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2.調査と隠蔽


 樫桜にある彩乃のアパートは『ウッドガーデン』という名前で、実家がかなりの資産を持っているという彼女にしてはずいぶんと質素で錆付いたアパートだった。建築当時は白い壁がそれなりに美しく映えていただろうが、今は老朽化が進んで逆に汚れや罅を目立たせる結果となっていた。
「ごめん、すぐ戻るからね」
 と車を降りる前に彩乃は言ったけれど、彼女の『すぐ』を信用したのがそもそもの間違いだった。彩乃がアパートから出てきたのが九時を過ぎたころだった。服も着替え、表情もずいぶんさっぱりしている。シャワーでも浴びてきたのだろうか。ただし、アパートに入る前と比べて荷物が五倍くらいに増えていた。
「はい、お待たせー。あ、これどこに乗せればいい? ていうか乗る?」
 ひたすらマイペースを貫いている彩乃に溜め息が出た。仕方なく車を降りると、彼女と協力して両手いっぱいのバッグやら紙袋やらを後部座席に強引に押し込んだ。
「うん。ありがと。つかごめんね、荷物多くて」
「本当に……。別に引っ越すわけじゃないんだから、こんなに大所帯にならなくても」
「いや、つーかあれじゃん。犯人見つかるまでは逃げるわけでしょ?」
「すぐに見つかると思うけどね」
 わたしはあくびをしながら答えた。まあ如月だったら、すぐに犯人を見つけて告発してしまうだろう。悔しいけれどそういうことに関しては如月のことを認めざるを得ない。いやまあ、別にうらやましくは思わないから悔しくはないんだけど。もしかしたらもう犯人の目星を付けてるかもしれないくらい。
「そんなにすごいの? 如月さんって。いや、確かになんかすげーオーラみたいなのはあったけど」
「オーラみたいなのがあるかどうかは知らないけど、まあわたしの知る限りでは如月に解決できない事件はなかったかな」
「え? なになに、マリちゃんてこういう事件とかいつもやってんの?」
「そんなに頻繁に殺人絡みの依頼が来るわけじゃないけどね。如月の場合、自分から首を突っ込もうとするから、必然的に」
「へえええ。すげーじゃん」
 いたく感心した様子で、助手席の彩乃は窮屈そうに体を縮めながら言った。スペースの狭さに居心地が悪そうだったけれど、直接わたしに文句を言うようなことはしなかった。本当ならこの車はわたし一人で乗るためのものなのだ。後部座席が荷物で埋まった今、多少の窮屈は自業自得として我慢してもらうしかない。
 時間を気にしながらわたしは事務所へ急いだ。あんまり如月を待たせるのも悪いと思ったのだ。
「マリちゃん、探偵になんの?」
「なんで?」
「いや。なんかすげーぴったりな感じじゃん」
「将来のことはまだ何も考えてないけど……」
「んー、でもあれじゃん。そろそろ就活とか? そういう時期なんじゃね?」
「まだ早いよ」
 と口では言ってみるが、確かに大学三年生の秋、同級生の中にはすでに就職活動を始めている学生も多かった。
「参考までに訊きたいけどさ、将来の夢とかあんの?」
「特にない、かな。保留っていうか、何も考えてないだけだけど」
「あたしと同じだ」戦地で同胞を見つけたときのように彩乃の声が華やいだ。「なんかね、正直言って、かったるいんだよね。将来のこととか考えんの。なりたいものなんかねえっつの。そう思わない?」
「うん、まあ……」
「あーあ。あたしもいつかおばさんになるんかな……。ていうか、なるんだけどさあ。嫌だなあ」
「ずいぶん後ろ向きなんだね」
「なんかさ、高校のときのセンコーとかも言ってたけどさ、将来の希望? とか、なんかそういうの、全然ないやん。いや、それってさ、やっぱり大人たちの責任っつうか、子供に希望希望言う前にあんたらに希望がないじゃん、みたいな?」
「未来だってそうそう捨てたものじゃないと思うけど」
 わたしは心にもないことを口にした。彩乃はもう一度「あーあ」と投げやりに言うと、シートにもたれて目をつむった。眠かったのかもしれないし、これまでの人生を振り返っているのかもしれなかった。
「あたしも探偵になろうかな」
「よした方がいいと思うよ」
「このまま卒業したら……何になるんだろうね。なんか適当な銀行とか会社で事務員かな。つーか就職できるかどうかも分かんないけど。それで毎日会社行って働いて、それでどうなるんだっつー感じなんだよね。じゃない? なんかもうあたしの人生の楽しい部分が終わって、後のはおまけ、っていうか――消化試合、みたいな」
「…………そう」
「ま、だから今の内に遊んどこうってことなんだけど」少し照れくさかったのか、それまでの話を誤魔化すようにそう付け足した。
「岳さんっていう、あの人が殺されちゃったけど。彩乃はそれで、別に、悲しくないの?」
「うん。悲しくないよ」彩乃は普通に言った。「あたし、悲しいってよく分かんない。小説読んだら、たまにウルって来ることもあるけど。前におばあちゃんが死んだときも、全然悲しくなかった。うちの親とかめっちゃ泣いてるんだけど、なんかあたしだけすっげー白けてるっていうかさ、死んだから、何? みたいな。いや、おばあちゃんのことは好きだったけどさ、なんかそれなら悲しまなきゃいけない、ってのは変だと思うのね。でもなんかみんな泣いてるから、わたしも泣いた振りしてたけど。ああ、死んだんだな、って思うだけだったかも。ごめん、つまんない話だけど」
「いや。そんなことないよ」
「あんまりこういう話したくないんだけどさ……冷血オンナとか思われそうだし。そりゃあたしだってさ、怒ったり笑ったり悲しんだりするけど、なんかね。乗り切れないよね」
「乗り切れない……」
「うん。なんかあたしとは無関係な気がするの。怒っても笑っても悲しんでも、どうにもならないじゃん、って感じで」
 彩乃は顔を背けて窓の方を見た。時速六十キロで後方に流れていく土曜日の景色を見て、彼女は何を思うのだろうか。
 他人事の感覚――。きっと自分すらも他人事。情緒を感じている自分という主体が、この世界にのめり込めないでいる。だからこそ、自分なんてどうでもいいし、ましてや他人のことにすら興味がない。世界はわたしにとって果てしなく遠い場所にある。
「人が死んだら悲しくて、悲しかったら泣いて、泣いたら慰めて、慰めながら泣いて、みんな泣いて……。馬鹿みたい。悲しいって言葉の意味すら分かってないくせに、あいつら、何となく泣いてるだけなんだって。流されてさ。馬鹿じゃん。マリちゃんもそう思わない?」
「なんでわたしに、そういう話を?」
「マリちゃんなら分かってくれると思ってたから」彩乃はわたしのことを指差した。「マリちゃんて、ここにはいない気がするから」
 一緒にするな、とはとても言えなかった。その言葉はそのまま彩乃のことも表しているような気がした。わたしや彩乃は、本質的には同じ分類。他人に、社会に、世界に共感できない冷めた人間。
 もちろんそれはわたしたちが特別なわけじゃなくて、こういう悩みを持っている人はたくさんいるはずで。それを馬鹿な悩みだと切って捨てる人もいれば、それが死活問題となる人もいるだけで。
 それでもわたしと彩乃は、どうやってみんなに適合するかという点で大きくスタンスを違えているけれど。
