破滅の時間まで

第6話

 目が覚めて、自分が生きていることに気がついた。頭の中がクリアになって、ここが自分の部屋なのに、どうしてこうも違和感があるのかその理由を突き止めた。昨日の朝は、目が覚めたときにブルーシートの天井が見えたのだ。
 僕はベッドから出た。今日は月曜日だから学校に行かなければならないのだが、一度学校をサボることを覚えてしまうと猛烈に倦怠感を感じる。とは言っても、この間のさぼりは伊美原と僕の生命のためという大義名分があったけれど、今日のこれは単なる怠惰だ。このままだと沢渡拓也、不良一直線である。
 学校に行かなければならない僕がぐだぐだといつまでも自分の部屋で時間を潰していた理由は、一言で言えば家族に会うのが怖かったのだ。怖いというか、面倒くさいというか。学校を無断早退無断欠席したことは伝わっていなくても、昨晩無断外泊したことはさすがに隠されようがなかった。
 やることが見つからず、僕は制服に着替えてからも無意味に身だしなみを整えていた。妹の部屋のドアが開く音を聞いて、それでもしばらく躊躇ってから、僕は意を決して一階のリビングに降りた。
 リビングに家族全員が揃っていた。僕が毎朝見てきた光景だった。
 僕の姿を見て、母さんがヒステリックに叫んだ。
「拓也! 帰ってたの?」
「お前、今までどこに行ってたんだ」さすがの父さんも普段のように無害な傍観者でいるわけにはいかなかったようだ。「一昨日からずっと探してたんだぞ。家に帰らずどこに行ってた」
「心配になって警察にも連絡したのよ。警察の人は家出だろうって言ってたけど、あんた、どこに行ってたの?」
「おい、帰ったんなら一言くらい言ったらどうなんだ。それをお前、何食わぬ顔で出てきて」
「お兄ちゃん、どこに泊まったの? お兄ちゃん友達いないから、誰かの家ってことはないよね。野宿?」
「そんなにお母さんに不満があるの? ねえ、言いたいことがあるなら言いなさいよ。お母さんあんたのためにどれだけ苦労してるか分かってるのねえ!」
「拓也、お前のそれはただの自分勝手だ。自分がどれだけ人に迷惑をかけてるのか分かってるのか」
「ねえあんた聞いてるの? ちょっとそこに座りなさい」
「おい、何とか言え」
「お兄ちゃん、何ぼーっとしてんの? 気持ち悪いよ」
「お母さんの言うことを聞きなさい!」
 僕は呆然として家族のことを見ていた。
 何も変わらない家族の顔。
 その頭上には、白いアラビア数字の「2」が浮かんでいる。
「拓也! 何とか言ったらどうなの!」
「おい、お前は少し落ち着け」
「あなたがいつも無関心だからこうなったのよ! 拓也のことをわたしばかりに押しつけて!」
「何てことを言うんだ! ろくに面倒も見られないくせに、何が押しつけだ! 俺が毎日会社で働いている間にお前はボランティアなんぞにうつつを抜かして。そんな馬鹿なことをするくらいなら少しくらいは金を稼いだらどうなんだ!」
「あらお金を稼ぐのがそんなに偉いわけ? 大して稼げないあなたよりわたしの奉仕活動の方がよっぽど社会のためになってるし有意義だわ!」
 黙れ……。うるさい。これはどういうことだ。くそっ、うるさい。考えがまとまらない。まとまる? そもそも思考が止まっている。まとまるってのは元からあるものを整理することだ。もとからないものをまとめようがない。
 頭の中の空白。僕はまるで自分がここにいないような不思議な感覚を味わっていた。実際、そうだろう。僕はこの家にはいなかった。
 口論を続ける両親と自分勝手に朝食を再開した祐理をその場に残して僕は玄関へ向かった。
「待ちなさい! どこに行くの!」
 母さんの質問に僕は答えなかった。そんなこと、僕が聞きたいくらいだ。
 スニーカーを履いて玄関から外に飛び出すと、蝉の鳴き声がより一層強くなった。朝だというのに汗で肌がべたつく。ちょうど向かいの永森さんの家からゴミ袋を持ったおばさんが出てくるところだった。
「あら拓也くん。今日は早いのね」
 おばさんの頭上にも白い数字は浮かんでいた。数字を見るのが嫌で、僕はおばさんのことを無視して足早にその場を去った。
 ほとんど走るような速さで通りを歩き、家の方を振り返って見るも、僕のことを家族が追いかけてきたりはしなかった。なるほどありがたい。今は誰にも会いたくない。頭の上に数字を載せてるような連中には特に。
 心細さに涙が出そうになった。
 カウントがゼロになった瞬間に人が死ぬのなら、この街に残された時間は四十八時間を切っている。僕は今すぐにでもこの街から逃げ出すべきだろう。僕の背後に恐ろしい暗黒が迫っているような幻を感じていた。
