一応英語の映画を流してたからな……。ちなみに映画研究会は二階の一番奥でコスプレ大会を開いたあの人たちだ」
「わたし、漫画研究会だと思ってた……」
 それ以降、しばらく吹喜の知らない話が続いたが、唯一分かったのは、この高校の生徒は洋祐だけがおかしいというわけではないということだった。
「まあとにかく、人の多い部活がいいならテニス部か剣道部だな。ちなみに俺も剣道部」
「あんたどうせ真面目にやってないんでしょ?」
「掛け持ちしてるから仕方ないのだ。剣道部と陸上部と弓道部。ちなみに陸上部では槍投げをやっている。つまり、剣での近距離、槍での中距離、弓での遠距離と俺には隙がな――」
 乾いた音が響いた。奈々が洋祐の後頭部をはたいていた。
「……隙だらけじゃない」
「く、くそうっ! おい吹喜ちゃん今の見たか? 今の酷くないか? いきなり殴られたぞ? あまつさえ『隙だらけね。ハッ』だとぉ? まったくもうやーねえ三木田さんのお宅のお嬢さんは乱暴者で。PTAに訴えてやろうかしら」
「自業自得よ」
「横暴だ」
「ほら、いつまでもくだらないこと言ってないで案内しなさいよ。わたし、剣道場って入ったことないんだから」
 奈々に命じられるがまま洋祐は吹喜と奈々を剣道場へ連れて行った。道中、洋祐は奈々に聞こえないよう小声でぶつぶつと文句を言い続けていた。
 五分とかからずに剣道場についた。この学校の体育館は二階建てで、二階部分は普段生徒たちが体育の授業で使用し、一階部分が剣道場として剣道部に解放されていた。
 剣道場の重い鉄のスライド式のドアを開けると、中から竹刀を激しく打ち合う音が聞こえてきた。当たり前だが、みな真面目に練習をしているようだ。
「さあ、ここが県下最強――の次――の次の次くらいの実力を持つ、我が剣術軍団の訓練場だ。ちなみに俺は剣道が一番得意だ。俺の必殺剣は燕さえ切り落とすのだ」
「あんたはどこの小次郎よ。……やっぱり一番強いのって根室ねむろ先輩?」
「そうだろうな。だてに我が剣術軍団の主将を務めているわけではないからな」
「主将でもない人間が『我が剣術軍団』なんて言っていいの?」
「皆のものは、俺のもの。俺のものは、皆のもの」
「究極の共産主義者ね、あんたって……」
「ネムロって、どの人?」
 吹喜が訪ねた。剣道部最強の称号は多少なりとも吹喜の興味を引く対象だった。見た目は可憐で希薄な乙女でも、その中身は闘争心と競争心の塊なのだ。
 洋祐が道場の一角を指差した。竹刀を構えて睨み合っている二人の部員に色々と檄を飛ばしている長身の男がいる。
「あの人が根室先輩だよ。剣道部の主将だ」
「……あの人は、どれくらい強い?」
「どうだろうな。個人戦なら県内ベスト5には確実に入るだろうな。まあ団体戦じゃそうもいかないだろうけど」
「そう……」
「吹喜ちゃんって剣道の経験はあるの?」
 奈々が聞いた。吹喜は少し考えてから「それなりには」と答えた。
 嘘ではない。一応剣道がどのようなスポーツであるかは心得ているつもりだった。もちろん、防具をつけて竹刀で打ち合った経験などない。永春神社の道場で、巫女装束をつけて真剣で打ち合った経験ならあるのだが。
 吹喜は根室の立ち振る舞いをじっと見つめていたが、そのうち、根室が洋祐の存在に気付いてこちらにやって来た。
「おう、篠葉か。んなところでぼっとしてねえでさっさと着替えんか」
「あなたの瞳は節穴ですか。瞳が節穴ならその腕はナナフシですか。こちらにおわす美女と野獣の姿が見えないんですか」
「見えんな。美女が二人に見える」
「酷いよ洋祐。吹喜ちゃんのことを野獣だなんて」
「お前だ野獣」
「噛み付くわよっ!」
「い、痛っ、だ、止めろ! あだだだだ! 指が千切れる! レクター博士かっ!」
「もしかして、今日転校してきたやつか?」
