破滅の時間まで

第7話

 あの幼なじみの女の子が死んでから、僕は小学校の教室でいつも肩身の狭い思いをしていた。自分の能力のことを誰かに話そうと思ったことは何度かあったけれど、自分から切り出すのが恥ずかしくて僕はずっと黙っていた。
 あるとき、ふと思ったことがある。
 もしかしてみんなも、人の死を見ているのではないか、と。
 今にして思えば、そんなのは馬鹿な思い違いだということが分かるけど――当時の僕が、そういう考えを抱くのは至極当然のことだった。なにせ人生の比率で言えばカウントダウンが見えるようになってからの期間の方が長いのだから、人の死を見ることが当たり前になっていてもおかしくない。
 でも僕は中学生になった今でも、ひょっとしたら、という思いを捨てきれずにいた。間違っていることは分かっていても、もしかしたら、僕の間違っているという考えが間違っていて、みんな人の死が――いや、人の死でなくても、みんなそれぞれ何か特別な物が見えているんじゃないかと思えてならない。
 見ることだけではなくて……僕たちはみんな違うものを持っていて、みんなそれぞれ、自分のことを打ち明けられずに沈黙を守っているんじゃないか、と。人の死を見ていることを誰にも言えなかった僕のように。
 あるいはもうひとつの可能性。
 僕が見ているカウントダウンは、果たして本当にあるのだろうか。僕の精神は狂っていて、ありもしない幻覚を見ているのではないか。本当の僕には何の力もなくて、実はみんなと同じなんじゃないか?
 しかしどちらにしろ、僕は僕の見ている世界で、配られたカードで勝負しなければならない。それ以外に、僕たちができることは何もない。


***

 僕の見えているカウントダウンが幻でない限りは今日中に伊美原に住む大勢の人が死ぬはずだった。本日も晴天で雨なんて降りそうにもない、ちょうど祭り日和だ。
 僕は通りの影に身を潜めながら午後一時が来るのをじっと待っていた。
 腕時計のデジタル数字と十字団の本部を交互に見ながら、僕は無意識に自分の頬を触っていた。頬の痛みに思わず手を引っ込める。浮船の十字団の本部は昨日と同じで不気味なくらい静まりかえっている。僕は午前十一時くらいからここにいて、時刻は午後一時まで残り四分を切っているが、相変わらず建物に人の出入りはない。建物の一階部分の駐車場がこの位置からでも見えるが、そこに黒塗りの高級外車が止まっているところを見ると中が無人ということはあり得ない。
 当たり前だ。もし無人なら昨日桐田さんが帰ってこないはずがない。
 僕はあり得ない可能性に救いを求めることを諦める。
 あの建物の中には狂気に駆られた殉教者たちが罠を張ってうじゃうじゃ待ち構えていて、桐田さんは彼らに捕まって今も恐ろしい拷問にかけられているのだ。
 午後一時になった。僕は通りの影から道に出る。
「さて……後はカードをめくるだけ」
 僕は自分に言い聞かせた。勝負所はすでに終わっている。あとは結果を見るだけだ。何を恐れることがあるか。駄目なら駄目で、それを受け入れるしかない。
 僕は十字団の建物に近づいた。深淵への道程を自ら歩んでいるような不思議な感覚を味わっていた。自ら破滅へと向かう背徳的な快楽が僕の背筋を震わせた。というと何だか文学的な表現だったが、格好をつけずに現実に即した表現をすると、僕は怖くて体の震えが止まらなかった。
 歩行に支障をきたすレベルになったのでさすがに僕は足を止める。二つほど深呼吸して自分の頬を両手で叩いた。ズキリと痛んだ頬が僕の意識を現実に呼び戻してくれる。
 僕は一階部分の駐車場に入った。入り口は駐車場にある。昨日の桐田さんは裏から忍び込んだようだったが今日の僕にその必要はない。そもそも僕みたいな鈍くさい人間がそんな泥棒紛いのことができるはずがない。いや、桐田さんは正義の味方で、泥棒とは対極の位置にいるのだけど。手法と理論自体は、あまり変わらないような気がした。
