破滅の時間まで

第2話

 朝起きてテーブルのいつもの席に着くと、家族のカウントが「6」になっているのを確認した。みんな順調に死への階段を進んでいるらしい。死への道程を順調、と表現していいのかどうかは分からないけど。僕は寝ぼけた頭でそんなことを考えて、最近視力の落ちてきた寝ぼけ眼で世界を見る。
「はい、今日はフレンチトーストよ」
 卵でコーティングされた正方形のパンが、テーブル中央の皿に山盛りになっている。僕はオレンジジュースをコップについで、箸でフレンチトーストを何枚か自分の取り皿に運んだ。
 フレンチトーストを囓る僕を一瞥して、父さんは新聞に視線を戻す。もう朝食は終わっているらしく、食後のコーヒーを優雅に飲んでいた。
「そうそう、来週の火曜日はお祭りだから、夕飯は外で食べましょ」
 母さんが僕と祐理に言った。祐理は生返事を返して、僕は何も言わなかった。祐理は朝のニュース番組に夢中だった。ニュースと言えば聞こえは良いけれど、実際は単に流行の服だとか映画だとかを特集するだけの番組だ。
「そういえばね。お祭りっていえば、色々大変らしいのよ」
 母さんが電子レンジから夕食の残り物を取り出してテーブルに置いた。小皿にエリンギとホワイトソースのよくわからない料理が入っていた。すでに朝食を終えている父さんはもちろん、祐理も僕もその料理には見向きもしない。当然の如く、料理を処理するのは母さんだけだった。
「あの、毎年お祭りって伊美原中央公園使ってたじゃない? でも最近、あの辺りにホームレスの人とかが住み着いちゃって、来年からは別の場所でやるかもしれないって」
「大変なんだ」
 祐理が相づちを打つと、母さんは嬉しそうに頷いた。相手をしてもらえたのが嬉しいらしい。父さんは町内の小さな祭りのことよりも今世界で起きている経済戦争の方が重要らしく、新聞の経済欄から目を離そうとしなかった。ちなみに僕の反応は最初から期待していなかったらしい。そのことを承知しているので僕は粛々と食事を続ける。
「そうなのよ。立ち退きの勧告とか、町内会でも色々やってるみたいだけどね。そういう人たちって他に行くところがないから。だとしても、わざわざこの街にまでやって来ることないのにねえ」
 妹は素朴な疑問を漏らす。
「なんで伊美原に来るんだろう」
「元々は立見市にいたのが、向こうの取り締まりが厳しくなってこっちに来たんだよ」
 僕がそう答えると、祐理は特に興味もなさそうに相づちを打った。
「あら、拓也は物知りなのねえ」
「別に。誰かから聞いただけ」
 中央公園には何度か足を運んだことがあるが、ホームレスの連中でカウントが始まっている人を僕は見たことがなかった。彼らは僕の予想以上にたくましい人たちらしい。そのたくましさは六日後(正確には五日目)の厄災をも乗り越えられるのだろうか。確認してみる価値はある、と僕は思った。
「地域のことを勉強するのは良いことだよ」
「もうちょっと成績が上がってくれればねえ……」
 父さんと母さんが成績のことを話題にし始めて、僕は口を挟んだことを後悔した。祐理が僕のことを睨んでいる。勉強への嫌悪感で言えば僕より妹の方が重傷だった。
 祐理は慌てて話題を元に戻す。
「とにかく、あの人たちには早くどこか行ってもらいたいよ。あたし、何度かあの公園の前を通ったことあるけど、なんかすっごく怖いし」
「そうよねえ。最近、この辺りで盗難がいっぱい起きてるって、回覧板に書いてあったわ。警察の人は暴力団絡みだって言ってるけど、あのホームレスの人たちだって怪しいわよねえ」
 窃盗団の話は僕も聞いたことがあった。と言っても事件は建園ではなくて、商店街や川沿いの工場などで起きているらしい。工作機械や雑貨などが主に狙われているらしいが犯人の目的は不明。