「そう。右島吹喜」
「俺は――まあ篠葉から聞いてるか。剣道部の部長をやらせてもらってる。剣道に興味があるんかな? うちは女子部員も結構多いけん、右島さんも大歓迎だから」
「あの人、あちこち転校してきたからいろんな方言が混じってるんだ」
 洋祐が小声で吹喜に言った。
「剣道の経験はある? 防具があるならいいんやけど、無いなら買ってもらうことになるけど」
「防具は持ってない。剣道の経験はある」
「そか。まあ他に部活もあるからな、ゆっくり考えて決めてくれ。篠葉みたいにかけ持ちした挙句、どれも中途半端っちゅうのもあれやからな」
「誰が中途半端ですか。俺、結構強いじゃないですか」
「強い弱いじゃのうて、ちゃんと練習してるかどうかが問題なんじゃ」
「……根室さん、剣道、強い?」
「あ? んー、まあ、俺なんぞまだまだやけれども、この部の中じゃそれなりに強い自信はあるかな。まあ、これは自信つうより客観的事実なわけやけれども」
 根室は、自慢する風でもなくさらりと涼しい顔で言った。彼の言葉はおそらく真実なのだろうと吹喜は思った。
「試合」
「はん?」
「試合、してみたい」
「お、そうか。ちょっと待て。今向こうで女子が練習してるから――」
「違う」吹喜はあえて挑発するように言った。「あなたと、勝負がしたい」
 根室はその言葉を聞き、一瞬呆けてから答える。
「ほやけど、俺は男子やぞ。ハンデっちゅうのが必要だろ」
「必要ない。防具を付けていれば安全」
 と言いつつ、吹喜は根室の竹刀に当たるつもりなど一切なかった。
 勝負を申し込んだのは、一般の人間がどの程度の強さなのかを知っておきたいという、単なる吹喜の好奇心だった。しかも、吹喜は怪異を退治する際には必ず魔術を使い、それを自身のアドバンテージとしている。魔術なしでどこまで自分が一般人から逸脱しているかを知っておきたい、という動機も吹喜にはあった。
 吹喜は防具を持っていないので他の部員のものを借りた。専用の更衣室で防具を身につけたが、汗臭さで吹喜は眩暈を覚えた。
 かなり臭い。臭すぎる。鼻が曲がる。気持ちが悪い。しかも体が重い。こんなものをつけるくらいなら裸の方がマシだと思う吹喜である。
 一応はただの練習試合ということなのだが、かつてないほど挑発的な謎の転校生が部内最強の男に勝負を挑んだということで、剣道場のみなが二人の勝負に注目していた。しかも、その転校生は噂の美人で可憐な少女なのだ。
 剣道の作法を頭の片隅から引っ張り出し、たどたどしいながらもなんとか形式通りの礼を済ませる。
 竹刀を握り、向かい合ったところで、二人の勝負が始まった。
 体は思った以上に重い。が、吹喜の足ならば邪魔になるということはない。この程度は誤差の範囲内だった。
 まずは根室の出方を窺う。
 根室は微動だにしない。一方の吹喜はボクサーのように常に足を動かし、体を左右に小刻みに揺らしていた。剣道のスタイルとしては異色である。
 研ぎ澄まされた、否、吹喜がコントロールし極限まで研ぎ澄ませた感覚は、試合を見学している部員のひそひそ話や、他の場所で練習をしている部員の足音まですべてを聞き取ることができる。
「来んのか?」
 言うと同時に根室が踏み込んだ。
 フェイント。
 慌てずに後ろに下がる。
 ニ、三度竹刀を打ち合うが、ただの挨拶。
 竹刀の先がぎりぎり触れ合うだけの距離まで離れた。
 再び膠着状態。
 根室も攻めるつもりはないらしい。強者を気取っているのだろう、と吹喜は思った。
 それもいいだろう――。
 スパァン! と一際大きな音が剣道場に響いた。あまりの音に、野次馬たちだけでなく、真面目に自分の練習をしていた部員たちも手を止めて吹喜たちの方を見た。
 吹喜の出せる限りの最大の力で、根室の右上腕のあたりを強引に叩こうとする。しかし根室はくるりと手首を返し、吹喜の竹刀を叩き返してしまった。
