破滅の時間まで

第5話

 目が覚めたとき僕は背中のあちこちが痛かった。というのも床に敷いてあるのがマットではなく段ボールだったのである。さすがに毛布は貸りることができたけど。毎晩僕が入っていたベッドの柔らかさがいかにありがたいかを再確認する必要があるかもしれない。とか馬鹿なことを考えつつ水飲み場で口と顔を洗う。
 そういえばテントの中に桐田さんの姿がなかった。さて彼はどこに行ったのだろうと朝の公園を見渡すと、僕はすぐに桐田さんのことを見つけた。
「何やってんだ……」
 桐田さんは滑り台の頂上で腰に手を当て仁王立ちしていた。彼の視線は公園の入り口に注がれている。根拠はないし証拠もないが、あれはきっと敵が来ないか見張っているのだろう。正義の味方が考えることは分からない。背広の男が朝の公園に仁王立ちする姿は非常に滑稽だった。というか不気味だ。正義の味方を呼びたくなる。
 今日は日曜日だ。本当なら家でゆっくりしているはずなのに、僕はヤクザと戦うために公園で野宿である。四日前には想像もできなかったことだ。
 滑り台に近づくと、桐田さんが僕に気づいて挨拶した。
「おはよう」
「格好悪いよ」
「うん?」
「目立つし」
「ああ……。あはは。確かにそうかもしれない。これでも気が昂ぶっているんだ。いやいや、別に暴力や闘争を肯定しているわけではないよ。より正確に言うなら『昂ぶらせている』ということかな。殴り合いの直接戦闘は技術だけでなく気迫も重要な要素だよ。怒り狂う暴力団員を相手にするんだし、気迫で負けていては話にならない」
「ご機嫌だな」
「そう見えるだけさ……。自分の機嫌は自分で制御する」
「嘘だろ? 機嫌なんてどうやって制御するんだよ」
「制御できない?」
「うん。いつも自分のことはままならなくて」
「それが青春だ!」
 ちょっと真面目な応答をした僕が馬鹿でした。
 桐田さんは滑り台の上から飛び降りた。せっかく滑り台なんだから滑ってくればいいのにと思ったけど、背広の男が滑り台を滑る姿は滑り台の頂上で仁王立ちするのと同じくらいは不気味で正義の味方を呼びたくなる。
「ふふ、馴れれば機嫌くらいは制御できるさ。それが大人になるということだ。と言っても好き嫌いはなかなかどうしようもないが。でなければ誰が正義の味方になぞなるか」
「おじさんは正義の味方になったことを後悔してるの?」
「少なくとも簡単な道ではないよ。銀行で金を借りることも出来ない」
 すごくリアルな不都合だった。
「それでも……自分の心は誤魔化せないからね。仕方がないのだ。そういう自分とうまく付き合っていくしかない」
「自分と……ね。僕は、好き嫌いなんかなくなればいいって思ってる。空っぽになれば今よりずっと楽になるのに」
「今は楽じゃない?」
「学校には馬鹿が多いし」
「銀行は金を貸してくれないし」
「ままならない世の中だ」
「そういうものだよ。そういうものだと受け入れて、騙し騙し生きていくしかない」
「騙し騙し、ね。考えないように生きるのが、一番楽なのかな」
「含みのある言い方だ」
「流されるだけじゃあ、自分って言えないだろ。ただの人形だ」
「人形にはなりたくない?」
「そうかも」僕は頷いた。「おじさんが正義の味方になってしまうのと同じで、僕は人形にはなれない」
「修羅の道だよ。個人が自分の価値を持ったまま生きるのにはつらい世の中だ」
「そういうものなんでしょ?」
 桐田さんは笑った。僕は照れくさくなって桐田さんから目を逸らした。こんな馬鹿な話を他人にしたのは初めてだ。僕が桐田さんのことを人間だと思っていないからだろうか。主観的には壁に向かって自問自答しているのと変わらない。
 僕は桐田さんの相手をするのを辞めて、大きくあくびをした。眠気はないのだが、全身を疲労感と鈍い痛みが包んでいた。肺の中に朝の冷たい空気が入り込む。家のベッドで目を覚ましたときよりも蝉の鳴き声がうるさい。今日も暑くなりそうだ、と僕は思った。