「岳さんとは仲、悪かったの?」
「普通。向こうはどう思ってるか知らないけど。あたしの方は別に……って感じ。まあ嫌いじゃなかったけど。あとなんか色々買ってくれたしね。それになんか全然自分のこと話さんかったし。テレビとか映画とかそんなんばっか」
「岳さんを殺すような人に心当たりは?」
 右折しながら、ホテルでしたのと同じ質問をした。糸嶋いとしま川の橋を越えて、もう十分も走れば事務所に着く。
「さっきも言ったけど、あんまよく知らないんだってマジで。んー、元恋人と……ああ、そうそう、うちの父親とかも殺すかも」
 後者は冗談の色を含んでいたらしくて、自分で言ってから愛想笑いをこちらに向けてきた。もちろんわたしは笑わずに、彩乃に詳しい説明を求める。
「知らない? なんかちょっと前にテレビとか出てたんだけど」
「お父さん、なにやってる方なの?」
「えーと、政治家とかしてる。伯父さんは警察。選挙とかやるとマジうるさくて迷惑。ほっといてくれって感じ」
 少なくとも彩乃の実家が名門なのはどうやら事実らしい。徳富という名前の政治家が本当にいるのか、政治に関心のないイマドキの若者であるわたしには判定が難しいけれど。
「うちの母親がね、まあ父親があんなんだから家から出てったんだけど。別居中っていうの? あたしが小学校のときだったかな。なんか今はもう別の男見つけたらしいけど、イメージダウンになるからって離婚させてもらえないんだって。そんでまあ、なんか岳さんと知り合って、それでうちの事情とか教えてあげたら、それが週刊誌に載って、父親マジぶち切れて」
 当時のことを思い出して、いい気味だ、と彩乃は笑った。
 権力と地位を守るために家庭を顧みない父親。崩壊する家族。蔑ろにされた母親。娘は家を壊した父親のことを何よりも嫌う。世間体のために必要以上の貞節を求める父親に対して、制約の反動で退廃的に振る舞う娘。
 徳富家の物語は、どちらかといえばありがちなメロドラマのようである。
「マリちゃんは? 親とかうるさい?」
「うちはまあ、普通だけど。どっちかっていうとあんまり干渉しないかな」
「へー、いいなあ」
「彩乃だって自由にやってるじゃない」
「んー、でもすっげーうるさいよ。まあほとんど会わないんだけど」
 けらけらと彩乃は笑った。それには父親のことを侮蔑するニュアンスを含んでいるような気がした。
 事務所に到着し、狭い駐車場に車を駐める。
 事務所が二階にあるので二人で彩乃の荷物を手分けして運ぶ。かなり面倒だったが、だからといって車の中に置いて行かれても困る。
 とりあえず彩乃は応接室の方へ通す。しばらく待つようにと彼女に言って、応接室を出るとすぐに宮坂さんが来た。
「あちらは?」
 応接室のドアの外で、中を覗きながら小声でわたしに尋ねた。
「徳富彩乃さん。で、その、今朝の電話で如月に保護を依頼された方です」
「保護?」
 宮坂さんに口を寄せて、これまでの経緯をかいつまんで説明した。彩乃は初めて入る探偵事務所に興味津々のようだが、探偵事務所と言っても秘密兵器や特別な設備があるわけじゃない。すぐに飽きて、ソファに体を沈めると、応接室に置いてあった暇つぶし用のファッション雑誌に興味の矛先を向け直した。
「一応聞いておくが、あの子お金は……」
「払える、って言ってるし、いざとなったら家の方に請求すれば……。まあ、そのあたりの交渉は宮坂さんにお願いします」
「僕がやるのか」
「わたしはすぐにホテルの方に戻らないといけないので……如月がまだ向こうに残ってますから。いえ、宮坂さんが、ホテルの方に行きたいとおっしゃるなら、わたしはやぶさかではありませんけど」
「すぐに行ってあげなさい。警察と如月に気をつけて」
 まったく、大人とは現金なものだ。
 宮坂さんは人当たりの良さそうな笑顔を浮かべながら応接室の中へ入っていった。笑顔に負けないくらい善良な言葉を述べてこのたびの不運をねぎらった。その裏では社会人らしい打算が働いているのだろうが、そんなことは彩乃の方も気づいているらしくて、形ばかりの世間話にもほとんど熱は入らなかった。
「それじゃ、わたし、ホテルの方に戻るから」
「うん。ありがとね」
「お礼を言うのはまだ早いよ」
 彩乃に手を振って挨拶すると、わたしは事務所を出て車に乗り込む。エンジンを回しながら時計を気にしていた。向こうに到着するのは十時四十分くらいだろうか。



 現場となったホテルの部屋のドアノブに『起こさないでください』の札がかかっていた。今朝見たときはそんなものはなかったはずだから、きっと如月の心遣いだろう。ドアを開けようとすると鍵が掛かっていたので、わたしはノックして中に合図した。
「意外に時間が掛かったね。待ちくたびれてしまったよ」
 ドアを開けながら如月が言った。
 部屋の中に入ると、血液と死肉の匂いが先ほどよりも強くなっているような気がする。不意にそれを受けて胸にむかむかとした不快感が漂う。
「ちょっとね、彩乃の荷造りに時間が掛かって」
「ふん、なるほど」
「そっちの首尾は? 何か分かった?」
「調べれば何かは分かるさ。目的はたったひとつの、真実という筋書きであって、それ以外の情報がいくらあっても無意味なのだよ」
「その真実とやらは見つかった?」
「肉薄しているという確信がある。朝食は食べたかい?」
「……事務所に来る前に家で食べてきたけど」
「それでは二度目だな」
「何が?」
「朝食」言ってから、如月は部屋の外に出た。「ここで食べたいというのなら止めはしないがね。下のカフェに行こう」
 ……ここは大人しく従っておこう。わたしとしても首切り死体と同じ部屋にずっといるのは、生理的に耐え難いものがあるし。
 如月が先に部屋を出て、鍵を持って廊下で待っていた。部屋の鍵を掛けると、キーホルダーのリングを指にはめてくるくると回しながらエレベーターへ向かう。
 一階へ下りてカフェに行く。朝食と昼食の間の微妙な時間帯ということもあって客の数はまばらだった。カウンターの奥に背の高いバーテンがいて、どうやら彼が料理を作るらしい。
 わたしたちが適当な席につくと、ウェイターが水の入ったコップを二人分持ってきた。
 如月がメニューを見もせずにコーヒーを注文する。
「えと、それじゃ、わたしは紅茶で」
「ホットでよろしかったですか?」
「ええ、はい。それで」
 かしこまりました、と丁寧にお辞儀をしてカウンターの奥に引っ込んだ。
 如月はメニューを開いて中を確認すると、すぐに閉じてわたしの方へ差し出してきた。その行為の意味が分からずにしばらく固まる。
「真理紗も何か食べるだろう? 私はフレンチトーストにするよ。可能ならば食事などしたくないがね。真理紗は食事は好きかい? くっくっく。しかし人間の体がカロリーを必要とする以上好むと好まざるに関わらず食べ物を摂取せざるをえない。食事が嫌いな私には生きにくい世の中だよ」
「あんたは食事を抜きにしたって生きにくいでしょうが。この社会不適合者」
「社会に適応しようとするから問題になるのさ。最初から社会の外部にいるのならば軋轢は起きない。真理紗はカレーでいいかい?」
「よくないっての。ていうか、あんたはよく食べられるわね」