「剣道でそんなところ狙ったらダメやよ」
 茶化すように言って、軽く打ち込む。
 吹喜は手堅くそれを防ぎ、再び強烈な威力を持った一撃を叩き込んだ。
 ――しばらく、剣道場には二種類の音が鳴り続けた。かつて誰も聞いたことのない巨大な音と、それに相対するには不釣合いな小さな音。
 吹喜が力で強引に叩き込み、根室がそれを巧みに受け流す。
 剣道の腕は根室に一日の長があると認めざるをえない。普段吹喜は実戦において剣を得物として用いることはほとんどない。吹喜の戦術は投擲ドローイングを基本にしたものである。人間が化け物を相手にする際、刃物が届くほどに接近することは大きな危険を伴うからだ。
 攻防が一分と続かない内に、吹喜の竹刀を正面から受けた根室が力を殺しきれずに背中から転んでしまった。
「いやあ、まいったまいった。強いねえ、きみ。でもきみのは剣道じゃないね。どちらかというと武士道って感じだ」
 根室は言った。
 なるほど、まだまだ自分の知らない世界があるらしいと吹喜は思う。
 いつも父――悠膳から含められていることだが、何かひとつのスタイルに特化することはあまり望ましくない。それは戦術から柔軟性を奪い、思考を硬直させてしまう危険があるのだ。
「すげえな、吹喜……。根室先輩をあそこまで追い詰めた人を初めて見た。お前には『侍ガール』の称号を与えよう」
 今まで物音一つ立てずに勝負を観戦していた洋祐が称賛した。吹喜には思うところがあったが、結局「ありがとう」とだけ答えた。
 頭部の防具を脱いだ根室は汗だくだった。
 一方の吹喜は、冷や汗一つかいていなかった。あまり体温が上がらない体質なのである。



 結局吹喜は剣道部には入らず、それからも洋祐たちに他の部を案内してもらった。一応文化部の紹介もしてもらったのだが、吹喜の興味を引くようなものはほとんどなかった。ただひとつ読書部には興味を抱いたが、部員四人の小さな部活に入っても吹喜の本来の任務の助けにはならないと思い直した。
 結局、これといって決めることも出来ずに、今日の部活動案内は終わろうとしていた。
 案内した流れで吹喜たちは三人で下校することになった。時刻はかなり遅いはずだが、まだまだ夜闇が空を覆う気配はない。
「結局決まらなかったな。何かこう、ぐっと来る部活はなかったかね?」
「なかった」
「もう、わがまま言うんじゃありません! なんていけない子なのかしらお仕置きよ!」
「あんまり急いで決める必要はないと思うわ。吹喜ちゃんの入りたいときに入れば」
「ちぇ。剣道部とかいいと思ったんだけどなー。吹喜が入れば女子の部は優勝間違いなしだったのに」
「そんなことないと思う」
「そうやって謙遜するんだよなあ、似合わねえ」
「そうかしら? 吹喜ちゃんらしいと思うけど」
「お前の目は節穴か。ほらよーく見てみろこのナイスバディ――じゃなかった、よく見ろ、謙遜という言葉の『け』の字どころか『ふ』の字もない顔じゃないか」
「謙遜って言葉のどこに『ふ』が入るのよ」
「つまり不謙遜だってことを言いたいんだ。わかったかこの低学歴」
「学歴はあんたも同じでしょう?」
 吹喜は少し驚いていた。
 奈々と洋祐の学歴が同じであることに気付いたからではなく、洋祐が意外にまともな観察眼を持っていたためである。ただの馬鹿で変態ではないらしい。
「ふっ、まあいい。今までのお前の無礼、寛大に水に流してやろう。ここでお別れだな、さらば」
「じゃあね、吹喜ちゃん。わたしの家はこっちだから。吹喜ちゃんの家ってどこ?」
「……永春神社の方」
 永春神社に住んでいるのだから、嘘ではない。
「そう、それじゃ洋祐と同じ方向ね。……あの、変なことされたら、ちゃんと大声を出して助けを呼ぶのよ?」