 他のテントで眠っていた公園の住人たちも徐々に目を覚まし始めた。体の柔軟体操をする人や、携帯コンロを使って鍋を沸かしている人もいた。
「ヤクザが来ても、きみは手を出すなよ」
「どうせ出したって返り討ちだよ」
「沢渡くんは逃げる準備をしておくんだ」桐田さんは平然とした顔で指示する。「私が負けたらあの布を持って逃げるんだ」
「約束破んのかよ!」
「目的を見失ってはいけないよ。私たちは伊美原の命を守るために動いているんだ」
「……一回聞きたかったんだけどさ、おじさんの言う『正義』って一体何なわけ?」
「それは、私の良心に対して、最善を尽くすことだ」
 桐田さんは迷うことなく言い切った。


***

 それから二時間ほど、僕はテントの中で缶コーヒーを飲みながら時間を潰していた。テントの中には桐田さんから預かった「全波整流用双二極管」「伝動用ローラチェーン」「麺切包丁」があった。このテントの主は松平さんという老人だったか、彼はアルバイトのために早朝からテントを空けていた。他のテントも似たり寄ったりで、ホームレスといえど暇なわけではなくて、それぞれ生きるための活動は欠かせないのである。
 公園に残されたのは明瀬さんと長谷崎さん、それに僕と桐田さんだけだった。
 僕は桐田さんとは違い、ずっと公園の入り口を見張っていたわけではなかった。したがって、僕が気づいたときには、派手なスーツを着こなす人相の悪い男たちが長谷崎さんの匿われているテントをすでに取り囲んでいた。皆一様にカウントが「3」を示していた。
 一気に緊張が高まる。心臓が胸からはみ出るかと思うくらい。
 僕は彼らに気づかれないよう細心の注意を払って体を動かした。テントの入り口に指をかけ、少しだけめくり、息を殺して長谷崎さんのテントの方に目をやった。ほんの十メートルほどしか離れていなかったが、幸いにも僕の存在に気づいた者はいなかった。
 長谷崎さんのテントを庇うようにして桐田さんが立っていた。
 桐田さんは表情を変えずに、当たり前のように前に歩き始めた。桐田さんを囲っていたヤクザたちの輪がそれに追従する。桐田さんは公園の中央まで進むと、自分を取り囲んでいる人間の顔をぐるりと見渡して微笑んだ。
「よくもまあ、こんなに柄の悪い人間ばかりを集めたね」
 彼なりの冗談だったのだろうが、意外にもヤクザたちの間に笑いが走った。ただしそれは、桐田さんの冗談が面白かったというよりも、桐田さんの不遜な態度を馬鹿にし、嘲っているようにしか見えなかった。
 桐田さんを囲んでいる男は五人。それを少し離れた場所から見る男二人。二人の一方は、昨日桐田さんにやられたひょろ長い細身の男。もう一人はサングラスをかけた五十代くらいの男で、身長は低いががっしりと筋肉の付いた四肢の太い男だ。頭は丸坊主で、派手な柄のシャツの上に白色のスーツを着ていた。左頬に何かで切られたような傷跡が目立っている。
「昨日、うちの春山が世話になったそうで」
「あんたは?」
「俺ァ、則岡ってンだ。まあ、コイツの親玉ってヤツだな」
 則岡はサングラスを外して、隣に立っているひょろ長い男の肩を叩いた。ひょろ長い男の名前は春山というらしい。その春山が完全に萎縮しているところを見ると、則岡というのは相当なやり手、もしくは山内組で高い地位にいるのだろう。
「ちゃんと誠意ってやつを見せてくれンなら、まあ堅気の人間にそうそう手ェ出したりはしねえ。長谷崎を匿ったってアンタにゃなんの得もねェだろうが」
 則岡の声はしわがれた低い声だった。スーツの内ポケットから煙草を取り出すと、銀色の高価そうなライターで火を点けた。
「さて」
 パン! 桐田さんは手を叩く。人が物事に取りかかる際によくやるあまりに自然な動作だった。
「誰から来る?」
 ッザけんじゃネえぞ!