 銀色のドアの横にドアベルが付いていた。僕はそれを押して、中から誰かが出てくるのを待った。ほんの一分足らずの待ち時間だったが、僕は落ち着かずにその場で何度も腕を組んだり解いたりを繰り返していた。
 何の前触れもなくドアが開き、中から緑のジャケットを着た髭面の男が出てきた。
「お待ちしてました。中へどうぞ」
 低い声で言う。見覚えのない男だったが相手は僕のことを知っているらしく、建物の中に入るようドアを広げて僕に促した。僕は頷いて言われた通りにする。緊張が表に出ていないかとかなり神経を使っていたが、相手は僕に興味がないのかほとんど無警戒に背中を向けて僕を奥に案内した。
 ジャケットの男はずっと無言だった。僕も、こんなところでお洒落な会話を繰り広げる余裕はない。いつ敵が襲い掛かってくるかとひやひやしながら本部の中を歩いていた。
 この建物に入るのは四日ぶりだったが中の印象は一変していた。あのときは放課後の教室のように人気がなく殺風景だった部屋が、今は様々な年齢、性別の人たちで埋め尽くされていた。彼らは床の上に正座し、またはあぐらをかき、静かに目を瞑っていたり、ぶつぶつと何かの文句を呟いていたりと、僕が見た限りでは何の統一性もなかった。僕が廊下からガラス戸越しに、少しばかり露骨に凝視していても彼らは何の反応も示さない。みんな自分の世界の中に閉じこもっているようで、誰かと会話をしたり、誰かのことを気にしたりする人は誰もいなかった。
 その光景に背筋が寒くなりながら、僕に構わずどんどん先に進む緑ジャケットの背中を慌てて追いかけた。
 三階まで階段を上り、最後に辿り着いたのは、廊下の先にある薄暗い道場だった。男は両開きの鉄の扉の、片側だけを開けると、顎で中に入るよう僕に指示した。あまりの態度の悪さに僕は何か言ってやりたかったが、不満よりも恐怖心の方が勝った。僕はジャケットの男とは目を合せないようにして、こちらも極力無愛想に道場の中に入った。
 薄暗い中空と畳に挟まれた地平の真ん中に、琴浦さんは静かに座っていた。正座をしたまま身じろぎもせず僕のことをじっと静かに見つめている。ただそれだけの光景が僕にはたまらなく不気味に見えた。勇気を出して前に進むと、背後で扉の閉まる重い金属の音が聞こえた。後戻りできないことを知ると僕は急に心細くなった。
「お待ちしておりました。もう少し遅れていたら間に合わないところでしたよ。それはあまりにもかわいそうですからね」
「誰が?」
「あなたのことですよ。せっかく信託を果たしたというのに終わりを見届けられないのは不幸です。それではあなたが救われないじゃあないですか」
 琴浦さんは落ち着いた声で僕に言った。感情の揺れを感じられない、極めて平坦な態度が、その裏側の異常性を想像させて逆に不気味だ。……駄目だ。心が恐怖に捕まっている。今は何を見ても不気味に思えてしまう。僕は何も考えないようにしたが、何も考えないこということがこの場では何よりも難しかった。


***

「まずは何からお話ししましょうか。そう――空神様は行ってしまわれました。しかし絶望するにはまだ早い。わたしたちにできることはまだ残されています」
 琴浦さんはそう言った。僕は畳の上に正座して、黙って彼の話に耳を傾けていた。
「空神様は天に回帰なさいました。しかし見てご覧なさい、この世界に救いは訪れましたか? 信託を果たしたわたしたちは、本当に救われたのですか? ええ、救いなどありませんでした。空神様はこの世界をお見捨てになったのです。つまり、わたしたちも、あなたも、救う価値がないと、空神様はご判断なさったのです。それが空神様の意志であり、それはわたしたちにはどうすることもできない事実です。しかし、わたしたちはそれを受け入れた上で、では次にどうするのかを考えなければなりません。この世界にはもはや救われる可能性は残されていないのです。――救われない、袋小路の世界です。このままいつまでもこの場所に存在して、腐り続けてゆく世界。そんなものに縛られているからわたしたちは救われない。わたしたちは一度、世界から自由になる必要があるのです。つまり、袋小路の世界を破壊して、救われる価値のある世界を構築し、空神様を再び地上に呼び戻し、その上で二度目の回帰を果たすことで、救われた世界を作ることができるのです。これはわたしたちのためではなく、わたしたちの次の世代のため、次の人類のため、次の存在のための、殉教行為なのです。わたしたちに救いがないのなら、わたしたちは、誰かを救うために行動しなければならないのです」