「俺は一体どれだけ信用されてないんだ……」
「普段の自分を振り返ってみなさい。それじゃ、ばいばい」
「明日が来る前に地獄に落ちろ。あと、背後の足音に気をつけろ。それは俺がお前を亡き者にするために接近する音だ」
「さよなら」
 めいめいの言葉で挨拶し、奈々とは別れた。
 吹喜と洋祐は二人きりになった。
「くそう、あの女め……いつか地獄に落としてやる。神社で藁人形でも打ち付けてやろうか」
「無駄。彼女には効果がない」
「あいつは呪いの耐性まで持ってるのか。ますます侮れん。早めに始末しておかねば」
 藁人形での呪いの効果はほとんどが相手の自己暗示、つまり思い込みによるものだ。奈々はそれほど信心深くもなさそうだからあまり効果的ではないだろう、と吹喜は思った。しかし説明するのが面倒だし、説明したところで正しく伝わるとは限らないので吹喜は何も言わなかった。吹喜は言葉を発することに対して慎重なのだ。
「彼女との付き合いは長いの?」
 吹喜はか細い声で質問する。あまり興味はなかったし、正直なところ、どうしてそんなことを訊いたのか自分でもよくわかっていなかった。
 洋祐は困ったように首を捻った後、
「あー、まあかなり長いかな。付き合いというか、たまたまそこにいて、なんとなく話したりしてるだけなんだが」
「それが、付き合うということ」
「分かってるよ。言った俺が馬鹿だった。……初めて会ったのはいつだったっけな。気がつけばあいつと話してた気がするんだが……。ええと、たしか幼稚園のときだったかな。多分きっかけはどうでもいい、ものすごく小さなことだったと思うんだが」
「仲がいい」
「それほどでもない。喧嘩することも衝突することも多いな」
「でも、二人は一緒にいる」
「俺は来るもの拒まずなんだよ。紳士だからな」
 洋祐は言った。来るものを拒まないのは洋祐の方か、奈々の方か。吹喜にはわからなかった。
「まあ待て。俺とあの暴力女のことなぞどうでもいい。それより吹喜に質問なんだが、もしかしてお前、相当鍛えてるんじゃないか?」
「体?」
「体以外に鍛えてるものがあるなら知りたいがな」
 魔術、と答えることはできるはずもない。
「昔から体を動かすことは好きだった。人と勝負するのも、好き」
「へー、意外だな。お前は他人になんて興味ない人間だと思っていた」
「…………」
「す、すまん。今のは俺が全面的に悪かった。頼むから無言で怒らないでくれ。奈々のあれに慣れてるから、そういう怒り方はものすごく怖い」
「……別に、怒ってはいない」
「ううむ、吹喜の無表情はまるで鏡のようだな。心にやましいところがあると怒っているように見える。奈々なんかが見れば満面の笑みに見えるんだろうが」
「……笑み」
「そうそう。どっちにしろ吹喜はもう少し表情を出したほうがいい。まあ言葉や態度で説明するのもいいが。自分の感情を出さないのは他人に対する甘えだぜ。……ああ、だからさっき、吹喜が他人に無関心な人間だと思ったのか」
「そんなことはない。……本当に、他人には無関心」
「そうかあ? いや、持論を撤回してばかりで格好悪いが、やっぱり吹喜はそんな感じじゃないと思うな。自分が思ってる以上に普通の人間だと思う」
「普通」
 その言葉を聞いた途端に吹喜の中で激しい反発が起こった。反発が起こること自体が洋祐の指摘の正しさを証明しているのではないか、と自覚した。が、やはり気に入らない。と思うことこそが洋祐の術中だ。素直に従おう。いや、従えば結局洋祐の指摘を認めることになり、そんなのは嫌だと思うことでもまた認めることになる。
 吹喜は考えるのをやめた。
「ところで吹喜は中華料理は好きか?」
「なに?」
「中華料理だよ。中華料理を知らないのか?」
「中華料理が何なのかは知っている。わたしは質問の意図を質問している」