 背後にいた面長の男が、そう叫びながら桐田さんの膝の裏を蹴ろうとした。が、そのほんの少し前に桐田さんはその場に飛び上がっていて、空中で体を横に捻ると背後の男に両足を蹴り出していた。それは見事なドロップキックを受けて男は吹っ飛んだ。
 体を横にした状態で地面に着地すると、彼は両手を突いてすぐに起き上がった。起き上がりのタイミングで正面の男がつま先を打ち込んだ。が、これは桐田さんの両腕で防がれる。カウンター気味に相手の軸足を蹴って体勢を崩す。相手の男は桐田さんにさらなる追撃をするつもりだったのだろうがこれで完全にタイミングを逃してしまった。
 桐田さんの右側に立っていた男が彼を押さえつけようと手を伸ばすが、逆に手首を桐田さんに取られ、腕関節を極められたあと反対側に受け流されてしまった。このめまぐるしい事態について行けなかった対面の男は、勢いのまま倒れる男と正面からぶつかってしまい、体勢を崩して二人一緒に地面に転がった。
「このっ!」
 桐田さんの背後から、姿勢を低くして体当たりする男がいた。衝突の瞬間、桐田さんの腰をがっしりと掴み、そのまま正面に彼の体を倒した。桐田さんは背後にある男の頭に何度も肘を打ち込み、力が緩んだところでするりと拘束から抜け出した。素早く立ち上がる。
 しかしそこを狙って別の男が桐田さんに殴りかかる。拳を斜め上から振り落とすようなチョップブロー。咄嗟に腕で防ごうとするが、間に合わずに頭に直撃する。
 バン! という衝撃音が僕の方でも聞こえそうだった。直撃の瞬間、桐田さんの頭が後ろにブレたような気がした。さらに対手の男は腹部に拳を打ち込むが、桐田さんはクロスに組んだ両腕でそれを防御。しかし桐田さんにはまだ反撃の余力は残されておらず、頭を狙ったストレートパンチを腰を低くして回避。足を動かしてヤクザたちから距離をとる。
 ペッ、と桐田さんは口から唾を吐いた。それに赤い物が混じっていたような気がした。
 だが、彼の目の闘志は衰えていなかった。ぎろりとヤクザたちを睨み付けると、呼吸を整えて今度は桐田さんの方から前進した。
「この野郎ッ!」
 蹴られて激昂したヤクザの一人が無警戒に桐田さんに掴みかかろうとした。もちろんそんな馬鹿が通用するわけがなく、襟首を掴んだ肘を、半身を引いて捻ると、体勢の崩れた男の顎に膝を打ち込んだ。その場で撃沈する。
「オラアッ!」
 ヤクザが叫んだ。遠く離れている僕ですら戦慄する咆吼だった。しかしそんな雄叫びを上げたにも関わらず、その男は桐田さんに腕を取られると背中で投げられてしまった。頭から地面に叩きつけられてうめき声を上げるが、これ以上起き上がって反撃する気力は残されていないようだ。
 桐田さんがさらに一歩近づくと、じり、と彼らは下がる。
 残りは三人。誰が最初に行くか、という問題だった。が、誰も前に行けない。最初に行った者が、最も大きな被害を受けることが分かっていたからだ。
「どうした? 臆病風に吹かれたか?」
 暴力を武器にする男が、そう挑発されて戦わないわけにはいかない。蛮勇だけを武器に走り、無造作に殴りかかった男は、桐田さんの掌底を顎に受けて崩れ落ちた。倒れたところでつま先を股間に打ち込まれて悶絶した。
 残った二人のうちの一人が、懐から短刀を取り出す。いわゆるドスというやつだ。鞘から抜いた刃の銀色に光るのを見て正義の味方はヒュウと口笛を吹いた。
 片手に短刀を構えつつ桐田さんににじり寄る。桐田さんは表情一つ変えずに立っていた。両手を伸ばして前に構える。男は短刀の届く距離までにじり寄ると、桐田さんの体に真っ直ぐ突き立てようとした。