 ん? と首をかしげる如月。彼女は何もこだわることがないようだったが、わたしは朝から変死体を見せられたせいで食欲なんて最初っから消え失せていた。
「それで、何か分かった?」
「要領を得ない質問だね。しかしあえてそれに答えるとすれば、そうだね、特に真理紗に報告しなければならないようなものは見つからなかったよ」
「回りくどいなあ……。それじゃ、密室は相変わらず謎のまま?」
「窓は開かない構造になっているから、犯人があの部屋に出入りしたと仮定すれば、その経路は玄関のドアしかないだろうね。一応探してみたが、今も犯人が部屋に隠れている――というようなことはなかったよ」
 そりゃそうだ、とわたしは思った。犯人にそこまでしてあの部屋を密室にする理由なんてないだろうし。
「んー、ってことは手がかりなしか……。ていうか、そもそもどうやってあの部屋に入ったのか、ってのが謎だしね。昨日の晩は鍵もドアガードもかけてたんだから、普通の方法じゃ中に入れない」
「くくくくっ。それは問題ではないよ。簡単な話さ」
 そこでウェイターがコーヒーと紅茶を持ってやって来た。話を中断させて、如月はフレンチトーストを注文する。ウェイターが去ったのを確認してから話を再開した。
「ドアの下にはわずかな隙間があるから、仕掛けトリックの介入する余地は十分にあるだろうが、それでも外部からドアストッパーを外せるとは思えないね。錠だけなら、多少の心得があれば操作できるだろうが……。それならば、犯人が部屋の中に入る方法は、中にいる人間に開けてもらうしかない」
「被害者の岳さんが開けた、と?」
「もしくは彩乃が招き入れたか。しかしその場合、殺人後も彩乃が密室内に残る理由がない。岳将也が開けたと考えるのが自然だな」
「でも、なんで?」
「動機はこの際棚上げして考えよう。いや、別に動機も含めて考えてもいいのだが、それをやってしまうと真理紗が理解できなくなってしまうだろうしね」
 はいはい、そりゃ悪かったわね。
 わたしは砂糖を二杯紅茶に溶かし込み、スプーンでぐるぐるかき混ぜて飲み込んだ。熱い紅茶が喉を通り抜ける感覚が心地よい。
「ここで候補に挙がるのは、将也と犯人が共犯関係にあったという可能性だ。将也は睡眠薬をシャンパンに混ぜるなどして彩乃を眠らせる。共犯者である犯人を室内に招き入れる。ここで口論となり、犯人は将也を殺害する。そこで犯人は焦ったのさ。たいていの人間は人を殺した直後は焦るものだ。そこで犯人は、何らかの方法を使って部屋を密室に保ったまま現場から立ち去ったのだよ。つまり犯人が部屋に入る前の状態に戻したのさ。そうすることで犯人は自分の存在を消し去ろうとしたのだ」
「なんかそれ、無理くさいよ」
「くっくっくっく。犯人の心理としては妥当なものだろう? 真理紗だって、何か大きな失敗をしたときに、ああ、時間を戻してもう一度やり直したい、と考えたことはあるだろう。つまりそういうことさ。密室は犯人の防衛機制の表れなのだよ」
「んー。なんかもうちょっと、合理的な理由とかはないわけ? そんな、特に意味はないけど密室にしてみました、みたいな」
「意味はあるのさ。犯人にとってはね。私たちにとっては無意味だが」
 しかし考えてみれば、如月の言う通りあの密室に何か意味があるとは思えない。特に今は、真相の究明が目的ではなくて彩乃の無実を証明するのが先決なのだ。あの密室のことはとりあえず棚上げするのが正解なのかもしれない。
「そうだね。しかし『正解』というのはいかがなものかと思うがね。くくくくっ。まあ気楽に考えたまえ。一般的に言って、犯人を捜すことに比べれば、ある特定の個人が無実かどうかを調べる方が楽だからね」
「あんたが一般論を言うとは思わなかった」
「私は一般的だよ」
 如月は意味ありげに返して、砂糖もミルクも入れずにコーヒーを一口含んだ。よくブラックでコーヒーが飲めるなあ、とわたしは思った。とてもじゃないけれど、砂糖を入れないと苦くて耐えられない。まあ、だから、カロリーとか色々やばいんだけど。
 自分の手元にある砂糖たっぷりの紅茶に目を落とすと、なんとなくお腹の肉が気になってしまい、わたしは思わずお腹を手でさすってみたりした。もちろんそれくらいの熱で脂肪は燃焼してはくれない。どうして人間の体に脂肪が溜まるのか、まったくもって理解に苦しむ。
「体温の保護とエネルギーの貯蓄のためだよ。炭水化物だけでは保存に適さないからね。脂肪はリパーゼという酵素によって遊離脂肪酸に分解され――」
「いや、わたしが聞きたかったのはそういうことじゃないから」
「真理紗が食べるからだよ」
「ずばり言いやがった……」
 心に傷を負った。
「そんなに痩せたいのかね。まったく、理解に苦しむよ」
「あんたはいいよね、スタイルいいんだから」
「真理紗だって、健康的な体だと思うよ」
「健康的なだけじゃなくて、魅力的じゃないといけないの」
「痩せた体が美しいのか」如月は揶揄するような視線をわたしに向けて、「昔はある程度脂肪を蓄えた女性の方が美しいという文化が主流だった。中世ヨーロッパの写実的な絵画は見たことがあるだろう? 彼女たちの肉体がみなそろって豊満で成熟しているのは、何もスレンダーな女性を描くことがタブーだったからではない。単にそちらの方が美しかったからさ。今のモデルが痩せた女性ばかりなのと同じで」
「そうは言うけど、わたしたちは現代に生きてるんだから、現代の価値観を採用するしかないんじゃないの?」
「社会に取り込まれているのならば、ある程度は社会の価値観も気にしなければならないだろうけどね。しかし社会に適合しようとするあまり自分を破壊してしまってはいけないよ。社会に取り込まれるのはあくまで手段であって、自分を守ることがその目的だ」
「んー、でもさ、適応できるなら適応するに越したことはないんじゃないの?」
「もちろんそれができるなら、社会に取り込まれる方が楽だろう。しかしそれはあくまで合理的な目的があっての手段であり、人は別に社会に組み込まれなくても生きていけるのだからね。山でひとり仙人のように生きるよりも、都会でドブネズミのように働く方が安全だ。逆に、社会の方は人間がいなければ成り立たないのだけれどね。社会と人間、主従関係は明らかだろう?」
「なんか話がずれてるよ」
「人間は複数の文脈を解読する能力を持っている。会話とはそういうものさ」
 投げやりに言ったところでウェイターがフレンチトーストを運んできた。分厚いトーストが対角線で三角に切られていて、皿からの香ばしい匂いがこちらにも漂ってきた。
 如月はシロップをかけずに、フレンチトーストをナイフとフォークで器用に解体する。
「明瞭ではないのは、第一に部屋を密室にした理由、第二に死体の首を切断した理由、第三に犯行現場と犯行時間を選んだ理由だ」
「第三の、犯行現場と犯行時間って?」
「犯人が最初から将也を殺そうと考えていたのなら、わざわざ恋人とホテルに泊まったこのタイミングを選ぶ理由がない。もちろん、先ほどの岳将也共犯説ならばこの点はクリアできるが。しかしそれでは死体の首を切断した理由がない」
「部屋を密室にした方法については?」
「方法は問題ではないのだよ」