「んー、今度みんなも誘ってどっかでご飯でも一緒に食べようかと思って。いわゆる歓迎会ってやつかな。奈々あたりが画策する前に俺から提案しておこうと思ったんだよ。あいつの策に乗るのは癪だからな。しかもあいつ味音痴だし。下手したらあいつの手料理を食べさせられるかもしれん……。で、中華料理は好きか?」
「嫌い」
「奇遇だな。俺も中華は好きじゃない。それじゃ、和食にしておくか」
「……和食は、好き」
「そうかそうか。うまい天ぷら料理の店があるからな、今度そこに連れて行ってやろう。驚くなかれ、代金は各自で払ってくれ。歓迎会なのに、だ。しかも当日は現地集合だ。現地集合現地解散」
「…………」
「突っ込んでくれよ」
「面白くない冗談は無視する」
「ぐはっ! ……い、今のは、かなり、心に、突き刺さったぜ……っ」
「…………」
「何と言うか、存在そのものを否定された気分だ。俺はこれから何をよりどころにして生きて行けばいいのだろうか」
「……冗談」
「は?」
「だから、冗談」
 洋祐は吹喜の言葉の意味を理解できず、しばらく狐につままれたような表情をしていた。
「なるほどな、吹喜は突っ込みではなくボケる方だったのか」
 と小さく呟いていたのを聞いたが、誤りを訂正すると突っ込みということにされかねないので黙っていた。そういうところで頼られても困るからだ。
「しかしその冗談は洒落になってないぞ」
「洒落じゃない。冗談」
「いやだから……ああ、なるほど、今のが冗談か。なるほど、高度だ」
「…………」
「いや、勝ち誇った顔をするな」
 そんな顔をしたつもりはなかったが、それこそ、さっき洋祐が言っていた『まるで鏡のような無表情』なのだろう。
「吹喜は周りに誤解されるタイプだよな」
 洋祐が突然話題を切り替える。
 会話が途切れないよう気をつかっているのかもしれない。
「周りが勝手に勘違いして吹喜のことを考えるんだ。でも吹喜自身もそれを否定することなく周囲の誤解に身を任せている。他人に無関心というよりは、他人に寛容なんだろう。きっと人間のことが誰よりも好きなんだ」
「全然違う。洋祐は精神分析に向いていない」
「まあかなり適当なことを言ってるからな。レクター博士は俺の憧れだぜ」
「れくた?」
「でも匂いで人を分析するのはかなり無茶だと思うんだ。どんな嗅覚だよ、って」
「でも五感を駆使するのは有効」
「まあ普通なら視覚と聴覚くらいしか使わんからな。レクター博士は嗅覚と味覚も使ったが」
「……触覚」
「好き合ってる異性を調べるならそれもありだろう。同性なら問題ありだ」
「そんなことはない。たとえば」
 そう言って洋祐の手を取る。洋祐が慌てふためきおののいたのが見て分かった。
「こうして手を握れば、相手の心拍数がわかる。体温もわかる。手の平の汗もわかる。そうすれば、相手の精神の大部分を把握できる」
「お、おう」
「今のあなたは心拍が早いが、体温は高くない。あなたは今とても緊張している。しかし興奮はしていない。戸惑っている。ほら、手の平に汗をかいている」
「わ、わかったからいいかげん解放してくれ」
 そう言って半ば強引に手を振り解かれた。
 彼の顔が少し赤かった。
「くそう、油断ならんな。突然そういうことをするとはなんと抜け目のない女だ。その手を使って今まで何人の男を落としてきたんだ」
「ただ手を握っただけ」
「……それもそうか。あ、さっき『その手を使って』って言ったのは我ながら上手かったな。ダブルミーニングだ。ハンドとウェイで」
 洋祐はあっさり次の話題を見つけて飛び乗ってしまった。
 こうやって同世代の人間と毒にも薬にもならない話をするのは吹喜にとっては新鮮な経験だった。もちろん、必然性もなく男性の手を握ったのも初めてだった。吹喜は、自分の汗で濡れた手を、洋祐に気付かれないようにこっそりとスカートで拭った。