 僕は歩いた。思考は停止していても、行動すべきことは理解していたらしい。理屈によって行動を決めたのではない。自分が向かっている先を見て、僕が街を出ようとしているのではなく、意識しないうちに桐田さんのことを探しているのに気がついた。
 こんなときに頼れる人間を僕はたった一人しか知らない。馬鹿で格好悪いあの正義の味方。僕自身の損得を考えるならばこんな街のことなんて放っておいて一人で逃げるべきだった。と、頭では理解していても、なぜかその答えは違うような気がしてならない。僕以外の何かが、僕を桐田さんの元に歩かせているのだ。
 橋の手前の道を曲がり、いつもの待ち合わせ場所へ歩く。
 そこに桐田さんの姿はない。
 僕は川沿いの道を歩き続けた。
 桐田さんはまだこの街に残っているのだろうか。僕が望まないときにはすぐに現れるくせに、僕が探しているときには姿も形も見えない。大体僕は桐田さんのことを何一つ知らないのだ。彼がどこで生まれどのように育ちどこに住んでこれからどこに行くのか。そもそもあの桐田夏雄という名前だって本名かどうか分からない。そのくせあいつの方では僕のことを全部お見通しみたいな顔をして。思い出せば思い出すほど腹が立つ。
「くそっ! どこ行ったんだ!」
 僕は悪態をついた。もしかしたら声が震えていたかもしれない。思わず辺りを見回して、誰も聞いていないことを確認した。僕は手を握りしめて口を閉ざした。体の内側から出てくる感情は、恥ずかしくて誰にも見せられない。
 桐田さんを捜し歩いて、リュカさんのいた河原の場所までやってきた。あれから彼女は宇宙に帰ったのだろうか。それとも何か帰れない理由ができて、そのせいでまだカウントが続いているのだろうか。
 堤防の道の上から見下ろして、河原に積み上げられた廃材の山に黒い影が動くのを見つけた。最初は僕の憂慮が的中したのかと思ったが、よく目を凝らしてみると、それはリュカさんではなく黒のスーツを着た桐田さんの姿だった。
「おじさん!」
 僕は大声で呼びかけて、道から河原まで一気に滑り降りた。勢いを殺しきれずにつんのめりそうになる。最初にこの河原に降りたときのことを思い出した。
 桐田さんは僕を見ていなかった。リュカさんが集めた河原の廃材をひっくり返したり放り投げたりを繰り返していた。
「……おじさん、何してんの?」
「やあ、沢渡くん」相変わらず僕の方を見ずに言う。「どうしてこんなところに?」
「あんたを探してたんだ。カウントダウンが止まってないんだ。このままだと二日以内に全員死ぬ!」
「そうか。やはりね」
「やはり? おじさんこそ、ここで何やってんの?」
「ずっと探してたんだが、見つからない」
「何を?」
「長谷崎寛が渡したジュラルミンケースだ。ケースも、中身も、見つからないんだ」


***

 僕と桐田さんは中央公園へ向かって歩いていた。目的はもちろん長谷崎寛だったが、街を出ると言っていた彼がまだ公園にいるかはかなり怪しかった。とはいえすでに街を出ているのだとしたら捕捉するのは困難で、僕たちは長谷崎さんがまだ公園に残っている可能性に一縷の望みを託すしかない。
「最初はただの思いつきだったんだがね。麻薬の入ったケースをあんなところに放置していて誰かが拾ったら危ないだろう? ところがあそこにジュラルミンケースはなかった。あの自称宇宙人が今ごろ薬でハイになっている可能性はあるだろうけどそれは少し夢がないしね」
「宇宙船の材料に使ったんじゃないの?」
「その通り。長谷崎寛がケースを渡したのは、堂真柳華が欲しいと言ったからだ。しかしここで重要なのは、堂真柳華はジュラルミンケースの中に何があったのか知らなかった、ということだ。まあ堂真柳華が透視能力を持っていたんなら話は分からんが。そうじゃないとしたら、彼女が求めていたのはケースの中にあった麻薬ではなくケースそのものだ」
「それなのに河原には麻薬が残ってなかったってこと?」
「ああ。堂真柳華は方々から色々なものを集めてきては宇宙船の材料に必要なパーツだけ取り出していた。それ以外はただのゴミで、見ての通り今はあの河原に放置してある。立つ鳥後を濁さずなんて言うけど、まあ宇宙人は鳥じゃないからね。まったく、河原にゴミを捨てるなんて言語道断だ。ああやって誰かがゴミを捨て始めるとみんながゴミを捨てるようになる。そうなれば街中ゴミだらけだ。ゴミは人々のモラルを低下させて、ルールに対する意識を低下させてしまう。そうなるとまた犯罪が――」
「あの、本題に戻れ」
「おっと失礼。今はゴミ問題よりも優先すべきことがあったね。とにかく問題は誰がケースの中身を持ち去ったのかということと、ケースの中身が一体何だったのか、ということだ」