 言ってから如月はトーストを一口食べた。特に美味くも不味くもなさそうに、無表情のままそれを咀嚼する。
 店内を見渡すと、わたしたちの他に客は二人だけになっていた。スーツを来たサラリーマン風の男はやたらと時間を気にしていて、カウンター席に座ったジャケットを羽織った男はさっきからウーロン茶ばかり飲んでいる。
 この時間帯にこんなところにいるというのはどういう事情のある人なんだろう、とわたしはぼんやりと想像した。しかしどんな事情があるにせよ、密室首切り殺人ほどセンセーショナルな理由のある人はいないだろう。
「真理紗はどう思っているのかね? 人の意見ばかり聞いているが、まさか自分では何も考えられない無能ではあるまい」
「わたしは彩乃を送り届けただけで、なんにも調べてないんだけど」
「繰り返すが現場には目を惹くようなものはなかったよ。場合によっては彩乃が犯人である証拠を隠滅しなければと考えていたのだがね。いずれにしても、現場を見ていないことは大したハンデにはならない」
「あー、はいはい、分かりませんよ。降参です。さっぱり分からない」
「くっくっくっく。少しくらいはアイデアを提供したまえ。鍵を掛けておけばしばらくは安全だろうが、そう長い時間隠し通せるものでもない。せいぜい今日一日が限度だろうさ」
「うーん。やっぱりポイントは密室と首切りだと思うのね。どっちがメインかは分からないけど」
「なるほど。首切りのための密室か、あるいは密室のための首切り、というわけだ」
 大げさに感心した素振りを見せたけれど明らかに嘘くさい。なんとなく恥ずかしくなって、わたしはそれ以上自説を展開するのを諦めた。
「犯人が被害者の首を切断した理由は何なんだろうね。結局殺してるんだから、切ったって何にもならないのに。密室だって、首切りなら自殺ってことにもならないし。本当に意味が分からない」
「意味不明と無意味を混同してはいけないよ。真理紗は人殺しを容認できるかい?」
 突然の話題の転換にわたしは少し面食らった。
 如月の意図が見えなくて慎重に言葉を選んで返答する。
「……容認は、できないかな」
「なぜ?」
「それを認めてしまうと、わたしが殺されるかもしれないから」
「ふん、なるほどね。相互契約の概念か。だとすれば、殺される覚悟のある人間は人を殺しても良いということになるが」
「殺しても良いけど、他の大多数の人には容認されないってことでしょ。どんなに覚悟があろうと、人を殺せば社会から攻撃されて抹殺される。物理的にね」
「つまり、罰則は犯罪の抑止力のために制定されるものだが、殺される覚悟のある人間には効果がないということだな。くくくくっ。あのね、人が人を殺さない最大の理由は倫理だよ。つまり相手の気持ちを想像する能力さ。あいつは殺されたくないだろうな――という他者への投影が最大の抑止力になるのだ。この能力の欠如した人間は殺人を抑えることが非常に難しい。彼にとって、殺人のリスクとは法律による報復だけなのだからね。例えば彼がある日、ちょっとしたきっかけで、自分に絶望し、もう死んでもいいやと自暴自棄になれば、彼は何のためらいもなく人を殺すだろう。他人の気持ちが分からない人間とはかくのごとく恐ろしいものさ」
「この事件の犯人もそうだって言いたいわけ?」
「真理紗は人を殺したことがないから分からないだろうがね、人を殺すのは大変な作業だよ。肉体の問題ではなくて、精神――心が痛む。それに耐えた上、死体を辱め、部屋に細工をする余裕まであった。犯人を支配しているのは苦痛を押さえ込むことができる強い信念だろう」
「観念的な話だなぁ」
 わたしは如月の話がさっきからずいぶんと要領を得ないことに疑問を持ち始めていた。いつもの彼女らしくないというか。普段の如月ならば、わたしのことをからかって馬鹿にすることはあるけれど、ここまで曖昧で抽象的な議論に終始することはほとんどない。
 当の本人はコーヒーとトーストを平らげて、事件のことなんか忘れたみたいに上機嫌で鼻歌を歌っていた。いや、上機嫌というのは単にそう見えるというだけで、実際には掴み所のない事件に苛立っていたのかもしれない。
 ちょうどそのとき、場違いに明るい音楽が店内に流れた。音源を探すと、窓際に座っているスーツの男がポケットから携帯電話を取り出したところだった。
 通話ボタンを押してからの第一声を、わたしは聞き逃さなかった。
「はい、徳富です」
 わたしは思わず如月の顔を見た。彼女は大して驚いた様子もなく、しかし耳は完全に男の会話へ向けているらしく、さっきまで陽気に鳴らしていた鼻歌がぴたりと止まっていた。
「はい……。いえ、今はちょっと……はい、はい。すみません、午後から伺います。ええ。可能な限り。はい。失礼します」
 電話の向こうに丁寧に返答をしたあと、電話を切って再びズボンのポケットにしまった。
 年齢は四十代後半から五十代くらい。真っ黒なスーツに青色のネクタイ、黒縁の眼鏡をかけている。腕には銀色の大きな腕時計があり、荷物は足下に置いているアタッシュケースだけだ。
 如月は腕を組んでじっと男の方を見ている。彼女が何を考えているのか分からなかった。怖い人間というのは何をやるか分からないから怖い人間と何をやるか分かっているから怖い人間の二種類がいるという。この場合如月は圧倒的に前者だったが、何をするか分かったところでそれが後者に移り変わるだけで恐怖が取り除かれるわけではない。
 恐怖、という言葉はなんとなくそぐわないけど。
 この場合、『見ちゃいられない』という古典的な言い回しが非常にしっくりくるのだけど。
「如月……あんた、今何考えてる?」
 一応わたしが釘を刺したけれどぬかに釘だった。ニヤ、と意味深な笑みを返されてしまった。
「ちょっと、やめなさいよ。あんた何する気?」
「徳富と名乗ったね。徳富彩乃の関係者がどうしてこんな場所にいる? 彩乃がこのホテルに泊まったのは偶然ではなかったのか? ふん、こいつは愉快な展開だ。ここはぜひとも探る必要があると思うのだが」
「徳富ったって別にあり得ないほど珍しい名字じゃないでしょ。その、同姓ってだけかもしれないし。彩乃の親戚ってわけじゃないかも」
「まさか。……真理紗は運命を信じるかい?」
「信じない。人の行方は人の意志で決まるから」
「良い言葉だ。私の座右の銘にしよう」
 如月はおもむろに立ち上がると、まっすぐに男のテーブルへ向かっていた。わたしが制止しようとするより早く、それを許さない自然な流れで男の向かい側に座った。
 許可もなく対面に座られて、徳富氏が如月にそのことを抗議するものとばかり思っていたら、しばらく如月の顔を見つめると、まるで安堵したかのように嘆息した。正直言って、この反応は予想していなかった。
「遅いじゃないか……。人を呼び出しておいて、遅刻だぞ」
「くっくっく。私は用心深い性格でね。特に初めて会う人間に対しては警戒心を怠らないのさ。足下をすくわれて死んだ人間を大勢知っているが、逆に用心が過ぎて死んだ人間を私は知らない」
 軽口を返しながら、如月はちらりとわたしの方へ視線を寄越した。しかし相手に気取られない一瞬だけだ。黙ってそこで見ていろ、ということらしい。
