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3.密室、再び


 医務室の主は、尖った顎が特徴の三十代前半の白衣を着た女性だった。『綱森風花』というネームプレートをポケットに下げている。ドアを開けて、わたしたち二人を見るなり中に案内する。
「まあ、どうぞどうぞ。中に。どこか調子の悪いところでも? あ、遠慮なさらないでくださいねー。それとも怪我ですか?」
「いや、別に医療の世話になりたいわけではないよ。確認を取ってもらえれば分かるだろうが、私たちは――」
「あれ? もしかして警察の人? あらやだ、わたしったら。そうそう、あの人の話を聞きたいんですよね。島田さんからちゃんと電話で聞いてますよ。もう、それならそうと言ってくれればいいのに」
 元気な声でまくし立てると、一列にベッドが並んだ一番端の、白いカーテンで囲われたベッドに近づいて、そっと中を覗き込んだ。
「綿谷さん、落ち着かれましたか? 今、お話を聞きたいと警察の方がいらしてますけど、大丈夫ですか?」
 綱森さんの言葉に、中から弱々しい返事が返ってきた。若い成人男性の声だ。許可をもらって、綱森さんがカーテンを開ける。
 綿谷さんはずいぶんと青ざめた表情でベッドの上に体を起こしていた。普通の人間ならば首切り死体を見れば気分が悪くなるものだろう。ましてや、被害者がおそらく彼のよく知っている人なんだろうし。
 しかしその点を差し引いても綿谷さんは線が細く、ずいぶんとひ弱そうだった。服はラフな黒いシャツとジーンズで、さらさらの髪が耳にかかり顔は女性的だった。きっと彼みたいなタイプが女性たちの庇護欲をそそるのだろう。わたしとしては、こういう守ってあげたい感じの男性にはあんまり触手が動かないけれど。
「君が綿谷? ファーストネームは?」
「涼太郎、です」
「涼太郎か。良い名前だ。下の名前で呼ばせてもらっても構わないかい?」
 如月がそう言うと、彼は怯えた様子で小さく首肯した。警察と名乗っている割にはファンキーな如月のことを警戒しているのだろう。アロハシャツを着て捜査をする警察なんて聞いたことがないし。
「落ち着いたかね? よければ、死体を見つけたときのことを教えて欲しいのだが」
「はい……」
「誰が殺されたのか、心当たりはあるかい?」
「……麻美あさみです」
「麻美?」
外池とのいけ麻美。僕の彼女です」
「それは」如月が表情を作り替えた。「辛いだろうね。悲劇だ」
 綿谷さんは答えずに、うつむいて目を閉じた。悲しみがないわけではないだろう。きっと、あえて考えないようにしているんだ。
 しかし被害者の外池麻美にしたって、死体の状況を考えれば替え玉の可能性もある。だとすれば外池麻美は生きていることになるが、それならば彼女が犯人ということになる。綿谷さんにとってはどちらが幸せなのだろうかと、わたしはぼんやりと考えた。
「今朝、彼女が僕のアパートに来て……。ちょうど東華ホテルの割引券が手に入ったから、せっかくだから泊まろうって。部屋の鍵を置いていったんです。先に部屋で待っててくれって」
「部屋というのは1011号室のことだね?」
「はい。それで十二時くらいにあそこに行ったら、麻美が……」
「麻美が君の部屋に来たのは何時ごろかね?」
「……九時ぐらいだったと思います」
「死体を発見したとき、部屋の錠はかかっていたんだね?」
「え? あ、はい。鍵を使って開けました」
「すると麻美がバスルームに」
 綿谷さんは沈黙によって返事をした。
「あの死体は外池麻美で間違いないと思うかね?」
「そんな……僕は、ただ、麻美にあの部屋へ行くように言われただけなのに……。それにあんな変わり果てた姿になって」
「つまり? 確信はできない?」
 彼は直接的には答えなかったが、如月にとってはそれで十分だったようだ。くくくくっと綿谷さんのこともお構いなしに喉を振るわせて笑った。
「あの、刑事さん?」
「如月と呼びなさい。ところで、麻美のことを詳しく話してくれないかね。彼女はどんな人物だと思う?」
「麻美は……今はフリーのカメラマンをやっていると言っていました。ときどき出版社に写真を持ち込んだりして」
「もしかして、『経論』に麻美の記事が載せられたことはないかい?」
「ええと。確かそんなことを言っていたような気がします」
「ふん。涼太郎は麻美とはあまり深い付き合いではなかったようだね」
「すみません」申し訳なさそうに言う。「麻美って、あんまり自分のことを話したがらなくて……。仕事のこととかは、あんまり」
「麻美と知り合ってどれくらいかね?」
「二ヶ月くらいです」
 それはずいぶんと短い。もちろん、恋愛の大きさに期間の長短はあまり関係ないのかもしれないけど。
「どこで知り合った?」
「それは……あの、僕のバイト先の常連で。向こうから声を掛けてきたんです」
「涼太郎は今何を?」
「フリーターです」
「岳将也という名前に心当たりは?」
「誰ですか。知りません」
 そうか、と返事をして、如月はそのままの姿勢と表情でしばらく動きを停止した。綿谷さんが何事かと如月の顔を覗き込もうとしたところで、彼女は命を吹き返したみたいに再び動き出した。
「あの部屋――つまり1011号室に入ってからの涼太郎の動きを教えてくれ」
「まず……部屋に入って、テレビをつけました。ベッドの上に寝て、それからしばらく麻美を待っていました。それで、麻美が来ないから、どうしたのか不安になって、麻美の携帯電話に電話してみたけど出なくて」
「電源は入っていた?」
「いや、電源を入れてなかったみたいです。それでトイレに行きたくなって浴室へ行ったら――」
 首を取られた死体を見つけた、ということか。
 綿谷さんは気分が悪くなったようで、わたしたちから視線を外して壁の方を見つめていた。そうやって自分の体調が戻るのを待っているのだろう。
 それ以上の質問は無理だと判断した如月は、綿谷さんと、自分の机でコーヒーを飲んでいる綱森さんに礼を言ってから医務室を出た。
「どう? 何かつかめた?」
「真理紗こそどうなんだい?」
「んー。なんか怪しいよね、外池麻美さん」
「それはただの感想だ」
「ねえ如月、そろそろ引き上げた方がいいんじゃない? 彩乃の伯父さんが電話してたら、そろそろ警察が――」
「残念だけどね」子供っぽい、悪戯をするときのような無邪気な顔で、如月が言う。「もう手遅れだ。警察ならそこに来ているよ」
 如月が指を前へ向けた。そちらを見ると、安っぽいコートを着た冴えない中年男を先頭に、ホテルの宿泊客とは明らかに雰囲気の違う一団がこちらに近づいてくるところだった。
 思わず後ろに下がろうとしたところで、左腕をしっかりと如月に固定されてしまった。
「あなたが、たまたまホテルに居合わせた刑事とやらですか?」
 どうやら一団の指揮官らしき男が、迷うことなく如月の前に立ってそう言った。その言葉を受けて如月が片方の眉をつり上げた。
「どうしてそう思うんだい?」