「ケースの中身って……麻薬でしょ?」
「ただの麻薬なら問題ない。が、麻薬でなかった場合が問題だ」
 呟くように言った。桐田さんの言う問題が一体何なのかを理解するより先に、僕たちは中央公園に到着していた。
 中央公園には相変わらず青いシートのテントが並んでいる。明後日は夏祭りだというのに、行政は未だにホームレスたちを立ち退かせることに成功していないらしい。このままだと夏祭りは中止になるのだろうか、と場違いなことを考える。
 ついこの間まで明瀬さんの銀色のテントがあった場所に、真新しい白いテントが立っていた。桐田さんが払ったお金で新調したのだろう。
 桐田さんは勝手知ったる我が庭と言わんばかりにずいずい進んでいくと、ノックもせずに明瀬さんのテントの中に入っていった。無礼だと知りつつ僕も桐田さんの背中を追って一緒にテントに入る。ノックしようにもテントにドアなどなかった。
「長谷崎くんはいるか?」
 桐田さんが突然本題を切り出すと、テントの中であぐらをかいていた明瀬さんと長谷崎さんが表情を凍り付かせて僕たちの方を見ていた。ついさっきまで楽しく談笑していたのが、突然の闖入者によって遮られてしまったのだ。明瀬さんと長谷崎さんの手には缶コーヒーが握られていた。長谷崎さんを送り出すためのささやかな祝杯なのだろう。
 硬直から回復した明瀬さんがいち早く抗議の声を上げた。
「な、何なんだあんたは。いつもいきなりだな」
「長谷崎寛に用があって来た」
「……ども。すみません。お邪魔します」
 桐田さんほど傍若無人になれない僕は一応二人に挨拶して軽く頭を下げる。そんな僕の小さな心遣いは二人にまったく相手にされなかった。
 長谷崎さんは戸惑うように桐田さんの顔を見る。
「それで。そんなに慌てて一体何の用だ?」
「いくつか聞きたいことがあってね。きみが山内組を抜けるきっかけになったジュラルミンケースのことだ」
「ああ……。それがどうしたんだ?」
「きみはケースの中に入っていたものを薬だと言ったが、それは確かかな?」
「それはまあ、別に味を確かめたわけじゃねえから、本当かと言われれば保障はできんが」
「ということは、あのケースの中に入っていた粉が小麦粉だったという可能性もあったわけだね?」
「それはないだろう。ただの小麦粉なら、わざわざタンカーに隠して港から運び込む必要なんかない」
「そのジュラルミンケースを運んでいた人物は、ケースの中身に関して何とコメントしていた?」
「いや、ヤツはケースの中に何が入っていたのか知らなかったみたいだった。欲しいものは何でも渡すからここは見逃してください、と」
「それできみはジュラルミンケースを奪った」
「……そうだ。俺が正義に反すると言いたいわけか?」
「その運び屋はこの街にいるのかね?」
 長谷崎さんの質問を無視して桐田さんはさらに問いかける。長谷崎さんはしばらく面食らったような表情をしてから頷いた。
「そうだよ。少なくともこの街に住んでいる人間だ。今もまだここにいるかどうかは知らないが」
「その人物の名前は?」
「永森ってヤツだ。二十代くらいの若造だ」
「永森?」
 僕がその名前を繰り返すと、そんなときに限って全員の注目が僕に集まる。今さら何を言っても誤魔化すことは不可能だった。仕方無く僕は長谷崎さんに質問する。
「その、運び屋の永森さんというのは、永森準という名前で、建園に住んでいる人でしょうか?」
「……兄ちゃん、なんでそれ知ってんの?」
 僕は頭を抱えた。僕と永森準さんの関係を知らない三人は虚を突かれて異様なものを見るような視線を僕に送っていた。
「その、ご近所さんです」
 そうか、永森準は運び屋なんて危ないことをやっていたのか。それならば数日前に見かけた彼の奇妙な行動も説明がつく。マスクとサングラスをつけて顔を隠しながらこそこそと家に帰る準さんは、きっとヤクザに襲われることを警戒していたんだ。
 なるほど、と言って桐田さんは頷く。
「永森準はまだこの町にいるんだね?」
「……だと思う」
 今朝の永森のおばさんを思い出しながら言った。あのおばさんが、息子が家を出ているのに平然としていられるはずがない。
「よし、分かった」そう言って桐田さんは立ち上がる。「お邪魔したね。この街を出るなら早めに出ることを推奨するよ。まあ、このアドバイスは生かされないと思うがね。どうせ惨劇は私たちが食い止める。それでは」
 桐田さんは一人で勝手に結論づけるとテントを出て行った。僕は明瀬さんと長谷崎さんに丁寧にお礼を言ってから慌てて桐田さんの後を追いかける。
「ちょっと待って!」
「もちろん待つさ。きみがいないと話が進まない。さあ、永森準の場所へ案内してくれ」
