黒蝶貴婦人

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黒蝶貴婦人
Illustrated by なるぽ

 アステリアにも夏が訪れた。
 海沿いの地方では、深海から巡回してきた冷たい波が空気を冷やすので、この季節は避暑地として貴族たちで賑わっていた。一方、山のそばに位置する王都では、三方を山に囲まれているせいで、西からの冷たい風は遮られ、空気は循環することなく太陽に熱せられる。
 死人も棺桶の中で蒸し焼きになりそうな暑さの中で、ナザレとオスカは団長室にこもっていた。
 王都アリニパレスでは近々軍団の登用試験が行われる。試験と言っても、募集するのはあくまで前線で戦う兵士である。受験者は城内の会場で木剣を用いた剣術試合を行うのだ。市民はこの試験のことを「武闘大会」と呼び、当日は剣術試合見たさに多数の観客が押し寄せるのである。
 試験を開催する者と、試験を受ける者を除いて、この催しはある種の祭りになっていた。当日は王城の周りに露店が建ち並び、試験が終わる夜間には観賞用の花火が打ち上げられる。剣術試合と花火を見に王城へ来る貴族たちの相手をするのも、城に勤める者たちの仕事だった。
 ナザレは前々回の武闘大会で六位の成績をおさめていた。慣習では、登用されるのは上位四名だけである。ナザレがこの試験に「合格」したのは実力だけではなく、当時の彼が参加者の中で飛び抜けて若かったことが評価されたのである。
 そのナザレも、今は試験を運営する立場だった。騎士団の仕事は主に当日の警備と来賓の貴族の護衛である。オスカは自分の仕事を高速で片付けながら、団長席で腐っているナザレの愚痴を聞いていた。
「くっそー、なんつー暑さだ。俺たちは何だってこんな日に、こんなことをせにゃならんのだ」
「去年よりはマシだ」
「お前はぜんぜん汗かかねーのな。暑さを押さえる魔法でも使ってるのか?」
 暑い暑いと繰り返しながら、ナザレは書類で顔を扇いでいた。汗が止まらないナザレに比べて、オスカは涼しい顔で、いつものようにマントを身につけたまま事務仕事に励んでいた。
「そういえばさー」
 ナザレがさりげなく言った。しかしオスカには、今までの愚痴がただの導入部であり、これから出そうとしている話題こそが本題であると分かっていた。
「リリのことなんだが」
「何かあったのか?」
「んー。いや、何もない」
「結構なことじゃないか。いつも仲の良いところを見せられて、正直辟易していたところだ」
「何だ、お前もそういうこと言うんだな」
 しかしオスカの本心を言えば、ナザレが幸せそうにしているのを見るのはあまり悪い気分ではない。平民出身のこの親友には、なぜか幸せを願わずにはいられない、妙な吸引力のようなものがあった。
「……何もないから困ってるんだよ」
「あれから進展がないのか」
 ナザレは神妙な顔で頷く。
「あの娘はお前に惚れている。お前の方も、本気なんだろう?」
「当たり前だ」
「だったら話は簡単だ。あの娘の前で跪いて、結婚してくださいと言えばいい」
「そんな簡単なもんかよ」
「結婚とは簡単なものではないが、結婚を申し込むのは簡単だ」
「分かったようなことを言うな。結婚したことないくせに」
「……そういえば、ここのところ立て込んでいて報告が遅れたが」オスカはペンを止め、顔を上げた。「結婚することになった」
「誰が?」
「私だ」
 ナザレは椅子からずり落ちた。すぐに這い上がると、自分の机を迂回してオスカのすぐ前までやって来る。
「本当か? 一体相手は誰だ?」
「メニガン家の一人娘だ。名前はキャル。先月、舞踏会で会った」
「……それで、一目惚れを?」
「まさか。婚約者探しの舞踏会だよ。実体はただの見合いだ。私の意志は関係ない。相手はメニガン家だ。……何だ、知らないのか? メニガン家は旧貴族のひとつだよ。今は名誉以上に、借金が積まれているが」
 旧貴族とは、アステリア王国が建国された当時よりアステリアの発展に尽力してきた「最も旧い貴族たち」の俗称である。
「金はあるが歴史のない成金貴族と、歴史はあるが金がない没落貴族が互いに手を結んだということだ」
 オスカの口からはいつになく毒が出る。
 舞踏会でキャル・メニガンと初めて会ったときのことを、オスカは日記をめくるまでもなく鮮明に思い出すことができた。
 若い貴族の男を何人も集めた舞踏会。その主役であるキャルが現れるまで、オスカを含む男たちは何時間も待たされていた。白いドレスで着飾ったキャルが二階から降りてくる。口元を黒い扇子で隠し、立ち振る舞いはゆっくりと優雅に。黄金色の髪は頭の上で装飾的にまとめられ、ドレスは腰の部分を強烈に締め付け、彼女の体を病的なまでに細く見せていた。
 踵の高い靴でゆっくりと歩みを進める。招かれた男たちは、この舞踏会が、彼女の結婚相手を探すための催しであることを理解している。期待と不安のこもったたくさんの視線を受けながら、キャルは人々の間を優雅に歩き、そしてオスカの前に立った。
 ――あなた、わたくしと結婚しなさい。
 旧貴族のお嬢様らしく、その言葉は求婚ではなく、命令だった。
 キャル・メニガンとの出会いについてナザレに語って聞かせると、彼は目を一段と大きくしてオスカに詰め寄った。
「お前はいいのか? そんなわけの分からん女と結婚するなんて」
「仕方があるまい。父も母も、それを望んでいる。それに、私はドーンツ家に生まれた人間だ。私には家を守る責任がある」
「分かんねえよ、俺には。家ってのは、自分の人生を犠牲にするほど大切な物なのか? 俺はそうは思わん。無理やり結婚させられるくらいなら家を出ればいい」
「私には守らなければならないものがたくさんある。代々受け継いできた領地や、ドーンツ家に仕える者たちも、守らなければならん」
 オスカはそう諭したが、ナザレは納得いかない顔をしていた。仕方なくオスカは話題を元に戻す。
「リリのことが好きなら、行動することだ。今度の武闘大会で、花火にでも誘えばいい。女はそういう場面に弱いと聞くしな」
「ああ……。やってみるさ」
「私とお前、どちらの生き方が正しいかは分からん。だが、お前にはお前のやり方があるはずだ。それを試してみろ」