「いやね、こちらも連絡を受けて出動してるもんですから。何でも、アロハシャツを着ているオフの警官がいる、と」
 なるほどね、と如月が納得したように頷いた。
 だからそんな目立つ服はやめておけばよかったんだ。一目でそれと分からなければ、たとえ警察が到着しても知らない振りをしてホテルから脱出できたかもしれないのに。
 男はコートの内ポケットから警察手帳を取り出してわたしたちに見せる。
「観山署の木城きじょうつくもつくもです。あなたは?」
「警視庁捜査二課の如月だ」
「ほう、本庁から」白いものが混じった眉毛が愉快そうに跳ねた。「どうしてこちらに?」
「だから、私用で。ただの観光だよ」
 観光ですか、と繰り返した。人当たりの良い顔をしているけれど、その実油断なく如月のことを観察しているのがわたしにも分かった。
「それで、死体が見つかったとか」
「ああ。詳しい話は第一発見者に聞きたまえ。この中にいるよ」
 そう言って如月は医務室のドアを指差した。木城さんが首で合図すると、隣で刀持ちのように控えていたスーツの刑事が中に入っていった。木城さんとは対照的で、身なりも髪型も清潔感があり好感が持てた。
 木城刑事は「やれやれ、物騒な世の中になりましたな」と愚痴りながらぼさぼさの髪を掻いていた。その姿はまるで売れない画家か、ミュージシャンか、とにかく行政関係の職に就いている人間とはとても思えない。
 しかしそういう格好を自ら選んでいることこそが、木城刑事が油断ならない人物であることを示しているように思えた。油断させてガードが下がるのを狙っているということは、つまりこちらに打ち込む拳を持っているということだ。
「ところで如月刑事、警察手帳は持っていないのですか?」
「ええ。私用なので」
「変ですなあ。わたしなんかは、休みの日だってちゃんと持ち歩くんですけどね。いつ何時何に遭遇するか分からないんですから。ですよね?」
「県警と本庁では随分とスタイルが違うようだね」
「んふふ。ちなみに捜査二課って何をなさってるんですか?」
「ところで、君たちが来たのなら私たちはそろそろ退散したいのだが。私は本庁の刑事だし、ここは君たちの管轄だ。私のような人間がいたのではやりにくいだろう」
「そんな、とんでもない」
「何か聞きたいことがあれば警視庁に連絡してくれ」
「いやね、実はわたしたちも人手不足で」わたしたちに顔を寄せて、声を幾分小さくしながら話した。見え見えの臭い芝居だ。「できれば如月さんたちにも手伝っていただけるとありがたいんですがね……」
「私たちは休暇中だ」
「いや! それは十分承知しておりますよ。ですから、わたしのそばで、捜査に口を挟んで頂くだけで結構です。本庁の捜査手法を学ぶ絶好の機会ですからね。それに休暇中にもかかわらず第一発見者を取り調べたりする使命感のお強いお方ですから」
「なるほど。それならば私としても断る理由がないな」
 ニイ、と如月が笑うのを見て、木城さんは少し驚いた様子だった。
 逃げる口実を潰されたというのに、それでもなお如月は揺らぐことがない。
 綿谷さんの事情聴取を終えた刀持ちの刑事が出てくるのを待ってから、わたしと如月は木城さんに言われるがまま、エレベーターに乗って十階にある外池麻美殺害現場へと再び向かうことになった。刀持ちの刑事も一緒についてきたが、他の刑事たちは彼と入れ違いに医務室に入っていった。
 エレベーターの中で木城さんが、
「そういえばこちらの……お嬢さん」わたしのことを手で示す。
「わ、わたしですか?」
「ええ。如月さんは警察の方ですけど、あなたは一般の方なんですよね。えーと、お名前は」
「芝川です」
「芝川さん。如月さんのご友人でいらっしゃる?」
 返事に少しだけためらって、こんな些細な雑談で嘘を吐く必要もないと思い、
「ええ、そうです」
「一緒にこちらに来た?」
「そうなりますね」
「お二人だけでご旅行ですか」
「私たち二人は仲がいいのさ」
「観光、でしたよね。しかしこの辺で見るものと言ったら城跡くらいのものでしょうに」
「城が好きでね」
「ほう! わたしもね、城は大好きです。そうですね、わざわざ観光に来られたくらいだから、この辺りの歴史には詳しいでしょうな。例えばあの船川ふなかわ城を建てた……ええと、何という武将でしたっけ」
「あいにく戦国時代には疎くてね」
「それではなぜ城が好きだと?」
「これから詳しくなるのさ」
 木城さんは「なるほど」と大げさに頷いた。一挙手一投足が芝居じみている。その点は如月と同じはずだが、そこから受ける印象は百八十度違っていた。どうも木城さんの嘘くささには、その裏に何か思惑があるのではないかと勘繰らざるを得ない、『あからさま』すぎる嫌らしさがあった。
「芝川さん、お泊まりはどちらへ?」
「え……っと」
「真理紗は地元の人間でね」すかさず如月のフォロー。「私がここに来ている間は彼女の家に泊めてもらっている」
「なるほどねえ。それは良い。あれ? んー、おかしいですね」
「何か疑問が?」
「だとしたら如月さん、なんで東華ホテルなんかに来てるんです?」
 体にかかる加速度が減少して、エレベーターが目的の階に到着したのが分かった。ドアが開くと、木城さんを先頭にわたしたち四人はエレベーターを降りる。
 刀持ちの刑事はずっと黙ったままだった。最後尾で、わたしと如月の背後から鋭い視線を送っている。刑事二人に挟み撃ちにされた形だ。わたしたちが逃げないように見張っているのだろうか。
 廊下には黄色のテープが張られ、現場になった部屋に部外者が入らないよう制服の警官が見張りに立っていた。
 警官は木城さんを一目見ると敬礼してテープを持ち上げる。わたしたちがその後に続こうとして、
「おっと、そういえば芝川さんは一般の方でしたな」たった今思い出したというように木城さんが言う。「すみません、さすがに警察でない方を中に入れるのは……ええ、すみません」
「そうですね。まあ仕方ありません。わたしは先に家に帰ることにします」
「いえいえそんな! すぐに終わりますから、しばらくここで待っていてください。土村つちむら君、芝川さんが退屈しないようにお相手してあげて。それでは行きましょう、如月さん」
 反論する隙を与えずに、大きな声で強引にすべてを決めてしまった。簡単には逃がしてもらえないらしい。
 そんな木城さんの態度にわたしは強い反感を覚えた。わざとらしい言い方が癇に障るけれど、自分を落ち着けるため、下手な反論はせずに黙って如月たちを送り出すことにした。
 如月と木城さんがそろって1011号室に入っていくのを、壁に背中を預けながらぼんやりと見る。木城さんがしきりに如月に話しかけているみたいだったけれど、たとえあの刑事が優秀だったとしても、如月から何かを引き出せるとは思えなかった。
 まあ、あの人の矛先がわたしの方に来ないだけマシな展開だ。そう思うことにしよう。