 桐田さんは片腕を伸ばして短刀を持つ方の腕を素早く払い、外側に向けてぐるりと回す。すると、一回転した相手の手は刃の先を自らの体に向ける形になる。そのまま両手で相手の手首ごと、短刀を相手側に押し込んだ。相手の男は自分の武器が自分の肩に刺さり、ウッと一度低い声を上げるとその場にしゃがみ込んで動かなくなった。
「今のは正当防衛だ」
 一連の出来事を見ていた則岡に、桐田さんは言い訳じみた口調で言った。正面にはまだ男が一人立っていたが、戦意は完全に衰えてしまったようだ。桐田さんが背中を向けても襲う気配がない。
 則岡は、まだずいぶんと長い吸いかけの煙草を地面に落とすと、靴の踵で踏みつぶした。両手をズボンのポケットに入れて堂々とした物腰で桐田さんに近づく。
「喧嘩強ェえな、あんた。格闘技か何かやってンのか?」
「正義の味方をやっている」
「聞いたことねえ格闘技だな」
「正義の味方とは生き様だ」
「あんま調子乗ンなよ」
 言い終わったのと同時かそれより早く、ポケットに入っていた拳が桐田さんの顔面を打ち抜いていた。防御も回避もままならず、まともに受けた一撃だったのだが、桐田さんは倒れることもよろめくこともなく背筋を伸ばしてその場に立っていた。
「任侠も落ちたものだね。堅気との喧嘩で不意打ちなんて、三下のやることだよ」
「手前のどこが堅気だ」
「少なくとも卑怯者ではないし、ましてやヤクザじゃない。たった一人の一般市民を大勢の男で殴って、その割にはあっさり倒されて、挙句の果てには親玉は不意打ちをかけてくる」
「ああ?」
「暴力に生きるのはいいだろう。大勢で戦うのも、まあ弱者ならば仕方がない。が、その上卑怯者で臆病ときたら、これはもう救いようがないね。うふふ、明日からはこんな噂が流れるだろうな――山内組の則岡というヤクザは、堅気の人間を大勢で襲った挙句返り討ちに遭った卑怯者で臆病者の大間抜けだ、とね」
「てめェ……」
「きみの小さな脳でも理解できるよう、もう一度言ってやろう。――卑怯者」
 一語一語がはっきりと聞き取れるよう、不必要なくらいにゆっくりと発音する。挑発としては幼稚極まりない方法だったが効果は絶大だった。感情を出すまい、相手の挑発に乗るまいとして、則岡は無理にでも笑顔を浮かべようとしていた。しかし顔は紅潮し、唇はひくひくと痙攣し、とても笑顔とは呼べぬちぐはぐな表情になっていた。
「汚名を濯ぐには、方法はひとつだ」
「ああ?」
「長谷崎寛の命をかけて、私と勝負したまえ。一対一、武器はなし。先に動けなくなった方の負けだ。きみが勝ったらあのテントの中にいる長谷崎を連れて行きなさい。私が勝ったら、金輪際、長谷崎寛への手出しはご遠慮願いたい」
「んな虫のいい話を呑めるわきゃねえだろうが」
「だとしたら、きみは堅気の男とタイマンも張れない臆病者だ」
 則岡は舌打ちする。桐田さんの狙いが見え透いていて、提案を受けるのに躊躇しているようだった。
 桐田さんはじっと則岡の目を見ている。
 僕は自分が、無意識のうちに麺切包丁の柄を力一杯握りしめていたことに気づいた。桐田さんは来るなと言っていたが、もしも桐田さんの身に何かあったとき、自分がどんな行動をするのか、僕自身も予想できていなかった。
「分かった」則岡が引き攣ったような笑いを浮かべた。「面白ェ。タイマン張るって言ってンなら、受けて立つぜ」
「きみの度胸に敬意を払おう」
「んで、いつ始まンだ?」
「スターターピストルが必要かい?」
「必要ねェな」
 バン!