 外国人窃盗団が国外へ機械を密輸しようとしているのかもしれないが、だとしたらこのあたりを仕切っている暴力団の一味が黙っているはずがない。というわけで警察は一連の犯行に暴力団が関わっていると判断しているらしいが、それ以前に暴力団ならさっさと取り締まってくれよ、と言いたい。
 結局のところ、腰抜けの警察は本気でヤクザを取り締まろうなどとは考えていないのだ。もしかしたら暴力団から警察に金が流れているのかもしれない。まあ警察もヤクザも似たようなものだから、両者は気が合うのかもしれないが。
「ほんとにねえ、警察の人も、もっとちゃんと取り締まってくれないと。ホームレスが来たり、ヤクザが住んでたり、ほんとこの辺りも危なくなってきたわ。早く追い出してくれないかしら。毎日こんなに税金払っているのに」
「何か被害が起きないと警察は逮捕できないんだよ」
「あんなに怖い人たちが近くに住んでるってだけで、こっちからしたらもう被害よ」
「顔の怖さじゃあ、逮捕できないからなあ」
 お父さんがそう言うと、祐理と母さんが笑った。僕は笑わなかった。
 というのも、もしかしたら六日後に起きる大量の死は、その暴力団絡みではないかと僕はふと思ったのだ。来週の祭りには当然屋台が出るが、その屋台を仕切っているのは暴力団……名前は山内組だったか川内組だったか忘れたが、とにかく祭りの日にはヤクザ紛いの人たちが集まるわけで、例えば会場に他の組の人たちが殴り込みに来て斬った撃ったの抗争に――。
 うん、あり得ないな。
 ちなみに暴力団の屋敷がこの街にあるのは事実だが、僕が覚えている限り、今のところ抗争が起きたり殺人が起きたことはない。まあ今まで起きなかったことがこれからも起きないわけではないし、事実来週には今まで起きなかった大量死が現実になるわけで。
 まあ六日後をお楽しみに、というところか。
 それまでせいぜい親孝行しておこうと思う。こうして穏やかな朝を迎えていると家族が少し名残惜しく感じてくる。でもごめんなさい、僕にはどうすることもできないのです。お父さんお母さん妹よ、君たちは来週には死ぬ運命にあるのです。
 僕は心の中で彼らの冥福を祈りながら、フレンチトーストをもそもそと咀嚼してオレンジジュースで喉の奥に流し込んだ。
 朝の準備を終えて家を出ると、向かいの家の永森のおばさんがサンダル姿で道路を歩いていた。僕のことを見つけて元気に挨拶する。静かな朝におばさんの声は良く響く。どうやらゴミを出しに行った帰りらしい。
「あら! 拓也くん、今から学校?」
「ええ、まあ」
「たまにはうちにいらっしゃいよ! で、拓也くんからも準に言ってやってよ」
「あはは……そうですね」
 いつもの会話。
 永森のおばさんが悩ましげに溜息を吐いた。
「遊び歩くのはまだしも、最近は外に出るのすら嫌がっててねえ……。外がそんなに怖いのかしら。無理やり連れ出そうとすると大暴れするのよ。ねえ、拓也くん、何か知らない?」
「さあ。でも、ずっと家に引きこもってるのも、健康に悪いですよね」
「そうなのよお、困ったわあ」
 それじゃあ、と僕は頭を下げて永森さんと別れた。おばさんのカウントは「6」。準さんのカウントが始まっているのかどうかは分からないけど、ずっと家にいる彼が六日後に死ぬのかどうか、興味があった。
 別に、調べようとは思わなかったけど。
 僕には関係のない話だ。


***

 僕の学校生活は今日も相変わらずくだらないものだった。朝は玄関で顔をモップで叩かれて、教室では僕の身体的特徴をあげつらうくだらないあだ名をつけられて、授業中は相変わらず消しゴムや画鋲を投げられる。