「ふん……回りくどいな。別私はきみのような人間と世間話をするためにこんなところに来たわけではない。ましてや人を待たせておいてその態度は一体何だ」
「これはこれは、重ねてお詫びを申し上げるよ。それで君の気が済むのならいくらでも頭を下げて謝罪の言葉を述べるさ。しかしそんなものが欲しいわけではないだろう? くくくくっ、お互い大人なんだ、くだらないなどとは言わずに、もう少し和やかに会話を始めたところで損をすることはないだろう?」
「クズでも歳を取れば大人を名乗れるわけだ」
「ははっ、それは本心ではないだろう? 私を怒らせた方が有利だと考えたのかな? それにしては君の語彙は貧弱だね。罵詈雑言のなんたるかを理解していないのは、教育のほどが知れるというものだ」
「お前に言われる覚えはない」
「これは重ねて失敬。どうも君といると口が軽くなっていけない。普段の私はもっと無口なのだよ、誤解されそうだけれどね……」
 徳富氏は如月のことを値踏みするように見ていた。あまり友好的な雰囲気ではない。如月もそのことを敏感に察したのか、相手に合わせるように棘のある態度を取るようにしているみたいだ。
 つまり――わたしはこの事態を何とかして飲み込もうと必死に頭を働かせていた。もちろん表面上はただの一般客として、徳富さんや店内にいる他の人間に気づかれないように、なのだが。
 しかしポーカーフェイスを作ろうと意識すればするほど自分の体から感情がにじみ出てしまっているような気がしてならない。なんとなく、他の人たちがこちらを見ているような気がしてしまうのだ。もちろん自意識が過敏になっているだけなんだろうけど、例えばカウンターに座っているジャケットの男や、カウンターの店員、あるいはわたしが飲み終えたティーカップを下げに来たウェイターが、みんな如月と徳富さんのやりとりを盗み見ているような気がして――いや、もうやめよう。
 わたしは無関係なんだ。綱渡りをしているのは如月であってわたしじゃない。それでもいたたまれない気持ちになるのは、これが、相手の感情を推察する能力、如月に言わせれば殺人を犯さないための最大で最後の壁なのだろう。
 つまり徳富さんは誰かと待ち合わせをしていたのだ。そこに如月がさも当たり前とばかりに現れたのだから、如月のことを待ち合わせの相手だと勘違いしているのだ。当然如月はそれを狙っていたんだろうけど。
 ここで如月風に推理を働かせるのならば、第一に徳富さんは待ち合わせ相手の風貌を全く知らなかった。それでいて、待ち合わせの時間にやってこなかった相手をずっと待ち続けた。どうでもいい待ち合わせなどではない。少なくとも昼まではここで待ち続ける価値のある相手なのだ。
「無駄話はたくさんだ。本題に入ってくれ」
「その前に聞いておきたいのだがね、ここに来ることを誰かに話したりしたかい?」
「言うわけがないだろう」
 徳富さんは怪訝な表情を隠そうともせずに答えた。
 如月は鼻を鳴らして、特に深い意味はないよ、と答えた。
「さしずめ逢い引きというわけだ。くっくっく。こんなところを彼氏に見られたら嫉妬されてしまうね。私の彼氏の話を聞きたいかい? 彼は――」
「いいかげんにしないか。当てこすりはもうたくさんだ。あんなものを寄越したということは、私と交渉するつもりがあるということだろう。ならばさっさと終わらせないか。お前みたいな人間とこうしているだけでも私は腹立たしいんだ」
「そう嫌うこともないと思うがね……。ねえ、徳富――失礼、下の名前は何だったかね? くくくく。他にも色々と取引を抱えていてね、そちらに気を取られているとつい忘れてしまう」
「この……蛆虫が。恥を知れ」
 わたしは思わず息を飲んだ。視線で人を殺せるとしたら百人単位で殺せてしまえそうな、ぞっとするような気迫がこもっていた。腹の底から出た重低の声は、彼の外見の印象がそのようなものとは無縁であるが故に効果がある。
 そんな敵意を、如月は平然と受け流して、なおも変わらずに涼しい顔で椅子に座り続けていた。わたしには絶対にできない真似だと思った。あの席はもはや焼けた鉄板のような場所で、そこに留まるだけで命を削られてしまうだろう。
 如月は何も感じないのだろうか。それとも強力な理性で、体の感じるすべてを無理やりに押しつけて制御しているのだろうか。わたしにはどちらなのか分からなかったし、現象だけを見るのならばその両者は等価だった。
 如月は肩をすくめて、困った表情を作った。人形がそうするみたいに不自然な仕草。
「まだ名前を伺っていないよ。それとも私の名前をお望みかな?」
徳富とくとみ 博重ひろしげ
「如月だ。くっくっく、君とは良い取引ができそうだ」
 徳富博重……。口の中で繰り返し唱えてみたけれど、わたしの記憶にはそれと一致するような何者もなかった。と言ってもわたしの知識なんて高が知れている。もし仮に徳富博重という人物が、彩乃の父親で有名な人物だとしても、きっとわたしには彼が誰なのか判断ができない。一応わたしも、政治に興味のないイマドキの若者なので。
 これからはちゃんと政治のニュースも見ようと、当てのない決心をしながら如月たちの会話に耳を傾ける。
「それで、何が望みだ?」
「私が望んだことを博重が叶えてくれるというのかい? そうじゃないだろう。博重の方こそ、最初に自分の要求を述べるべきだよ。取引とはそういうものだ」
「ふん、今さら何を言ってる……。人のことを勝手に探っておいて、その言い種はないだろう」
「探られて痛い腹を持っているのが悪いのさ」
「あいつは無関係だ。それを無理やり巻き込もうとしているのはお前じゃないか」
「ずいぶんと庇うのだね。まるで家族のようだ」
 如月の言葉に、徳富さんは虚を突かれたように言葉を失った。何を言っているのか分からない、という顔で如月のことをまじまじと見つめる。如月はそんな様子をいちはやく敏感に感じ取って、意味深な笑みを浮かべることで、噛み合わない会話を無理やり繋げようとしているみたいだった。
「単刀直入に聞こう。いくら欲しいんだ?」
「すると私は逆にこう問うだろう。いくら出せるのか、と」
「きみの言い値で買い取ろう。それで満足なのだろう? 結局のところ、求めるものは金と特権、そのどちらかだ」
「その歳でずいぶんと人間に絶望しているんだねえ」
「お前みたいな人間にたかられれば誰だってそうなる」
 皮肉を言って、徳富さんは懐から分厚い封筒を取り出した。それを机の上に置いて、如月の方に押して寄越した。
 如月は顔を動かさずに、目だけで封筒を見た。
「二百万ある」
「それで?」
「取引だ」
 如月が唇の端を伸ばして、左右非対称の皮肉めいた笑みを作った。
「そんなに大切なのかい?」
「選挙も近い……。あまり事を荒立てたくないんだ。きみだって、それを見越して私に話を持ちかけたんだろう?」
「結局は自分たちの都合なんだね」
「あれは今さら私たちのことを家族などとは思っていないさ。当てつけだよ」自嘲するように言ってから、一旦間を空ける。「――それで、返事を聞かせてもらおう。別に私はこの取引がご破算になっても構わないと考えている。この程度では我々の致命傷にはならない。しかし傷はなるべく避けておきたい……たとえそれがかすり傷でも、ね。私が、きみ程度の人間一人潰せない男だと思われては困るな。単に手間と時間の節約のため、見逃した上で金もくれてやろうと仏心を出してやってるんだ。ここで下手な欲を出せば、お前の身を滅ぼすことになるぞ」