 土村刑事は寡黙だった。相手をする、というのはてっきり話し相手だと思っていたんだけれど。スーツをぴっちりと着こなし背筋をピンと張って、直立不動で黙っている様子は軍人みたいだった。緊張しているのかもしれないし、単に喋るのが苦手なのかもしれない。
「……芝川さんは」
 え? とわたしは聞き返した。声が聞き取れなかったわけではなくて、長い長い沈黙の後に突然土村さんが話しかけてきて、しかもその声が軍人のようなきびきびした様子とはまったくそぐわない少年のような高い声だったことで、わたしは現実に対する処理能力を一時的に失ってしまったのだ。つまるところあまりの出来事に動転したのである。
「芝川さんは」土村さんは言い直して、「如月さんとは長いのですか?」
 にこりともせずに質問される。彼の意図が何なのか考えようとして、ただの世間話以上の意味はないと高をくくった。
「ええ、そうですね……。先月くらいに知り合ったんです」
「先月くらいに」わたしの言葉を繰り返す。
「はい。先月、わたしがちょっとした事件に巻き込まれまして……。そのときに、如月、刑事と、知り合ったんです」
 如月のことを刑事と呼ぶにはやはり抵抗があった。そもそもわたし、嘘ってあんまり得意じゃないんだよね……。普段は嘘を吐いても桃ちゃんとかにすぐ見つかっちゃうし。
「その――芝川さんが巻き込まれたという事件。それを捜査していたのが如月さんなんですね」
「いえ、捜査というか、たまたまその場に如月が居合わせただけって感じです」
「そうですか」
 そっけない態度で頷いた。
「今度の件は残念でしたね」
「はい?」
「せっかく如月さんがいらしたのに、こんな事件に巻き込まれて。おちおち史跡見学もできません」
「……そうですね」
「如月刑事がどこに住んでいるか、知りませんか?」
「さあ。東京じゃないですか?」
「でしょうね。本庁に勤めていらっしゃるんだから。ここからでは通勤できません。如月さんは観山までどうやって来たのですか?」
「……電車です」
「いつ観山に到着したんですか?」
「昨日の晩ですよ」
「芝川さんは地元の人なんですね」
 そうです、と肯定する。
「個性的な人ですね」
「は?」
「如月さんのことです。芝川さんもそう思いませんか?」
「ええ……そうですね。個性的です」
「芝川さんたちは、どうして東華ホテルに来たんですか?」
 一瞬返答に詰まって、だけどそれを悟られないように咳払いして、思いついた嘘を思いついた順に話すしかなかった。
「単に興味本位ですよ。ここって県内じゃ一番大きなホテルじゃないですか。中を見て、食事でもしていこうかと気まぐれを起こしたんです」
「如月さんがここに来た目的は城跡巡りだと言ってましたね。城に行かずにホテルですか。なぜです? 城が好きなんじゃないんですか?」
「わたしの希望ですよ。地元ですから、正直、城とかあんまり興味なくて」
「東華ホテルだって地元にあるでしょう」
「でも、中に入る機会なんて滅多にないですし」
「わざわざ東京から友人が来ている時期に来ることもないでしょう」
「……そうですね」
 多少辻褄が合わなくなることも覚悟の上で、わたしは土村刑事の指摘に頷いてみせた。
 さきほどから抱き始めていたわたしの疑惑がここに来て確信に変わる。つまり本命は如月の相手をしている木城刑事ではなくて、それよりも切り崩しが簡単なわたしの方なのだ。
 わたしを如月から遠ざけたのではなくて、わたしから如月を遠ざけたのだ。
 ごくり、と唾を飲み込んだ。ただでさえ刑事の前で緊張しているというのに、あいつの無茶苦茶な嘘に付き合わなきゃいけないなんて。はっきり言えば、絶望的だ。
「ということは、もう昼食は済まされたのですね?」
「ええ。あの、フロントを通り過ぎたところに喫茶店みたいなのがありましたよね。あそこで」
「何を食べたんですか?」
「どうしてそんなに根掘り葉掘り訊いてくるんですか? わたし、何かしましたか?」
「いえ、そんなことはありません」慌てた様子もなだめようとする意志もなく、ほとんど機械的に土村さんが答えた。「好奇心からの質問です。昼食は何を食べられたのですか?」
「……カレーを」
「カレーですか。美味しかったですか?」
「ええ。それなりに」
「それはよかった。あのカフェ、カレーは置いていなかったはずですけどね」
 わたしは黙った。土村刑事が嘘を吐いているのが分かったからだ。普通ならわたしの記憶違いを疑うけれど。これは揺さぶりをかけてきているんだ。
「ありましたよ。ちゃんと食べましたから」
「そうですか。ではこちらの勘違いですね」無感動に土村さんが言う。「昼食を食べ終えてから、お二人はフロントへ行きこのホテルで殺人が起きたことを知ったのですね?」
 わたしは肯定も否定もせずに沈黙を貫いた。
「警察に通報したのはそれからずっと後、しかも如月さんではなくて徳富さんという方でした。芝川さんは徳富さんがどのような方かご存じですか?」
「警察の方だそうですね」
「警察官僚、というのが正しいです。県警の警備部部長ですよ。徳富部長と如月さんはどのような関係なのですか?」
「さあ。よく知りません」
「警視庁の捜査二課と県警の警備部では知り合いようがないと思うんですけどね。年齢もかなり違う」
「友情に年齢は関係ないと思いますけど」
「その友人が偶然このホテルにいた、ということですか」
 かなり無理のある話だったけれど、しかし実際の徳富博重と如月文子の出会いも理不尽さでは似たり寄ったりだし。この点に関しては事実をありのまま話しても信じてもらえないかもしれない。
 事実は小説よりも奇なり、というやつだ。それはまさしくその通りで、現実には偶然は起こり得るけれど、小説で偶然を起こしてしまえば嘘くさくなる、という単純な理屈だ。
「島田さんというホテルマンの方の話によると……。フロントで如月さんが話しかけてきたときには、すでに徳富部長も一緒だったと」
「カフェでご飯を食べてるときに、如月があの人に話しかけたんです。何の話をしていたかは知りません」
「そうですか。ところで、芝川さんも一緒に現場に入られたんですね」
「すみません」
「いえ、別に謝るようなことじゃないんです。しかしあなたは勇気がありますね。普通は殺人現場に乗り込もうなんて考えませんから」
「ただ流されただけですよ」
 土村さんはそれっきり会話を打ち切った。わたしのことを何気ない風を装って見つめている。土村さんの意図をあれこれと想像してしまうと、まるで睨み付けられているみたいに不愉快な感じがした。
 居心地の悪さにストレスを溜め続けていたら、如月と、続いて木城さんが部屋から出てきた。木城さんは気さくに挨拶をしながらわたしたちの方へやって来る。それを見てわたしは安堵の息を吐いた。
「いやあ、さすが警視庁の捜査官でいらっしゃる。ものを見る視点が違いますな。勉強になりました」
 如月は何も答えず、片手を向けて木城さんのおべっかを制した。
「すみませんねえ、お手間を取らせて」
「構わないさ。渡り掛けた橋、というやつだね」
「お二人はこれからどうなさるんですか?」
「そうだね。城でも見て回って、休暇を堪能することになるだろうね」