 藤倉や後藤や小野沢のような馬鹿で下品なガキに絡まれるのはとても屈辱的で腹が立つけれど、しかしこの地獄のような日々もあと六日の辛抱である。地獄の中に一筋の光明を見つけたような気分だ。哀れな馬鹿共め。神様、このクズ共を殺すときは、なるべく苦しむやり方でお願いします。他のクラスメイトたちも同様に。榎丸りくも死ねばいい。
 みんな死ね、と僕は口の中で呟いた。
 地獄で希望を見つけたせいで、僕は知らず知らずのうちにクラスメイトを見下し哀れむような態度になっていたらしい。奴らはそれが気に食わないのだろう、今日はクラス全体が一段としつこく僕に絡んできた。いつもなら僕がしばらく黙って恥辱に耐えていればすぐに飽きて別の楽しみを見つけてしまうのだが。
 みんな死ね、と僕は小さく呟いた。それを聞かれて僕は殴られる。
 ちなみに昨日カウントが始まっていなかった人は今日もカウントがなかった。どうやら六日後の厄災はその日一日で終わってしまう類のものらしい。実に残念。本当に、こんな最低な世界、一部の人間と言わずに全員殺してしまえばいいのに。
 昼休み、購買にパンを買いに走らされた僕は、買ってくるのが遅いと腹を殴られた。うめいた僕の足を払って、小野沢は僕の腕に関節技をかける。それを見て笑いながら後藤は僕の顔を踏んだ。藤倉は僕の制服のポケットをまさぐり、財布を取り出すと、中に入っていた紙幣を抜き取り、僕の前に財布を落とした。
「遅れた分の慰謝料だ」
 僕は何か言ってやろうと思ったけれど、残念なことに僕の口の上には後藤の靴が押しつけられていた。内履きの裏側はひんやりと冷たくて、埃っぽい嫌な匂いがするのが不快だった。
「さっさとメシにしようぜ」
「あーあ。昼休み中に食べきれなかったら沢渡のせいだな」
「ほんとこいつ死ねばいいのに」
「沢渡ってメシ食うの?」
「そりゃ食うだろ。まあ友達いねえから、一人飯だろうけど」
「うわー、寂しすぎ。まあコイツだから仕方ないかな」
「あー、そういえばコイツも人間だったっけ。飯食わないとか思ってた」
「どんだけだよ」
 三人は笑った。教室の床に倒れたままあいつらを見上げていると、馬鹿みたいに笑っていた小野沢と目が合った。白い筋肉質の体は本来なら健康的に見えるはずだったが、彼の場合は何故か生理的な嫌悪感を感じる。小野沢は笑うのを止めて、僕の頭を思いっきり蹴り飛ばした。
 ――蹴られた場所に熱がこもる。心臓に押し出された血液がその箇所を駆けるのが自覚できるくらいに、じんじんと熱い。痛みは、僕に危機感を感じさせる。
「おいどうしたんだよ」
「こいつの目が気に食わない」
「チンピラかよ」
 後藤が笑う。小野沢は笑わずに答える。
「違う。なんかさ、こいつ俺らのこと見下してんだよ」
「嘘だろー? こんなのに見下されたら俺ら終わりじゃん?」
「ねえねえ、見下してるの?」
 ニヤニヤ笑いながら、藤倉は僕に顔を近づけた。僕は極力何の反応も返さないように、ただ黙ってうずくまった。
「もういーじゃん。どうせこいつ何にもできねえし」
 ゲラゲラゲラ……。
 虫けら共め、と僕は軽蔑した。何のこともあらん。それがどうした。僕を殺すにはどれも不十分。腕を折れ。もっと強く蹴るんだ。僕はまだ生きているぞ。彼らの優位はその程度でしかないのだ。彼らは複数だから強いのだ。このクラスは全部で三十人以上。だから僕は彼らに従うしかない。今だけだ。世の中を見てみろ、百人の人間が集まっても敵わない存在がいくらでもいるだろう。それは財力や、権力による優位である。
 奴らのように、見た目が良くて、口が立って、少し運動が得意なら、学校という極めて矮小な世界ではそれなりの地位を得ることができるだろうが、そんなものは人間の本質ではないし、学校を出てしまえばそんな地位、何の価値もない。