 如月は喉を振るわせて笑った。
 徳富さんは不審と疑問が頂点に達したらしく、少しうろたえた様子で、為す術もなく如月の笑いが収まるのを待っていた。
「徳富彩乃は君たちのアキレス腱だね」
 如月はずばりと言ったが、徳富さんは否定も肯定もしなかった。
 表向きは人工的な微笑みの形を顔に張り付かせたままだ。変化のない、意志のない微笑みなんて、無表情と何も変わらない。だからこそ、如月の内面を外側から探ることは非常に難しい。
 けれどその瞬間、彼女が決定的な何かをつかんだことが、遠くから見ていたわたしにもなんとなく理解できた。ほんの一瞬だけ、如月の笑みが微動して元の無表情に戻りかけたのを見逃さなかった。
 しかし如月は突然すべてに興味を失ってしまったみたいに、今まで向かい合っていた徳富さんから顔を背け、振り向いてホテルのロビーの側を見た。
 つられてわたしも如月の視線の先を追いかける。わたしが座っている席からは、ガラスの自動ドアの向こうにホテルのフロントが見える。フロントの脇にホテルマンが集まって何かを話し合っているようだった。かなり切迫した様子で、ホールには宿泊客もいるというのにお構いなしだ。
 そしてわたしには、ホテルマンたちが慌てふためく事態というのに心当たりがある。つまりホテルの一室で首切り死体が見つかれば、そりゃ大騒ぎになるだろう。
 わたしは焦燥感を覚えたが、この場でできることは何もない。わたしはなるべくフロントの方を見ないように努めた。
 しかし如月は――騒動を見つめたまま、そして立ち上がる。
「失礼、急用ができたみたいだ」
「あ? ちょ、ちょっと待ちなさい」
「話の続きは後で。何か起きたみたいだからね。話を聞いてくるよ。……真理紗」
 如月がわたしの名前を呼んだ。思わず背筋を正して立ち上がると、徳富さんの視線がじろりとわたしを貫いた。居心地が悪くて、何か弁解をしなければと思った。
 けれど如月が、レジで会計を済ませるとひとりでカフェを出てしまったので、わたしは慌てて後を追いかけるしかなかった。



 一歩進むごとに危険と不安の中に沈んでいくのが分かる。それでも如月は足を止めなかった。まるで露払いのようだと、如月の後を追いながら思った。いや、むしろわたしが、如月という大きな存在に寄生しているだけなのだと改めた。まるでコバンザメのように。
「何かあったのかい?」
 わたしが自分の矮小さについて考察していると、フロントのそばで未だに協議中だったホテルマンに、如月がこれ以上なくストレートに質問した。
「いえ、問題ございません。ご安心ください」
 そのうちの一人が人当たりの良さそうな笑顔を浮かべてそう答えた。脊髄反射で出たマニュアル的な台詞だということが見え見えだった。如月も負けず人当たりの良い作り笑いを浮かべて、
「何か事件かい? それならばこの私も協力できると思うのだが」
「いえ、事件なんて――」
「私は警察の者なのだが」わたしは思わず声を上げそうになった。慌てて抑えたので間に合ったけど。「今日は非番で、警察手帳は持ってないがね。何があったのか話してくれないか?」
 如月の嘘――というか、ここまで堂々と身分を偽ったものだから、彼らも疑う余地を見つけられなかったらしい。ホテルマンたちは顔を合わせると、やがて声のボリュームをいくぶんか落として如月に事情の説明をした。疑うことを知らない人たちだ。
「それが、上の階でお客様が亡くなられているのが見つかりまして……」
「というと? 事件性があるというのかね?」
「ええ、その……首を、切られてまして」
 来た、とわたしは心の中で思った。
 あの死体が見つかってしまったのだ。これは非常にまずい。彩乃が犯人ではない証拠はまだ何も掴んでいないのだ。それどころか彼女をかくまったわたしたちも捕まりかねない。
「警察? あいつ警官なのか? もしかしてきみも?」
 後ろから質問されて振り返ると、なぜか徳富さんも一緒にこちらに来ていた。わたしは何と答えるべきか咄嗟に判断できなくて、「えー、その……わたしは……」などと言葉を濁していると、
「真理紗は違うよ。私の助手のようなものだ」
「警察官……。なんてことだ。警察のモラルも落ちたものだな。獅子身中の虫、か」
 徳富さんはぶつぶつと呪いの言葉を呟く。何かに絶望しているようでもあった。
「なるほど、事情は把握した。あまり不用意に騒ぎ立てないように。無用な混乱は君たちも望んではいないだろう? 私たち警察官は市民の皆様の味方だからね、くっくっく。それでは、すぐに現場の部屋へ案内してもらおうか」
 尊大な態度でホテルマンたちに勝手に命令すると、そのうちの一人が案内役を買って出た。彫りの深いエキゾチックな顔立ちの男だった。
 案内役の男がエレベーターを呼ぶ。エレベーターの到着をしばらく待ってから中に入る。彼が十階のボタンを押した。
 あれ、たしか彩乃が泊っていた部屋は十四階だったはずだけど、と不思議に思っていると、扉が閉まる直前になぜか徳富さんも慌てて一緒に乗り込んできた。アタッシュケースを両手で抱えていた。
「…………徳富さん?」
「何だ?」
 このとき、そばに立っていた如月がわたしの腕を掴んだ。他の二人には見えない角度で。
「いえ、何でもないですけど」
 わたしは慌ててそう誤魔化して、如月の横顔を盗み見る。エレベーターの階数表示を見つめながら、わたしに対しての一切の説明を放棄しているところだった。
 無言の箱内はとても居心地が悪い。早く十階に到着してくれ、と祈らずにはいられなかった。十階に到着して如月と二人きりになる機会があれば、今の事態をわたしにも説明してくれるだろうか。
 体に浮遊感を感じた後、エレベーターは十階に到着した。
「こちらです」
 案内役の男が先導して廊下を進んだ。それに徳富さんが続いて、わたしと如月は最後尾を二人並んで歩く。
「如月……これって」
「実に愉快」
 簡潔な答えが返ってきた。わたしが聞きたかった言葉ではなかったけれど、まあ、ないよりはマシってことで。
 エレベーターの中で考えた可能性が現実となっていた。
 ホテルマンが足を止めたのは1011号室の前。もちろん、彩乃が泊まっていた1422号室とは別の部屋だ。
 ホテルマンが鍵を使ってドアを開ける。
 彼に続いてわたしたちも中に入った。
 室内はわたしが想像していた以上に質素だった。彩乃が泊まっていたスイートルームとどうしても比較してしまうからだろう。普通のホテルと比べればここも十分広いはずだけど。
 内部に部屋はひとつだけで、大きなダブルサイズのベッドとテーブル、冷蔵庫、テレビと、宿泊に必要な最低限の設備と娯楽はそろっているようだった。
 人が泊まっていた気配はまるでない。彩乃の部屋のように荷物がそのままになっているわけでもなく、ベッドのシーツにも人が使った形跡はまったく残されていなかった。
「遺体はどこに?」
 徳富さんの質問に応えて、ホテルマンがバスルームへと案内する。玄関のすぐそばに洗面所があり、さらに奥にはトイレと浴槽が一体になったバスルームがある。