4

 吹喜は一旦永春神社に帰り、夕飯を済ませた後、学校から人間がいなくなる時間を見計らって再び学校に向かわなければならなかった。
 遥の帰りは遅かった。話を聞くと、部活動には入らず生徒会の手伝いをすることになったらしい。確かにその方が普通の部活をするよりも効果的だ。
「というわけでしばらく帰りが遅くなるよ。いろいろ情報網も作っておきたいしね。吹喜はどうするの? きみも生徒会に来るかい?」
「それは効率が悪い。私は他の方法を探す」
「そう言うと思った。そんなわけはないと思うけど、十六文書らしき怪しい人物は見つけたかい?」
「いいえ。わたしの知っている人物の誰かが十六文書という可能性はある。けれど今の段階でそれを特定するのは不可能」
「それもそうだ。果たしてこの調子で探していたら何年かかるか……まああの人類の天敵が何年も大人しくしているとは思えないけれど……。ところで、誰かと仲良くなったかい?」
「なった」
「へえ。どんな女の子なんだい? 吹喜のことだからみんなを避けたりするんじゃないかと心配していたんだけど――」
「女じゃない。男」
「……へぇ」
 遥の顔が引き攣った。自分が男のクラスメイトと仲良くするのが気に入らないのだろうか。
 そういえば、遥は昔から自分が家族以外の男と話そうとしたり話しかけられそうになると突然不機嫌になる。吹喜自身あまり積極的に他人と関わろうとしていないので何も問題はなかったのだが。そのことについて遥は話そうとしないし、吹喜が質問しても曖昧な答えが返ってくるだけで、現在の遥の精神状態は吹喜の想像を絶する。
「…………」
 ふと、学校帰りの洋祐とのやりとりを思い出し、吹喜は遥の手を握ってみた。
「ぅぉ!」
 吹喜が今まで聞いたことのない遥の声だった。
 握ってからしばらくすると急に手の平に汗が浮かんできた。緊張のサインだ。しかも脈拍が早く、体温も急激に上昇してきた。緊張しているし、興奮している。
 しばらく無言で手を握ってから、満足して吹喜は手を離した。離すとき、遥が少し残念そうな顔をしたが、吹喜は意味がよくわからない。
「と、突然何をするんだきみは……」
「手を、握った」
「いや、僕はそんなことを訊いているのではなく――」
「ただの精神分析。遥は今、緊張している」
「き、緊張って。緊張して悪いかよ」
「悪くはない。洋祐も緊張していた」
「洋祐、って――その男とも手を繋いだのかっ?」
 繋いだのではなく握ったのだ、と言おうとして、その二つが現象としては同じであることに気付き、「そうだ」とだけ答える吹喜。
 遥は再び不機嫌になった。やはり、吹喜には遥の心が分からない。
「…………」
 ふと気になって、吹喜は自分の手を見つめた。遥の手を握っても、自分の手は汗をかかなかった。洋祐のときは手を離した辺りから自分でも驚くような量の汗が出ていたのだが。家族では緊張しない、ということなのだろうか。
 分からないことは多かったが、それでも吹喜は愉快だった。今日の出来事の何が自分をここまで愉快にさせているのか、それすらも吹喜は分からなかったのだが。
 悠膳の怪我は回復に向かっているらしかった。やはり夏華の医療の腕は確かだ。吹喜自身は怪異相手に怪我を負った経験は少なく、夏華の世話になることはごく稀だったが。
 夏華は吹喜よりも五歳ほど年上の、髪の長いスレンダーな巫女だ。昔から彼女の父親が永春神社に仕えていて、その流れで彼女も巫女になったのだということを遥が話していたような気がする。遥に言わせれば、夏華は母性の塊のような人らしい。
 ――夜道を、遥と吹喜が黙ったまま歩いていた。
 吹喜は元々自分から話しかける性質タチではないから、この状況は遥が吹喜に話しかけようとしていないことに起因する。