 人間を計る唯一の物差しとは知性である。
 人は知性によって文明を作り、科学を発展させた。それ以外のすべての能力は知性によって代替することができる。足の遅い人間は自動車を使い、力の弱い人間はショベルカーを使う。科学は知性によって生まれ、知性こそが、人の力の源泉なのだ。
 馬鹿な子供たち。奴らは知性から最も遠いものを競い合っているのだ。
 と、内心軽蔑しながら、いやいやそれにしても死ぬのはかわいそうだ、と僕は思った。彼らには未来がないのだ。自分たちの世界しか知らずに、茶番を真剣と信じて、本当のことに何一つ触れることなく六日後には死んでしまうのだ。哀れな人たち。馬鹿な人たち。死ぬのはかわいそうだけど、それにしても良い気味だ。
 僕は教室を出てトイレに向かおうとした。途中、廊下を歩いていると、教室から出てきた榎丸が追いかけてきた。榎丸の姿を見てずきりと僕の胸が軋む。
「大丈夫?」
「何だよ」
「その……」一瞬言葉が途切れる。「蹴ったり、されてたから」
「関係ないだろ」
「だって、沢渡くん――」
「やめろ!」
 思わず大声を出した。まずい、と僕はすぐに後悔する。ここは昼休みの廊下で、周りにはたくさんの生徒たちの目がある。こんな目立つ行動をしては、また何かの火種にされかねない。
 僕は立ちすくむ榎丸を置いて早足でその場を去った。追いかけてくるかも、と思ったけれど、振り向いたときに彼女の姿はもうなかった。別に期待したわけじゃないけれど、やっぱりその程度の気持ちでしかない。
 わたしはかわいそうなクラスメイトにも良くしてあげる善人ですと、良い子ぶりたいんだろう。自己満足だ。そしてその心の根底には傲慢さや僕への優越感があることに気づいているのだろうか。
 僕は誰からも見下される覚えはない。
 かわいそうなのはお前たちの方だ。
 僕はなるべく人のいないような、校舎の隅にあるトイレの中に入った。誰もいないのを確認して、僕は洗面台で顔を洗う。水の冷たさが打撲の跡に染み入る。
 このトイレはただでさえ教室から離れているのに、おまけに学校が建ったときからあるんじゃないかというくらいに古いし、汚れている。便器からの耐え難い刺激臭がトイレ中に広まっていた。
 僕は不意に、何か絶望的な気分になって、蛇口から水を出したままぼんやりと鏡の前に立っていた。鏡は僕の奇妙な表情を映し出している。
 自分の顔というのは不思議なものだ。本当にこんな顔の人間がこの世にいるのだろうか。僕はこの顔を、鏡や写真でしか見たことがない。一番近くにあって、一番遠いものが、目の前にあった。
 自分を映す鏡。鏡がなければ自分の姿なんて分からない。鏡のない世界では、自分の姿をどのようにイメージするのだろうか。
「あ――」
 僕は気がついた。
 恐ろしい事実。初めて人の死を意識したあのときの感覚が蘇る。
 僕は人の死を見ることができる。頭上のカウントダウンが。では、僕の死は? 僕は自分の死を見ることができるのか?
 背筋に冷たい物が走った。心臓がうるさいくらいに跳ねている。
 六日後に起きる大量死に、本当に僕は無関係でいられるのだろうか。実は僕も六日後に死ぬ運命にあって、単にそれを見ることができないだけなのではないのか。
 僕は鏡から離れる。トイレから飛び出して、早歩きで廊下を進んだ。信じたくない事実から目を逸らしても、頭はそれを忘れようとはしてくれない。一度その恐るべき未来を意識してしまったら、もう二度となかったことにはできない。
 僕は恐ろしくなって、どうしたらいいのか分からなくなった。
 涙が出そうになる。誰かにすがりたかった。でも誰に? 僕の力を誰が理解してくれる?