「ははあ。ところで、お二人はお昼はもう済ませられましたか? もしよければこの辺りで美味しい店を紹介しますけど」
「いや、それには及ばないさ。どこが美味しいかと店を探して回るのもまた旅行の醍醐味というやつだ。だろう、真理紗」
 昼はもう食べた、と言った手前、土村さんの視線がとても痛かったけれど、下手なことを言うまいとわたしは黙って頷くことにした。幸いなことに土村さんはわたしたちの矛盾を指摘したりはしなかった。逆にそれがわたしへのプレッシャーになっていたりもしたけれど。
「そうだ! せっかくだから一緒にお昼はどうですか? いやあ、わたしたちもちょうど空腹なんですよ。よければ、ここのカフェでご一緒に。どうですか?」
「くくくくっ。愉快だ。実に愉快」
 木城さんが「どうぞこちらに」と手で示して、半ば強引に如月をエレベーターへ連れ込んだ。土村さんの視線を感じて、わたしも唯々諾々とそれに従う他はなかった。
 なるほど。見事に引っかけられた、ということか。今さら気づいたって遅いんだろうけど。
 一度嘘を吐けば、その嘘を補強するためにさらなる嘘を吐く羽目になる。そうなればいくらでもボロが出る。特に、如月とわたしの話した内容を比べれば、齟齬はよりくっきりと浮き出るだろう。事前に打ち合わせをしていたのならともかく。刑事に質問される事態さえ予想できなかったのだから。
 木城さんがその饒舌で如月を攻め、如月は完璧な答えでそれを迎え撃ち、土村さんは監視するようにわたしたちのことを見ている。引き返せない場所まで来てしまったことを改めて確認させられて、これからのわたしの未来に慨嘆するしかなかった。



 カフェに降りると、わたしたち四人は同じテーブルについた。このホテルで昼食を食べるのなら、例えば二階の食堂へ行けばもうちょっと豪華なバイキングを食べられるんだけど。今日はやたらとこの場所に縁があるようだ。これが小説よりも奇妙な偶然というやつか。
 木城さんは年齢にも外見にも似合わないフルーツパフェを注文する。如月はオムライスで、土村さんはこれ見よがしにカレーを注文。刑事二人に強い反感を覚えて、わたしは紅茶だけにした。
「あれ? 何か食べないんですか? せっかくなのに。紅茶だけじゃお腹は膨れませんよ」
 どうせ、食べたら食べたで、変死体を見たのによく食べられますね、とか言うに決まってる。
「食欲がないんですよ。紅茶で結構です。刑事さんこそ、そんな甘いものを」
「いやぁ、これはこれでなかなか美味しいですよ。うん、甘い」
 わたしの予想よりもずっと豪華だったパフェを、スプーンで少しずつ崩しながら木城さんが満足そうに言った。
「いやね、それにしても変な事件です。わたしも長年刑事やってますからいろんな死体を見てますけど。こんなのは滅多にないですね」
「首を切ること自体はそう珍しくもない」
「だとしても切り取った頭を持ち去るというのは、ねえ……。如月さんも、過去にこういう事件に当たったことがあるんですか?」
「九十九。私は捜査二課だよ。殺人の捜査は一課の仕事だ」
「あー、そうでしたね」
 悪びれずに木城さんが頷いた。如月にその程度の罠は通用しない。そのことを悟ったのか、今度はより直接的に事件の話題を持ち出した。
「どうですか、現場を見られて。何か気がついたことがあったら、教えてくださいよ」
「さっきも言ったがね、犯人を特定できるような証拠は残されていなかった。犯人は証拠の隠滅に神経をすり減らしているようだね」
「んー。あの、第一発見者の方、綿谷さんという方がですね、今朝被害者と会ってるんですよ」
「聞いたよ」
「そのときに1011号室の鍵を被害者から受け取っているんです。変だと思いませんか? 綿谷さん、1011号室に入ったとき、部屋に鍵が掛かっていたとおっしゃっていました。ということは、被害者はどうやって部屋の中に入ったのでしょう?」
「九十九はその答えをすでに得ているのではないかな?」
 木城さんは曖昧に笑った。それをほとんど相手にせず、如月はスプーンでオムライスをすくうと口の中に運ぶ。余裕のある仕草だった。
 構わずに木城さんが話を続ける。
「変ですよねえ。綿谷さんに鍵を渡してしまった外池さんは、それ以降、部屋の鍵をかけることも外すこともできないはずなのに。ということは、綿谷さんが外池さんから鍵を受け取ったとき、すでに1011号室にはあの死体があったんじゃないか、と思うんです。つまりバスルームの死体は外池麻美さんではない、替え玉だということになります。いかがですか?」
「悪くないね」
 如月がニヒルに笑いながら答えた。それは木城さんの推理に対する感想なのか、それとも口に含んだオムライスの味への評価なのか、わたしには分からなかった。
「ありがとうございます」と木城さんは言って「問題は犯人が誰か、ってことなんですけどねえ。いやあ、この先はさっぱりです。本物の外池麻美さんが絡んでいることは間違いがないと思うんですが」
「死体の解剖結果を待てば自ずと答えも出るだろうさ。待てば甘露の日和あり、だ。本物の外池麻美が過去に病院に通ったことがあるのなら、そのデータと照合すれば替え玉かどうかが判定できる」
 ごもっともです、と木城さんが言う。もちろん、それまで待っていれば、さすがに如月の正体にも気づかれてしまうだろうけれど。
「そうなると問題は二点。第一に、あの死体が誰なのか、ということ。第二に、外池麻美さんの本当の狙いが何なのか、ということです」
「自分の替え玉を用意した理由、かい?」
「ふふふ。死体をひとつ用意するのは簡単なことではありませんからねえ。姿を隠す方法ならいくらでもあるのに」
「人間にはね、自分を作り直したい――自分をやり直したいという欲求があるのだよ。外池麻美という社会的な人格を捨てて、新しい名前の新しい人格を作るのさ」
「んー、だとしてもそれまでの名前を捨てるのは大変なことですよ? 名前を複数持つというのなら分かりますがねえ。名前を捨てる、というのは珍しいんじゃないですか? 後で気が変わったって、今さら外池麻美には戻れないんですからねえ」
「死体が出てしまったのだから、そうだろうね」
「名前を捨てるにしても、このやり方は常軌を逸していますよ。借金のために名前を捨てて別の人間になる、というのは考えられることですけどねえ、特に日本では。でも身を隠すために人を殺すというのは本末転倒ですよ。警察だって捜すわけですから」
「だとしたら首を持って行ったのも指紋を潰したのもダミーかもしれないね。あれは実は本物の麻美で、犯人は別の人間、警察はすでに殺された麻美を真犯人として捜し続ける」
「ふふふっ、科学捜査を舐めてはいけませんよ。死体が手元にあれば、さすがに本物かどうかの照合はできます」
「だとすれば結果待ちだ。今ここで議論を続けても得るものはないだろう」
 如月はグラスの水を一息で飲み干した。いつの間にか皿の上にあったオムライスはすべて片付けられていた。満足そうに口元を紙ナプキンで拭う。