 吹喜はちらと遥の顔色を覗き込んだ。無表情を装っているが明らかに不機嫌だった。遥は割と粘着質なところがあって、何かで機嫌を損ねるとそれをずっと引きずる傾向がある。一方の自分は彼とは違いさばさばとしていてすぐに気分を切り換えることができる、と吹喜は自己分析しているが、それを他人に話したことはなかった。
 先に無言を破ったのはやはり遥だった。
「なあ、その」
「なに?」
「いや、ちょっと気になったから聞きたいんだけれど」
「…………」
「さっき吹喜が言っていた洋祐という男のことなんだが」
「洋祐は、クラスメイト」
「そうか、クラスメイトか。吹喜はたしか二組だったな」
「そう」
「二組の洋祐か。ちなみに苗字はなんというんだい?」
「篠葉」
 少しだけ言うべきか言わざるべきか迷ったが、言わない理由を遥に説明できないことに気がついて、やはり素直に答えるようにした。
 遥は答えを聞いてうんうんと頷き、
「そうか、篠葉という男か。二組の篠葉だな。なるほど。そいつは、一回、挨拶に、行かないとな」
 遥の声には精気がみなぎり、どころか溢れるくらい力強く、楽しみで仕方がないといった風に笑みを浮かべて頷く。喜んでくれてよかったなと、吹喜は単純に考えた。社交的な遥のことだから、きっと洋祐ともうまくやっていけることだろう。
 夜の永春高校には吹喜たちの足音以外、何の音も無かった。
 ひたすら静かだった。
 そして、自分は目を閉じているのではないかと錯覚してしまうくらいに暗い。かろうじて、遠くの公園に見える橙色のランプがその錯覚を正してくれる光だった。雲が厚く月の光は地上に届かない。
 吹喜はそっと目を閉じて、聴覚に神経を集中させる。
「吹喜」
 小声で遥が話しかけた。それはすでに戦う者の声だった。
「僕が『陣』を張る。君はこぼれたのを始末してくれ」
 こくんと吹喜は頷く。
 怪異特有の、粘りつくような嫌悪感が高校の周囲に集まっていた。
 それを確認して、遥は指で印を結ぶ。そして腹の底から息を吐き出し、詞を唱え、この世ならざる神秘への架け橋とする。
「――――――界」
 神言術、『金剛結界』。
 遥の放射する見えない念力が、彼自身の体の周囲に張られた。それはまるで蜘蛛が自らの巣を張っているかのようだ。校舎の建物や彼の体との間をいくつもの念力の線が行き来する。彼の額にはすでに玉のような汗が浮かんでいた。この術は遥の肉体と精神に大きな負担をかけるのだ。
 術の完成を待たずに吹喜が走った。遥の『金剛結界』に巻き込まれては、いかに吹喜といえど命がないのだ。
 吹喜は校舎から遠ざかるように走った。早速、校舎の敷地内に入ろうとしていた真黒な怪異を見つけた。知性も個性も持たない極めて低級の怪異。土地に固有の牛だか馬だかに似た獣の形のどろどろ。しかし、頭数だけはかなり多いようだ。
 ひゅんひゅんひゅうんと風を切る音が鳴った、と同時に先頭を走っていた怪異の体が穴だらけになっていた。しかもその傷はただの傷ではなく、怪異にとって致命傷となりうる猛毒なのである。
 神秘を無へと還す呪い。
 ほとんど無力な低級の怪異は吹喜の呪紋付き投げナイフだけで片がつく。しかしそれでもすべての怪異を瞬時に消滅させられるわけではないし、しかも今夜の怪異は数が多く、校舎の周囲すべてを吹喜ひとりでカバーするのは不可能だった。
 暗闇の中でいくつもの怪異がうごめくのが、暗闇に慣れた吹喜の目に映る。それらの怪異は一見して無抵抗な遥の方へと、まるで肉食獣のように駆けていた。
 しかし怪異は知らないのだ。自身こそが肉食獣の餌であることに。――そのひ弱そうな人間こそが、怪異を狩る化け物であることに。