「そのために毒ガスを撒くのか?」
 僕が毒ガスという言葉を口にすると、琴浦さんは会心の笑みを浮かべた。
「あれこそが空神様の意志なのです。わたしが空神様の居地へ赴いたからこそあの粉を見つけることができました。わたしが大学時代、殺虫剤の研究をしていたからこそ、あの粉が小さな結晶であり、それが毒ガスであることに気がつきました。なぜあんなものがあの場所に? 誰かが空神様に、あれを献上したのか? ただの平日に毒ガスを撒いたところで死者の数は高が知れていますが、今日は夏祭りです。公園には人が大勢集まります。すべては運命なのです。あらゆる偶然が、あらゆる物語が、わたしたちをこの使命に導いているのです。これは大いなる存在、空神様のご意志なのです。それに逆らうなど人としてあってはならないことなのです」
 夏祭りに毒ガスを撒く――。
 なるほど、そう言われて納得するところもあった。父さんや母さんや祐理のカウントが始まったのは今日の夕方に夏祭りへ行く予定があったからだし、永森準さんはアラブ人テロリストを恐れて夏祭りなどには行かないだろうからカウントは始まらなかった。公園で会ったヤクザたちは、夏祭りの屋台を仕切っているから、本来ならきっとそのときに死ぬことになっていたのだろう。
 『本来なら』。つまりそれは、僕の存在によって、運命がねじ曲げられたということ。
 僕の存在しない世界が本当の世界で――僕は自分の目を使って、ズルしてこの世界を良いように作り替えているのか。
 運命――。
「運命という言葉は――」僕は正義の味方の言葉を思い出した。「運命の主体は人に宿る言葉だ。そんなのはあんたの思い込み、ただの幻想だ」
 そう、世界に意味なんてない。
 琴浦さんが生化学を学んだことも、彼が河原で毒ガスの結晶を見つけたことも、長谷崎さんがリュカさんにジュラルミンケースを渡したことも、その長谷崎さんが準さんからジュラルミンケースを奪ったことも、テロリストたちが準さんに毒ガスを運ばせたことも、テロリストたちを桐田さんが壊滅させたことも、リュカさんがこの星に流れ着いたことも、僕が人の死を見ることも――。
 すべてすべて、意味なんてない。そこにあるのはただの偶然。誰の意志でもないし、その先に物語はない。結論もない。救いの約束もない。
「そうやって、必ず意味があると、自分の今には価値があると思わないと、生きていけないんだ。あんたは単にリュカさんに寄りかかっているだけだ!」
「知ったことを言いますね」琴浦さんは冷静に僕をたしなめた。「しかし、あなたの言葉には一理あります。もしかしたら、わたしの起こす破滅には、何の意味もないのかもしれない。でもねえ、それでも……だからこそ――破滅を願うということもあるのですよ。きみみたいな子供には分からないだろうけどね。この世の中は腐ってるんだよ! ぼくみたいな人間が生きるには世界はくだらないんだ! くだらないくだらない、なんでぼくがみんなに合わせなきゃいけないんだ、ぼくが周りに合わせるなんてそんな不条理があるか、どうしてぼくが我慢しなきゃいけないんだぼくがぼくがぼくが――っ!」
 琴浦さんは頭をかきむしった。突然の態度の豹変に僕は正座したまま凍り付いていた。琴浦さんは僕に詰め寄った。思わず逃げようとしたが体は言うことを聞かない。僕の両肩を掴んでなおも訴え続ける。