 アイスクリームが溶けかけているのに気づいて、しばらくは木城さんも自分のパフェを片付けるのに専念し始めた。
 残されたふたり、わたしも土村さんも喋らないので、テーブルに会話の空白地帯が形成される。
 奇妙な空気だった。
 パフェを食べる木城さんも、木城さんの食事が終わるのを腕を組んで待っている如月も、すでにカレーを食べ終えてただ傍観に徹している土村さんも、みんな腹の中には常人の想像の及ばない何かを飼っているに違いない。その目はまるで、敵の急所を探る獣みたいで。
「……そういえば、徳富さんは今どこにいるんですか?」
「帰りました」わたしの質問に土村さんが答える。「午後から仕事があるそうで」
「そうですか」
「いやいや、それが普通の反応というものですよ。それぞれ現場には担当の警察がいるんですから、わざわざ残って事情聴取までする必要はないんです」
「正義感が強くてね」
 いけしゃあしゃあと如月が言った。
 木城さんの笑顔がさすがに崩れ始めたとき、カフェの入り口から制服を着た警官が入ってきて、木城さんの姿を見つけてこちらに駆け寄ってきた。失礼しますと断ってから、彼の耳元に口を寄せて何かを説明する。木城さんが頷くと、警官は慌ただしくカフェから出て行った。
「えー、残念なことが起きてしまいました」
「というと?」
 わたしが質問する。如月は大して興味がないようで、カウンターの向こうにいるバーテンの挙動を眺めて退屈を潰しているようだ。さすがにこの場で鼻歌を歌う気にはなれないらしい。
 木城さんは如月の方をちらりと見て、もったい付けたような大げさな身振りと手振りを交えながら、
「実はまた事件が起きたみたいです。十四階で別の死体が見つかったようですね。では、すぐに行きましょう。さあ」
 木城さんは立ち上がって如月を急かした。わたしとしてはこれ以上付き合う必要はこれっぽっちも感じていなかったのだけど、如月は何を考えているのか、わざと気だるそうな表情を作りながらも、組んでいた足をほどくと木城さんに促されるまま次の現場に向かうことにしたらしい。
「それじゃ、わたしはこれで――」
「真理紗も来ると良い。部屋に入れるのは難しいだろうがね」
 体よく逃げようと思ったら如月に先を越された。正直なところもううんざりしていたし、これ以上わたしの精神がこのストレスに耐えられるとも思わなかったけれど。考えようによっては如月のそばが一番安全かもしれない。なんて簡単に言えるほど如月はお人好しでもなければ善良でもないけれど。
「土村君さあ、ここの会計よろしく」
 土村さんひとりを残してカフェを出る。せっかくおごってもらえたのなら下手な意地なんて見せずに何か頼めばよかった。ただでさえ今朝から嫌なことばかり起こっているのに、肉体の疲労と空腹がわたしのげんなりした気持ちにさらなる拍車を掛けていた。
 エレベーターを使って十四階まで。十四階の死体は十中八九彩乃の彼氏の死体だろうし。まさか第三の殺人なんてものが起きるとは考えたくなかった。
「一応こんな事件が起きたばかりですから、ホテルに要請して、ここに宿泊している方々に事情聴取をさせてもらっていたんです。もしかしたら犯人がまだこのホテルに泊まっているかもしれませんから。そしたら早速1422号室で死体が見つかったみたいですねー。まあ、詳しい話は、上で」
「連続殺人というやつかな?」
「んー、まだ断定できませんが、その可能性はありそうですね。外池麻美との関係が気になるところですが……いやいや、そう簡単にはいかないと思いますけどね」
「刑事の勘、というやつかね?」
「いえ! そんな滅相もない。それに如月さんだって刑事ですからね。刑事の勘というのなら如月さんだって持っているはずですよ」
 如月はそれには返事をせず、代わりに頬の筋肉をぴくりと動かした。
「一緒にあの1011号室を見ましたけどね、犯行が派手な割には痕跡がかなり少ない。恐らく指紋も残っていないでしょう。この事件の犯人は知性の高い慎重な性格の人物でしょう」
「慎重な人間が死体の首を持ち去ったりするかな」
「そこなんです。わたしが分からないのは。外池麻美さんが犯人だとしても、あるいはあの死体が外池麻美さん本人で、犯人は別にいるのだとしても、計画そのものがあまりにも杜撰です。死体を調べれば替え玉なんて成立しませんからね。もっと別の、頭の良い方法はいくらでもあるでしょうに。ふふふ」
 木城さんは如月との議論に終始していた。わたしの方へあまり関心を向けて来なかったのはありがたい話だ。わたしの担当は土村刑事なんだろうけど。またあの人と二人きりになるのかと思うとかなり嫌な感じだった。
 エレベーターを降りて廊下をしばらく歩くと目的の部屋がすぐに分かった。十階の外池麻美さんの部屋と同じように、黄色のテープによって封鎖された部屋から制服の警官たちが頻繁に出入りしているのが見えた。
 ちょうどそのとき電話が鳴った。木城さんがよれよれのコートから携帯電話を取り出すと、慣れない手つきで通話を始める。電話の用件はどうやら部下からの報告だったようで、何度かしきりに頷いてからねぎらいの言葉を述べて電話を切った。
「外池麻美さんのことを調べてもらっていたんですけどね。どうやらそう簡単にはいかないみたいですよ」
「何かあったんですか?」
「えー、というよりは何もなかった、という感じですね。綿谷さんから話を聞いたんですけど、あの人、外池さんの家がどこにあるのかも知らないみたいなんですよ。死体の見つかった1011号室には被害者の服も荷物もありませんでしたからね、外池麻美という人物がどこの外池さんなのかが分からないんですよ。もしかしたら外池というのも偽名かもしれません」
「ふん。しかしそれでお手上げというわけではないだろう?」
「ええ。いずれは必ず被害者の正体を突き止めますよ。……それでは芝川さんは、しばらくここでお待ちください。おい、君」
「は?」
 部外者が立ち入らないよう見張りに立っていた警官の一人を指差して、木城さんが突然指示を出した。言われた警官は困った顔をしたが、上司にそう言われては逆らえない。仕方なくテープをくぐってわたしの側にやって来た。
「君ね、芝川さんが退屈しないようにお相手してあげてね」
「はあ……」
「それじゃあ如月さん、参りましょうか」
 如月は大仰に頷いて、木城さんと二人仲良く現場の部屋に入った。
 わたしと警官、気まずい空気が流れいた。もう決定的に、わたしと如月は木城刑事に疑われているようだ。つまりこれは逃げないように見張っていろ、ということなんだろう。どう考えても。
「あの……城の話は興味ありますか?」
 なんとか間を持たせようと必死に話題を提供してくる警官に、わたしはこっそりと溜め息を吐いた。



 如月たちが廊下に出てきたので、わたしは顔を上げる。気まずい沈黙が続いていたので、わたしの監視を命じられていた警官はこの職務から解放されることを心から喜んでいるようだった。残念だけど、わたしも同感だっての。