 先頭を走っていた四足の怪異の体が、突如、上下に真っ二つに分かれた――否、切断された。そして切断された上の部分が落ちて地面に触れる前にさらにいくつもの断片に切断された。四方から迫っていた他の怪異も同様で、いずれも、遥に触れるどころか遥の前に立つよりも早く、のっぺりとした落書きのような黒い体は豆腐のように綺麗に切断されて消滅した。その間、遥は一歩もその場から動いていない。
 それが有檻遥の神言術、『金剛結界』である。まるで蜘蛛のように、術者は獲物がかかるのを巣の中心でじっと待ち続けるだけだ。獲物が巣の中に一歩足を踏み入れたが最後、術者の張った見えない線は獲物の体を何の抵抗もなく切り裂いてしまう。
 遥が結界を張っている以上、何者も遥のそばに近づくことすらできないのだ。
 結界の回りを、吹喜は投げナイフで怪異を掃射しながらぐるりと回る。二人で怪異と戦う場合はいつもこのパターンだった。遥が防御を担当し、吹喜が攻撃を担当する。
 怪異たちの動きが変わった。これ以上進めば自分たちが全滅することに気付いたらしい。群れる獣と同じく、確実に死ぬと分かっている場所へ飛び込むほど自動的な存在ではないのだ。
 しかし、撤退を始めるのが、少し遅すぎた。
 背を向けて学校から離れる無防備な怪異を吹喜は見逃さず、容赦なく銀の刃物を投げかける。その調子で怪異の群れに追い討ちをかけることで、その日の撃退数の約三割のスコアを稼いでしまった。
 吹喜は戦いの流れを読むことにおいては天才的な勘を働かせる。今回の場合でも、怪異たちの動きが攻撃から撤退に変化した瞬間を見逃さず、敵の足並みが乱れ最も隙のできる絶妙の瞬間に追撃戦をやってのけたのだ。
「お疲れさま。相変わらずきみは戦闘の天才だね」
 結界を解いた遥が汗を拭いながらやって来た。感覚と勘で戦う自分とは違い、遥は理論と経験によって堅実に戦うスタイルだと吹喜は分析している。
 はて、自分はどうしてこうも他人を分析しようとしているのだろうか。……考えるまでもなく、夕方の洋祐との会話が未だ緒を引いているのだ。彼はレクター博士という人物にあこがれていると言っていたが、レクター博士とは何者なのだろうか。今度図書館に行って調べてみよう。
「吹喜、今日は機嫌が良さそうだね」
 遥が言った。吹喜は機嫌が良いことを自覚していなかったし、それを表に出したつもりもなかったので、きっとそれは遥が勝手に自分の顔を見て思ったことだろう。それも洋祐が言っていた『まるで鏡のような無表情』なのだろうかと思い、またしても洋祐の言葉に影響を受けている自分を観察した。
「それにしても、僕はいつも思うんだ。怪異は一体どうやって生まれてくるんだろう。というか、そもそも怪異って一体何なんだろうね。いや、こうやって毎日怪異と戦っている僕がこう思うのもおかしいのかもしれないけど、それでもやっぱり疑問に思ってしまうよ」
「……共生派の人たちは、あれを地球の意思と位置づけている」
 怪異の存在はごく一握りの人間しか知らないが、それでも、その一握りの人間の間でも怪異を退治すべきだと主張しているグループと、怪異と共生すべきだと主張するグループの二つの派閥が存在していた。吹喜たちは言うまでもなく前者のグループに属し、そして全体としては怪異を滅ぼそうと考えているのが多数派だった。
「地球の意思ねえ」
 遥は胡散臭そうに言った。
「地球に意思なんてあるんだろうか。そして怪異に意思はあるのか?」
「わたしたちには、意思がある」
「そうだな。どちらにせよ、仲間が食べられているのを黙って見過ごすわけにはいかない。……やっぱり今日の吹喜は上機嫌だね。いつになく饒舌だ」
「わたしは、いつも饒舌」
「はい?」
 それは吹喜なりの冗談のつもりだったが、どうやら遥には通じなかったようだ。
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