◇◇◇

「そうですか……。ドーンツ副団長が、ご婚約なさったんですか」
 ナザレがオスカの婚約を伝えたとき、リリは嬉しいような、悲しいような、微妙な表情をして頷いた。
 ナザレは仕事場を抜け出してリリと会っていた。あまり人通りのない、窓からは中庭が見える廊下の一角である。ナザレが団長室を抜けるとき、オスカがちらりと彼の方を見たが、何も言わずに自分の仕事に戻ってしまった。ナザレが時折仕事を抜け出してリリと会っていることを、オスカも十分に承知していた。
「俺には信じられん。好きでもない女と結婚して平然としていられるなんて。腹が立たないのかね」
「副団長には副団長の事情があるんです。誰しも、自分の出自は選べませんから……」
「お前は」
 ナザレは言いかけたが、何と質問すればいいのかが分からず言葉に詰まる。その様子を見てリリは柔らかく笑った。それがまるで神話に出てくる太陽の女神に見えた。
「わたしはしたたかな女ですから。断わるべきところでは、ちゃんと断わっていますよ」
 そう言ってぺろりと舌を出した。とりあえず、ナザレは胸をなで下ろす。
「そういえば、婚約相手の……えーっと、キャル・メニガンというやつを知っているか?」
「以前サロンでお会いしたことがありますよ。大変奇麗なお方でした」
「お前だって負けてないと思うが」
 そう言ったときのナザレの唇は震えていた。馴れないことを口にしたせいで冷や汗が出てきた。
「ありがとう」
 が、命を賭けた乾坤一擲の台詞を、リリはニコリと笑ってさらりと流してしまった。やはり手強い、とナザレは思った。彼女には勝てそうにない。
「大変気位の高い方でした。言葉に少し棘があるので、初めてお目に掛かったときには少し戸惑いましたね……。影では『黒蝶貴婦人』という渾名で呼ばれていました」
「黒蝶貴婦人?」
「何でも、蝶の収集が趣味なんだそうです。あと、いつも派手な衣装を着ていらっしゃるので、それが蝶に見えると」
「やっぱ鼻持ちならないやつだな」
「貴族は嫌いですか?」
「別にそういうわけじゃねえよ……。貴族でも好きなやつはいる」
 自爆覚悟でナザレは言った。リリの方を見つめると、さすがの彼女も受け流すことはできなかったのか、わずかに頬を染めてナザレから目を逸らす。
「そ、そういえば、ナザレさんはこんなところで油を売ってていいんですか? 会場の警備でしたよね?」
「優秀な副団長がいるからな」
「仕事してください」
「お前だって」
「わ、わたしはいいんですっ! やるべきことはちゃんとやってますから」
「……もし、武闘大会の日、その……時間があったら……」
「あの、すみません。無理だと思います。当日は詰め所に付きっきりになるので、抜け出す余裕はないと思います」
「そうか。まあ俺も、当日は一日中仕事があるからな」
 ナザレは努めて自然に頷いた。リリは申し訳なさそうにもう一度だけ謝った。二人が多忙であることに彼女はなんの責任もないのに。