 僕は、この能力を手に入れてから初めての孤独を感じていた。
 絶望である。極寒の地をたった一人で、防寒具も身につけずに彷徨っているような心境だった。
 心細さに耐えられなくなって、僕は廊下を小走りで駆け抜けて玄関で靴を履き替える。昼休みとは言え、外に出る生徒は少ない。玄関を通りかかった生徒が僕のことを見ていたが、僕はそれを気にしなかった。今さら自分を取り繕おうとは思わなかったし、もし僕のことを不審に思った生徒がいて何かの騒ぎになったとしても、それがどうした。どうせ六日後には死んでしまうのだ。もしかしたら僕も……。
 外に生徒の姿はどこにも見えなかった。僕はとにかく学校の外に出ようと歩き出した。当てがあるわけでも予定があるわけでもない。不安が僕を、とにかく何かをしなければと突き動かしていた。学校で大人しく過ごしているわけにはいかなかったのだ。
 僕は必死に考えた。恐怖で汗が出る。喉がからからに渇いていた。とにかく街から離れよう。六日までになるべく遠くに離れよう。僕が見るカウントダウンが距離に依存した死であるとは思えないけれど、それでも何もしないよりはいい――僕は死にたくない。
 誰かに見られているかもしれない、などとは考えもしなかった。スニーカーの踵を踏んだまま、ほとんど走るように学校の校門を通り抜けた。正面の道を左に折れて、僕の家がある建園とは反対の方へ行こうと思った。
 そのとき、僕の背後から声をかけられた。
「悩んでいるようだね少年!」
 振り向くと、校門の影にあの男の姿があった。服装は昨日遭遇したときと同じで、真っ黒なスーツに赤いネクタイ、整髪料を付けすぎたぎとぎとのオールバックだ。
 僕は男を無視してそのまま歩き始めた。
「待ちなさい。そうそう大人を邪険に扱うものではないよ。きみはまだ子供だな。他人を利用するということを知らない。その顔はすべてを一人で背負い込もうとしている顔だ。ああ、勘違いしないでくれたまえ。私は超能力者で、きみの心の中を自在に読み取ることができるとか、そういうわけではないのだよ。これは経験による推測というものだ。当てずっぽうとも言う。……待ちなさい」
 歩き続ける僕の肩を男が強引に掴んだ。僕はそれを振り払って歩き続ける。
「さて、では私の経験と勘により、きみの正体を言い当ててみよう。きみは未来が見えるのではないかな?」
 さすがに僕は足を止めた。それを見て、男は嬉しそうに僕に駆け寄る。
「おっと、その点に関してはお礼を言わなければいけないね。先週電車の中できみに忠告されていなければ私は今こうして生きてはいなかっただろうからね。きみがあんな不吉で不気味なことを言うものだから、わたしはよりいっそうの慎重と警戒で事に臨んだのだ。まあそれでも命を落としかけてしまったけどね。おかげできみの前に参上するのがこんなにも遅れてしまった」
 あっはっはと胡散臭く笑う。
 今まで僕は男のことを頭のおかしいただのサラリーマンだとしか思っていなかったのが、そのときはじめて彼の内側に隠されていた得体の知れない影の一端を見たような気がした。無視しても構わないような薄っぺらな変人ではない、その正体には底知れぬ奈落が潜んでいるように思えてならなかった。
 僕は恐怖を感じる。
 男の笑顔がどこまでも不気味で、その笑い声を聞くだけで肌が粟立った。
「私の見立てが正しければ、きみは素晴らしい才能を持っている。それは世界のために役立てるべき能力だ。ああいや、世界のために、などと抽象的で遠大な目標を掲げるつもりはない。その能力は、私の目的を叶えるのに有用である、とでも言い換えようか」
 そして男は恭しく頭を垂れた。まるで紳士のように穏やかに。
「申し遅れたが、私の名前は桐田夏雄という。正義の味方だよ」
 そう言って桐田夏雄は微笑んだ。僕を安心させようとしているのだろうが、優しすぎる表情が逆に僕を不安にさせていた。


***

「ってことはあれか? おっさんは自称正義の味方で日々この世の悪を打ち倒すために活動していると」
「概ねその通りだが、私のことをおっさんと呼ぶのはやめなさい。親しみを込めて『おじさま』と呼ぶのを推奨する」
 誰が呼ぶか。
 場所は学校を遠く離れて駅前の繁華街。伊美原商店街がただの張り子に見えるほど、この辺りは繁盛している様子だった。