「やりたいように生きている奴らがいる一方でぼくはずっと我慢ばかりしてきたんだ! ろくに自分で考える頭も持っていないただの馬鹿たちに、顔や金や生まれで人の価値が決まると思っているクズどもに世界は優しすぎる! どうしてぼくが奴らの下なんだ! こんな不公平があってたまるか! だったらぼくが世界を変えてやる! ぼくを切り捨てたのは会社の方なんだ! あいつら、偉そうにぼ、ぼくをこき使いやがって、あ、あの野郎、会社があの馬鹿どもの味方をするから、な、何にも持ってないあいつらが、ぼ、ぼくを、い、言いなりにして、頭を下げさせられて、何が残業だ、大した給料も出さないくせに、精神論ばかり言いやがって、それしか脳がないくせに、どうして心の内側まで上司に支配されなきゃいけないんだ、殺してやる、あんな奴ら、皆殺しだ、はははは! いい気味だ! 今まで黙ってぼくを見捨ててきた奴らにも復讐してやる! あははははは!」
 琴浦さんは畳の上で笑い転げた。
 さんざん笑い転げて、声を枯らして、涙を流した。やがて落ち着くと、ぜえぜえと荒い息をしながら起き上がった。もはや正座ではない。彼は僕の前で立ち上がっていた。
「さて、わたしたちはどこまで行っても平行線です。破滅を願うわたしの心は、社会が味方するあなたには決して理解できないでしょう。あの桐田という男も同じです。彼は正義の味方だと名乗っていましたが、ではその正義とは、一体誰の正義でしょう。社会の、大多数の人間の合意と怠慢が正義なのでしょうか。であれば、抑圧されるわたしが破滅を願うのは、ささやかな反撃でしかありません。もちろん、この程度でわたしの正義は何ら保証されませんがね……。彼の身柄はわたしたちが押さえています。暴れるようでしたので、縛って、薬を打ち、この建物の奥深くで厳重に監視させています。わたしが彼を殺さなかった理由がお分かりですか? たとえ彼が世界に味方するわたしの敵だとしても、同じ神の元に集った同志だからです。同志には終わりを見届ける権利がある。もちろんあなたにも、です。世界が破壊され、次の世界が救われる可能性を信じて、涙すると良いでしょう」
「お断りだ。僕だって、世の中にはあんまり良くしてもらってないけど……あんたのやり方は卑劣すぎる」
 言葉遣いを意識する。僕は立ち上がった。琴浦の目を見る。僕よりも背が高い。体格は、僕の方がしっかりしているかもしれないけど。相手は大人で僕は子供。でも僕はそんなありきたりな理由で怖じ気づきたくはなかった。
「あんたが誰かを殺せば、それであんたは救われるかもしれないけど、それじゃああんたに殺された人たちが救われない。あんたが殺そうとしている人の中にも、社会に押し込められて、理不尽な生き方をさせられている人だっているはずだ。だから、あんたには同情できるけど、僕はあんたに味方はできない」
「正義の味方になるつもりですか?」
「そんなわけないだろ。そんな酔狂な奴、この街に一人でも多すぎるくらいだ」
 それに銀行は金を貸してくれないしね――とは言わなかった。とぼけたあの声が頭の中に反響していた。僕は笑いを堪えながら、琴浦さんに近づこうとした。琴浦さんは僕に掌を向けて動きを制した。
「それ以上近づくと、拘束します」
「やれるもんなら――」
 瞬間、僕の世界が反転した。ただでさえ薄暗いので、最初は自分の平衡感覚が信じられなかった。やがて畳に叩き付けられる痛みで、背後にいた誰かに投げ飛ばされたのだということを悟った。
 僕は呻きながら起き上がろうとしたが、腕の関節を完璧に固められて痛みで動くことができなかった。首だけで背後を見ると、灰色ののっぺりとした上下を来たオールバックの男が僕の体を押さえつけている。
 そんな馬鹿な――道場に僕たち以外の人間がいた気配なんて、まったくなかったのに……。
 琴浦さんの方を見ると、この薄暗さでもはっきりと分かるほどに薄ら笑いを浮かべて、関節の痛みに顔を歪める僕のことを見ていた。その背後にぼうっと別の人影が二人、いや三人現れた。彼らはずっと僕の視界の中にいたはずなのに、今の瞬間まで全く気がつかなかった。その幽霊のような存在に僕は戦慄した。
「彼を連れて行きなさい」