 今度こそ本当音が鳴った。則岡の太い腕から放たれるストレートパンチが桐田さんの腹にめり込んでいた。桐田さんは体をくの字に折ると、前のめりに地面に倒れた。
「なンだ? あっけねえな」
 則岡が笑った。
 地面に倒れた桐田さんが、腹を押さえてもだえていた。それを見て、僕は夢を現実に打ち砕かれてしまったみたいな心境だった。
 桐田さんが立ち上がろうとするのを見て、則岡が意外そうな顔を見せた。
「まだ立てンのか。お前タフだ――」
 言葉は途中で途切れた。桐田さんは飛び上がると、則岡の頭を掴んで膝蹴りを浴びせたのだ。バネ仕掛けのおもちゃのような急激な伸びと渾身の膝打ちが則岡の顔面を砕く。則岡は受け身もとらずに背中から倒れた。肩で息をして桐田さんは倒れた則岡を見つめた。
 鼻から出た血を指で拭いながら則岡が立ち上がる。雄叫びを上げると桐田さんに連続で拳を打ち込んだ。桐田さんは防御をせずにすべての打撃を受けた。
 拳が止んだ間隙を狙い、桐田さんは則岡の顎に頭突きを喰らわせた。
「ぐあっ」
 たった一撃だったが、則岡の当てたすべての打撃の何十倍もの威力があった。顎を手で押さえて、その場に膝をついた。さらに則岡の頬目がけて拳を振るうが、則岡が桐田さんの両足を掴んで体を倒してしまう。
 両足を掴まれていた桐田さんだったが、全身を使って暴れまくると則岡の拘束から片足が抜け出た。革靴の踵で何度も則岡の頭を蹴ると、そのうちの一つが急所に入り桐田さんは完全に拘束から抜け出した。
 二人は立ち上がると互いに向き直る。
 お互いに肩で息をする。則岡のダメージも相当だったが桐田さんも無傷とは言い難かった。高そうな黒のスーツは土だらけになり、口が切れて血を流している。何度も殴られた鼻は微妙にひん曲がっているように見える。
「くそう……あんた強いな」
「長谷崎寛を渡すわけにはいかないのでね」
「何でだ? 何で見ず知らずの人間にそこまでする?」
「私には守りたい信念と正義があるからだ」
 迷うことなく答えた。則岡はしばらくぜえぜえと息をすると、堰を切ったように笑い始めた。思う存分笑ってから、則岡は言う。
「はは、はははっ! あんた面白いな。面白いヤツだ。どうだい、うちの組来ねえか? 弟分にシてやるゼ?」
「きみこそ、私の手下になるべきだ」
「へっ……。あんたは面白いやつだ。けど気に入らねえな。……分かったよ、この勝負、お前にやるよ。約束通り、長谷崎には手ェ出さねえよ」
「当然だ」
「何か困ったことがあったら、ウチに言いな。……ッても、あんたみてえなのが困るわきゃネえな」
「当たり前だ。たとえ世界が滅んでも頼るものか」
 則岡は面白くなさそうに頷くと、ペッ、と口から唾を吐いて桐田さんに背中を向けた。泥だらけになった上着を脱いで肩にかける。
「おい、帰ンぞ」
 春山に一言言って、則岡は公園から出て行った。春山と、意識のある手下たちは、勝手に話を決めてしまった親玉の背中を慌てて追いかけていった。
「ふう……」
 桐田さんは一息つくと、スーツを脱いで腕にかけた。白いシャツのボタンを上から外してパタパタと空気を送る。
 ヤクザたちの背中が遠ざかるのを確認してから出て行こうと思っていたら、それよりも先に長谷崎さんと明瀬さんがテントから桐田さんの元に駆け寄っていった。僕も隠れるのをやめて慌ててテントから飛び出した。
「おい! あんた、大丈夫か?」