 僕は桐田夏雄に連れられるがまま路上をふらつき適当なファミレスに入ると、彼が会計を持ってくれるのを確認してからレモン味の炭酸飲料を注文した。道中、僕は彼からさんざん正義の味方としての「活動実績」を聞かされていたので、ファミレスのテーブルに着いたときにはもはやこれ以上聞くことなど残っていなかった。
「大抵私の敵になるのは犯罪者だな。あるいは外国の工作員などを討ち滅ぼすこともあるが、国家間のやりとりはどちらが善でどちらが悪かがはっきりとしないのでなるべく積極的には関わらないように気をつけている」
「それ……本気で言ってますか?」
「なぜ敬語? そしてなぜ距離を取る?」
 僕が見たところ桐田さんは誇大妄想のヤバそうな人だった。もし妄想ではなくて本当に正義の味方なのだとしたら彼は妄想と現実の区別が付かない正真正銘の危険人物である。どちらにしろ喫茶店で二人っきり、呑気にレモンソーダを飲んでいる場合じゃない。
「きみと私とでは『正義の味方』という言葉の意味が違うような気がするよ」
「いや、普通正義の味方ってのは子供が憧れたりするものであって、大人が真面目な顔で言うもんじゃないだろ……。それに、正義の味方でどうやって食べてくんだよ。国から補助金でも出るのか?」
「残念ながら私は私立の正義の味方なのでね、国からお金が出るわけではない」
「いや、だから資金源は何なんだよ」
「サラリーマン時代に稼いだ金と、退職金で食いつないでいる」
「脱サラしてたのか……」
「子供の頃からの夢でね」
 なぜか照れくさそうに言う。これが正義の味方じゃなくて、菓子職人とか宇宙飛行士とかならまだ魅力的な人物に見えるんだろうけど。会社辞めて正義の味方になりますなんて、ストレスで気が触れたと思われても仕方がない。
「……それで、おじさんは僕に何の用があるわけ?」
「ふむ。それだ」と、桐田さんは僕を指差す。銃口を向けられたみたいな気分に陥る。「これまでの話はただの導入部に過ぎない。本題はここからだ。きみ、私が死ぬことを分かっていただろう?」
 僕は答える前にソーダを飲む。自分でも呆れるくらいのゆっくりとした動作でコップを机に戻す。どう答えるべきかは決めていたけれど、考えをまとめるのに少し冷静になる必要があった。
「そんなわけないじゃん。僕は超能力者じゃないんだから」
「その言葉を信じるにしても、きみは超能力者と同程度のことができたわけだよ。見ず知らずのサラリーマンに、三日後に死ぬよなんて的確で具体的な忠告ができるかい?」
「単なる偶然――」
「偶然で逃げるのは少し苦しいのではないかな? さて問題は、そのとき私が三日後にアラブ人テロリストのアジトを襲撃する計画を立てていることをどうして初対面のきみが知っていたか、ということだ」
「おじさん一体何やってんだよ……」
「市民の安全のためには仕方がないことなのだ。公安はテロリストと言えば未だに赤軍しかいないと思っているみたいだからな。放っておけば街中で毒ガスを撒かれて千人単位の死者が出ていたはずだ。……んんっ? ということは、きみは私が三日後に死の危険に遭遇することは知っていても、それが具体的にどのような危険であるかまでは予知できていなかったということかな?」
 僕は黙った。
 ほんの些細な相づちからも、この男は何かを読み取ってしまいそうで。最大限の警戒。
 桐田さんは強張った僕の表情を見て苦笑する。
「そう警戒することはないんじゃないかな。私は名探偵じゃないんだ、きみを告発しようとかは考えていないよ。ただ単に、私の手伝いをお願いしたいだけで」
「手伝い……?」
「きみは私が遭遇する危険をずばりと言い当てた。ということは、きみが市民の危険を予知することで、私がその危険を事前に取り除くことができるということだ。正義の味方というのはいつも事件が起きてから現れる。もちろん多少の先読みはできるがそれにしたって限度がある。しかしきみの力があれば悲劇を未然に、確実に防ぐことができる。それは私のような人間にとっての悲願だ」
 驚くほど真剣な顔で桐田さんが言った。僕はしばしの間、彼の熱っぽい口調に聞き惚れていた。桐田さんは僕がかつて遭遇したことがない熱意と純真さを持っていた。
「きみは何もしなくてもいい。ただ私と一緒に街を歩き、これから危険が迫っている人を見つけたら教えてくれればいい。後はすべて私が片を付ける。たったそれだけで人間一人の命を救えるんだ、いくらきみが鬱屈としていても自尊心がくすぐられはしないか?」
 最後のは一体何だ。この男は喧嘩を売っているのか?