「準さんに何の用なんだよ」
「決まっているだろう? 謎の白い粉を、一体誰から運ぶように依頼されたか質問するんだよ。極めて平和的な手段でね」
 桐田さんはそう言って笑ったが、その言葉を信じられるほど僕は愚か者ではなかった。


***

 道中、永森準という人物について僕が知るすべてのことを桐田さんに話した。目的地は永森さんの家だったが、向かい側には僕の家が建っているので、家出同然で出てきた僕が家族に見つかると非常にまずい。が、今はそんなことよりもより重大で深刻な危機が迫っていた。
 永森さんの家の前に立ち、僕は背後にある自分の家を気にしながらドアチャイムを鳴らした。しばらくすると、返事をしながらパタパタと永森のおばさんが駆けてくる。どう言って準さんに会いに行こうか、頭の中に台詞の用意はなかった。ちくしょう、アドリブだ。
「あら、拓也くん。どうしたの?」
「その、準さんいますか?」
「最近はずっと家に引きこもっていてねえ。外を遊び歩くよりはずっといいんだけど、ずっと家にいられても困るでしょう? 外に出ろって言ってるんだけど、体に悪いしねえ、やっぱり日の光を浴びないと、いい加減仕事を探して欲しいんだけど……拓也くんからも言ってやってよ」
「ええ、だからその、言いに来ました」
「あら」
「えーっと、準さんに会いに来たんです」
「それは分かってるけど……でも拓也くん、学校は? 今日は月曜日でしょ?」
 しまった。
 僕は表情に出さないよう細心の注意を払いながら、余計な言葉を漏らさないように口を固く閉ざした。ほんの数秒だったが心臓に悪い時間が続いた。
「その、今日は創立記念日で」
「あれ? 創立記念日なんてあったかしら? 準が通ってたときはそんなのなかったと思うけど」
 しまった。準さんはうちの中学校の卒業生だった。
「ええあの、昔はそういうのはなかったみたいですけど、最近になって始まったそうですよ」
「へー。でもそれなら、拓也くんはなんで制服を着てるの?」
「……あの、服を全部洗濯しちゃってて。着られるのがこれしかなくて」
「あらそうなの。……えーっと」
「ま、まだ何か?」
「そちらの方はどなた?」
 永森のおばさんはずっと僕の後ろに立っていた桐田さんを指差した。
 あああくそっしまったちくしょうめ。桐田さんのことをすっかり失念していた。自分にとって都合の悪いものを無意識に消去してしまう心理的な防衛機能が働いたのかもしれないが今はそんな考察をしている場合ではなかった。
 しかし桐田さんは人当たりの良い笑みを浮かべると腰を折って小さく頭を下げた。
「どうも奥さん。私は拓也くんの叔父でしてね。普段は北海道の大学で助手をしていますが、今は休暇でこちらに来ているのです」
「まあ、学者さん?」
「そういうことになりますね」
「あなたもうちの準に会いに来たんですか?」
「ええ、ええ。拓也くんからお宅の準くんのことを聞きましてね。大学で社会心理学を学んでいる私なら、何か力になれないかと思いまして。言うなれば私はお宅の息子さんに説教をしに来たのです」
「あらあら! それはわざわざすみません。どうもねえ、わたしもうちの人も、あの子には弱くてねえ。それが分かってるからあの子、何を言っても聞いてくれないんですよ」
「分かります。分かります」
「こんなところで立ち話も何ですから、どうぞ中に」
「おじゃまします」
 永森のおばさんが玄関のドアを開けて、桐田さんは中に入り靴を脱いで玄関に上がる。
「どうしたんだい拓也くん。きみも上がりなよ」
 ぬけぬけとそう言いやがったので、僕は言葉をぐっと我慢して言われたとおり家に上がった。せっかく上手くいっているのだから、ここは全面的に桐田さんに任せた方が良いだろう。僕は普段の通り無口な人間を演じて余計なことを口走らないように務めた。
 玄関でスリッパを借りて、フローリングの廊下を進む。狭い階段を二階に上ると突き当たりの部屋が準さんの部屋だった。
「ここが準の部屋です。……準! 拓也くんが遊びに来たよ!」
 おばさんはドアに向かって叫んだが、部屋の中からは物音一つ聞こえてこない。おもむろに桐田さんがドアを開けようとしたが、内側で何かがつっかえているらしく、ノブは回るのにドアは動かない。
「本当にいるんでしょうね」
「ええ。靴はあったし、今日はまだ一度も下に降りてきてないはずだから。……準! ねえ聞いてるの?」
 おばさんがさらに声をかけると、やがで内側からドアを強く叩く音が鳴った。僕とおばさんは思わずびくりと体を震わせる。桐田さんは微動だにせず、木のドアとその向こうにいる準さんの方を見つめていた。