 長谷崎さんは桐田さんの顔を見て大きな声で言った。桐田さんはかぶりを振ると「生きているよ。だから大丈夫だ」と答えてその場にあぐらをかいた。長谷崎さんが、表情を崩して笑い声を上げた。
「すごいな、あんた。まさか本当に追い返すなんて……」
「ヤクザにならないかって誘われたよ。もしかしたら長谷崎くんの後釜を狙えたかもね」
「受ければ良かったのに」
「まさか。暴力団じゃ銀行で金も借りられない」
 駆け寄った僕が冗談めかして言うと、桐田さんも笑って返す。明瀬さんは、信じられないものを見る顔で桐田さんのことを見ていた。
「約束通り、あのシートを頂くよ」
「あ、ああ」明瀬さんは何度も頷く。「いいよ、約束だ。持って行ってくれ。今日はすごいものを見せてもらったからな。あんた、本当に正義の味方なんだな」
「そう言っただろう?」
「おじさん、強かったんだね」
「むしろ手加減に苦労したくらいさ。ただ追い返すだけじゃ、次の攻撃を呼び込むだけだからね。長谷崎くんのことは諦めると何とかして奴らに約束させて、それを遵守させる必要があった。そのためには一方的に打ちのめすのではなくて、相手の望む形で勝つ必要があった。まあ、この傷は必要経費だな」
「結果論くさいけど」
「うるさいな」桐田さんは煙たそうに僕に言った。「もう少し正義の味方をいたわったらどうなんだ。鼻の骨が折れたみたいだし、さっきから肋骨も痛いし、しばらく無理はできそうにない」
「ちょっと見直したかも」
「そうそう、そういう言葉を待っていたんだ」
「立てる?」
「もちろん」
 桐田さんはすぐに立ち上がると、空に向かって伸びをした。肉体をどれだけ傷つけようとも、仕草や態度はいつもと何も変わらなかった。


***

 その後、僕たちは缶コーヒーでささやかな祝杯を上げた。公園から出かけていたホームレスの人たちも夕方には戻り、桐田さんの奢る缶コーヒーを一緒に飲んだ。頭上に数字が浮かんだ中年たちがぞろぞろと集まってくるのはとても奇妙な光景だった。
 明瀬さんのテントを解体する際にまた一悶着あったのだが、結局桐田さんの財布から一万円を出して丸く収まった。明瀬さんはまだ納得いかない表情をしていたが、長谷崎さんの説得が最後の一押しになったらしい。
「長谷崎さんは、これからどうするんですか? 公園の住人になるんですか?」
「これ以上、こちらの方々にご迷惑はかけられんからな。それに、ここは山内組のシマの中だ。則岡の兄貴が約束してくれたとはいえ、こんなところでふらふらしていては兄貴にも迷惑をかけることになる。俺は大人しくこの街を出ることにする」
「そうですか……。リュカさんには会いに行かないんですか?」
「そうしたいのは山々だが、俺があの人に関わって、何か面倒に巻き込むわけにもいかん。ここは大人しくしておくつもりだよ」
「大変ですね」
 後から思えば、それは心のこもらない無責任な感想だったが、長谷崎さんは口元を緩めて笑うと、低い声で頷いた。
 夕方になって、アルミフィルムラミネート耐熱不織布を手土産に僕と桐田さんは公園を後にした。銀色のシートを折り畳んだ分厚い塊を抱えて歩くのは非常に骨だった。特に今は夏の始まりであり、通気性のない銀色の布は僕の体温と湿度を容赦なく高めてくれたのである。
 苦難の道のりを超え、河原沿いの道を歩くと、以前見た場所と同じところにリュカさんの姿を見つけた。気のせいか、河原に積み上げられていた粗大ゴミの量が以前よりも増えているような気がする。僕たちがリュカさんのお使いに奔走している間に、浮船の十字団の人たちがさらなる別のお使いを達成したのだろうか。