 琴浦さんは部下に命じた。僕の腕を捻る力が強くなった。背後から僕の首に手を回して無理やり体を引き上げる。僕を引き摺って、道場の入り口まで連れて行く。部下の一人が扉をノックして低く何かを言うと、向こう側にいた誰かが鉄の扉をゆっくりと開いた。外からの光が道場の半分を照らした。暗闇に馴れていた僕の目には強烈すぎる光量だった。
 目を細めながら、息をするのも不自由な状態で、僕は琴浦さんに聞こえるようにはっきりと言った。
「馬鹿。もうカードは配られてたんだよ。あんたの勝負所はもう終わってるんだ」
「負け惜しみですか? まあいいでしょう。次に誰がきみを助けに来るか、見物ではありますからね」
「うふふ。その役割は私が引き受けよう」
 声がした。琴浦さんも、その手下も、みんなが入り口の方を見ている中で、僕だけはずっと琴浦さんの方を見ていた。奴が驚き慌てふためく姿を見逃す手はなかったからだ。入り口を見る必要はない。そこに誰が立っているのか、僕は確信していた。運命ではなく、偶然でもなく、人の意志の結果として、物語の結論は僕たちに向かって宣言した。
「さて、大団円だ。やはり最後は正義の味方が締めなくてはね。囚われのお姫様なんて、格好悪くてやってられないね」
 桐田さんは相変わらずのふざけた台詞回しで、真面目な僕たちを唖然とさせていた。


***

 目にも止まらぬ早さで桐田さんは僕を捕らえていた男の首に腕を絡める。男は僕から手を放して激しく抵抗したが、桐田さんが両腕で男の首を後ろにぐいと引き、さらに上に締め上げると、男の四肢は力なく畳の上に落ちた。
 男から手を離すと、桐田さんは僕を庇うように琴浦さんたちの前に立ちはだかった。
「ふふふ……昨日は油断したよ。まさか、私を捕らえるだけで殺さないとは思わなかった。カウントダウンが始まっていなかったから油断してしまったが……もう油断はしない。全身全霊をかけて、きみたちの障害となろう」
「カウントダウン? あなたは一体何を言っているのです?」
「分からないかね? 私たちは運命を味方につけているのさ……」
 桐田さんの前を、琴浦の部下たちが囲んでいた。しかしあれだけの圧迫感を放っている彼らがたった一人の中年男を前に一歩も前に進むことができない。彼らには一様にして焦りの表情が浮かんでいる。昨日桐田さんを捕まえるのにずいぶん苦労したのだろう。桐田さんの実力を知っているがゆえに、簡単に手を出すことができない。
「他の者は何をしているんです! 警備は? どうしてこの男が自由に出歩いているのです!」
「だから、桐田さんを助けに来たって言ってるだろ?」僕は琴浦さんを突き放すように言う。「状況が分かってないのはあんただけだよ。僕が何の準備もなく、無策でここに来たと思ったのか?」
「それでは、あなたは」
「強力な助っ人を呼んだ」
 そのとき、道場の外で男の怒鳴り声が聞こえた。次は何かがばりばりと壊される音。最後に、投げ飛ばされた十字団の信徒の姿。
 琴浦さんは慌てて道場の外に出る。三階の廊下で、厳つい顔の男たちが大勢で暴れ回っていた。殴り合い、蹴り合い、それでも敵わなければ頭突き。合理性も技術もあったもんじゃない。十字団自慢の信仰心溢れる警備員たちが、ヤクザたちの喧嘩に正面から押されていた。
「あ……あなたたちは……一体……?」
 琴浦さんが呆然と問いかける。殴り合う男たちの中でも一際目立つ坊主頭の男がいた。両手で巨漢の信徒二人を掴み、さんざん振り回したあと壁に叩き付けて昏倒させてしまう。白いスーツの内ポケットから煙草を取り出すと銀色のライターで悠長に火をつける。
「おう。俺ァ、山内組の則岡ってンだ。そこの桐田って野郎が大嫌ェでなあ。この機会に貸しでも作ってやろうかって思ってナ。悪ィが助太刀させてもらうぜ」
「大きなお世話だ」
 桐田さんは心から忌々しそうに呟いた。則岡さんはそれを耳ざとく聞きつけて、こちらも憎々しそうに睨み付けた。
「ケッ……情けねェ格好で捕まっておきながら何言ってやがンだよ。俺が助けなきャ、あんた今頃みじん切りにされて殺されてたゼ? それが恩人に対する態度かァ? なア、坊主」