「少し彼と話してもいいですか?」
「ええ、それはもう」
「奥さん、席を外していただけませんか? 親の前では言いにくいこともあるのです」
「そうですね……分かりました」
 おばさんは頷いてから、もう一度ドアに声をかけてから階段を下りて行った。
 おばさんの姿が見えなくなったのを確認して、桐田さんは僕に頷いて見せる。
「一体どうする気だよ」
「開けてもらうのさ」
「どうやって」
「簡単だよ」
 そう言うと、桐田さんは準さんの部屋のドアをノックした。もちろん返事はない。が、それでも構わずに桐田さんは話しかけた。
「きみが違法な手段で小銭を稼いでいたことは知っている。運び屋なんて馬鹿なことをやっていたんだろう? 一体どういうツテを持っているんだ? いやいや、そんなことはどうでもいい。私がきみに聞きたいのは、きみが一週間前に運び損ねたジュラルミンケースについてだ」
 ジュラルミンケースのことを口に出した途端、部屋の中でガタンと大きな音がした。
 桐田さんは話を続ける。
「ドアを開けたまえ。今開けなければきみは一生後悔することになる。私の方から山内組の奴らに引き渡してやってもいいんだぞ」
「あいつらとはもう話がついているはずだ!」
 中から声が聞こえた。準さんの声を聞くのは久しぶりだった。
「だったら何を恐れている。ん? そうか。きみが恐れているのは依頼主の方だな。あのケースの元々の持ち主だ。そいつの報復を恐れてずっと家に隠れているんだ」
「あんた一体誰だよ」
「桐田夏雄。正義の味方だ」
「はあ? 正義の……味方?」
「ドアを開けたまえ。違法行為に手を染めるきみは、本来なら明らかに私の敵なのだよ」
 しばらく沈黙があってから、ドアの内側で何かを動かす音がした。ややあってから、ドアが静かに内側に開いた。
 中から準さんが出てくる。久しぶりに見た準さんはずいぶんと老けて見えた。ぼさぼさの長い髪を後頭部で束ねて、まるで売れないミュージシャンのようだ。顎にはうっすらと無精髭が生えていて、目の下には隈ができている。
「どうぞ、中へ」
 掠れた声で言って、準さんは僕たちを部屋の中に入れた。
 部屋はお世辞にも片付いているとは言い難い。空のペットボトルやカップ麺の容器、お菓子の箱などがゴミ箱に入りきらずにちゃぶ台の上に散らかっていた。ベッドの上には脱ぎ散らかした服が散乱しているし、換気をしていないのか部屋の中は妙に息苦しかった。
 ゴミを強引に払いのけて、準さんは僕と桐田さんが座るスペースを床に作った。
「あの、それで」ベッドに座りながら準さんは言った。「俺に何の用ですか?」
「簡単だ。私に協力してくれるなら、きみを脅かしているきみの依頼人を私が片付けてあげよう」
「まさか……そんなこと、出来るわけがない」
「ほう。どうしてそう思うんだい?」
「だって、それは……」
「話してみたまえ。悩むことはないはずだ。私が依頼人を始末できれば儲けもの。始末でなかったところで、きみが失う物は何もない」
「この人、こんな感じでかなり変な人だけど……一応、頼りにはなるから」
 僕の頼りないアドバイスがどの程度功を奏したのかは分からないが、準さんはしばらく僕と桐田さんの顔を交互に見てから意を決したように話し始めた。
「俺にあれを運ぶように言ってきたのは、サイードって名前のアラブ人なんだ。もちろん本名かどうかはしらないけど。イランかどこかの港から、タイ経由で日本に運び込んだんだよ。俺はタイから日本の間をパスするところまでを請け負った」
「サイード?」
 桐田さんが聞き返した。その名前に心当たりがあるらしい。
「知り合いなの?」
「ふふ、まあね。きみと初めて会った数日前に、他ならぬこの私自身が彼らのアジトを襲撃したのだ。サイードたちの組織がこの国でテロを計画しているという情報を掴んでね……なるほど、通りで永森準がまだ生きているはずだ。仕事に失敗した運び屋がまだ生かされているなんて奴ららしくもないが、私に壊された組織を再建するのに忙しくて、運び屋を消す時間も惜しいのだろうね」
「そもそもなんで準さんが運び屋なんかに?」
 僕は彼のことを『準さん』と呼んだが、別に親しくもない間柄でこんな呼び方をするのは我ながらものすごい違和感があった。準さんの方でもやや顔をしかめていた。
「俺は大学にいたときに東南アジアの文化を専攻してたんだよ。そんときのコネとツテで、今は密輸みたいなことをやって小銭を稼いでた」
「密輸みたいなことではなくて、きみがやっていたことは犯罪だ。今後は二度とこういう真似はしないように。母上を悲しませたくないだろう?」
「はあ……」