 しかしそれを抜きにすれば、桐田夏雄という男は異彩を放っていて、ただの凡人である僕があれこれと知恵を絞るよりはこの男に任せてしまった方がいいのではないか、という気になってきた。これまで自分の能力を他人に話したことはなかったけれど、この人が何を言い触らしたところで誰も信用しないだろう。
 そして何より最大の理由は、僕は今、猛烈に誰かに頼りたかった。寄りかかりたかった。僕一人の足で支えるには、今度の問題は少し深刻すぎた。
 後で思えば魔が差したとしか言い様がない。自分の死の可能性にあまりの衝撃を受けてしまい、僕は心が弱っていたんだと思う。
 僕は途切れ途切れに、躊躇しながらも、桐田さんに僕の能力について説明した。
 桐田さんは僕の話を黙って聞いていた。質問も、相づちもなかった。まるで壁に向かって話しているみたいな手応えのなさだった。
「なるほど……人の死が……」
 桐田さんが呟く。僕に向けた言葉ではなく、自分自身に確認するかのような独白だった。
「そんなものがあるとすれば想像の外だな……ある程度のファンタジーを許容するとは思っていたが、まだまだ認識が甘かったようだ……なるほど、そこまではアリなのだな。であれば、いずれこのままでは立ち行かぬ事態に遭遇してしまいそうだ。だとしたらこちらも何か別の手を探さなければね……」
「おじさん?」
「これは念のために質問するが、今きみが話したことは真実なのだろうね?」
「……多分」
「多分? 頼りないね」
「別にカウントダウンの横に説明書が付いてるわけじゃないんだ。僕の目には頭の上に数字を浮かべている人が写っていて、これまでのところ数字がゼロになった人は死んでいる、ってだけで」
「あくまで経験則ということか」
 僕は頷いた。
 本当に間違いがないのか、と念押しされると、自信も確信もなくなってしまう。あくまでこれは僕が調べたことであり、僕が勝手に付けた解釈でしかない。
「もっと自信を持ちたまえ。きみがそれで納得できたのだから、他人もそれで納得すると考えても悪くはないだろう?」
「そう言われてもね……。あんたたちはあの数字が見えていないから」
「まるで自分が特別な人間だと言わんばかりだね」
「そりゃそうだろ。だって、普通は人の死なんて見えないし」
「特別な人間なんてどこにでもいるのさ。人の死を見るだけが人の能力ではないからね。それはさておき……ふふふ、人の死か。しかもきみの能力の素晴らしい点は、ちゃんと対策を打てば死を回避できるという点だな」
「そのことは僕も今初めて知った。カウントが始まったのに死ななかったのはおじさんが初めてだよ」
「死を回避したのは私ではない。きみだよ。きみの言葉がなければ私は死んでいた。私の命はきみが救ったんだ」
 桐田さんは僕の心臓を指差した。僕の実体がそこにあるとでも言うのだろうか。
「では、肝心な質問をしよう。これが最も重要な質問だ。いいかね?」
 僕は頷く。
「きみの能力を正義のために役立ててくれないか?」
「嫌だ」
「……即答されてしまったな」
「嫌なんだけど」どう話すべきか、少しの間僕は迷う。「そうも言ってられない事情がある」
「というと?」
「僕は自分の死が見えない。……いや、見えるのかもしれないけど、それを確かめる手段がない」
「なるほど。それで?」
「六日後に、この街でたくさんの人が死ぬ」僕はこの男にふさわしい、もっとも率直な表現を選んだ。「僕は、死にたくない」
 僕は桐田さんを試した。僕の言葉を聞いて、彼がどんな反応をするのか見てみたかった。
 しかし桐田さんは、僕の言葉を聞くとにっこり微笑んだ。
「そうか。ではこれから、二人でみんなを助けに行こう」


***

 それから僕たちはファミレスを出た。会計は約束通り桐田さんが持ってくれた。それならもっと高いものを注文すれば良かったかもしれないと思ったが、すぐに今まったく空腹を感じていないことに気がついた。仮に焼き加減レアのステーキセットを注文したところで僕は半分も食べられなかっただろう。
 僕は桐田さんの後ろについて歩いた。目的地について桐田さんは何も説明しなかったが、どうやら学校の方へ戻っているらしい。と言っても、今日はもう授業に戻るような気分じゃなかった。
 歩きながら桐田さんは僕の方を振り向いて言った。