「いやあ、お待たせいたしました。んー、今度の方はなかなか痕跡が残っているみたいですよ」
「そうですか」
 特に興味もそそられずに適当に返事をする。
「死んだのは今朝でしょうねえ。解剖してみないと詳しいところは分かりませんけど」
 白いシーツに覆われた死体が担架で運び出されたのを見た。仕事とは言えわたしたちは死んだ人間を放置していったのだから、それが正当な手続きで処理されるというのは悪くないニュースだ。成仏してね、と柄にもないことを思ったものだ。
 いやそもそも、それが他殺であれ事故であれ、予期せぬ死を与えられた者が安らかに眠れるとは到底思えない。結局自分を納得させる死とは自殺以外ありえないのではないか。他人に殺されようと、事故で死のうと、突如として自分の人生を閉ざされてしまう理不尽さに変わりはないのだから。
「んー、しかしこれでますます分からなくなりましたねえ。同一犯の犯行と考えて間違いはなさそうですが……首を切ってるわけですからねえ」
「連続首切り犯か」
「んー。日本ではあまりこういった事件は起こらないのですが」
「九十九はこの事件を猟奇殺人だと考えているのかい?」
「いえいえ、まだ断定はしていませんが。ですけどね、首切り死体がひとつだけなら、例えば死体の身元を隠すためだという合理的な目的を感じますけど。首切り死体が複数あれば、それには何か猟奇的な動機をどうしても連想してしまいますよ」
「ふふん。犯人は何を考えているんだろうねえ。ホテルの部屋を首を切って回っているのかな。まるでデュラハンみたいに」
「デュラハン?」
「そういう妖精がいるのさ。馬に乗り、自分の首を脇に抱えて、人々の首を狩りに来るのさ」
「んふふ、ぞっとしませんねえ。これは妖精の仕業ではありませんよ。人を殺すのは人の仕業です。特に今度の死体は、誰かが手を触れた形跡がありましたし、部屋の中にも証拠を隠蔽した後がある」
 わたしは思わず如月の顔を見そうになって、それを慌てて自制した。如月はあの部屋でただ調査だけをしていたわけではなかったのだ。おそらくあの部屋から彩乃の存在――別の人間の気配を消すための隠蔽工作をしていたのだ。
「妖精ならばわたしたちに逮捕される心配をする必要もありませんからね。これは人間の仕業ですよ」
「では犯人の動機は一体何だろうね。犯人が首を切った抜き差しならぬ理由とは一体何か」
「さてねえ……さっぱり分かりませんね」
「まず第一に考えられるのが、犯人はデュラハンのような人物で、人の首を斬るのが無上の喜びなのだという可能性。犯人はこのホテルを舞台にして、宿泊客の首を切断しては密かに収集しているのさ」
「ふふふ。面白い説です」
 木城さんは笑っていたけれど、表情ほどには如月のユーモアを評価しているわけではなさそうだった。どうやら木城さんはわたしが思っていたよりは真面目な倫理観の持ち主らしい。如月がふざけすぎているだけだと思うけど。
「ですけどそれは最悪の可能性ですねえ。もしそうならまだまだ事件が続く可能性がある。この事件の犯人はそれなりに頭の働く人物で、証拠を何一つ残さずに犯行を行える人物です。そうなると捕まえるのは骨が折れる」
「有能な異常者ほど有害なものはないからね。……では次の説。犯人は外池麻美で、この部屋で殺人を犯した後、自分の身代わりの死体を残して蒸発した」
「偽物の死体なんてそうそういつまでも騙し通せるとは思えないのですが」
「時間さえ稼げばいいのさ。その場合、最初の被害者の首を切断したのはただのデコレーションだね。本命の切断は偽外池麻美の死体だけだ。その証拠に、外池麻美の死体からはちゃんと首を持ち去っているのに、ここの被害者からは首を奪い取らなかった」
 そう言いながら、如月は1422号室の壁をばんばんと叩いた。
 如月の説にはそれなりに整合性があるように思えた。が、それではなぜ1422号室の岳さんの死体から頭部を持ち去らなかったのか、という謎が解決できなくなる。本当に犯人が外池麻美さんならば、わざわざ替え玉だと言わんばかりに片方の死体だけ頭を持ち去るのは不自然だ。それならば両方の頭部を頂いた方が、捜査陣だってどちらが替え玉なのかすぐには分からないわけだし。
 木城さんはわたしが疑問に思ったことをほぼそのまま口にして、如月の説に反駁を加えた。如月の方も本気で言ったわけではないようで、木城さんの言ったことをそのまま受け入れて素直に自説を引っ込めた。
 付け加えるならば、外池麻美の泊まっていた部屋からは彼女の持ち物が何もなかったのに、岳さんの方では彼の持ち物はすべてそのままで残されていたのも不自然だ。首切りの目的が時間稼ぎならば死体の身元を探るための手がかりはすべて綺麗に片付けていくのが自然だ。現に外池麻美さんの部屋ではそうしているわけだし。どうもこの事件の犯人、行動が一貫しないというか、ムラがあるように思えてならない。
 そして、木城さんは知らないのだけど。
 彩乃が眠っていたあの部屋にどうやって入ったのか。そしてどうやって部屋を密室にしたまま脱出したのか。
 如月は、方法については特に考えなくてもいいと言っていたけれど、どうしてもわたしには、そんなことが可能だとは思えないのだ。
「首を切る、というのは普通の死体切断とは異なる意味があるのではないかね。首を切るのは罪を裁くということだ。斬首だね。思うに、この事件の犯人は被害者たちを断罪して回っていたのではないかな。つまり正義の味方だ」
「殺された二人には死に値する罪があったと?」
「殺された上に頭を持ち去られた麻美にはより大きな罪があったということさ。そう考えればこの部屋の死体と麻美の死に方は全く趣が異なるものだね。切腹の末の斬首と獄門打ち首の末さらし首では名誉の扱いが全く違う。切腹の際の斬首はあくまでその人物の腕の中に落とされるが、罪人の首は橋に晒された挙句、その首は決して罪人の元には帰らない」
「それでは首切りマニアと何も変わりませんね」
「そうだね。いや、変態性癖の暴発か、社会正義のためのテロリズムか、という違いかな」
「外から見た限りじゃ、両方は同じだと思うけど」
 わたしがそう言うと、やれやれといった表情で首を振った。
「違うね。真理紗は決定的に違うよ。なぜなら後者の方が明らかに悪質だからだ。前者の場合、あくまで個人の欲望と社会の規範との葛藤の挙句に個人の欲望が勝ったために行われる、本人にとってもやむにまれない行為なんだよ。だから彼らには罪悪感があるし、自分が欲望と引き替えに罪深いことをしているという負い目がある」
 如月がちらりと木城さんの方を見た。木城さんは観念的すぎる話に少し呆れているようだったけど、それを注意することなく興味深そうな顔を作って如月の話を聞いている。
 如月は満足そうな顔をすると話を続けた。どうやらわざと嫌がらせをしているらしい。