 「すみません」と言って準さんは謝ったが、いかにも形式上という風で心の底から反省しているようには見えなかった。教育効果は最初から期待していなかったのか、特に粘着することなく桐田さんは会話を続けた。
「それで、ケースの中身については聞かされたか?」
「いや、何も聞くなって言われたから。こっちも一応プロだし。ケースは一度も開けてないよ」
「それなのに、この街に運び込んだ途端に山内組の連中に横取りされたのか」
「……そうだよ」
「それでアラブ人たちの報復を恐れてずっと家に引きこもっていたのか」
「そうだよ! あいつら、自分からは何も言わなかったけど、絶対にヤバい奴らだぜ。多分テロリストとかそういう連中だ」
「きみはそういう連中のために働いたんだぞ」
「でも俺は……金さえ貰えれば……」
 桐田さんは大げさに溜息を吐いた。やれやれと首を振って肩をすくめる。僕の耳元で言う。「聞くべきことは聞いた。もうここに用はない。次はあのアラブ人たちを締め上げよう。……それではお邪魔したね! なに、安心しなさい。きみの恐怖は私が成敗してやろう。せいぜい期待すると良い」
 準さんをその場に残して、僕と桐田さんは部屋を出た。
「ああ。最後に一つだけ」廊下で足を止めて、桐田さんは準さんの方に振り向いた。「私に殺されたくなかったら、妙な仕事からはさっさと足を洗う方が良い。きみほどの能力があれば金を稼ぐ手段はいくらでもある。私を敵に回すのと、地道に働くのと、どちらがいいか、ゆっくり考えると良い。それではさらばだ」
「あの、それじゃあ」
 僕も頭を下げて、一階に降りた桐田さんの後に続いた。
 準さんはベッドの上にへたり込んで、呆然とした顔で僕たちを見送っていた。


***

 狭い路地の続く迷路のような町を抜けて、僕は桐田さんの案内でテロリストの隠れ家に辿り着いた。伊美原商店街のさらに奥地、伊美原の中でも最も古い歴史を持つ地区の、一際古いアパートの二階が彼らのアジトだった。
 元々は白かったはずのアパートの壁は灰色にくすんでいて、ところどころに罅が走っている。二階に上る階段の手摺りはペンキがぼろぼろになっていて、中から赤茶けた錆色の金属を覗かせている。
 階段を上り、手前から三つめの部屋の前に立つ。郵便受けにはチラシやダイレクトメールが大量に詰まっていた。他の部屋には表札すらなく、そもそもこのアパート自体に人の気配がない。
「ドアの前に立たないでくれ。覗き窓から見られてしまう」
 そう言われて僕は慌ててドアの横に移動する。僕とはドアを挟んだ反対側に桐田さんが立っていた。その位置から腕を伸ばして桐田さんがドアチャイムを押す。部屋の中で間抜けな電子音が鳴っているのが聞こえた。
 しばらく間をあけて、桐田さんがもう一度ドアチャイムを押した。中で鍵を開ける音がして、ドアが少しだけ開いた。ドアを閉められる前に、桐田さんが靴の爪先を差し込んだ。
 ドアは慌てて閉まろうとする。が、桐田さんは足で確保したドアの隙間に手を入れると、ドアを閉めようとしている家主の襟首を掴み、無理やり自分の方に引っ張った。家主がドアと衝突した衝撃がアパート全体に響いた。
「や、やめて……」
 ドアの隙間から弱々しい声が聞こえた。桐田さんはなおも相手の首を引っ張りぎりぎりと締め上げていた。
「止めて欲しければドアを開けろ。でなければこのまま絞め殺すぞ」
「待ってクダサい、今開けマスから」
 掠れるような声で言って、やがてドアの内側からチェーンを外す音が聞こえた。それを確認してから桐田さんは一気にドアを開けると、襟首を掴んでいた手で相手を玄関に突き倒した。
 玄関に倒れているのは日に焼けた若いアラブ人の男だった。顎の下に髭を蓄えており、頬は痩せていて面長。楕円のメガネをかけていた。シャツとズボンから伸びる四肢の長さから、彼がかなりの長身であることが推測できた。
 が、今は玄関で尻餅をついたまま、桐田さんを前にしてガタガタと震えていた。
「おい、いつまで倒れているんだ」
 似合わない横柄な口調で言って、桐田さんは男のシャツの襟首を掴んで無理やり上に引っ張り上げた。男はそれでされるがままに立ち上がる。
「中を見せてもらうよ」
 男の返事を待たずに桐田さんは土足のまま玄関から部屋の中に上がった。僕はがたがたと震えているアラブ人の男を見て、少し迷ってから自分は靴を脱いで部屋に上がることにした。
 部屋には単純に物がなかった。ゴミが詰まって膨らんだコンビニのビニール袋に、ベランダに干してある男物のシャツ、床に直に置かれた小さなラジオがノイズ混じりの歌声を吐きだしている。家具や調度の類が圧倒的に不足していた。
「待ってくダサイ、何の用デスか?」