「あの、則岡さん、ありがとうございました」
 ヤクザに頭を下げた僕を、桐田さんは驚愕の表情で見ていた。それを目撃して胸が晴れたのか、則岡さんは豪快に口を開けて笑った。
「ハッハッハ! その坊主は面白ェぞ? どこかの誰かよりモノの道理ってモンを分かってる。こいつ、山内組の屋敷まできて、俺に土下座して頼むんだ。そりゃア、俺も男だからな、たとえ捕まったのがどンな馬鹿だろうと助太刀しなきゃ卑怯者だぜ」
「最初は断わられて、それでも頼んだら思いっきり殴られましたけどね……」
「はっはっは」
 笑い事じゃねえ。山内組の玄関で則岡さんに殴られてから、僕の頬は今に至るも未だに痛みを残していた。あれでも手加減したのだろうが、だとしたら本気の拳を受け続けていた桐田さんはどんだけ丈夫だったんだよって話になるが……。
「そうか。それは大変だったね……。私を助けるためにそこまでしてくれるとは、予想外だった」
「おじさんは、暴力団に力を借りるのをあんまり快く思わないだろうけど――」
「いや、それとこれとは別だ。きみの心は素直に嬉しく思うよ」
「そうだぜェ……その坊主、お前を助けるためにどンだけ大変な目に遭ったか……。俺たちがお前を助けに忍び込むってのも坊主の案だし、その時間を自分が囮になって稼ぐってのも、坊主のアイデアだ」
「拓也くん……」
「その呼び方やめろ」
 桐田さんの熱い視線が僕を射貫いた。恥ずかしくなってそっぽを向く。自分の頬が熱くなっているのを感じで、どうしてこんな奴を助けたのか、というかなんで自分はこんなに照れているのか、何も分からなくなっていた。
 そのとき、信者の一人が則岡さんの背後から猛スピードで駆けてきた。則岡さんに殴りかかろうとした男の頭に彼は振り向きざまに一発拳を打ち込んだ。腰から砕けて廊下に倒れるのを見もせずに、則岡さんは呑気に煙草を吹かしていた。改めてこの人は規格外の強さだ。この人がどうして桐田さんみたいなのに負けたのか、やっぱり僕には理解できない。
 山内組のヤクザたちの怒声と、浮船の十字団の信徒たちの怒声が建物中で衝突していた。物が壊され、ガラスはぶち破られ、人は血を流し、あるいは投げ飛ばされ、関節を極められ、時に相打ち――まるでお祭りのような騒ぎだった。
「おイあんた……どこに行こうってンだ?」
 則岡さんは、その場から立ち去ろうとしていた琴浦さんの襟首を掴んだ。琴浦さんの眼鏡の奥に恐怖の色を見た。
 それでも、琴浦さんは折れなかった。
「あんたみたいな……暴力だけの奴らに……」
「おう。俺ァ頭は悪ィからな。だから頭じゃ戦わねェぜ。あんたと同じにな。歯ァ食いしばりな!」
 則岡さんはにっこり笑うと、琴浦さんの顔面をぶん殴った。


***

「ふふ……今回はきみの大勝利だ」
「勝ったのはおじさんと山内組の人たちだ」
「まさか。この状況を整えたのはきみの意志だし、そもそもきみの目がなければ最初からこんなことにはならなかった」
「なんかその言い方だと責められてるみたい」
「まさか。手放しで賞賛しているよ」
 桐田さんは笑った。
 浮船の十字団を襲撃した山内組の特攻部隊は、すでに建物内の武闘派信者たちの大部分を掃討していた。残りの、まだ信仰心と血気に溢れている信者たちがいくつかの部屋で抵抗を続けていたが、彼らが鎮圧されるのも時間の問題だろう。事前の打ち合わせでは、桐田さんの救出を第一目標とし、第二目標は建物のどこかに保管されている毒ガスの奪取だった。
 桐田さんの救出が成功したことは明らかだったが、毒ガスに関しては則岡さんから何も聞いていない。しかし僕はそれにも関わらず第二目標の達成を確信していたのである。
「きみ、暴力団員のカウントダウンはどうなっている?」
 道理を理解している桐田さんが僕に聞いた。根性のない手下たちを叱咤激励する則岡さんの頭上にも、嬉々として喧嘩に飛び込む春山さんの頭上にも、あの忌々しいアラビアフォントの数字は見当たらなかった。
 僕がそれを説明すると、桐田さんは深く頷いた。