◇◇◇

 二日後に登用試験が行われた。
 朝から王城の門が開かれ、この日のために第一重歩兵隊の詰め所が試験会場として改装されていた。奇麗に整地された試合場を中心に、正面二階からは将軍が見下ろし、その両サイドからは貴族たちのための見学席が設けられていた。平民の見学者は会場の後ろにある受験者控え場所のさらに後ろから、人垣越しに見なければならない。
 各地で予備審査を通過した、腕に覚えのある者たちがぞろぞろと集まってくる。そういった者たちの中には些細なことで頭に血が上る不心得者が少なからずいて、会場の警備を担当している兵士たちの役割は非常に重要と言える。
 とは言え、実際に会場に混乱が起きないよう見張るのは部下の兵士ひとりひとりの仕事だし、警備計画の立案と現場の指揮はオスカの仕事である。
 では団長であるナザレは何をしていたかというと、開会式に並んだり見学している貴族たちに試合の解説をしたり将軍の隣に座って虚空を見つめてぴくりとも動かない仕事をしたりと、騎馬とも剣術とも遠い、ひどく儀礼的なことばかりをさせられていた。
 他の騎士団の団長たちはこういった政治的な場に馴れているようだったが、平民上がりのナザレには非常に息苦しい時間だった。そういう意味では泥臭い重歩兵隊の隊長たちとナザレは気が合った。久しぶりに身につけた正装とマントが体に馴染まない。馴れない服を着ていると、体のあちこちが無性に痒くなってくる。おまけに今日も暑さと湿気が凶悪だった。
 物わかりの悪い年配の男に戦場での剣と馬の役割についてナザレが必死に説いていると、アンダール将軍がやって来て二人の会話に混ざった。政治力で将軍の座に上り詰めた男らしく、彼の物腰と冗談は貴族の男を十分に満足させたようだった。その後、さりげなくナザレを見学席の外に連れ出す。
「俺に何かご用でしょうか」
 ナザレはこれでも精一杯言葉遣いには気をつけたつもりだったが、アンダール将軍は年齢も身分も違う騎士団長に眉をひそめた。盛り上がった筋肉と口の周りに伸ばしている金色の髭が将軍を幾分か屈強に見せていたが、ナザレは将軍の肉体がただ人に見せるためだけの鍛え方をされていることに気づいていた。
「メニガン家のお嬢様がご見学にいらっしゃった。案内人にお前をご指名だ。絶対に無礼のないように。特にお前、言葉遣いを何とかしろ。必要がなければずっと黙っていろ。求められるまで余計なことは何もするな。分かったな?」
 将軍がぎろりと睨み付けたがナザレはそれどころではなかった。メニガン家のお嬢様、と聞いて、すぐにオスカの婚約者のことを思い出していた。
 城内をしばらく歩き、特別な来客のための応接室に入る。本当ならナザレのような位の人間には決して入ることの許されない部屋である。室内に入ったとき、真正面にある豪華なステンドグラスに目が行った。一歩踏み出すと、床に敷いてある豪華な織物に目が移る。この部屋にある家具ひとつでも、ナザレが稼ぐ一生分の金を遥かに超える価値があるだろう。
 メニガン家のお嬢様は長椅子に腰掛けてステンドグラスの方を見ていた。その後ろには執事と思しき年配の男が微動だにせず立っている。室内に入ったナザレたちの方を見ると、黒い羽根で編まれた扇子を優雅に開き、口元を隠した。
「キャル様、この男がナザレ・スレショルド第二騎士団団長です」
 まるで罪人を引き渡すみたいに将軍が言った。
 キャルのぬくもりのない透き通った声が扇子越しに聞こえる。
「下がってよろしい」