 曇ったビニールのカーテンをめくると、浴槽の中に裸の死体が浮かんでいた。
 徳富さんがそれを見てうめき声を上げる。すぐに顔を背けてバスルームから出て行った。わたしもそうしたい気分だったけれど、今はなるべく如月のそばから離れたくなかったのだ。まったく、今朝からこんなのばっかりだ。わたしの人生、いつからこんなめちゃくちゃになったんだろう。去年までは普通の大学生だったのに。
 死体には首から上がなかった。
 彩乃の部屋にあった死体とは違い、切断された頭部は持ち去られている。
 体を見る限りは女性だ。バスタブにはいっぱいに水が張られていて、そこに浮かぶ死体は水を吸って不気味に白かった。
 寒さと吐き気が堪えられなくなってわたしは目をつむった。
 胃の中にむかむかしたものがこみ上げてきて、それが収まるまでは外から遮断されたかった。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせて、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
 これ以上は無理だと判断して、わたしも徳富さんに倣って部屋を出ることにする。如月のそばにいたいのは山々だったけど、これ以上あんなものを見せられたらきっと耐えられない。
 思い出したらまた気持ちが悪くなってきて、わたしは何も考えないよう強く意識した。体が回復するまでの緊急避難だ。
 バスルームを出てすぐ、壁に背中を預けて腰を下ろした。
 気持ちが悪かった。今朝見たあれも大概だったけど、さすがに二人目は我慢できない。わたしだって人間なんだ。如月とは違う。人の死を見て平気でいられるような冷血じゃないんだから……。吐き気がひどい。これを抑えられるならなんでもする。どうすればいつものわたしに戻れるのか、誰か教えて欲しい。今は身をすくめるようにして、とにかく我が身に訪れた不快感が立ち去るのを忍んで耐えるしか方法がないのだった。
 やがで如月がバスルームから出てきた。
 その後に続いてホテルマンの彼も。よく見れば顔が青ざめている。如月の方は平然と、もしかしたら鼻歌でも歌いそうなほどの正常さだったけれど。
「この死体を最初に見つけたのは誰だい?」
綿谷わたや様というお方で、この部屋にお泊まりになっていた外池とのいけ様をお訪ねになった際に発見なさったということです」
「その綿谷は今どこにいる?」
「わたくしどもがここに参上したときには、その、かなり取り乱しておいででしたので、今は医務室で休んでおられます」
「医務室?」
「はい。当ホテルに宿泊なさるお客さまの中には、持病をお持ちの方もいらっしゃいますから。万が一発作などを起こされても対応できるようにと医務室がございまして――」
「ところで」徳富さんが口を開いた。「警察へは連絡しましたか?」
「いえ、まだ……」
「では電話をお借りします。すぐに呼ばないと」
「警察ならば私がいますよ」如月が釘を刺す。「今さら通報の必要はありません」
「何を言ってるんだ? 犯人逮捕には初動捜査が肝心だと警察学校で習わなかったのか?」
 徳富さんが言った。それは皮肉ではなくて、如月の言葉を本当に不思議に思っているような言い方だった。
 それに対して如月は肩をすくめるだけで返した。嘘くさい大げさなジェスチャーだった。
 わたしたちとしては、警察を騙った上に死体の隠蔽までしているわけで、今この場で警察を呼ばれる展開はあまり望ましくない。けれど、警察を呼ばない正当な理由がなければ、通報を嫌がるのは不自然極まりない。
 と、まるで他人事のようだが、わたしみたいな一介の大学生が下手に自分で考えて行動するのはあんまり得策じゃないと思うし。とりあえずは如月に任せておこう、と自分への言い訳にした。本当のことを言えば、首切り死体を二度も見せられて精神が参っていたのだけれど。
「ここから外に繋がりますか?」
 ベッドの脇にあった電話を指して徳富さんが確認した。受話器を取ると、外線へ繋げる番号を押して、どこかへ電話をかけ始めた。しばらく相手が出るのを待ってから小声で話し始める。あまり親しげな態度ではなかった。
「君の名前は?」
 如月がホテルマンに質問した。
「はい?」
「名前だよ。ホテルマンだからって、名前がないわけじゃないだろう?」
「いえ、はい……島田しまだです」おずおずと答える。
「そうじゃない。ファーストネームは?」
貫征つらゆきです。島田貫征」
「では貫征。死体を見つけてからこの部屋の物は何も動かしていないだろうね?」
「え? ええ、もちろんです」
「ベッドメイキングなんかしなかっただろうね?」
 島田さんは意味を量りかねていたようだったけど、ただの冗談だと判断したらしく愛想笑いを浮かべて否定した。如月は笑わなかった。
「貫征、その第一発見者――綿谷は医務室にいると言ったが、医務室はどこにあるんだい?」
「医務室は二階にあります。ご案内いたしましょう」
「いや、貫征は博重の面倒を頼む」
「博重?」
 如月はまだ電話をしている徳富さんを指差した。ああ、と頷く島田さん。
「それでは頼んだよ。彼が迷子にならないようにね。くっくっく」
 まだ何か言いたげだった島田さんを無視して、如月は部屋を出ていった。わたしも慌ててその後に続く。
 わたしと如月はしばらく無言でホテルの廊下を歩いた。後ろを振り返って、徳富さんや島田さんがついてきていないのを確認する。
 そのとき、廊下の角に人影が見えて一瞬ひやりとした。しかしどうやら向こうに行ってしまったらしくて、わたしはひとまず胸をなで下ろした。神経が過敏になっているのだ。
「あー、もう。あんたねえ、自分が何をやってるのか分かってるの?」
 真っ先にわたしの口から出たのは説教だった。これまでの自分の精神状態を思えば意外だったけれど、そもそもわたしが探偵事務所に雇われてこいつの助手を任されているのも、本来はこういう役割を期待されているからなのだ。だからわたしは宮坂さんの期待通り如月には常識をふるってやる。
「警察の振りして……。あんな綱渡り、よくやる気になったわね。ていうか今も、いつばれてもおかしくない状況だし」
「ふん。多かれ少なかれ警察との対決は避けられないからね……。先制攻撃というやつだよ」
「今朝は警察を敵に回すわけじゃないとか何とか言ってなかったっけ?」
「はて、ね」如月はとぼけた振りをした。こいつの言葉を真に受けたわたしが馬鹿だった。「しかし収穫はあったよ。と言っても毒林檎かもしれないがね」
「第二の殺人ね。彩乃の部屋で殺したのと同一犯なの?」
「いや、そちらじゃない。あの徳富博重とかいう人物だ。彼は十中八九、彩乃の親戚だ。いや、どころかここにいるのはその彩乃が原因かも知れない」
「事件に関わりがあると思う?」
「多分ね」
 そう言った割にはずいぶんと自信ありげに聞こえたけれど、こいつの場合は自信を捏造するくらいはわけなくやってのけるので、とりあえずこの場は信用しないでおく。
 階下に降りているエレベーターが上ってくるのを待って、二人で中に乗り込んだ。素早く如月が二階のボタンを押した。