「そうか」続けて言った。「暴力団をこの街から排除する絶好の機会だったのだがね。やはり楽はできないということか」
 狂騒と喧噪の坩堝もやがて静まり、僕たちは建物の外に出た。あちこちにアザを作り、血を流し、ぼろぼろになった山内組の若いヤクザたちが駐車場のアスファルトの上で傷病兵のように座り込んでいた。満身創痍の弟分たちを見ても則岡さんは豪快に笑い飛ばすだけだった。則岡さんはすごい人だが、それだけにこの人についていくのは大変だろうと思った。
 琴浦さんは最後まで戦った。則岡さんに何度殴られても彼は立ち上がって向かっていった。最後は琴浦さんの意志よりも先に肉体の方がくじけてしまったみたいだが、則岡さんに言わせればあれは「引き分け」で、いつか琴浦さんと再戦しなければならない、ということだった。顔を大きく腫らした琴浦さんはとても痛々しかったが、則岡さんと殴り合ったことでどこか吹っ切れた、爽やかな表情をしていたように思う。男が二人、殴り合って友情が芽生えるなんて僕は馬鹿みたいだと思うけど、案外世の中にはそういう馬鹿なルールで生きている人が多いらしい。
「さて……」
 浮船の十字団の事後処理が終わったころにはすでに夕方になっていた。桐田さんはよれよれになってしまったスーツの小脇に、シシアニンガスの結晶が納められた黒いトランクケースを抱えていた。協議の結果、毒ガスは桐田さんが処分することになった。ヤクザたちにしても、金にならないうえに処分に困る猛毒などには何の興味もなかったようだ。
「これにて一件落着――ってことでいいのかな」
「そうだね。ふふふ、楽しい一週間だったよ」
「やめてくれ。……おじさんは、これからどうするんだ?」
「どうもこうもないさ」桐田さんはずっと遠くを見ていた。その先には地平線の街と空しか見えない。「正義の味方を続けるよ。今夜中に次の街へ行くつもりだ。南の方で胡散臭いことをやってる連中がいるらしいから、次はそいつら相手に大暴れするつもりさ」
 正義の味方ではあっても、この街だけの味方ではないということか。
 僕たちは建園の方へ並んで歩いていた。どこかから祭り囃子の音が聞こえてくる。今年も滞りなく祭りは行われているらしい。則岡さんたちが妙に手際よく撤収していたのは、今夜の祭りのことを考えていたのではないか、という愉快な想像をした。
 僕は彼に言った。
「それじゃ、今日でお別れだ」
「もう二度と会うことはないだろうね」
「そこは再会の約束をするところでしょうに」
「もう一度私に会いたいか?」
「まあ当分は会いたくないかな。会うだけならいいけど、おじさんと会うってことは、トラブルも一緒にやって来るってことだから」
「あはは、違いない。それじゃあ、最後のサービスだ。他に何か質問はないかい?」
「則岡さんへの借りはいつか返済するの?」
「痛いところを突いてくる」
 桐田さんは苦笑いをこぼした。僕はその表情が見たかったのだ。目論見が成功してますます愉快。やがて彼はぽつりと答える。
「返さなくてはならないだろうな。踏み倒してしまいたいのだが。まったく、自分の未熟を恥じるばかりだ」
「そんなことないと思うけど」
「それでは、私の方からひとつ」
「何? 珍しい。……ってわけでもないか。おじさん、自分のことはあんまり真面目に話さないしね」
「昔、私には娘がいた」
「え、何それ。子供居るの? マジで? 所帯持ちの正義の味方?」
「今はいない。正義の味方になる前の話だ。あのときは娘と妻がいた。妻の名前は澄子という。名前通りの、心が澄み切った人だった。少々澄み切りすぎていて、ちょっと辟易することもあったが、まあ概ね良い妻だった。娘の名前は菜々子といって、こちらも可愛らしい子だった。頭が良くて運動も得意で、よく近所の子を連れ回して町内を探検していた」
「……前から疑問に思ってたけど、桐田さんって伊美原の出身?」
「生まれは違うが、妻が元々ここの住人で、結婚してからは私もこの街で一緒に暮らしていた」
 なるほど。道理でこの辺の地理や勢力図に詳しいはずだ。
「それで。その話にいつオチがつくわけ?」