「は?」
「二度言わねば分かりませんこと? その見苦しい顔を早く下げていただきたいと申し上げているのですわ」
 将軍はしばらく呆然としていた。自分がそのような侮辱を受けるとは思ってもみなかったのだろう。やがて怒りが彼の顔を紅潮させたが、何も言わずに黙って退室することで抗議の意を示すことにしたようだった。
 しかしキャルは、将軍が怒りに肩を振るわせ無言で立ち去ったことを、単に目障りな障害物が消えた、という程度にしか思っていない様子だった。
 ナザレは内心穏やかにはいられない。たった一人、こんな危険な場所に取り残されてどうしろというのだ。そして一方で、目の前の女が確かに「黒蝶貴婦人」であると確信し、今頃会場で忙殺されているだろう親友の不幸に同情した。
 キャルが立ち上がった。ナザレはビクリと反応して、無意識に一歩後ろに下がる。
「何をしていらっしゃるの? 早くわたくしを案内なさい」
「あ、ああ……。わ、分かりました。それじゃあ、あの、まずはどこに行きましょうか」
「そうね、城を案内してもらおうかしら」
 執事にはここで待つように言って、キャルはナザレと一緒に部屋の外に出た。
 登用試験の最中は来客用に王城の一部が開放されている。ナザレは城の一部を周り、所々で立ち止まってはキャルに施設の説明をした。
「城の中はもういいですわ」
「面白くなかったですか?」
「興味深かったわ」
「それはよかった」
「普段はあまり、こういう野蛮な場所には来ないから」
 王城を「野蛮な場所」と言われては立つ瀬がない。
 案内役から解放されてナザレが安堵していると、キャルがキッと睨み付けてきた。
「何をしているの。城の案内が終わったら、次は外の案内をなさい」
「あっ……すんません」
「気の利かない男ですわね。騎士団長と言ってもやはり平民の出だわ。洗練されていないわね」
「……すいません」
「いいえ、謝る必要はないわ。あなたがどんなに粗野な人間でも、あなたがそう望んだわけではないのだから。わたくしはあなたの野蛮さを許すことにします。感謝なさい」
 この女蹴ってやろうかと思ったが、そんなことをしたらナザレの首が吹っ飛ぶだろう。物理的な意味で。
 城の外に出ると、空はすっかり夕方のオレンジ色に染まっていた。人の声が騒がしい。今夜は奇麗な月夜になりそうだなと、ナザレは思った。
「何をぼんやりしているの。わたくしを退屈させないで。そうね、庶民の屋台を覗いてみたいですわ。どれだけ貧相なのか、興味があるもの。……剣術試合みたいな野蛮なものには興味がありませんことよ。あんなものを楽しむ貴族はきっと、大した家柄も領地もない、野蛮で低俗な人たちなのでしょうね。平民が殺し合うところを見て何が面白いのかしら」
「じゃあなんでこんなところに来たんです?」
 ナザレとしては当然の質問をしたのだが、キャルはギロリと流し目で睨んできた。さすがに震え上がる。キャルは美女であるが、人を寄せ付けない氷のようなタイプの美女である。
「花火を見に来たのよ。ここが一番よく見えるから、しかたなく来ただけでしてよ」
 高貴な貴族様にとってもアステリアの夏はこたえるらしい。彼女はせわしなく扇子で自分に風を送っていた。ナザレの方も、早くこんな仕事を終えて体を清めたいと思った。
 城の周囲を回り、キャルがはぐれないように気をつけながら人混みの中へ進んでいく。
 広場から響く大時計の鐘を聞きながら、今ごろリリは何をしているのだろうとぼんやり思った。