 僕たちが河原に降りると、リュカさんは黒い直方体のラジカセを分解しているところだった。ドライバーを回す手を止めて、僕たちの方を見た。
「言われたものを持って来ましたよ」
 僕は地面の上に重くて暑いアルミフィルムラミネート耐熱不織布を落とした。桐田さんはスーツの内ポケットから全波整流用双二極管と伝動用ローラチェーンを、さらにズボンの背中に差していた麺切包丁を取り出した。
「これで、きみは宇宙に帰れるのだね?」
「はい。本日の夜中までには、宇宙船の修理が完了すると予想されます」
「ずいぶんと早いんだな」
「はい。お二人に感謝します」
「ふふふ、いいってことさ。これで人類が助かるのならね」
 リュカさんは相変わらずの掴み所のない表情でペコリと頭を下げた。
 こうして、僕たちは課せられた役目を果たしたのである。
 夕日が地平線の向こうに落ちていた。ビルや家の並んだ不格好な地平線だ。僕と桐田さんは無言のまま、河原沿いの道を並んで二人で歩いていた。
「このあと、少し付き合ってくれないか」
「どこに行くの?」
「二人で祝杯だ。缶コーヒーでの乾杯は少し味気ないからね」
「正義の味方もそういうのにこだわるんだ」
「固いことを言うな。……良い店を知ってる。酒の一杯でも飲もう」
「僕未成年なんだけど」
「固いことを言うな」
 未成年に飲酒を勧める正義の味方だった。
 結局僕はウーロン茶で勘弁してもらったけど。照明の抑えられた落ち着いた雰囲気のバーで、僕と桐田さんは正義について語り合った。その議論のせいか、アルコールの混ざった空気のせいか、夜中近くになって店を出るとき、僕の意識には暖かくて目の粗い紗のようなカーテンが降りていた。
「そうそう……これはどうでもいいことなんだが」突然思い出したみたいな口ぶりで、桐田さんが言った。「あの則岡という人物に私がわざと倒されたとき、きみはあの場から逃げようと思わなかったのかい?」
「うん?」
「あらかじめ言っていただろう? もし私が負けるようなことがあれば、すぐに逃げるようにと」
「あー」僕はこめかみに触れる。「確かに、そんなことを言われてたな。すっかり忘れてた」
「逃げようとは考えもしなかったんだ?」
「忘れてたんだよ」
「あはは。それで十分だ」
 桐田さんは手を叩いて笑った。僕は笑えなかった。桐田さんの疑問は誰よりも僕自身の内部に突き刺さっていた。
 何と言って桐田さんと別れたのか、僕は覚えていなかった。とにかく気づいたときには、明かりの落ちた我が家の鍵を開けて二日ぶりの帰宅を果たしていた。母さんや父さんには色々と言い訳しなければならないことがたまっていたけれど、僕はシャワーを浴びて全身を何度も洗ってから、自分の部屋に戻り二日ぶりのベッドを味わうことにした。
 まぶたを閉じると、この二日間の出来事が頭の中を駆け巡り、疲れているのになかなか寝付くことができなかった。
 やはり思い返すのはあの正義の味方のことだった。
 最後に彼と別れたとき、何と言って別れたのかが思い出せない。
 再会の約束はしなかった。

Copyright(C)2011 叶衣綾町 All rights reserved.

a template by flower&clover
inserted by FC2 system