 勝手に部屋を見て回る桐田さんをアラブ人が慌てて呼び止める。外国人にしては流暢な日本語だったが、ところどころイントネーションのおかしな箇所がある。
「きみだけか?」
「何の話デスか?」
「とぼけるな」
 桐田さんはアラブ人の腕を掴むと、それを捻って腕を極めた。痛みから逃れようとする反応を利用してアパートの床にアラブ人の体を押さえつける。
「い、痛イ! 痛イです! やめてクダさい!」
「仲間はどうした? もう帰国したのか?」
「オウ! ファック! 腕! 折れる!」
「安心したまえ。最初に折るのは指だ。次に手首。腕はその次だ」
 楽しそうな声色で、顔には笑みすら浮かべて言った。見る物をぞっとさせるミスマッチだった。アラブ人は震え上がって、英語ではないどこかの言葉で二言三言悪態をついた。
「みんな……帰ったヨ……この間……アナタに襲われて……しばらく怪我シテるから……」
「お前はここで何をしている?」
「れ、連絡待っテルよ。あの、仲間、また日本に来るカラ」
 バキン、と小さな音がした。僕は最初、それが何の音なのか分からなかった。床の上でもんどり打つアラブ人を見て、桐田さんが彼の腕の骨を折ったのだということが分かった。
「おっと、悪かったね。最初は肩だった」
「おじさん! あんたやりすぎだよ!」
「テロを起こされるよりはずっと被害が少ないさ。おい、サイード! きみが永森準に輸入させたジュラルミンケースの中身は何だ? 麻薬じゃないだろう? おい、答えたまえ!」
「あ……あのケースは……」サイードさんは脂汗を流しながら、不自然に曲がった肩を押さえながらうめくように答える。「中身……シシアニンガス」
「シシア――ガス?」
「シシアニンガス……。結晶の状態なら白い粉みたいデ、持ち運びに便利デス。結晶では無害デスが、強アルカリに溶けてシシアニンガスの水溶液にナル。この水溶液、蒸発させると、毒ガスになりマす」
「毒ガス」桐田さんが繰り返した。「殺傷力は?」
「吸うと二時間くらいで意識を失うヨ。ちょっと見ただけじゃ心筋梗塞と区別がツカナイ」
「しかしテロ計画は私が潰したはずだ」
「毒ガスは一つダケじゃなかったのデス……ワタシたちバカじゃないデスから、計画立てるときは必ズ予備を用意スルのですよ……ぐえっ」
 桐田さんはサイードさんの襟首を掴むと鼻っ柱に拳骨を打ち込んだ。その衝撃で彼のメガネが床に転がった。サイードさんはうめき声を上げて床に倒れる。
「いいか、よく聞きなさい。きみの神が誰なのかは知らないが、神は決して私からきみを守ってくれたりはしない。もしまたきみが私の敵になるのなら、そのとき私はきみを殺すよ? 私は自殺志願者を助けてやるほどお人好しでなければ強くもない。死にたいのなら殺してあげるさ、いくらでもね」
 サイードさんは首がちぎれそうなほど何度も頷いた。桐田さんはにっこり笑うと、僕に目配せして部屋から出て行った。僕は一応「おじゃましました」とサイードさんに声をかけてから靴を履いて部屋から出る。肩を折られ鼻を殴られた男にかける言葉ではなかったと思うけど、幸いなことにサイードさんは僕のことなど眼中になかったらしい。傷ついた自分の体を抱えていつまでも部屋の隅でガタガタと震えていた。
 外に出て階段を下りると、アパートの前に桐田さんが立っていた。僕のことを待っているようだ。僕は慌てて桐田さんに駆け寄った。
「やりすぎだろ」
 とりあえず言っておくべきことを言っておく。が、桐田さんは僕の言葉に生返事を返すと、次の目的地も告げずに歩き始めた。
「ちょっと待って。次はどうすんのさ。ていうか、毒ガスってどういうこと? 伊美原に毒ガス? あ、ってことは、カウントダウンって毒ガスのせいなのか?」
「その通り……こちらが本命だったわけだ」
「だから、おじさんはどこに行くつもりなんだよ」
「いいかね、問題は」桐田さんは足を止めて、僕を正面から見る。「誰がケースの中身を拾ったか、ということだ。そいつが科学に疎いただの一般市民なら何も問題はない。が、そんな可能性はあり得ない。なぜなら二日後にこの街で大勢の人間が死ぬことがすでに観測されているからだ」
「でも……誰が拾ったかなんて、そんなの分かるわけがない」
「ああ、普通ならそうだろう。だが今回の場合はさらに条件を追加して絞り込むことができる。第一に、その人物はケースの中にある白い粉が毒ガスであることに気づいた。生化学の知識を持っているのだろう。そしてその人物は二日以内に毒ガスを散布する動機を持っている。さらにそいつは、あの河原で堂真柳華が残していったガラクタを漁っていた人物だ。つまり、堂真柳華の存在を知っていた。となると――答えは確定する」
 桐田さんはその人物の名前を口にした。