◇◇◇

 王室財務調査官であるリリの仕事は備品の管理である。試験の際に使用する武器から、試合中に判定員が座っている椅子まで、すべてが財務部の管轄であった。
 登用試験のために特別に用意された専用の待機場所で、リリは次々と発生するトラブルの対応に追われていた。登用試験中は王城の一部が貴族たちのために開放されている代わりに、大部分の区域への通行が一律禁止されている。普段財務部の人間が詰めている部屋もその通行禁止区域に含まれるため、今日は客間を臨時の財務部署として利用していた。
 オスカ・ドーンツ副団長がリリの元へやって来たのは、日もそろそろ落ち始めた夕方のことだった。暑い会場内を警備のために走り回っているせいか、さすがの彼も額にびっしょりと汗をかいていた。調査官は何人もいたが、顔見知りということもあって、リリが対応することになる。
「王室財務調査官殿、臨時予算の申請をしたい」
「臨時予算……ですか?」
「城の外で市民の喧嘩が起きていた。それをうちの団員が仲裁したときに、誤ってその場で商売をしていた市民の屋台を破壊してしまった。その屋台の店主が弁済をしろと要求するので、その判断を仰ぎたい」
「そんなのはあなたたちの責任で弁償してくださいよ」
「そうは言っても、騎士団には金などない。かと言って団員に自腹を切らせるのは酷な話だろう。それに任務中に起きた不慮の事態に対する保障は王国政府が行うと国事憲章の第三十六部に――」
「わかりましたわかりました」リリは両手を向けた。「まずは状況を見ましょう。現場まで連れて行ってください」
 リリは上司の許可を貰ってから、オスカの後ろについて部屋を出た。オスカはリリを連れて、城の外に出る。
「どちらに行くんですか?」
「ここから城を挟んで反対側だ。通行禁止ばかりの城の中を通るよりも、一度外に出て、城壁の周りを歩いた方が早い」
 とはいえ、王城は広い。城壁を迂回すると言葉にすれば簡単だが、徒歩で回るだけで一時間以上はかかる。ましてや今は祭りである。行く手を阻む人垣を、もみくちゃにされながら這うような速度で進んでいくしかない。
「あの、副団長……。まだですか?」
 朝から働きづめのリリの口から思わず不満が出る。しかしオスカは涼しい顔をして、もうしばらくの辛抱だとしか答えなかった。
 夕日はあっという間に地平線の下へ隠れてしまった。今夜は雲一つない奇麗な夜空である。淡い月の光がリリの足下にぼやけた影を作っていた。
 小さな通用門を通り、二人は再び城の敷地に入った。城内にいるのは貴族ばかりで、こちらは人の数も少ない。皆がぞろぞろと移動しているのは、もうすぐ始まる花火を鑑賞する場所を探しているのだろうか。
 ふと見上げると、闇の中に白い建造物がぼんやりと浮かんでいる。それは貴族のためのテラスで、一階部分はただの土台であり、階段を上ると、二階部分にあたる屋上には空を見るための椅子や酒を飲むための小さなテーブルが備え付けられている。普段は夜間のパーティや天体観測に使われるテラスだったが、今日は花火を鑑賞するための特等席になっていた。
 今も、あのテラスでは貴族たちの社交が行われているのだろう。それをうらやましいとは思わなかったが、アリニパレスの花火を特等席で眺められるのは魅力的である。
 リリはナザレのことを思い出した。こうしている今も、彼は忙しく動き回っているのだろうか。
 オスカが立ち止まった。
 何かあったのかと様子を見るが、一向に動き出す気配がない。
「あの、ドーンツ副団長?」
 リリが質問しようとすると、オスカはリリの方をちらりと見て、続いて前方を見た。
 そこにいたのはナザレと見覚えのある女――黒蝶貴婦人ことキャル・メニガンだった。
「ナザレさん!」
「リリ!」
 互いに顔を見合わせて声を上げる。そしてすぐに、ナザレを連れてきたキャルと、リリを連れてきたオスカの方をそれぞれ見た。
 リリには何となくカラクリが分かった。
「王室財務調査官殿、そろそろ花火が始まる。私はテラスの警備状況を確認に行かなければならない。確認が終わるまでしばらくここで待っていてもらおう。調査はその後に」
「騎士団長、花火が始まるのでテラスに行きますわ。……おっと、あなたは平民の出でしたわね。あそこはあなたのような身分の人間が気軽に顔を出せるところではなくてよ。わたくしが花火を見終わるまでここで待っていることね」
 オスカとキャルは、示し合わせたようにそう言った。
 そして二人で白い階段を上り、屋上のテラスへ向かう。目的も目的地も同じ二人なのに、なぜか妙によそよそしかった。他人の振りをしているみたいに、お互いに目も合わせない。
 リリとナザレが二人、その場に取り残された。
 他の貴族たちはみんな、特等席のテラスに行ってしまった。
 王城の庭に、二人きりだった。
「あの、えーと、リリ……その、もし良かったら、俺と――」
 ナザレがリリの前でひざまずいた。
 空気を震わせる音。空に花火が炸裂し、ナザレの顔を赤や青に染め上げる。
 たった今花火が始まったのだ。連続で破裂する。夜空を光の粒子が飛び交う。その幻想的な光景が頭上にあるのに、二人とも、お互いの顔から目が離せないでいた。
 ナザレが言う。
 囁きさえかき消されそうな振動の中で、リリには確かにその言葉が聞こえた。
 リリは笑顔を見せて、何故だか涙が出てきて、それでも彼女は、ナザレの申し出に小さく頷いた。
 花火は始まったばかりだ。