「ある日、娘が死んだ。事故だった。アメリカの片田舎で、トラックに撥ねられて死んだ。娘の足から下はタイヤに潰されてぐちゃぐちゃで、道路に上半身だけが横たわっていた。道路とトラックが娘の出血を止めていて、下手に動かすと出血が酷くなり即死する危険があった。だから私たちは、レスキュー隊を呼んだ後も、道路で死にかけている娘をただ見ているしかなかった。菜々子は最後まで私たちのことを呼んでいた。私と妻は、娘の手を握って、それがだんだん冷たくなるのをずっと感じていた。……そのことがきっかけで、帰国してからは妻も心身を病むようになり、娘が死んだ二年後に自殺した。それ以来私はひとりぼっちになった」
「……それで、僕に何を言いたいんだよ」
「私が何をしようと菜々子の事故は止められなかっただろう。それ以前にそんな仮定など無意味だ。菜々子が死んだことは変えられないし、すでにそうなってしまったことを、今からどうにかすることはできない。妻と娘が死んでから私は仕事を辞めて正義の味方をするようになった。二人のことに責任を感じたからなのかもしれないし、単に死にたかっただけなのかもしれない。自分のことなんだが、よく分からないな。だから……だからね、私は他人のことについて語ろうと思う。きみのことだよ」
 桐田さんは、僕のことをじっと見ていた。真剣な顔をする彼はぞっとするくらいに威厳があった。
 同時に僕の脳内で奇跡的な爆発が発生した。記憶が蘇る。十年前のモザイクが一気に吹き飛ばされてゆく。そして僕は、桐田さんと初めて会ったときのことを思い出した。それはいつかの電車の中での出来事ではなくて、大昔、僕が子供のころ、僕に親切にしてくれたあの女の子の葬式の日。彼女のお母さんが泣きじゃくるのを必死に慰めていた、女の子のお父さん――。
「きみが菜々子の死に責任を感じる必要はない。きみが負い目を持つ必要はないんだ。後悔しても過去は変えられない。だから、もう二度と同じ間違いをするまいと、未来を変えていくしかないんだ。悲しいが、私たちにはそうするしかないんだよ」
「……僕はあのとき、菜々子ちゃんのカウントダウンが見えていたんです。でも僕には、その数字が何なのか分からなくて……もし僕が、ちゃんと自分の力を理解していたらと思うと……」
「誰もきみを責めたりはしないよ。私もきみを責めたりはしないさ。きみはよく菜々子と遊んでくれたね。娘と仲良くしてくれて、どうもありがとう」
 僕は泣きそうになるのを必死に我慢していた。桐田さんに僕の顔を見られないように、背後にある真っ赤な夕日がアスファルトに黒い影を投射しているのを見ていた。ただの黒い影なのに、身長の違う二つの影が並んでいるのを見ると、何故だかとてつもなく泣けてくるのである。
「おじさんこそ、自分を責めるなよ。正義の味方なんてやっても、菜々子ちゃんは生き返らないよ」
「そうだな。私も、きみのことは言えないな」
「まったく」
「はははっ」
 たとえ愛想笑いでも、僕は笑えなかった。
 浴衣を着た人たちとすれ違う。親子で楽しそうに会話したり、それを見ていたり、あるいは祭りとは無関係に道を急ぐ人たちもいた。
 道行く人たちの頭上に数字はない。僕がいなければ最初から存在しなかった数字だ。僕には最初から数字が見えていたのに、彼女を助けることができなかった。だったら最初から僕なんていなければ良かったのに――と、何度思ったことか。桐田さんにああ言われた今も、実は少しだけ思っている。
「僕たちは後ろ向きだな」
「まったく」
「救いがない」
「本当にそうだ。誰か助けてくれないもんかね」
「あんた正義の味方だろ?」
「正義ノットイコール桐田夏雄。正義の味方は私が引き受けるから、誰か私の味方をやってくれないもんかな」
「僕はおじさんの味方だよ」
「私だって、きみの味方だ」
「まったく――」
 救いようがないな、と僕たちは声を合わせて嘆いた。

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