「博重の携帯電話でのやりとりは覚えているかね? 『はい……。いえ、今はちょっと……はい、はい。すみません、午後から伺います。ええ。可能な限り。はい。失礼します』」
 如月は徳富さんの声を真似してあの時の会話を再現して見せた。全然似てないけど。ていうか、無理に男の声を出そうとしているのが少し滑稽だった。どうやら天は彼女に演技の才能を与えなかったらしい。の割には演じ終えた如月は得意げだったが。
「電話の相手が誰かは特定できないが……少なくとも博重が敬意を払うような人物なのだろうね。そんな相手に対して博重は『今はちょっと』と言っている。きっと相手に、今時間があるかどうかを聞かれたのだろうが。しかし今はちょっと、と言う割には博重は何事もしていなかった。どう贔屓目に見たって博重は暇そうにしていたよ。もっとも、電話の相手が仕事の上司で、職場に行くのが面倒で嘘をついたという可能性もあるがね。しかし博重はそれほど不真面目な人間には見えなかった。それに座っている間、やたらと時間を気にしていたからね」
「そこまでは何となくわたしも推理できたよ」
「上出来だ。それでは次なるポイントは、博重は一体誰と待ち合わせをしていたか、ということだ」
「んー、何となく、如月とのやりとりを聞いた限りじゃ……誰かにゆすられていた、とか?」
「素晴らしい」
 唇をつり上げて如月。
 エレベーターが二階に着いて、わたしたちは外に出た。如月は迷うことなく歩き出した。如月が医務室の場所を知っているとは思えないのだが、自信満々に進む様子を見る限り、どこにあるのかは見当が付いているらしい。
 もしくはしらみつぶしに探すつもりだろうか。
「実を言うとね、最初は誘拐か何かだと思ったんだよ。博重の持っていたアタッシュケース、あれに身代金を詰めてね……。しかしどうもそうではないらしい。ここに来ることを誰かに言ったか、という質問に対して博重は『言うわけがないだろう』と答えた。しかしどうも、これは私に、つまり呼び出した主にそう命じられたから内密で来たのではなく、博重が自ら進んで内密にことを運ぼうとしているように感じられるのだよ。ということは博重はその相手と、公にはできない何らかの取引をしようとしているのだろう」
「その割には相手の顔も名前も知らなかったしね」
「そうだ。正体不明の相手の申し出に応じて、しかもあそこまで悪態をつけるというのは、敵対する人間から取引を持ちかけられて、しかも応じずにはいられない――順当に考えれば、恐喝されていると考えるのが妥当だ」
 如月は苦笑しながら言った。徳富さんの言葉の端々に込められた、あからさますぎる敵意のことを思い出したのだろう。
 わたしからすれば、それを涼しい顔で受け流していたあんたも相当なものだと思うけど。
「では問題は何を握られていたか、だ。恐喝にはタネが必要だからな。『ずいぶんと庇うのだね。まるで家族のようだ』……とは私の言葉だが。これはどうやら的外れのようだった。恐喝のタネで一般的なのは金と色だが、少なくとも博重自身の金や色ではないようだね。その辺りから推測して、どうやら徳富彩乃に関する何かで呼び出されたと見切りを付けたのだが」
「正解だったみたいね」
「うん。彩乃の身内に政治家がいるのだろうね。そうなれば、それが彩乃のスキャンダルと言えど、マスメディアの格好の餌食になるだろう」
「そういえば彩乃が、父親は政治家だって言ってた。伯父は警察官だって……」
「おそらく徳富博重は彩乃の伯父だよ。彼は警察の人間だ。と言っても刑事などではなくて、警察官僚」
 如月が断言した。
 わたしは絶句する。と同時に、徳富さんがなぜ首切り死体の現場までついてきて、その上警察を呼ぶことを強固に主張したのかが分かった。だから如月は徳富さんを無理に拒絶できなかったのか。
「私が警察だと名乗ったときの彼の言葉がきっかけかな。獅子身中の虫、という言葉は、身内に敵がいた場合に使う言葉だよ。彼はさぞ憤慨しただろうね。何せ警察官に恐喝されたのだから。くっくっくっく!」
「待って。でもそれじゃ、徳富さんを恐喝していたのは一体誰なの?」
「指定された時間に誰も現れなかったのを見ると、どうやらその人物の目的は金ではないようだね」
「というと?」
「真っ先に考えられるのは殺人事件との関連だな。同じホテルで連続殺人、その重要参考人の伯父が、たまたま同じホテルで恐喝されていた? そんな偶然があるかね」
「……恐喝って、何なんだろうね。その、彩乃が」
「彩乃は隙が多そうな女性だったからね。叩けばいくらでも埃が出るだろうが、簡単なのは男性関係だろうよ。大してよく知らない男とスイートルームに泊まるような人間だからね」
 投げやりな言い方だったが、別に彩乃のことを軽蔑しているわけではないだろう。如月にとって他人は誰もが平等であって、きっと誰もが彼女に影響を与えられないだろう。好きでもなければ嫌いでもない。如月にとって世界のほとんどに好悪はない。
「同一犯なのかな」
「くくくっ。その可能性は高いと思うね。死体を見たかね?」
「見るわけないでしょう、あんな気持ち悪いの」
「ただの肉だよ」
 なんという罰当たりなことを。如月の方を睨み付けたけれど、徳富さんほどの迫力も出せないわたしでは大した抗議にもならないだろう。
「失礼。少し不謹慎だったかな。気分を害したのなら謝罪しよう」
 しかし如月の返事は、意外にもしおらしいものだった。と言っても、心にもない言葉というか、とりあえず謝っておけばいいという程度の薄っぺらさを伴っていたけれど。如月にしては上出来だ。
「死体の切断面が最初の被害者と同じだった。つまりノコギリのようなもので必死に切断したのだろう。私は糸ノコギリだと思うね。そして死体の手と足の指紋が焼かれて潰されていた」
「焼かれてた?」
「ライターを使えば簡単だよ。今度の首の切断は目的が明確だね。死体の身元を隠そうとしたのだ。だから頭を処分した。顔が分からないようにね」
「死体は偽物ってこと?」
「だったら話が簡単なのだがね」如月は皮肉っぽく口の端をつり上げた。「しかしこうもあからさまでは死体の身元を疑ってくれと言わんばかりだ。それに将也が殺されたこととの関係もよく分からない。だから今のところは保留だな」
「殺された時間は?」
「ここ三、四時間というところだろうが……。何せ水死体だからね。今朝の七時から九時というところか」
「ってことは、彩乃のアリバイは成立するんじゃない? 朝からずっとわたしと一緒にいたんだから」
「微妙なところだろうな。時間的にはかなり厳しいが、不可能というわけではないだろう。七時から九時というのもかなり大雑把な指標でしかないからね。正式に解剖すればまだ範囲を狭められるだろうが。どちらにしろ」
 そこで如月は言葉を切り、足を止める。彼女の視線の先には『医務室』と書かれたプレートのついたドア。
 如月は医務室のドアをノックした。
「どちらにしろ、発見者の話を聞かなければね。警察が正式に動く前に。初動捜査が肝心だからな」
 そう言って、彼女はくくくくっと意地の悪そうな笑みを浮かべた。
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