「琴浦だよ。浮船の十字団の創設者で、あの宗教の教祖だ」


***

 浮船の十字団の本部へ来たのはこれが二度目だ。外から見ても一体何の建物なのか分からない。無機質な立方体の構造は内情を探ろうとするものを徹底的に拒絶しているように見えた。
 僕たちは本部の建物を、三十メートルほど離れた曲がり角から遠くに眺めていた。
「それにしても……琴浦さんが毒ガステロを?」
「あの男は留学時代に生化学を学んでいた。帰国してからは堂真柳華に心酔している。その堂真柳華が地球から消えたと知ったら、やつは何をするか分からないよ。絶望のあまり無差別殺人に走る可能性もある。宗教的な熱狂が暴走したときの狂気は馬鹿にならないからね」
 強い日差しの中を何十分も歩いたおかげで僕の背中は汗でぐっしょりと濡れていた。桐田さんは汗こそかいていないが、真剣な面持ちで十字団の本部を見つめている。
「それで、これからどうする?」
「話を聞くさ。念のために訊くが、私のカウントダウンは始まっているかね?」
「いや、大丈夫。今のところは」
「それは心強い」桐田さんは大きく頷いた。「それでは、私が一人で中に入る。三十分経っても出てこないときは、すぐにここから逃げなさい」
「え? ちょっと待って。一人で行くのか?」
「おう。私はひとりしかいないからな」
「じゃあ僕は留守番? 何で? 公園のときは一緒だったのに」
「あれはきみが隠れる場所があったからだよ。待ち伏せと攻め込むんじゃあ、何もかも違う。さすがに今回は、きみを連れて行くのは危ない」
「僕も連れて行ってくれ」
「どうして?」
「それは……」僕は即答できなかった。「邪魔はしないから」
「理由になっていないよ。それにね。別に私はきみを除け者にしようと考えているわけじゃない。きみにはちゃんと働いてもらうよ。私が失敗したら、きみが私を助けに来るんだ。うふふ、正義の味方の味方だ。銀行で金は借りられないだろうけどね」
 桐田さんは冗談交じりに言って、僕の肩を叩いた。僕はどう言い返すべきなのか分からず、結局頷いて桐田さんの指示に従うことにした。
「それでは、行ってくるよ。繰り返すが、もし私が捕まっても、自分一人でどうにかしようとは考えるな」
「分かってる」
 念を押される。まるで僕が無能だと言われているみたいで情けなかった。実際そうなのだろう。僕は人を殴ったこともないし、勝ったこともない。殴られたことは何度もあるけれど。
 桐田さんは通りに出ると、自然な身のこなしで本部の建物まで近づき、さりげなく辺りをうかがうと建物の横に入った。侵入経路を探しているのだろう。さすがに真正面からの突破はやらないらしい。
 僕は腕時計で時刻を確認した。安物のデジタル時計は午後一時を指している。
 それからしばらくの間、僕は通りにずっと身を潜めていた。街は恐ろしいほどに静だった。人の気配がないのは今日が平日だからなのか、それとも何か恐ろしい計画が動き始めているせいなのか。
 ジンジンと蝉の鳴く声だけが聞こえていた。太陽に晒された僕の首筋がじっとりと熱を蓄えていた。
 僕の視線が本部と時計の間を何度も何度も往復する。僕はすがるように時計のカウントを目で追っていた。黒いデジタル数字が、いくつもの秒を積み重ねていく。
 桐田さんの頭上にカウントはなかった。だから、桐田さんが死ぬはずはない。
 でも……。
 最初に桐田さんと会ったとき、彼の頭上には「3」のカウントがあった。僕がそれを桐田さんに教えたおかげで、カウントの死を回避することができた。
 だとしたら――どうしてその逆がないと断言できる?
 カウントダウンは絶対ではない。僕の行動で死を回避できることが証明されている。だったら、僕のせいで、カウントの始まっていない人が死ぬことも、ありうるのでは……?
「早く出てこい。早く出てこい」
 呪文のように呟いた。言葉には魔力が宿っていると誰かが言っていた。大嘘つきだ。僕が何度その言葉を呟いても、目の前にある茶色の建物は不気味なほどに静まりかえっている。
 とうとう、三十分が過ぎた。
 約束の時間。
 すぐに彼を助けに行くべきだと思った。迷うことなくそう思ったのに。
 僕は怖くて、これ以上一歩も建物に近づけなかった。
 そして僕は逃げた。桐田さんの約束通りに。
 逃げるとき、僕は一度も振り返らなかった。もしそこに桐田さんがいたら、一体僕はどの面下げて彼に会えるというのか。
 卑怯者め! 弱虫め!
 走りながら嗚咽が出て、体力のない僕は息が詰まりそうだった。

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