◇◇◇

「まったく、世話が焼ける」
 花火を見て呑気な歓声を上げる貴族たちを横目に、オスカとキャルはテラスの後方に立っている。今夜のテラスは貴族たちのサロンとなっていた。
「ずいぶんとお節介なことですわね」
「ああでもしなければ、あついらは何も進展しないからな」
「友人思いですこと」
 揶揄するように言って、キャルは扇子で口元を隠した。サロンのざわめきと花火の音の合間から、くすくすとキャルの笑い声が聞こえる。高貴な生まれである彼女は、自分が笑うところを人に見せてはいけないのだ。
「協力してもらって悪かったな」
「いいえ、とんでもない。まるでスパイにでもなったような気分で、わたくしとてもわくわくしましたわ」
「それは何より」
 しばらく二人は、黙って花火を見つめていた。空気を切り裂く間抜けな高い音と共に、光の塊が地上から打ち上げられる。夜空に到達すると、それが爆発四散し、夜空を光の花が染め上げる。まるで星と月と花火とが、夜空の支配権を奪い合っているかのように騒がしい。
「ねえ……知っているかしら?」やがてキャルが口を開いた。「わたくし、初めて会ったときから、あなたに恋していましてよ」
「知っている」
「知っているのに、あなたは――」
 キャルは慌てて口をつぐんだ。しばらく自分の言葉を封じて、落ち着きを取り戻す。
「……あなたのためなら、淑女にも、スパイにも、売女にすらなれますのに」
 そう唄ってから、キャルは沈黙した。
 花火は続く。
 空が騒ぐたびに、七色の光がオスカとキャルの影を際立たせる。
 花火が終わるまで、二人の影が寄り添うことは決してなかった。


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