「対して、後者には葛藤がない。なぜなら彼らは社会の規範を守っているからだ。だから個人の欲望と社会の規範が彼の中で衝突することはないし、それによって罪悪感を覚えることもない。これは恐ろしい話だよ。なぜなら彼を止めるには物理的な手段を持って、強制的に排除するしかないからだ。それまでは絶対に止まらないね。彼らは当たり前のように、それが必然であるかのように、自らの中にある社会規範に従って人を殺し続けるのさ」
「間違った正義ほど有害なものはない、ってことね」
「間違った正義と一方的に決めつけるのは傲慢だよ。彼の正義とわたしたちの正義が違うからと言って、どちらが正しいとは断言できないさ。それは川の向こうとこちら側の関係で、どちらが対岸かは自分がどこに立っているかで相対的に決められるものだ。もし社会の大多数が、罪を犯した人間の首を切り落とすことに合意した場合、社会から排除されるのは彼ではなくてわたしたちということになるからね」
 それはまるで、太った女性を美しいとする価値観が、痩せている女性を美しいとする価値観に取って代わられたように。それまでの正義が、掌を返したみたいに悪になってしまう。
「ちなみに私に言わせればね、それ以外で正義の旗を掲げる人間は大抵偽善だよ。人が正義の旗を掲げるとき、彼らは他に掲げるべき旗を持たないのだ。正義というのは他人を納得させるための最後の砦なのさ。だから大抵は私利私欲、個人の欲望が絡んでいたりする。正義を自称するやつなんて、偽善か、私たちにとって有害な正義か、そのどちらかしかないのだ」
 それは少し乱暴な結論だと思ったけれど、その言葉に頷いてしまう程度には説得力のある意見だった。
 だとすれば、わたしたちは一体何を信じればいいのだろうか。
「えー。難しい話ですねえ。んー、わたしでは、どうも、ついて行けませんね」
「正義について考えるのは警察の職務ではないからね。ふふ、失礼した。ただの雑談だよ」
「いえ、構いませんよ。興味深いお話でした」と口で言っている割には、如月の話が終わってほっとしているようだった。しかし――と、木城さんは言葉を続ける。「被害者が外池さんだとすれば、犯人があの部屋の中にどうやって死体を入れたのかが問題になります。今朝の九時から部屋の鍵は綿谷さんが持っていたわけですからね。その後に外池さんを殺害しても、部屋は鍵が閉まっているんです」
「正にその通りだ。その点も込みで考えれば、犯人の候補はぐっと絞られる。第一に犯人が外池麻美だった場合。麻美は替え玉の女と1422号室の男を殺害し、綿谷涼太郎に鍵を渡して姿をくらます。この場合犯行はどちらも九時前に済ませなければならない。部屋を密室にしなければならないからね」
「でもそれだと、部屋を密室にした理由がよく分からないんだけど。だってわざわざ綿谷さんに鍵を渡したから、犯人が絞られちゃうわけだし」
「そうだ。それがこの説のネックのひとつだ」
「首切りに関してはまだ分かりますけどね。外池さんの死体だけ首が切られていたら、すぐに替え玉が疑われてしまうから」
 それにしたって、犯人はちょっと不用心だと言わざるを得ないけど。なんたって、如月も、木城さんも、このわたしだって、死体が外池さんでない可能性を考えたわけだし。
「次に、あれが麻美の死体だった場合……。そうなると、犯人は綿谷涼太郎が1011号室の鍵を入手した後に麻美を殺して、死体をあの部屋へ運ばなくてはならなくなる。しかし九時以降、あの部屋へ出入りできた人物は涼太郎しかいない。であれば犯人は涼太郎だ」
「いえそれはないでしょう。もしそうならそもそも外池麻美から部屋の鍵を受け取った、なんて言わなければいいだけの話です。部屋に入ったときには鍵が開いていた、と言えば、むざむざ自分だけが外池さんを殺せたという状況にはならないわけですからね」
「そうだね。どちらにしろ弱点がある。が、あの鍵の問題を考えれば、犯人はこの二人以外にはあり得ないよ」
「外池麻美と綿谷涼太郎が共犯だとしたら、どうです?」
「それならばこんな入り組んだ話をでっち上げたりしないだろうさ。この状況は犯人に不利になりこそすれ、絶対に有利には働かないのだからね」
 そのとき、1422号室の前にいた制服の刑事が大声で木城さんの名前を呼んだ。ちょっと失礼します、と頭を下げてから、木城さんは小走りで部下の刑事の元へ走って行った。
 それを見て、わたしは小声で如月に話しかける。
「でもよかった。これで彩乃が犯人じゃないことは証明できそうだし」
「ああ。後は頃合いを見計らって逃げるだけだな」
「ていうか、それならわざわざこんなことまでする必要なんかなかったんじゃ……」
「くっくっく。せっかくの休日を、スリルとサスペンスで彩ってあげたんだ。感謝してもらいたいくらいだね」
「呪い殺してやろうか」
 わたしは冗談交じりに、笑みさえ浮かべて悪態をついた。
 正直言えば、少し気が抜けたのかもしれない。何せ、今朝の段階では、一体何をどうすればいいのか皆目見当も付かなかったんだから。
 それがいつの間にやら当初の目的は達成できたみたいで。これでいつでも離脱できる、というのは心臓の弱い小心者のわたしにとってはこの上ないニュースだった。
 もちろん、犯人は未だに不明だが。
 この事件の真相が気にならないと言えば嘘になるけれど、まあ究極的に言えば、他人事なわけだし。死んだ二人はさぞ無念だろうと思うけど。
 わたしと如月は、軽口を叩き合いながら、捜査をしている警官たちから不自然に見られないように気をつけつつこの場を立ち去ることにする。
 エレベーターを呼ぼうとボタンを押したけれど、ここまで上がってくるのに時間が掛かりそうだったので階段を使うことにした。先に如月が降りて、わたしがその後に続く。
 ――特に理由はないけれど、わたしは後ろを振り向いた。
 男が廊下の向こうで警察の捜査を眺めている。わたしの視線に気づくとすぐに廊下の角に引っ込んでしまった。まるで逃げるように、というか明らかにわたしの視線を避けて、彼はどこかへ行ってしまった。
 その男の姿をどこかで見たような気がする。たった今見た顔、服装が、わたしとどこかで接点があったような気がして、記憶の中を必死に探ってみるけれど。一瞬だけしか見えなかった男の顔は、たちまちわたしの中で霧散し、消失し、もはや記憶をたぐることは不可能になってしまった。
「どうしたんだい?」
 先に階段を下りていた如月が、怪訝な顔でわたしに尋ねた。
「うん、ちょっと……。なんか、さっきから誰かに見られてるような気がして」
「ドッペルゲンガーでもいたかい?」
「ドッペルゲンガー?」
「自分そっくりの姿をした――まあ、怪談の類だな」
「そんなんじゃないけど。男の人で、警察が捜査してるのをずっと見張ってたみたい」
「ふん?」如月は少し間を空けてから、「その男に見覚えがあるとか?」
 わたしは頷いた。すぐに気持ちを切り替えて、如月と一緒に十四階分の階段を下りることに専念する。
 何だろう、この事件。どうも散らばっているというか、まとまりがない。一体力点がどこにあるのかが全然分からない。わたしはてっきり二つの首切り死体が事件の中心だと思っていたけれど、なんだかその周辺――さっきの男にしろ、彩乃のことにしろ、彩乃の伯父さんにしろ、ごてごてと色んな要素が寄せ集まっていて、どうも本質が見えないというか。