「ひとつ質問がある。もっとも、きみがこの質問に答えられるとは思っていないし、もし答えられたならとんだ見込み違い、ここ数分の無言の検討はまるっきり無意味だったということになる」
「前置きばっか長いんだよ。おじさんさー、人と話すときはもっと要点をはっきりさせた方がいい」
「会話は情報を伝えるだけが目的ではないよ。人はね、人と繋がっている、それを確認するだけで幸せを感じるんだ」
「なんか名言っぽいことを言ってるところ悪いけど、質問って?」
「六日後に人が死ぬ、ときみの見立てではそうなっているが、具体的にどんな厄災が起きるのか、心当たりはあるかい?」
「ないから恐がってるんだろ」
「恐がってる? 意外だね、きみは剛胆そうに見えたから」
「僕は恐がりだよ。普通の人間は死ぬのを恐がるでしょ?」
「しかしきみは普通の人間ではないのだろう?」
 桐田さんは嫌らしく笑った。僕の欠点をあげつらいからかっていたあいつらの表情に重なって、僕は自分の内部でカッと温度が上がるのを感じる。
 それを必死に自制した。いつもやっていること。意識して深く呼吸し、しばらく口を開くのを控えた。
「それはともかく」桐田さんは露骨に話題を戻す。「きみに心当たりがないのなら、私の方の心当たりを優先させようか」
「おじさん、何か知ってるの?」
「うん。人は誰しも何かを知っている」意味がありそうでまったく無意味なことを言った。「伊美原一帯は山内組という暴力団の縄張りになっている」
 その名前には聞き覚えがあった。このあたりにいるヤクザといえば大抵がその組の人間だった。昔からこの街とは深い繋がりがあるらしく、大半の住民が彼らを嫌っている一方、一部の人たちにとっては未だに頼れる親分、というような存在らしい。父さんが言っていた。
「その暴力団山内組が、ここ数日蜂の巣を叩いたみたいな騒ぎだ。下っ端の一人を捕まえて殴って蹴って嬲って吊したところ、組員の一人が薬を持ち逃げして現在逃走中らしい。他の組に駆け込めないよう、街を囲んで網を張っているらしい。この街で数十人の死者が出るような火種があるとすれば、彼らに関わることだろうな」
 薬を持ち逃げ……って、医薬品のことじゃないだろうなあ。きっと僕ら中学生が学校で嫌と言うほど教わる『ダメ、絶対』とかスローガンのついてる白い粉のことだ。
「というか、正義の味方なら、こういう事態になる前にさっさと奴らをなんとかしてよ。暴力団だよ?」
「今までは比較的大人しくしていたから大目に見ていたのだ。しかしまあ、彼らがその気ならこちらも容赦してやる義理はない。六日後の惨劇を食い止めた後、たっぷりと滅ぼしてやらねばな」
「止めるっても、どうやって? 戦争でもする気?」
「さて、どうだろうね。とりあえずは事態の把握が先決だ。今私たちは目隠しをされた状態で虎の住む密林に彷徨い込んでいるようなものだ。まずは目隠しを外し、本当に虎がいるのかを確認するのが最初だ。どうすれば虎から逃げられるかは、その次に考える」
「それはいいけど……」
「なに、案ずることはないさ。すべては私がうまくやる。きみは私の目になってくれればいい」
 桐田さんは自信に満ちた表情を見せる。しかしよく考えれば、彼の自信には何の根拠もないのだ。根拠もないくせに自信満々。信用すると大怪我をしそうだ。
「さて、では明日から一緒に調査をしようか。悪いけど、今日は私ひとりで活動させてもらうよ。下調べというやつだね。明日の朝、堤防で待ち合わせよう。いつも学校に登校している時間でいい」
「でも僕、明日も普通に学校あるんだけど」
「きみは子供のくせに学校が好きなのか? 変な子供だね……。それにきみ、今現在、進行形で、学校をサボっているじゃないか」
 言われてみればそうだった。
 中学校の前まで来た。校庭に生徒の姿はない。今の時間はまだ校舎で授業を受けているのだろう。
 桐田さんは片手を挙げて、僕と別れる。
「それでは、お疲れ様。明日から一緒に世界を救おう」
「世界って大げさな」
「人はそれぞれ別の世界を持っているのさ」
 意味がありそうで、まったく無意味な言葉だった。
 桐田さんの後ろ姿が見えなくなるまで、僕は中学校の前でずっと立ち尽くしていた。
 さて。
 問題は、下校の時間までどこで時間を潰すか、ということだ。今から家に帰ったら、母さんに何を言われるか分かったものじゃない。

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