 パズルのピースを拾いきれない、と表現すればいいのだろうか。
「君がそこまで頭を悩ませる必要はないと思うがね」
「でも、気になるじゃない。わたしたちはもうこの事件に深入りしてしまってるんだし。もしかしたらもう少し手を伸ばせば真相に届くかもしれない」
「真相ねえ」呟くように繰り返す如月。「真相なんて大抵はろくなものじゃないさ。手品は種が分からないからこそ面白い。犯罪の真実を暴いたところで、そこにあるのは悲劇か悪意か――まあとにかく、あんまり愉快なものはないと思うがね」
「探偵がそんなことを言っていいの?」
「一般論だ」
「そうじゃなくて、如月っていつも自分から事件に首を突っ込むじゃない。真相がろくなものじゃないっていうなら、なんでわざわざそんなことをするわけ?」
「そうだね。私はできる限り中立でありたいと思っている」
「はあ……」
 まあ確かに、如月以上に「中立」という言葉が似合う人はそういないと思うけど。
 階段を下り続けていると、同じ段を何度も何度も踏み続けているような錯覚を感じた。もちろん、わたしが一段下りる度に確実に一階へ近づいてはいるんだろうけど。体力不足のわたしはそろそろ階段に嫌気がさしてきたところだった。
「例えば目の前で誰かが殺されそうになっていたとする。ほんの目の前だ。犯人は今にもナイフを振り上げて、もうひとりの人物を刺し殺そうとしている。真理紗ならどうする?」
「助けるよ、そりゃ」
「私も助けるだろうね。では次に――そうだね、もう少し離れた場所。例えば十分以内に事務所に戻らなければ誰かがそこで殺されてしまう。真理紗はもちろん車に乗っている。真理紗ならどうする?」
「そりゃ……急いで事務所に行くけど」
「ではさらに拡張して、例えば真理紗がヘリコプターを所有しているとしよう。別にヘリでなくとも、飛行機か、空飛ぶ円盤か、とにかく何でもいい。そのとき、地球の裏側で今にも殺されそうな人がいる。自分が駆けつければ確実に助けられる。真理紗ならどうする?」
 ここまで来れば、如月の言いたいことがなんとなくわたしにも分かってきた。
 例えば目の前で殺人が起きていれば、わたしはわたしができる範囲でその殺人を止めようとするだろう。しかしここで問題なのは、その「できる範囲」というやつで。
 例えば、人と会っただけでその人物が誰を殺すのかを瞬時に洞察してしまえるような人物ならば。超能力のように、次に何が起きるのかを予測できる人物なら。その人物はたとえ地球の反対側であろうと、この世界に起きていることならばすべてを見通してしまう。
 そんな常識外れの能力を持った人間が、自分の知覚しうるすべての犯罪を止めようとすれば、これはもう、一人じゃとても追いつかなくなるだろう。それは能力の問題ではなくて物理的な数の問題だ。
 如月は自虐めいた笑みを浮かべた。そんな顔を初めて見たかもしれない。もしかしたら前にも見たことがあって、単にわたしが忘れているだけかもしれない。でも、自虐なんて後ろ向きな概念は、如月のイメージには相反するものだ。
「私だって、なるべく善良でありたいのだがね……。私の目は千里眼でも、腕の長さはこの通り、人一倍しかなくてね。くくくくっ」
「……それでも、犯罪を暴くことが無意味だとは思わないけど」
「例えば私が興味本位で誰かの罪を暴いて、そのことで誰かが決定的に不幸になったら? その不幸も私が背負わなければならないのかな。……『分からない』、『分からない』。現実に答えなんてない。人を縛るのは『こうありたい』という誰かの願望であって、本来は『こうあらねばならぬ』という法則なんてどこにもない。実はね、人は自覚している以上に皆自由なんだよ。……だからこそ、私は私の規範には従わなければならない」
「だから探偵をしてるの、自分と折り合いを付けるために? でもそれって――」
 言いかけて、やめた。
 知り合って一年も経っていないわたしが、如月の人生観に口を挟もうなんて、思い上がりもいいところだ。
 それによくよく考えてみれば、何だかんだで上手くはぐらかされてしまっているような気がする。もし本人が言いたくないのなら、下手に突いたところで気まずくなるだけだ。
 足が震え、腹が痛み、汗が吹き出たところで、やっとの思いで一階まで階段を下りきった。如月は汗どころか呼吸一つ乱さなかった。
 わたしたちはフロアに出るとそのまま玄関へ直進する。前を向いて、姿勢を正して、ここから外に出るのがさも当然と言わんばかりに堂々とした雰囲気を作る。
 けれどわたしたちの足は出口に到着する前に止められてしまう。エレベーターで先回りした木城さんが笑顔でフロントの前に立っていたからだ。
「綿谷さんのアリバイが確認できましたよ」
「それは朗報だね」
「ところで、お二人はどちらへ?」
「もう私たちが協力できそうなこともなさそうだからね、そろそろおいとましようと思っていたところさ」
「そうですか。残念です」
 そのとき、自動ドアをくぐってホテルの外から土村さんがやって来た。木城さんの姿を見つけて駆け寄ると、
「警部の言った通りでした」
「間違いない?」
「はい。ちゃんと向こうにリストで探してもらいました」
「そう……」小さく呟くと、木城さんは手を顎の下に付けて、自分が思考中であることをアピールする姿勢になった。「如月さん、あなた警視庁の方なんですよね?」
 如月は答えなかった。代わりに両腕を広げて肩をすくめる。喜劇めいた大げさな仕草だ。
「警視庁の捜査二課に連絡してね、如月という名前の女性の刑事がいるのか調べてもらったんですよ。土村君、ありがとうね」
 ぞんざいに礼を述べても、土村さんは表情一つ変えなかった。土村さんも、木城さんも、わたしたちから視線を外そうとしなかった。その目は、警官が容疑者を確保するときの目だとわたしは思った。
「如月さん、あなた誰なんです? 警官じゃないでしょう。それなのにあんな嘘を吐いて……。何が目的なんですか?」
 如月は腕を広げたままで喉を振るわせて笑った。木城さんもそれに合わせて愛想笑いを浮かべる。
「……おかしいですか?」
「今さらそんなことを言うものでね。九十九は私が警察ではないことを最初から確信していただろう? それをさも、今初めて気づいたとばかりに言うものでね。あまり馬鹿の真似をするものじゃないよ。そんなもので騙されるのは本物の馬鹿だけだ」
「ふふふ。如月さんには敵いませんね」
「常識的に考えて、私のような刑事がいるわけがないからな」
 自分で言うな、という突っ込みを喉のところでぐっと堪えた。
「それでは、行きましょうか。ええ、ホテルを出ましょう。お二人の望むとおりにね。ただし――行き先は観山署ですから。あなたたちの待遇は、今のところは『重要参考人』ですけどね」
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